『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧


2007年 01月 31日

第46回 1月30日  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 b 貨幣の流通

1月30日(火)に第46回の学習会を行いました。「読む会通信」№235を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 b 貨幣の流通」の第3段落から第10段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 b 貨幣の流通 


第3段落
・他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。
・だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。
・したがってまた、この形態運動は感覚的にも貨幣の流通に反映しなければならない。【これ以下この段落の終わりまでは、フランス語版によってエンゲルスがマルクスの文を書き換えた】
・たとえば、リンネルはまず自分の商品形態を自分の貨幣形態に変える。
・リンネルの第一の変態W―Gの最後の極、貨幣形態は、次にはリンネルの最後の変態G―Wの、リンネルの聖書への再転化の、最初の極になる。
・しかし、この二つの形態変換のどちらも、商品と貨幣との交換によって、それらの相互の場所変換によって、行なわれる。
・同じ貨幣片が、商品の離脱した姿として売り手の手に入り、そして商品の絶対的に譲渡可能な姿としてこの手を去る。
・それは二度場所を替える。
・リンネルの第一の変態は、この貨幣片を織職のポケットに入れ、第二の変態はそれを再び持ち出す。
・だから、同じ商品の二つの反対の形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映するのである。

■フランス語版の当該箇所は以下のように書かれている。
《他方、貨幣が流通手段として機能するのは、それが商品の実現された価値形態であるがためでしかない。だから貨幣の運動は、実際は、商品自体の形態運動でしかない。したがってこの形態運動は、貨幣の流通のうちに反映されるはずであるし、また、貨幣の流通において手で触れることができるようになるはずである。事実そういうことも起こるのだ。たとえば、リンネルはまずその商品形態を貨幣形態に変える。リンネルの第一変態(M―A)の最後の項である貨幣形態は、リンネルの最終形態の、日用商品である聖書への瓶変換(A―M)の、最初の項である。だが、これらの形態変換のどれも、商品と貨幣との交換によって、すなわち、それら相互の位置変換によって果たされる。同じ金貨が第一幕ではリンネルと位置を変え、第二幕では聖書と位置を変える。金貨は二度位置を変える。リンネルの第一変態は金貨を織職のポケットに入りこませ、第二変態は金貨を彼のポケットから出させる。したがって、同じ商品が受ける二つの逆の形態変換は、反対方向への同じ貨幣片の二重の位置変換のうちに反映されるのである。》(『フランス語版資本論 上巻』江夏美千穂・上杉聰彦訳 法政大学出版会 96頁)
 なお、初版や第二版の記述は資料が手元になく、確認できませんでした。

●「流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかない」ことを確認しておくことはとても大切だとの意見が出されました。

★貨幣は、商品価格を実現する。そして、貨幣は商品の絶対的に譲渡可能な姿(価値として通用するもの)である。商品形態は、その価値を観念的な貨幣で(価格として)表現してはいるが、そのままで価値として通用する(妥当する)ことはできない。商品は他商品に対する直接的交換可能性の形態にはなく、絶対的に譲渡可能ではない。

●「同じ商品の二つの反対の形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映する」とはどういうことかという疑問が出されました。商品リンネルの二つの反対の形態変換はリンネル―貨幣と、貨幣―聖書 である。第一の変態はW―Gであり、第二の変態はG―Wであり、この二つは「反対の形態変換」である。また、リンネルの第一の変態では、リンネル織職の手に貨幣が入り、第二の変態ではリンネル織職の手から貨幣が出ていく。この二つは「反対方向への貨幣の場所変換である。」

