『資本論』を読む会の報告

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2011年 03月 01日

第216回 3月1日 第1章 第3節、第4節

3月1日(火)に第216回の学習会を行いました。
「第3節 第三段階、W’―G’」「第4節 総循環」についてレジュメに基づく報告を受け、第3節の第18段落から最後までと第4節の最初から第3段落までを検討しました。

以下は第3節、第4節の検討した範囲のレジュメです。


    第三節、第三段階、W’―G’

(18)価値の諸部分は、それらが異なる諸物品すなわち具体的な諸物の価値として現われる場合、したがって異なる使用諸形態にある価値として、それ故異なる諸商品体の価値として現われる場合を除けば、価値の諸部分として質的に互いに区別されはしない――このような区別、それは単なる価値の諸部分としての価値の諸部分そのものからは生じない。貨幣においては、諸商品の相違はすべて消滅している。なぜなら、貨幣こそは諸商品のすべてに共通な等価形態であるからである。五〇〇ポンド・スターリングという貨幣総額は、1ポンド・スターリングというまったく同名の諸要素からなっている。この貨幣総額の単純な定在においては、この貨幣総額の由来の媒介が消えてしまって、異なる資本構成部分が生産過程でもっている独自な差異の痕跡がすべて消え失せているのであるから、もはや区別は、四二二ポンド・スターリングの前貸資本に等しい元金(英語ではprincipal)と、七八ポンド・スターリングの超過価値額という、概念的形態▲で存在するにすぎない。G’は、たとえば、一一〇ポンド・スターリング、そのうち一〇〇ポンド・スターリングは元金Gで、一〇ポンド・スターリングは剰余価値Mであるとしよう。一一〇ポンド・スターリングという総額の二つの構成部分のあいだには、絶対的な同質性、すなわち概念的無区別性が支配している。任意の一〇ポンド・スターリングは、それが前貸資本一〇〇ポンド・スターリングの 1/10 であろうと、元金を超える一〇ポンド・スターリングという超過額であろうと、常に一一〇ポンド・スターリングという総額の 1/11 である。それ故、元金と増加額、資本と剰余額は、総額の分数として表わされうる。われわれの例では、 10/11 は元金、言い換えれば資本をなし、 1/11 は剰余額をなす。それ故、実現された資本は、ここで、その過程の終わりに、それの貨幣表現で現われるが、これはまさに資本関係の没概念的表現である。

▲訳者注 ここから以下の論述で、マルクスは、貨幣表現G’(G+g)においては資本関係が没概念的(本質的徴表をとらえている「概念的」にたいし、それをとらえない、表象的、表面的の意)に表現されているとし、概念的無区別性、没概念的区別などについて述べているのであるから、これは「概念的」ではなく「没概念的」の誤記ないし誤読と思われる。

★《資本関係の没概念的表現》とは? 剰余価値(増殖した価値)の源泉が剰余労働にあること、労働力の搾取によって資本家は剰余価値を手にすることができるという本質的なことを表していないということだろうか。

(19)もちろん、このことはW’(=W+w)についても言える。しかし、W’においてはWとwとはやはり同質の同じ商品総量の比率的価値諸部分にすぎないとはいえ、このW’は、自己がその直接の生産物である自己の起源のPをほのめかすが、これに反して、直接に流通から生じてくる形態であるG’においては、Pとの直接の関連は消えうせている。
 
(20)G’がG・・G’という運動の結果を表わす限りにおいてG’のうちに含まれている元金と増加額との没概念的区別は、G’が能動的に貨幣資本として再び機能するやいなや、直ちに消え失せる。貨幣資本の循環は、決してG’では始まり得ず(G’がいまやGとして機能するけれども)、Gで始まるうるだけである。すなわち、決して資本関係の表現としてではなく、資本価値の前貸形態として始まりうるだけである。五〇〇ポンド・スターリングが、あらためて価値増殖するためにあらためて資本として前貸しされれば、もう五〇〇ポンド・スターリングは復帰点ではなく出発点である。四二二ポンド・スターリングの資本に代わって、いまでは五〇〇ポンド・スターリングの資本が、以前よりも多くの貨幣が、より多くの資本価値が、前貸しされるのであるが、しかし二つの構成部分のあいだの関係はなくなり、ちょうど、最初から四二二ポンド・スターリングという金額でなく五〇〇ポンド・スターリングという金額が資本として機能し得たのと同じことである。

