『資本論』を読む会の報告

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2008年 07月 15日

第108回 7月15日 第1章 商品 第1節 

7月15日(火)に第108回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」の第1段落から第6段落までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
     

第1段落
・資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の冨は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その基本形態として現れる。
・それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。

●「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」の箇所を「諸社会」と訳している本もあるとの指摘がありました(新日本出版社版や長谷部文雄訳の河出書房「世界の大思想」版など)。この頃に資本主義的生産様式が支配的な社会が複数あったか問題になりましたが、イギリス以外にもフランスなどが考えられるのではないかとの発言がありました。
また、資本主義社会においても資本主義的生産様式とはちがった小経営的生産様式(自分の土地およびその他の生産手段をもって経営する個人的生産者の生産)が存在している。ある社会においてはただ一つの生産様式がすべてではなく、生産の根幹をとらえている支配的な生産様式によってその社会が特徴づけられるとの発言がありました。

●「社会の冨」と述べられているが「冨」とはなんだろうとの疑問が出されました。これについては、重商主義者は、国富を金だと考えたが、マルクスはそうではなくて商品こそ冨だと言っているのではないかとの発言がありました。また、第4段落では「冨の社会的形態」という言葉が出てくるとの指摘がありました。

■重商主義 じゅうしょうしゅぎ
マーカンティリズムmercantilismの訳。16―18世紀,資本主義が産業革命によって確立されるまでの初期的段階に,西欧諸国が国富増大を目ざして採った政策と理論。英国での展開が典型的。貿易による金銀獲得を目ざす重金主義から金銀よりも貿易黒字を目ざすべしとする貿易差額主義に発展した。市民革命後の未成熟な産業資本を保護しようとする本来の重商主義(英国,ナポレオン1世治下のフランスの保護主義)と,産業資本の発達を阻止しようとする絶対主義的重商主義(フランスのコルベール主義,ドイツの官房学派など)が区別される。(マイペディア)

■大谷禎之介氏は《ここで取り上げる「冨」が、人間の生存と社会の存続とを支えている、労働によって生産された生産物であることは自明である。労働なしには人間の生存も社会の存続もありえないこと、人間は物質的冨を労働によってのみ自然から獲得できること、どのような社会でも人間は冨を獲得するのに必要な労働について思いめぐらさなければならなかったと言うこと、――これらのことは、中学生でもわかる自明の事実であって、経済学によってはじめて明らかにされる「隠された事実」などではない。だから、経済学はこのような事実を自明のこととして前提するのであり、全くの無前提で出発するのではない。》と述べている。(『図解社会経済学』52頁)

■Elementarformについて。岡崎訳の「基本形態」は、新日本版では「要素形態」、長谷部訳では「原基形態」、マルクスコレクション版では「要素形態」となっている。

■「われわれの研究」言い換えれば、マルクスは『資本論』において何を明らかにしようとしているのか? 第1版の序文で「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である」(国民文庫23頁・原頁11)「近代社会の経済的運動法則を明らかにすることはこの著作の最終目的でもある」(国民文庫25頁・原頁15)と述べられている。

●「われわれの研究は商品の分析から始まる」と述べられていることに関連して、マルクスは資本主義的生産様式について解明する(叙述する)あたって商品からはじめると述べている。マルクスは研究を進めて、資本主義的生産様式のもっとも単純で抽象的な概念として商品を把握した後にこうした叙述をしていることに注意しておこうとの発言がありました。

■第2版の序文でマルクスは次のように述べている。「もちろん、叙述の仕方は、形式上、研究の仕方とは区別されなければならない。研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探りださねばならない。この仕事をすっかりすませてから、はじめて現実の運動をそれに応じて叙述することができるのである。これがうまくいって、素材の生命が観念的に反映することになれば、まるで先験的な[a priori]構成がなされているかのように見えるかもしれないのである。」(国民文庫40頁・原頁27)

■大谷禎之介氏は《ここで取り上げなければならない商品は、「市場経済」のなかで人々が、日々自己の生存のために市場にもっていって売っている商品であり、人間の生存と社会の存続を支える社会の冨がとっている独自の形態としての商品である。言い換えれば、社会の総労働の一部によって日々生産され、市場で交換されたのちに、生産や個人的消費のなかで社会の総欲求の一部を日々満たしている、そのような商品であり、市場での需給関係によって価格が変動し、生産者たちがこの価格の変動をバロメーターにして生産量を増減させているような商品である。だから、店で売られているものであっても、古本や古物のようなものはここでは考察の外に置かなければならない。本来の商品や貨幣がどのようなものであるかがはっきりしたのちにはじめて、労働によって生産されたのではない「商品」であるとか、世界にただ一つしかない「商品」であるとか、あるいは買い手の欲求と支払い能力以外に価格水準を決めるものがないようなさまざまの「商品」について、その価格や価値のことを理解することができるようになるのである。》と述べている。(『図解社会経済学』52頁)

