『資本論』を読む会の報告

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2006年 06月 30日

第24回  6月27日 復習

6月27日(火)に、新しい参加者を迎え、『資本論』を読む会@所沢 第2期 第24回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」全体の復習を行いました。まだ検討することは残されており、議論を継続します。出された論点については、議論をふまえて後ほどまとめる予定です。

議論になっていることに関連する資料を掲載します。

【資料】大谷禎之介氏の論文「商品および商品生産」から

私的諸労働の社会的総労働にたいする連関は独自な形態をとる

商品生産もまた一種の社会的生産である。すなわち労働する諸個人はお互いに無関係に自給自足の生活を行うのではなく、彼らは、彼らの総労働によって生産された社会的総生産物のなかから、彼らの欲求を充たすのに必要な生産物を入手して生活する。そのためには、なによりもまず、社会の総労働は、社会の必要とするさまざまの生産物を生産するための具体的労働の形態をとらなければならず、そのようなさまざまの労働部門に配分されなければならない。つまり社会的分業(division of labor)が行われなければならない。さらに、社会的分業によつて生産されたさまざまの種類の生産物が、なんらかの仕方で労働する諸個人(およびその他の社会成員)に分配されなければならない。

商品生産以外の社会的生産では、社会全体のさまざまの欲求の総体に対応する社会的分業のあり方も総生産物の分配のあり方も、ともに一見して明白である。すなわち、なんらかの共同体組織なり、支配者である特定の個人なり、支配階級を形成する諸個人なり、意識的に連合した自由な個人なりが、その意志にもとづいて意識的に、社会的総労働(抽象的労働)をさまざまの具体的労働に配分し、総生産物を生産手段および消費手段として同じく意識的に配分ないし分配する。ひの意志が独裁的なものである場合もあれば、民主的に形成される場合もあるであろうし、またそれが主として伝統に頼るだけの場合もあれば、多分に恣意的である場合もあり、また周到に計画されたものであることもあろうが、いずれにせよ、社会的分業のシステムや社会的分配の方法は、人間の意志によって意識的に決定されているのである。(中略)

もちろん商品生産の場合にも、なんらかの仕方で、社会の総欲求に対応する社会的分業の有機的なシステムが形成されなければならないし、なんらかの仕方で、総生産物がそれぞれの欲求に対応するように分配されなければならない。この二つのことは、社会的生産の一般的な条件であって、それがなんらかのかたちで実現されないかぎり、社会的生産は成り立ちえないことは明らかである。

ところが商品生産の場合には、社会的分業のシステムについても総生産物の分配についても、そのあり方を決定する個人や個人の集団がどこにも存在しない。労働する諸個人は、まったくの自由意志で、自分自身の判断に従って、自分自身の責任、計算において生産する。彼らの労働力の支出である労働は、各自の私事として行われる私的労働であり、直接には――労働そのものとしては――社会的性格をまったく持っていない。だから、その生産物もまた、彼らが各自で私的に取得するのであって、彼らはお互いに自分の労働の生産物が各自に属することを「私的所有」として法的に承認し合うのである。彼らの生産物は私的生産物であつて、直接にはけっして社会的生産物ではないから、社会がそれを意識的に分配することもありえない。

それでは、分業の組織や生産物の分配の方法を決める者がぜんぜんいないのに、どのようにして、商品生産は社会的生産の一つのシステムとして成り立ちうるのであろうか?

商品生産者たちは彼らのあいだの生産関係を、直接彼ら自身のあいだの――直接に人間と人間とのあいだの――関係として取り結ぶことはないが、そのかわりに一種の回り道をして、すなわち彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ぶのである。

私的労働が商品価値に媒介されてはじめて社会的労働になる

それでは、商品生産者たちのあいだの生産関係は、どのようにして、彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ばれるのであろうか、言い換えれば、彼らの生産物の商品としての交換関係は、どのようにして、商品生産者たちのあいだの生産関係を媒介するのであろうか?