★前貸しされる貨幣は、G’ではなくGでしかあり得ず、一定額の貨幣という以上の意味を持たない。そこには、W’におけるWとwの区別によって表されている関係(資本関係)を見て取ることはできない。
 
(21)自己をG’として表わすことは、前貸資本の能動的機能ではない。G’としての自己自身の表示は、むしろW’の機能である。すでに単純な商品流通である(一)W1―G、(二)G―W2において、Gは第二の行為G―W2においてはじめて能動的に機能する。Gとしての自己表示は、第一の行為――この行為によってGははじめてW1の転化形態として登場する――の結果であるにすぎない。G’に含まれている資本関係、すなわち、資本価値としてのG’の一部分がその価値増分としての他の部分に対する関連は、循環G・・G’の絶え間ない反復に際して、G’が資本流通と剰余価値流通との二つの部分に分裂する限りでは、したがって両部分が単に量的にのみでなく質的にも異なる機能をはたし、Gがgとは別な機能を果たす限りでは、確かに機能的意義を獲得する。しかしそれ自体として考察すれば、G・・G’という形態は、資本家の消費を含むのではなく、明白に自己増殖と蓄積――なによりもまず後者が絶えず新たに前貸しされる貨幣資本の周期的増大に自己を表現する限りにおいて――とを含むにすぎない。

★貨幣として資本家の手に入った剰余価値が資本家の消費に用いられれば、再び資本として前貸しされる貨幣と異なる機能を果たし、gとGの機能の区別を語ることができる。しかしG・・G’という形態は
資本家の消費を含んでいない。G’で表現されたある貨幣額が資本として前貸しされることを含んでいるだけである。
 
(22)G’=G+gは、資本の没概念的形態であるとはいえ、同時に、まず、実現された形態にある貨幣資本であり、貨幣を生み出した資本としての貨幣資本である。ここでは、しかし、第一段階G―W<A Pmにおける貨幣資本の機能とは区別されなければならない。Gはこの第一段階では貨幣として流通する。このGが貨幣資本として機能するのは、それがその貨幣状態においてのみ貨幣機能を果たすことができ、諸商品としてそれに相対するPの諸要素に、AおよびPmに転換できるからである。この流通行為では、それは貨幣としてのみ機能する。しかし、この行為は、過程進行中の資本価値の第一段階であるから、同時に、購買される商品AおよびPmの独自な使用形態のおかげで、貨幣資本の機能なのである。これに反して、資本価値とGとそれによって生み出された剰余価値gとから構成されるG’は、増殖された資本価値を、資本の総循環過程の目的および結果を、この過程の機能を、表わす。G’がこの結果を貨幣形態で、実現された貨幣資本として、表わすということは、G’が資本の貨幣形態であり貨幣資本であるということから生じるのではなく、逆に、それが貨幣資本、貨幣形態にある資本であること、資本がこの形態で過程を開始したこと、貨幣形態で前貸しされていること、から生じる。上述したように、貨幣形態への再転化は、商品資本W’の機能であって、貨幣資本の機能ではない。しかし、G’とGとの考察について言えば、この差額(g)は、Wの増分wの貨幣形態に他ならない。G’=G+gであるのは、W’=W+wであったからに他ならない。すなわち、この差額、ならびに資本価値とそれによって生み出された剰余価値との関係は、この両者がG’に――すなわち、そこでは両価値部分が自立して互いに相対し合い、それ故また自立的な相互に異なる諸機能に使用されうる貨幣額に――転化される以前に、W’において現存しかつ表現されている。
 
