『資本論』を読む会の報告

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2006年 04月 30日

第17回  4月25日 C 一般的価値形態  1 価値形態の変化した性格

4月25日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第17回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 C 一般的価値形態 1 価値形態の変化した性格」の第6段落から「2 相対的価値形態と等価形態との発展関係」の最後(第7段落)までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
 
第3節 価値形態または交換価値  
 C 一般的価値形態  1 価値形態の変化した性格


第6段落
・単純な価値形態と展開された価値形態は、商品の価値を一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であって、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれをなしとげる。他の諸商品は、その商品(相対的価値形態にある商品)にたいして、等価物という単に受動的な役割を演ずる。
・これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。
・こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであるり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。

●「私事」とは、他の諸商品のかかわりなしに、その商品が自分だけで勝手にやることを意味している。これに対して「共同の仕事」は、すべての商品がかかわることを必要としており、「私事」ではなく社会的行為であり、「諸商品の全面的な社会的関係」である。

●一般的価値表現は「社会的に認められた形態」である。なぜなら、すべての商品が、自分たちの価値を、同じ商品(一般的等価物)の使用価値で表すからである。

第7段落
・リンネルに等しいものという形態でいまやすべての商品が質的に同等のもの、すなわち価値一般として現われるだけではなく、同時に、量的に比較されうる価値量として現われる。同時に、量的に比較されうる価値量として現われる。すべての商品がそれぞれの価値量を同じ一つの材料、リンネルに映すので、これらの価値量は互いに反映しあう。
・たとえば、10ポンドの茶=20エレのリンネル、そして、40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル。したがって、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー というように。または1ポンドのコーヒーに含まれている価値実体、労働は、1ポンドの茶に含まれているそれの四分の一でしかない、というように。

第8段落
・商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値形態なのであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。
・リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められる。織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。
・一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。
・このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表されているだけではない。この労働の積極的な性質がはっきりと現われてくる。この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。

●「(いっさいの人間労働の)一般的な社会的な蛹化」とはどういうことか?
 「蛹化」とは「昆虫類の幼虫が脱皮して蛹(さなぎ)になること」だが、ここでは人間労働が「対象化」「物質化」「凝固」したものをさしているということになりました。

●一般的等価物(リンネル)を生産する労働は、私的労働であるが、社会的労働として認められるということだろうか?

●抽象の消極性と積極性について述べているが、消極性は、ある性質や側面を度外視すること(捨象すること)であり、積極性は共通する性質や側面を取り出す(抽象する)ということのようだ。

第9段落 
諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的社会的性格が労働の独自な社会的性格となっていることを明らかに示しているのである。

●一般的価値形態は、商品世界の社会的表現である。なぜなら、一般的価値形態の成立には、すべての商品の「共同の仕事」(ある一つの商品を商品世界から除外し、その商品で価値を表現する)が必要なのだから。

●労働の「一般的社会的性格」とは何か? 一般的性格=抽象的人間的労働(人間労働力の支出としてとらえられる労働)のことではないか。

●労働の「独自な社会的性格」とは何か? 労働生産物が商品として現われる社会において、労働が受け取る独自な性格のことではないか。

●労働生産物が商品として現われる社会においては、直接には私事としてなされる労働の社会的性格は、直接に労働としてではなく、商品の物としての性質として、物に対象化した労働=価値として現われるということを述べているのではないか。

第3節 価値形態または交換価値  
 C 一般的価値形態  2 相対的価値形態と等価形態との発展関係


第1段落 
相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が照応する。しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ想定的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。

●価値表現において積極的に振舞うのは、相対的価値形態にある商品であり、等価形態に置かれる商品は、受動的である。
等価形態に置かれる商品は、相対的価値形態にある商品によって、等価物としてもつ性質を「押し付けられ」、「受け取る」のである。

第2段落
・一商品の個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にする。
・相対的価値の展開された形態、すなわちすべての商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。
・最後に、ある特別な商品種類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にする空である。