商品は種々さまざまのものから成っており、使用価値としては千差万別である。だからこそそれらは交換されるのである。すなわち交換は、商品の使用価値としての相互の差異を前提する。だがそれだけではまだ交換は行われない。その上にさらに、Aの所有する物はAにとっては使用価値ではないがBにとっては有用であり、反対にまた、Bの所有する物はBにとって使用価値ではないが、Aにとっては有用である、ということを前提する。そうしてはじめて彼らは交換することになる。

けれども、こうしたことは交換が行われるための条件であるには違いないが、これらの条件だけで直ちに生産物の商品としての交換が生じるとは言えない。たとえば、もう飽きたゲームソフトをもっている太郎と要らないサッカーボールをもっている花子とがそれらの物を互いに交換したとしても、それは商品の交換ではない。なぜなら、この交換はおよそ、それの媒介によって彼らのあいだに社会的生産のシステムが成立する、という性質のものではないからである。

それでは、商品の交換を特徴づけるものはなんであろうか? それはいま述べたような、たんに人びとの所有する物の使用価値としての相互の差異、ないしはそれらの物と人間の欲求の関連ではなくて、むしろ、使用価値としての相互の差異にもかかわらず諸商品がお互いに価値として等しいとされる関係、すなわち価値関係である。商品は使用価値としては千差万別であるが、価値としては無差別一様である。だからこそ、どの商品もみな一様に金何円という形態、すなわち価格をもつのであるが、この価格において表示される価値によって、商品生産者たちの労働ははじめて統一性を獲得するのである。

商品生産者の労働は、すでに述べたように、直接には労働としては社会的な統一性をもっておらず、社会的な性格をもっていない。それは、労働する諸個人が私的な諸個人であることから出てくる必然的な結果である。彼らの労働は直接的には社会的労働ではありえない。すなわち商品生産の場合には、はじめから労働力が社会の労働力として存在し、それが種々の生産目的のために、あるいは耕作労働として、あるいは紡績労働として支出されるというふうにはことが運ばない。もしそうであれば、労働はそのアクティブな状態において、それが行われる瞬間から、直接に労働として、そしてまた、あるいは耕作労働、あるいは紡績労働といったふうな、それぞれ異なる特殊な、具体的労働として、その自然のままの姿において、立派に社会的な性格をもつであろう。ところが、商品生産者の場合はそうはいかない。

だがそのかわりに、彼らの労働は生産物に対象化されて、生産物の価値を形成するのである。価値としてはすべての労働は無差別一様であり、たんに量的な差異があるだけで質的な差異はもたない。商品生産者の労働はこういうかたちで――すなわち第1には、労働そのものの性質としてではなく労働の生産物の性質というかたちで、さらに第2には、生産物の自然的な、例えば米から米、布なら布といったふうの、それぞれ違った使用目的に役立つ使用価値としてではなく、無差別一様な価値性質というかたちで――はじめてそれらのあいだの統一性を獲得し、それによってはじめて社会的な労働になるのである。換言すれば、社会がその総欲求の充足のために費やす総労働時間の一部としての、すなわち社会の総労働力の支出の一部としての意味を持つようになるのである。

だから、商品生産の場合には、生産者間の社会的関係は他の社会的生産の場合とはまったく逆の仕方で取り結ばれるのであり、すべてが転倒して現れることになる。最初にまず人間の関係が取り結ばれて、それに従って社会的生産が行われるのではなく、最初にまず、相互に独立して行われる私的な労働の生産物がお互いに価値において等しいとされ、交換される。そしてそれによって、商品生産者の労働もまた、価値を生産するかぎりではなんらの差異もないものとされ、無区別で一様な抽象的人間的労働に還元される。そしてこのような一種独特の形態においてはじめて商品生産者の労働は統一性を獲得し、社会の総労働力の支出の一部だということになるのである。

