『資本論』を読む会の報告

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カテゴリ:学習会資料( 3 )


2010年 12月 07日

第24章 第3節 資料

【エンクロージャー】開放耕地下の耕地と共同地を垣根などで囲い込み,共同用益権を排除すること。囲込み運動とも。牧羊と農業改良を目的とし,その典型は英国で第1次(15世紀末―17世紀半ば)と第2次(18世紀半ば―19世紀初め)の2度行われ,農業の資本主義化と農民の賃労働者化とを促進した。(マイペディアより)

【開放耕地制度】中世の西欧諸国で広く行われていた農地制度で,典型的には三圃(さんぽ)制のもとでみられた。この農法では農民の全保有地が開放された状態に保たれ,冬穀・夏穀・休耕の輪作が共同で行われた。この制度によって農民は村中の農地利用に参加でき,自然災害などによる被害も分散され小さくすることができた。中世末期以降のエンクロージャーの進行とともに消滅。(マイペディアより)

【三圃制】中世ヨーロッパで広く行われた農法。有畜で,休閑地を含む輪作の一形式。村の全耕地が三つの耕圃に分割され,一つは休閑地とされ,他の2耕圃にはそれぞれ春播き(大麦,エンバクなど)あるいは秋播き(小麦,ライムギなど)の穀物などが植え付けられ,これらが順次繰り返された。個々の農民には犂耕(りこう)に適するよう細長い形にした小区画が割り当てられたが,境目には仕切が設けられなかったので開放耕地制度と呼ばれている。別に採草地,放牧地,森林などが耕地を囲んで共有地としてあり,農耕・休閑などの過程は領主制や村落共同体により強制的に統制された。近世に入って,休閑地にもマメ科の牧草,根菜などを栽培するようになり,これは改良式三圃農法と呼ばれている。三圃式農法はそれ以前の二圃式農法に比べて土地の利用度が高く,休閑,家畜の糞(ふん)などによる土地肥沃度の保持,効率のよい犂耕の導入などから数百年にわたって相対的に高い農業生産力を保証した。中世末期以降,農業技術の改良や村落共同体の弱体化とともに衰退し,最終的には農業革命によって消滅した。(マイペディアより)

【分割地農民】封建的土地所有の解体により,自分の土地(分割地)・労働・資本で小経営を行う独立自営農民。近代的土地所有への過渡的形態で,英国のヨーマン,15―16世紀フランス・西部ドイツの農民などが典型。資本主義発生の基盤だが,エンクロージャーや原始的蓄積の過程で次第に没落し,これへの不安・抵抗が分割地農民の保守・反動性の根源をなす。(マイペディアより)

【封建的土地所有】封建領主が経済外的強制により農民を土地に縛りつけ,剰余労働を封建地代として搾取する土地所有形態。農民は土地の保有・耕作権をもつだけで,領主の身分的・人格的支配を受ける。生産力の発展や地代の転化(労働→現物→貨幣地代)につれて農民の人格的・経済的独立性が強まり,やがて農民的土地所有や独立自営農民(ヨーマン)が形成され,市民革命によって封建的土地所有は解体する。(マイペディアより)

【経済外的強制】本来,マルクスが封建的搾取関係を特徴づけた概念であり,領主・地主が直接生産者としての農民から封建地代を徴収するために発動する,経済外的な直接の強制力(身分的従属,土地緊縛,領主裁判権など)をさす。現在では,資本の運動法則の直接の結果ではない物理的強制のほか,心理的強制も含めて広く用いる。(マイペディアより)

【封建的生産様式】封建領主が土地を所有し,土地を貸与された農民が封建地代を納める生産様式。農民は基本的生産手段たる土地は借りたが,農具等生産手段をもっていたので,農民を土地に緊縛するため,武力,領主裁判権等の経済外的強制が用いられた。都市に手工業者と商人も発生,商品経済の発展で,この生産様式は崩壊し,資本主義に移行。
(マイペディアより)

【封建制度】古代社会と近代資本主義社会の間に位置する政治・社会体制。英語で feudalism。概念的また地域的にやや異なる内包をもつ。(1)ドイツの学者のいわゆるレーン制 Lehnswesen。(2)直接的な経済外的強制に基づく領主・農民間の支配隷属関係(農奴制)。(3)社会類型の一つとして,レーン制・農奴制を含めてイデオロギーや生活様式などこの時代のすべての現象をさす。とくに〈封建社会〉と呼んで区別することもある。(4)もっとも広義には,身分的特権をもつ階層が存在する社会の制度すべてをさす。⇒荘園
〔西洋〕 一般的には中世ヨーロッパの封建貴族(独立権力をもつ)間に成立した政治体制(レーン制)をさす。主従誓約と封土の授受を媒介とする,貴族個人間の双務的な主従関係に基づく。家臣は主君に軍事奉仕,出仕義務(特に封建法廷での陪席),緊急時の金銭的援助を義務づけられ,主君は家臣に軍事的援助や公的裁判所での弁護を義務づけられる。両者の間柄は封建法によって規制され,主君の誠実義務違反に対しては家臣の反抗権が発動される。制度的には8―9世紀に北フランスに成立,12―13世紀が最盛期。商品経済の発展,広域経済圏の出現とその規制に当たる王権の伸張とともに崩壊した。
〔中国〕 周(前11世紀成立)代に一族・功臣などを各地に封じて諸侯とし,身分と土地とを与えた制度。諸侯は貢納・兵役の義務を有し,その下に卿・大夫・士の家臣がそれぞれ世襲の身分・土地を与えられて属していた。氏族的・血縁的であることが西洋の封建制と異なる点で,それを強化・保持するために宗法制が行われた。
〔日本〕 上記の西洋および中国の概念の適用いかんで理解が異なるが,一般に土地恩給制と従士制を軸とする分権的政治形態を指し,鎌倉時代以降の武家社会に適用される。なお,マルクス主義の史的唯物論に立脚する観点もあって一様でない。
(マイペディアより)

