『資本論』を読む会の報告

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2006年 05月 31日

第21回  5月30日 第1章 第四節 商品の呪物的性格とその秘密

5月30日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第21回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」の第11段落から第15段落までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密


第11段落
・このような諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである。それらの形態こそは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての社会的に認められた、つまり客観的な思想形態なのである。
・それゆえ、商品世界の一切の神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧のなかに包み込むいっさいの奇怪事は、われわれが他の生産形態に逃げこめば、たちまち消えてしまうのである。

●「このような諸形態」とは何かという疑問が出され、商品・価値・貨幣・価格(さらには資本・利潤・地代)などではないかということになりました。そして、ブルジョア経済学の諸範疇は、単にブルジョア経済学者の誤った考えに基づく主観的なものではなく、資本主義社会における必然的(客観的)な思想形態だということも確認しました。

第12段落
・経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず島上のロビンソンに出てきてもらうことにしよう。生来質素な彼ではあるが、彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。
・彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。
・必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占めどれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。
・彼の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それの生産に必要ないろいろな作業や最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の一覧表が含まれている。
・ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので、たとえばM・ヴィルト氏でさえも特に心を労することなくこの関係を理解することができたであろう。しかもなおそのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。

●「価値のすべての本質的な規定」とはどういうことかとの疑問が出されました。ここでマルクスは「ロビンソンと彼の自製のの富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係」のうちにそれが含まれているといっている。商品の分析によって、価値は人間労働一般の支出を表しており、価値とは、抽象的人間労働の対象化したものであること。また、価値の大きさは、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって規定されることが明らかにされた。ここでの「価値のすべての本質的な規定」とは、人間労働一般の支出の表現であり、物の生産に平均的に必要とされる労働時間ということではないかという意見が出されました。

第13段落
・そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる――農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が、物質的生産の社会的諸関係を、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴づけている。
・しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。
・労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。
・夫役は、商品を生産する労働と同じように、時間で計られるが、しかし、どの農奴も、自分が領主のために支出するものは自分自身の労働力の一定量だということを知っている。坊主に納めなければならない十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現われるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。

■夫役 
ぶやく〔「ふやく」とも〕人身に課税すること。特に、労働課役のこと。中世の佃(つくだ)の耕作や貢租の運搬、近世の助郷(すけごう)や川普請役など。ぶえき。(大辞林 第二版)

■賦役[(西洋)] ふえき
農民が土地領主のために行う無償労役(労働地代)としての賦役は前近代ヨーロッパ社会に広くみられたが,歴史的にはとくに中世封建社会の荘園制のもとでのそれをいう。古典荘園制における領主直営地では賦役が主要な労働源となり,こうした農民はふつう農奴と呼ばれる。その内容はさまざまな作業にわたり,期間も週数日,農繁期における特別賦役など不定量的であった。中世後期には農民の経済的・社会的地位が次第に向上し,農民保有地の割合が増すのとともに減少,領主への義務は現物・貨幣に移行した。近世西欧における賦役の意味は小さかったが,東欧では領主直営地が拡大して,19世紀以降の農奴解放まで大きな意味をもった。(マイペディア)

■労働地代 ろうどうちだい農民が賦役労働の形で納める封建地代。一定期間または一定時期に領主や地主の農場で農耕や作物の取入れ等に従事することを義務づけられ,それが地代とされるもの。労働地代は現物地代に発展する。
(マイペディア)

第14段落
・共同的なすなわち直接に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態にまでさかのぼる必要はない。
・もっと手近な例は、自分の必要のために穀物や家畜や糸やリンネルなどを生産する農民家族の素朴な家父長的な勤労である。これらのいろいろな物は、家族に対してその家族労働のいろいろな生産物として相対するが、しかし、それら自身が互いに商品として相対しはしない。これらの生産物を生みだすいろいろな労働、農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫などは、その現物形態のままで社会的な諸機能である。というのは、それらは、商品生産と同様にそれ自身の自然発生的な分業をもつ家族の諸機能だからである。
・男女の別や年齢の相違、また季節の移り変わりにつれて変わる労働の自然的条件は、家族のあいだでの労働の配分や個々の家族成員の労働時間を規制する。しかし、継続時間によって計られる個人的労働力の支出は、ここでははじめから労働そのものの社会的規定として現われる。というのは、個人的労働力がはじめからただ家族の共同的労働力の諸器官として作用するだけだからである。

●「すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態」とは、原始共産制のことだろうとの意見が出されました。