要約しよう

商品生産は、相互に自立した私的生産者としての労働する諸個人によって行われる社会的生産である。直接には私的な彼らの労働は、その生産物の交換の関係においてはじめて独自の社会的形態を獲得する。すなわち彼らの労働の生産物は、それらの交換の関係において、使用価値としての千差万別のすがたにもかかわらず価値として相互に等置されるのであるが、これによって彼らの労働もまた、使用価値を生産する労働としてのあらゆる現実の差異にもかかわらず、価値を形成するかぎりにおいてはそれらの差異を捨象されて、無区別一様な人間的労働、すなわち人間的労働力のたんなる支出の一定量にほかならないものとされるのである。そして、この一般的な人間的労働の結晶としての「価値」の形態において――生産物の価値というこの物的形態において――はじめて商品生産者の労働は、社会がその欲求充足のために支出する総労働時間中の一定量を意味するものとなりうるのである。

商品生産関係とは、私的生産者たちが彼らの労働生産物の商品形態をつうじてはじめて互いに取り結ぶ社会関係であって、彼らの私的労働が生産物の価値をつうじてはじめて社会的労働になるという独自な生産関係にほかならない。

商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた人間が商品所持者として相互に関わり合う関係が支配的な社会的関係であるような社会を商品生産社会と呼ぶことができるが、このような社会はじつは資本主義社会であって、資本主義社会とは異なる商品生産社会なるものは歴史的に存在しない。なぜなら、資本主義社会になってはじめて、社会をたえず再生産する労働する諸個人が彼の必要生産物ないし労働ファンドのすべてを商品市場で買わなければならない諸関係が、すなわち資本・賃労働関係が発展するのだからである。なぜ、資本主義社会では労働する諸個人が自己の必要生産物を市場で買わなければならないのか、という点については、のちに資本のところで立ち入って説明することになるが、その要点は、彼らは、彼らの労働するための諸条件を持っていないので、必要生産物を入手するためには、まずもって自分の労働力を労働市場で商品として売り、その代金である貨幣すなわち賃銀で必要生産物を買わなければならないのだ、ということである。

大谷禎之介「商品および商品生産」(「経済志林」第61巻第2号) 85-93頁

【資料】玉野井芳郎氏の『経済学の主要遺産』から

交換価値ー社会的労働の配分を規制する特殊な形態

マルクスはまず商品の生産をとつて、その労働に二つの面があり、一つは特定の生産活動として示される具体的な有用労働の面、一つは一般的な人間労働力の支出として示される抽象的な一般的労働の面があることを明らかにする。ところで、人間が自然に働きかけて生活に必要な諸物資を獲得するにあたっては、かれはその生産活動の全体を、所期の有用生産物の生産に要する労働時間を基準にして種々の有用労働に配分しなければならない。商品生産社会でも、社会の存続のためには、社会的総労働が、社会的欲望を充足するにたる種種な使用価値の生産に、それぞれの生産に要する労働時間を基準にして配分されなければならない。このばあい、一定の有用労働として一定の社会的欲望をみたす個々の生産者の私的労働は、商品社会全体の総労働の一部として、他のすべての私的労働と同じように一般的な人間労働として支出されることになる。
 
けれども、もともと労働が全体として社会化されていない商品生産の社会では、それぞれ特定の有用労働に従事する個々の生産者は、その人間労働力をそのまま直接に社会的労働として支出するのではない。個々の人間の労働がなんらなの仕方で、社会的総労働の部分としての関連をもたなければならないという社会的な生産の一般的条件は、ここでは一種の回り道によって、すなわち、直接に人間どうしの関係においてではなくて、かれらの労働の生産物の、商品としての交換関係をとおして達成される。いいかえると個々の商品生産者が支出する私的労働は、その生産物が商品として交換される特殊な社会的過程を媒介としてはじめて社会的労働となりうるのである。商品の価値というのは、こうした商品生産者の私的な労働が社会的な労働となるためにとる特殊な形態規定にほかならない。すなわち、私的労働として支出される有用労働の面が商品の使用価値となって現れて、種々雑多な商品体の差異をつくりだすのに対して、一般的な人間労働の面は価値として諸商品の質的な同等性をつくりだし、価値の大いさは諸商品の生産に必要な労働時間を基準にして比較計量されうるものとなり、かくしてはじめて社会的総労働の部分としての関連をもつようになるのである。したがってまた個々の商品価値はその生産に必要な一般的な社会的労働の分量によって規定されることになるにしても、その価値はそのまま社会的労働時間いくらとしては測定されないということが重要である。
 
