『資本論』を読む会の報告

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2008年 06月 16日

第13章 第7節のレジュメ

第7節 機械経営の発展に伴う労働者の排出と吸引  綿業恐慌            s.471
① 機械の新たな採用⇒伝来の手工業やマニュファクチュアの労働者に疫病のように作用
経済学のまじめな代表者ならばだれでも認めていること-----機械の新たな採用は,さしあたりその競争相手になる伝来の手工業やマニュファクチュアの労働者に疫病のように作用する。彼らはほとんどみな,工場労働者の奴隷状態を嘆いている。それにもかかわらず,彼らが出す切り札はなにか? 機械は,その導入期および発展期の恐怖のあとでは,労働奴隷を最終的に減らしてしまうのではなく,結局はそれをふやすのだ! ということである。一定の成長期の後には,つまり長短の「過渡期」の後にはそれが最初に街頭に投げ出したよりももっと多くの労働者を苦しませるという忌しい定理(資本主義的生産様式の永久の自然必然性を信ずるすべての「博愛家」にとって忌しい定理)を持ちだして,経済学は歓呼の声をあげるのだ!

② 工場諸部門の異常な拡張は,充用労働者数の単に相対的な減少だけではなく絶対的な減少とも結びついていることがありうる。1852年と1862年とのあいだにはイギリスの羊毛加工の著しい成長があったが,充用労働者数のほうはほとんど変わらなかった。
③ 従業工場労働者の増加はしばしばただ外観的でしかない。すなわち,すでに機械経営の上に立っている工場の拡張によるものではなく,付随的な諸部門をだんだん合併していった結果である。他の諸工場では,それまでは人間の筋力で運転されていたじゅうたんやリボンや亜麻などの織機に新たに蒸気力が応用されたことによるものだった。だから,これらの工場労働者の増加はただ従業労働者総数の減少の表現でしかなかったのである。最後に,金属工場を除けばどこでも少年労働者(18歳未満) や女や子どもが工場従業員中の非常に優勢な要素をなしているのである。

従業労働者数の相対的減少とその絶対的増加との両立                     s.473
④ とはいえ,機械経営によって多数の労働者が実際に駆逐され可能的に代替されるにもかかわらず,同種工場数の増加または既存工場の規模の拡大に表現される機械経営そのものの成長につれて,結局は工場労働者も,彼らによって駆逐されたマニュファクチュア労働者や手工業者よりも多数になることがありうるのである。たとえば,毎週充用される500ポンド・スターリングの資本が古い経営様式では2/5の不変成分と3/5の可変成分とから成っていた⇒4/5の不変成分と1/5の可変成分(400c+100v)
従業労働者数の相対的減少はその絶対的増加と両立するのである。
      200c+300v(1ポンド×300人)⇒1200c+300v
                    ⇒1600c+400v----絶対的には100人増,相対的には800人減
機械使用が進むにつれて,機械や原料などから成っている不変資本部分は増大するが,労働力に投ぜられる可変資本部分は減少するのであり,同時にほかのどんな経営様式でもこのように絶えまなく改良が行なわれるのではなく,したがって総資本の構成もこれほど可変的ではないのである。しかし,この絶えまない変化もまた,休止点によって,また与えられた技術的基礎の上での単に量的な拡張によって,絶えず中断される。それとともに従業労働者数は増加する。