(23)G’はW’の実現の結果に他ならない。両者、W’もG’も、増殖された資本価値の異なる諸形態――商品形態と貨幣形態に他ならないのであり、増殖された資本価値であることは、両者に共通である。両者とも実現された資本である。なぜなら、ここでは資本価値そのものが、それとは異なる、それによって得られた果実としての剰余価値と一緒に存在するからである――とはいえ、この関係は、ある貨幣額またはある商品価値の二部分の関係という没概念的形態で表わされているにすぎないが。しかし、資本によって生み出された剰余価値との関連および区別における資本の表現としては、すなわち増殖された価値の表現としては、G’とW’とは同じものであり、また同じものを――ただ異なる形態で――表わす。それら〔G’とW’〕は、貨幣資本および商品資本として区別されるのではなく、貨幣および商品として区別される。それらが増殖された価値、すなわち、資本として確認された資本を表わす限りでは、それらは、生産資本の機能の結果を、資本価値が価値を生むという唯一の機能の結果を、表わすにすぎない。それらに共通なものは、それら両者が、貨幣資本および商品資本という二つの、資本の存在様式であるということである。▲一方は貨幣形態にある資本であり、他方は商品形態にある資本である。それ故、それらを区別する独自的機能は、貨幣機能と商品機能との区別以外のなにものでもあり得ない。商品資本は、資本主義的生産過程の直接的生産物として、このようなそれの起源を思い出させるのであり、それ故、その形態において貨幣資本よりもより合理的で没概念的ではなく、貨幣資本においては――およそ貨幣においては商品のいっさいの特殊的使用形態が消え失せているのと同じように――資本主義的生産過程のあらゆる痕跡は消滅してしまっている。それ故、G’そのものが商品資本として機能する場合にのみ、すなわちG’が生産過程の直接的生産物であってこの生産物の転化形態ではない場合にのみ、G’の特殊な形態は消え失せる――すなわち、貨幣材料そのものの生産の場合がそれである。たとえば金生産については、定式はG―W<A Pm・・P・・G’(G+g)であろう。ここではG’が商品生産物の役をつとめる。なぜなら、Pは、金の生産諸要素のために最初のGすなわち貨幣資本に前貸しされたよりも多くの金を供給するからである。したがって、この場合には、G・・G’(G+g)という表現――ここではある貨幣額の一部分が同じ貨幣額の他の部分の生みの母として現われる――の不合理さが消え失せる。

▲訳者注 どの版もすべて、「それら」と「貨幣資本および商品資本」と同格に解しているが、文脈から見て誤りであると思われる。かお、フランス語版、イタリア語、スペイン語、朝鮮語各版の訳注または追補によれば、マルクスの草稿では、このあとに、次の文章がある。「一方と他方との違いは、資本の異なる実存形式にある」

 第四節 総循環

(1)流通過程はその第一局面G―W<A Pmの終了後P〔ここでは「生産過程」の意〕によって中断され、このPでは市場で購買された商品AおよびPmが今度は生産資本の素材的および価値的構成部分として消費される。この消費の産物は、素材的および価値的に変化した新しい一商品W’である。中断された流通過程G―Wは、W―Gによって補足されなければならない。しかし、この第二の終結の流通部面の担い手としては、W’、すなわち、第一のWとは素材的および価値的に異なる商品が、現われる。したがって、流通系列は、(一)G―W1、(二)W2’―G’として現われ、ここでは、第二局面において、Pの機能によって引き起こされた中断中に、すなわち生産資本Pの定在諸形態であるWの諸要素からのW’の生産中に、第一の商品W1はより高い価値と異なる使用形態とをもつ他の商品W2’に置き換えられている。これに反して、資本がわれわれの前に立ち現われた最初の現象形態(第一部、第四章、第一節〔本訳書、第一巻、二四九―二六五ページ〕)G―W―G’(これは(一)G―W1と(二)W1―G’とに分解される)は、同じ商品を二度示している。第一局面で貨幣が自己をそれに転化する商品も、第二局面で自己をより多くの貨幣に再転化する商品も、二回とも同じ商品である。この本質的相違にもかかわらず、両方の流通〔(一)G―W1と(二)W2’―G’の流通、および(一)G―W1と(二)W1―G’の流通〕に共通な点は、その第一局面では貨幣が商品に転化され、第二局面では商品が貨幣に転化されること、すなわち、第一局面で支出された貨幣が第二局面で再び還流することである。両方の流通に共通な点は、一方では、このように貨幣がその出発点に還流すること、しかしまた他方では、還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過することである。その限りでは、G―W・・W’―G’も、一般的定式G―W―G’のうちに含まれて現われる。