第4段落
・これに反して、ただ一面的な商品変態、単なる売りか単なる買いのどちらかが行なわれるとすれば、同じ貨幣は一度だけ場所を変える。
・この貨幣の第二の場所変換は、つねに商品の第二の変態、貨幣からの商品の再転化を表している。
・同じ貨幣片の場所変換のひんぱんな繰り返しには、ただ一つの商品の変態列が反映しているだけではなく、商品世界一般の無数の変態のからみ合いが反映しているのである。
【「同じ貨幣片の」以下はフランス語版によってエンゲルスが挿入した文】
・なお、すべてこれらのことは、ただ単純な商品流通のここで考察された形態にあてはまるだけだということは、まったく自明のことである。

■フランス語版の当該箇所は以下のように書かれている。
《もし商品が、部分変態、一方の極から見れば販売であり他方の極から見れば購買であるというただ一つの運動しか通過しないならば、同じ貨幣片はやはりただ一度しか位置を変えない。貨幣片の第二の位置変換はつねに商品の第二変換、貨幣形態から日用上の形態への復帰を表現している。同じ貨幣片の位置変換の頻繁な繰り返しのうちには、もはや、たんにただ一個の商品の変態系列だけではなく、さらにまた、同様な相互的諸変態の錯綜も反映されている。(25)
(25)本文での記述は、われわれがいま研究している唯一の形態である単純な流通形態にしか関係がないことに、充分注意する必要がある。》(『フランス語版資本論 上巻』96頁)

●「単純な商品流通のここで考察された形態」とは何かという疑問が出され、「あとで出てくる資本としての貨幣の流通形態 G―W―G′ではなく、特定の使用価値を入手することを目的とする W―G―W のことではないか」という意見が出されました。

第5段落
・どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。
・これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。
・そこでこの部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するのか、という問題が生ずる。

第6段落
・一国では毎日多数の同時的な、したがってまた空間的に並行する一方的な商品変態が、言いかえれば、一方の側からの単なる売り、他方の側からの単なる買いが、行なわれている。
・商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。
・ところで、ここで考察されている直接的流通形態は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向かいあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価値総額によって規定されている。
・じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表されている金総額を実在的に表すだけである。
・したがつて、これらの二つの総額が等しいということは自明である。
・とはいえ、われわれが知っているように商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は、金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価格が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。
・こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。
・この場合には流通手段の量の変動はたしかに貨幣そのものから生ずるのではあるが、しかし、流通手段としての貨幣の機能からではなく、価値尺度としての機能から生ずるのである。
・諸商品の価格がまず貨幣の価値に反比例して変動し、それから流通手段の量が諸商品の価格に正比例して変動するのである。
・これとまったく同じ現象は、たとえば、金の価値が下がるのではなく、銀が価値尺度としての金に取って代わる場合とか、銀の価値が上がるのではなく、金が銀を価値尺度の機能から追い出すような場合にも、起きるであろう。
・前のほうの場合には以前の金よりも多くの銀が、あとのほうの場合には以前の銀よりも少ない金が、流通しなければならないであろう。
・どちらの場合にも、まず貨幣材料の価値、すなわち価値の尺度として機能する商品の価値が変動し、そのために商品価値の価格表現が変動し、またそのためにこれらの価格の実現に役だつ流通する貨幣の量が変動するということになるのであろう。
・すでに見たように、商品の流通部面には一つの穴があって、そこを通って金(銀、要するに貨幣材料)は、与えられた価値のある商品として流通部面にはいってくる。
・この価値は、価値尺度としての貨幣の機能では、したがって価格決定にさいしては、すでに前提されている。
・いま、たとえば価値尺度そのものの価値が下がるとすれば、されは、まず第一に、貴金属の生産源で商品としての貴金属と直接に交換される諸商品の価格変動に現われる。
・ことにブルジョア社会での比較的未発展な状態では、他の商品の一大部分は、なおかなり長いあいだ、価値尺度のいまでは幻想的となり過去のものとなった価値で評価されるであろう。
・しかし、一商品は他の商品を、それと自分との価値関係をつうじて自分にかぶれさせてゆくのであって、諸商品の金価格または銀価格は、しだいに、それらの価値そのものによって規定された割合で調整されて行って、さいにはすべての商品価値が貨幣金属の新たな価値に応じて評価されるようになるのである。
・このような調整過程は、直接に貴金属と交換される諸商品に代わって流入する貴金属の継続的な増大を伴う。
・それゆえ、諸商品の改定された価格づけが一般化されるにつれて、または、新たな、すでに下がった、そしてある点までは引き続き下がって行く金属の価値によって諸商品の価値が評価されるようになるにつれて、それと同じ程度に、諸商品の価値の実現に必要な金属の増加量もすでに存在しているのである。
・新たな金銀の発見に続いて起きた諸事実の一面的な考察は、17世紀およびことに18世紀には、商品価格が上がるのはより多くの金銀が流通手段として機能したからだというまちがった結論に到達させた。
・以下では金の価値は与えられたものとして前提されるが、日さいにもそれは価格表かの瞬間には与えられているのである。