商品の価値を形成する一般的労働は商品交換をとおしてはじめて社会的なものとして評価されるのであるから、一商品の価値は他の商品との交換関係における価値、すなわち交換価値として表示され、そういうものとして測定されるほかはない。要するに、商品の交換価値は、市場における生産物の単なる交換比率ではなくて、一定の客観的基準によって決定される商品の価値が必然的に表現される形態であると同時に、商品生産の社会における社会的労働の配分を規制する特殊な形態であるということができる。              (玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 111-113頁)

商品経済は、もともと人間のつくり出した物が、逆に人間自身を支配するという物神的性格を固有のものとして生み出す 

商品生産の社会では、社会的労働の配分という社会的生産の一般的原則が直接に人間の手で処理されないで、商品と商品の交換関係、すなわち物と物との関係という回り道をとおして実現される。それゆえ、人間は逆に商品交換の法則性に支配されざるをえなくなり、それと同時に商品のもつ特定の社会的性格は商品という物のもつ自然的性質のごとく受取られ、商品交換の法則性はあたかも自然法則のごとき観を呈するし、また実際そういう作用をなすことになる。このようにして商品経済は、もともと人間のつくり出した物が、逆に人間自身を支配するという物神的性格を固有のものとして生み出すのである。       (玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 117-118頁)
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by shihonron | 2006-06-30 22:00 | 学習会の報告
2006年 06月 30日

第23回  6月20日 第1章 第四節 商品の呪物的性格とその秘密

6月20日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第23回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」の第20段落から最後(第21段落)までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密


第20段落
・だが、先まわりすることをやめて、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例だけで十分だとしよう。
・もし商品がものを言えるとすれば、商品はこう言うであろう。われわれの使用価値は人間の関心をひくかもしれない。使用価値は物としてのわれわれにそなわっているものではない。だが、物としてのわれわれにそなわっているものはわれわれの価値である。われわれ自身の商品物としての交わりがそのことを証明している。われわれはただ交換価値として互いに関係しあうだけだ。
・では、経済学者がこの商品の心をどのように伝えるかを聞いてみよう。
・「価値」(交換価値)「は物の属性であり、富」(使用価値)「は人間の属性である。価値は、この意味では必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない。」「富」(使用価値)「は人間の属性であり、価値は商品の属性である。人間や社会は富んでいる。真珠やダイヤモンドには価値がある。……真珠やダイヤモンドには、真珠やダイヤモンドとしての価値があるのだ」

●ここで商品が言うことは正しいのかどうかで議論がありました。物の自然的属性である使用価値を人間の属性だと言い、社会的属性(人と人との関係の表現)である価値を物としての商品にそなわっている(自然的属性)と言っている。それは、逆立ちした考え(転倒した観念)でありまちがっているとの結論になりました。マルクスは、どのように商品が人を惑わしているかを、商品自身に語らせたといえるのではないでしょうか。

第21段落
・真珠やダイヤモンドのなかに交換価値を発見した化学者はまだ一人もいない。ところが、特に日金的な深慮を自称するこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物の使用価値はその物的属性にかかわりがないのに、その価値は物としてのそれにそなわっているということを見いだすのである。
・ここで彼らの見解を裏づけるものは、物の使用価値は人間にとって交換なしに、つまり物と人間との直接的関係において実現されるが、物の価値は逆にただ交換においてのみ、すなわち一つの社会的過程においてのみ実現される、という奇妙な事情である。
・ここで、あの好人物のドッグベリが思い出されないだろうか? 彼は番卒のシーコールに教える。
「およそ容貌の善悪は運命の賜であるんじゃが、読むと書くとは自然にして具わるんじゃから」と。

