『資本論』を読む会の報告

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2008年 09月 01日

第113回  9月2日 第1章 商品 第2節

9月2日(火)に第113回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第2節 商品に表される労働の二重性」の第10段落から第16段落までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第2節 商品に含まれている労働の二重性


第10段落
・われわれの想定によれば、上着はリンネルの2倍の価値を持っている。
・しかし、それはただ量的な差違にすぎないもので、このような差違はさしあたりはまだわれわれの関心をひくものではない。
・そこで、われわれは、1着の上着が10エレのリンネルの価値の2倍であれば、20エレのリンネルは1着の上着と同じ価値量を持っていることを思い出す。
・価値としては、上着とリンネルとは、同じ実体をもった物であり、同種の労働の客体的表現である。
・ところが、裁縫と織布とは、質的に違った労働である。
・とはいえ、次のような社会状態もある。
・そこでは同じ人間が裁縫をしたり織布をしたりしているので、この二つの違った労働様式は、ただ同じ個人の労働の諸変形でしかなく、まだ別々の諸個人の特殊な固定した諸機能になっていないのであって、それは、ちょうど、われわれの仕立屋が今日つくる上着も彼が明日つくるズボンもただ同じ個人労働の諸変形を前提しているにすぎぎないようなものである。
・さらに、一見して分かるように、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化に従って、人間労働の一定の部分が、あるときは裁縫の形態でねあるときは織布の形態で供給される。
・このような労働の形態変換は、摩擦なしにはすまないかもしれないが、とにかくそれは行われなければならない。
め生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである。
・裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間労働である。
・それは、ただ人間の労働力を支出するための二つの違った形態でしかない。
・たしかに、人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。
・しかし、商品の価値は、ただの人間労働を、人間労働一般の支出を、表している。
・ところで、ブルジョア社会では将軍や銀行家は大きな役割を演じており、これに反してただの人間はひどくみすぼらしい役割を演じているのであるが、この場合の人間労働についても同じことである。
・それは、平均的にだれでも普通の人間が、特別の発達なしに、自分の肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。
・もちろん、単純な平均労働そのものも、国が違い文化段階が違えばその性格は違うのであるが、しかし、現に或る一つの社会では与えられている。
・より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいということになる。
・このような換算が絶えず行われていることは、経験の示すところである。
・ある商品がどんなに複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身ただ単純労働の一定量を表しているにすぎないのである。
・いろいろな労働種類がその度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的過程によって生産者の背後で確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられたもののように思われる。
・簡単にするために、以下では各種の労働力を直接に単純な労働力とみなすのであるが、それはただ換算の労働省くためにすぎない。

★補足したり言い換えたりすると「価値としては、上着とリンネルとは、抽象的人間的労働という同じ実体をもった物であり、その生産に人間労働力が支出されたことの物質的表現である。」といえる。

★価値を「同種の労働の客体的表現」といい、具体的有用的労働について「質的に違った労働」と表現している。

●《このような労働の形態変換は、摩擦なしにはすまないかもしれない》の「摩擦」とはどんなことだろうかとの疑問が出され、失業や資本家が必要とする労働者をすぐには雇うことができないといったことという結論になりました。

●《生産活動の規定性》とはどんなことかとの疑問が出され、第3段落で述べられていた《この活動は、その目的、作業様式、対象、手段、結果によって規定されている。》ということだろうとの結論になりました。

■《ただの人間労働》《ただの人間》は、マルクスコレクション版では《人間労働自体》《人間そのもの》、新日本版では《人間的労働力自体》《人間自体》、英語版では《mere human labour》《mere man》となっている。

■mere [mir]  ━━ a. 単なる, ほんの; 全くの. (エクシード英和辞典より)

●《より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされる》という箇所について《より複雑な労働は,単純労働の<強められたもの>,またはむしろ<何倍かされたもの>としてのみ通用し》と訳されることもあるとの指摘がありました。
 この箇所は英語版では《Skilled labour counts only as simple labour intensified, or rather, as multiplied simple labour, a given quantity of skilled being considered equal to a greater quantity of simple labour.》となっています。

■skilled          ━━ a. 熟練した ((in, at (doing))); 熟練を要する.
■in・ten・si・fy  [intensfai]  ━━ v. 激しくする[なる]; 強くする[なる]; 増大する.
■mul・ti・ply   [mltplai]  ━━ v. 増す, ふえる, 繁殖させる[する];
                【数】掛ける ((by; together)). (エクシード英和辞典より)