機械経営は一つの弾力性(突発的飛躍的な拡大能力)を獲得する                s.474
⑤ この点についてはもう少し述べておかなければならないが,われわれの理論的叙述そのものがまだ到達していない純粋に事実的な関係にもいくらか触れることになる。
⑥ ある産業部門で機械経営が伝来の手工業やマニュファクチュアを犠牲として拡張されるあいだは,その成功は確実である。機械が最初にその勢力圏を征服するこの第一期は,機械に助けられて生産される異常な利潤のために決定的に重要である。この利潤はそれ自体として加速的蓄積の一つの源泉になるだけではなく,絶えず新たに形成されて新たな投下を求める社会的追加資本の大きな部分をこの恵まれた生産部面に引き入れる。最初の疾風怒涛時代の特別な利益は,機械が新たに採用される生産部門で絶えず繰り返し現われる。しかしまた,工場制度がある範囲まで普及して一定の成熟度に達すれば,ことに工場制度自身の技術的基礎である機械がそれ自身また機械によって生産されるようになれば,また石炭と鉄の生産や金属の加工や運輸が革命されて一般に大工業に適合した一般的生産条件が確立されれば,そのときこの経営様式は一つの弾力性(一つの突発的飛躍的な拡大能力)を獲得するのであって,この拡大能力はただ原料と販売市場とにしかその制限を見いださないのである。
・機械は一方では原料の直接的増加をひき起こす。たとえば操綿機が綿花生産を増加させたように。他方では,機械生産物の安価と変革された運輸交通機関とは,外国市場を征服するための武器である。外国市場の手工業生産物を破滅させることによって,機械経営は外国市場を強制的に自分の原料の生産場面に変えてしまう。こうして,東インドは,大ブリテンのために綿花や羊毛や大麻や黄麻やインジゴなどを生産することを強制された。大工業の諸国での労働者の不断の「過剰化」は,促成的な国外移住と諸外国の植民地化とを促進し,このような外国は,たとえばオーストラリアが羊毛の生産地になったように,母国のための原料生産地に転化する。機械経営の主要所在地に対応する新たな国際的分業がつくりだされて,それは地球の一部分を,工業を主とする生産場面としての他の部分のために,農業を主とする生産場面に変えてしまう。
・ 東インドから大ブリテンへの綿花輸出・羊毛輸出(1846・60年)統計略
・ 喜望峰,オーストラリアから大ブリテンへの羊毛輸出(1846・60年)
・ 合衆国から大ブリテンへの綿花輸出(1846・60年) 
⑦ 1867年2月18日に下院はグラッドストン氏の発議によって1831~1866年の連合王国の各種穀類および穀粉の総輸出入に関する統計を作成させた。-----国内生産を超える
・ 人口一人あたり年平均消費の国内生産超過量 (クォーター)
1831~35---- 0.036 1841~45----0.099 1851~55----0.291 1866----0.543

⑧ 産業循環,競争の作用                                  s.476
工場制度の巨大な突発的な拡張可能性と,その世界市場への依存性とは,必然的に,熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生みだし,市場が収縮すれば麻痺状態が現われる。産業の生活は,中位の活況,繁栄,過剰生産,恐慌,停滞という諸時期の一系列に転化する。機械経営が労働者の就業に,したがってまた生活状態に与える不確実と不安定は,このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う正常事となる。繁栄期を除いて,資本家のあいだでは,各自が市場で占める領分をめぐって激烈きわまる闘争が荒れ狂う。この領分の大きさは,生産物の安さに比例する。そのために,労働力にとって代わる改良された機械や新たな生産方法の使用における競争が生みだされるほかに,どの循環でも,労賃をむりやりに労働力の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点が必ず現われる。

⑨ 工場労働者数の増大は,工場に投ぜられる総資本のはるかに急速な割合での増大を条件とする。s.477
しかし,この過程は産業循環の干潮期と満潮期との交替のなかでしか実現されない。しかも,それは,ときには可能的〔潜在的,潜勢的〕に労働者の代わりをし,ときには実際に労働者を駆逐する技術的進歩によって,絶えず中断される。機械経営におけるこの質的変化は,絶えず労働者を工場から遠ざけ,あるいは新兵の流入にたいして工場の門戸を閉ざすのであるが,他方,諸工場の単に量的な拡張は,投げ出された労働者のほかに新しい補充兵をも飲みこむ。こうして,労働者たちは絶えずはじき出されては引き寄せられ,あちこちに振りまわされ,しかもそのさい召集されるものの性別や年齢や熟練度は絶えず変わるのである。