●この段落のポイントの一つは 、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されているということ。

●比例は、一方の量の増減によって他方の量が増減することなのに、『資本論』では、一方の量の増大によって他方の量が減少する場合にも比例という言葉が用いられている場合があるが、適切なのだろうか」という疑問が出され、これに対して「正しくは比例ではなく、反比例というべきだろう」「比例という言葉を、一方の量の変化に対応して他方の量が変化するという意味で用いているのではないか」との発言がありました。

●貨幣商品の価値に変化が生じても、商品の価格が一斉に変化するわけではないことに関連して「それは、インフレの場合でも同様であり、賃金が最後にしか上がらないことによって労働者は収奪されるのだ」という意見が出されました。

●「かぶれさせてゆく」の箇所は、新日本出版社版では「一つの商品は他の商品に、それにたいする自分の価値関係を通して自分を感染させていく。」となっていることが紹介されました。

■「商品価格が上がるのはより多くの金銀が流通手段として機能したからだ」という主張は、貨幣数量説と呼ばれている。

■【貨幣数量説】
経済の他の事情に変化がなければ,流通している貨幣数量の増減は,正比例的に物価水準を騰落させると説く理論。すなわち,貨幣の量が2倍になれば,物価もほぼ2倍になると説く。17世紀ごろより主張されていた古典派の学説だが,近代ではI.フィッシャーが簡明な交換方程式PT=MVによって説明。これは貨幣量をM,貨幣の流通速度をV,物価水準をP,財の取引総量をTとすると,取引価額(P×T)は貨幣の流量(M×V)に等しいことを表している。この方程式は,貨幣の流通速度Vと,財の取引総量Tがある期間内一定であると仮定するなど,現実とはかけ離れていたが,現代の新貨幣数量説の基礎となった。(マイペディア)

■【商業革命】15世紀末のコロンブスの新世界への到達とガマのアフリカ迂回(うかい)新航路の開拓をはじめとする〈地理上の発見〉(大航海時代)がもたらした経済史上の変革。イタリア,ドイツの東方貿易を衰えさせ,スペイン,ポルトガル,オランダ,英国に世界貿易の覇権を握らせ,ひいてヨーロッパ織物工業の勃興(ぼっこう)を促して資本主義発展の前提をつくった。17世紀ころまでは新大陸から膨大な金銀が流入し,ヨーロッパ諸国の物価を高騰させた(価格革命)。やがて砂糖プランテーションが重要となり,大西洋奴隷貿易(三角貿易)に至った。