■注1【 カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、一八五九年、3ページ〔『全集』、第13巻、13ページ〕。】で指示されている箇所の叙述は次のとおりである。
《一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている。》
(国民文庫『経済学批判』23頁)

第2段落
・商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によってなんらかの種類の欲望を満足させる物である。
・この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。
。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、すなわち受用の対象としてか、それとも回り道をして、生産手段としてかということも、問題ではない。

■有田潤氏は《「外的対象」 ここで「外的」といっているのは「人間の外部にある」の意。E(英語版)のan object outside usという訳が明快である。》としている。
(「『資本論』のドイツ語」 「文化論集」第1号 10頁)

■「外的対象」は、コレクション版では「人間の外部にある対象」と訳されている。

■長谷部訳では「商品は、さしあたり、その属性によって人間のなんらかの欲望を充たすところの、一つの外的対象すなわち物である。」となっている。

●「空想から生じる欲望」というのはどのようなものかという疑問が出されました。後の箇所でウイスキーと聖書の交換について述べられるが、聖書が「宗教的欲求」を充たすといったことではないかとの発言がありました。

■「空想から」は、新日本版では「想像から」、長谷部訳とコレクション版、フランス語版の訳では「幻想から」になっている。

●「受用」というのは、個人的消費のことだろうとの発言がありました。

★生産的消費ではない本来の消費には、個人的消費と社会的消費(何らかの意味で多くの個人によって行われる場合)がある。

■「受用」は、新日本版とコレクション版では「享受」、長谷部訳では「享楽」となっている。 

第3段落
・おのおのの有用物、鉄、紙、等々は、二重の観点から、すなわち質の面と量の面から、考察される。
・このような物は、それぞれ、多くの属性の全体であり、したがって、いろいろな面から見て有用でありうる。
・これらのいろいろな面と、したがってまた物のさまざまな使用方法とを発見することは歴史的な行為である。
・有用な物の量を計るための社会的尺度を見いだすことも、そうである。
・いろいろな商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質から生じ、あるものは慣習から生ずる。

第4段落
・ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする。
・しかし、この有用性は空中に浮いているのではない。
。この有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。
・それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが、使用価値または財なのである。
・商品体のこのような性質は、その使用属性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。
・使用価値の考察にさいしては、つねに、1ダースの時計とか1エレのリンネルとか1トンの鉄とかいうようなその量的な規定性が前提される。
・いろいろな商品のいろいろな使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する。
・使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。
・使用価値は、冨の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、冨の素材的内容をなしている。
・われわれの考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている――交換価値の。

●「有用性は物の性質、属性であり、使用価値とは商品体そのもの、有用性を持っている物(有用物)といえるのではないか。価値物という言葉はあるが、使用価値物とは言わないように思う(物のことをさして使用価値というのだから)」との発言がありました。

■有田潤氏は《「商品体」と訳されているが「物体としての商品」の意であろう。》と述べている。(「『資本論』のドイツ語」13頁)

●冨と財との区別は何かという疑問が出されましたが、結論は出ませんでした。

●資本主義的生産様式が支配的に行われている社会においては商品が「冨の社会的形態」だが、奴隷制とか封建制の社会では、どのようなものが「冨の社会的形態」といえるのだろうかとの疑問が出されましたが、結論は出ませんでした。

●現在も商品学というのはあるのだろうか、あまり聞いたことがないがという疑問が出されました。これに対して実際に学校(商業高校など)の科目としてもあるとの発言がありました。

■ネットで「商品学」を検索したところ、大学のシラバス(専修大学Web講義要項)や論文(岩城,良次郎「商品学の研究における視点とその展開」『一橋大学研究年報. 商学研究』)などが見つかりました。

■浜林正夫氏は《そういう商品の使用価値を研究する学問は「商品学」という学問であります。これは大学には商品学という科目がありまして、ちゃんと勉強しますし、このごろは大学だけではなくて、公民館の公開講座などでも「賢い消費者になるために」などというテーマでよくやっていますが、あれが商品学です。経済学ではそういうことはやらないのだということであります。》(「『資本論』を読む[上]」71頁)

