2010年 04月 20日
第1段落 ・労働過程は、まず第一に、その歴史的諸形態にはかかわりなく、人間と自然とのあいだの過程として、抽象的に考察された(第5章を見よ)。 ・そこでは次のように述べられた。 ・「労働過程全体をその結果の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現れ、労働そのものは生産的労働として現れる。」 ・そして、註7では次のように補足された。 ・「このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるのであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない。」 ・これが、ここではもっと詳しく展開されるのである。 ★資本主義的生産過程における生産的労働がどのようなものであるかを詳しく展開することが課題。 第2段落 ・労働過程が純粋に個人的な過程であるかぎり、のちには分離していく諸機能のすべてを同じ労働者が一身に兼ねている。 ・彼は、自分の生活目的のために自然対象を個人的に獲得する場合には、自分自身を制御【control】する。 ・のちには彼が制御される。 ・個々の人間は、彼自身の筋肉を彼自身の脳の制御のもとに活動させることなしには、自然に働きかけることはできない。 ・自然の体制【生来の人体】では頭と手が組になっているように、労働過程は頭の労働と手の労働とを合一する。 ・のちにはこの二つが分離して、ついには敵対的に対立するようになる。 ・およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一人の全体的労働者の共同生産物に、すなわち労働対象の取り扱いに直接または間接に携わる諸構成員が一つの結合された労働要員の共同生産物に、転化する。 ・それゆえ、労働過程そのものの協業的性格につれて、必然的に、生産的労働の概念も、この労働の担い手である生産的労働者の概念も拡張されるのである。 ・生産的に労働するためには、もはやみずから手を下すことは必要ではない。 ・全体的労働者の器官であるということだけで、つまりその部分的機能のどれか一つを果たすということだけで、十分である。 ・前に述べた生産的労働の本源的な規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたもので、全体として全体労働者については相変わらず真実である。 ・しかし、個別に見たその各個の成員には、もはやあてはまらないのである。 ・ ■【制御】[名](スル) 1 相手を押さえて自分の思うように動かすこと。「欲望を―しきれない」 2 機械・化学反応・電子回路などを目的の状態にするために適当な操作・調整をすること。「運転を自動的に―するシステム」(デジタル大辞泉) 第3段落 ・ところが、他方では、生産的労働の概念は狭くなる。 ・資本主義的生産は単に商品の生産であるだけではなく、それは本質的に剰余価値の生産である。 ・だから、彼がなにかを生産するというでは、もはや十分ではない。 ・彼は剰余価値を生産しなければならない。 ・生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけである。 ・物質的生産の部面の外から一例をあげることが許されるならば、学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく起業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。 ・この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。 ・それゆえ、生産的労働者の概念は、けっして単に活動と有用効果との関係、労働者と労働生産物との関係を包括するだけではなく、労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自な社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。 ・それゆえ、生産的労働者だということは、少しも幸運ではなく、むしろひどい不運なのである。 ・本書のなかでも理論の歴史を取り扱う第4部では、古典派経済学はもとから剰余価値の生産を生産的労働者の決定的な性格としていたということが、もっと詳しく示されるであろう。 ・それゆえ、経済学が剰余価値の性格をどのように把握したかにしたがって、その生産的労働者の定義も違ってくるのである。 ・たとえば、重農学派は、ただ農耕労働だけが剰余価値をもたらすのだから、ただ農耕労働だけが生産的だ、と言う。 ・だが、重農学派にとっては、剰余価値はただ地代という形態だけで存在するのである。 ■【包括】 ひっくるめてひとつにまとめること。 ★生産的労働の本源的規定(第一の意味)とは「使用価値を生産する労働としての生産的労働」である。第二の意味(形態的規定)は「剰余価値を生産する労働としての生産的労働」である。 ■重農学派は「政治算術的な方法にもとづいて国民の経済生活に実証的な分析を加え、そこから一つの物理的法則すなわち資本の再生産の秩序をさぐり出そうとしたのである。この秩序はまず社会の構成を機能的に地主階級と生産階級たる(借地)農業者の階級と不生産的階級たる商工業者の階級に三分し、農業のみが生産的であること、したがって農業生産においてのみ剰余価値たる純生産物が創出されること、この創出された純生産物が年々地代として地主階級に支払われ、その収入を形成することを前提とし、さらに取引における自由と経営資本の所有権の完全な保証とが存するばあい、商業国間に通用する恒常的な平均価格の存立を基礎として、農業者の経営資本がいかに流通過程における転形(W'―G'―W…P…W')を経つつ純生産物を産出し同じ規模の単純再生産を繰り返すのかの、構想となって実を結ぶ。」(『資本論辞典』388頁) 第4段落 ・労働者がただ自分の労働力の価値の等価だけを生産した点を超えて労働日が延長されること、そしてこの剰余労働が資本によって取得されること――これは絶対的剰余価値の生産である。 ・それは、資本主義体制の一般的な基礎をなしており、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。 ・この相対的剰余価値の生産では、労働日ははじめから二つの部分に分かれている。 ・すなわち、必要労働と剰余労働とに。 。剰余労働を延長するためには、労賃の等価をいっそう短時間に生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。 ・絶対的剰余価値の生産はただ労働日の長さだけを問題にする。 ・相対的剰余価値の生産は労働の技術的諸過程と社会的編成とを徹底的に変革する。 ★絶対的剰余価値の生産は、労働日が必要労働時間と剰余労働時間の二つの部分に分かれるということでもある。相対的剰余価値の生産の出発点は、労働日が必要労働時間と剰余労働時間の二つの部分に分かれていることである。 ★「労働の技術的諸過程」とは、科学の応用、機械の採用などのことであろう。また「労働の社会的編成」とは、生産過程での労働者の社会的結合(協業や分業)のことであろう。 ■《機械としては労働手段は、人力のかわりに自然力を利用し経験的熟練のかわりに自然科学の意識的応用に頼ることを必然とするような物質的存在様式を受け取る。マニュファクチュアでは社会的労働過程の編制は純粋に主観的であり、部分労働者の組合せである。機械体系では大工業は一つのまったく客観的な生産有機体をもつのであって、これを労働者は既成の物質的生産条件として自分の前に見いだすのである。単純な協業では、また分業によって特殊化された協業にの場合さえも、個別的な労働者が社会化された労働者によって駆逐されるということは、まだ多かれ少なかれ偶然的なこととして現われる。機械は、のちに述べるいくつかの例外を除いては、直接的に社会化された労働すなわち共同的な労働によってのみ機能する。だから、労働過程の協業的性格は、今では、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである。》(国民文庫第2分冊268-269頁・原頁407) 2010年 02月 22日
学習ノート 第6章 不変資本と可変資本 第1段落 ・労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。 ●《労働過程のさまざまな要因》とは何かが問題になり、「労働そのもの、労働対象、労働手段のことだ」との発言がありました。また、「第5章第1節第3段落では《要因》ではなく《諸契機》という表現がされている」との指摘がありました。 ■《労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象その手段である。》(国民文庫313頁・原頁193) ■《われわれの将来の資本家のところに帰ることにしよう。われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要な要因のすべてを、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを買ってからのことだった。彼は、抜け目のないくろうとの目で、紡績業とか製靴業とかいうような彼の専門の営業に適した生産手段と労働力とを選び出した。》(国民文庫323頁・原頁199) ■【契機】 (1)物事が始まったり、変化が生じたりする直接の要素や原因。きっかけ。動機。 「就職を―に親元を離れた」 (2)〔哲〕〔(ドイツ) Moment〕ある物を動かし、規定する根拠・要因。弁証法では、発展に組み込まれて、より大きな関係を構成する不可欠なものとなった要素。 (大辞林 第二版) ●「《生産物価値》という用語はここではじめて登場したのではないか」「これまでは生産物の価値という表現だったのではないか」との発言がありました。調べたところ、《生産物価値》という言葉は、ここではじめて使われています。 第2段落 ・労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。 ・他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだす。 ・つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。 ・この移転は、生産手段が生産物に変るあいだに、つまり労働過程のなかで、行なわれる。 ・それは労働によって媒介されている。 ・だが、どのようにしてか? ★ここでは、生産手段の価値が生産物に移転することによって保存されることを述べ、その価値の移転が労働によってどのように媒介されているのかを問題にしている。第2節労働過程では、生産手段の価値が生産物の価値の一部をなしていることは述べられていたが、生産物への価値の移転はまだ問題とされていなかった。 ■《綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。》(国民文庫328頁・原頁202) 《労働材料や労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後に紡績の形でつけ加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、みなされうるのである。要するに、12シリングという価格で表わされる綿花と紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の、すなわち生産物の価値の成分をなしているのである。》(国民文庫329頁・原頁202-203) 第3段落 ・労働者は同じ時間に二重に労働するのではない。 ・一方では自分の労働によって綿花に価値をつけ加えるために労働し、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことであるが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではない。 ・そうではなくて、彼は、ただ新たな価値をつけ加えるだけのことによって、元の価値を保存するのである。 ・しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間には一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明できるものである。 ・同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのである。 ●「《労働者は同じ時間に二重に労働するのではない》は、その内容としては、労働者は同じ時間に一度しか労働しない――二度労働するのではないということだ」という発言がありました。 ■フランス語版では《労働者は、同じ時間内に二重に労働するのではない。すなわち、一度は綿花に新しい価値を付加するために、もう一度は綿花の旧価値を保存するために、あるいはまったく同じことになるが、彼が使用する紡錘の価値と彼が加工する綿花の価値とを糸という生産物に移すために、労働するのではない。》(191頁)と述べられている。 ★労働は、使用価値を生産する労働(具体的・有用的労働)としては、「その目的、作業様式、対象、手段、結果によって規定されている」生産的活動である。労働を、労働力の支出としてのみ取り上げるなら、価値を形成する抽象的・人間的労働である。同じ一つの労働が、具体的・有用的労働であると同時に、抽象的・人間的労働でもある。 第4段落 ・労働者はそれぞれどのようにして労働時間を、したがってまた価値をつけ加えるのか? いつでもただ彼の特有な生産的労働様式の形態でそうするだけである。 ・紡績工はただ紡ぐことによってのみ、織物工はただ織ることによってのみ、鍛冶工はただ鍛えることによってのみ、労働時間をつけ加えるのである。 ・しかし、彼らが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と機械、鉄とかなしきは、一つの生産物の、一つの新しい使用価値の、形成要素になる。 ・生産手段の使用価値の元の形は消えてなくなるが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけである。 ・ところで、価値形成過程の考察で明らかにしたように、ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分をなしており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。 ・だから、労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられた労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってである。 ・このような合目的的な生産活動、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることとして、労働は、その単なる接触によって生産手段を死からよみがえらせ、それを活気づけて労働過程の諸要因となし、それと結合して生産物になるのである。 ★価値とは、商品に対象化された抽象的・人間的労働のことであった。ここで、労働者は《彼の特有な生産的労働様式の形態で》労働時間を(価値を)つけ加えると述べているのを読むと、価値をつけ加えるのは抽象的・人間的労働としてではなかったのかという疑問が湧いてきた。しかし、現実の労働は、特有な生産的労働様式の形態でしか行なわれないことに思い至るなら、その疑問は解消する。現実の労働は、さまざまの具体的形態をもっており、現実の労働から労働力支出という共通の質だけを抽象してみた労働が抽象的労働であり、その共通の質が人間労働力であるから人間的労働とよばれるのである。 ■《資本家は貨幣を新たな生産物の素材形成者または労働過程の諸要因として役だつ諸商品に転化させることによって、すなわちすでに対象化されている死んでいる過去の労働を、資本に、すなわち自分自身を増殖する価値に転化させるのであり、胸に恋でも抱いているかのように「働き」はじめる活気づけられた怪物に転化させるのである。》(国民文庫340頁・原頁209) 第5段落 ・もし労働者の行なう独自な生産的労働が紡ぐことでないならば、彼は綿花を糸にはしないであろうし、したがってまた綿花や紡錘の価値を糸に移しもしないであろう。 ・これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になっても、彼は相変わらず一労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。 ・だから、彼が労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働や指物労働であるかぎりでのことではなく、それが抽象的な社会的労働一般であるかぎりでのことであり、また、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容をもっているからではなく、それが一定時間継続するからである。 ・つまり、その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのであり、そして、紡績過程としてのその具体的な特殊な有用な性格において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのである。 ・それだから、同じ時点における労働の二面性が生ずるのである。 第6段落 ・労働の単に量的な付加によって新たな価値がつれ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。 ・このような、労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。 ★《同じ労働の二面的な作用》とは、価値をつけ加える作用(抽象的・人間的労働として)と生産手段の価値を生産物に移転する作用(具体的・有用的労働によって)のことである。 第7段落 ・ある発明によって、紡績工が以前は36時間で紡いだのと同量の綿花を6時間で紡げるようになったと仮定しよう。 ・合目的的な有用的な生産的活動としては、彼の労働はその力が6倍になった。 ・その生産物は、6倍の糸、すなわち6ポンドに代わる36ポンドの糸である。 ・しかし、その36ポンドの綿花は、今では以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間しか吸収しない。 ・綿花には古い方法による場合の6分の1の新たな労働がつけ加えられるのであり、したがって以前の価値のたった6分の1がつれ加えられるだけである。 ・他方、今では6倍の綿花価値が、生産物である36ポンドの糸のうちにある。 ・6紡績時間で6倍の原料価値が保存されて生産物に移される。 ・といっても、同量の原料には以前の6分の1の新価値がつけ加えられるのである。 ・このことは、同じ不可分の過程で労働が価値を保存するという性質は労働者が価値を創造するという性質とは本質的に違うものだということを示している。 ・紡績作業中に同量の綿花に移っていく必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きいが、同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値はそれだけ大きい。 ★ここでは、紡績労働の生産性(具体的・有用的労働の生産力)が増大した場合について述べている。同じ労働時間でつけ加える価値量は変化しないが、生産手段から生産物に移転する価値量は増大する。 ■《紡績作業中に同量の綿花に移っていく必要労働時間》は、新日本出版社版では《紡績作業中に同じ分量の綿花に費やされる必要労働時間》(344頁)となっている。意味としては、「紡績作業中に同量の綿花が吸収する労働時間」ということである。 第8段落 ・逆に紡績労働の生産性が変らず、したがって紡績工が1ポンドの綿花を糸にするためには相変わらず同じ時間が必要だと仮定しよう。 ・しかし、綿花そのものの交換価値は変動して、1ポンドの綿花の価値が6倍に上がるか、または6分の1に下がるとしよう。 ・どちらの場合にも紡績工は引き続き同量の綿花に同じ労働時間、つまり同じ価値をつけ加え、また、どちらの場合にも同じ労働時間に同じ量の糸を生産する。 ・それにもかかわらず、彼が綿花から糸という生産物に移す価値は、以前に比べて一方の場合には6分の1であり、他方の場合には6倍である。 ・労働手段が高くなるか安くなるかするが労働過程では相変わらず同じ役立ちをする場合も、同様である。 ★ここでは、生産手段の価値量に変化が生じた場合について述べている。同じ労働時間でつけ加える価値量は変化しないが、生産手段から生産物に移転する価値量は変動する。 第9段落 ・紡績過程の技術的な諸条件が変らず、またその生産手段にも価値変動が生じないならば、紡績工は相変わらず同じ労働時間で元通りの価値の同じ量の原料や機械を消費する。 ・この場合には、彼が生産物のうちに保存する価値は、彼がつけ加える価値に正比例する。 ・2週間では、彼は1週間でする労働の2倍の労働をつけ加え、したがって2倍の価値をつけ加え、また、同時に2倍の価値をもつ2倍の材料を消費し、2倍の価値をもつ2倍の生産手段を消耗させ、こうして2週間の生産物のうちに1週間の生産物の2倍の価値を保存する。 ・与えられた不変の生産条件のもとでは、労働者は、彼のつけ加える価値が多ければ多いほどそれだけ多くの価値を保存するのであるが、しかし、彼がより多くの価値を保存するのは、彼がより多くの価値をつけ加えるからでなく、彼がこの価値を、以前と変らない、彼の労働には依存しない諸条件のもとでつけ加えるからである。 ★《以前と変らない、彼の労働には依存しない諸条件》とは何か? 生産手段の価値に変動がないことだけなのか、労働の生産性のことまで含むのか? ★ここでは、紡績労働の生産性にも生産手段の価値量にも変化がない場合について述べている。同じ労働時間でつけ加える価値量も、生産手段から生産物に移転する価値量も変化しない。この条件の下では、つけ加える価値量と生産手段から生産物に移転する価値量は正比例するが、それはつけ加える価値量の変化が原因となってもたらされた結果ではない。 第10段落 ・もちろん、相対的な意味では、いつでも労働者は新価値をつけ加えるのと同じ割合で元の価値を保存する、ということもできる。 ・綿花が1シリングから2シリングに上がっても、また6ペンスに下がっても、労働者が1時間のうちに保存する綿花の価値は、それがどんなに変動しようとも、つねに、彼が2時間の生産物のうちに保存する価値の半分でしかない。 ・さらにまた、彼自身の生産性が変動して、それが上がるか下がるかすれば、彼は、たとえば1労働時間のうちに以前よりも多いかまたは少ない綿花を紡ぐであろうし、それに応じて1労働時間の生産物のうちにより多いかより少ない綿花価値を保存するであろう。 ・それにもかかわらず、彼は2労働時間では1労働時間に比べて2倍の価値を保存するであろう。 ★生産手段の価値量あるいは労働の生産力のどちらかまたは両方に変動が生じた場合には、同じ労働時間に生産手段から生産物に移転される価値量は変動するが、労働の継続時間とその間に生産手段から生産物に移転される価値量は正比例する。 第11段落 ・価値は、価値標章での単なる象徴的なその表示を別とすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない。 ・(人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物である。 ・そして労働そのものは、あの力の物的な発現である。) ・だから使用価値がなくなってしまえば、価値もなくなってしまう。 ・生産手段は、その使用価値を失うのと同時にその価値を失うのではない。 ・というのは、生産手段が労働過程を通ってその使用価値の元の姿を失うのは、じつは、ただ生産物において別の使用価値の姿を得るためでしかないからである。 ・しかし、価値にとっては、なんらかの使用価値のうちに存在するということは重要であるが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、どうでもよいのである。 ・このことからも明らかなように、労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値をも失うかぎりでのことである。 ・生産手段は、ただ生産手段として失う価値を生産物に引き渡すだけである。 ・しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点でそれぞれ事情を異にしている。 ●《価値標章での単なる象徴的なその表示》とはなんのことかという疑問が出され、「紙幣による価値の表示のことだ」との回答がありました。 ■《銀製や銅製の章標の金属純分は、法律によって任意に規定されている。それらは、流通しているうちに金鋳貨よりももっと速く摩滅する。それゆえ、それらの鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものとはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に代わって鋳貨として機能することができる。金属製の貨幣章標では、純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されている。紙幣では、それが一見してわかるように現われている。》(国民文庫223-224頁・原頁140-141) ●《人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象》と述べられているがこの自然対象とはどういう意味かとの疑問が出され、ここでの対象は物という意味であり、「自然物」と言い換えることができるということになりました。 ●《労働そのものは、あの力の物的な発現》の内容が問題となり、「労働そのものは労働力の発揮であり、それは物質的な力の発揮だということではないか」との発言がありました。 ■《労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行動によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。》(国民文庫312頁・原頁192) ●《生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値をも失う》とあるが「独立の使用価値」とは何かが問題となり、新日本出版社版では「独自の使用価値」となっていることが紹介されました。また「たとえば糸の原料である綿花が糸になると綿花としての使用価値を失う(綿花ではなくなる)ということではないか」との発言があり、これについて「原料については分るが、機械などの労働手段の使用価値は変化せず、独自の使用価値を失うといえるのだろうか」との疑問が出されました。これについて「10年間使用できる機械が1年間使用された後では9年間しか使用できなくなる。そういう意味では一定の使用価値を失ったといえるのではないか」との発言がありました。 ●《労働過程のいろいろな対象的要因は、この点でそれぞれ事情を異にしている》と述べられている「労働過程のいろいろな対象的要因」とは何をさしているのかが問題になり、「労働対象のこと」「労働対象と労働手段のこと」との二つの意見が出されました。また「労働力も含むといえるのか」との発言もありました。先に進んでからもう一度考えてみようということになりました。 ★労働過程の諸契機(諸要因)は労働そのものと労働対象と労働手段である。したがって、ここでは労働力は問題にならない。 ●「労働力商品の場合には、生活手段の価値が労働力に移転するといえないだろうか」との疑問が出され、「労働力の再生産は、労働者による生活手段の個人的消費によってなされる。価値の移転は労働過程における生産的消費の場合に問題になることであり、個人的消費による労働力商品の再生産においては移転は問題にならないのではないか」との発言がありました。 2010年 02月 22日
第12段落 ・機関を熱するために用いられる石炭は、あとかたもなく消えてしまうが、車軸に塗られる油なども同様である。 ・染料やその他の補助材料も消えてなくなるが、しかしそれらは生産物の性質のうちに現われる。 ・原料は生産物の実体になるが、しかしその形を変えている。 ・だから、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働に入ったときの独立の姿をなくしてしまうわけである。 ・本来の労働手段はそうではない。 ・用具や機械や工場建物や容器などが労働過程で役だつのは、ただ、それらのものが最初の姿を保持していて明日もまた昨日とまったく同じ形態で労働過程に入って行くかぎりでのことである。 ・それらのものは、生きているあいだ、労働過程にあるあいだ、生産物にたいして自分の独立の姿を保持しているが、それらが死んでからもやはりそうである。機械や道具や作業用建物などの死骸は、相変わらず、それらに助けられてつくられた生産物とは別に存在している。 ・今このような労働手段が役だつ全期間を、それが作業場に入ってきた日から、がらくた小屋に追放される日までにわたって考察するならば、この期間中にその使用価値は労働によって完全に消費されており、したがってその交換価値は完全に生産物に移っている。 ・たとえばある紡績機械が10年で寿命を終わったとすれば、10年間の労働過程のあいだに機械の全価値は10年間の生産物に移ってしまっている。 ・だから、一つの労働手段の生存期間のうちには、この労働手段を用いて絶えず繰り返される労働過程の多かれ少なかれいくつかが含まれているのである。 ・そして、労働手段も人間と同じことである。 ・人間は、だれでも毎日24時間ずつ死んでゆく。 ・しかし、どの人間を見ても、彼がすでに何日死んでいるかは正確にはわからない。 ・とはいえ、このことは、生命保険会社が人間の平均寿命から非常に確実な、そしてもっとずっと重要なことではあるが、大いに利潤のあがる結論を引き出すということを妨げるものではない。 ・労働手段も同じである。 ・ある労働手段、たとえばある種類の機械が平均してどれだけ長もちするかは、経験によって知られている。 ・労働過程での機械の使用価値が6日しかもたないと仮定しよう。 ・そうすれば、その機械は平均して1労働日ごとにその使用価値の6分の1を失ってゆき、したがって毎日の生産物にその価値の6分の1を引き渡すことになる。 ・このような仕方で、すべての労働手段の損耗、たとえばその毎日の使用価値喪失とそれに応じて行なわれる生産物への毎日の価値引き渡しは、計算されるであろう。 ★原料や補助材料などは、労働過程を経て、消えてなくなったり、姿を変えたりすることによって最初の姿=独自の使用価値を失う。これに対して本来の労働手段は、労働過程にあるあいだ、生産物にたいして自分の独立の姿を保持している。しかし、労働手段にはそれが利用されうる一定の期間=寿命がある。その寿命がつきるまでの全期間の労働過程のあいだには労働手段の使用価値はすべて消費され、全価値がその期間の生産物に移転する。全期間(寿命)の10分の1の時間の使用では、使用価値の10分の1が消費され(失われ)、全価値の10分の1が移転する。 第13段落 ・こうして、生産手段は、労働過程でそれ自身の使用価値の消滅によって失うよりも多くの価値を生産物に引き渡すものではないということが、適切に示される。 ・もしもその生産手段が失うべき価値をもっていないならば、すなわちそれ自身が人間労働の生産物でないならば、それはけっして生産物に価値を引き渡しはしないであろう。 ・その生産手段は、交換価値の形成者として役立つことなしに、使用価値の形成者として役だつであろう。 ・それゆえ、天然に人間の助力なしに存在する生産手段、すなわち土地や風や水や鉱脈内の鉄や原始林の樹木などの場合は、すべてそうなのである。 ★生産手段が使用価値ではあるが価値をもたないもの=「自然財」である場合には、生産物に価値を引き渡さない。 第14段落 ・ここでもう一つの別の興味ある現象がわれわれの前に現われる。 ・たとえば、ある機械に1000ポンドの価値があって、それが1000日で損耗してしまうとしよう。 ・この場合には、毎日機械の価値の1000分の1ずつが機械自身からその毎日の生産物に移っていく。 ・それと同時に、その生活力はしだいに衰えて行きながらも、いつでもその機械全体が労働過程で機能している。 ・だから労働過程のある要因、ある生産手段は、労働過程には全体としてはいるが、価値増殖過程には一部分しかはいらないということがわかるのである。 ・労働過程と価値増殖過程との相違がここではこれらの過程の対象的な諸要因に反射している。 ・というのは、同じ生産過程で同じ生産手段が、労働過程の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからである。 ★《労働過程と価値増殖過程との相違》 労働過程――使用価値の生産――具体的・有用的労働の側面 価値増殖過程――剰余価値の生産――抽象的・人間的労働の側面 ■この段落の最後の部分は、新日本出版社版(349頁)では次のようになっている。 《ここでは、労働過程と価値増殖過程との区別は、同じ生産手段が同じ生産過程において、労働過程の要素としては全体として計算に入り、価値形成の要素としては一部分ずつ計算にはいるにすぎないということによって、それらの過程の対象的諸要因に反映する。》 ●注21に関連してナイフの製法を調べることになりました。 ■刃物記念館 http://www.meikoukai.com/contents/hakubutukan/hamono/index.html レッドオルカ http://www.yamahide.com/custom/redorca.htm 第15段落 ・他方それとは反対に、ある生産手段は、労働過程には一部分しか入らないのに、価値増殖過程には全体としてはいることがありうる。 ・綿花を紡ぐときに毎日115ポンドについて15ポンドが落ちて、この15ポンドは糸にはならないで綿くず[devil's dust]にしかならないと仮定しよう。 ・それでも、もしこの15ポンドの脱落が標準的であって綿花の平均加工と不可分であるならば、糸の要素にならない15ポンドの綿花の価値も、糸の実体になる100ポンドの綿花の価値とまったく同じように、糸の価値にはいるのである。 ・100ポンドの糸をつくるためには、15ポンドの綿花の使用価値がちりにならなければならない。 ・だから、この綿花の廃物化は糸の生産の一つの条件なのである。 ・それだからこそ、それはその価値を糸に引き渡すのである。 ・これは、労働過程のすべての排泄物について言えることである。 ・少なくとも、これらの排泄物が再び新たな生産手段に、したがってまた新たな独立な使用価値にならないかぎりでは、そう言えるのである。 ・たとえば、マンチェスターの大きな機械製造工場では鉄くずの山が巨大な機械でかんなくずのように削り落とされ、夕方になると大きな車で工場から製鉄所に運ばれて行くのが見られるが、それは他日再び大量の鉄になって製鉄所から工場に帰ってくるのである。 第16段落 ・ただ、生産手段が労働過程にあるあいだその元の使用価値の姿での価値を失うかぎりでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移すのである。 ・それが労働過程でこうむることのできる価値喪失の最大限度は、明らかに、それが労働過程にはいるときにもっていた元の価値によって、すなわち自身の生産に必要な労働時間によって、制限されている。 ・それゆえ、生産手段は、それが役立てられる労働過程にかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは、けっしてできないのである。 ・ある労働材料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であっても、それが150ポンドに、たとえば500労働日に値するならば、それは、その役立ちによって形成される総生産物に、けっして150ポンドより多くはつけ加えないのである。 ・その価値は、それが入っていく労働過程によってではなく、それが生産物として出てくる労働過程によって決定されているのである。 ・労働過程ではそれはただ使用価値として、有用な性質をもっている物として役だつだけであり、したがって、もしそれがこの過程にはいってくる前に価値をもっていなかったならば、それは生産物に少しも価値を引き渡しはしないであろう。 ★《その価値は…それが生産物として出てくる労働過程によって決定されている》と述べられているが、労働過程は価値を形成するのではなく、使用価値を生産するのではなかったのかという疑問をもちました。 ■フランス語版では次のようになっています。 《その価値は、それが生産手段として入ってゆく労働によってではなく、それが生産物として出てくる労働によって、きめられる。》(198頁) ●議論の中で「現在までのところでは、商品は労働生産物であるが、現在の社会では第3次産業の比率が大きい。商品としてのサービスについてどのように説明できるのか。サービス労働は価値を生まないと言うことなのだろうか」との疑問が出されました。これに対して「本来的な商品について明らかにした後で、サービスについて問題にできる。価値は、物の性質でありサービスは価値をもたないと思う。マルクスは、サービスについては収入と交換される不生産的労働と評価していたのではないか」との発言がありました。 ■生産的労働と不生産的労働 「スミスは、生産的労働と不生産的労働とを区別した。生産的労働とは、製造工の労働のように、商品に固定され、材料の価値に賃金と利潤の価値を付加する労働であり、不生産的労働とは、召使・官吏・兵士の労働のように、商品に固定されず、どんな物にも価値を付加しない労働である。…生産的労働者が多ければ多いほど、生産される生産物は多くなり、人々は豊かになっていく。この生産的労働者を増やすには2 つの方法があり、一つは生産的労働者を雇用する資本の量を増加させること、もう一つは同じ量の資本をより多くの生産的労働者を雇用する用途へと投下することである。」(早坂忠編『経済学史』51頁) ■角田収「サービス経済化の進展と価値創造的労働」(日本大学経済科学研究所紀要 第31号) http://www.eco.nihon-u.ac.jp/contents/research/kei/kiyou/31/kiyou31pdf/31tsunoda.pdf 第17段落 ・生産的労働が生産手段を新たな生産物の構成要素に変えることによって、生産手段の価値にはひとつの転生がが起きる。 ・それは、消費された肉体から、新しく形作られた肉体に移る。 ・しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行なわれる。 ・労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな価値をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。 ・なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値を生産物に移すことなしには、できないからである。 ・だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。 ・そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも、資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである。 ・景気のよいあいだは、資本家は利殖に没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物が目に見えない。 ・労働過程のむりやりの中断、すなわち恐慌は、彼にこれを痛切に感じさせる。 ★生産手段、つまり労働対象と労働手段のどちらもが「新たな生産物の構成要素」に変えられるとマルクスは述べている。 ★「肉体」とは使用価値のことである。労働によって価値の担い手である使用価値の形態は変化するが、価値は保存(移転)される。 ■【転生】てんしょう 生まれ変わること。また、生活態度や環境を一変させること。 てんせい。 【転生】てんせい 生まれ変わること。輪廻(りんね)。てんしょう。 ★現実の労働は具体的・有用的労働に他ならない。その労働を、労働力の支出という側面からだけ取り上げるなら抽象的・人間的労働である。抽象的・人間的労働は価値をつけくわえ(形成し)、具体的・有用的労働は価値を保存(移転)する。 ■【天資】生まれつきの資質・性質。天稟(てんぴん)。天性。 ●「この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず」とはどういうことかが問題になり、二度労働(一度は価値をつけ加えるために、もう一度は価値を保存するために)するのではなく、一度の労働によって価値をつけ加えると同時に価値を保存するということだろうという結論になりました。 ■《労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間には一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明できるものである。同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのである。》(国民文庫347頁・原頁214) ●「労働のこの無償の贈り物」とは何かが問題となり、価値が保存されることだとの結論になりました。 2010年 02月 22日
第18段落 ・およそ生産手段として消費されるものは、その使用価値であって、これの消費によって労働は生産物を形成するのである。 ・生産手段の価値は実際は消費されるのではなく、したがってまた再生産されることもできないのである。 ・それは保存されるが、しかし、労働過程で価値そのもの操作が加えられるので保存されるのではなく、価値が最初そのうちに存在していた使用価値が消失はするがしかしただ別の使用価値となってのみ消失するので保存されるのである。 ・そけゆえ、生産手段の価値は、生産物のうちに再現はするが、しかし、正確に言えば、再生産されるのではない。 ・生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である。 ■【再生産】商品の生産と流通・消費の過程が不断に繰り返されること。また、その過程。 ●「なぜここで価値ではなく交換価値という言葉が用いられているのか」との疑問が出されましたが、「意味としては価値のことであり、差異はないだろう」との発言がありました。 第19段落 ・労働過程の主体的な要因、活動しつつある労働力の方は、そうではない。 ・労働がその合目的的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存するあいだに、その運動の各瞬間は追加価値を、新価値を形成する。 ・かりに、労働者が自分の労働力の等価を生産した点、たとえば6時間の労働によって3シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断するとしよう。 ・この価値は、生産物価値のうちの、生産手段からきた成分を越える超過分をなしている。 ・それは、この過程のなかで発生した唯一の本源的な価値であり、生産物価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の部分である。 ・もちろん、それは、ただ、資本家によって労働力の買い入れのときに前貸しされ労働者自身によって生活手段に支出された貨幣を補填するだけである。 ・支出された3シリングとの関係からみれば、3シリングという新価値はただ再生産として現われるだけである。 ・しかし、それは現実に再生産されているのであって、生産手段の価値のようにただ外見上再生産されているだけではない。 ・ある価値の他の価値による補填は、ここでは新たな価値創造によって媒介されているのである。 ★ ある価値=資本家によって労働力の買い入れのときに前貸しされ労働者自身によって生活手段に支出された貨幣 他の価値=6時間の労働によってつけ加えられた価値 第20段落 ・しかし、われわれがすでに知っているように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象につけ加えられる点を越えて、なお続行される。 ・この点までは6時間で十分でも、それではすまないで、過程はたとえば12時間続く。 ・だから、労働力の活動によってはただそれ自身の価値が再生産されるだけではなく、ある超過価値が生産される。 ・この剰余価値は、生産物価値のうちの、消費された生産物形成者すなわち生産手段と労働力との価値を超える超過分をなしているのである。 ■《それゆえ、この過程の完全な形態は、G―W―G’であって、ここでは G’=G+ΔG である。すなわちG’は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。・そしてこの運動がこの価値を資本に転化させるのである。》 (国民文庫263-264頁・原頁165) ★ここでは生産物形成者として、生産手段と労働力をあげている。 第21段落 ・われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。 ・生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を超える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。 ・一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。 ★《労働過程のいろいろな要因》とは、生産手段(労働手段と労働対象)および労働力である。労働過程の諸契機としては、労働そのもの、労働対象、労働手段があげられていたが、労働は《活動しつつある労働力》に他ならず、労働力は《労働過程の諸要因》の一つ(労働過程の主体的な要因)なのである。 第22段落 ・要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。 ・それゆえ、私はこれを不変資本部分、または、もっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。 ★不変資本=生産手段に転換される資本部分 第23段落 ・これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。 ・それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。 ・資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化していく。 ・それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。 ・労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。 ★可変資本=労働力に転換された資本部分 ■《労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。》(国民文庫313頁・原頁193) ■《この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。》(国民文庫317頁・原頁196) 第24段落 ・不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではない。 ・1ポンドの綿花が今日は6ペンスであるが、明日は綿花収穫の不足のために1シリングに上がると仮定しよう。 ・引き続き加工される古い綿花は、6ペンスという価値で買われたものであるが、今では生産物に1シリングという価値部分をつけ加える。 ・そして、紡がれた、おそらくはすでに糸になって市場で流通している綿花も、やはりその元の価値の2倍を生産物につけ加える。 ・しかし、明らかに、この価値変動は、紡績過程そのものでの綿花の価値増殖にはかかわりがない。 ・もし古い綿花がまだ労働過程に入っていないならば、それを6ペンスではなく1シリングでもう一度売ることもできるであろう。 ・それどころか、それが労働過程を通っていることが少なければ少ないほど、いっそうこの結果は確実なのである。 ・それだから、このような価値革命にさいしては、最も少なく加工された形態にある原料に賭けるのが、つまり、織物よりもむしろ糸に、糸よりはむしろ綿花そのものに賭けるのが、投機の法則なのである。 ・価値変化はここでは綿花を生産する過程で生ずるのではない。 ・一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されてはいるが、しかしその量そのものは社会的に規定されている。 ・もしその商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したならば――たとえば同じ量の綿花でも不作のときは豊作のときよりも大きな量の労働を表わす――、前からある商品への反作用が生ずるのであって、この商品はいつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められず、その価値は、つねに、社会的に必要な、したがってまたつねに現在の社会的諸条件のもとで必要な労働によって、計られるのである。 ●「ここで価値革命という言葉が用いられているが、ちょっと大げさな表現に思える。内容としては、価値変動ということだ。」との発言がありました。 ●投機の法則について「ここでの仮定では綿花であれば価値(価格)は2倍になるが、それ以外の条件が不変なら糸や布の価値(価格)は2倍未満であり、価格変動による利益は綿花の場合が一番大きい」との説明がありました。 ★ここでの「社会的」の反対は「個別的」であろう。第4編 相対的剰余価値の生産では「個別的価値」「社会的価値」という言葉が登場している。 ■《一商品の価値がその生産中に支出される労働の量によって規定されているとすれば、ある人が怠惰または不熟練であればあるほど、彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので、彼の商品はそれだけ価値が大きい、というように思われるかもしれない。しかし、諸商品の価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。・商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っているのではあるが、ここでは一つの同じ労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練度および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。》(国民文庫78-79頁・原頁53) ■《しかし、労働は、ただ、使用価値の生産に費やされた労働が社会的に必要なかぎりで数にはいるだけである。これにはいろいろなことが含まれている。労働力は正常な諸条件のもとで機能しなければならない。…(中略)…もう一つの条件は、労働力そのものの正常な性格である。労働力は、それが使用される部門で、支配的な平均程度の技能と敏速さをもっていなければならない。》