『資本論』を読む会の報告

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2006年 01月 31日

第8回  1月24日 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

 1月24日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第8回の学習会を行いました。「第1章商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」の第18段落から最後まで、「第2節 商品に表される労働の二重性」の第1段落から、第8段落までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論

第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

第18段落 ・人間にとってのそのものの効用が労働に媒介されていない場合には、価値ではなくても使用価値である。空気や処女地など。

・自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品の生産は、他人のための使用価値、社会的使用価値の生産である。(商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役だつ他人の手に交換によって移されなければならない。)

・どんなものも、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働の中にはいらず、したがって価値も形成しない。

第2節 商品に表される労働の二重性

第1段落 商品に含まれる労働の二面的性格は、私がはじめて批判的に指摘した。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点である。

第2段落 1着の上着は10エレのリンネルの2倍の価値を持っていることにする。

第3段落 その目的、作業様式、対象、手段、結果によって規定されている労働、その有用性がその生産物の使用価値に、または、その生産物であるということに、表される労働を、われわれは簡単に有用労働とよぶ。

第4段落 上着とリンネルが質的に違った使用価値であるように、それらの存在を媒介する労働も質的に違ったもの―裁縫と織布である。商品として相対するのは、質的に違った使用価値、質的に違った有用労働の生産物である。同じ使用価値同じ使用価値と交換されることはない。

第5段落 ・いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な有用労働の総体―社会的分業が現われている。

・社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在子条件であるのではない。ただ、独立に行われていてお互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、お互いに商品として相対する。

●分業は英語ではdivision of laborで「労働の分割」という意味だということを覚えておこう。

第6段落 社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事としてお互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的相違が、一つの多肢的体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。

●「社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会」=「商品生産者の社会」とは実際には、資本主義社会以外ではないという意見が出されました。労働力を商品として売る以外に生きることができない賃労働者は生活に必要な物をすべて商品として購入するしかない。こうしてはじめて社会の生産物が一般的に商品という形態をとるようになるというものでした。

 これに対して、社会主義社会もまた商品生産の社会と言えるのではないかという意見が出されました。中国や北朝鮮などは社会主義ではあるが商品の存在する社会だというものでした。

 資本主義社会になってはじめて、社会の生産物が一般的に商品という形態をとるようになったという点では一致しましたが、社会主義社会をどのように考えるのか、中国や北朝鮮の社会をどのように評価するのかについては今後の課題として残しました。

第7段落 労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会状態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。

第8段落 いろいろな商品体は、自然素材と労働との結合物である。人間は、生産において、ただ自然そのものがやるとおりにやることができるだけである。この、形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力に支えられている。
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by shihonron | 2006-01-31 00:00 | 学習会の報告
2006年 01月 23日

第7回  1月17日 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」

 1月17日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第7回の学習会を行いました。「第1章商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」の第7段落から第17段落までを輪読、検討しました。

■内容要約

第6段落 一つの商品は、さまざまな交換価値を持っている。
たとえば、1クォーターの小麦の交換価値は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金…。
①同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表している。
②交換価値は、ただそれと区別されるある実質の表現様式、「現象形態」でしかありえない。

第7段落 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄
この等式は、同じ大きさの共通物が1クォーターの小麦のなかにも、aツェントナーの鉄のなかにも、存在することを意味している。両方とも或る一つの第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自体としては、その一方でもなければ、他方でもない。交換価値であるかぎり、この第三のものに還元できるものでなければならない。

第8段落 三角形の面積が、その目に見える形とまったく違った表現-その底辺と高さの積の二分の一-に還元されるように、諸商品の諸交換価値は、一つの共通なものに還元される。

第9段落 この共通なものは自然的な属性ではありえない。諸商品の交換関係を特徴づけていものは、諸商品の使用価値の捨象なのである。この交換関係のなかでは、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でそこにありさえすれば、ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである。

第10段落 使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろな違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえない。交換価値は、一分子の使用価値も含んでいない。

第11段落 そこで商品体の使用価値を問題にしないことにすれば、商品体に残るものは、ただ労働生産物という属性だけである。しかし、この労働生産物も、われわれの気がつかないうちにすでに変えられている。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表されている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働、抽象的人間労働に還元されているのである。

第12段落 これらの労働生産物に残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すんわちその支出の形態にかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。 それらの物が表しているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値-商品価値なのである。

第13段落
 商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである。

第14段落  ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。価値の大きさは、「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によって計られる。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた一時間とか一日とかいうような一定の時間をその度量標準としている。

第15段落 商品の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力からなっているのではあるが、ここでは一つの同じ労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格を持ち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練度および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。

第16段落 ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に必要な社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般にそれが属する種類の平均見本とみなされる。したがって、等しい労働量が含まれている諸商品、または同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値量をもっているのである。

第17段落 ある商品の生産に必要な労働時間が不変であるならば、その商品の価値も不変であろう。しかし、この労働時間は、労働の生産力に変動があれば、そのつど変動する。労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、また自然事情によって、規定されている。一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ小さく、その物品に結晶している労働量はそれだけ小さく、その物品の価値はそれだけ小さい。 逆に労働の生産力が小さければ小さいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その物品の価値はそれだけ大きい。つまり、一商品の価値は、その商品に実現される労働の量に比例し、労働の生産力に反比例して変動するのである。

■疑問点や議論

●第7段落では、マルクス以前に交換関係を等式で表現した人はいるのだろうかという質問が出され、次回までに調べることになりました。また「それらの交換価値がどうであろうと」という箇所は別の訳では「交換比率」となっていることが紹介されました。

