『資本論』を読む会の報告

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2006年 07月 30日

第28回  7月25日 第2章 交換過程

7月25日(火)に第28回の学習会を行いました。前回の復習をした後、「第2章 交換過程」の第10段落から第14段落までを輪読、検討しました。検討は、第14段落の途中までで時間切れとなりました。

■テキストの内容と議論    
第2章 交換過程

第10段落
・商品交換がその局地的限界を打ち破り、したがって商品価値が人間労働一般の物質化に発展してゆくにつれて、貨幣形態は、生来一般的等価物の社会的機能に適している諸商品に、貴金属に移ってゆく。

●「商品交換がその局地的限界を打ち破」るとはどういうことか? 当初は、共同体と共同体のときおりの接触で行われるにすぎなかった商品の交換が、恒常的になる。そして、商品の交換は限られた場所や地域の枠を超えて発展するということだろう。一国全体でということか、世界貿易まで念頭に置いているのかという疑問も出されましたが、ここでは、一般的に「商品交換の発展」として理解しておこうということになりました。

●「人間労働一般の物質化」とはどういうこととの疑問が出され、「抽象的・人間的労働の対象化・凝固・結晶と述べられてきたこと」と答えられました。

●「一般的等価物の社会的機能」とは? 他人のすべての商品と直接に交換可能であり、他人のすべての商品にとって、共通の価値表現に役立ち、したがってまた価値を尺度する手段として役立つということ。

貨幣と貨幣形態 貨幣とは、その現物形態に一般的等価物の機能が合体し、癒着した商品であり、だからまた一般的等価物の機能を社会的に独占する商品である。商品が自分の価値を貨幣で表現している価値形態をその商品の貨幣形態と言う。(大谷禎之介『図解 社会経済学』73-74頁)

第11段落
・ところで「金銀は生来貨幣なのではないが、貨幣は生来貨幣である」ということは、金銀の自然属性が貨幣の機能に適しているということを示している。
・しかし、これまでのところでは、われわれは貨幣の一つの機能を知っているだけである。
・すなわち、商品価値の現象形態として、また諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役だつという機能である。
・価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがって同等な人間労働の物質化でありうるのは、ただ、どの一片をとってみてもみな同じ均等な質をもっている物質だけである。
・他方、価値量の相違は純粋に量的なものだから、貨幣商品は、純粋に量的な区別が可能なもの、つまり任意に分割することができ、その諸部分から再び合成することができるものでなければならない。
・ところが、金銀は生来これらの属性をもっているのである。

●貨幣の機能については「第3章 貨幣または商品流通」で展開されている。ここで「商品価値の現象形態として、また諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役だつという機能」と述べられているのは、価値尺度機能のこと。

●均等な質をもち任意に分割・合成ができるという金銀の属性は、「商品価値の現象形態として、また諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役だつという機能」に適している。

第12段落
・貨幣商品の使用価値は二重になる。
・それは、商品としてのその特殊な使用価値、たとえば金が虫歯の充填や奢侈品の原料などに役だつというような使用価値のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取るのである。

●「貨幣商品」とは? 「その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる」(国民文庫130頁・原頁83)と述べられていた。貨幣として機能する商品のこと。

●新日本出版社版では「形態的使用価値」は「形式的な使用価値」となっている。使用価値については「ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする。……商品体そのものが、使用価値または財なのである。」「使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される」(国民文庫73頁・原頁50)と述べられていた。 「 独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値」とは、適当な量がありさえすれば、それとひきかえにどんな物でも手に入れることのできる交換手段としての有用性のことだろう。

第13段落
・他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物でしかなく、貨幣は他の諸商品の一般的等価物なのだから、他の諸商品は、一般的商品としての貨幣に対して、特殊的諸商品として相対するのである。

■価値形態の復習

・形態Ⅰ 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
  x量の商品A=y量の商品B
  商品Aの単純な相対的価値形態→個別的等価物(商品B)

