『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ
2007年 11月 18日

第80回 11月13日 第6章 不変資本と可変資本

11月13日(火)に第80回の学習会を行いました。「読む会通信№261」をもとに前回の復習を行ない、「第6章 不変資本と可変資本」の第11段落から第16段落までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見や問題提起です。

■テキストの内容と議論
第6章 不変資本と可変資本     
第11段落

・価値は、価値標章での単なる象徴的なその表示を別とすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない。
・(人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物である。
・そして労働そのものは、あの力の物的な発現である。)
・だから使用価値がなくなってしまえば、価値もなくなってしまう。
・生産手段は、その使用価値を失うのと同時にその価値を失うのではない。
・というのは、生産手段が労働過程を通ってその使用価値の元の姿を失うのは、じつは、ただ生産物において別の使用価値の姿を得るためでしかないからである。
・しかし、価値にとっては、なんらかの使用価値のうちに存在するということは重要であるが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、どうでもよいのである。
・このことからも明らかなように、労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値をも失うかぎりでのことである。
・生産手段は、ただ生産手段として失う価値を生産物に引き渡すだけである。
・しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点でそれぞれ事情を異にしている。

●《価値標章での単なる象徴的なその表示》とはなんのことかという疑問が出され、「紙幣による価値の表示のことだ」との回答がありました。

■《銀製や銅製の章標の金属純分は、法律によって任意に規定されている。それらは、流通しているうちに金鋳貨よりももっと速く摩滅する。それゆえ、それらの鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものとはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に代わって鋳貨として機能することができる。金属製の貨幣章標では、純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されている。紙幣では、それが一見してわかるように現われている。》(国民文庫223-224頁・原頁140-141)

●《人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象》と述べられているがこの自然対象とはどういう意味かとの疑問が出され、ここでの対象は物という意味であり、「自然物」と言い換えることができるということになりました。

●《労働そのものは、あの力の物的な発現》の内容が問題となり、「労働そのものは労働力の発揮であり、それは物質的な力の発揮だということではないか」との発言がありました。

■《労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行動によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。》(国民文庫312頁・原頁192)

●《生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値をも失う》とあるが「独立の使用価値」とは何かが問題となり、新日本出版社版では「独自の使用価値」となっていることが紹介されました。また「たとえば糸の原料である綿花が糸になると綿花としての使用価値を失う(綿花ではなくなる)ということではないか」との発言があり、これについて「原料については分るが、機械などの労働手段の使用価値は変化せず、独自の使用価値を失うといえるのだろうか」との疑問が出されました。これについて「10年間使用できる機械が1年間使用された後では9年間しか使用できなくなる。そういう意味では一定の使用価値を失ったといえるのではないか」との発言がありました。

●《労働過程のいろいろな対象的要因は、この点でそれぞれ事情を異にしている》と述べられている「労働過程のいろいろな対象的要因」とは何をさしているのかが問題になり、「労働対象のこと」「労働対象と労働手段のこと」との二つの意見が出されました。また「労働力も含むといえるのか」との発言もありました。先に進んでからもう一度考えてみようということになりました。

★労働過程の諸契機(諸要因)は労働そのものと労働対象と労働手段である。したがって、ここでは労働力は問題にならない。

●「労働力商品の場合には、生活手段の価値が労働力に移転するといえないだろうか」との疑問が出され、「労働力の再生産は、労働者による生活手段の個人的消費によってなされる。価値の移転は労働過程における生産的消費の場合に問題になることであり、個人的消費による労働力商品の再生産においては移転は問題にならないのではないか」との発言がありました。