●第13段落で「研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれもどすことになるであろう」と書かれているが、『資本論』のどの部分のことが念頭にあったのだろうかという疑問が出されました。「第1章第3節 価値形態または交換価値」のところがそうだという結論になりました。

●第17段落の「生産過程の社会的結合」とはどういうことかとの疑問が出され、「協業や分業」のことではないかという結論になりました。

■資料

●商品の分析で取り上げられている商品はどんなものか
【ここで取り上げなければならない商品は、「市場経済」のなかで人々が、日々、自己の生存のために市場にもっていって売っている商品であり、人間の生存と社会の存続を支える社会の富がとっている独自の形態としての商品である。言い換えれば、社会の総労働の一部によって日々生産され、市場で交換されたのちに、生産や個人的消費のなかで社会の総欲求の一部を日々満たしている、そのような商品であり、市場の需給関係によって価格が変動し、生産者たちがこの価格の変動をバロメーターにして生産量を増減させているような商品である。だから、店で売られているものであっても、古本や古物のようなものはここでは考察の外におかなければならない。本来の商品や貨幣がどのようなものであるかがはっきりしたのちにはじめて、労働によって生産されたのではない「商品」であるとか、世界にただ一つしかない「商品」であるとか、あるいは買い手の欲求と支払能力以外に価格水準を決めるものがないようなさまざまの「商品」について、その価格や価値のことを理解することができるようになるのである。】(大谷禎之介『図解社会経済学』52頁)

●価値について
【価値というのは、経済学が苦心惨憺してはじめて見つけ出したというようなものではない。昔から、市場にやってくる売り手や買い手は、自分の商品についても他人の商品についても、それぞれの商品が社会的に認められているはずの、ある大きさの「ねうち」をもっていると考えていて、ある商品の価格(売り値)がそれの「ねうち」よりも高くなれば、その商品は有利になっていると感じ、それよりも低くなっていれば不利になっていると感じる。そしてこのような判断にもとづいて、自分がなにをどれだけ生産するか、市場に出すかを決めていた。このような「ねうち」を、売り手や買い手たちも、またのちに古典派経済学者たちも「価値(value)」と呼んだのである。経済学が発見しなければならなかったのは、この「価値」とはいったいなにによつて決まるのだろうか、そもそもそれは商品のもっているどのような性質をさいているのだろうか、ということであった。これについてA・スミスなどの古典派経済学者は、価値は労働の量だという「労働価値説」を唱えたのであり、マルクスはこの労働価値説をさらに厳密に発展させたのであつた。これにたいして、価値は「効用」によつて決まるという「効用価値説」が生まれて、俗流経済学者たちによって広められたが、そのもともとの形態では効用の主観性・恣意性への疑問に答えることがきわめて困難であったために、1871年にジェヴォンズ、ワルラス、メンガーの3人によって、それぞれ独立に、限界原理をもちこんだ「限界効用価値説」という新たな装いを与えられなければならなかった。しかし、現代のエコノミクスでは、この効用価値説でさえも「形而上学的な議論」たとして、「価値」などという概念は使う必要がないとする「理論」が支配的である。】 (大谷禎之介『図解社会経済学』54頁)
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by shihonron | 2006-01-23 11:28 | 学習会の報告
2006年 01月 17日

第6回  1月11日 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」

 1月11日(水)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第6回の学習会を行いました。「第4版へ」および「第1章商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」の最初から第6段落までを輪読、検討しました。

■「第4版へ」について
 特に大きな議論はありませんでした。マルクスの引用に対する「マルクスはこの文章を形式的にも実質的にも偽造してつけ加えたのだ!」という非難が行われましたが、それに対して根拠をあげて反論された経過が明らかにされています。マルクスの信用を傷つけようという試みは破綻しました。同様な中傷は、現在でも教科書問題やNHK番組改変問題などにおいても行われているという意見が出されました。

■「第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値 (価値実体 価値量)」につ いて


第1段落
 資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり)」として現れる。一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。

●さしあたり「資本主義的生産様式」をどのようにとられておけばいいのか。それはいったいどんなものか?
 資本主義社会は、現在我々が生きている社会であること、いくつかの特徴があげられ議論になりました。出された特徴は「大量生産」「貧富の差が激しい」「あらゆるものが商品になる」「冨が増える」などでした。「貧富の差が激しいのは資本主義に限らないのではないか」との反論も出され、さしあたりは「資本家が労働者を雇って行う生産」ととらえておけば良いのではないかということになりました。

●なぜ「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」という言い方がされているのか?
 一般に「資本主義社会」と呼ばれている社会では、すべての生産が資本主義的生産様式でなされているわけではない。生産の根幹、大部分は資本主義的生産様式であっても、たとえば自作農や家族だけで経営されている事業所なども存在するからだろうということになりました。

●「冨」とは何か?
 「人間の欲求を満たすもの」「財のこと」などの意見が出されました。

●注一【 カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、一八五九年、3ページ〔『全集』、第13巻、13ページ〕。】で指示されている箇所の叙述は?

「一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている。」
(国民文庫『経済学批判』23頁)

■第2段落について
●ここでは商品は「まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である」と述べられている。ここで分析される商品は、「外的対象」「物」であることに注意しておこう。

●「受用」とは?
 言葉の意味としては「うけいれて、もちいること」。「受用の対象」とは「消費の対象」ということだろう。

 
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by shihonron | 2006-01-17 09:12 | 学習会の報告