●価値形態の発展にともなう等価物の発展 
 個別的等価物 → 特殊的等価物 → 統一的一般的等価物

第3段落
しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立も発展する。

第4段落
すでに第一の形態――20エレのリンネル=1着の上着――もこの対立を含んでいるが、それを固定させてはいない。同じ等式が前のほうから読まれるかあとのほうから読まれるかにしたがって、リンネルと上着というような二つの商品極のそれぞれが、同じように、あるときは相対的価値形態にあり、あるときは等価形態にある。両極の対立をしっかりとつかんでおくには、ここではまだ骨が折れるのである。

●第一形態では、等式の両辺がともに一つの商品なので、左辺と右辺の区別・対立をとらえるには注意が必要だということ。

第5段落
・形態Ⅱでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開しうるだけである。言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして等価形態にあるからこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。
・ここではもはや価値等式――たとえば、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦、等々――の二つの辺をおきかえることは、この等式の全性格を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。

第6段落
このあとのほうの形態、すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである。

●等価形態にある商品が、相対的価値形態にある商品との直接的交換可能性をもつのは、相対的価値形態にある商品が自分の価値を等価形態にある商品の使用価値で表現しているからにほかならない。この価値表現において、相対的価値形態にある商品は、等価形態にある商品を自分に等置する。そうすることで等価形態にある商品をその現物形態が価値の現象形態という意味しかもたないもの=価値体にするのである。等価物が相対的価値形態にある商品との直接的交換可能性をもつのは、相対的価値形態にある商品の行為の結果である。等価形態にある商品は、そうした性格を最初からもっていたのではなく、相対的価値形態にある商品によって与えられたのである。

第7段落
・反対に、一般的等価物の役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしリンネルが、すなわち一般的等価形態にある何らかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表していない動議反復になるであろう。
・一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で総体的に表現されるのである。こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態としてあらわれるのである。
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by shihonron | 2006-04-30 00:00 | 学習会の報告
2006年 04月 24日

第16回  4月18日 B 全体的な、または展開された価値形態

 4月18日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第16回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 B 全体的な、または展開された価値形態」の最初から「C 一般的価値形態 1 価値形態の変化した性格」の第5段落までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
 
第3節 価値形態または交換価値 
B 全体的な、または展開された価値形態


z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または=w量の野商品D または=x量の商品E または=etc

●Bのタイトルの「全体的な」はどういう意味か?
個別的な価値形態では、商品Aの価値は商品Aとは違った他の一つの商品で表現されるだけであるが、全体的な価値形態では、商品Aの価値は他のどんな商品種類でも価値を表現している。「全体的な」は、他商品の全体によって商品Aの価値が表現されているからだろうということになりました。

1 展開された価値形態

第1段落
・ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネルの価値の鏡になる。
・こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれとひとしいとされる労働として表されているからである。
・すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金のどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。
・それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。
・同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。

●「・・・こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる」とあるが、「はじめてほんとうに」はどういう意味で使われているか?
今までの個別的価値形態が嘘とか架空であったとかではなく、全体的な価値形態においては誰にでも目に見える形で、また、実際においてもAの価値が無差別な人間労働の凝固として現れる、ということではないかとの意見が出されました。

●最後の文章で「商品として、リンネルはこの世界の市民である。」とあるが、「世界の市民」とは?
リンネルは商品世界に対して社会的な関係に立つことを言っている。「市民」は辞書では「国政に参与する権利をもつ人。公民。中世ヨーロッパ都市の自治に参与する特権をもつ住民に由来する。」と説明されている。単に構成員というだけではなく、積極的にかかわりを持つという意味合いが含まれているのではないか。

第2段落
・第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されるということは、偶然的事実でありうる。
・これに反して、第二の形態では、偶然的現象と本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表されようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。
・交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。

●第一形態、第二形態はAとBに対応していることが確認された。

●「交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合をきせいするのだ」はどういう意味との疑問が出され、リンネルの価値は上着やコーヒーなど無数の商品のどれで表されようとも常に同じである。その結果、第一の形態のような二つの商品の関係、すなわち二人の個人的商品所有者の偶然的な関係はなくなり、第二の形態では商品の価値量こそが商品の交換割合を規制するもであることが誰の目にも明瞭になる、ということではないかとの意見が出されました。