・形態Ⅱ 全体的な、または展開された価値形態
  z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =  x量の商品E または =等々
  A商品の展開された相対的価値形態→特殊的等価物(B、C、D、E等々の諸商品)

・形態Ⅲ 一般的価値形態
 1着の上着 = ┐
10ポンドの茶 = │
40ポンドのコーヒー = │
1クォーターの小麦 = │ 20エレのリンネル
2オンスの金 = │
1/2トンの鉄 = │
x量の商品A = │
等々の商品 = ┘
  諸商品の一般的相対的価値形態→一般的等価物(リンネル)

・形態Ⅳ 貨幣形態
  20エレのリンネル = ┐
  1着の上着 =       │
  10ポンドの茶 = │
  40ポンドのコーヒー =  │       2オンスの金
  1クォーターの小麦 = │
  1/2トンの鉄 = │
  x量の商品A = │
  等々の商品 = ┘

「形態Ⅰから形態Ⅱへの、また形態Ⅱから形態Ⅲへの移行では、本質的変化が生じている。これに反して、形態Ⅳは、いまではリンネルに代わって金が一般的等価形態をもっているということのほかには、形態Ⅲと違うところはなにもない。形態Ⅳでは金は、やはり、リンネルが形態Ⅲでそうだったもの――一般的等価物である。前進は、ただ、直接的な交換可能性の形態または一般的等価形態がいまでは社会的慣習によって最終的に商品金の独自的な現物形態と合生しているということだけである。」(国民文庫131-132頁・原頁84)

●「他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物」とは? 
貨幣を相対的価値形態におく「展開された価値形態」(形態Ⅱ)のことだろうか。
「一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で表現されるのである。」(国民文庫130頁・原頁83)そのかぎりでは、特殊的等価物である諸商品は、貨幣に対して直接的交換可能性をもつことになるが、それは現実とは異なっている。あくまでも、「貨幣商品の価値表現」という範囲でのことだと考えるべきではないか。ここでは最初に貨幣形態(形態Ⅳ)または一般的価値形態(形態Ⅲ)を思い浮かべたうえで、それを逆転させた形態を考えているのではないか。

●「貨幣は他の諸商品の一般的等価物」とは? 
貨幣形態(第Ⅳ形態)を考えればよい。貨幣は、他の諸商品に対して直接的交換可能性を持っている。

●「一般的商品」とは?
どんな商品にでも変わることのできる商品ということ、特定の使用価値に制約されていないと言う意味で「一般的」と呼ぶのではないだろうか。ドイツ語ではallgemeine Ware
【英語版】
Since all commodities are merely particular equivalents of money, the latter being their universal equivalent, they, with regard to the latter as the universal commodity, play the parts of particular commodities.

 一般的商品→ universal commodity=普遍的な商品 普遍=すべてのものに共通していること
 特殊的諸商品→particular commodities

ドイツ語allgemeineは英語ではgeneralと訳されることもある。
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by shihonron | 2006-07-30 16:04 | 学習会の報告
2006年 07月 23日

第27回  7月19日 第2章 交換過程

7月19日(水)に第27回の学習会を行いました。前回の復習をした後、「第2章 交換過程」の第8段落から第9段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第2章 交換過程


第8段落
・直接的生産物交換は、一面では単純な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。
・この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。
・直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。
・AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。
・ある使用対象が可能性から見て交換価値であるという最初のあり方は、非使用価値としての、その所有者の直接的欲望を超える量の使用価値としての、それの定在である。
・諸物は、それ自体としては人間にとって外的な物であり、したがって手放されうる物である。
・この手放すことが相互的であるためには、人々はただ暗黙のうちにその手放されうる諸物の私的所有者として相対するだけでよく、また、そうすることによって互いに独立な人として相対するだけでよい。
・とはいえ、このように互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。
・その共同体のとる形態が家長制家族であろうと古代インドの共同体であろうとインカ国その他であろうと、同じことである。
・商品交換は、共同体が果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる。
・しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。
・諸物の量的な交換割合は、最初はまったく偶然的である。
・それらの物が交換されうるのは、それらの物を互い手放しあうというそれらの物の所持者たちの意志行為によってである。
・しかし、そのうちに、他人の使用価値にたいする欲望は、だんだん固定してくる。
・交換の普段の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする。
・したがって、時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。
・この瞬間から、一方では、直接的必要のための諸物の有用性と、交換のための諸物の有用性との分離が固定してくる。
・諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。
・他方では、それらの物が交換される量的割合が、それらのものの生産そのものによって定まるようになる。
・慣習は、それらの物を価値量として固定させる。