●「使用価値の実現」「価値の実現」とはどういうことかとの疑問が出されました。「使用価値の実現」とは使用する(消費する)であり、「価値の実現」とは、他の商品と交換されること(貨幣が生まれていれば貨幣と交換される、つまり「売れること」――この場合には「価格の実現」とよぶべきか)ではないかとの意見が出されました。

●ドッベリのせりふをどう理解するかで少し議論になりました。結論としては、容貌は生まれつきで決まり(自然に具わる)、読み書きは自然にではなく学習によって具わるのに、逆のことを言っている。使用価値は人間の属性であり、価値は物の自然的属性であると主張する経済学者たちの誤りは、ドッベリと同様に逆立ちした考えであることをこの引用で述べているのだろうということになりました。
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by shihonron | 2006-06-30 21:00 | 学習会の報告
2006年 06月 30日

第22回  6月6日 第1章 第四節 商品の呪物的性格とその秘密

6月6日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第22回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」の第16段落から第19段落までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密


第16段落・商品生産者の一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な社会的労働として互いに関係させるということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとつては、抽象的人間に対する礼拝を含むキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント教や理神論などとしてのキリスト教が最も適当な宗教形態である。
・古代アジア的とか古代的などの生産様式では、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割、といっても共同体がその崩壊過程にはいるにつれて重要さを増してくる役割を演じている。
・本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またポーランド社会の気孔の中でのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。
・あの古い社会的諸生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもずっと単純で透明ではあるが、しかし、それらは、他の人間との自然的な臍帯(せいたい)からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配隷属関係かにもとづいている。
・このような生産有機体は、労働の生産力の低い発展段階によって制約されており、また、それに対応して局限された、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間の諸関係、したがって彼らどうしのあいだでの関係と自然にたいする関係とによって制約されている。
・このような現実の被局限性は、観念的には古代の自然宗教や民族宗教に反映している。
・およそ、現実の世界の宗教的反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表すようになったときに、はじめて消滅しうるのである。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のベールを脱ぎ捨てるのである。
・しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩にみちた発展史の自然発生的所産なのである。

●キリスト教での「抽象的人間に対する礼拝」とは何か? 理神論とは?
 この箇所については浜林正夫氏は次のように解説しています。「キリスト教には、カトリックとプロテスタントがあります。カトリックのほうは飾りたてた物を拝むという傾向があります。カトリックの教会には十字架やキリスト像など飾り物がいっぱいあります。それにたいしてプロテスタントの教会には飾り物はありません。そこで、人びとは十字架を拝むのではなく、自分の心の中に神を思いうかべて拝むという内面的、抽象的な形をとります。理神論というのは、さらにそれが徹底され、特定の神を思いうかべない。つまり、具体的にキリストやエホバなどの特定の神ではなく、心の中に思いうかべる神といった抽象性をもつようになります。そういうかたちが、ブルジョア社会、商品生産の社会にいちばんふさわしいのはなぜか。そこでは、身分の違いをこえて人間がすべて平等に考えられているようなそういう社会だということです。」(「『資本論』を読む(上)」137‐138頁)

■プロテスタントとはプロテスタンティズムを奉ずる人びとのこと。

■プロテスタンティズム
ローマ・カトリック教会,東方正教会とならぶキリスト教の三大勢力の一つ。宗教改革の結果キリスト教世界に成立したルターやカルバンの福音主義的信仰,ないしはその伝統を受けついだ諸教派の総称で,日本では〈新教〉とも呼ばれ,〈旧教〉たるカトリック教会と対比されるが,適当ではない。教会の伝承ではなく聖書を唯一の信仰のよりどころとする聖書原理,善行の功徳によってでなく信仰によって義とされるとする〈信仰義認説〉,また,信仰者は等しく祭司であるとする〈万人祭司説〉をとる。サクラメントは聖餐(せいさん)と洗礼のみを認める。プロテスタンティズム,特にカルビニズムないしピューリタニズム(ピューリタン)の倫理が近代資本主義の成立に果たした役割を強調するM.ウェーバーの所説は有名。 (マイペディア)

