『資本論』を読む会の報告

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2007年 09月 30日

第74回 9月26日 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程

 9月26日(水)に第74回の学習会を行いました。「読む会通信」№258を使って前回の復習をした後、「第3篇 絶対的剰余価値の生産 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程」の第12段落から第21段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告作成者によるまとめや個人的見解です。

■テキストの内容と議論
第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程
     

第12段落
・物はそれぞれさまざまな性質をもっており、したがっていろいろな用途に役立つことができるので、同じ生産物でも非常にさまざまな労働過程の原料になることができる。
・たとえば穀物は製粉業者や澱粉製造業者や酒造業者や飼畜業者などにとって原料である。
・それは、種子としてはそれ自身の原料になる。
・同様に、石炭は生産物としては鉱山業から出てくるが、生産手段としてはそれにはいっていく。

●「《石炭が生産手段として鉱山業にはいっていく》というのは、どういうことか」との疑問が出され、「水をくみ上げるポンプなど蒸気機関の燃料になるといったことが考えられる」との発言がありました。また、これに関連して、「蒸気機関が登場するまでは、都市ではなく水力を利用できる場所に工場がおかれた」との発言がありました。

第13段落
・同じ生産物が同じ労働過程で労働手段としても原料としても役だつことがある。
・たとえば家畜の肥育では、家畜という加工される原料が同時に肥料製造の手段でもある。

★ここでは同じ労働過程が、家畜の生産(肥育)と肥料製造という二つの側面をもっているということだろう。家畜の生産においては、家畜は労働対象(原料)であり、肥料製造においては、糞尿が労働対象、家畜が労働手段ということである。肥料製造において家畜が労働手段であるというのは、穀物生産において、土地が労働手段(労働対象は穀物)であることと同様に理解できる。

第14段落
・消費のために完成された形態で存在する生産物が、たとえばぶどうがぶどう酒の原料になるように、新しく別の生産物の原料になることもある。
・または、労働がその生産物を、再び原料として使うよりほかにはないような形態で手放すこともある。
・この状態にある原料、たとえば綿花や繊維や糸などのようなものは、半製品とよばれるが、中間製品と呼ぶほうがよいかもしれない。
・最初の原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、いろいろな過程から成っている一つの全段階を通らなければならないことがあり、その場合には、それを完成生活手段または完成労働手段として押し出す最後の労働過程にいたるまでの各課程で、絶えざる変化する姿で絶えず原料として機能するのである。

■「半製品」と呼ばれる物として国民文庫版では、《綿花や繊維や糸など》があげられているが、フランス語版では《綿花や糸やキャラコなど》、長谷部訳では《綿花・縫糸・織糸など》、マルクス・コレクションでは《綿花、糸、撚糸》となっている。
  【綿花】ワタの種子を包む繊維。紡いで綿糸とする。
  【繊維】微細な糸状物質。
【糸】繊維が長く線状に連続したもの。綿糸・毛糸など短い繊維を紡績したものと、    生糸・合成繊維など長い繊維からなるものがある。
  【キャラコ】緻密に織った薄地平織り綿布。
【撚糸】糸によりをかけること。また、よりをかけた糸。

■ 【中間財】 他の生産物の原材料とされる生産物。中間生産物。 (大辞林 第二版)

第15段落
・要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物のうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程で行なう特定の機能、それがそこで占める位置によるのであって、この位置が変ればかの諸規定も変るのである。

第16段落
・それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失うのである。
・それは、ただ生きてい労働の対象的条件として機能するだけである。
・紡績工は、紡錘を、ただ自分が紡ぐための手段としてのみ取り扱い、亜麻を、ただ自分が紡ぐ対象としてのみ取り扱う。
・もちろん、紡績材料や紡錘なしでは紡ぐことはできない。
・だから、これらの生産物が現にあるということは、紡績が始るときには前提されている。
・しかし、この過程そのものでは、亜麻や紡錘が過去の労働の産物だということはどうでもよいのであって、それはちょうど栄養という行為ではパンが農民や製粉業者や製パン業者などの過去の労働の生産物だということはどうでもよいようなものである。
・むしろ、反対に、もし労働過程にある生産手段が過去の労働の生産物としての性格を感じさせるとすれば、それは欠陥のためである。
・切れないナイフや切れがちな糸などは、刃物屋のAとか蝋引工のEをまざまざと思い起こさせる。
・できのよい生産物では、その使用属性が過去の労働に媒介されているということ消え去っているのである。

■【紡績】短い繊維を平行に並べ、引き伸ばして撚(よ)りをかけ、一本の糸にすること
                                 (大辞林 第二版)
    
 紡績(ぼうせき)は、繊維・織物産業において、原料の繊維から糸の状態にするまでの工程をいう。「紡」はよりあわせることを意味し、「績」は引き伸ばすことを意味する漢字で、おもに綿や羊毛、麻などの短繊維(最長1.5m程度のもの)の繊維を非常に長い糸にする工程をいう。紡績によって作られた綿糸などが紡績糸(スパンヤーン、ステープルヤーン)と呼ばれる。
 手作業の時代、紡績は紡錘(つむ)や、糸車(紡ぎ車、手紡ぎ機)で行われた仕事であった。イギリスにおける綿織物の人気と自動織機の発達は綿糸の需要を大きくし、綿糸の生産性をあげる発明が相次いだ。紡績はイギリスの産業革命を飛躍させた重要な分野であった。1764年、ジェームズ・ハーグリーブスによって、複数の糸を紡ぐジェニー紡績機が発明され、1769年、リチャード・アークライトに
よって水力紡績機が発明されている。
        (ウィキペディア) http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E7%B4%A1%E7%B8%BE