●「直接的生産物交換」とはどういう意味か? 貨幣の媒介なしに「直接的」に行われる、生産物と生産物との交換(物々交換)のことだろうか?

●直接的生産物交換においては、交換によってはじめて商品になる。つまり、最初から交換を目的として(商品として)生産されたのではなく、交換の結果として商品になる。

●「諸物の私的所有者」とは、物を自分の所有物として、自分の意志でどのようにも取り扱うことができ人。

■ 所有権 しょゆうけん
物を全面的に支配できる物権で,所有者は法令の制限内においてその所有物を自由に使用・収益・処分できる(民法206,207条)。財産権の中心をなす。地上権や永小作権などによって制限されることがあっても,これらの制限は有限であるから,所有権は全面的支配に復する弾力性を有する。近代の所有権は自由な所有権として確立され,私有財産制の基礎をなす。20世紀に入ると所有権は公共の福祉による制約を受けるものとされ,所有権の行使は権利濫用の法理によって制約されることがある。
(マイペディア)

●「互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない」について、大谷禎之介氏は「労働する諸個人を結びつけているのは原生的な種族関係にもとづく共同体であり、彼らを支配しているのは自然発生的な人格的依存関係である。彼らは共同体の中に埋没しており、個人として自立できない。」(『図解社会経済学』30頁)と述べている。

●第1章第4節では「古代アジア的とか古代的などの生産様式では、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割、といっても共同体がその崩壊過程にはいるにつれて重要さを増してくる役割を演じている。
・本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またポーランド社会の気孔の中でのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。」(国民文庫146頁・原頁93)と述べられていた。

●「物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる」という点について、内部的共同生活でも商品になる」をどのように理解するかで議論になりました。共同体の内部で商品交換がなされるということではなく、最初から交換を目的としての生産が行われるようになるということではないかという意見が出されました。
この点について浜林正夫氏は「まず、二つの共同体がお互いに余ったものを村はずれにおいて交換する。そういうかたちで交換が始まった。それがいったん始まると、共同体の中でも商品交換が始まるようになる」と説明しています。(『資本論を読む[上]』151-152頁)と説明しています。

●「直接的必要のための諸物の有用性」=使用価値
 「交換のための諸物の有用性」=交換価値

●第1章第4節では「生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合がある程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。たとえば1トンの鉄と2オンスの金とが等価であることは、1ポンドの金と1ポンドの鉄がそれらの物理的属性や科学的属性の相違にもかかわらず同じ重さであるのと同じことのように見える。じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。」と述べられていた。