■【価格革命】16 世紀初葉から 1 世紀以上ヨーロッパ諸国で続いた長期的な物価騰貴をいう。 15 世紀末のアメリカ大陸発見後,アメリカ大陸貿易はスペイン王室の保護の下にセビリャ商人の手で独占的に進められた。その輸入品の大部分はアメリカ大陸産貴金属,とりわけ銀であり,とくに 16 世紀中葉のボリビアのポトシ,メキシコのサカテカス,グアナフアトなどの豊富な銀山の開発,水銀アマルガム法による銀製錬技術の適用,低廉な原住民の賦役労働により銀生産は飛躍的に増大し,その輸入は 16 世紀後半にはいって激増し,スペインを経てヨーロッパの市場にあふれた。物価騰貴の主要な原因の一つは,この貴金属の大量流入と貨幣の改鋳とによる貨幣供給量の増大であり,貨幣供給量の増大は物価騰貴をひきおこす一方で利子率の長期的な低下をもたらした。また,黒死病 (ペスト) の終息以後ヨーロッパに起こった顕著な人口増加も物価騰貴の原因として注目され,価格革命においてヨーロッパ諸国で共通にみられた現象――農産物価格の騰貴がとりわけいちじるしかったこと,実質賃金の低落,地代の上昇など――は食料需要,労働および土地市場にたいする人口圧力の結果だと考えられる。価格革命の影響は単純ではなく,また国によって一様ではないが,貨幣供給量の増大と利子率の低下,持続的な物価騰貴による利子の実質的負担の軽減はヨーロッパ経済に取引と投資の大きい可能性をあたえ,地主の富裕化をみちびいた農産物価格と地代の顕著な上昇は資本蓄積において重要な仲介的役割を地主に演じさせた。 竹岡 敬温 (世界大百科事典)

第7段落
・こういうわけで、この前提のもとでは、流通手段の量は実現されるべき諸商品の価格総額によって規定されている。
・そこで、さらにそれぞれの商品種類の価格を与えられたものと前提すれば、諸商品の価格総額は、あきらかに、流通の中にある商品量によってはまる。
・もし1クォータへの小麦が2ポンド・スターリングならば、100クォーターの小麦は200ポンドスターリング、200クォーターの小麦は400ポンドスターリング、等々であり、したがって小麦の量が増すにつれて、販売にさいしてこれと場所を取り替える貨幣量も増さなければならないということは、ほとんど頭を痛めなくてもわかることである。

第8段落
・商品量を与えられたものと前提すれば、流通する貨幣の量は、諸商品の価格変動につれて増減する。
・流通貨幣量が増減するのは、諸商品の価格総額がそれらの価格変動の結果として増減するからである。
・そのためには、すべての商品の価格が同時に上がったり下がったりする必要は少しもない。
・すべての流通する商品の実現されるべき価格総額を増加または減少させるためには、したがってまた、より多量またはより少量の貨幣を流通させるには、一方の場合には或る数の主要物品の価格上昇が、他方の場合にはそれらの価格が低下があれば、それで十分である。
・諸商品の価格変動に反映するものが、現実の価値変動であろうと、単なる市場価格の変動であろうと、流通手段の量への影響は同じことである。