●「熟練複雑労働―単純労働」と「熟練労働―不熟練労働」には差違があるのかについて議論になりました。「熟練複雑労働は、一定の教育を受けて初めて行うことのできる労働(例えば高層ビルの設計)であり、単純労働者がたくさん集まっても同じことをできない。一方、熟練と不熟練の差は、生産物の量的な違いに結果するだけではないか。複雑労働には費用のかかる教育や修行が必要であり、熟練労働は労働する中で身につくといえるのではないか」との発言がありました。これにたいして「果たしてそんなきれいに区別できるのだろうか。フランス語版では複雑労働の所にカッコ書きで熟練労働となっている」との発言があり、さらに考えていくことになりました。

第11段落
・こういうわけで。価値としての上着やリンネルではそれらの使用価値の相違が捨象されている。
・これらの価値に表されている労働でもそれらの有用形態の相違、裁縫と織布の相違は捨象されているのである。
・使用価値としての上着やリンネルは、目的を規定された生産活動と布や糸との結合物であり、これに反して価値としての上着やリンネルは単なる同質の労働凝固であるが、それと同じように、これらの価値に含まれている労働も、布や糸に対するその生産的な作用によつてではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。
・裁縫や織布が使用価値としての上着やリンネルの形成要素であるのは、まさに裁縫や織布の互いに違った質によるものである。
・裁縫や織布が上着価値やリンネル価値の実体であるのは、ただ、裁縫や織布の特殊な質が捨象されて両者が同じ質を、人間労働という質をもっているかぎりでのことである。

●《価値としての上着やリンネル》という表現について問題になり、新日本版では《価値である上着やリンネル》となっていることが紹介され、「価値という側面から見た上着やリンネル」ということだろうという結論になりました。

●「岡崎訳では《人間労働》となっているが、《人間的労働》とした方が適切だ」との発言がありました。

■新日本版と長谷部訳では《人間的労働》となっている。

第12段落
・しかし、上着やリンネルは価値一般であるだけでなく、特定の大きさの価値である。
・そして、われわれの想定によれば、1着の上着は10エレのリンネルの2倍の価値がある。
・それらの価値量のこのような相違は、どこから生ずるのか?
・それは、リンネルは上着に比べて半分の労働しか含んでおらず、したがって上着の生産に比べて2倍の時間にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生ずるのである。

■《価値一般》は英語版では《merely values》となっている。「単に価値」と訳すことができる。

■mere・ly ━━ ad. 単に(…にすぎない), 全く.  ⇒mere1

第13段落
・つまり、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的に認められるとすれば、価値量との関連では、もはやそれ以外には質をもたない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである。
・前のほうの場合には労働のどのようにしてどんな[Wie und Was]が問題なのであり、あとのほうの場合には労働のどれだけ[Wieviel]が、すなわちその継続時間が、問題なのである。
・一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表しているのだから、諸商品は、ある一定の割合をなしていれば、常に等しい大きさの価値でなければならないのである。

★《もはやそれ以外には質をもたない人間労働》とは「人間の労働力の支出」という質のことだろう。

■英語版では《どのようにしてどんな[Wie und Was]》は《How and What》、《どれだけ[Wieviel]》は《How much》となっている。

第14段落
・たとえば1着の上着の生産に必要ないっさいの有用労働の生産力が変わらないならば、上着の価値量は上着自身の量が増すにつれて増大する。
・もし1着の上着がx労働日を表しているとすれば2着の上着は2x労働日を表している、というようにである。
・ところで1着の上着の生産に必要な労働が2倍に増すか、半分に減るかするとしてみよう。
・前のほうの場合には1着の上着は以前の2着の上着と同量の価値をもち、あとのほうの場合には、2着の上着が以前の1着の上着と同量の価値しかもたない。
・といっても、どちらの場合にも上着は相変わらず同じ役立ち方をするのであり、上着に含まれている有用労働の質の良否は相変わらず同じなのであるが。
・しかし、上着の生産に支出された労働量は変化しているのである。

第15段落
・より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的富をなしている。
・2着の上着は2人に着せられるが、1着の上着は1人にしか着せられないというように。
・それにもかかわらず、素材的冨の増大にその価値量の同時的低下が対応することがありうる。
・このような相反する運動は、労働の二面的性格から生ずる。
・生産力は。もちろん。つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。
・それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇または低下に比例して、より豊富な、またはより貧弱な生産物源泉になるのである。
・これに反して、生産力の変動は、価値に表されている労働それ自体には少しも影響しない。
・生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態に属が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響することはできないのである。
・それゆえ、同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。
・しかし、その労働は、同じ時間に違った量の使用価値を、すなわち生産力が上がればより多くの使用価値を、生産力が下がればより少ない使用価値を、与える。
・それゆえ、労働の豊度を増大させ、したがって労働の与える使用価値の量を増大させるような生産力の変動は、それが使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮する場合には、この増大した使用価値総量の価値量を減少させるのである。
・逆の場合も同様である。