第9段落
・直接的生産物交換では、どの商品も、その商品の所持者にとっては直接に交換手段であり、その非所持者にとっては等価物である。
・といっても、それが非所持者にとつて使用価値であるかぎりでのみとではあるが。
・つまり、交換される物品は、それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にかかわりのない価値形態をまだ受け取っていないのである。
・この形態の必然性は、交換過程にはいってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。
・課題は、その解決の手段と同時に生まれる。
・商品所持者たちが彼ら自身の物品をいろいろな他の物品と交換し比較する交易は、いろいろな商品がいろいろな商品所持者たちによってそれらの交易のなかで一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較されるということなしには、けっして行われないのである。
・このような第三の商品は、他のいろいろな商品の等価物となることによって、狭い限界のなかではあるが、直接に、一般的な、または社会的な等価形態を受け取る。
・この一般的等価形態は、それを生み出した一時的な社会的接触と一緒に発生し消滅する。
・かわるがわる、そして一時的に、一般的等価形態はあれこれの商品に付着する。
・しかし、商品交換の発展につれて、それは、排他的に特別な商品種類だけに固着する。
・言いかえれば、貨幣形態に結晶する。
・そりがどんな商品種類にひきつづき付着しているかは、はじめは偶然的である。
・しかし、だいたいにおいて二つの事情が事柄を決定する。
・貨幣形態は、域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品に付着するか、または域内の譲渡可能な財産の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものに付着する。
・遊牧民族は最初に貨幣形態を発展させたのであるが、それは、彼らの全財産が可動的な、したがって譲渡可能な形態にあるからであり、また、彼らの生活様式が彼らを絶えず他の共同体と接触させ、したがって彼らに生産物交換を促すからである。
・人間はしばしば人間そのものを奴隷の形で原始的な貨幣材料にしたが、しかし土地をそれにしたことはなかった。
・このような思いつきは、すでにできあがったブルジョア社会でしか現われることはできなかった。
・それが現われたのは、17世紀の最後の三分の一期のことであり、その実行が国家的規模で試みられたのは、やっと一世紀後にフランスのブルジョア革命のさいちゅうのことだった。

●「その非所持者にとっては等価物である。」とは、AとBが交換される場合には、Aの所持者にとってはBが、Bの所持者にとってはAが自分のもっている商品と同じだけの価値をもつ物、自分のもっている商品に対して直接的交換可能性をもつ物とみなされるということだろう。

●「それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にかかわりのない価値形態」とは、一般的価値形態、貨幣形態のこと。

●「域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品」とはどんな物かとの疑問が出され、域内では生産されないだれもが必要とし交換するような外来の物品、たとえば塩などではないかとの意見が出されました。

●土地を貨幣材料としようとした国家規模での試みとはアッシニャ紙幣のこと。 

■アッシニャ
フランス革命期,1789年―1796年に発行された紙幣。最初は革命政府が没収した王室・教会・亡命貴族の領地を担保とする公債であったが,紙幣として流通するようになった。1792年からは担保の価値を越えて乱発され,インフレをひき起こして民衆の生活を困窮させた。発行停止時の1796年にはその価値は額面のわずか1%であった。 (マイペディア)
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by shihonron | 2006-07-23 23:35 | 学習会の報告
2006年 07月 17日

第26回  7月11日 第2章 交換過程

7月11日(火)に 『資本論』を読む会@所沢 第2期 第26回の学習会を行いました。
「第2章 交換過程」の第1段落から第7段落までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
第2章 交換過程

第1段落
・商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない。
・これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにする。のである。
・それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法律関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する。
・一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。

● 「商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない」というのはどういう意味なのかという疑問が出されました。商品という物には意志がないが、人間である商品所有者には意志がある。商品所有者は、自分の商品を自分の意志に基づいて取り扱うということではないかとの意見が出されました。

●「ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する」とは、商品交換の関係においては、商品所有者は、どんな人か、だれであるかなどとは関係なく、ただ商品を代表する人(人格)としてだけ認められるということだろう。私たちは人を「パン屋さん」とか「靴屋さん」と呼んだりすることがある。それは、その人の名前や年齢や性別、容姿、性格、思想などは全く問題にせず、ただパンや靴という商品の所持者としてのみとらえているるからだ。

■契約 〔法〕 私法上、相対する二人以上の合意によって成立する法律行為。債権の発生を目的とするもののほか、身分上の合意や物権的な合意も含まれる。典型契約・非典型契約・混合契約、有償契約・無償契約、諾成契約・要物契約等に区分される。また、より広く合同行為も含めた、複数の意思表示によって成立する法律行為を意味することもある。(大辞林 第二版)

■法律 (1)社会生活の秩序を維持するために、統治者や国家が定めて人民に強制する規範。法。
    (2)憲法に基づいて国家の立法機関により制定される成文法。 (大辞林 第二版)