★なぜ《中断された流通過程G―Wは、W―Gによって補足されなければならない》のだろうか。ここでは、貨幣資本の循環が取り上げられているからか?
 
(2)さらにここで明らかになることは、流通に属する両方の変態G―WおよびW’―G’においては、その都度同じ大きさの、同時的に現存する価値存在が相対していて、互いに置き換えられることである。価値変化は、もっぱら変態Pに、生産過程に、属するのであり、それ故、生産過程は、流通の単に形態上の諸変態に対して、資本の実質的な変態として現われる。

★第3節第9段落では《現実的変態》という言葉が用いられていた。
 
(3)次に、総運動G―W・・P・・W’―G’またはそれの明細な形態G―W<A Pm・・P・・W’(W+w)―G’(G+g)を考察しよう。ここでは資本は、連関し合い互いに制約し合う諸転化の一系列、すなわち、一連の諸変態――これらの変態は、一つの総過程のいくつかの一連の諸局面または諸段階を形成する――を経過する一つの価値として、現われる。これら諸局面のうち、二つは流通部面に属し、一つは生産部面に属する。これらの局面のそれぞれにおいて資本価値は異なる姿態にあり、この姿態に一つの異なる独特な機能が照応する。この運動の内部において、前貸価値は、自らを維持するだけでなく、増大し、その大きさを増す。最後に終結段階では、前貸価値は、総過程のはじめに現われたのと同じ形態に復帰する。それ故、この総過程は循環過程である。

■《これらの局面のそれぞれにおいて資本価値は異なる姿態にあり、この姿態に一つの異なる独特な機能が照応する。》は、岡崎訳では《これらの諸段階のそれぞれで資本価値は違った姿をしており、それぞれの姿に別々の特殊な機能が対応している。》(国民文庫第四分冊95頁・原頁56)となっている。
 
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by shihonron | 2011-03-01 23:30
2007年 01月 21日

第44回 1月16日  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

1月16日(火)に第44回の学習会を行いました。「読む会通信」№233を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第13段落から第20段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態


第13段落
・これまでのところでは、われわれの知っている人間の経済関係は、商品所持者たちの関係の他にはない。
・それはただ、自分自身の労働生産物を他人のものにすることによってのみ、他人の労働生産物を自分のものにするという関係である。
・それゆえ、ある商品所持者に他の人が貨幣所持者として相対することができるのは、ただ、彼の労働生産物が生来貨幣形態をもっており、したがって金やその他の貨幣材料であるからか、または、彼自身の商品がすでに脱皮してその元来の使用価値を捨てているからである。
・言うまでもなく、貨幣として機能するためには、金は、どこかの点で商品市場に入らなければならない。
・この点は金の生産源にあるが、そこでは金は、直接的労働生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換される。
・しかし、この瞬間から、その金はいつでも実現された商品価格を表している。
・金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W―Gの、産物である。
・金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すべての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの使用姿態の想像された反対物にし、自分たちの価値姿態にしたからである。
・金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである。
・その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またはそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を捨て去って。無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化する。
・それだから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからないのである。
・その貨幣形態にあっては、どれもこれもまったく同じに見える。
・だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。
・といっても糞尿は貨幣ではないが。
・いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化した姿であると仮定しよう。
・リンネルの売り、W―Gに、同時に、その買い、G―Wである。
・しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。
。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始ったものである。
・W―G(リンネル―貨幣)、この、W―G―W(リンネル―貨幣―聖書)の第一の段階は、同時にG―W(貨幣―リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W―G―W(小麦―貨幣―リンネル)の最終の段階である。
・一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣から商品へのその再転化である。