■【紡錘】糸を紡ぐ道具。つむ。

紡錘の仕組み、繊維のかたまり(a)から繊維を引き出し、回転軸(b)にまきとる。その下に回転力をつけるおもり(c)がある

■《栄養という行為》は、フランス語版では《栄養摂取の行為》、長谷部訳では《営養行為》となっている。

■【栄養/営養】
(1)〔生〕 生物が生命を維持し、生活してゆくために、体外から適当な物質を取り入れて、からだを成長させ、機能を保ち、エネルギーを得ること。
(2) (1) のために必要な成分・物質。滋養。
「―をとる」「―がある」「―にならない」
〔幕末につくられた語〕                        (大辞林 第二版)

第17段落
・労働過程で役立っていない機械は無用である。
・そのうえ、それは自然的物質代謝の破壊力によって侵される。
・鉄は錆び、木は腐る。織られも編まれもしない糸は、だめになった綿である。
・生きている労働は、これらの物をつかまえ、生き返らせて、単に可能的な使用価値から現実の有効な使用価値に変えなければならない。
・労働の火になめられ、労働の肉体として摂取され、労働過程で自分たちの概念と使命とにかなった機能を果たすように活気づけられて、これらの物は、確かに消費されにはちがいないが、しかし、目的に適するように消費されるのであり、生活手段として個人的消費にはいるかまたは生産手段として新たな労働過程にはいることのできる新しい使用価値、新しい生産物の形成要素として消費されるのである。

●《労働過程で役立っていない機械は無用である。》は、マルクス・コレクショクでは《労働過程において使用されない機械は無益である》と訳されていることが紹介され、この訳の方が適切であり理解しやすいとの発言がありました。また最初のところで機械=労働手段について述べているが、続いての箇所では生産手段(労働対象と労働手段)について述べているとの私的がありました。

■《だめになった綿》は、マルクス・コレクションでは《無駄になった綿花》長谷部訳では《だいなしにされた綿花》、新日本出版社訳では《廃物の綿花》となっている。また、フランス語版では綿花は登場せず《加工されない羊毛は虫に食われる》となっている。

■《商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の種類は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、つまり受用の対象としてか、それとも回り道をして生産手段としてかということも、問題ではない。》(国民文庫71-72頁・原頁49)
●「《新しい生産物の形成要素として消費される》というのは生産的消費であり、続く箇所で生産的消費について述べていくことにつながっている」との発言がありました。

第18段落
・このように、現にある生産物は労働過程の結果であるだけではなくてその存在条件でもあるとすれば、他面では、それを労働過程に投げ入れることは、つまりそれが生きている労働に触れることは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。

●《使用価値として維持し実現する》とはどういうことかとの疑問が出され、「使用価値の実現とは消費することであり、ここでは生産的に消費されることで使用価値の実現がなされるということではないか」との発言がありました。

第19段落
・労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって消費過程である。
・この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費するということである。
・それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別の生産物である。

■長谷部訳で次のようになっている。
《労働は、それらの質料的諸要素――それの対象とそれの手段――を消費し、それらを食い尽くすのであり、つまり消費過程である。》

第20段落
・その手段やその対象がそれ自身すでに生産物であるかぎりでは、労働は、生産物をつくるために生産物を消費する。
・言い換えれば、生産物の生産手段として生産物を利用する。
・しかし、労働過程が元来はただ人間とその助力なしに存在する土地とのあいだだけで行なわれるように、今もなお労働過程では、天然に存在していて自然素材と人間労働との結合を少しも表わしてはいない生産手段も役立っているのである。

■《元来は》は、長谷部訳と新日本出版社版では《本源的には》となっている。また、マルクス・コレクションでは《しかし、もともと労働過程は人間と、人間の手が加わることなく存在していた大地との間にのみ生じたものである。》(272頁)となっている。

第21段落
・これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通の物である。
・それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである。
・一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。
・小麦を味わってみても、誰がそれをつくったのかはわからないが、同様に、この過程を見ても、どんな条件のもとでそれが行なわれるのかはわからない。
・たとえば、奴隷監視人の残酷な鞭の下でか、それとも資本家の心配そうな目の前でか、あるいはまたキンキンナトゥス[古代ローマの将軍、隠退して耕作した]がわずかばかりの土地の耕作でそれを行なうのか、それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行なうのか、というようなことはなにもわからないのである。

●《単純な抽象的な諸契機》とは何かという疑問が出され、「労働過程の分析の最初で述べられていた労働そのもの、労働対象、労働手段などのことだ」との発言がありました。

●「《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》とはどういうことか、問題なのは労働者と資本家との関係といった生産関係についてではないか」の疑問が出されました。これについて「ここでは、社会的分業といったことが念頭におかれていたのではないか」との発言がありました。

■「第1章 第2節 労働の二重性」では次のように述べられていた。
《人間は、衣服を着ることの必要に強制されたところでは、だれかが仕立屋になるよりも何千年も前から裁縫をやってきた。しかし、上着やリンネルなど、すべて天然には存在しない素材的富の要素の存在は、つねに特殊な自然素材を特殊な人間欲望に適合させる特殊な合目的的生産活動によって媒介されなければならなかった。それゆえ、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。
 使用価値である上着、リンネルなど、簡単に商品体は、二つの要素の結合物、自然素材と労働の結合物である。上着やリンネルなどに含まれるいろいろな有用労働の総計を取りさってしまえば、あとには常に或る物質的な土台が残るが、それは人間の助力なしに天然に存在するものである。人間は、彼の生産において、ただ自然がやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。この形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力にささえられている。だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、ただひとつの源泉なのではない。ウィリアム・ペティの言うように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である。》(国民文庫85頁・原頁57-58)


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by shihonron | 2007-09-30 00:00 | 学習会の報告


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