■法律関係 法律によって律せられる関係。例えば、家主と借家人の間の権利・義務の関係。

第2段落
・商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態として認められるだけだという事情である。だから生まれながらの平等派であり、犬儒派である商品は、他のどの商品とでも、心だけではなくからだまでも取り交わそうといつでも用意しているのである。このような、商品に欠けている、商品体の具体的なものにたいする感覚を、商品所持者は自分自身の五つ以上もの感覚で補うのである。
・彼の商品は、彼にとっては直接的使用価値をもっていない。もしそれを持っているなら、彼はその商品を市場にもってゆかないであろう。彼の商品は、他人とっての使用価値をもっている。彼にとっては、それは、直接にはただ、交換価値の担い手でありしたがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである。それだからこそ、彼はその商品を、自分を満足させる使用価値をもつ商品とひきかえに、手放そうとするのである。
・すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。だから商品は、全面的に持ち手を取り替えねばならない。そして、この持ち手の取り替えが商品の交換なのであり、また商品の交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現するのである。それゆえ、商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。

●欲望をもたない物である商品にとっては、他のどんな商品体(商品の現物形態=使用価値)も自分の価値形態(価値の現象形態)として認められる。だから商品は、他のどんな商品との交換にでも応じる準備がある。しかし、人間である商品所持者は、自分の欲求を満たす商品と引き替えでなければ自分の商品を譲渡しようとはしない。

■犬儒派(キニク学派)〔(ギリシヤ) kynikos(「犬のような」の意)〕アンティステネスを祖とする古代ギリシャの哲学の一派。幸福とは外的な条件に左右されない有徳な生活であるとし、無所有と精神の独立を目指したため反文化的な乞食生活を送る者もいた。シノペのディオゲネスが有名。犬儒学派。キュニコス学派。

●直接的使用価値とは、消費の対象としての本来的な使用価値のことであり、商品所有者にとっては自分のもっている商品は交換手段であるという使用価値(形態的使用価値)をもつだけだ。

●「他人にとっての使用価値」については、第1章第1節の最後でもふれられていた。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。(国民文庫82頁、原頁55)

●「使用価値としての実現」は販売、「価値としての実現」は購買のことだと理解できないかとの意見が出されました。これに対して「この箇所ではまだ貨幣が登場していないので、販売・購買とはいえない」との反論がありました。

●・「使用価値の実現」とは、「一定の欲望の充足に役立ちうる属性を物がもっている、それを実際に役立たすこと、すなわち物がもっているそういう可能性を実現することであって、これはいうまでもなく消費の過程で行われる。これに反して、使用価値としての商品の実現は交換過程上の問題であって、消費過程上の問題ではない。商品の使用価値は、単なる使用価値ではなくて、一定の社会的な規定性をもつ使用価値である。すなわちそれは、現にそれを商品としてもっている者のための使用価値ではなくて、他人のための使用価値である。だからそれは、それを必要とする他人の手に移らねばならぬ。そうすることによってはじめて、使用価値として実際に役立ちうることになる。マルクスが「使用価値としての商品の実現」といっているのはこのことをさすのであって、消費の過程においてではなく、交換の過程において行われる。」(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』14頁)
・「価値の実現ということは、いわば即自的にのみある商品の価値を、現実の価値に、客観的に妥当な価値の姿態に、すなわち貨幣に転化することであって、これはいうまでもなく販売の過程においておこなわれる。ところが、交換過程論で価値としての商品の実現が問題とされている場では、貨幣はまだ形成されておらず、交換の過程はまだ販売および購買の二つの過程に分裂していないのであるから、この点からだけみても、価値としての商品の実現という言葉が商品の価値の実現ということとはちがった意味に用いられていることは明らかなはずである。では、それはどういう意味であるかというと、現にマルクス自身が「彼[商品所持者]は彼の商品を価値として実現しようと欲する。すなわち、彼自身の商品がその他商品の所有者にとって使用価値をもつと否とにかかわらず、同じ価値ある任意の他商品で実現しようと欲する」(「資本論」第1巻、九二頁)といっているのによっても明らかなように、商品を現に価値であるものとして妥当させること、価値としての能力を実現すること、を意味するのである。」(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』15頁)