第9段落
・ある数の、無関連な、同時的な、したがつてまた空間的に並行する売りまたは部分変態、たとえば1クォーターの小麦、20エレのリンネル、4ガロンのウィスキーの売りが行なわれるものとしよう。
・どの商品の価格も2ポンド・スターリングで、したがって実現されるべき価格総額は8ポンド・スターリングだとすれば、8ポンド・スターリングだけの貨幣量が流通にはいらなければならない。
・これに反して、同じ諸商品が、われわれになじみの変態列、すなわち1クォーターの小麦―2ポンド・スターリング―20エレのリンネル―2ポンド・スターリング―1冊の聖書―2ポンド・スターリングという列の諸環をなすとすれば、その場合には2ポンド・スターリングがいろいろな商品を順々に流通させていくことになる。
・というのは、それは諸商品の価格を順々に実現して行き、したがって8ポンド・スターリングという価格総額を実現してから、最後にウィスキー屋のてのなかで休むからである。
・それは4回の流通をなしとげる。
・このような、同じ貨幣片が繰り返す場所変換は、商品の二重の形態変換、二つの反対の流通段階を通る商品の運動を表しており、またいろいろな商品の変態のからみ合いを表している。
・この過程が通る対立していて互いに補いあう初段階は、空間的に並んで現われることはできないのであって、ただ時間的にあいついで現われることができるだけである。
・それだから、時間区分がこの長さの尺度になるのであり、また、与えられた時間内の同じ貨幣片の流通回数によって貨幣流通の速度が計られるのである。
・前記の4つの商品の流通過程には、例えば1日かかるとしよう。
・そうすると、実現されるべき価格総額は8ポンド・スターリング、同じ貨幣片の1日の流通回数は4、流通する貨幣の量は2ポンド・スターリングである。すなわち、流通過程の有る絶えられた期間については、
諸商品の価格総額 / 同名の貨幣片の通流回数 = 流通手段として機能する貨幣の量 となる。
・この法則は一般的に妥当する。
・与えられた期間における一国の流通過程は、一方では、同じ貨幣片がただ一度だけ場所を替え、ただ一回流通するだけの、多くの分散した、同時的な、空間的に並行する売り(または買い)すなわち部分変態を含んでいるが、他方では、同じ貨幣片が多かれ少なかれ何回もの流通を行なうような、あるいは並行し、あるいはからみ合う、多かれ少なかれいくつもの環からなっているような変態列を含んでいる。
・とはいえ、流通しつつあるすべての同名の貨幣片の総流通回数からは、各個の貨幣片の平均流通回数または貨幣流通の平均速度がでてくる。
・たとえば一日の流通過程のはじめにそこに投げこまれる貨幣は、もちろん同時に空間的に並んで流通する諸商品の価格総額によって規定されている。
・しかし、この過程のなかでは、一つの貨幣片はいわば他の貨幣片のために連帯責任を負わされるのである。
・一方の貨幣片がその流通速度を速めれば、他方の貨幣片の流通速度が鈍くなるか、または、その貨幣片はまったく流通部面から飛び出してしまう。
・なぜならば、流通部面が吸収しうる金量は、その各個の要素の平均流通回数を掛ければ実現されるべき価格総額になるような量に限られるからである。
・それゆえ、貨幣片の流通回数が増せば、その流通量は減るのであり、貨幣片の流通回数が減れば、その量は増すのである。
・流通手段として機能しうる貨幣量は、平均速度が与えられていれば与えられているのだから、たとえば一定量の1ポンド券を流通に投げこみさえすれば、同じ量のソヴリン貨をそこから投げだすことができるのである。
・これは、すべての銀行がよく心得ている芸当である。

●「時間区分がこの長さの尺度になる」は、新日本出版社版では「期間がこの過程の継続の尺度をなす」となっていることが紹介されました。

●「同名の貨幣片」とはどういう意味なのかとの疑問が出され、「ポンドならポンドといった同じ単位の貨幣片という意味だ」との回答がなされました。

■【ソブリン金貨】
イギリスの 1 ポンド金貨の名称。 ソベリン金貨ともいう。イギリスが金本位制度を採用した 1816 年貨幣法で制定され, 1917 年まで国内流通用の貨幣として製造・発行された。 74 年からは,地金型金貨 (地金価値と大差ない価格で取引される投資向きの金貨) として発行されている。現在も 1 ポンドの法貨であるが,額面金額の表示はない。直径 22mm,重量 7.988g,品位 916/1000。 1 ポンド金貨をソブリン (君主) と呼ぶのは, 1489 年に発行された 20 シリング (= 1 ポンド) 金貨に,当時の国王ヘンリー 7 世の肖像が大きく描かれたことに由来する。この古い型のソブリン金貨は,1604 年まで発行されたが,時代により銀貨 20 ~ 30 シリング相当と,価値の変動があった。
                                重成 侃 (世界大百科事典)