●「《同じ労働》は抽象的人間的労働のことだろうか」との疑問が出されましたが、「次の部分で使用価値を与えるとされているのだから、抽象的人間的労働に限定しているのではなく、あるがままの労働(具体的労働の側面と抽象的労働の側面をあわせもつ労働)ではないか」という発言がありました。

■《労働の豊度》は、新日本版と長谷部訳では《労働の多産性》、マルクスコレクション版では《労働の産出力》となっている。

★生産力について、第14段落では《有用労働の生産力》と述べ、この段落では《生産力は労働の具体的な有用形態に属する》と述べている。

■【労働の生産性(生産力)】質的および量的に一定した使用価値の生産に必要な労働時間の大小は、その労働の生産力の大小を表す。いいかえれば、それは一定の労働時間内に生産される使用価値の大小によって表される。それは、労働者の熟練度、科学とその技術的応用との発展度、生産過程の社会的結合、生産手段の規模およびその作用力、土地の豊度など、多種の社会的および自然的諸条件によって制約される。ゆえに、労働の生産力を高くするには、労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産方法(Produktionsweise)そのものを変革せねばならない。 (『資本論辞典』青木書店刊より)

■【労働の生産力は具体的労働の生産力である】同じ量の労働(抽象的労働)でも生産物の量は異なりうる。生産物量のこのような相違をもたらすのは、労働の有効性、作用度の違いである。この違いは労働力を支出するさいの具体的な形態の違い、有用物をもたらす程度の違いであり、つまりは具体的労働の違いである。労働が生産物を生産する力量である労働の生産力とは、じつは具体的労働の生産力なのである。
 労働(具体的労働)の生産力の増大は、同一の労働(抽象的労働)量で生産される生産物の量を増大させるが、これは、生産物一単位についてみれば、生産物を生産するのに必要な抽象的労働の減少、つまり生産物の生産費用としての労働量の減少にほかならない。(大谷禎之介『図解社会経済学』21-22頁)


第16段落
・すべての労働は、一面では、生理学的な意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。
・すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。

●初版では、この段落の手前に文章が入っていたとの紹介がありました。

■資料----現行版・フランス語版・初版,異同
赤字は現行版第2節最後のパラグラフ,青字は著者のコメント

① 資本論 第2節最後のパラグラフ  岡崎訳
 すべての労働は,一面では,生理学的意味での人間の労働力の支出であって,この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において,それは商品価値を形成するのである。すべての労働は,他面では,特殊な,目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって,この具体的有用労働という属性において,それは使用価値を生産するのである。

② 遊部久蔵 『商品論の構造』1973年 青木書店 p261・2
-----第5章 フランス語版『資本論』第一巻第一章「商品」の研究----ドイツ語本文との比較研究-----

「以上にのべてあることの結果,つぎのようなことになる。適切にいうと,商品中には二種の労働がないとしても,労働が労働の生産物としての商品の使用価値に属させられるか,あるいはその純粋に客観的表現としてのこの商品の価値に属させられるかにつれて,そこでの同一の労働が自分自身に対立させられる。すべての労働は一面では生理学的意味での人間的力の支出であり,この相等しい人間的労働の資格でそれは諸商品の価値を形成する。他面,すべての労働は,特定の目的によって規定されたかくかくの生産的形態のもとでの人間的力の支出であり,この具体的・有用的労働の資格でそれは使用価値または有用物を生産する。商品は価値であるためにはなによりもまず有用物でなければならないのと同様に,労働は言葉の抽象的意味で人間的力の支出,人間的労働とみなされるためには,なによりもまず有用でなければならない」。

さらに改行してつぎの一パラグラーフ(Ⅱ・①・全文)が付加されている。
「価値の実体と価値の量とがいまや規定されている。あとはただ価値の形態の分析をするだけだ」。

(付注)Gallimard版編注(五七五ページ,編注1,2,一六三六ページ)によれば,第一のパラグラーフのはじめの部分(「以上にのべてあること……対立させられる。」)とおわりの部分(「商品は価値であるためには……有用でなければならない。」)・および第二のパラグラーフ全体がフランス語版のための付加であるとのぺられている。たしかにそうであるが,第一のパラグラーフのはじめの部分とおわりの部分とは,初版のこの部分(初版には節の区分はないが,第二節に該当する部分の最終パラグラーフ。S13)にある(第一のパラグラーフのはじめの部分についてのみ,この点の指摘が公文宏和氏によってなされている。「価値論と商品論」,『経済科学』一八巻二号,昭和四六年一月,九〇-九一ページ)。さらに第二のパラグラーフは,初版の第三節に該当する部分の冒頭(S13)にある(双方とも独仏文の間にわずかなちがいはあるが)。