■原始共産制 げんしきょうさんせい
人類史の初期に,一種の共産主義が実現していたと考えられる社会体制。エンゲルス,L.H.モーガンの研究が有名。原生的血族集団から進化した氏族などの原始共同体を単位として,その全成員が共同で働き生産物を平等に分配した,数十万年にわたる無階級の社会体制とされる。生産力が低く,協業によって採取や狩猟,のちに農業や牧畜を営み,生産手段(土地や生活資源)を共有してはじめて生活できた。分業と労働生産性の向上で剰余分がその生産者の私有に帰し,やがて土地も私有されるに至ってこの社会は崩壊,奴隷制社会に移ると想定された。(マイペディア)

第15段落・最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのではあるが、ただし、個人的にではなく社会的にである。
・ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりの個人的生産物だったし、したがって直接に彼の使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それはかれらのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。
・ただ商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段のわけまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の分け前の尺度として役だつ。
・人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。

●ここで「自由な人々の結合体」と訳されている言葉は別の訳では「自由な人々の連合体」となっている。最近よく用いられている言葉で言えば「アソシエーション」だとの指摘がありました。『ゴータ綱領批判』では「協同組合的社会」と訳されています。

■マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で「いまようやく資本主義社会からうまれたばかりの共産主義社会」での労働に応じての分配について述べ、それはブルジョア的権利だと指摘している。「共産主義社会のより高い段階」については「社会はその旗のうえにこう書くことができる――各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」と述べている。(国民文庫『ゴータ綱領批判 エルフルト綱領批判』43-45頁)

【資料】
[生産関係:生活の社会的生産における人間相互の関係]

 人間は、彼らの生活の社会的生産のなかで、社会の生産力の発展段階に対応する一定の諸関係を取り結ぶ。これを生産関係と言う。この生産関係こそが人間諸個人相互間のいっさいの社会関係の根底をなすものである。
 生産関係のかなめは、労働する諸個人がどのような仕方でそのろうどうに必要な諸条件すなわち生産手段にかかわるのか、彼らはどのような仕方で生産手段と結びついて労働するのか、ということにある。このような、生産手段にたいする労働する諸個人のかかわり方が、社会を構成する諸個人による生産物の、とりわけ剰余生産物の取得のあり方を決定する。
[生産関係の歴史的形態とそのもとでの社会的再生産]
  これまでの人類史のなかで、労働する諸個人は、まずもって、共同体――すなわち、人間社会の出発点に存在していた本源的な共同体、および、それの解体過程に生じたさまざまの形態での共同体――を基礎とした共同体的生産関係を経験した。そして、その次に、共同体に代わって貨幣が人々を結びつける絆となっている生産関係である商品生産関係が現われた。現在の資本主義社会の生産関係はこの商品生産関係の最も発展した形態である。この資本主義社会はその発展のうちに、産み落とすべき新たな生産関係を自己の胎内に宿すようになる。それは、自由な諸個人が自発的・自覚的に社会関係を形成するアソシエーション的生産関係である。共同体的生産関係、商品生産的生産関係、アソシエーション的生産関係が、人類史の三つの大きな発展段階をなしているのである。
(大谷禎之介『図解社会経済学』29-30頁)

(A) 共同体を基礎とする人格的依存関係
 人類が最初に経験した生産関係は、原始共同体とその解体過程に生じたさまざまの形態の共同体を基礎とする生産関係である。ここでは、労働する諸個人はなんらかの共同体に帰属し、共同体の成員として相互に人格的依存関係を取り結び、労働諸条件すなわち生産手段にたいして、共同体に属するものにたいする仕方でかかわる。社会的生産のなかでの彼らの関係の特徴は、それが彼ら相互間の人格的依存関係であるか、さもなければ、労働しない諸個人が労働する諸個人を人格的に支配する支配・隷属関係であるところにある。(同前30頁)

---------以下表題のみ-------

(A)-① 共同体的生産関係
(A)-② 人格的な支配・隷属関係(奴隷制、農奴制)
(A)-②-(a) アジア的奴隷制
(A)-②-(b) 古代的奴隷制
(A)-②-(c) 封建制
(A)-②-(c)-(ⅰ) 農奴制
(A)-②-(c)-(ⅱ) 隷農制


---------------------------

(B)貨幣による諸個人の物象的な依存関係
(B)-① 商品生産関係

 自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象をつうじての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産様式であるが、この生産様式は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかり覆われている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的労働が社会の総労働を形成しているのであり、それは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働になるためには労働生産物のこうかんによらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象との社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり。それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。(同前34頁)

(B)-② 資本主義的生産関係 (略)