第10段落
・貨幣流通では一般にただ諸商品の流通過程が、すなわち反対の諸変態をつうじての諸商品の循環が、現われるだけであるが、同様に、貨幣の速さに現われるものも、商品の形態変換の速さ、諸変態列の眷属的なからみ合い、物質代謝の速さ、流通過程からからの諸商品の消失の速さ、そしてまた新たな商品の入れ替わりの速さである。
・つまり、貨幣流通の速さには、対立しながら互いに補いあう段階の、価値姿態への使用姿態の転化と使用姿態への価値姿態の再転化との、または売りと買いという両過程の、流動的な統一が現われる。
・逆に、貨幣流通の緩慢化には、これらの過程の分離と対立的な独立化、形態変換したがってまた物質代謝の停滞が現われる。
・この停滞がどこから生ずるかは、もちろん、流通そのものを見てもわからない。
・流通は、ただ現象そのものだけを示すだけである。
・通俗的な見解は、貨幣流通が緩慢になるにつれて流通部面のあらゆる点で貨幣が現われては消える回数が少なくなるのを見るのであるが、このような見解がこの現象を流通手段の量の不足から説明しようとするのは、いかにもありそうなことである。

●注77に出てくるヘレンシュヴァントについてどういう人物かとの疑問が出されました。
■岩本吉弘氏(福島大学)は「彼は1780年代から90年代にかけてのロンドンに住み,ステュアートの貨幣的経済論をスミスを踏まえつつ継承しようとした非常に特殊な位置にある人物である。…彼とステュアートの共通点は為政者を主語としたディリジズムの経済論という点,および貨幣数量説を否定した貨幣論にあること,彼はスミスが無用のものとして実物経済の影に押し込めようとした貨幣の総流通を為政者の自覚的コントロールの対象として再び前面に引き出さねばならないと考えたのだが、それは,彼がステュアートとスミスを読み比べた上での、市場システムにおける貨幣と国家の役割に関する一つの見地の積極的な選択の結果だった」と述べている。

経済学史学会ニュース



2月9日に誤字を訂正しました。


[PR]

by shihonron | 2007-01-31 00:00 | 学習会の報告
2007年 01月 28日

第45回 1月23日  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

1月23日(火)に第45回の学習会を行いました。「読む会通信」№234を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第21段落から最後までと「b 貨幣の流通」の第1段落から第2段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態


第21段落
・それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。
・貨幣は、最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうのではない。
・それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈殿する。
・たとえばリンネルの総変態、リンネル―貨幣―聖書では、まずケンネルが流通から脱落し、貨幣がその場所を占め、次には聖書が流通から脱落し、貨幣がその場所を占める。
・商品による商品の取り替えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる。
・流通は絶えず貨幣を発汗している。

●「消えてしまうものではない」は、長谷部訳では「終わるものではない」となっていることが紹介されました。

■《直接的生産物交換は、一面では単純な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。》(国民文庫160頁・原頁102)

第22段落
・どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。
・その意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。
・しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。
・売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。
・それらは、同じ人の行動としては二つの対極的に対立した行為をなしている。
・それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。・さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期をなすということを含んでいる。
・商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。
・買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。
・別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。
・しかし、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。・流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。
・独立して相対する諸過程が一つの内的統一をなしていることは、同時にまた、これらの過程の内的対立が外的な対立において運動するということを意味している。
・互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。
・商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が直接的に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立――この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。
・それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。
・この可能性の現実性への発展は、単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。

■ セーの法則
生産物の買手は自分の生産物をまず売って貨幣に換えて買うのだから,貨幣は結局生産物で,売手(供給者)の生産物の相手は買手(需要者)の生産物であり,売りと買い,供給と需要は一致するとするセーの主張。したがって恐慌は生産物の部分的不足からのみ生じ,一般的過剰生産恐慌は起こらぬとする。マルクスは売りと買いが時間的・場所的に分離することを指摘,ケインズは貯蓄がすぐ投資されるとするのは誤りだと批判。(マイペディア)