第12段落
・機関を熱するために用いられる石炭は、あとかたもなく消えてしまうが、車軸に塗られる油なども同様である。
・染料やその他の補助材料も消えてなくなるが、しかしそれらは生産物の性質のうちに現われる。
・原料は生産物の実体になるが、しかしその形を変えている。
・だから、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働に入ったときの独立の姿をなくしてしまうわけである。
・本来の労働手段はそうではない。
・用具や機械や工場建物や容器などが労働過程で役だつのは、ただ、それらのものが最初の姿を保持していて明日もまた昨日とまったく同じ形態で労働過程に入って行くかぎりでのことである。
・それらのものは、生きているあいだ、労働過程にあるあいだ、生産物にたいして自分の独立の姿を保持しているが、それらが死んでからもやはりそうである。機械や道具や作業用建物などの死骸は、相変わらず、それらに助けられてつくられた生産物とは別に存在している。
・今このような労働手段が役だつ全期間を、それが作業場に入ってきた日から、がらくた小屋に追放される日までにわたって考察するならば、この期間中にその使用価値は労働によって完全に消費されており、したがってその交換価値は完全に生産物に移っている。
・たとえばある紡績機械が10年で寿命を終わったとすれば、10年間の労働過程のあいだに機械の全価値は10年間の生産物に移ってしまっている。
・だから、一つの労働手段の生存期間のうちには、この労働手段を用いて絶えず繰り返される労働過程の多かれ少なかれいくつかが含まれているのである。
・そして、労働手段も人間と同じことである。
・人間は、だれでも毎日24時間ずつ死んでゆく。
・しかし、どの人間を見ても、彼がすでに何日死んでいるかは正確にはわからない。
・とはいえ、このことは、生命保険会社が人間の平均寿命から非常に確実な、そしてもっとずっと重要なことではあるが、大いに利潤のあがる結論を引き出すということを妨げるものではない。
・労働手段も同じである。
・ある労働手段、たとえばある種類の機械が平均してどれだけ長もちするかは、経験によって知られている。
・労働過程での機械の使用価値が6日しかもたないと仮定しよう。
・そうすれば、その機械は平均して1労働日ごとにその使用価値の6分の1を失ってゆき、したがって毎日の生産物にその価値の6分の1を引き渡すことになる。
・このような仕方で、すべての労働手段の損耗、たとえばその毎日の使用価値喪失とそれに応じて行なわれる生産物への毎日の価値引き渡しは、計算されるであろう。

★原料や補助材料などは、労働過程を経て、消えてなくなったり、姿を変えたりすることによって最初の姿=独自の使用価値を失う。これに対して本来の労働手段は、労働過程にあるあいだ、生産物にたいして自分の独立の姿を保持している。しかし、労働手段にはそれが利用されうる一定の期間=寿命がある。その寿命がつきるまでの全期間の労働過程のあいだには労働手段の使用価値はすべて消費され、全価値がその期間の生産物に移転する。全期間(寿命)の10分の1の時間の使用では、使用価値の10分の1が消費され(失われ)、全価値の10分の1が移転する。

第13段落
・こうして、生産手段は、労働過程でそれ自身の使用価値の消滅によって失うよりも多くの価値を生産物に引き渡すものではないということが、適切に示される。
・もしもその生産手段が失うべき価値をもっていないならば、すなわちそれ自身が人間労働の生産物でないならば、それはけっして生産物に価値を引き渡しはしないであろう。
・その生産手段は、交換価値の形成者として役立つことなしに、使用価値の形成者として役だつであろう。
・それゆえ、天然に人間の助力なしに存在する生産手段、すなわち土地や風や水や鉱脈内の鉄や原始林の樹木などの場合は、すべてそうなのである。

★生産手段が使用価値ではあるが価値をもたないもの=「自然財」である場合には、生産物に価値を引き渡さない。

第14段落
・ここでもう一つの別の興味ある現象がわれわれの前に現われる。
・たとえば、ある機械に1000ポンドの価値があって、それが1000日で損耗してしまうとしよう。
・この場合には、毎日機械の価値の1000分の1ずつが機械自身からその毎日の生産物に移っていく。
・それと同時に、その生活力はしだいに衰えて行きながらも、いつでもその機械全体が労働過程で機能している。
・だから労働過程のある要因、ある生産手段は、労働過程には全体としてはいるが、価値増殖過程には一部分しかはいらないということがわかるのである。
・労働過程と価値増殖過程との相違がここではこれらの過程の対象的な諸要因に反射している。
・というのは、同じ生産過程で同じ生産手段が、労働過程の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからである。

★《労働過程と価値増殖過程との相違》 
   労働過程――使用価値の生産――具体的・有用的労働の側面
 価値増殖過程――剰余価値の生産――抽象的・人間的労働の側面

■この段落の最後の部分は、新日本出版社版(349頁)では次のようになっている。
《ここでは、労働過程と価値増殖過程との区別は、同じ生産手段が同じ生産過程において、労働過程の要素としては全体として計算に入り、価値形成の要素としては一部分ずつ計算にはいるにすぎないということによって、それらの過程の対象的諸要因に反映する。》