●「(金の生産源では)金は、直接的労働生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換される。」というのは、生産された金は、価格をもっていないということではないかという意見が出されました。

■《金が貨幣として機能するためには、それはどこかの点で商品市場にはいらなければならないが、その地点は言うまでもなく金の生産源である。そこでは、金は貨幣としてでなく、たんなる労働生産物として、同じ価値の他の労働生産物と交換される。だから金生産者から見れば、この取引は直接的な生産物交換なのであるが、しかし、金と引き換えに金生産者に商品を譲渡する商品所持者の側から見れば、この取引は、彼の商品の価格を実現する販売である。この取引は、販売だけがあってそれに対応する購買のない独特な取引なのである。
 ここで金は、社会的必要労働時間によって規定された或る大きさの価値をもった商品として登場する。そして、この交換を経るやいなや、金はすでに実現された商品価格なのであって、これ以後はつねに、実現された商品価格として商品市場にあるのである。》
(大谷禎之介「貨幣の機能」265頁 「経済志林」第61巻第4号 1994年)

■【参照】《先に指摘したように、一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。金が貨幣であり、したがって他のすべての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、たとえば一〇ポンドの金の価値がどれだけであるかはわからない。どの商品もそうであるように、貨幣〔*〕はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、他の諸商品によってのみ、表現することができる。貨幣〔*〕自身の価値は、その生産のために必要とされる労働時間によって規定され、等量の労働時間が凝固した、他の各商品の量で表現される(48)。貨幣〔*〕の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引の中で行われる。それが貨幣として流通に入る時には、その価値はすでに与えられている。すでに一七世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある(49)。》(電子テキスト版 原頁・106-107)

●蛹化とは、さなぎになることだが、幼虫(孵化して)――さなぎ(蛹化して)――蝶(羽化して)といった変態(メタモルフォーゼ)を念頭に置いて、さなぎが蝶になるように、貨幣が自分が求める商品に転化すこと、貨幣Gは、W―G―Wという商品変態の一段階であることをこうした言葉で表現しているのではないかとの意見が出されました。

■【参照】《商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品であるリンネルに、一般的等価という性格を押しつける。リンネル自身の現物形態がこの商品世界の共通な価値姿態であり、したがって、リンネルは、他のすべての商品と直接に交換されうるものである。リンネルの物体形態が、いっさいの人間労働の目に見える化身、一般的社会的蛹化(ヨウカ)、として通用する。リンネルを生産する機織りという私的労働が、同時に、一般的社会的形態で、他のすべての労働との同等性の形態で存在する。一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に、順々に等置し、そうすることによって、機織りを人間労働一般の一般的現象形態にする。こうして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象される労働として消極的に表されているだけではない。この労働自身の積極的な性質がはっきりと現れてくる。この労働は、いっさいの現実的労働が人間労働というそれらに共通な性格に、人間労働力の支出に、還元されたものである。》(電子テキスト版・原頁81)

●「貨幣は糞尿であるかもしれない」とは、ある貨幣は、商品・糞尿の転化した姿、商品・糞尿の価格を実現した貨幣であるかもしれないという意味ではないかという意見が出されました。

●売りと買いの絡み合いは、図示するとずつと分りやすい。(ウィスキーについては、後述されていることを先取りして図示)