2 特殊的等価形態

・上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物として、したがって価値物として、認められている。これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的等価形態である。
・同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまの具体な労働種類も、いまでは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊的な実現形態または現象形態として認められているのである。

■「特殊」〔particular〕については、辞書(大辞林 第二版)では次のように説明されています。【普遍が全体にかかわり、個別がその全体に含まれる個々の要素にかかわるのに対し、全体の一部にかかわることをいう。例えば、「人間」「この人間」に対して「ある人間」。】

3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥

第1段落
・第一にその表示の列は完結することがなく、未完成である。
・第二に、この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。
・最後に、それぞれの商品の相対的価値が、当然そうならざるをえないこととして、この展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。
・展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。ここでは各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで一つの特殊的等価形態なのだから、およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである。
・同様に、それぞれの特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ人間労働の特殊的な、したがって尽きるところのない現象形態でしかない。
・人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。しかし、そこでは人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。

● 「およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである」とはどういうことか?
・展開された価値形態において、商品Aは無数の他の商品と相対する。しかし、商品Aは同時に他の現物形態にて価値を表現することはできない。それゆえ、商品Aの価値を表現する他の商品の現物形態は無数の特殊等価形態であるが、それぞれは一つの特殊な等価形態でしかなく統一した等価形態ではないことを言おうとしているのではないかとの意見が出されました。

■大谷禎之介氏はこの点について次のように説明しています。
「もしも、どの商品も自分の価値をこの開展された形態で表現するとすれば、どの商品の相対的価値形態も、それぞれみな違った無限の価値表現列である。それぞれの商品の価値表現のなかでは、他のすべての商品はただ等価物の形態で現われるだけであるから、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。相対的価値形態のこれらの欠陥は、等価形態に反映する。1)等価形態にある諸商品の現物形態のそれぞれが、互いに並ぶ特殊的な等価形態なのだから、ひとつひとつの特殊的な等価形態は全体の一部分をなす制限された等価形態にすぎない。しかもここには、こうした制限された等価形態しか存在しない。」(「価値形態」『経済志林』第61巻第2号211頁)

第2段落
とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式から成っているにすぎない。たとえば
    20エレのリンネル=1着の上着
    20エレのリンネル=10ポンドの茶
などの総計からである。

第3段落
・じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。――そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etcという列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表してみれば、次のような形態が与えられる。

C 一般的価値形態

1着の上着 =       
10ポンドの茶 =    
40ポンドのコーヒー =
1クォーターの小麦 = 〕 20エレのリンネル
2オンスの金 =  
1/2トンの鉄 =  
x量の商品A =    
等々の商品 =

1 価値形態の変化した性格

第1段落いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのはただ一つの商品で表しているからであり、そして、(2)統一的に表している、というのは同じ商品で表しているからである。諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがつて一般的である。

第2段落
・形態ⅠとⅡはどちらも、ただ、一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった。

第3段落
第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄、などという価値等式を与えた。上着価値はリンネルにひとしいもの、茶価値は鉄に等しいものというように表現されたのではあるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。
・この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。

第4段落
・第二の形態は第一の形態よりももっと完全に一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別している。なぜならば、たとえば上着の価値は、いまではあらゆる可能な形態で、すなわちリンネルに等しいもの、茶に等しいもの、等々として、つまりただ上着に等しいものだけを除いて他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対しているからである。
・他方、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。なぜならば、ここではそれぞれの商品の価値表現のなかでは他のすべての商品はただ等価物の形態で現われるだけだからである。
・展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。

第5段落
・新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表す。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにこのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。

●「新たに得られた形態」とは「一般的価値形態」のことかとの疑問が出され、そうだということになりました。
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by shihonron | 2006-04-24 00:00 | 学習会の報告
2006年 04月 22日

第15回  4月11日 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

 4月11日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第15回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 4 単純な価値形態の全体」を輪読、検討しました。

■内容要約と議論

第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 
3 単純な価値形態の全体 


第1段落
・ある一つの商品の単純な価値形態は、異種の一商品にたいするその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の一商品との交換関係のうちに、含まれている。
・商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。
・商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。
・言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。
・この章のはじめに、普通の言い方で、商品は使用価値であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密に言えばまちがいだった。商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。
・商品は、その価値が商品の現物形態と違った独特な現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、そのあるがまのこのような二重物として現われるのであって、商品は孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにただ第二の異種の一商品に対する価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。とはいえ、このことを知っておきさえすればさきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役だつのである。