【中世封建制度(フューダリズム)】
 フューダリズム(Feudalism)とは歴史学において中世ヨーロッパ社会特有の支配形態を指した用語であり、「封建制」と訳出される。土地を媒介とした国王・領主・家臣の間の緩やかな主従関係により形成され、近世以降の中央集権制を基盤とした絶対王政の中で消失した。
 マルクス主義歴史学(唯物史観)においては、生産力と生産関係の矛盾を基盤として普遍的な歴史法則を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みた。この場合、おおよそ古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示す。
・ヨーロッパ  騎士と聖職者
 古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。
 更に「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世社会が(今日的な視点で見れば)極めて非中央集権的な社会となる要因となった。
 西欧中世においては、特にその初期においてノルマン人、イスラーム教徒、マジャール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった(ただし、実際には各農村ごとにかなり相違があったと考えられている上、多くの農村では農奴だけでなく自由農民も相当数存在していた)。

・日本
 ヨーロッパでのフューダリズム(封建制)が、外民族の移動・侵入などと強く結び付いて形成されたのに比し、日本の封建制はむしろ武士による統治などの国内的要因が主となって形成された(天皇やその藩屏たる貴族は武士の権威を『根拠付ける』存在である)。西欧のフューダリズムで複数の契約関係や、短期間での契約破棄・変更がみられたのと同様、日本でも実際のところ戦国時代まで主従関係は後述の「御恩と奉公」の言葉で表現されるように一部双務的・流動的なものであり、「二君にまみえず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」という語に示されるような主君への強い忠誠が求められたのは、江戸時代に入ってからである。
 日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。鎌倉幕府の成立によって「御恩と奉公」が既に広義の封建制として成立したとする説で、第2次世界大戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令国家の解体から各地に形成された在地領主の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として鎌倉幕府が形成された(鎌倉幕府の力は、日本全国に及んでいた訳ではない)とみなす。従って承平天慶の乱(承平5年、935年)がその初期の現われとみなされる。
 日本中世史と日本近世史の間で、1953年から1960年代にかけて日本封建制成立論争が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った安良城盛昭は、太閤検地実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=古代)とし、太閤検地を画期として成立する幕藩体制を日本の封建制と規定した。しかし、激しい反論を生み、院政期以降を成立期とする説(戸田芳実など)、南北朝内乱期を成立期とする説(永原慶二など)が提起された。歴史学の関心が拡散する中でこの論争は明確な解答を得ぬまま終息した。
 日本の領主の封建制は「税の徴収権」に過ぎず(参照→職の体系)、つまり西欧に見られるような領地の私有と領民への農奴としての隷属的支配権は存在しなかったので、本当の意味の封建制は存在しなかったとする説もある。 (ウィキペディア)

【荘園】中世ヨーロッパに成立した聖俗所領の農業経営の単位であり同時に領主(独立の権力主体)の農民支配の単位。英国のマナー manor,ドイツのグルントヘルシャフト Grundherrschaft,フランスのセニュリ seigneurie などが典型であるが,その様式や発展・消滅の過程は一様でない。8-9世紀に成立した古典荘園ビリカツィオン Villikationは,領主直営地と農民保有地からなり,前者は土地保有農民や荘園庁内の給養奴隷の賦役によって運営された。ただし穀物栽培の後進地帯やブドウ栽培地帯には,直営地を欠く非古典荘園的所領も多かった。荘園を構成する地所は数ヵ村にわたって散在し,荘園と村落とは空間的に一致しないのが通則であった。農奴を根幹とする荘園農民は各種の賦役・貢租を領主に給付し領主裁判権に服しながら,他方,村仲間団体(のちには村落共同体)の成員として慣習的な仲間団体(共同体)的規制にも服した(地条混在制,耕作強制,共同地用益制限など)。12-13世紀以降,農業生産力の上昇,剰余生産物の商品化につれて,領主直営地は農民に分割貸与されて縮小または解体した。労働地代(賦役)は生産物地代ないし貨幣地代へと推移し,農奴的諸負担も次第に消滅して古典荘園は地代(純粋)荘園に転化した。しかし領主的土地所有形態としての荘園は近代の市民革命まで存続した。(マイペディアより)