〈供給はそれみずからの需要をつくりだす〉あるいは〈生産物に対して販路を開くのは生産である〉というように要約される命題。提唱者であるフランスの経済学者J.B.セーの名にちなんで呼ばれるが, 販路説ともいう。セーみずからは販路の法則と呼んでいる (《政治経済学概論》1803)。この命題は,生産物が結局は生産物によって購買されることを意味し,貨幣を交換の単なる媒介手段つまり流通手段とみなすことによって初めて成立する。つまり,販売が反面において同時に購買であるような物々交換の場合にのみ成立する。セーは,この販路説にもとづいて全般的過剰生産は起こりえないと主張し,ただ企業家の誤算や国家の干渉のような偶然的・政治的原因によって部分的に過剰生産が起こりうることだけを認めた。実際,ナポレオン戦争後の恐慌 (1817‐19) の際, J.C.シスモンディやT.R.マルサスが全般的過剰生産が起こりうることを認め,いわゆる過少消費説 (〈恐慌〉の項参照) を主張したのに対し,セーは上述の理解から,ただ生産部門間の不均衡による部分的過剰生産を認めただけで全般的過剰生産を否定し,前 2 者とのあいだに〈市場論争〉と呼ばれる論争を展開した。この論争にはD.リカードやJ.ミルも参加し,全般的過剰生産を否定するセーの見解に賛意を表した。

 この論争自体は,恐慌を資本主義的生産様式の矛盾の現れとして最初に問題にしたものとして注目されるが,しかしセーの販路説は,もともと主観的な効用価値説を基礎としており, A.スミスやリカードの労働価値説を継承してその上に展開されたものではなかった。むしろそれは,商品価値を需要者と供給者とのそれぞれの評価の結果としてのみとらえる需要供給説に依拠して,資本主義的商品経済それ自体の調和的発展の可能性を示すための理論的武器とされたのであり,その意味では,近代的均衡理論 (市場均衡) への旋回を示す理論でもあった。セーの法則はのちに K.マルクスによって,資本主義的商品経済を物々交換と同一視し,商品の販売と購買との時間的・場所的分離の可能性を無視した見解と批判された。さらに 20 世紀になってからは J.M.ケインズによって,それは結局,貯蓄がつねに同額の投資を生みだして完全雇用を実現すると考えていて,不完全雇用の可能性を認めないことになる見解である,と批判された。 ⇒有効需要の原理

                            時永 淑(世界大百科事典)


★貨幣について「流通可能な形態を保持している一商品」と呼んでいることに注意しておこう。

★商品が売れた場合には、売りと買いとの同一性について語ることができるが、商品が売れない場合には、売りと買いの同一性など問題にならない。売れなかった商品はむだになったのである。

★「買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を…」は、商品の第一変態が行なわれた後のことを言っている。買い手は貨幣をもって市場に現われ、買うことによって商品を手にする。

●「互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。」という一文は、恐慌について語られる際には必ずといっていいほど引用されるが、内容を理解するのはなかなか難しい。

■ 恐慌 きょうこう
クライシスcrisisまたはパニックpanicの訳語。資本主義経済では利潤を目的としてますます大量の商品が生産されるが,その経費にあたる賃金はできるだけ低くおさえられるため,生産の増大に対して消費が伴わず,商品の過剰生産が起こり,価格暴落,破産,失業などの景気循環の最悪の危機的局面が生ずる。それが恐慌で,8~12年の周期をもつ。恐慌を切り抜けるため機械設備などの更新が広く行われるが,これら設備の耐久期間が恐慌の周期の基礎をなす。本格的恐慌は1825年英国に始まったが,1929年米国に始まった大恐慌が有名。日本では1890年の最初の恐慌以後,1897年,1900年,1907年,1920年,1927年,1929年に発生。(マイペディア)

