『資本論』を読む会の報告

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2007年 09月 24日

第73回 9月19日 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程 

 9月19日(水)に第73回の学習会を行いました。「読む会通信」№256、№257を使って前々回、前回の復習をした後、「第3篇 絶対的剰余価値の生産 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程」の第7段落から第11段落までを輪読、検討しました。
 №256でとりあげた「神の見えざる手」について、「その手は誰の手かと言えば神の手だということではないか。アダムスミスが直接に《神の》と述べていなくても内容としては《神の見えざる手》だ」との発言がありました。これに関連して、学習会が終わった後に、大谷禎之介氏が講義のなかで次のように述べていたことが紹介されました。
 《市場の調節の機能(市場の配分のメカニズム)というのは、アダムスミスの「神の見えざる手」。スミス自身は「神の」という言葉を直接には使っていないが、実質的には、誰の力でもない、何かの特別な大きな力がある、超自然的な力があると言うわけですから、結局それは「神の見えざる手」です。それが働いて、みんなが勝手に自分の利益を最大にしようと行動する結果としてすべてうまくいくはずなんだ。それで市場の比例配分のメカニズムなんだ…。》
 №257の内容について、第5段落の《労働者は、いろいろな物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる》の「機械的」は、長谷部訳では「力学的」とされていることが紹介されました。
 また第6段落について、「ここで述べられているのは労働対象についてではなく労働手段についてである。《もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに数えるものとしては、その対象への労働の働きかけを媒介ししたがってあれこれの仕方で活動の導体として役だつ物のほかに、およそ過程が行なわれるために必要なすべての対象的条件がある。》の「対象的条件」は、フランス語版では「物的条件」となっている」との発言がありました。

■テキストの内容と議論
第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程 
    

第7段落
・要するに労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化を引き起こすのである。
・この過程は生産物では消えている。
・その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。
・労働はその対象と結びつけられた。
・労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。
・労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物のうちに現われる。
・労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたのである。

■《労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物のうちに現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたのである。
》の部分は、フランス語版では《労働者のもとでは運動であったものが、いまや生産物にあっては静止的な属性として現われる。労働者は織ったのであり、生産物は織物なのである。》(171頁)となっている。

●「《労働は対象化されており》という表現があるが、ここでの労働は具体的有用労働のことであり、具体的有用労働の対象化が使用価値だといえる」との発言がありました。

★労働過程とその結果について次のように述べていると思われる。労働過程では、労働は流動状態にある=労働そのものであり、「過程」「運動」である。その結果は、「静止した性質(属性)」として「存在の形態」として生産物のうちに現われる。

第8段落
・この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。

●「《生産物の立場から見れば》という表現があるが、それに対置されるのはどんな立場なのか。労働主体=労働者の立場と言うことだろうか」との発言がありました。

■フランス語版では《この運動全体を、その結果である生産物の観点から考察すれば、労働手段と労働対象は双方とも生産手段として現われ、労働そのものは生産労働として現われる。》(171頁)となっている。

★「生産物の立場」とは、「労働過程の結果の立場」であり、運動している状態で労働過程を捕らえるのが、やや苦しい言い方になるが「労働過程の立場」といえないだろうか。

第9段落
・ある一つの使用価値が生産物として労働過程から出てくるとき、それ以前のいくつもの労働過程の生産物である別の使用価値は生産手段としてこの労働過程にはいっていく。
・この労働の生産物であるその同じ使用価値が、あの労働の生産手段になる。
・それだから、生産物は、労働過程の結果であるだけではなく、同時にその条件でもあるのである。

●「この箇所は少し分りにくい。具体的には次のように考えればよいのではないか。布は織布という労働過程の生産物であるが、糸は生産手段としてこの労働過程に入っていく。
製糸労働の生産物である糸が、織布労働の生産手段になる。糸は、製糸という労働過程の結果であるだけではなく、織布という労働過程の条件でもある。」という発言がありました。

■フランス語版では次のようになっている。《ある使用価値はある労働過程の生産物ではあるが、この労働過程には他の使用価値――これもまた以前の労働の生産物である――が生産手段として入ってくる。一方の労働過程の生産物である当の使用価値が、他方の労働の生産手段にもなっている。それだから、生産物はたんに労働過程の結果であるばかりでなく、さらにその条件でもある。》(171頁)

第10段落
・鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを開墾するかぎりで)のように、その労働対象が天然に与えられている採取産業を除いて、他のすべての産業部門が取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。
・たとえば農業における種子がそれである。
・自然の産物とみなされがちな動植物も、おそらくは前年の労働の生産物であるだけではなく、その現在の形態にあっては、多くの世代をつうじて人間の制御のもとに人間労働を介して継続された変化の産物である。
・しかし、特に労働手段について言えば、その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示しているのである。

●《農業は、最初に処女地そのものを開墾するかぎりで》と述べられているが、それは具体的にはどんなことなのかという疑問が出されました。「農業とあるが、原始林を伐採することなどが想定されているのではないか」との発言がありました。

★開墾とは山野を切り開いて新しく田畑にすることだが、それを採取産業と呼ぶのは適切ではないように思う。これ以前の叙述では一貫して土地は労働手段だとされおり、処女地そのものの開墾の労働対象がなにであるかは明確ではない。原始林を伐採するとか自生している果実をもぎ取る場合なら、切られる樹木、もぎとられる果実が労働対象であろう。

第10段落
・原料は、ある生産物の主要実体をなすことも、またはただ補助材料としてその形成に加わることもありうる。
・補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草がひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。
・主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになる。
・なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として現われるものはなにもないからである。

●「ここでは補助材料は原料に含められて述べられているが、後の箇所では《原料と補助材料》という言い方をしている」との発言がありました。

■《要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。》(国民文庫363頁・原頁223)

●製鉄においては、鉄鉱石に含まれる酸素を取り除く(還元する)ために一酸化炭素を発生させる。そのために石炭やコークスなどがが用いられたとの紹介がありました。

■製鉄の歴史について説明されているページ↓
                 製鉄の歴史


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by shihonron | 2007-09-24 00:00 | 学習会の報告


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