(国民文庫341-342・原頁210) ■《【一物一価】商品の価値は社会的必要労働時間によって決まる。だから、同じ種類の商品の価値は同じである。そこで、商品の価値を表現する商品の価格も、一つの市場では同じである。これがいわゆる「一物一価」である。》(大谷禎之介『図解社会経済学』225頁) 第25段落 ・原料の価値と同じように、すでに生産過程で役だっている労働手段すなわち機械その他の価値も、したがってまたそれらが生産物に引き渡す価値部分も、変動することがある。 ・たとえば、もし新たな発明によって同じ種類の機械がより少ない労働支出で再生産されるならば、古い機械は多かれ少なかれ減価し、したがってまた、それに比例してより少ない価値を生産物に移すことになる。 ・しかし、この場合にも価値変動は、その機械が生産手段として機能する生産過程の外で生ずる。 ・この過程では、その機械は、それがこの過程にかかわりなくもっているよりも多くの価値を引き渡すことは決してないのである。 ■《もちろん、この生産で形成される価値が社会的必要労働時間によって決定されるように、ここで移転する、生産手段の価値の大きさも、社会的必要労働時間によって決定されているのであって、それの一つ一つが実際に必要とした労働時間によって決定されるのではない。しかも、その生産手段が生産物として実際に生産された時点での社会的必要労働時間ではなくて、それが現在の生産にはいるときにそれを生産するのに社会的に必要な労働時間によって決定されるのである。ただし、この生産が始るときには、生産手段はすでにある大きさの価値をもったものとして存在しているのであって、この生産と同時に、あるいはこの生産の終了時点ではじめてそれの価値がきまるわけではけっしてない。生産手段の価値は、この生産が始る以前にすでに確定している旧価値なのである。》(大谷禎之介「商品および商品生産」「経済志林」第61巻第2号) 第26段落 ・生産手段の価値の変動は、たとえその生産手段がすでに過程にはいってから反作用的に生じても、不変資本としてのその性格を変えるものではないが、同時にまた、不変資本と可変資本との割合の変動も、それらの機能上の相違に影響するものではない。 ・労働過程の技術的な諸条件が改造されて、たとえば以前は10人の労働者がわずか10個の道具で比較的少量の原料を加工していたのに、今では1人の労働者が1台の高価な機械で100倍の原料に加工するようになるとしよう。 ・この場合には、不変資本、すなわち充用される生産手段の価値量は非常に増大し、労働力に前貸しされる可変資本部分は非常に減少するだろう。 ・しかし、この変動は、不変資本と可変資本との量的関係、すなわち総資本が不変成分と可変成分とに分かれる割合を変えるだけで、不変と可変との相違には影響しないのである。 2009年 12月 22日
第1段落 ・資本に転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。 ・なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変ることのない化石に固まってしまうからである。 ・同時に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。 ・なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。 ・そこで、変化は第一の行為G―Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。 ・というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はの価値どおりに支払われるのだからである。 ・だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるほかはない。 ・ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。 ・そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである――労働能力または、労働力に。 ★資本としての貨幣の流通G―W―G’において、G―Wは等価交換であり、W―G’もまた等価交換である。したがって事態は G―W……W’―G’ということになる。 第2段落 ・われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。 ■労働力について述べられていたいくつかの部分からの引用 《そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。》(第1章第1節第12段落 国民文庫77頁・原頁52) 《生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである。裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である。それらは、ただ、人間の労働力を支出するための二つの違った形態でしかない。たしかに、人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、ただの人間労働を、人間労働(力)一般の支出を、表わしている。》(第1章第2節第10段落 国民文庫87頁・原頁58-59) 《すべての労働は、一面では生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてされは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。》(第1章第2節第16段落 国民文庫87頁・原頁58-59) 《流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは凝固状態において、価値になるのである。》(第1章第3節A―1 第6段落 国民文庫99頁・原頁65) 第3段落 ・しかし、貨幣所有者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない ・商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。 ・この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。 ・労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない。 ・労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。 ・この関係の持続は、労働力の所有者がつねに一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。 ・なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。 ・彼が人として彼の労働力にたいしてねつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。 ・そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする所有権は放棄しないというかぎりでのことである。 ●「それ自体としては」というのはどんな意味なのかが問題になり、「即自的にも向自的にも」「絶対的」と同じ意味ではないかとの発言がありました。 ■【即自】 〔(ドイツ) an sich〕〔哲〕 物の在り方が直接的で自足しており、無自覚で他者や否定の契機をもたないこと。へーゲル弁証法では、未だ対立の意識をもたない直接無媒介の状態とされ、この直接態が矛盾を生じ自と他の対立から反省を経て対自となり、さらに自他を止揚した即自かつ対自に至るとされる。これらは弁証法の正・反・合に対応している。アン-ジッヒ。(大辞林 第二版) ■【対自】 〔哲〕〔(ドイツ) für sich〕存在者が自己自身を対象化する自覚的在り方。ヘーゲル弁証法の一契機。向自。フュール-ジッヒ。 ■【即自且つ対自】 〔(ドイツ) an und für sich〕ヘーゲル弁証法で、「即自(アン-ジッヒ)」と「対自(フュール-ジッヒ)」の統一。即自は自己発展により対自となり、さらにこの対立が否定されて即自かつ対自となる。アン-ウント-フュール-ジッヒ。(大辞林 第二版) ■「それ自体としては」という表現が用いられているいくつかの箇所からの引用 《より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的富をなしている。》(国民文庫90頁・原頁60) 《諸物はそれ自体としては人間にとって外的なものであり、したがって手放されうるものである。》(国民文庫160頁・原頁102) 《それ自体としては商品でないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣とひきかえに売ることのできるものであり、こうしてその価格をつうじて商品形態を受け取ることができる》(国民文庫185頁・原頁117) ●「従属関係」は、他の訳本では「依存関係」と訳されており、「依存関係」という訳のほうが適切だろうとの結論になりました。商品交換は、自給自足ではなく、社会的分業が行なわれていることを前提している。個々の商品生産者は特定の使用価値の生産に従事し、自分では生産しない生活に必要な使用価値を他の商品生産者から買うことによって生きていく。ここでは、相互の依存関係がある。従属関係というと、奴隷主と奴隷、領主と農奴との関係のような支配・隷属関係をさすように思える。 ■人格的な依存関係と物象的な依存関係 《人類が最初に経験した生産関係は、原始共同体とその解体過程に生じたさまざまな形態の共同体を基礎とする生産関係である。ここでは、労働する諸個人はなんらかの共同体に帰属し、共同体の成員として相互に人格的依存関係を取り結び、労働諸条件すなわち生産手段にたいして、共同体に属するものにたいする仕方でかかわる。社会的生産のなかでの彼らの関係の特徴は、それが相互間の人格的な依存関係であるか、さもなければ、労働しない諸個人が労働する諸個人を人格的に支配する支配・隷属関係であるところにある。》(大谷禎之介『図解社会経済学』30頁) 《自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象を通じての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産関係であるが、この生産関係は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかりおおわれている。 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的労働が社会の総労働を形成しているのであり、それらは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働となるためには労働生産物の交換によらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象の社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり、それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。》 (大谷禎之介『図解社会経済学』34頁) ■《だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態として現われる。しかし、視覚の場合には、現実の光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜられるのである。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに反して、商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分な物である。》(第1章第4節 国民文庫135-136頁・原頁86-87) 《およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的関係として、現われるのである。》(第1章第4節 国民文庫136-137頁・原頁87) 《そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる――農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が、物質的生産の社会的諸関係を、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴づけている。しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。夫役は、商品を生産する労働と同じように、時間で計られるが、しかし、どの農奴も、自分が領主のために支出するものは自分自身の労働力の一定量だということを知っている。坊主に納めなければならない十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現われるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。》(第1章第4節 国民文庫143-144頁・原頁91-92) 2009年 12月 22日
第4段落 ・貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。 ★第3段落では、貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第一の本質的な条件として、労働力の所持者が労働力を売り出すこと、そのためには労働力の所持者は「労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力の、彼の一身の自由な所持者でなければならない。」と述べられていた。 第5段落 ・ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。 ・彼は革なしで長靴をつくることはできない。 ・彼にはそのほかに生活手段も必要である。 ・未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。 ・そして、人間は、地上に姿を現した最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない。 ・彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。 ・もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。 ・生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。 ●「生産手段」という言葉はここではじめて登場したのではないかとの発言がありました。これに対して第1章第1節第2段落「商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、すなわち受用の対象としてか、それとも回り道をして、生産手段としてかということも、問題ではない。」が最初に登場した箇所だとの指摘がありました。 ●労働力の販売は、労働力所持者が生産手段も生活手段ももっていないという条件の下で必然となる。ここで、生産手段だけではなく生活手段ももっていないことの指摘に注目しておこうとの発言がありました。 第6段落 ・だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。 ・自由というのは二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。 ■冒頭の「だから」は、新日本出版社版やフランス語版では「したがって」と訳されている。 ●〈ドイツ語に「Vogelfrei」という単語がある。Vogelとはワンダーフォーゲルのフォーゲルで鳥という意味、freiは英語のfree と同じで自由なという意味。Vogelfreiは、鳥のように自由なということになるが、行き倒れた人を鳥が自由についばむといった意味がある。〉との発言がありました。 ■ vo・gel・frei [フォーゲル・フライ](形容詞) 法律の保護外に置かれた (4格の名詞)+für vogelfrei erklären…(4格)から法律の保護を奪う ■発言者のIさんから、後日つぎのような紹介がありました。 〈先週発言したことについて,検索してみました。 「Vogelfrei マルクス」で検索したら http://www.osk.3web.ne.jp/~kamamat/matusige/tuika1/roumusyagainen1.htm 《労務者》概念と差別の起源 というのが載っています。その末尾にこう書いてあります。真意は理解できない部分もありますが。 「ドイツ語では、《浮浪者》に対して「フォーゲルフライ(Vogelfrei)」という言葉があります。