●商品Aの価値の質的表現については「商品Aとの商品Bの直接的交換可能性」といい、量的表現については「交換可能性」と書かれているが、違いはあるのだろうかとの疑問が出されました。商品Aの価値表現のなかで、等価物である商品Bが商品Aに対して直接的交換可能性を持つという点では、「交換可能性」もまた「直接的交換可能性」と違ってはいない。ただ、直接的交換可能性は、価値という質の表現であり、量的表現は価値としての質的に等しいことを前提にして問題になるので「交換可能性」と書かれているのではないかという意見が出されました。

●商品を「孤立的に考察」するとはどういうことか。商品のあるがままの姿は使用対象(使用価値)であり、それを一つだけ取り出してくることではないか。しかし、それは、孤立した使用対象でしかなく、価値形態(交換価値)をもっていない。それが商品であることさえわからない。他の商品との価値関係(「20エレのリンネルは1着の上着に値する」とか「20エレのリンネルは5000円である」とか)のなかでのみ商品は価値形態をもつ、別の言い方をすれば商品であることが表現されるということだろう。

第2段落
・われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるのであって、逆に価値や価値量がそれらの交換価値としての表現様式からでてくるのではない。
・ところが、この逆の考え方は、重商主義者たちやその近代的蒸し返し屋であるフェリエやガニルなどの妄想であるとともに、彼らとは正反対の近代の自由貿易外交店員、バスティアやその仲間の妄想でもある。
・重商主義者たちは価値表現の質的な面に、したがって貨幣をその完成形態とする商品の等価形態に、重きをおいているが、これとは反対に、どんな価格でも自分の商品を売りさばかなければならない近代の自由貿易行商人たちは相対的価値形態の量的な面に重きをおいている。したがって、彼らにとっては、商品の価値も価値量も交換関係による表現のなかよりほかにはないのであり、したがってまた、ただ日々の物価表のなかにあるだけである。
・スコットランド人マクラウドは、ロンバート街の混乱をきわめた諸観念をできるだけ学問らしく飾り立てるというその機能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとをみごとに総合したものになっているのである。

■重商主義
マーカンティリズムmercantilismの訳。16―18世紀,資本主義が産業革命によって確立されるまでの初期的段階に,西欧諸国が国富増大を目ざして採った政策と理論。英国での展開が典型的。貿易による金銀獲得を目ざす重金主義から金銀よりも貿易黒字を目ざすべしとする貿易差額主義に発展した。市民革命後の未成熟な産業資本を保護しようとする本来の重商主義(英国,ナポレオン1世治下のフランスの保護主義)と,産業資本の発達を阻止しようとする絶対主義的重商主義(フランスのコルベール主義,ドイツの官房学派など)が区別される。 (マイペディア)

■ 自由貿易主義 
貿易に対する国家の干渉を排して自由な対外取引を行うという考え方や政策。まず重商主義的保護貿易主義批判として現れた。A.スミス,リカードらが唱えて,経済活動の自由に対する産業資本の要請に理論的裏付を与えた。のちマンチェスター学派が運動として展開し,19世紀半ばの英国では関税改正,穀物法や航海法の廃止が行われた。以後通商条約網を通じて各国に広がったが,20世紀に入り各国の工業化の進展,国際競争激化の中で保護貿易主義にとって代わられた。第2次大戦後は貿易為替自由化という新しい姿で現れている。 (マイペディア)

■保護貿易主義
国家が貿易に一定の干渉を加えて自国産業,国内市場の育成・防衛をはかる考え方,政策。輸出入の統制・奨励と,関税政策がある。重商主義下には高率関税,輸出奨励金などの保護を行った。次いで幼弱なドイツ産業保護のためF.リストが唱え,ドイツや米国など当時の発展途上国で育成関税を実施。さらに成長した産業のための国内市場防衛策としての防御関税,独占資本維持強化をはかる独占関税,1930年代の不況期に一般化した輸入割当制,為替管理などが行われている。  (マイペディア)