⑩ 工場労働者の運命は,イギリスの綿工業の運命を一見すれば,最もよくわかる。      s.477
⑪ 1770年から1815年までは,綿工業が不況または停滞状態にあったのは5年間である。
この第一期の45年間,イギリスの工場主たちは機械と世界市場とを独占していた⇒⑰。
1825年は恐慌。
1837年と1838年は不況と恐慌。
1847年は恐慌。「大きなパン」を祝って10%以上の一般的な賃金引き下げ。
1857年は恐慌。
1860年は,イギリス綿工業の絶頂。インドやオーストラリアその他の市場はいっぱいになって,1863年にもまだ滞貨の全部を吸収しきれないほどだった。
1861年には好況がしばらく続き,次いで反動,アメリカの南北戦争(1861.4.12~'65)⇒綿花飢饉。
1862年から1863年まで完全な崩壊。

⑫ 綿花飢饉は工場主たちにとっては好都合だった
1860年から1861年にかけての世界市場の状況から推察すれば,綿花飢饉は工場主たちにとっては好都合にやってきたもので,また一部は利益にもつながった。
 小工場主たちはたいていは没落した。彼らは工場主数の3分の1を占めていたとはいえ,綿業に投下された資本全体からいえば,ごくわずかな部分にすぎなかった。ごくわずかな工場だけが完全に(1週60時間)操業し,そのほかの工場は断続的に操業していた。普通の出来高賃金で時間いっぱい就業した少数の労働者の場合にさえも,週賃金は減少せざるをえなかった。というのは,上等綿に代わって下等綿が,シー・アイランド綿に代わってエジプト綿が(細糸紡績工場の場合),アメリカ綿やエジプト綿に代わってスラト綿(東インド綿)が,そして本綿に代わって屑綿とスラト綿との混合物が使われたからだった。機械の速度や,一人の織布工が見張ることのできる織機数を減少させ,機械の過誤に伴う労働を増加させ,生産物量にも出来高賃金にも制限を加えたのである。スラト綿を使って時間いっぱい就業すれば,労働者の損失は20%,30%,またそれ以上にもなった。しかも,工場主の多くは,出来高賃金の率をも5%,71/2%,10%引き下げた。これによって,1週間に3日,31/2日,4日しか,あるいは1日に6時間しか就業しない人々の状態が推察されるであろう。
 こんな悲惨な状態にあっても,こと賃金の引き下げに関しては工場主の発明心は休むことを知らなかった。ときには,彼の綿花の粗悪なためや機械設備が適当でないために起きる製品の欠陥にたいしても,その罰として賃金の引き下げが行なわれた。また,工場主が労働者の小屋の所有者だった場合には,名目労賃からの引き去りを家賃の取り立ての代わりにした。