③ 林直道 『フランス語版資本論の研究』大月書店1975年p106・7
 7労働の二重性への補足
現行版の第一章第二節の末尾には,労働の二重性と商品の二要因との関係,すなわち,労働は抽象的人間労働として価値を形成し,具体的有用労働として使用価値を生産するという命題を述べたパラグラフがある。フランス語版ではこの箇所の前と後とにかなりの補足がなされている。

-----《これまでのところから次のことが結論される,すなわち,商品のなかに,正直にいって,二種類の労働が存在するのではないが,それでもなお,商品のなかで同じ労働がそれ自身にたいして対立的になっている,それは労働が,その生産物としての商品の使用価値に関係し,あるいはその純粋に客観的な表現としてのこの商品の価値に関係することによってである。すべての労働は,一面では,生理学的意味における人間力の支出であり,この間等な人間労働という資格において〔a ce titre〕,それは商品の価値を形成する〔former〕。他面において,すべての労働は,特殊な目的によって規定された,あれやこれやの生産的形態のもとでの人間力の支出であって,この具体的および有用的労働という資格において,それは使用価値あるいは有用物を生産する〔produire〕。商品が価値であるためには,何よりもまず有用物であらねばならぬのと同様に,労働が人間力の支出,語の抽象的意味における人間労働とみなされるためには,何よりもまず有用的であらねばならない。
今までは価値の実体および価値量が規定された。残るは価値の形態を分析することである。》(La.18.Ⅰ-Ⅱ,----大月版①六三ページに該当)

右の文中の第2文と第3文とが,現行版のさきの命題に相当する。その前後の文章が現行版にない補足記述である。このなかでは,とくに第1文が,労働の二重性ということは,商品のなかに二種類の労働があるという意味ではなくて,同一の労働がそれ自体で対立をふくんでいるという意味だと述べているのは,きわめて重要な点である。これはのちに生産物の価値形成過程における労働の二面的作用(価値移転プラス価値創造)をのべたところで,〈労働者は,同じ時間に二重に労働するのではない〉((La.85.Ⅰ)としているのと照応するものである。
改行後の補足文は,これまでの価値の実体,価値の量の研究から価値の形態の研究へ移ろうとするつながりをガイドしたもので,『資本論』初版一三ページに同趣旨の文章がある。


④ フランス語版 江夏訳p16
上述の結果,次のことが生ずる。すなわち,厳密に言って,二種類の労働が商品のなかにあるわけではないが,労働をその生産物としての商品の使用価値に関連づけるか,または,その純粋に客体的な表現としての商品の価値に関連づけるかにしたがって,その商品のなかで同じ労働が自己とは反対のものになる,ということ。どんな労働も一方では,生理学的な意味で人間労働力の支出であり,この同等な人間労働という資格において商品の価値を形成する。他方,どんな労働も,特殊な目的によって規定されるなんらかの生産形態のもとでの,人間労働力の支出であって,この具体的な有用労働という資格において使用価値あるいは有用性を生産する。商品が価値であるためには,商品はなによりもまず有用でなければならないのと同じように,労働が人間労働力の支出,言葉の抽象的な意味での人間労働と見なされるためには,労働はなによりもまず有用でなければならない。

⑤ 初版 岡崎訳 p39・40
以上に述べたことからは次のような結論が出てくる。すなわち,商品のなかには,もちろん,二つの違った種類の労働が含まれているわけではないが,しかし,同じ労働が,その労働の生産物としての商品の使用価値に関連して見られるか,それとも,その労働の単に対象的な表現としての商品価値に関連して見られるか,によって,違った規定を受けるし,また,対立的にさえ規定されている,ということである。商品は,価値であるためには,なによりもまず使用対象でなければならないのであるが,それと同様に,労働も,人間の労働力の支出として,したがってまた単なる人間労働として,数えられるためには,なによりもまず有用な労働,すなわち目的を規定された生産的な活動でなければならないのである。



▲9月23日に誤字を訂正しました。
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by shihonron | 2008-09-01 23:30 | 学習会の報告


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