■フェリエ 1777-1861 フランスの経済学者。新重商主義・保護貿易主義の立場だとマルクスは評価している。

■ガニル 1758-1836 フランスの経済学者・金融評論家で、新重商主義者。富は交換価値からなり、貨幣―貨幣たるかぎりの商品―だと主張、商品の価値を交換の生産物と考えた。

■バスティア 1801-1850 フランスの俗流経済学者で自由貿易論者。彼は、人間のすべてのサーヴィスが生産的であるとし、価値は交換されたサーヴィスの比例であるとした。

■マクラウド 1821-1902 イギリスの経済学者。

●重商主義は、保護貿易主義であり、自由貿易主義とは「正反対」である。重商主義者(重金主義者)たち、は「金こそ富である」と考え、自由貿易行商人は「いくらで売れるか」が最大の関心事だったということ。

第3段落
・商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。
・つまり商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品はただ交換価値として認められるのである。つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。

●商品は、使用価値であると同時に価値である。しかし、そのことは一つの商品だけをとりだしてきても分かるわけではない。20エレのリンネル=1着の上着という単純な価値表現(価値形態)において、20エレのリンネルが使用価値であるとともに価値であることがはっきりと示される。リンネルは、そのままの姿で使用価値であり、上着と等しいものとして価値なのである。

●「それで価値が表現される他方の商品はただ交換価値として認められる」と書かれているが、「価値として認められる」ではないだろうかという疑問が出されました。リンネル=上着という価値関係のなかで、上着は価値として認められ、直接的交換可能性の形態にあると言えるが、ここでは上着がリンネルの価値の現象形態となっていることを指摘しているのではないかとの意見が出されました。

●「使用価値と価値との対立」という言葉が出てくるが、この「対立」とはどういうことかとの疑問が出されました。第1節では「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の交換価値もふくんではいないのである。」(国民文庫76頁、原頁52)と述べられていた。価値は使用価値とは無関係であり、まったくちがったあるものだということ、互いに相容れない、排除しあう関係ということではないかとの意見が出されました。

第4段落
・労働生産物は、どんな社会状態のなかにあっても使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。
・それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展にいったするということになるのである。

●第3節の冒頭では次のように書かれていた。「商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦として、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、それが二重形態、すなわち現物形態と価値形態をもつかぎりでのみ、商品として現われるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。」(国民文庫92-93頁 原頁62)

第5段落
単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。


第6段落
・ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aをそれ自身とは違ったなんらかの一つの商品種類に対する交換関係のなかにおくだけであって、ほかのすべての商品との商品Aの質的同等性と量的な割合とを表すものではない。
・一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現のなかでは、ただこの一つの商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。

●ここでは単純な価値形態の不十分さが述べられている。
①商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけである。
②ほかのすべての商品との商品Aの質的同等性と量的な割合とを表していない。
③個別的な等価物である商品は、単純な相対的価値形態にあるただ一つの商品にたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。

第7段落
・とはいえ、個別的な価値形態はおのずからもっと完全な形態に移行する。個別的な価値形態によっては、一商品Aの価値はただ一つの別種の商品で表現されるだけである。しかし、この第二の商品がどんな種類のものであるか、上着や鉄や小麦などのどれであるは、まったくどうでもよいのである。つまり、商品Aが他のどんな商品種類にたいして価値関係にはいるかにしたがって、同じ一つの商品のいろいろな単純な価値表現が生ずるのである。商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。それゆえ、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き伸ばせる列に転化するのである。

●最初に取り上げられ分析される価値形態をマルクスは「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」と名づけている。「単純な(簡単な)」の意味は、「最も単純な価値関係は、明らかに、なんであろうとただ一つの異種商品にたいするある一つの商品の価値関係である。それゆえ、二つの商品の価値関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである」(国民文庫94頁 原頁62)と述べられていることから明らかである。また、「個別的な」というのは、一商品の価値の異種の一商品の使用価値による、個別的な表現、一商品の価値だけの表現だということだろう。そして、「偶然的な」というのは、等価物商品が何であるかは、この単純な価値形態にとってはどうでもいいのであり、例えば上着が等価物になっているのは「偶然的」だということではないかという意見が出されました。
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by shihonron | 2006-04-22 09:55 | 学習会の報告
2006年 04月 06日