【領主制】西欧封建時代に領主が隷属農民の剰余生産物を経済外的強制に基づいて体系的に収取した制度。支配権の性格によって,1.土地領主制(狭義の荘園制),2.裁判領主制(しばしば村落領主制の形をとり,バン領主制とも),3.体僕領主制,の3基本型に大別。収取形態は1は地代,2は裁判貢租,3は人頭税。領民に対する支配形態は,1は土地を媒介にした間接的支配,2は土地とは無関係に裁判権による支配,3は直接的な人身支配。また支配権の及ぶ範囲は1は非一円的な飛地,2は一円的な裁判領域,3は体僕が居住する任意の場所であった。その他にドイツ東部のグーツヘルシャフトなどのように,これらの複合型もあった。(マイペディアより)

【農業革命】 資本主義の成立期に産業革命と並んで行われた農業技術や経営方法の急激な変革で,封建的土地所有から資本主義的土地所有への移行を完了した。典型的には18世紀後半―19世紀中期の英国でみられ,土地囲込み(エンクロージャー)が行われ,新農具・新作物の導入により農業における資本主義制度が確立,多くの独立自営農民(ヨーマン)は没落した。(マイペディアより)

【ヨーマン】英国の独立自営農民。中世末期の封建制の解体期から台頭し,ジェントリーと零細農の中間に位置した中産的生産者層。年収40シリングの自由土地保有者が中心。資本主義の展開にともない地主と労働者に両極分解をとげ,18世紀中葉以降の農業革命により没落した。(マイペディアより)

【治安判事】英国の地方の治安維持を主たる任務とする役人。14世紀中葉に制度的に確立した。専門の法律家ではない地方の名望家であるジェントリー層がこの職に任命されて無給で奉仕にあたったところに特色が見いだされる。治安維持のほかに最高賃金の設定など経済生活に関する統制にもあたり,次第にその職権は増大した。16-17世紀には地方行政の有効な手段として利用された。19世紀になると他の行政機関にその権限を委譲したが,今日なお司法制度の下部機関として機能している。アメリカ合衆国においては,選挙によって選ばれた治安判事が限定された民事・刑事の裁判権を有して,州裁判所の最下級に位置している。 (マイペディアより)

⑦これと類似の法律はフランスにもあって、フランスでは17世紀の中ごろ、パリに浮浪人王国(royaume des truands)が設けられていた。ルイ16世の初期にも(1777年7月13日の王令)、16歳から60歳までの強健な男で生計の資もなく職業にもついていない者は、すべてガレー船に送られることになっていた。同様のものとしては、1537年10月のネーデルラントに対するカール5世の法、1614年3月19日のオランダ諸州および諸都市に関する最初の布告、1649年6月25日の連合州の告示などがある。

【ガレー船】ガレー船(ガレーせん、galley)は、主として人力で進む大型の軍艦。古代に出現し、地形が複雑で風向きの安定しない地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用された。(ウィキペディア)

【トーリー党】(Tory Party)は、かつてのイギリスの政党。現在の「保守党」の前身にあたる。チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」と言ったのが始まりである。(ウィキペディア)

【ホイッグ党】ホイッグ党(またはウィッグ党、Whig Party)は、イギリスの政党。後の自由党および自由民主党の前身にあたる。ホイッグ党の起こりはチャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。因みにWhigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。
(ウィキペディア)

【団結禁止法 】資本主義の初期に労働者(もしくは使用者も含む)の団結行動を禁じ,近代市民社会の自由市場イデオロギーの原理を実現するという名目で,実質的には労働運動を抑圧するため各国で制定された法律の一般的呼称。特に1799年英国で制定の団結禁止法や1791年のフランスのル・シャプリ工法が有名。資本主義経済における労働市場の特性の認識が深まるにつれて,19世紀半ばから20世紀初頭にかけて各国とも廃止された。日本では1900年制定の治安警察法第17条が実質的にこれに当たった。 (マイペディアより)

【マニュファクチュア】工場制手工業と訳す。道具を技術的基礎とし,賃金労働者の分業に基づく協業に立脚した資本制生産の初期形態。単純な協業と大工業の中間形態で,労働と道具の専門化により生産性を高めた。分散生産される部品を1ヵ所に集め組み立てる異種的(分散)マニュファクチュアと,一作業場で工程を分割して仕上げる有機的(集中)マニュファクチュアの2形態がある。マニュファクチュアが資本制生産の支配的形態であった〈本来のマニュファクチュア時代〉(英国では1550年―1760年ころ)にも問屋制家内工業は併存。日本における幕末・維新期が本来のマニュファクチュア時代であったか否かをめぐって〈マニュファクチュア論争〉がある。(マイペディアより)

【恐慌】クライシス crisis またはパニック panic の訳語。資本主義経済では利潤を目的としてますます大量の商品が生産されるが,その経費にあたる賃金はできるだけ低くおさえられるため,生産の増大に対して消費が伴わず,商品の過剰生産が起こり,価格暴落,破産,失業などの景気循環の最悪の危機的局面が生ずる。それが恐慌で,8~12年の周期をもつ。恐慌を切り抜けるため機械設備などの更新が広く行われるが,これら設備の耐久期間が恐慌の周期の基礎をなす。本格的恐慌は1825年英国に始まったが,1929年米国に始まった大恐慌が有名。日本では1890年の最初の恐慌以後,1897年,1900年,1907年,1920年,1927年,1929年に発生。(マイペディアより)