(C) 諸個人の意識的な人格的連合関係(アソシエーション) 
 資本主義的生産様式は、この生産様式のもとでの生産力の発展の結果、自己の胎内に、自己自身を否定し、止揚する諸契機を生まないではいない。これらの契機が指し示している新たな生産形態は、自由な諸個人によるアソシエーション(association=自発的な結合体)である。
 ここでは労働する諸個人は生産手段にたいして、社会的にアソシエイトした(associated=自発的に結合した)自由な個人としてかかわる。労働は、共同の生産手段をもって、自分たちの労働力を意識的に社会的労働力として支出する過程であり、直接に社会的な労働である。一方、生産過程が、自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれ、生産力の高度な発展が実現される。他方で、高度な生産力がもたらす必須労働時間の減少は労働日の短縮に向けられ、諸個人が個性と能力とを全面的に発展させるための自由な時間が拡大されていく。(同前35-36頁)
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by shihonron | 2006-05-31 00:00 | 学習会の報告
2006年 05月 28日

第20回  5月25日 第1章 第四節 商品の呪物的性格とその秘密

5月23日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第20回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」の第8段落から第10段落までを輪読、検討しました。

ここでは、人間(生産者)は自分の労働生産物を互いに価値と関係させるのは一様な人間労働の物的な外皮として認めるからではなく、反対に、異種の生産物を互いに交換においては価値としては等しいとすることによって、違った異種の労働を互いに人間労働として等置することが説明されている箇所である。

・「・・・この社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだということが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては、かの発見の前にも後にも、最終的なものに見えるのであって、それはちょうど、科学によって空気がその諸要素に分解されたもなお空気形態は一つの物理的な物体形態として存続しているようなものである。」
この中で、「最終的なものに見える」とあるがどういう意味か、との質問があった。マルクスが念頭においている相手は古典派学派である。彼らの投下労働価値説では人間的労働の価値対象化は永遠の自然必然とみなされていたことを指している。

・また、上記文中にて空気形態は一つの物理的な物体形態として存続しているようなものとあることが分かりにくいとあった。
 空気は窒素と酸素に分解できるが、空気という物体形態はなんら変化がおきるわけではないので、古典派は空気形態と同じように私的生産は永遠のものに見えたと言うことではないか、となった。

・(注27の後の段落)「生産物交換者たちがまず第一に実際に関心を持つのは、・・・それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える」の文中にて、「労働生産物の本性から」とは何かとの質問があったが、同じ1ポンドの金と鉄とにおいては重さは同等であるのと同様に、労働生産物の交換割合は労働生産物そのもに備わった性格から
出ているように見える、ということだろうとの意見が出された。

・「・・・もし私が、上着や長靴などが抽象的人間労働の一般的な具体化としてのリンネルに関係するのだ、と言うならば、この表現は奇異なことはすぐ感ぜられる。ところが、上着や長靴などの生産者たちがこれらの商品を一般的等価物としてのリンネルにーまたは金銀に、としても事柄は変りはないー関係させるならば、彼らにとっては自分たちの私的労働の社会的総労働に対する関係がまさにこの奇異な形態で現れるのである。」

ここの文章は分かりにくいという意見が多かった。
→ここは時間切れで積み残しになった。
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by shihonron | 2006-05-28 11:25 | 学習会の報告
2006年 05月 28日

第19回  5月16日 第1章 第四節 商品の呪物的性格とその秘密

5月16日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第19回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」の第3段落から第7段落までを輪読、検討しました。

商品の神秘的な性格がどこから出てくるのかを課題とし、順次解明していく箇所である。

・「商品形態の秘密はただ次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間に対して人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的な関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。」
 この文中にて、「労働生産物そのものの対象的性格として反映させ」とあるがどういうことかと疑問が出された。
ある商品を生み出す私的労働が社会的性格を受け取るためには、他の商品との交換を媒介しなければならず、つまり労働生産物は価値物として関係し社会的に同等な価値対象性を持つ、ということではないかとの意見が出された。

同じ文中にて、「これらの物の社会的な自然属性として反映させ」の意味も疑問として出された。
「これらの物」は前の文を受けていて、人間労働が対象的性格を帯びた物としてあたかも自然であるかに見えてしまうことを指すのだろうとなった。

また、「このような置き換えによって・・・」については、労働の社会的関係が物としての社会的な関係に転化していること、その結果、労働生産物は商品となること、商品とは社会的な性格であることを言っているのではないかとの意見が出された。

・「・・・ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。」の文中で「特定の社会的関係」とは何をさすかが質問されたが、次の段落にその解答が与えられている。つまり、労働生産物が商品という性格を帯びる互いに独立に営まれる私的諸労働の結果でしかなく、こうした私的労働の下での交換関係のことであろうとなった。

