『資本論』を読む会の報告

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2008年 09月 24日

第115回 9月24日 第1章 商品 第3節 A 

9月24日(水)に第115回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態」の第1段落から最後(第5段落)までと「2 a 相対的価値形態の内実」の第1段落から第5段落までを輪読、検討しました。

第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態


x量の商品A=y量の商品Bまたはx量の商品Aはy量の商品Bに値する。
(20エレのリンネル=1着の上着または20エレのリンネルは1着の上着に値する。

1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

第1段落
・すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。
・それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。

第2段落
・ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。
・リンネルは自分の価値を上着で表しており、上着はこの価値表現の材料として役立っている。
・第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。
・第一の商品は相対的価値として表される。
・言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。
・第二の商品は、等価物として機能している。
・言いかえれば、その商品は等価形態にある。

★「相対的価値」とは、他の商品の一定量として表現された価値ということだろう。価値とは、抽象的・人間的労働の対象化であるが、直接に何時間の労働の対象化という形(いわば「絶対的価値」?)では表現されえない。

●「等価物とはどういう意味か」との質問が出され、「等しい価値を持つ物ということだろう」という結論になりました。

第3段落
・相対的価値形態と等価形態しは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。
・この両極は、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。
・たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。
・20エレのリンネル=20エレのリンネルはけっして価値表現ではない。
・この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。
・すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルにほかならないということである。
・つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。
・それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにかの別の商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。
・他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。
・それは自分の価値を表しているのではない。
・それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。

第4段落
・もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル または1着の上着は20エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。
・しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。
・そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。
・だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現れることはできないのである。
・この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。

★20エレのリンネルと1着の上着が交換されるなら、その交換関係のうちには、20エレのリンネル=1着の上着という価値表現と1着の上着=20エレのリンネルという二つの価値表現が含まれていると考えられる。しかし、ここで考察するのは、一商品の価値表現、一商品の価値形態である。

第5段落
・そこで、ある商品が相対的価値形態にあるか、反対の等価形態にあるかは、ただ、価値表現のなかでこの商品のそのつどの位置だけによって、すなわち、その商品が、自分の価値を表現される商品であるのか、それともそれで価値が表現されるのかということだけによって、定まるのである。

2 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実


第1段落
・一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかを見つけ出すためには、この価値関係をさしあたりまずその量的な面からはまったく離れて考察しなければならない。
・人々はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、ただ、二つの商品種類のさそれぞけの一定量が等しいとされる割合だけを見ているのである。
・人々は、いろいろな物の大きさはそれらが同じ単位に還元されてはじめて量的に比較されうるようになるということを見落としているのである。
・ただ同じ単位の諸表現としてのみ、これらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。

■【通約】「約分」の古い言い方。

■【約分】〔数〕 分数の分子と分母を共通の約数で割って簡単な分数にすること。

★二つの物を比較できるようにするということでは、約分ではなく通分だと思われる。意味としては「通約可能」は「比較可能」ということだろう。
この箇所は英語版では《It is only as expressions of such a unit that they are of the same denomination, and therefore commensurable. 》となっている。

第2段落
・20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、=20着の上着 であろうと、または =x着の上着 であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと、すくない上着に値しようと、このような割合は、どれでもつねに、価値量としてはリンネルも上着も同じ単位の諸表現であり、同じ性質の諸物であるということを含んでいる。
・リンネル=上着というのが等式の基礎である。

★リンネルと上着が質的に等しいというのがまず最初に考察すべき事柄である。

第3段落
・しかし、量的に等置された二つの商品は、同じ役割を演ずるのではない。
・ただリンネルの価値だけが表現される。
・では、どのようにしてか?
・リンネルが自分の「等価物」または自分と「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関係によって、である。
・この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、認められる。
・なぜならば、このような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである。
・他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。
・すなわち独立な表現を与えられる。
・なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係することができるからである。
・たとえば、酪酸は蟻酸プロピルとは違った物体である。
・とはいえ、両方とも同じ化学的実体――炭素(C)と水素(H)と酸素(O)とから成っており、しかも同じ百分比組成、すなわちC4H8O2をもっている。
・いま、かりに酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では第一に蟻酸プロピルはただC4H8O2の存在形態として認められているだけであろう。
・つまり、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、酪酸の化学的実体がその物体形態とは区別されて表現されていることになるであろう。

●「たとえとしての酪酸と蟻酸プロピルについての話は分かりにくい」との発言がありました。

■ 【酪酸】ブタノールの酸化によって得られる不快な酸敗臭をもつ油状の液体。化学式 C3H7COOH バターなどの乳脂肪中にグリセリン―エステルとして含まれる。酪酸菌による糖類の酪酸発酵によっても生成する。香料の合成原料などに用いる。

■蟻酸プロピルの化学式は HCOOC3H7

■【化学式】物質の化学的組成と結合の様子を元素記号・数字などを用いて表す式。分子式・組成式・実験式・示性式・構造式などの総称。

★たとえにリンネル=上着を当てはめてみると次のようになるだろう。
 リンネルは上着とは違った使用価値である。とはいえ、両方ともその生産に一定の労働力が支出されたという点では同じである。どちらにも、同じ社会的実体――抽象的・人間的労働が対象化されている。いま、かりにリンネルに上着が等置されるとすれば、この関係の中では第一に上着はただ価値の存在形態として認められているだけであろう。つまり、上着がリンネルに等置されることによって、リンネルの社会的実体がその物体形態とは区別されて(上着によって)表現されていることになるであろう。