【フランス革命】1789年―1799年にフランスで起きた革命。ブルボン絶対王制を倒して,アンシャン・レジームの封建的社会関係を廃棄。世界史上市民革命の代表的な例とされ,現代フランスの出発点をなすとともに西欧近代史への画期となった。18世紀末ルイ16世の下において,社会的矛盾は一段と激化したが,これに適応しようとして王権の企てたなしくずし的近代化も特権階層の反対により挫折し,危機は一層深刻となった。1789年5月,国王は175年ぶりに全国三部会を召集したが,第三身分はこれを国民議会とするよう要求し,憲法制定会議に切りかえた。前年来の凶作飢饉(ききん)により不穏な状態にあった民衆は7月14日バスティーユを襲撃し革命が始まった。同年8月封建制廃止が宣言され人権宣言が採択されて立憲君主制の形態をとることになったが,1791年国王の逃亡事件をきっかけに立法議会が成立。1792年王権は停止され,同年9月国民公会が成立し,22日共和制が宣言された。1793年1月ルイ16世は処刑され,6月ロベスピエールの率いる山岳派はジャコバン・クラブ,サン・キュロットを背景にジロンド派を追放して独裁的権力を樹立して恐怖政治をしき,封建地代の無償廃棄など徹底的な変革を行った。この間に国民軍はプロイセン・オーストリアの武力干渉を撃破したが,1794年7月テルミドール9日によりロベスピエールは失脚。以後1795年の総裁政府を経て1799年11月ブリュメール18日のクーデタによりナポレオンが執政政府をつくるに至って,フランス革命は終結をみた。
(マイペディアより)
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by shihonron | 2010-12-07 23:25 | 学習会資料
2009年 07月 28日

学習会資料 価値尺度機能と価格の度量標準について その1

価値尺度機能と価格の度量標準について   2009.07.28   NK

 7月7日行われた第152回の学習会での報告のなかで、IGさんが「価値尺度機能は質であり、価格の度量標準は量だ」と述べられたのに対して、NKは「価値尺度機能には質的側面だけではなく量的側面もある」と発言しました。7月14日の第153回の学習会でも議論があり文章化して再度検討することとなりました。

1.何が問題か?
 「価値尺度は質である」ということの意味は何か、価値尺度機能の量的側面の存在を認めるのかどうかが問題であるように思われる。また、この問題を解きほぐすことで、価値尺度機能と価格の度量標準という機能の関連を明らかにすることもできるだろう。

2.価値尺度機能の質的側面と量的側面
 価値尺度機能について第3章第1節では「金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、また諸商品の価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較可能な大きさとして表すことにある。こうして金は諸価値の一般的尺度として機能し、この機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」(第2段落)「商品価値はいろいろな大きさの想像された金量に転化されているのであり、つまり、商品体が種々雑多であるにもかかわらず、同名の量に、すなわち金量に転化されているのであり、このようないろいろな金量として、諸商品の価値は比較され、計られるのであって、技術上、これらの度量単位としての或る固定された金量に関係させる必要が大きくなってくる。」(第7段落)「価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量標準であるのは、固定した金属重量としてである。それは、価値尺度としては、種々雑多な商品の価値を価格に、すなわち想像された金量に転化させるのに役だち、価格の度量標準としては、この金量を計る。価値の尺度では諸商品が価値として計られるのであるが、これにたいして、価格の度量標準は、いろいろな金量をある一つの金量で計るのであって、ある金量の価値を他の金量の重量で計るのではない。」(第8段落)と述べている。
 以上の引用から明らかなように、価値尺度機能とは、諸商品の価値をいろいろな大きさの想像された金量に転化することである。金(貨幣)は、諸商品が価値であること(質的側面)と同時にある量の価値であること(量的側面)をも表現する。