第14回  4月4日 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 

 4月4日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第14回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 3 等価形態」の第12段落から最後(第17段落)までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論

第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 
3 等価形態
 

第12段落
・具体的労働である裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それ(裁縫)は、リンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それ(裁縫)は、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。
・それだからこそ、この労働(裁縫)は、他の商品(リンネル)と直接に交換されうる生産物となって現れるのである。だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、とうかぶつの第三の特色である。

●【裁縫が無差別な人間労働(抽象的人間的労働)の現象形態という意義しかもたなくなる】

【裁縫は、リンネルに含まれている労働(抽象的・人間的労働)との同等性の形態をもつ】

【裁縫は、私的労働でありながら直接的に社会的な形態にある労働になる】

【だから裁縫は、リンネルと直接に交換されうる生産物(上着)となって現れる】

●「私的労働」と「直接に社会的な形態にある労働」とはどんなことなのかが問題となりました。
 まず「私的労働」については、「社会的でない労働」という意見が出さ、『資本論』のこれまでの叙述のなかで「私的労働」について述べられている箇所を探しました。そして「第2節 商品に表される労働の二重性」の第5段落で次のように述べられているのを見つけました。
「ただ、独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。」(第5段落、国民文庫84頁 原頁57)
「社会の生産物が一般に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的な相違が、一つの多肢的体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。」(第6段落、国民文庫84頁 原頁57)
「私的労働」とは「独立生産者の私事として互いに独立に行われ、互いに依存しあっていない労働」だろうということになりました。
「直接に社会的な形態にある労働」については「社会的労働とは違うのだろうか」という疑問や「最初から社会の総労働の一部となっている労働のことではないか」という意見が出されましたが、明確な結論は出ず、調べたり考えたりしていくことになりました。

第13段落
最後に展開された二つの特色は、アリストテレスにさかのぼってみればもつと理解しやすくなる。

●等価形態の3つの特色
①使用価値が、その反対物の、価値の、現象形態になる
②具体的有用労働が、その反対物の、抽象的人間労働の現象形態になる
③私的労働が、その反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になる

第14段落
・アリストテレスは「5台の寝台=1軒の家」というのは「5台の寝台=これこれの額の貨幣」というのと「違わない」と述べている。
・彼は、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわちある商品の価値を任意の一商品で表現したみののいっそうの発展した姿でしかないことを明言しているのである。

第15段落
・彼は価値表現がひそんでいる価値関係は、家が寝台に等置されることを条件とすること、感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係することはできないであろうということを見抜いている。
・しかし彼は「しかしこのように種類の違うも諸物が通約可能だということ」すなわち質的に等しいということは「ほんとうは不可能なのだ」といって価値形態のそれ以上の分析をやめている。
・このような等置は諸物の真の性質とは無縁なものであり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえないというのである。

●「通約」は「約分の古いいい方」で「分数の分子と分母を共通の約数で割って簡単な分数にすること」である。ここでの「通約可能」とは二つのものが同じ性質をもっていること、質的に等しいという意味だと考えられる。 7/14、5/10、3/6などは、分母や分子の数は違っているが、そのいずれもが約分すると1/2になる。それらは1/2という割合を表しているという点で等しい。

第16段落
・アリストテレスには価値概念がなかったことが分析の挫折をもたらした。
・寝台の価値表現のなかで家が寝台のために表している共通な実体は、人間労働である。

第17段落
・アリストテレスが商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、価値形態そのものから読みとることができなかった。
・それは、ギリシャの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。
・価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになつたときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。
・しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがつてまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。
・アリストテレスの天才は、諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。彼の生きていた社会の歴史的な限界が、この同等性関係がなんであるかを見つけだすことを妨げているだけである。