●「商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。」とはどういうことか? 商品所有者は、自分の欲しい他商品と引き替えにでなければ、自分の商品を相手に譲渡しようとはしない。それを必要とする人に譲渡されることによってはじめて使用価値としての実現がなされるのだが、その譲渡のためには、自分の欲しい商品を手に入れる(価値として実現する)ことが条件になる。


第3段落
他方では、商品は価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。なぜならば、商品に支出された人間労働は、ただ他人にとって有用な形態で支出されたかぎりでしか、数にはいらないからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってまたその生産物が他人の欲望を満足させるかどうかは、ただ商品の交換だけが証明することができるのである。

●「商品所有者は、自分の欲する他商品を手に入れる(価値として実現する)ためには、自分の商品が他人にとって有用であることを実証する(使用価値としての実現)ことが条件になる。しかし、自分の商品が他人にとって有用であることは、交換によってしか実証されない。」ということではないかという意見が出され、これについて「使用価値としての実現」と「使用価値として実証する」に区別はないのだろうかとの疑問が出されました。

第4段落
・どの商品所有者も、自分の欲望を満足させる使用価値をもつ別の商品とひきかえにでなければ自分の商品を手放そうとはしない。そのかぎりでは、交換は彼にとってはただ個人的な過程でしかない。他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。すなわち、自分の気にいった同じ価値の商品でさえあれば、その商品の所有者にとって彼自身の商品が使用価値をもっているかどうかにかかわりなく、どれででも実現しようとする。そのかぎりでは、交換は彼にとって一般的な社会的過程である。だが、同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。

●「そのかぎりでは、交換は彼にとってはただ個人的な過程でしかない」「そのかぎりでは、交換は彼にとって一般的な社会的過程である」とはどういうことかという疑問が出されました。はっきりとした結論には至りませんでした。
「社会的」の対義語としては「個人的」「私的」「自然的」などが考えられる。
「一般的」「全般的」の対義語は「個別的」・「特殊的」が考えられる。
英語版ではprivate transactionとなっており、「私的取引」(私事)と訳すこともできる。

この箇所は英語版では以下のようです。
Every owner of a commodity wishes to part with it in exchange only for those commodities whose use-value satisfies some want of his. Looked at in this way, exchange is for him simply a private transaction. On the other hand, he desires to realise the value of his commodity, to convert it into any other suitable commodity of equal value, irrespective of whether his own commodity has or has not any use-value for the owner of the other. From this point of view, exchange is for him a social transaction of a general character. But one and the same set of transactions cannot be simultaneously for all owners of commodities both exclusively private and exclusively social and general.

 Looked at in this way, exchange is for him simply a private transaction. 
 「このようにみれば、交換は彼にとっては単なる私的取引である」

 From this point of view, xchange is for him a social transaction of a general character.
 「この観点からすると、交換は彼にとって、一般的な性格をもつ社会的取引である」

第5段落
・もっと詳しく見れば、どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。
・だがすべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。
・したがつてまた、諸商品は、けっして商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである。

●自分の商品を一般的等価物とみなすとは、自分の商品は任意の他商品と直接に交換できるものだとみなすことである。しかし、それはひとりよがりにすぎない。実際に他の任意の商品と直接に交換可能なわけではない。
商品は、自分で一般的等価物になることはできない。自分を除いたすべての商品によって、受動的に一般的等価物にされるのである。商品世界が歩調を合わせ、ある一商品を商品世界から除外し、その商品だけを等価物だと認めることによって、その商品は一般的等価物にされるのである。(価値形態C=第3形態)
それぞれの商品が、自分は一般的等価物であり、他商品と等しく、いつでも他商品と交換可能だと言ってみても、通用しないのである。別の言い方をすれば、それぞれの商品を代表するそれぞれの商品所持者たちが自分の商品を一般的等価物だとみなしてみても通用しないのである。なぜなら、すべての商品所持者が自分の商品を一般的等価物であるとみなし、他の商品所持者の商品を一般的等価物とは認めようとはしないからである。