3.価値尺度の質
 『貨幣論』で久留間鮫造氏は宇野弘蔵氏の見解を批判する中で「価値尺度の質」の理解が重要であることを強調している。大切だと思われる箇所をいくつか紹介する。
 「商品の価格は結局金いくらという価格の形態で表示されることになる、現にそうなっているわけですが、これについては二つの過程を区別して考える必要があると思うのです。第一の過程は、金が商品世界の共同の行為によって、一般的等価物――貨幣――にされる過程です。このかぎりでは、金は何らの機能もしていない、もっぱら商品の方がはたらきかけて、金に貨幣という形態規定を与えているわけです。だが、これが過程の全部なのではない。商品はまずこのようにして、金に貨幣という形態規定を与えた上で、こんどは、この貨幣としての金で、それぞれに自分の価値を表示するわけです。たんなる金ではなくてすでに貨幣になっている金で。諸商品が共同の行為によって金を貨幣にする過程と、すでに貨幣になっている金で、いちいちの商品が自分の価値を表す過程とはちがうわけです。第一の過程では、すべての商品が左辺に立って、右辺に金がおかれる。一般的な相対的価値形態と同じです。ところが、ひとたび金が貨幣になると、そうした金での商品の価値表現は、最初の簡単な価値形態と同じ形態で行われることになる。(中略)この場合には金は、すでに貨幣という形態規定を与えられているものとして、言葉をかえて言えば、それの自然形態がそのまま価値の大いさを表すものとして、商品の価値表現において独自のはたらきをしている、独自の機能をしている、と考えられるのです。」(173-174頁)
 「実際に売られる場合の商品の価格が、買い手によって、まして購買手段としての貨幣の機能によって、決定される、と考えることは、それ自身途方もない間違いであるが、その点はしばらくおくとして、それが誰によって、あるいはなにによって決定されるにしても、また、その価格が感覚的具体的労働表示するものとして高すぎようが低すぎようが、それは価格であることに変わりはない。なぜならそれは、貨幣としての金の形態における価値の表現だからである。そして、商品の販売ということは、それを前提にして――価格を前提にして――はじめて考えられことである。なぜなら、販売は価格の実現であり、価格の実現は必然的に価格を前提するからである。販売されたさいの価格がどのようにして決定されようが、またその価格が価値を表現するものとして低すぎようが高すぎようが、それが実現されて現実の金になれば、その金の量的限界の範囲内では、どんな商品でも買えるものになる。金はけっして、本来的にそういうものではない。金がそういうものになったのは、あらゆる商品がそれらの価値をもっぱら金で表現することによって、金を貨幣に――それの自然形態がそのまま価値の定在として一般的に妥当するものに――したからであり、商品の価値がこのような貨幣としての金で、価格として表現されることになったからである。この、価値の価格としての表示は、貨幣としての金の媒介によってはじめて可能なのであり、この媒介的な機能において、貨幣金は価値の尺度なのである。これこそが、価格のしたがってまた価値尺度としての貨幣の機能の、質的な面であり、根本である。宇野君の主張は、量の問題に――マルクスの言葉をかりて言えばブルジョア的インタレストに――注意を奪われて、肝心かなめな質的な面を忘れたものと言わねばならぬ。」(177-178頁)
 「実際に売買される場合の価格が何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつのかという問題、これをわれわれは、先ず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。」(180頁)
 「商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、けっきょく、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品にかわるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、いうまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、そのかわりに金が与えられる。これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲渡されるということは、ひっきょう、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎすてられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味です。」(180頁)
 「このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによつてまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに――すなわち貨幣に――されていることを前提するので、それによつてはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な、労働への転化を意味することになりうるわけです。ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している尺度の質というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(181頁)
 「宇野君が物差しと違うという場合には、たんに量的規定のことだけを考えているのですが、マルクスはそれとは異なって、もつと根本的な、本質的な差異を見極めているのです。貨幣(金)の形態においてはじめて、商品は一般的に価値として現れるのだということ、そして価値として現れることによってはじめて、商品生産者の労働は社会的労働として現れるのだということ――これは単に量的規定上の違いではなくて、もっと根本的な本質的な違いですが――それをマルクスは明らかにしているわけです。しかし、それだからといって、彼はけっして量的規定をおろそかにしているわけではない。ただ、そういうことを問題にする前に、より根本的な質的な問題を明らかにする必要があると考えているのです。そうしないと、量的規定の問題そのものも、本当には理解されえないことになるからです。彼が量的規定の問題をおろそかにしていないことは、彼がいろいろなところで価値からの価格の乖離の問題を論じているのをみればわかるはずです。いろいろのところで彼がそれを論じているのは、量的規定といっても一概には言えないので、抽象的形式的な規定もあれば具体的実際的な規定もある。そしてそのあいだにさらにいろいろの段階がある。したがって、理論的体系の展開につれて、それぞれ適当なところで論じるほかはないからです。たとえば需給の関係による価格の決定というようなことは、簡単な流通を考察する段階では問題になりえない。この段階では、購買と販売、あるいは購買者と販売者というものは出てくるが、そのあいだの関係をいくら考えても需給の問題はわからない。需給の問題は購買者の全体と販売者の全体とのあいだの競争の関係だからです。簡単な流通のところで明らかにされうることは、せいぜい、価値からの価格の乖離の可能性は価格形態そのもののうちに横たわっているということ、それから、商品の販売は種々の事情に依存するということ、したがって、それらの事情次第で価格は価値から離れることになるのだということ、ただその程度のことにすぎないわけです。」(188-189頁)
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by shihonron | 2009-07-28 23:50 | 学習会資料
2009年 07月 28日