・「このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析が既に示しているように、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。」とあるが、「前の分析」とは何を指すかではいくつか意見が出された。
 私的労働の生産物だけが互いに商品として相対することを示した1章の労働の二重性の箇所を指すという意見や、4節の私的労働の特有な社会的性格を明らかにしている前段あたりを指すという意見があった。
 確かに1章でも商品は私的労働の産物であることを示しているのであり、「前の分析」は1章と言ってもいいが、そこでは商品形態の呪物的な性格に言明はしていないし、そうした課題を持っていないと言える。4節で初めて商品形態の呪物的性格を明らかにし、それが私的諸労働の結果であることが解明される。
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by shihonron | 2006-05-28 00:00 | 学習会の報告
2006年 05月 20日

第18回  5月9日 第1章 第3節 価値形態または交換価値 C 一般的価値形態

 5月9日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第18回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 C 一般的価値形態 3  一般的価値形態から貨幣形態への移行」から「第四節 商品の呪物敵性格とその秘密」の第2段落まで(注26を含む)を輪読、検討しました。

以下は討論内容です。

・「三 一般的価値形態から貨幣形態への移行」の冒頭にて「・・・この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界のの統一的な価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。」とあるが一つの独自な商品種類とは金と言っていいかとの質問が出された。
 この段落は一般的価値形態(形態Ⅲ)をもう一度まとめた箇所になっている。
一般的価値形態の箇所では、商品世界に属する全商品が右辺の一商品を除いて一般的等価形態から排除されているからであること、また同時に一般的等価形態にある商品は商品世界の統一的な一般的な相対的価値形態から排除されていることがいわれていた。
 三の冒頭でも、どの商品にでも等価形態に付着しうるが、ある商品が一般的等価形態にあるのは他の商品によって等価物として排除されからである述べている。そして、一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とを勝ち得たと述べられているにすぎないこと、金が一般的等価物となるのは商品世界にて金を相応しい商品として押し出すからであり、その段階の価値形態は貨幣形態を意味する、などが議論された。

・第二段落では、「特殊な商品種類は貨幣商品になる」とあるが、貨幣とは言っていないのはなぜかと質問があった。
ここで貨幣商品とは、貨幣として機能する商品のこと、または直接的交換可能性を持つという社会的な独占を得た商品のことで、貨幣そのものとは区別されるなどの意見が出された。

・「D 貨幣形態」の第一段落では、貨幣形態(形態Ⅳ)は形態Ⅲと違うことはないと述べられ、ただリンネルに代わって金が一般的等価形態になっているだけだとし、金は「社会的慣習によって」その位置を占めたとあるが、この「社会的慣習」は商品所有者の行為というより、商品世界の中で金が相応しいとして一般的等価物の形態に排除されていることさしているのではないかとの意見が出された。もちろん、商品所有者の交換が媒介されているが、この媒介の説明はここでは必然ではないというもの。

・貨幣形態から価格形態の説明が簡単に済まされている気がする、という意見があった。なぜ簡単で飛躍的かははっきりしなく、宿題となった。
 ここでは、ある一商品リンネルの価値が金で表現されているならば、リンネルは金の一定の重さで表現されているのあり、これが価格形態、つまり金の重さでの表現としての形態になっていることを示せば足りると判断されているようだ、価格形態の詳細な分析は「貨幣」の章で再び独自に出されているのではないかとの意見があった。

・「貨幣形態の概念の困難は」ではじまる最後の段落では、「それゆえ、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽なのである」とあるが、「単純な商品形態」とは単純な価値形態と同じことかと質問があったが、それでいいのではないかとなった。

・第四節 商品の呪物的性格とその秘密の課題は何かが話された。マルクスは原ページ95(国民文庫版147ページ)にて、なぜ労働が価値という形態をとるのか、つまりなぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に表されるのかという問題はいまだかって提起されたことがなかったとして、第四節の課題を示している等。つまり、この節は私的生産の本姓を明らかにする箇所になっている。

・第一段落にて「机が商品として現れるやいなや」からはじまる文章は分かりにくい、との意見が大半。また、机が商品として現れるや否や他の全ての商品に対して「頭で立っている」というのは、商品の価値関係のことを指し、この価値関係が超感覚的または神秘的であると言っているのではないか、との意見もあった。

・第二段落では、商品の神秘性は「価値規定の内容からはでてこない」とあるが、価値規定とはなにかが質問として出された。価値の実体や価値の量規定する概念であろうとされた。ただ、マルクスが第3にとして社会的形態(労働の相互の関係)も書いているが、第3を価値規定の内容にふくめるかは疑問として残った。
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by shihonron | 2006-05-20 00:00 | 学習会の報告