●注21に関連してナイフの製法を調べることになりました。

■刃物記念館 http://www.meikoukai.com/contents/hakubutukan/hamono/index.html
 レッドオルカ http://www.yamahide.com/custom/redorca.htm

第15段落
・他方それとは反対に、ある生産手段は、労働過程には一部分しか入らないのに、価値増殖過程には全体としてはいることがありうる。
・綿花を紡ぐときに毎日115ポンドについて15ポンドが落ちて、この15ポンドは糸にはならないで綿くず[devil's dust]にしかならないと仮定しよう。
・それでも、もしこの15ポンドの脱落が標準的であって綿花の平均加工と不可分であるならば、糸の要素にならない15ポンドの綿花の価値も、糸の実体になる100ポンドの綿花の価値とまったく同じように、糸の価値にはいるのである。
・100ポンドの糸をつくるためには、15ポンドの綿花の使用価値がちりにならなければならない。
・だから、この綿花の廃物化は糸の生産の一つの条件なのである。
・それだからこそ、それはその価値を糸に引き渡すのである。
・これは、労働過程のすべての排泄物について言えることである。
・少なくとも、これらの排泄物が再び新たな生産手段に、したがってまた新たな独立な使用価値にならないかぎりでは、そう言えるのである。
・たとえば、マンチェスターの大きな機械製造工場では鉄くずの山が巨大な機械でかんなくずのように削り落とされ、夕方になると大きな車で工場から製鉄所に運ばれて行くのが見られるが、それは他日再び大量の鉄になって製鉄所から工場に帰ってくるのである。

第16段落
・ただ、生産手段が労働過程にあるあいだその元の使用価値の姿での価値を失うかぎりでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移すのである。
・それが労働過程でこうむることのできる価値喪失の最大限度は、明らかに、それが労働過程にはいるときにもっていた元の価値によって、すなわち自身の生産に必要な労働時間によって、制限されている。
・それゆえ、生産手段は、それが役立てられる労働過程にかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは、けっしてできないのである。
・ある労働材料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であっても、それが150ポンドに、たとえば500労働日に値するならば、それは、その役立ちによって形成される総生産物に、けっして150ポンドより多くはつけ加えないのである。
・その価値は、それが入っていく労働過程によってではなく、それが生産物として出てくる労働過程によって決定されているのである。
・労働過程ではそれはただ使用価値として、有用な性質をもっている物として役だつだけであり、したがって、もしそれがこの過程にはいってくる前に価値をもっていなかったならば、それは生産物に少しも価値を引き渡しはしないであろう。

★《その価値は…それが生産物として出てくる労働過程によって決定されている》と述べられているが、労働過程は価値を形成するのではなく、使用価値を生産するのではなかったのかという疑問をもちました。

■フランス語版では次のようになっています。
《その価値は、それが生産手段として入ってゆく労働によってではなく、それが生産物として出てくる労働によって、きめられる。》(198頁)

●議論の中で「現在までのところでは、商品は労働生産物であるが、現在の社会では第3次産業の比率が大きい。商品としてのサービスについてどのように説明できるのか。サービス労働は価値を生まないと言うことなのだろうか」との疑問が出されました。これに対して「本来的な商品について明らかにした後で、サービスについて問題にできる。価値は、物の性質でありサービスは価値をもたないと思う。マルクスは、サービスについては収入と交換される不生産的労働と評価していたのではないか」との発言がありました。

■生産的労働と不生産的労働
「スミスは、生産的労働と不生産的労働とを区別した。生産的労働とは、製造工の労働のように、商品に固定され、材料の価値に賃金と利潤の価値を付加する労働であり、不生産的労働とは、召使・官吏・兵士の労働のように、商品に固定されず、どんな物にも価値を付加しない労働である。…生産的労働者が多ければ多いほど、生産される生産物は多くなり、人々は豊かになっていく。この生産的労働者を増やすには2 つの方法があり、一つは生産的労働者を雇用する資本の量を増加させること、もう一つは同じ量の資本をより多くの生産的労働者を雇用する用途へと投下することである。」(早坂忠編『経済学史』51頁)

■角田収「サービス経済化の進展と価値創造的労働」(日本大学経済科学研究所紀要 第31号)
  http://www.eco.nihon-u.ac.jp/contents/research/kei/kiyou/31/kiyou31pdf/31tsunoda.pdf


[PR]

by shihonron | 2007-11-18 15:00 | 学習会の報告


<< 第81回 11月20日 第6章...      第79回 11月6日 第6章 ... >>