学習会資料 価値尺度機能と価格の度量標準について その2

4.大谷禎之介『図解社会経済学』から 
大谷氏は価値表現や価格を表す等式の右辺を「値札」のような記号を用いて表記されていますが、ここでの引用では、技術的な理由から簡略化しています。
-----------以下引用-----------
§ 貨幣の機能
(1) 価値尺度および価格の度量標準としての貨幣の機能
[商品の価値表現と価値尺度としての貨幣の機能] 市場に登場する商品は、まずなによりも、自己の価値を貨幣で表現しなければならない。貨幣で表現された商品の価値が価格である。たとえば、1㎏の小麦の価値は、1㎏の小麦=7.5gの金という価格で、また貨幣である金の750㎎に「円」という貨幣名が与えられているときには、1㎏の小麦=10円という価格で表現される。
[価値尺度の質] 価格では、価値という、感覚では捉えることができない、したがって表象する(心のなかに思い浮かべる)ことができない、商品のまったく社会的な属性が、金という、感覚で捉えることができる、したがって表象することができる自然物のある量に転化されている。このように、価値という商品のまったく社会的な属性を自然物のある量に転化することによって商品の価値表現の材料として役だつということ、これが、貨幣が商品の価値を尺度する(測る)ということの最も肝心な質的内容、つまり価値尺度の質である。
[価格で表象されているのは実在の金である] 価格はある量の金という自然物であるが、価格においてはこの自然物は表象されているだけで、そこにそれの現物があるわけではない。つまり、商品の値札、正札の上にある金は表象された金でしかないのであって、現物の金ではない。けれども、そこで表象されているのは実在的な金、つまり現物の金である。商品世界から排除されて貨幣となった金が実在し、諸商品に相対しているからこそ、それを表象することができるのである。要するに、価値尺度としての貨幣は表象された観念的な貨幣であるが、それが表象・指示しているのは実在の貨幣である。
[価格表を逆に読めば貨幣商品の価値が読み取れる] それでは、貨幣である金は自己の価値をどのようにして表現するのであろうか。金の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されているそれの価値は、ほかのどの商品もそうであるように、それ自身で絶対的に言い表すことができないのであって、自己に等置された他の商品の量で表現するほかはない。ところが、一般の商品は自己の価値を、表象された金量でである価格で表現しているが、金は自分に金を等置することはできない。けれども、一般の商品がもつ価格はすべて、それらの価値と同量の価値をもつ金の量を等置したものなのだから、そこには金の価値の大きさが反映しているはずである。実際には、商品の価格の一覧リスト、つまり価格表を、商品の側からではなく、逆に金の側から読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表現されていることがわかる。
[価格の度量標準] 諸商品は、自己の価値を価格で表象された金量で表現し、たがいに比較しあう。そこで、それらの金量を計量し、同一の名称で言い表すために、技術的に、ある金量を価格の度量単位とする必要が生じる。
 金は、それが貨幣になる以前から、ポンド、グラム、貫などのような重量による度量単位をもつている。これらの度量単位は、さらに下位の補助単位に分割されて、オンスやミリグラムや匁および分などとなり、これらの単位の全体が一つの度量標準、つまり度量システムを形成する。
 価格で表象された金量を計量するための度量標準、つまり価格の度量標準として役だったのは、当初は、このような重量の度量システムであった。しかし、さまざまの原因によって、貨幣商品の重量を言い表す貨幣名は、重量の度量システムから離れて、重量名とは別のものにすることが普通のこととなってくる。もとの重量名がそのまま貨幣名になっている場合でも、貨幣名が言い表す金の重量は、重量名が言い表す重量とは異なるようになる。
 価格の度量標準は、価格である観念的な金量を測るためばかりでなく、貨幣である実在の金そのものを計量するのにも用いられるから、貨幣の度量標準でもある。それは、いわば、金量を測る物差しである。商品の価格で表象されている金であれ、貨幣である現実の金であれ、およそ金量を言い表すために金の諸量が度量システムになっているとき、金は計算貨幣として機能していると言う。
 はじめはさまざまの貨幣名が用いられるが、貨幣名は商品世界のなかで広く認められ、通用する必要があるので、価格の度量標準ないし貨幣の度量標準は、国家の法律によって確定されるようになる。たとえば、日本では「貨幣法」(1897年制定、1990年廃止)がその第2条で「純金の量目2分(750㎎)をもって価格の単位となし、これを円と称す」とし、第4条では「貨幣の算測は10進1位の法を用い、1円以下は1円の1/100を銭と称し、銭の1/10を厘と称す」としていた。こうして、1㎏の小麦=7.5gの金 という価格は、1㎏の小麦=10円というように、貨幣名の「円」で言い表されることになる。
[価格の質と量] このように、商品の価格とは、質的には、抽象的人間的労働の対象化である商品価値を、価値尺度としての貨幣である金の量で表現したものであり、量的には、この金の量を価格の度量標準である金量で測ったものである。
[価格は価値を性格に表現するわけではない] 価格は価値を表現するものであって、どの商品についても、価値どおりの価格、つまりその商品の価値と等しい価値量をもつ金量を表象している価格があるのはもちろんである。しかし、商品の価値を価格として表現するのは、商品の価値も金の価値も絶対的な大きさとして把握することが誰にもできないからである。だからこそ、同じ商品でもさまざまの価格をもつことができるのである。商品の売り手がそれで売りたいという「言い値」も、買い手がそれで買いたいという「付け値」も、売り手と買い手のあいだで一致した「決まり値」ないし「売り値」も、量的には異なった価格であるとしても、質的には、すべて商品の価値を貨幣である金の量で表現した価格である。また、商品の価値量が変わらないのに、たえず変動している価格は、量的にどのように変化しようとも、質的にはつねにその商品の価格である。このように、商品の価格は、その本性からして、商品の価値をつねに正確に表現するものではない。
[価格の価値からの乖離は商品生産にとっての不可欠の契機である] このように、価値と価格とが量的に一致しない可能性、つまり価格が価値から乖離する可能性は価格形態そのもののなかにある。しかしこのような乖離の可能性は価格形態の欠陥ではなくて、むしろ、無政府的な生産でしかありえない商品生産が社会的生産として成り立つための、ひとつの重要な契機である。
 価格が価値から離れて上昇あるいは下落していけば、それは遅かれ早かれ、商品の供給と商品に対する需要における変動を引き起こし、その結果、こんどは価格を逆の方向に変動させることになる。需要供給の変化によってたえず変動している価格は、じつは、それが価値から乖離することによって、逆に商品の需要供給を調節するのであって、そのような価格の変動そのものが、価値によって制約された変動であらざるをえない。そして、価格の価値をめぐる変動が、結果的に、社会的需要に見合った供給をもたらす作用を果たすのである。これによってはじめて、労働がすべて私的労働として無政府的に行われる諸商品の生産規模が、変転する社会的な諸欲求になんとか適合させられることになるのである。
[価値をもたないものも価格をもてる] 価値から乖離しうるという価格の本性からして、ごくわずかの価値しかもたないものがきわめて高い価格で売買されることがありうるが、そればかりか、さらにまったく価値をもっていないもの、つまりおよそ労働の生産物でないものが価格をもち、商品として売買されることができる。たとえば、良心、名誉、役職、貞操、金儲けのチャンス(いわゆる「金融商品」)等々のようなものである。それらの価格のなかには、現実の価値関係となんらかの関連をもっているものもある。たとえば、のちに第3篇第5章第2節で述べるように、企業の利潤の大きさを反映する配当の大きさと利子率とによって株式の価格が変動するとか、のちに第3篇第6章第5節で述べるように、見開墾の土地は価値をもっていないが、それがもたらすであろう地代の大きさと現行の利子率とによってその価格が変動するとかいうような場合である。
(大谷禎之介『図解社会経済学』92-96頁)

