『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ

2007年 04月 22日 ( 1 )


2007年 04月 22日

第55回  4月17日  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段


4月17日(火)に第55回の学習会を行いました。「読む会通信」№243を使って復習をしたあと、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段」の第8段落を輪読、検討しました。
 
●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

「読む会通信」№243についての議論
 議論になったのは、資料として「『資本論』学ぶ会ニュース№46」から引用された「恐慌の二つの可能性」についてでした。
 引用文では、販売と購買の分離による恐慌の可能性を、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」、「支払手段の機能からくる恐慌の抽象的可能性」を「第二の形態」であるとして《興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。》と述べられています。
 これに対して、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのか、「第一の形態」も媒介されないからこそ恐慌として爆発する可能性を持っているのではないかという疑問が出され、「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりました。

★当日の議論では、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりましたが、報告をまとめるために読み直していて、読み間違えがあったと考えるようになりました。

 まず恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」がどんなものであったかを確認しておきましょう。マルクスは第3章第2節流通手段「a 商品の変態」の最後のところで次のように述べています。

《どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。その意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期をなすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的統一をなしていることは、同時にまた、これらの過程の内的対立が外的な対立において運動するということを意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が直接的に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立――この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。
この可能性の現実性への発展は、単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。》(国民文庫202-203頁・原頁127-128)

 マルクスは、商品に内在する矛盾は、「商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」と述べています。この「商品変態における諸対立」とは、簡単に言えば販売と購買の分離、「売りと買いとの対立」です。そして「これらの形態」=「商品変態の諸対立」=「売りと買いとの対立」は、恐慌の可能性を含んでいるというのです。商品に内在する矛盾は交換過程においてはじめて現実的矛盾として現われます。それは、使用価値としての実現と価値としての実現が相互前提の関係にあるということです。この矛盾は、貨幣に媒介されて販売と購買の分離(対立)という発展した運動形態を受け取ります。
 第2節流通手段「a商品の変態」の冒頭で《すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは一般に現実の矛盾が解決される方法である。》(国民文庫188頁・原頁118-119)と述べられていましたが、販売と購買の分離は、交換過程が含んでいる矛盾の運動を可能にし、その限りで解決を与えたといえるのです。しかし、それは矛盾の解消ではありません。だからマルクスは《互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。》と述べているのです。
 出された疑問は、「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのかというものでしたが(そして私もその疑問に賛成しましたが)、引用文は《「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ》たと述べているのであって、「媒介されなければならない矛盾」であるとしているわけではありません。この点では誤読したといえると思います。
 「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾から生まれたが、それ自身は媒介されない矛盾を抱えているといえるのではないでしょうか。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段
第8段落

・次に与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから相殺される諸支払を引き、最後に同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。
・たとえば、農民が彼の穀物を2ポンド・スターリングで売るとすれば、その2ポンド・スターリングは流通手段として役立っている。
・彼はこの2ポンドで、以前に織職が彼に供給したリンネルの代金をその支払期限に支払う。
・同じ2ポンドが今度は支払手段として機能する。
・そこで、織職は1冊の聖書を現金で買う――2ポンドは再び流通手段として機能する――等々。
・それだから、価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とが与えられていても、ある期間たとえば1日に流通する貨幣量と商品量とはもはや一致しないのである。
・もうとっくに流通から引きあげられてしまった商品を代表する貨幣が流通する。
・また他方では、その日その日に契約される支払と、同じその日に期限がくる支払とは、まったく比較できない大きさのものである。

●「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」とは何のことかよく分らないとの発言があり、次回までに考えてくることになりました。

■国民文庫版の「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」は次のように訳されている。
・新日本出版社版「同じ貨幣片がある時は流通手段として、ある時は支払手段として、かわるがわる機能する通流の回数」(新書第1分冊234頁)
・長谷部訳「同じ貨幣片が時には流通手段・時には支払手段としてこもごも機能する流通の回数」(河出書房「世界の大思想18」 119頁)
・フランス語版「実現すべき商品価格の総額に、満期となる支払総額を加え、相殺される支払総額を控除し、最後に、流通手段と支払手段という二重の機能として同じ貨幣片が二度またはそれ以上の頻度にわたる使用を控除したものである。」(法政大学出版会 上巻120頁)
・初版「実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻134-135ページ)
・第2版「実現されるべきもろもろの商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻121ページ)

■『図解社会経済学』(大谷禎之介 桜井書店 117頁)では次のように述べられている。(分数で表記されているものを割り算の式に変えています)
《流通手段および支払手段として流通する貨幣の総量は、最終的には次の式によって規定されることになる。
(実現されるべき商品価格総額)÷(流通手段の流通速度)+(支払われるべき債務総額-相殺される支払総額)÷(支払手段の流通速度)-(流通手段および支払手段の両方の機能で流通する貨幣片の合計額) 》

■『資本論入門』(河上肇 青木文庫 第2分冊 486頁)では次のように述べられている。
《一定の期間内に流通手段および支払手段として必要とされる貨幣の総額は、の期間内に現金をもって売買されるべき諸商品の価格の総和に対し、第一には、その期間中満期となるべき諸支払の総和を加へ、第二には、互いに相殺される諸支払の額を差し引き、次に、これをば流通手段および支払手段としての貨幣の流通速度をもって割り、最後にかくして得たる商から、同一の貨幣片が或る時は流通手段として或る時は支払手段として交互に働くために決済される金額を、差し引いたものに相当する。》

★流通する貨幣の総額を問題にしているのだから、単位は円(貨幣の単位)であるはずなのだから、「回数」ではおかしいと思う。だが、どんな金額なのかは、依然としてよく理解できない。


[PR]

by shihonron | 2007-04-22 23:50 | 学習会の報告