●「商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである」とはどういうことか? 労働生産物は、使用価値に加えて、価値形態をもつことによって商品となる。ここでは、一般的価値形態をもつことができないので、労働生産物は価値形態をもつことができず、商品として、価値として等しいものとして相対することができないということを述べているのではないか。

第6段落
・われわれの商品所持者たちは、当惑のあまり、ファウストのように考え込む。太初(はじめ)に(わざ)ありき。だから、彼らは、考えるまえにすでに行っていたのである。商品の本性の諸法則は、商品所持者の自然本能において自分を実証したのである。
・彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ自分たちの商品を、一般的等価物としての別の或る一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。このことは、商品の分析が明らかにした。
・しかし、ただ社会的行為のみが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表すのである。
・このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品は――貨幣になるのである。

●第2段落から第5段落で商品交換の困難あるいは不可能性が取り上げられてきた。
・「商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。」(第2段落)「他方では、商品は価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。」(第3段落)
・「同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。」(第4段落)
・「どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。」(第5段落)
これでは商品の交換は行き詰まってしまうように思える。しかし、こうした困難は、商品の社会的行動によって一般的等価物が生み出され、一般的等価物の機能を社会的に独占する一商品=貨幣が成立することで解決される。

第7段落
・貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に互いに等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。
・交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。
・この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである。

●「商品価値の独立形態」とは何かという疑問が出され、価値しか表していない形態=等価形態と理解できるが、事実上貨幣が念頭に置かれているのではないかということになりました。

■資料 「使用価値の実現」と「使用価値としての実現」
     『資本論』学ぶ会発行・『資本論』学ぶ会ニュースNO.27(1999年3月11日)より引用

 前回は第二章の三つのパラグラフを進んだだけでしたが、しかしかなり突っ込んだ議論を行い、理解もそれだけ深まったのではなかったかと思います。

 まず最初のパラグラフでは、交換過程では商品は価値と使用価値の統一物として現われること、だからそこでは第一章では捨象されていた商品所有者の存在(よって彼の欲望等)が分析の対象に新たに加わることが指摘されていること、ただその場合の商品所有者は現実の商品交換という経済的関係の反映したものであること、一般に『資本論』で取り扱われる「諸人格の経済的扮装は経済的関係の人格化にほかならない」こと等が述べられていることが確認されました。ここで「諸人格の経済的扮装」とは具体的には何かが質問として出ましたが、例えば「資本家」や「労働者」、「土地所有者」等々のことだろうということになりました。

 次に第二パラグラフと第三パラグラフでは、現実の交換過程で生じる矛盾が明らかにされています。マルクスはこうした矛盾として三つのものを指摘しているように思えるのですが、第二・三パラグラフで展開されているものは、その最初のものです。これらの三つの矛盾の関連をどうとらえるかも問題なのですが、それはまた別の機会にします。

 マルクスが最初に問題にしている矛盾とは、「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」ということと「価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」ということです。つまり使用価値も交換価値もその実現のためには相手の実現を前提し合う関係にあるということです。ということは現実には商品交換は不可能だということになります。『経済学批判』ではマルクスはこれを「悪循環」とも述べています。

 問題はこれはいったいどういう現実を言っているのだろうか、ということです。しかしこれはそれほど難しいことではなくて、現実の生産物の物々交換(つまり貨幣がまだ現われていない交換)を想定してみれば分かります。私が魚をとって市場で野菜と交換したいと考えても、たまたま野菜を市場に持って来ている人が、魚をほしがっているならば交換可能ですが、そうでなければ交換できません。両者の欲求が一致するのはまったく偶然であって、実際にはなかなか一致せず、だから交換も出来ないのです。マルクスが明らかにしている矛盾はまさにこうした現実を示しているのではないでしょうか。