フォーゲルというのは鳥なんですね。フライは英語のフリー。《鳥のように自由な》というわけですが、しかし、行き倒れになって《鳥が自由についばむ》ままにゆだねられる、という意味に使われ、これが定住してない人を指します。ですから字引を引くと《鳥のように自由な》とは訳してない。《法の保護の埒外に置かれた》というんです。つまり《カゴのなかにいない》ということ。カゴのなかにいないと法律は護ってくれない。これはドイツ語としてはおもしろいことだと思うんだけども、鳥のように自由だと、いつ、どんな殺され方をしても文句はいえない。それは《無宿人》がそうでしょ。そのへんで、さっきからドイツ語のことで考えていたんです。」 資本論では第24章で,マルクスは6箇所ほど使用しています。国民文庫(3)p361,362,364,374,392,405等。特にp361「人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして云々」 ここで「無保護な」のところをドイツ語原典にあたってみましたところ,すべて vogelfrei になっています。マルクスは「生活維持手段から引き離されて」の意味で使っていると思われます。〉 第7段落 ・なぜこの自由な労働者が流通部面で自分の前に立ち現れるかという問題には、労働市場を商品市場の一つの特殊な部門として自分の前に見いだす貨幣所持者は関心をもたない。 ・そしてこの問題はしばらくは我々の関心事でもない。 ・われわれは、事実にしがみつくという、貨幣所持者が実地にやっていることを、理論的にやるわけである。 ・とはいえ、一つのことは明らかである。 ・自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。 ・この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的関係でもない。 ・それは、明らかに、それ自身が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物である。 ★さしあたりは「二重の意味で自由な労働者」の存在を所与のものとして受け取って分析を進める。それがどのように生みだされたのかについては、後に第24章「いわゆる本源的蓄積」でとりあげられることになる。 ●「社会的生産構成体」というのは、「経済的社会構成体」と同じ意味なのだろうかとの疑問が出されました。結論は出ませんでしたが、この箇所は新日本出版社版では「それは明らかに、それ自身、先行の歴史的発展の結果であり、幾多の経済的変革の産物、すなわち社会的生産の全一連の古い諸構成体の没落の産物である。」(上製版289頁)、フランス語版では「それは明らかに、先行する歴史的発展の結果であり、あらゆる一連の古い社会的生産形態の破壊から生じた多数の経済的革命の産物である。」(157頁)となつている。 第8段落 ・さきに考察した経済的諸範疇もまたそれらの歴史的痕跡を帯びている。 ・生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包み込まれている。 ・商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。 ・われわれが、さらに進んで、生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、どんな事情のもとで起きるかを探究したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。 ・とはいえ、このような探究は商品の分析には遠いものだった。 ・商品生産や商品流通は、非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行なわれうるのである。 ・生産物が商品として現われることは、社会内の分業がかなり発展して、最初は直接的物々交換に始る使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。 ・しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。 ●「さきに考察した経済的諸範疇」とは何かという疑問が出され、「商品、貨幣、資本ではないか」との発言がありました。 ●「《交換価値に支配される》とは価値法則が貫徹することを意味しており、資本主義社会になってはじめて価値法則が社会全体をとらえるということではないか」との発言がありました。★果たしてそうか、再検討した方がいいように思えます。 ■ 社会構成体 しゃかいこうせいたい Gesellschaftsformation[ドイツ] 史的唯物論の立場から社会発展を世界史的に把握する際の基本概念。発展段階あるいは歴史の時代区分にも相当する。 経済的社会構成体ökonomische Gesellschaftsformationあるいは社会経済構成体sozialökonomische Formation ともいう。人間は生きていくために,彼自身の意志を超えて与えられている一定の社会関係にはいらねばならない。この関係の基本が生産関係であり,これは,その時代に相応する発達程度の生産力に照応している。こうした生産諸関係の総体が社会の経済的構造であり,いわば土台 Basis (下部構造 Unterbau) である。政治的・法律的諸制度や社会的諸意識形態すなわちイデオロギーあるいは固有の文化などは,いわば上部構造Überbau であって,こうした土台のうえにのみ成立し,そこからさまざまな規定や制約を受ける。そこで,その時代に相応する生産諸力が特性的な経済的構造に編成されるしかたを生産様式と呼ぶとすれば,生産様式は土台と上部構造との関係をも基本的な点で特色づけることになり,ここに歴史的に固有な社会構成体が成り立つのである。 社会構成体は累重的かつ前進的に生成する。マルクスは《経済学批判》序言でアジア的,古代的,封建的,近代ブルジョア的という四つの生産様式をあげ,その発展段階を示唆したが,現在では原始共同体,奴隷制社会,封建制社会,資本主義社会,社会主義社会という 5 段階を想定するのが定説とされている。こうした諸段階は,一つの社会構成体の内部で生産力が十分に発達し,既存の生産諸関係がそれに照応しなくなることによって土台が変わり,それに応じて徐々に,あるいは急激に上部構造が変革されることを通じて継起していく。こうした変化を具体的に表現するものが階級闘争であり,社会革命である。しかし,上部構造はとくにその文化的な面でしばしば強い相対的自律性をもち,具体的にある地域にある民族によって形成される社会の発展を制約するものであるから,こうした発展段階がすべての社会によって順次にたどられるのではない。 庄司 興吉 (世界大百科事典) 第9段落 ・あるいはまた貨幣に目を向けるならば、それは商品交換のある程度の高さを前提する。 ・種々の特殊な貨幣形態、単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣は、あれこれの機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的生産過程の非常にさまざまな段階をそし示している。 ・それにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発展で十分である。 ・資本はそうではない。 ・資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。 ・資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。 ・それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。 ●「単なる商品等価物」とは何かという疑問が出され、「商品価値を表現するという貨幣の機能=価値尺度機能のことを述べており、《単なる》というのは《実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態》という意味で使われているのではないか」との発言がありました。 ■新日本出版社版では「貨幣の特殊な諸形態――単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣――は、いずれかの機能の作用範囲の違いと相対的優越とに応じて、社会的生産過程のきわめて異なる初段階を示している」(上製版290頁)、フランス語版では「単なる等価物、流通手段、支払手段、蓄蔵貨幣、準備金などとしての貨幣の多様な機能は、それらの一方が他方にたいして相対的に優越することによって、社会的生産のきわめて多様な段階を示している。」(157-158頁)となっている。 ●《この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである》とはどういうことかとの疑問が出されました。 ■この箇所はフランス語版では《資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。》(158頁)となっている。 ●注41に出てくる「賃労働」とはどういう意味で使われているのかという疑問が出されました。 ■ 賃労働 ちんろうどう 商品として売買される労働力によって遂行される労働。生産手段を奪われた無産者は,労働力を売って生活することを経済的に強制され,労働の代償として賃金を受け取る。労働が全部不払の形をとる奴隷労働,支払・不払部分が分割されている農奴労働に対し,全部支払の外観をとるが,実は賃労働の過程で剰余価値が生み出され,不払労働がなされる。 (マイペディア) ■ 賃労働 ちんろうどう wage labour∥Lohnarbeit[ドイツ] 賃金収入を得るために雇用主に労働を提供すること。資本主義社会になって初めてこのような形態の労働が行われるようになった。奴隷や農奴の場合は,一定の時間決めで労働力を売るということはなかったし,また彼らは人格的にも主人や領主に従属していた。だから賃労働が支配的な形態となるためには,単なる社会への商品経済の浸透だけではなく,封建的な束縛から解放され,またこれといった生産手段をもたず,したがって生活手段ももたない,いわゆる〈二重の意味で自由〉な労働者が歴史的にまた恒常的につくりだされねばならなかった。歴史的には,これは封建的家臣団の解体やイギリスで最も典型的にエンクロージャー (囲込み運動) として現れた農民の土地からの追い出しによって行われた。 労働の対価として受けとる賃金が労働力の価値に相当し,したがって労働者は労働力を再生産するに必要な生活資料を買い戻せるにすぎないことによって,労働者が資本の再生産過程に繰り返し登場する。こうして賃労働は恒常的につくりだされる。労働者はその労働力を売ることによって,資本家ないしその代理の命ずる場所で,彼らの指揮のもとに労働に従事しなければならないのであるが,それは,そうすることによってのみ賃金が支払われるからである。そして,この賃金の後払いが労働者に対する資本家の支配を容易にし,また賃金が生活資料を買い戻すにすぎないところから,労働者は〈賃金奴隷〉として特徴づけられることもある。資本の再生産は,こうしてその実,資本家と労働者の関係の再生産にほかならないことになる。そればかりか,資本の蓄積は,より拡大された規模で賃労働者をつくりだし,彼らを資本の下に従属させることになる。賃労働者は資本の蓄積がつくりだす景気循環によって産業に吸収され,またそこから反発されながら全体としては資本家の指揮・命令に服し,賃労働を繰り返すことを余儀なくされているのである。 大塚 忠 (世界大百科事典) 2009年 12月 22日
第10段落 ・そこで、この独特な商品、労働力が、もっと詳しく考察されなければならない。 ・他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている。 ・この価値はどのように規定されるであろうか? ★「独特な商品」といわれているが、どんな点で独特なのだろうか? 労働力は労働生産物ではないということ、一定の時間を限ってのみ売られるということか。この後での叙述も踏まえて振り返ってみる必要があると思える。 第11段落 ・労働力の価値は、他のどの商品とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。 ・それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。 ・労働力は、ただ生きている個人の素質としてのみ存在するだけである。 ・したがって、労働力の生産はこの個人の存在を前提する。 ・この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼の再生産または維持である。 ・自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。 ・だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。 ・言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。 ・だが、労働力は、ただその発揮によってのみ実現され、ただ労働においてのみ実証される。 ・しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。 ・この支出の増加は収入の増加を条件とする。 ・労働力の所有者は、今日の労働を終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければならない。 ・だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。 ・食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。 ・他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり。したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活欲求をもって形成されたか、によって定まるものである。 ・だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。 ・とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。 ●「労働力の生産」と「労働力の再生産」に何か区別があるのだろうかとの疑問が出されました。 第12段落 ・労働力の所有者は死を免れない。 ・だから、貨幣の資本への連続的転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」、やはり生殖によって永久化されなければならない。 ・消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければならない。 ・だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子どもの生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化される。 ●《労働者の子どもの生活手段を含んでいる》と述べられているが、子どもだけではなく、労働者の妻の生活手段も含まれているのではないかとの意見が出されました。 ■注46のR・トレンズからの引用では「(労働の自然価格は)…労働者を維持するために、また市場で減少しない労働供給を保証するだけの家族を彼が養うことを可能にするために、一国の気候や習慣に応じて必要になる生活手段と享楽手段との量である」と述べられている。 第13段落 ・一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。 ・労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。 ・だから、この修行費は、普通の労働者についてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産のために支出される価値のなかにはいるのである。 ★商品等価物とは、ここでは貨幣のことだと思われる。養成や教育のためには教材費やテキスト代、授業料などが必要だということだろう。 ■この箇所はフランス語版では次のようになっている。 《他方、特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特定の方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってははわめてわずかであるとはいえ、労働力の生産に必要な商品の総計のなかにはいるのである。》(160頁) ●現在ではOJT(オンザジョブトレーニング 仕事の現場で、業務に必要な知識や技術を習得させる研修。現任訓練)が多く採り入れられているが、それをどう考えればいいのだろうとの疑問が出されました。これに関連して、OJTによって獲得できるのは熟練であり、熟練労働と複雑労働は区別すべきではないかとの発言がありました。 ■[複雑労働は単純労働に還元される] 《具体的労働のなかには、普通の人間が特別の発達なしに自分の肉体のうちに持っている労働力つまり単純労働力が遂行できる具体的労働(単純労働)のほかに、特別の教育を受け、特別の修行を積んだ、したがって特別の修行費を必要とする労働力つまり複雑労働力のみが遂行できるもろもろの具体的労働(複雑労働)がある。 労働の熟練度の相違は、具体的労働の作用度の相違であって、生産物の多寡によって一義的に評価されるのに対して、単純労働と複雑労働との区別は、それを遂行する労働力に特別な修行費が必要かどうかということであって、それが遂行する労働の作用度とは無関係である。しかも、複雑労働は一般に、単純労働をいくら積み重ねてもできないような具体的労働であり、したがってその生産物も単純労働の生産物とは種類が違うので生産物量で複雑さの程度を測ることはできない。 このような区別は、商品生産の社会ではどのように考慮されるのか。 商品生産の社会では、ある商品所持者が特別の修行費を必要とした労働力を持っている場合、その修行費は、彼が私的に支出したものである。しかも彼はこの修行費を、自分が提供する商品との交換によらないでは回収できない。だから、この社会で複雑労働が必要とされるかぎり、複雑労働力の所持者が彼の商品の交換をつうじて修行費も回収することができなければならないのである。 そこで、複雑労働の1時間の生産物は、単純労働の1時間の生産物よりも多くの価値をもつものとして通用する。複雑労働の1時間は、単純労働に還元されれば、単純労働の何倍かの時間に相当することになる。つまり、複雑労働は、単純労働よりも高い力能をもつ労働として通用するのであり、したがって何倍かの単純労働に還元されることになるのである。 こうして、複雑労働の力能の程度は、究極的には、それを行なうのに必要な複雑労働力の修行費の量によって規定されることになる。 複雑労働の単純労働へのこのような換算が絶えず行なわれていることは、日常的な経験からもすぐにわかる。しかし、資本主義社会では、この換算は、たえまのない試行錯誤をともなう長期的な過程のなかで結果として実現されていくばかりでなく、のちに見る労働力の売買 つうじての複雑な過程を経て行なわれるものであり、したがって、それぞれの複雑労働が単純労働に還元される比率は、生産者たちにとっては、彼らの背後で確定されるもの、習慣によって与えられるもののようにしか見えない。》(大谷禎之介『図解社会経済学』61-62頁) 第14段落 ・労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。 ・したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の変動に応じて変動するのである。 第15段落 ・生活手段の一部、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。 ・他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。 ・ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならない。 ・しかし、これらの支出の総額がたとえば一年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われなければならない。 ・かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+etc)÷365であろう。 ・この一平均日に必要な商品に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。 ・すなわち、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要である。 ・労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。 ・また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。 ・もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。 ・そして、我々の前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。 ★労働力は、一定の期間を限って売られるのだから、労働力の価値については、ある一定の期間の労働力の価値が問題になる。だから、ここでは1日の労働力の価値(労働力の日価値)について述べられている。 第16段落 ・労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。 ・もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。 ・なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。 ・しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。 ●最初の「労働力の価値」は「労働力の価格」ではないのかとの疑問が出されました。フランス語版では《労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命を危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する》(161頁)となっており、内容としては「労働力の価格の最低限」について述べていると理解しようという結論になりました。 第17段落 ・このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。 「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力(puissance de travail)を把握することは、一つの妄想(etre de raison)」を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段とを、労働者と労賃とを語るのである。」 ●「ここで何が非常に安っぽい感傷なのか理解できない」との発言がありました。 ■この箇所はフランス語版では次のようになっています。 《労働力の価値規定を粗野であるとみなして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働という人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金と言っているのである」。》(161頁) 第18段落 ・労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。 ・消化という過程のためには、丈夫な胃袋以上のものが必要である。 ・労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではない。 ・むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。 ・もし労働能力が売れなければ、それは労働者にはなんの役にも立たないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産に一定量の生活手段を必要としたこと、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感ずるのである。 ・そこで、彼は、シスモンディとともに「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのである。 ★《消化という過程のためには、丈夫な胃袋以上のものが必要である》とは、胃袋にはいってくる食物、消化される対象がなければ、どんなに消化能力のある胃袋をもっていても消化という過程は始らないと言うことだろう。同様に労働もまた、労働力だけではなしえない。こうした表現でマルクスは、原材料や労働用具といった生産手段がなければ労働はできないということを示唆しているように読める。 2009年 12月 22日
第19段落 ・この独自な商品、労働力の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。 ・労働力の価値は、他のどの商品とも同じに、労働力が流通過程にはいる前から決定されていた、というのは、労働力の生産のためには一定量の社会的労働が支出されたからであるが、しかし、その使用価値は後で行なわれる力の発揮においてはじめて成り立つのである。 ・だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れているのである。 ・しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には、買い手の貨幣はたいてい支払手段として機能する。 ・資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受ける。 ・だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。 ・労働者は、労働力の価値の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。 ・この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損出が時おり生ずるということによってだけではなく、多くのもっと持続的な結果によっても示されている。 ・とはいえ、貨幣が購買手段として機能するのか支払手段として機能するのかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。 ・労働力は、の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。 ・労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。 ・だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。 ●賃金は、労働力の消費が終わったのちに支払われるのは一般的なのだろうかという疑問が出されました。公務員は、当月分の賃金を15日に支払われている、民間では月末締めで翌月の決まった日に支払われたり、日給月給制では労働してはじめてカウントされるといった例が出されました。すべてではないにしても、「後払い」が大きな部分を占めているのではないかとの発言がありました。 ■ 労働基準法では以下のようになっている。 《(賃金の支払)第24条 賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。賃金は、毎月1回以上、一定の期日を定めて支払わなければならない。ただし、臨時に支払われる賃金、賞与その他これに準ずるもので厚生労働省令で定める賃金(第89条において「臨時の賃金等」という。)については、この限りでない。 (非常時払)第25条 使用者は、労働者が出産、疾病、災害その他厚生労働省令で定める非常の場合の費用に充てるために請求する場合においては、支払期日前であつても、既往の労働に対する賃金を支払わなければならない。 》 労働基準法は、支払日前の既往の労働にたいする支払義務についてのべており、賃金が既往の労働にたいするものであることを前提しているようである。 ■労働債権について 《1) 労働債権とはどのようなものか ① 労働債権; 月々の給料(賃金)・残業や休日出勤の割増賃金,退職金,解雇予告手当など 就業規則通り・法律通りに払われていなければ,過去2年間分は労働債権として請求できる。社内預金は,労働債権として扱われない場合があるから注意がいる。 労働基準法 第115条(時効) 「この法律の規定による賃金(退職手当を除く。),災害補償その他の請求権は二年間,この法律の規定による退職手当の請求権は五年間行わない場合においては,時効によつて消滅する。」 ② 労働債権の優先性 ・労働者は賃金が払われないとたちどころに生活できなくなってしまう。売掛金や貸付金もそれに一家の生活がかかっているという人もないとはいえないかもしれないけれど,普通は,商売をしていてその一部が焦げ付きになったり貸し倒れになったりということで,労働者の賃金の不払いの深刻さはその比較にならない。だから,法律はいろいろと労働債権を保護する決まりを設けている。 ・一般の買掛金債務や借入金債務を支払わなくてもそれだけで罰金を科されるということはない。はじめから返すつもりもないのに借金をしたり,代金を支払うつもりがないのに商品を買い入れたらそれは詐欺という犯罪になるが,そうでない限り,払えるのに借金を返さない,払えるのに代金を支払わないというだけでは犯罪にはならない。しかし,労働者が同意したのでない限り,賃金の遅配・欠配は,犯罪となる。 労働基準法24条「賃金は通貨で,直接労働者に,その全額を支払わなければならない」,労働基準法120条1項「労働基準法24条違反は30万円以下の罰金」。つまり,賃金不払は犯罪。 ・民法・商法等で労働債権は,他の売掛金や貸付金よりも優先的に弁済されるという労働債権の優先性を保障=先取特権。先取特権のある労働債権を証明すれば,正式の裁判手続きを経ることなく,いきなり,裁判所に使用者の財産に対する差押や競売等の申立を行って,債権回収できる。(いわば,抵当権を付けた住宅ローンのようなもの)。》 枚方法律事務所のホームページより引用 http://www.hirakata-lawoffice.com/kouen2.htm ●《売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品》とは、具体的にどんな商品なのかとの疑問が出されました。後の箇所で家賃について述べられており、「家屋の利用」がそうではないかとの発言がありました。また、家屋の利用については、「第3章第3節 貨幣 b 支払手段」でも取り上げられていたとの紹介がありました。 《ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ、買い手はその代価を支払う前に、それを買うわけである。》(国民文庫238頁・原頁149) ★《多くのもっと持続的な結果》については、注51で述べている。注51では、賃金が「後ばらい」であるため、労働者は掛け買いを余儀なくされ、そのために劣悪な商品を買うしかなかったり、普通より高い価格で買わざるをえなかったりすることが指摘されている。 第20段落 ・いま、われわれは労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所有者から支払われる価値の規定の仕方を知った。 ・この価値と引き換えに貨幣所有者が受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。 ・この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それに十分な価格を支払う。 ・労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。 ・労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。 ・そこで、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな[No admittance except on business ]と入り口に書いてあるその場所に行くことにしよう。 ・ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。 ・貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいない。 ★ 労働力はどんな点で独特な商品といえるのか。 《価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値がもっている》(国民文庫293頁・原頁181) 《人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在して》いる。(国民文庫294頁・原頁181) 《一時的に、一定の時間を限って》売られる。(国民文庫295頁・原頁182) 《労働力の価値規定は、他の商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的要素を含んでいる。》(国民文庫300頁・原頁185) 《力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れている》(国民文庫304頁・原頁188) ●《どのようにして資本が生産するか》という表現について、「これまでわれわれは資本とは自己増殖する価値であるととらえてきた。この箇所で述べていることは、どのようにして資本家が生産するのかということだろうか」との発言がありました。 ■ 「 No admittance except on business 」は、機械翻訳すると「当事者外立ち入り禁止」 第21段落 ・労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい天賦の人権のほんとうの楽園だった。 ・ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。 ・自由! なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。 ・彼らは自由な、法的に対等な人として契約する。 ・契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。 ・平等! なぜならば、彼らはただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。 ・所有! なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。 ・ベンサム! なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。 ・彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。 ・そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜け目のない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。 ■最初の部分は、新日本出版社版では《労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の部面は、実際、天賦人権の真の楽園であった。》となっている。 ■ベンサム [Jeremy Bentham] (1748-1832) イギリスの法学者・思想家。人間は快楽を追求し苦痛を避ける功利的存在であるとし、すべての道徳・立法の根拠は「最大多数の最大幸福」の実現にあるとした。著「道徳と立法の原理序説」など。 (大辞林 第二版) ■摂理 〔providence〕キリスト教で、この世の出来事がすべて神の予見と配慮に従って起こるとされること。 (大辞林 第二版) ■ 予定調和 〔哲〕〔(フランス) harmonie préétablie〕ライプニッツの説で、単純で相互独立的なモナドの合成体である世界は神の意志によってあらかじめ調和すべく定められているのだという考え。 (大辞林 第二版) ■神の見えざる手 市場経済の自動調節機構をいう語。経済活動を個々人の私利をめざす行為に任せておけば「神の見えざる手」により社会全体の利益が達成される、というアダム=スミスの経済社会思想を示す語。 (大辞林 第二版) ■「神の見えざる手」とはいったい誰が言い出した言葉なのだろう? アダム・スミスが「神の見えざる手」という言葉を使ったと書かれていることが多いが、その根拠をきちんと提示しているものを見たことがない。「諸国民の富(国富論)」の中では、単に「見えざる手(invisible hand)」という言葉が、第四篇第二章において、ただ一箇所使用されているだけである。 「酔狂人の異説」より引用 http://d.hatena.ne.jp/suikyojin/20041126 第22段落 ・この単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準をとってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変っている。 ・さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者として後についていく。 ・一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんののぞみもない人のように。 ●「卑俗な自由貿易論者」とはどんな人たちをさしているのかとの疑問が出されましたが、結論は出ませんでした。 ■「自分の皮を売ってしまって」について、新日本出版社版には《普通は「危険をしょい込む」「不快な結果に絶える」を意味する慣用句であるが、マルクスは語句どおりに用いて風刺している》との注がついている。 2009年 12月 08日
第1段落・貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通過程は、商品や価値や貨幣の流通そのものの性質について以前に展開されたすべての法則に矛盾している。 ・この流通形態を単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順序が逆になっていることである。 ・では、どうして、このように純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか? ●「貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通過程」について、G―W―G’のことだという発言がありましたが、これに対して、ここでは形態を取り上げて問題にしているのだから、価値量の増大については度外視して G―W―G とした方がよいとの意見が出されました。資本としての貨幣の流通と単純な商品の流通の差異は、前者が 買い―売り(売るために買う)、後者が売り―買い(買うために売る)である。そのかぎり、それは売りと買いの順序が逆になっているという純粋に形態的な差異でしかないというものです。 ●「商品や価値や貨幣の流通そのものの性質について以前に展開されたすべての法則」とはどういう内容かという疑問が出されました。さしあたり、商品の価値はその生産に必要な社会的労働の量によって規定され、商品の価値の大きさが商品の交換比率を規制するということだと理解しておこうということになりました。 第2段落 ・それだけではない、このような逆転が存在するのは、互いに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにとってのことである。 ・資本家としては私は商品をAから買ってまたBに売るのであるが、ただの商品所持者としては、商品をBに売って次にAから買うのである。 ・取引仲間のAとBにとってはこのような相違は存在しない。 ・彼らはただ商品の買い手かまたは売り手として姿を現すだけである。 ・私自身も、彼らにたいしてはそのつどただ貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対するのであり、しかも、私は、どちらの順序でも、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方にはただ貨幣として、他方にはただ商品として、相対するだけであって、どちらの人にも資本または資本家として相対するのではない。 ・すなわち、なにか貨幣や商品以上のものとか、貨幣や商品の作用以外の作用をすることができるようなものとかの代表者として相対するのではない。 ・私にとっては、Aからの買いとBへの売りとは、一つの順序をなしている。 ・しかし、この二つの行為の関連はただ私にとって存在するだけである。 ・Aは私とBとの取引にはかかわりがないし、Bは私とAとの取引にはかかわりがない。 ・もし私が彼らに向かって、順序の逆転によって私が立てる特別な功績を説明しようとでもすれば、彼らは私に向かって、私が順序そのものを間違えているのだということ、この取引全体が買いで始って売りで終わったのではなく逆に売りで始って買いで終わったのだということを証明するであろう。 ・じっさい、私の第一の行為である買いはAの立場からは売りだったのであり、私の第二の行為である売りはBの立場からは買いだったのである。 ・これだけでは満足しないで、AとBは、この順序全体がよけいなものでごまかしだったのだ、と言うであろう。 ・Aはその商品を直接にBに売るであろうし、Bはそれを直接にAから買うであろう。 ・そうすれば、取引全体が普通の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの立場からは単なる売り、Bの立場からは単なる買いになる。 ・だから、われわれは順序の逆転によっては単純な商品流通の部面から抜け出てはいないのであって、むしろ、われわれは、流通にはいってくる価値の増殖したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである。 ★マルクスは、売りと買いとの順序の逆転によっては、単純な商品の流通の部面から抜けでしていないという。なぜなら、一つ一つの取引(私とAとの取引、私とBとの取引)は単なる買いや単なる売りであり、順次の逆転は私についてのみいえることで、一方の買いは他方の売りであり、その逆も言えるからである。AとBにとっては、取引の内容は、Aの商品の価格が実現されAは貨幣を手に入れ、最初Aの手にあった商品をBが入手したということである。これは、AとBが直接に取引した場合にもいえることである。第1段落では〈純粋に形態的な相違によって過程の性質が変るのか〉と問題を立て、第2段落では、売りと買いとの順序の逆転は単純な商品流通の部面から抜け出てはいないことを確認し、《流通にはいってくる価値の増殖したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうか》という形で問題を再設定している。 第3段落 ・流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。 ・二人の商品所持者が互いに商品を買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払日に決済するという場合は、常にそれである。 ・貨幣はこの場合には計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役立ってはいるが、商品そのものに物として相対してはいない。 ・使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方とも利益を得ることができるということは、明らかである。 ・両方とも、自分にとって使用価値としては無用な商品を手放して、自分が使用するために必要な商品を手に入れるのである。 ・しかも、これだけが唯一の利益ではないであろう。 ・ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく、穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産するであろう。 ・また、穀作農民 Bは、同じ労働時間でぶどう栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するであろう。 ・だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、ぶどう酒や穀物を自分自身で生産しなければならないような場合二比べれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を、Bはより多くのぶどう酒を手に入れるのである。 ・だから、使用価値に関しては、「交換は両方が得する取引である」とも言えるのである。 ・交換価値のほうはそうではない、 ・「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らの間で50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手に入れた価値と等しい価値をすでに交換以前に持っていたのだからである。」 ■《流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。》は、フランス語版では《われわれは流通現象を、それが単なる商品交換として現われる形態においてとりあげてみよう》となっている。また、別の訳では《単なる商品交換としての外観をとる形を考えてみよう》となっていることが紹介されました。 ■計算貨幣について大谷禎之介氏は次のように述べている。 《価格の度量標準は、価格である観念的な金量を測るばかりでなく、貨幣である実在の金そのものを計量するのにも用いられるから、貨幣の度量標準でもある。それは、いわば、金量を測る物差しである。商品の価格で表象されている金であれ、価格である現実の金であれ、およそ金量を言い表すために金の諸量が度量システムとなっているとき、金は計算貨幣として機能しているという》(『図解社会経済学』95頁) また、『資本論辞典』では《…すべての商品はその交換価値をいい洗わすそい、貨幣名でいい表わすことになる。これを貨幣の側からいえば、貨幣は計算貨幣として役立つことになる。計算貨幣というのは、貨幣が価値尺度として機能し、さらに価格の度量標準として機能するという二つの機能にもとづくものである。この二つの機能が結びついて計算貨幣という機能が形成されるのであって、この二つの機能にたいして第三の機能として計算貨幣という機能があるわけではない。》(131-132頁 三宅義夫)と書かれている。 ●具体的な例を上げてみようということになりました。穀作農民がぶどう栽培者から5000円のぶどう酒を、ぶどう栽培者が穀作農民から8000円の小麦を掛買し、支払日に3000円の差額を決済した場合に、5000円分のぶどう酒と小麦は、単なる商品交換としての外観をとったといえる。 ●交換者たちが使用価値において利益を得ることについて、自分の欲望を充足させるのに必要な使用価値を手に入れるという「質」の問題とともに、分業による労働生産性の向上という「量」の問題についても書いているのは興味深いとの感想が出されました。 第4段落 ・貨幣が流通手段として商品と商品との間にはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれていても、事態にはなんの変わりもない。 ・商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである。 ★直接の商品交換でなく、貨幣が媒介するようになっても《使用価値に関しては、「交換は両方が得する取引である」とも言えるのである。交換価値のほうはそうではない》ということは変らない。 第5段落 ・抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他のある使用価値と取り替えられるということの他に、単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。 ・同じ価値が、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所有者の手の中に、最初は彼の商品の姿で、次にはこの商品が転化する貨幣の姿で、最後にはこの貨幣が再転化する商品の姿で、とどまっている。 ・この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない。 ・そして、商品の価値そのものがこの過程で経験する変転は、その貨幣形態の変転に限られる。 ・この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはある貨幣額、といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として存在する。 ・この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものではないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソブリン貨や半ソブリン貨やシリング貨と両替えする場合のようなものである。 ・こうして、商品の流通がただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、商品の流通は、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすのである。 ・それだから、価値がなんであるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが一致するということ、すなわちおよそそれらの作用がなくなるということを前提しているのである。 ・だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがありうるとしても両方が交換価値で得をするということはありえないのである。 ・ここては、むしろ、「平等のあるところに利得はない」ということになるのである。 ・もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる。 ・その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値を増やす手段ではないのである。 ★「抽象的に考察する」とは、理論的に考察すると言い換えられるように思える。現実には、さまざまな事情によって事態は理論が示すとおりではないことが多いのだが、さまざまな偶然的攪乱要因を捨象することで純粋に考察することができる。 ■《物理学者は、自然過程を、それが最も典型的な形態で、またそれが撹乱的な影響によってかき乱されることが最も少なく現れるところで、観察するか、あるいはそれが可能な場合には、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行う。私がこの著作で研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所はこんにちまでのところイギリスである。これこそ、イギリスが私の理論的展開の主要な例証として役立つ理由である。しかしもしドイツの読者が、イギリスの工業労働者や農業労働者の状態についてパリサイ人のように眉をひそめるか、あるいは、ドイツでは事態はまだそんなに悪くなっていないということで楽天的に安心したりするならば、私は彼にこう呼びかけなければならない、“おまえのことを言っているのだぞ! De te fabula narratur! ”と。》(第1版序文) 《分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。そこでとにかくことが進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、変則的にはこの形態変換で実体――価値量――が減らされたり加えられたりすることがあるにしても、つねに行なわれているのである。》(第3章 第2節 流通手段 a 商品の変態 第11段落 ) ■「平等のあるところに利得はない」の「平等」は、他の訳では「対等性」とか「相等しければ」と訳されている。 第6段落 ・それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようという試みの背後には、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。たとえばコンディャックの場合には次のようである。 ・「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。……もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。……なぜか? 諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望に対する物の関係にある。一方にとってはより多く必要なものは、他方にとってはより少なく必要なのであり、またその逆である。……われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは当然だった。……しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。」 ■コンディヤック 1715‐80 フランスの哲学者。法服貴族マブリ子爵を父としてグルノーブルに生まれた。パリで神学を学び,1740 年僧職につく。当時まだ無名のディドロ,ルソーたち新時代の知識人と親しく交わった。 58 年から 9 年間ルイ 15 世の孫,大公子フェルディナンの家庭教師としてイタリアのパルマに滞在,のちにその《講義録》 (1775) を出版した。 67 年に帰国,翌年フランス・アカデミーの会員に選ばれた。晩年はボジャンシーの近くの田園に隠棲した。哲学的主著には,《人間認識の起源に関する試論》 (1746) と《感覚論》(1754) がある。前者ではロックの学説を継承し,人間の認識の起源として感覚と反省の二つを認める立場をとった。しかし後者では,この立場をさらに徹底させ,人間の精神活動のいっさい (記憶,判断,欲望) を感覚の変形として一元的に説明した。この理論を証明するために彼が構想したのが, 〈私たちと同じように内部が組織されている〉立像で,この立像に順次賦与した嗅覚,聴覚,味覚,視覚,触覚の組合せによってしだいに精神的機能が形成されていく様相を,思考実験的に示した。なお彼は当時のエコノミストと直接のかかわりはなかったが,その著書《商業と統治との相関的考察》 (1776) によって,近代経済学の創始者の一人とみなされている。 (中川 久定 世界大百科事典) 2009年 12月 08日
第7段落・これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値を混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会とすりかえて、生産者が自分の生産手段で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである。 ・それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。 ・ことに、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。 ・たとえば、次のように言う。 ・「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。 ・したがって、商業は文字どおりに(strictly)」生産行為とみなされなければならない。 ■strict・ly ━━ ad. 厳しく; 厳密に. ・strictly speaking 厳密にいえば. (エクシード英和辞典) 第8段落 ・しかし、人々は商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない。 ・また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがもっと有用だとすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用である。 ・そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか? ・また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字通り(strictly)一つの「生産行為」を行なうのだ、とも言えるであろう。 ★商業は生産行為だと主張する人々に対して、売り手が生産行為を行なうと言うのであれば、買い手は売り手にとってより有用な貨幣をもたらす(売り手の商品を貨幣に転化する)のだから、買い手もまた生産行為を行なうとも言えるではないかとマルクスは批判している。 第9段落 ・もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣とが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。 ・そうすれば、剰余価値の形成は行なわれない。 ・しかし、その純粋な形態では、商品の流通過程は等価物どおしの交換を条件とする。 ・とはいえ、ものごとは現実には純粋には行なわれない。 ・そこで、次に互いに等価でないものどうしの交換を想定してみよう。 ★等価交換が行なわれるなら、流通からより多くの価値を引き出すことは不可能であり、したがって剰余価値も形成されないということになる。そこで、不等価交換を想定して検討してみよう。 第10段落 ・とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。 ・いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させる。 ・というのは、彼らのうちのだれも自分自身の欲望の対象は持っていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。 ・このような、諸商品の使用価値の素材的な相違の他には、諸商品のあいだにはもう一つの区別があるだけである。 ・すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣との区別である。 ・したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品の所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。 ■第2章交換過程の第1段落では、商品所持者について次のように述べられていた。 《商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法律関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する。一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。》(国民文庫155頁・原頁99-100) ★「これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。」とは、商品所持者相互の関係は、商品と商品との関係の人化であり、経済的関係に他ならない。そこには、人格的支配隷属関係などはない。商品所持者は、商品の代表者としてのみ存在しているのである。 ■マルクスは、ここで貨幣を「商品の転化した形態」と呼んでいる。他の箇所(「第3章 第2節 流通手段 b 貨幣の流通」の第3段落 国民文庫207頁 原頁・150など)では貨幣を「諸商品の価値が独立化されたもの」と呼んでいた。 ■フランス語版では《商品の有用性のあいだでのこの相違を別にすれば、商品間のもう一つの相違、商品の自然形態と商品の価値形態である貨幣との相違しか、もはや存在しない。》となっている。(146頁) 第11段落 ・そこで、なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高く売ること、たとえばその価値が100ならば110で、つまり名目上10%の値上げをして売ることが許されると仮定しよう。 ・つまり売り手は10という剰余価値を納めるわけである。 ・しかし、彼は、売り手だったあとでは買い手になる。 ・こんどは第三の商品所持者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた商品を10%高く売る特権をもっている。 ・かの男は、売り手としては10の得をしたが、次に買い手としては10を損することになる。 ・成り行きの全体は実際には次のようなことに帰着する。 ・すべての商品所持者が互いに自分の商品を価値よりも10%高く売り合うので、それは、彼らが商品を価値どおりに売ったのとまったく同じことである。 ・このような、諸商品の一般的な名目的値上げは、ちょうど、商品がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。 ・諸商品の貨幣名、すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は変らないであろう。 ●「諸商品の一般的な名目的値上げについては、金の生産性の上昇(金の価値の減少)の場合でも言えるし、その方がわかりやすいように思える」との発言がありました。 第12段落 ・今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。 ・ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。 ・彼は、買い手になる前にはすでに売り手だつたのである。 ・彼は買い手として10%もうける前に、売り手としてすでに10%損をしていたのである。 ・いっさいはやはり元のままである。 ●「商品所持者について、これまでのところでは一貫して商品所持者は、自分で生産した商品を売り、そうして手に入れた貨幣で自分が必要とするものを買うような人々とされている。商品所持者=商品生産者といえる」との発言がありました。 第13段落 ・要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売ることによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うことによっても、説明することができないのである。 第14段落 ・そこで、問題外の諸関係をこっそりもちこんで、たとえばトレンズ大佐などといっしょに次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはならない。 ・「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある。」 第15段落 ・流通のなかでは生産者と消費者とはただ売り手と買い手として相対するだけである。 ・生産者にとつての剰余価値は、消費者が商品に価値よりも高く支払うということから生ずる、と主張することは、商品所持者は売り手として高すぎる価格で売る特権を持っているという簡単な命題に仮面をつけることでしかない。 ・売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、どちらかであるが、同様に買い手も彼の貨幣に表わされた商品を生産したか、またはその生産者を代表しているか、どちらかである。 ・だから、ここで相対するのは、生産者と生産者とである。 ・彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。 ・商品所持者は、生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を払うのだ、と言ってみても、それは、われわれを一歩も前進させるものではない。 ●売り手が「その商品の生産者を代表している」とはどういう場合のことかとの疑問が出され、「父が生産した野菜をその子供が売りに出るといった場合が考えられるのではないか」との発言がありました。買い手が彼の貨幣に表わされた商品の生産者を代表するについても問題になりましたが、明確な結論は出ず、商品所持者は、商品の代表者であり、商品の人格化したものであることを押さえておこうということになりました。 ■フランス語版では「その商品の生産者を代理する」と訳されている。 第16段落 ・それゆえ、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生ずるという幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。 ・このような階級の存在は、われわれがこれまでに到達した立場すなわち単純な流通の立場からは、まだ説明のできないものである。 ・しかし、ここでは先回りしてみることにしよう。 ・このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとづいて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならない。 ・この階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部再びをだまして取りもどすというだけのことである。 ・たとえば、小アジアの諸都市は年々の貨幣貢租を古代ローマに支払った。 ・この貨幣でローマはそれらの都市から商品を買い、しかもそれを高すぎる価格で買った。 ・小アジア人はローマ人をだました。 ・というのは、彼らは商業という方法で征服者から貢租の一部分を再びだまし取ったからである。 ・しかし、それにもかかわらず、やはり小アジア人はだまされた人々であった。 ・彼らの商品の代価は、相変わらず彼ら自身の貨幣で彼らに支払われたのである。 ・こんなことはけっして致富または剰余価値形成の方法ではないのである。 ■フランス語版では《このような階級が不断に買うために使う貨幣は、無償で、交換なしに、自発的にまたは既得権によって、生産者の金庫からこの階級の金庫に不断に戻ってこなければならない》となっている。(148頁) ●「単純な流通の立場」とは「資本主義社会から抽象することによって取り出された商品生産者の社会」と言うことだろうとの発言がありました。 ■フランス語版では「単純な流通の観点」となっている。 ●「売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級」とは何をさしているのかが問題となり、「地主や貴族などのことではないか」との発言がありました。 ●ローマと小アジアのことが例として取り上げられているが適切なのだろうかとの疑問が出されました。 ■権原 けんげん 〔法〕 ある行為をなすことを正当とする法律上の原因。(大辞林 第二版) ■小アジア=アナトリア 古くは小アジアとも呼ばれる。トルコ語ではアナドルAnadulu。アジア西部にあり,黒海,エーゲ海,地中海に囲まれた半島。マルマラ海を隔ててバルカン半島と対する。現在のトルコの大部分を占める。高原状台地で,北にクゼイアナドル(ポントス)山脈,南にトロス山脈が走る。海岸は地中海式気候,内陸は雨量も少なく草原,砂漠をなす。主産物は穀物,果実,ヒツジ,クロム,銅など。アナトリアの歴史は古く,世界最古の鉄器使用地といわれる。前2000年ころにはヒッタイト王国が成立した。ローマ帝国領などを経て,11世紀ころトルコ人の移住が始まり,以降トルコ人の居住地となる。ヨーロッパとアジアを結ぶ東西交渉の舞台であり,ボスポラス海峡,ダーダネルス海峡を擁し,現在も戦略的に非常に重要な位置を占める。 < 前のページ次のページ >
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