『資本論』を読む会の報告

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2007年 10月 08日

第75回 10月2日 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程

 10月2日(火)に第75回の学習会を行いました。「読む会通信」№259を使って前回の復習をした後、「第3篇 絶対的剰余価値の生産 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程」の第22段落から最後(第25段落)まで、「第2節 価値増殖過程」の第1段落から第12段落までを輪読、検討しました。「第2節 価値増殖過程」については、まだほとんど議論はなく、報告はこの節が終了してからまとめて行なう予定です。

●は議論の報告、■は資料、★は報告作成者によるまとめや個人的見解です。

■テキストの内容と議論
第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程  
   

第22段落
・われわれの将来の資本家のところに帰ることにしよう。
・われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要な要因のすべてを、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを買ってからのことだった。
・彼は、抜け目のないくろうとの目で、紡績業とか製靴業とすいうような彼の専門の営業に適した生産手段と労働力とを選び出した。
・そこで、われわれの資本家は、自分の買った商品、労働力を消費することに取りかかる。
・すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させる。
・労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変らない。
・また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家の介入によって変るわけではない。
・資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。
・労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである。

■《われわれの将来の資本家》は、他の版では《育ちつつあるわれらが資本家》(マルクス・コレクション)、《わが“将来の”資本家》(新日本出版社版)、《われわれの未熟な資本家》となっている。

★《われわれの将来の資本家》という表現が使われているのは、流通部面で生産手段と労働力を購入した貨幣所有者は、潜勢的に資本家であるに過ぎず、生産過程を経てはじめて実際に資本家になるからではないか。

●「われわれが将来の資本家と別れたのは、第4章 貨幣の資本への転化の最後(第22段落)でのことだった」との発言がありました。

■「第4章 貨幣の資本への転化」の第22段落では次のように述べられていた。
《この単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準をとってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変っている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者として後についていく。
一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんののぞみもない人のように。》(国民文庫309頁・原頁190-191)

●《労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化》について、「ここでの生産様式は、《長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方》と述べられているように生産の特定の仕方(生産方法)のことであり、資本主義にふさわしい生産の仕方(生産方法)とは大工業のことではないか」という発言がありました。また、「《労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化》についての考察は、第4編相対的剰余価値の生産でなされていると」の指摘がありました。

■『資本論辞典』(青木書店刊)では《生産様式という語は、より狭くは、直接的生産過程において労働の技術的および社会的条件に制約された〈生産の仕方〉ないし〈生産の方法〉の意味に用いられる。》と述べられている。

第23段落
・ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行なわれるものとしては、二つの特有な現象を示している。

第24段落
・労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。
・資本家は、労働が整然と行なわれて生産手段が合目的的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具が大切にされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむを得ないかぎりでしか損傷されないように、見守っている。

■《[指揮および監督の機能は資本に属する]多くの労働者による社会的な労働は指揮を必要とすし、それを行なう指揮者を必要とする。資本によって実現される協業では、指揮の機能は資本に属する資本の機能であり、その人格的担い手は、まずもって資本家である。
 資本のもとでの労働は労働者にとって、自分の立てた目的を実現する自分の労働ではなく、資本の目的を実現するための他人の労働だから、彼らの労働には資本による監督が必要である。これはもちろん資本の機能であり、まずもって資本の人格化である資本家が彼らの監督者となる。
 指揮は多人数による社会的労働が社会形態にかかわりなく必要とするものであり、監督は賃労働という労働の社会的形態が要求するものであって、両者はほんらい区別されるべきものであるが、実際には、どちらも資本の機能として渾然一体となって資本家によって遂行され、〈指揮・監督〉という一つの機能として現われる。
 まずもって資本家自身によって果たされるこの指揮・監督の機能はやがて資本家から特別な種類の労働者、すなわちマネージャー(産業士官)やもろもろの職制(産業下士官)に譲り渡されるようになる。
 一方では、資本のもとでの協業に必要な指揮および監督が資本家によって行なわれるところから、およそ協業には資本が必要であるかのような転倒した観念が生まれるとともに、他方では、これらの機能が特別な種類の労働者によって遂行されるところから、指揮ばかりでなく監督までも、社会形態にかかわりのない社会的労働一般が必要とするものであるかのような転倒した観念が生まれる。》(大谷禎之介『図解社会経済学』159-160頁)

■英語では、指揮は command 監督は control である。

第25段落
・また、第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者のものではない。資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払う。
・そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その一日は彼のものである。
・商品の買い手には商品の使用が属する。
・そして、労働力の所有者は、自分の労働を与えることによって、じっさいにただ自分が売った使用価値を与えるだけである。
・彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本家のものになったのである。
・資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、やはり自分のものである死んでいる生産物形成要素に合体したのである。
・彼の立場からは、労働過程は、ただ彼が買った労働力という商品の消費過程でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのである。
・労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。
・それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである。

●「労働力商品の売買を「賃貸借」といえるかという問題との関連で《労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その一日は彼のものである》と述べていることに注意しておこう」との発言がありました。

■《[商品生産の所有法則]商品の交換の部面では、商品所有者がたがいに私的所有者として認めあうが、そのさい相手がどのような経済関係のもとで商品所有者となったかを見ないで、彼らはたがいに商品を自分の労働で正当に入手したのだ、不当に盗んだりしたものではない、と想定しあうほかはない。つまりこの世界では、私的所有者たちの所有権原は彼らの自己労働だと想定されるのであり、この想定が社会法則として通用することになる。これを商品生産の所有法則と言う。》(大谷禎之介『図解社会経済学』79-80頁)

■第25段落につけられた注10のなかでシェルビュリエ『富か貧か』からの引用が取り上げられているが、「第22章 剰余価値の資本への転化 第1節 拡大された規模での資本主義的生産過程 商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転」の注23でも同じ箇所が紹介され、次のように述べられている。《他人の労働生産物の資本家による所有は、「逆に各労働者による自分の労働の生産物の排他的所有権をその根本原理とした取得の法則の厳密な帰結なのである」(シェルビュリエ『富か貧か』、パリ、1841年、58ページ。だが、そこではこの弁証法的な反転が正しく説明されてはいない。)》(国民文庫第3分冊138頁・原頁610)
 シェルビュリエ(1797-1869)は、スイスの経済学者でシスモンデディーの弟子。《マルクスは、個々の問題についてはすぐれた洞察のあることを認めながら、全体的にはリカードおよびシスモンディーの見解から一歩も出ていないと批判した。》(『資本論辞典』492頁)


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by shihonron | 2007-10-08 00:00 | 学習会の報告


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