5.論文「貨幣の機能」(大谷禎之介 『経済志林』第61巻第4号)から
--------以下引用-------------
(5) 価値の尺度と価格の度量標準との関係
 貨幣である金が価値の尺度として果たす機能と、それが価格の度量標準として果たす機能とは、まずもって、はっきりと区別されなければならない。貨幣が価値尺度であるのは、抽象的人間的労働の対象化である価値の体化物(価値体)、つまりそれの使用価値の姿がそのまま価値というまったく社会的なものと認められている特別な商品として、要するに一般的等価物というそれの社会的性質においてである。それにたいして、貨幣が価格の度量標準であるのは、或るきまった金属重量として、つまり自然物としてのそれの重量としてである。貨幣は、価値尺度としては、諸商品の価値を価格に、つまり表象された金量に転化するのに役だつのにたいして、価格の度量標準としては、その金の量を計量するのである。価値尺度では、諸商品の価値が尺度されるのであるが、これにたいして、価格の度量標準では、もろもろの金量を単位としての金量で計量するのであって、価値を金量で測るのではない。(注1)
 価格の度量標準のためには、度量単位としての金量は固定されていなければならない。どのような単位系でもそうであるように、度量単位となる量はいつでも同じ量でなければならないのであって、同じ金量が度量単位として役立つことが不変的であればあるほど、価格の度量標準の機能はよりよく果たされるのである。
 ところが、金が価値の尺度として役立つことができるのは、それが他のすべての商品と同じく価値をもった商品だからである。そうでなければ、諸商品は、金を自己に価値の等しいものとして等置することはありえない。商品の価値はそれの生産に社会的に必要な労働時間の対象化であり、社会的必要労働時間の変化につれて商品の価値は変動するのであって、貨幣である金の価値もこのような変動をまぬがれない。つまり、金は、可能性から見てたえず変動しうる、可変的な価値であるからこそ、他の商品にとっての価値の尺度となることができるのである。
 まず、金の価値が変動しうるということが、金の価値尺度としての機能を妨げないことは明らかである。というのは、価格ではただもろもろの金量の相互の関係、比率だけが問題なのであって、金の価値が変動しても、すべての商品がその変動した新たな価値をもった金を自己に等置するので、諸商品の価値の相対的な関係、比率にはなんの変化も起こらないのだからである。もちろん、金の価値が高くなれば、同じ価値をもった商品は以前よりも少ない金量を自己に等置するし、金の価値が低くなれば、それは以前よりも多くの金量を自己に等置することになるが、諸商品の価格の相互の関係は以前とまったく変わらないのである。金の価値の変動に伴う商品価格の変動については、別稿で述べた〈相対的価値表現の法則〉(注2)がそのまま妥当する。
 さらに、金の価値が変動しうるということは、価格の度量標準としての金の機能を妨げることもない。というのは、金価値の変動に伴う価格の変動は、商品に等置される観念的な金の量を変化させるだけであって、その量を計量する単位となる金量を変化させるものではまったくないのだからである。同じ計量単位である金量で測れば、より高い価格は、つまりより多くの金量は、より多くの貨幣名で言い表されるのであり、逆はまた逆である。
 このように、価値尺度としての貨幣の機能と価格の度量標準としての貨幣の機能とはそれぞれ異なった機能であるが、しかし、一方で、価格の度量標準は、金が価値尺度として機能して、諸商品の価値を観念的な金量に転形していることを前提するし、他方で、価値の尺度は、それによって転形された価値である観念的な金量が価格の度量標準によって計量され、一定の貨幣名で言い表されることによって、はじめて諸商品の価値を相互に比較するものとして機能することができる。両機能のあいだには、このような関連がある。
 のちに見るように、貨幣である金の象徴として流通する紙幣だけがもっぱら流通する〈不換制〉のもとでは、価格の度量標準としての金の機能を妨げる重大な変化が生じてくる。ここではまだ、この変化の内容とそれが生じる原因とについて述べることができないが、不換制のもとでは、貨幣名はもはや固定された金量ではなく、社会全体の流通必要金量を流通紙幣の総量が言い表している貨幣名で除した金量、すなわち貨幣名を背負う紙幣片の代表金量を言い表すことになるのであって、それはたえず変動する流通必要金量と流通紙幣量との関係によって決定される、たえず変動する金量となる。ここでは価格の度量標準の固定性は失われてしまう。それでも、そのような代表金量の変動が相対的に安定しているときには、諸商品はまだ、自己の価値を表現するのにどれだけの金量を自己に等置するべきかを、経験的に決定することができ、そのような不確定の度量標準でもとにかく一応の機能果たすことができる。ところが、この代表金量が急激に、かつ大きく変動するようなときには、価格の度量標準としての貨幣は機能不全の状態に陥ることになる。そのような事態は、とくに〈インフレーション〉の時期に生じる。それぞれの商品が自己に金量を等置するさいの基準が失われて、ある商品は自己に著しく過大な金量を等置し、ある商品は自己に過小な商品(ママ――正しくは商品ではなく貨幣だと思われる――引用者)を等置することになり、流通当事者たち相互のあいだでの価値の大幅な移転が生じることになる。けれども、このようなときに機能不全に陥っているのは、商品に等置される金量を度量すべき金量である価格の度量標準であって、それは金の量の問題である。不換制になっても、価値尺度の質、すなわち私的労働を社会的労働に転化するための契機としての、価値という社会的なものを金という自然物の量に転化することについては、なんの変更も受けない。(注3)不換制とそのもとでのインフレーションとについては、のちにあらためて述べるとしよう。
 要するに、量をもたない質も質のない量もありえないように、価値を質的に尺度する貨幣の価値尺度としての機能と、金の量を測る価格の度量標準としての機能とは、相互に密接に結びついた機能であって、価格の度量標準とは価値尺度として質的に機能している商品の一定量なのであるが、しかし、この両者は明確に区別されなければならず、質の問題と量の問題を混同しないようになくてはならない。