無価値体実験-----労働者の犠牲において行なわれた生産過程の変革
⑬ 職工の作業時間が短縮されているときにさえ,しばしば家賃は賃金から引き去られた。もっと特徴的だったのは,生産過程の変革が労働者の犠牲において行なわれたということである。それこそ,解剖学者たちが蛙でやるような本式の無価値体実験だった。工場監督官レッドグレーヴは次のように言っている。
「私は多くの工場での労働者の実収入をあげたが,そこから,彼らが毎週同じ額を得ているものと結論してはならない。労働者たちは,工場主が絶えずやっている実験(experimentalizing)のために非常に大きな変動のもとにおかれている。----彼らの収入は,綿のなかの混ぜものの質につれて上がったり下がったりする。ときにはそれが彼らの以前の収入に15%近づくかと思えば,次週か次々週には50%から60%も下がる。」
⑭ これらの実験は,労働者たちの生活手段だけを犠牲にしてなされたのではなかった。彼らは彼らの五官の全部でそれを償わなけれはならなかった。
「綿花の荷解きに従事する人々はがまんできない悪臭で気持ちがわるくなる,と私に告げた。----混綿場や粗梳綿場や梳綿場の従業者たちは,飛散するほこりに顔じゅうの穴を刺激されて,せきや呼吸困難を起こす。----繊維が短いために,糸には糊づけのときに多量の材料が,しかも以前使われていた穀粉の代わりに各種の代用物がつけられる。そのために織布工の悪心や消化不良が起きる。ほこりのために起きる気管支炎,また咽喉炎,さらにスラト綿のなかの汚物が皮膚を刺激するために起きる皮膚病がはびこる。」
⑮ 他方では,穀粉の代用物は,糸の重さを増して,工場主語君にとってフォルトゥナトゥスの財布になった。それは「15ポンドの原料を,織り上がれば,26ポンドの重さに」した。1864年4月30日の工場監督官報告書では次のように述べている。
「この産業は今ではこの手段をまったくあつかましく利用している。確かな筋から聞いたところでは,重さ8ポンドの織物が51/4ポンドの綿と23/4ポンドの糊とでつくられる。別の51/4ポンドの織物には2ポンドの糊が含まれていた。これは普通の輸出用シャツ地だった。そのほかの種類ではしばしば50%も糊がつけられていたので,工場主たちは,名目上織物に含まれている糸にかかったよりも少ない貨幣で織物を売りながら利益をあげるということを自慢することができるのであり,また実際にも自慢するのである。」
⑯ しかし,労働者たちは,工場のなかでは工場主たちの,工場の外では市当局の,実験の材料にされて,賃金引き下げと失業とに,困窮と慈善とに,上下両院の賛辞に,悩まされなければならなかっただけではない。「綿花飢饉で職を失った不幸な婦人たちは社会の廃物となり,そしてそうたったままだった。----若い売春婦の数は,最近25年間に類のない増加を示した。」

1830年-----大陸ヨーロッパ・合衆国との競争開始,好況期と過剰人口
⑰ イギリスの綿工業の第一期の45年間,1770~1815年には,恐慌と停滞は5年しかないが,しかし,これはイギリスの綿工業の世界独占の時期だった⇒⑪。
 第二期の48年間,1815~1863年には,不況と停滞の28年にたいして回復と好況は20年しかない。1815~1830年には大陸ヨーロッパおよび合衆国との競争が始まる。1833年からはアジア諸市場の拡張が「人類の破壊」によって強行される。穀物法が廃止されてから,1846~1863年には,中位の活況と好況との8年にたいして9年の不況と停滞がある。
 綿工業の成年男子労働者の状態が,好況期にさえも,どんなものだったかは,つけ加えた注からも判断されるであろう(245)。
(245) 1863年の春,ある移民協会の設立のための綿業労働者の呼びかけ書-----「工場労働者の一大移民がいまや絶対に必要だということは,ほとんどだれも否定しないであろう。しかし,いつでも不断の移民の流れが必要だということ,またそれなしには普通の状態のもとでわれわれの地位を維持することは不可能だということは,次のような事実によって示されている。-----最も目につきやすい原因の一つは,不断の労働過剰であるが,それは,破滅を免れるためには絶えず市場の拡張を必要とするこの産業部門にとっては,欠くことができないのである。われわれの綿工場は,商業の周期的な停滞によって休止させられるおそれがあるが,このような停滞は,現在の制度のもとでは,人が死ぬことと同じに,避けられないものである。だからといって,人間の発明心は休んではいない。低く見積もっても,最近の25年間に600万人がこの国を去ったにもかかわらず,生産物を安くするために引き続き労働の駆逐が行なわれるので,大きな割合の成年男子が,最高の好況期にさえも,工場ではどんな条件のどんな種類の仕事も見つけることができないという状態にあるのである。」
 なお,綿業異変に際しては工場主諸君が手段を尽くして,国家の力によってさえも,工場労働者の移住を阻止しようとしたことは,もっとあとの章で示されるであろう。


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by shihonron | 2008-06-16 14:40 | レジュメ


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