 交換過程を問題にするときには、商品は使用価値と価値の統一物であり、商品所有者の欲求が分析の対象にならなければなりません。だからまたこうした矛盾が生じるのです。第一章では20エレのリンネルは上着一着と交換されましたが、しかし等価形態に上着が来るか、鉄がくるかコーヒーが来るかは問題ではありませんでした。それは何でも良かったのです。というのは第一章では商品が交換されている現実を前提にしてそれを直接分析の対象にしていたからであって、そこでは商品所有者も彼の欲望も捨象されて問題にはされなかったからです。しかし第二章では商品交換はより具体的に分析され、商品は現実の商品としていわば運動するものとしてとらえられているともいえます。

 ところでここでは、報告者のレジュメで紹介されていた久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』の解説の理解が問題になりました。そこでは氏は「使用価値としての商品の実現」と「使用価値の実現」とは違うこと、後者は一定の欲望を満足させるという属性をもっていること、すなわち実際に役立つ可能性を実現することで、それは消費過程の問題だが、前者はあくまで交換過程上の問題である、「だからそれは、それを必要とする他人の手に移らねばならぬ。そうすることによってはじめて、使用価値として役立ちうることになる、マルクスが『使用価値としての商品の実現』といっているのは、このことをさすのであって、消費の過程ではなく、交換の過程において行われる」と述べていることを、如何に理解するかということです。またそれと関連して、「使用価値としての実現」と「使用価値であることを実証する」ということとは同じなのか、違いはあるのかどうかも問題になりました。

 マルクスは第一章第一節の使用価値の説明のところで、「使用価値は、使用または消費においてのみ、実現される。……われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている」(新日本新書版61頁)と述べていました。また『経済学批判』では「彼(商品所有者--引用者)にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。……だから諸商品の使用価値は、商品が全面的に位置を転換し、それが交換手段である人の手から、それを使用対象とする人の手に移ることによって、使用価値として生成するのである」「諸商品の使用価値としての生成は、その全面的外化、その交換過程へはいることを予想している」等々(全集⑬26~7頁)とあります。

 第一節の説明でも明らかなように、「使用価値の実現」は明らかに消費過程の問題です。他方、『批判』の一文を見ても分かるように、「使用価値として実現する」というのは、「使用価値として生成する」とも言われていますが、要するにここでは「商品の位置の転換」が言われるのみです。つまりそれを必要とする人の手に渡るということです。それが「使用価値としての実現」の意味ではないでしょうか。だからここでは使用価値は交換されるだけで、まだ消費は問題になっていないともいえます。それが「使用価値としての実現」の内容ではないでしょうか。

 それでは「実現」と「実証」には区別があるのでしょうか? 学習会では大体同じことではないか、という意見が大勢でした。だからあえて問題にする必要もないのかもしれませんが、この両者の相違を主張する見解もあることだけは紹介しておきましょう。

 すでに何度か紹介した白須五男氏は次のように説明しています。

 まず「使用価値としての実現」とは「商品が有用労働の生産物であり人間の一定の欲望を充足する対象であることを、その商品を必要とする人の手に移すことによって真にそうした内容を持つものであるとして現実的に明示すること、これである」とし、さらに「使用価値としての実証というのは、右にいう実現とは違って、商品交換が事実上なされる以前に、交換部面で対峙し合っているその商品の使用価値が他方の商品所有者にとって本当に有用労働の成果であり、他方の人の特定の欲望を満たす生産物であることをまずもって証明すること、このことである」と説明しています(『マルクス価値論の地平と原理』210~1頁)。

 果たしてこのように両者の相違を見るのが正しいのかどうか、それは皆さんの検討を待ちましょう。
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by shihonron | 2006-07-17 00:00 | 学習会の報告
2006年 07月 10日

第25回  7月4日 復習

7月4日(火)に、『資本論』を読む会@所沢 第2期 第25回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」全体の復習のつづきを行いました。
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by shihonron | 2006-07-10 00:00 | 学習会の報告