(A)   小麦――貨幣――リンネル


(B)        リンネル――貨幣――聖書


(C)                 聖書――貨幣―ウィスキー

          
第14段落
・G―W、商品の第二の、または最終の変態、買い。――貨幣は、他のいっさいの商品の離脱した姿、またはそれらの一般的な譲渡の産物だから、絶対的に譲渡されうる商品である。
・貨幣はすべての価格を逆の方向から読むのであり、こうして、貨幣自身が商品になるための献身的な材料としてのすべての商品体に、自分の姿を映しているのである。
・同時に、諸商品の価格は、諸商品が貨幣に投げかけるこの愛のまなざしは、貨幣の転化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示している。
・商品は、貨幣になれば消えてなくなるのだから、貨幣を見ても、どうしてそれがその所持者の手にはいったのか、または、なにがそれに転化したのかは、わからない。
・その出所がなんであろうと、それは臭くはないのである。
・それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである。

●「絶対的に譲渡されうる商品」であるとは、貨幣があらゆる他の商品に対して直接的交換可能性をもっているということだろう。

●「貨幣はすべての価格を逆の方向から読む」とは、逆から読む価格表は、貨幣が転化しうる商品のリストになっているということだろう。

■【参照】《金による一商品の価値表現・・x量の商品A=y量の貨幣商品・・は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。鉄の価値を社会的に通用する仕方で表すためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような単一の等式で今や十分である。この等式は、他の諸商品の価値等式と隊伍を整えて行進する必要はもはやない。なぜなら、等価物商品である金がすでに貨幣の性格をおびているからである。それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、今やふたたび、その最初の、単純なまたは個別的な相対的価値形態の姿態をとる。他面、展開された相対的価値表現、または相対的価値諸表現の無限の列が、貨幣商品の独特な相対的価値形態になる。しかし、この列は、今やすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表の値段表示を後ろから読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表されていることがわかる。これに反して、貨幣は何の価格ももたない。他の諸商品のこうした統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣はそれ自身の等価としてのそれ自身に関係させられなければならないであろう。》(電子テキスト版 原頁110)

●「愛のまなざし」は、長谷部文雄訳では「秋波」(美人のすずしい目もと。また、女性が異性の気をひくためにする色っぽい目つき。流し目。いろ目。ウィンク。)となっていることが紹介されました。

●「貨幣の転化能力の限界」とはどういう意味かをめぐって議論がありました。貨幣は、どんな種類の商品にでも転化しうる(質的側面・可能性)しかし、ある量の貨幣がなければ実際に商品に転化することはできない(量的側面・限界)。リンゴ1個=100円、桃1個=200円であれば、100円の所持者は、自分の貨幣を1個のリンゴに転化することができるが、桃に転化することはできないということではないかという意見が出されました。

第15段落・G―W、買いは、同時に、売り、W―Gである。
・したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態である。
・われわれのリンネル織職にとっては、彼の商品の生涯は、彼が2ポンド・スターリングを再転化させた聖書で終わる。
・しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた2ポンド・スターリングをウィスキーに替える。
・G―W、すなわちW―G―W(リンネル―貨幣―聖書)の最終変態は、同時にW―G、すなわちW―G―W(聖書―貨幣―ウィスキー)の第一段階である。
・商品生産者はある一つの方面に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのであるが他方、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち貨幣額を絶えず多数の買いに分散せざるをえない。
・したがって、一つの売りは、いろいろな商品の多くの買いに分かれる。
・こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのである。

第16段落・そこで今度は、ある商品、たとえばリンネルの総変態を考察するならば、まず第一に目につくのは、それが、互いに補いあう二つの反対の運動、W―GとG―Wとから成っているということである。
・商品所持者の二つの反対の社会的過程で行なわれ、商品所持者の二つの反対の経済的役割に反映する。
・売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として彼は買い手になる。
・しかし、商品のどちらの変態でも、商品の両形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかし、ただ反対の極に存在するように、同じ商品所持者に対して、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対している。
・同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのである。
・だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である。