【参考】マルクス「経済学批判への序説」より

 労働はまつたく簡単な範疇のように見える。このような一般性においての―労働一般としての―労働の概念も非常にに古いものである。それにもかかわらず、経済学的にこの簡単性において把握されたものとしては、「労働」は、この簡単な抽象を生みだす諸関係と同様に近代的な範疇である。たとえば、重金主義は、富を、まだまったく客体的に、自分の外に貨幣の姿をとっている物として、定立している。マニュファクチュア主義または重商主義が、対象から主体的活動に―商業労働とマニュファクチュア労働に―富の源泉を移しているのは、重金主義にたいして大きな進歩だった。といっても、まだこの活動そのものを金儲けという局限された意味でしか把握していないのであるが。この主義にたいして、重農主義は、労働の一定の形態―農業―を、富を創造する労働として定立し、また対象そのものを、もはや貨幣という仮想のなかでではなく、生産物一般として、労働の一般的結果として、定立するのである。しかしまだこの生産物を、活動の局限性に対応して、やはりまだ自然に規定された生産物―農業生産物、とくに土地生産物―として考えているのである。
 富を生みだす活動のあらゆる限定を放棄したのは、アダム・スミスの大きな進歩だった。―マニュファクチュア労働でもなく、商業労働でもなく、農業労働でもないが、しかもそのどれでもあるたんなる労働。富を創造する活動の抽象的一般性とともに、いまやまた、富として規定される対象の一般性、生産物一般、あるいはさらに労働一般、といっても過去の対象化された労働としてのそれ。この移行がどんなに困難で大きかったかは、アダム・スミス自身もまだときどき重農主義に逆もどりしているということからも明らかである。ところで、これによっては、ただ、人間が―どんな社会形態のもとであろうと―生産をするものとして現れる最も簡単で最も古い関係を表す抽象的な表現が見いだされただけのように思われるかもしれない。これは、一面から見れば正しい。他面からは正しくない。労働の一定種類にたいする無関心は、現実の労働種類の非常に発展した総体を前提するのであって、これらの労働種類のどの一つももはやいっさいを支配する労働ではないのである。こうして、最も一般性な抽象は、一般にただ、ある一つのものが多くのものに共通に、すべてのものに共通に現れるような、もっとも豊富な具体的な発展のもとでのみ成立するのである。そのときは、ただ特殊な形態でしか考えられないということはなくなる。他方、
このような、労働一般という抽象は、たんに種々の労働の具体的な総体の精神的な結果であるだけではない。特定の労働にたいする無関心は、個々人がたやすく一つの労働から他の労働に移り彼らにとっては労働の特定の種類は偶然でありしたがつてどうでもよいものになるという社会形態に対応する。労働は、ここではたんに範疇としてだけではなく現実にも富一般の創造のための手段となっており、職分としての個人と一つの特殊性において合生したものではなくなっている。このような状態は、ブルジョア社会の最も近代的な定在形態―合衆国―で最も発展している。だから、そこで、「労働」「労働一般」、単なる労働という範疇の抽象が、近代経済学の出発点が、はじめて実際に真実になるのである。だから近代経済学が先頭に立てている最も簡単な抽象、そしてすべての社会形態にあてはまる非常に古い関係を表している最も簡単な抽象は、そりにもかかわらず、最も近代的な社会の範疇としてはじめて、実際に真実にこの抽象において現われるのである。ある人は、合衆国では歴史的産物として現われるものが、たとえばロシア人の場合には―特定の労働にたいするこの無関心が―生まれながらの素質として現われるのだ、と言うかもしれない。しかし、第一に、未開人がなんにでも用いられるという素質をもっているということと、文明人が自分自身をなんにでも用いるということとのあいだには、たいへんな違いがある。そして、第二に。ロシア人の場合には、労働の特定性にたいするこの無関心には、彼らの一つのまつたく特定の労働に伝統的に固着していて外からの影響によらなければそこから投げだされないということが、実際に対応しているのである。
 この労働の例が適切に示しているように、最も抽象的な範疇でさえも、それが―まさにその抽象性のゆえに―どの時代にも妥当するにもかかわらず、このような抽象の規定性そのものにあってはやはり歴史的諸関係の産物なのであって、ただこの歴史的諸関係だけにたいして、またただこの諸関係のなかだけで十分な妥当性を持っているのである。
       (『経済学批判』国民文庫298-301頁 原頁634-636)
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by shihonron | 2006-04-06 00:00 | 学習会の報告