(注1)曲線状の2点間の長さを測定しようとするときには、まず、自由に曲げることのできるもの、たとえば紐をその2点間の曲線にあてがい、そののちにそれを延ばして物差しで測ればよい。この場合、その紐は、曲線を直線に転形するという、いわば質の転換をもたらす役割をはたし、物差しは、そのようにして直線に転換された或る長さを単位となる長さの直線で測るという量的計量を行っている。比喩的に言えば、価値尺度としての金の機能はこの紐が果たす役割であり、価格の度量標準としての機能はこの物差しが果たす役割である。言うまでもなく、曲線を直線に転換するのは、物のまったく物理的なある属性を他の属性に転換することであるのたいして、価値尺度としての金は、物のまったく社会的な属性を自然物の量に転換するのであり、ここに価値尺度の質があるのである。

(注2)「価値形態」、『経済志林』第61巻第2号、1993年、177-178ページ

(注3)価格の度量標準が、不確定で、しかも急激な変更を蒙っているために、機能不全の状態にあって、諸商品の販売価格がそれらの価値から著しく偏倚することがあるとしても、そのことが価値尺度の質になんら触れるものではないことについては、次の記述が参考になるであろう。
「商品が、その価値以下で、あるいはその価値以上で売られることがあるかもしれない。このことは、ただそれの価値量にかかわるだけである。だが、いやしくもそれが販売されており、貨幣に転化されていさいすれば、いつでも、それの交換価値は、それの使用価値から分離された自立的な定在をもっているのである。それはもはや、社会的労働時間の一定分量として存在するにすぎず、また、自らがかかる物であることを、直接にどんな任意の商品とでも交換可能であり、どんな任意の使用価値にでも(その分量の範囲で)転化可能であるということによって、実証する。この点は、一商品に含まれている労働が商品の価値要素として受けとる形態上の転化と同じく、貨幣を論じるさいに見過ごされてはならない。ところで貨幣においては、言い換えれば、商品が貨幣としてもっているこの絶対的な交換可能性、すなわち、交換価値としての商品の絶対的な効力――このことは価値量にはなんのかかわりもなく、量的な規定ではなくて質的な規定なのである――においては、次のことが明らかとなる。すなわち、商品そのものの過程によって商品の交換価値が自立化され、自由な形で商品の使用価値と並んで実在的に表されるが、これは商品の交換価値が商品の価格においてすでに観念的に貨幣であるのと同様なのだ、ということである。」(『1861-1863年草稿』(『剰余価値学説史』)、MEGA、Ⅱ/3.4,S.1323強調―引用者)
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by shihonron | 2009-07-28 23:45 | 学習会資料