●使用価値は交換価値の「素材的担い手」だと述べられているが、それはどういう意味かとの疑問が出されました。使用価値を持たない限り価値ではあり得ないということではないかとの発言がありました。
(この問題については後でまとめて述べます)

第5段落
・交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現れる。
・それは、時と所によって絶えず変動する関係である。
・それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるかのように見え、したがって商品に内的な、内在的な交換価値(valeur intrinseque)というものは、一つの形容矛盾(contradictio in adjecto)であるように見える。
・このことをもっと詳しく考察してみよう。

■「第一に」は、新日本版と長谷部訳では「さしあたり」、コレクション版とフランス語版では「まず」となっている。有田潤氏は第2段落の「まず第一に」についてではあるが《「まず第一に」だと第二、第三…という順序を強調しているように受け取られるおそれがある。》と述べている。

第6段落
・ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の諸商品と交換される。
・だから小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。
・しかし、x量の靴墨もy量の絹も、z量の金その他も。みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、x量の靴墨やy量の絹やz量の金などは、互いに置き換えられうる、または互いに等しい交換価値でなければならない。
・そこで、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表している、ということになる。
・しかし、第二に、およそ交換価値は、ただ、それと区別される或る実質の表現様式、「現象形態」でしかありえない、ということになる。

●「互いに置き換えられうる」をどのように理解するかが問題になり二つの意見が出されましたました。一つの意見は、「置き換え」とは交換のことであり、x量の靴墨、y量の絹、z量の金はそれぞれ互いに交換されうるということというもの。もう一つの意見は、ここでは1クォーターの小麦=x量の靴墨、1クォーターの小麦=y量の絹、1クォーターの小麦=z量の金という1クォーターの小麦の交換価値について述べているので、等式の右辺として置き換えられうるということではないかというものでした。再度考えてくることになりました。


「使用価値は交換価値の素材的担い手だ」とはどういうことか?
 第4段落の最後で「われわれの考察しようとする社会形態にあっては、それ(使用価値のこと―引用者)は同時に素材的な担い手になっている――交換価値の。」と述べられています。この「素材的担い手」とはどういうことかが議論になりました。当日は有用性を持たない物が商品になることはありえないということではないかとの意見が出されました。
 学習会の後、ブログ「『資本論』を読む会」のご案内」を読んで、大阪で行われている『資本論』を読む会で同様の議論があり、一定の結論が示されているのをを知りました。 
 《「使用価値は……交換価値の素材的担い手をなしている」という場合、ここ(第6段落)でいう「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことを指しているのか、それとも「一クォーターの小麦」の交換価値の「素材的担い手」になっているのは「一クォーターの小麦」という使用価値そのものなのか》という問題です。
 《「一クォーターの小麦」の交換価値は、当然、「一クォーターの小麦」自身が持っているものだから、その交換価値の素材的担い手というなら、「一クォーターの小麦」という使用価値のことではないのか》という意見が出されたことを紹介した後、『経済学批判』の関係する箇所を引用した上で、以下のように結論づけられています。

〈この部分は、『資本論』を読んでいるだけだと、なかなか分かりにくい。「素材的担い手」というだけだと、どちらとも取れるような感じがするからである。ところが『経済学批判』を読むと、これがハッキリするのである。当日は『批判』を持っていなかったからしょうがなかったが、『批判』ではその部分は次のようになっている。
 《使用価値であるということは、商品にとって必要な前提であると思われるが、商品であるということは、使用価値にとって無関係な規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係な場合の使用価値は、すなわち使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。使用価値がこの範囲内にはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定である場合だけである。直接には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値があらわされる素材的土台である。》(国民文庫版25頁)
 ついでに『資本論草稿集』第3巻ではこの部分は次のように訳されている(ただし最後の部分だけ)。

 《……直接的には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が自らを表すさいの素材的な土台である。》(214頁)
 もちろん、『資本論』と『批判』とは違った文献だし、書かれた年代にはかなりのブランクもある。だから両者がまったく同じ内容を論じているとは断定できないのだが、しかし『批判』では、マルクスが「素材的土台」として論じているのは、明らかに交換価値を表す対象であることが分かる。だからそれから類推して『資本論』の当該部分の解釈をやってみると、「一クォーターの小麦」の「交換価値の素材的担い手をなしている」ものとしてマルクスが語っているのは、「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことであることが分かるのである。これがまあ、正しいのではないか。一件落着。〉



 
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by shihonron | 2008-07-15 23:00 | 学習会の報告


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