第4段落
・われわれが、価値としては商品は人間労働の単なる凝固である、と言うならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが、商品にその現物形態とは違った価値形態を与えはしない。
・一商品の他の一商品にたいする価値関係のなかではそうではない。
・ここでは、その商品の価値性格が、他の一商品にたいするそれ自身の関係によって現れてくるのである。

●「価値抽象となにか」という疑問が出され、「1節で行われたように価値がなんであるをとらえた概念、分析者の認識のことではないか」という発言がありました。またマルクスコレクション版では「価値抽象体」、フランス語版では「価値という抽象概念」となっていることが紹介さました。

★《その現物形態とは違った価値形態》とは、ここでの例に従えば商品リンネルの現物形態とは違った価値形態とは、上着のことである。

★《他の一商品にたいするそれ自身の関係》とは、ここの例でいえば「上着はリンネルに等しい」「上着はリンネルと交換されうる」ということだろう。そして、そのような関係をつくりだすのは、リンネルであって上着ではない。上着は受動的にリンネルによってそうした地位を与えられるのである。

第5段落
・たとえば上着がリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。
・ところで、たしかに、上着をつくる裁縫は、リンネルをつくる織布とは種類の違った具体的労働である。
・しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、還元するのである。
・このような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区別する特徴をもっていないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、いわれているのである。
・ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。
・というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の労働を、実際にそれに共通なものに、人間労働一般に還元するのだからである。

●《このような回り道》とはどういう意味かが問題になりました。「まず裁縫が抽象的・人間的労働であるとし、それと等置されている織布もまた抽象的・人間的労働だということではないか」という意見と「上着がリンネルに等置され、それによってリンネルに含まれている織布が上着に含まれている裁縫に等置されるということではないか」との意見がだされました。

★織布が抽象的・人間的労働であることを表現するために。まず裁縫を抽象的・人間的労働に還元してから、その抽象的・人間的労働としての裁縫と等しいことによって、織布もまた抽象的・人間的労働であることを示しているのではないか。目的地は「織布は抽象的・人間的労働である」ということを示すことだが、「裁縫が織布に等置されることによって、裁縫を抽象的・人間的労働に還元する」という回り道をしているのである。

■《一般に商品の価値というものは、常に、その商品に等しいと置かれる他の商品の使用価値、すなわち物としての形態であらわされる。これは発展して貨幣形態、現にわれわれが見る価格の形態になるわけであるが、そうなると、すべての商品の価値は金の一定量という価値で表されることになる。現にわれわれはすべての商品の価値を金何円という価値でいいあらわしているが、この「円」というのは、貨幣の場合に特有な金の重量の単位名で、もともと貨幣法で金2分を円と名づけたものである。すなわち金何円というのは、分とか匁とかの普通の重量単位名の代わりに、貨幣のばあいにかぎって用いられる円という重量単位名でいいあらわした、金の分量にほかならない。この金の分量によって、商品の価値は--その価値性格と価値とが--現に表示されている。ここに貨幣の謎がある。物としての金の分量が商品の価値をあらわすということ、これはいったいどのようにして可能であるのか。これをマルクスは問題にしたのである。そういうことを問題にした者はかつてなかった。それをマルクスは問題にして見事に解いたのであるが、そのさいに彼はまず、この貨幣での価値の表現、たとえば20エレのリンネル・イコール金2ポンド、あるは金何円というのは、たとえば、20エレのリンネル・イコール1枚の上衣 というような、いわゆる簡単な価値形態の発展したものにほかならぬのであって、価値表現の根本の秘密はこの簡単な価値形態のうちに横たわっているということを看取したのである。そこで彼は、この簡単な価値形態を分析することによって、価値表現の根本の秘密を形成するいわゆる「回り道」を発見したのであるが、それはどういうことかというと、たとえば20エレのリンネル・イコール1枚の上着 というとき、20エレのリンネルの価値は1枚の上衣という形で表現されているのであるが、そういうことが行なわれうるためには、上衣そのものが価値の定在に、いわば価値物になっていなければならぬ。そうでなければ、物としての上衣の分量が価値の大きさをあらわすことはできないはずだからである。ではどのようにして上衣は--その自然形態そのものが--そのまま価値をあらわすものに、すなわち価値物になるのかというと、それはつまり、今の例でいえば、上衣がリンネルに等しいのだとされる、そのことによって今いったような資格が、一つの経済的形態規定性が、上衣に与えられることになる、上衣が一つの社会的生産関係を担わされることになる。上衣をつくる労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的な労働であって、抽象的な労働ではない、上衣をつくるのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労働に等置されることなり、両者の間に共通な、抽象的人間的労働に還元されることになる。と同時に上衣は、こうした抽象的人間的労働の体化物、すなわち価値物を意味するものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で、そういうものとしての上衣の体で、はじめて自分の価値を表現するのである。こう考えてはじめて価値表現の謎は解ける、とマルクスはいうのである。この場合よくよく注意しなければならないことは、20エレのリンネル・イコール1枚の上衣、という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自分は上衣に等しいのだということによって、自分自身で価値の形態になっているのではなくて、上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に--その自然形態がそのまま価値をあらわすものに--しているのだということ、そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマルクスのいわゆる価値表現の回り道なのである。》
(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』6~8頁)


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by shihonron | 2008-09-24 23:30 | 学習会の報告


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