■理神論 
・一七、八世紀ヨーロッパの啓蒙主義時代の合理主義的な宗教観。世界の創造者として神を認めるが、神が世界の出来事に関与することは信じない。聖書批判・比較宗教への道を開いた。自然神論。
(大辞林 第二版)
・英語deismの訳。〈自然宗教natural religion〉とも。世界の創造者,合理的な支配者としての神は認めるが,賞罰を与えたり,啓示・奇跡をなす神には反対するキリスト教宗教思想。チャーベリーのハーバート,シャフツベリー(3代伯),とりわけ《キリスト教は神秘的ではない》(1696年)の著者トーランド,M.ティンダル,J.A.コリンズらが代表的論者。近代における宗教批判,寛容思想を支える運動として,英国のみならずディドロ,ボルテール,レッシングらにも影響を与えた。(マイペディア)

■定在 ヘーゲルなどが用いた哲学用語だと思われますが、説明を辞書などではまだ見つけられていません。

■共同体
(1)社会学的概念としてはコミュニティの訳語として用いられる。
(2)経済史的概念としては,集団的な土地占有を基盤とし,資本制生産に先行する諸生産段階において成立する歴史的な共同社会。無階級のいわゆる原始共同体と歴史的関連をもち,マルクスは共同体の形態としてアジア的,古典古代的,ゲルマン的諸共同体の三つをあげているが,それぞれは本質的には種族共同体,都市共同体,村落共同体であるとしている。(マイペディア)

■気孔
植物の表皮にあって、周囲の孔辺細胞の膨圧の変化によって開閉する小さなすき間。一般に葉の裏面に多く、ガス交換および水蒸気の通路となる。(大辞林 第二版)

■自然宗教
宗教の分類の一つで,英語ではnatural religion。人為宗教(創唱宗教)や啓示宗教に対する。人間本来の理性に基づく宗教と民族宗教や原始宗教のように自然発生的な宗教の両義がある。前者は18世紀の啓蒙思想や理神論に代表的にみられ,D.ヒュームの奇跡の否定,ディドロのすべての啓示宗教を自然宗教の異端とする説などのように,無神論へ傾斜した。ヘーゲルは絶対的宗教の下に自然宗教を置き,仏教,儒教などをこれに含めた。ティーレは宗教の発達を自然宗教と倫理宗教に大別し,前者にアニミズム的宗教,純化された呪術(じゅじゅつ)的宗教,人間形態観的宗教を含めた。(マイペディア)

■民族宗教
宗教の分類法の一つ。民族の成立とともに自然発生的に成立し,伝統的に受け継がれている宗教をいう。民族の伝承文化,血縁地縁,風俗習慣などと密接に関連し,特定の教祖はなく,教理よりも儀礼が中心。神道,古代ユダヤ教,ゾロアスター教,ヒンドゥー教,道教などがこの範疇に入れられることが多いが,〈民族〉の概念自体が歴史に規定されている以上,その用法には注意を要する。一方,仏教,キリスト教,イスラムのように地域や民族を超えて広がったものは〈世界宗教〉と呼ばれる。
(マイペディア)

第17段落・ところで、経済学は、不完全ながらも、価値と価値量とを分析し、これらの形態のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は、なぜこの内容があの形態をとるのか、つまりなぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に、表されるのか、という問題は、いまだかつて提起したことさえもなかったのである。
・そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている。
・それだから、社会的生産有機体の前ブルジョア的諸形態は、たとえばキリスト教以前の諸宗教が教父たちによって取り扱われるように、経済学によって取り扱われるのである。