第17段落・一商品の総変態は、その単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。
・まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。
・こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。
・商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一般的等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちらの側で他の商品体のうちに存在する。
・第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。
・こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。

●「四つの極と三人の登場人物」とはなんのことかとの疑問が出されました。

   
(A 小麦――貨幣――リンネル


(B)      リンネル――貨幣――聖書
     

(C)               聖書――貨幣―ウィスキー
   

三人の登場人物とは、小麦の売り手=リンネルの買い手(A)とリンネルの売り手=聖書の買い手(B)と聖書の売り手=ウィスキーの買い手(C)。
四つの極とは、太字の箇所のこと。

■《一商品の変態W―G―Wには、四つの極があり、三人の人物が登場する。すなわち、まず、商品と、それの価値姿態として他人のふところのなかにある貨幣とが、相対する二つの極をなし、商品所持者と貨幣所持者が相対する。次に、商品が貨幣に転化されれば、この貨幣と、それの使用姿態として他人のもとにある商品とが、相対する二つの極をなし、貨幣所持者と商品所持者とが相対する。第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、第二幕では彼に対して、第三の商品所持者が売り手として相対するのである。》(大谷禎之介「貨幣の機能」207頁)

★「向こう側」とは、商品の売り手(B)にとっての向こう側=貨幣所持者(A)の側のこと、「こちら側」は商品の売り手の側(C)と理解できる。一商品リンネルの総変態、リンネル―貨幣―聖書を考えるなら、リンネルの売り手(B)、それに相対する貨幣所持者(A)が「向こう側」、聖書の売り手(C)が「こちら側」ということではないだろうか。

第18段落・商品変態の二つの逆の運動は、一つの循環をしている。
・すなわち、商品形態、商品形態の脱ぎ捨て、商品形態への復帰。
・もちろん、商品そのものがここでは対立的に規定されているのである。
・それは、その所持者にとって、出発点では、非使用価値であり、終点では使用価値である。
・こうして、貨幣は、まず、商品が転化する堅い価値結晶として現われるが、後には商品の単なる等価形態として融けてなくなるのである。

■【循環】(1)閉じた回路を繰り返し通ること。ひとめぐりすること。
     「市内を―するバス」「血液の―」
     (2)一連の変化の過程を繰り返すこと。
     「水の―」「大気の―」    (大辞林 第2版)

●貨幣が「融けてなくなる」のは、商品所有者の手の中での話であることに注意しておこうとの意見が出されました。

第19段落
・ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。
・同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するとともに、他の一商品(小麦)の総変態を閉じる。
・その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。
・これに反して、生けとし生けるものの道をたどってこの商品そのものが化していく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。
・こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。
・この総過程は商品流通として現われる。

第20段落
・商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換と違っている。
・事態の経過をほんのちょっとだけ振り返ってみよう。
・リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。
・しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。
・冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。
・Bの商品がAの商品に替わるのではあるが、しかしAとBとが交換するのではない。
・実際には、AとBとが彼らどおしのあいだで互いに買い合うということもおこりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。
・商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。
・他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。
・織職がリンネルを売ることができるのは、農民が小麦をすでに売っているからこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸留酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水をすでに売っているからこそである、等々。

●商品流通と直接的生産物交換の形態的な違いとは何かという疑問が出されました。商品交換では、登場人物は三人であり、直接的生産物交換では二人だけである。また、直接的生産物交換では、貨幣は出てこない。簡単に言えば、商品交換はW―G―Wであり、直接的生産物交換はW―Wということだろうという結論になりました。

●「冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手」の「冷たいもの」は何かという疑問が出され、リンネルは亜麻の繊維を原料とする糸・織物のことで、涼感があり夏物衣料などに広く用いられることから、リンネルのことだと説明されました。

■「永遠の命の水」とは聖書のこと。《イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしの与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の水がわき出ます。」》(ヨハネの福音書4章13,14節)



     
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by shihonron | 2007-01-21 15:30