●ここでマルクスは、スミスやリカードなどの古典派経済学者を念頭において述べている。古典派経済学は、価値の大きさはその物の生産に投下される労働量によって決まるということを明らかにしたが、なぜ労働が価値という形態をとるのかについては、そうした問題を提起することはなかった。それは、彼らが、価値を歴史的なものとしてではなく、自然なもの、永遠なものだと考えていたからである。彼らにとっては、資本制的生産様式が自然であり、それ以前の封建的生産様式などは、不自然でまちがったもの、不合理なものとされたのである。

●「そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式」とは何かという疑問が出されました。価値や商品、資本といった概念のことではないかという意見が出されました。また、「三位一体の定式」を念頭においているのではないかとの意見も出されました。「三位一体の定式」とは「3つの生産要素である労働、資本、土地が、それぞれ賃金、利子、地代という3つの収入の源泉であり、それらが生産物の付加価値を構成する」という観念のこと。

注31
・古典派経済学は、価値となって現われる労働を、その生産物の使用価値として現われるかぎりでの同じ労働から、どこでも明文と明瞭な意識とをもっては区別していない。諸労働の単に量的な相違がそれらの質的な一元性または同等性を前提し、したがって諸労働の抽象的人間労働への還元を前提するということには、古典派経済学は考えつかないのである。
・俗流経済学の浅薄さは、ある商品(ここでは労働)の価値を前提しておいて、それによってあとから他の商品の価値を規定しようとするところにある。

注32
・古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の分析から、価値をまさに交換価値となすところの価値の形態を見つけ出すことに成功しなかったことである。
・その原因は、たんに価値量の分析にすっかり注意を奪われてしまったということだけではなく、なによりもブルジョア的生産様式を社会的生産の永遠の自然形態と見誤ったことにある。

注33 (略)

第18段落
・商品世界に付着している呪物崇拝、または社会的な労働の対象的外観によって、一部の経済学者がどんなに惑わされているか、このことをとりわけよく示しているのは、交換価値の形成における自然の役割についての長たらしくてつまらない争論である
・交換価値は、ある物に投ぜられた労働を表す一定の社会的な仕方なのだから、たとえば為替相場などと同じように、それが自然素材を含んでいることはありえないのである。

●「商品世界に付着している呪物崇拝」とは? 労働生産物が、「それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える」(国民文庫136頁、原頁86)ことである。

●「社会的な労働の対象的外観」とは?
商品生産社会では、それぞれがおこなう労働は私的労働である。生産者たちは、直接に労働において人と人との関係をとりむすぶのではなく、商品の交換関係・価値関係という物と物との関係を通じて、互いの生産における関係(生産関係)をとりむすぶ。こうした中では、社会的労働は、価値という物の性質として現われる。そして価値は、交換価値としてはじめて表現される。だから、「社会的な労働の対象的外観」とは、交換価値(価値の現象形態=値価値形態)のことだろう。

第19段落・商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未発展な形態であり、それだからこそ、今日と同じように支配的な、したがって特徴的な仕方ではないにせよ、早くから出現するのであって、そのためにその呪物的性格はまだ比較的容易に見ぬかれるように見えるのである。
・それよりももっと具体的な諸形態では、この単純性の外観さえ消えてしまう。重金主義の幻想はどこからくるのか? 重金主義は、金銀から、それが貨幣としては社会的生産関係を、といっても特別な社会的属性をもった自然物の形態で、表しているということを、見てとらなかった。
・また、近代の経済学は、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、その呪物崇拝はそれが資本を取り扱うやいなやたちまちに明白になるのではないのか?
・地代は土地から生まれるもので社会から生まれるもではないという重農主義の幻想が消えたのは、どれほど以前のことだろうか?

■【参考】第1章第3節A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「三 等価形態」の終わり近くのところでは次のように述べられていた。
「労働生産物は、どんな社会状態のなかにあっても使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展にいったするということになるのである。」(国民文庫117頁、原頁76)

●「それよりももっと具体的な諸形態」とは?
あとで触れている事柄からも明らかなように、貨幣、資本、利潤、地代などであろう。
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by shihonron | 2006-06-30 20:00 | 学習会の報告