★以上の説明には、過少消費説的な傾向がうかがえるようにおもえる。

■恐慌
資本主義的商品経済にしばしばくり返されてきた経済的な攪乱 (かくらん),麻痺 (まひ),破綻 (はたん) 状態を指す。原語に 2 系統あり,そのうち,クライシスはもともとは病気の危機的峠を意味し, パニックはギリシア神話の牧神パンの気まぐれのひきおこす狼狽 (ろうばい) を意味していた。それゆえ,パニックは資本主義経済の市場機構に生ずる急性的崩壊現象にあてはまり,クライシスはそれをも含めより構造的な経済危機に妥当する用語であって,恐慌という訳語は,文脈によってその両方の事象を含みうる。典型的な姿においては,恐慌は好況から不況への転換を媒介する景気循環の一局面をなしていた。第 2 次大戦後 1960 年代にかけての持続的な経済成長のなかで,経済恐慌はすでに歴史的に過去の事象となったとひろく信じられていたのであるが, 73 年末以降の長期世界不況の進展に伴い,ふたたび恐慌の歴史と理論に大きな関心がよせられつつある。
                             伊藤誠(世界大百科事典)

■ シスモンディ 1773-1842スイスの経済学者,歴史家。初めA.スミスの自由主義学説の支持者であったが,のちに資本主義の矛盾を知り恐慌理論を展開した。資本主義は生産の無制限な発展と同時に小生産者と労働者の破滅と窮乏を招き,消費が生産に対し過少になるという過少消費説を唱え,政府が自由競争を制限し小生産に復帰させよと主張した。主著《経済学新原理》(1819年)。イタリア,フランスの歴史の大著や《南欧文学史》もある。(マイペディア)

■ロートベルトゥス 1805-1875
ドイツの経済学者,政治家。1848年の三月革命時に文部大臣,1849年以後農場主として著述に専念。労働価値説の先駆者で,地代,利潤を不払労働とみ,恐慌は労働者の分け前の低下に基因するとして過少消費説を展開し,国家的方策による労働者救済策を唱えた。主著《国家経済の現状認識のために》(1842年)。 (マイペディア)

●「この内在的な矛盾は、商品の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」と述べられているが「商品の諸対立」とは、商品と貨幣との対立のことであり、「この発展した運動形態」とは商品の総変態(W―G―W、販売と購買)と理解していいのだろうかとの疑問が出されました。

●「単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲」とは何かという疑問が出されました。

第23段落
・商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能を持つことになる。

■《商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。貨幣は商品変態の絡み合いのなかで、社会的物質代謝を媒介する交換手段として現われるのであるが、しかしこの媒介は、商品流通のなかでたえず、流通から脱落する商品のあとを埋めながら、商品所持者のあいだを転々と渡っていくという仕方で行なわれるのであって、流通手段は、このような流通過程によって特徴づけられた交換手段なのである。》(大谷禎之介「貨幣の機能」268頁 「経済志林」第61巻第4号1994)

第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 b 貨幣の流通

第1段落
・労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態変換、W―G―Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。
・それゆえ、このような商品の運動は循環である。
・他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。
・その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。
・売り手が自分の商品の転化した姿、貨幣を握りしめているあいだは、商品は第一の変態の段階にあるのであり、言いかえれば、ただその流通の前半を経過しただけである。
・この過程、買うために売る、が完了すれば、貨幣はさらにその最初の所持者から遠ざかっている。
・もちろん、リンネル織職が聖書を買ってからまたあらためてリンネルを売れば、貨幣はまた彼の手に帰ってくる。
・しかし、その貨幣ははじめの20エレのリンネルの流通によって帰ってくるのではなく、この流通によっては、貨幣はむしろリンネル織職の手から聖書の売り手へと遠ざかっている。
・貨幣は、ただ、新たな商品のための同じ流通過程の更新または反復によってのみ帰ってくるのであり、この場合も前の場合と同じ結果で終わるのである。
・それゆえ、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、また貨幣の流通(currency, cours de la monnaie)である。

■〔* 英語版編集者の注・・この言葉〔currency ドイツ語原文では Umlauf〕は、ここでは、そのもとの意味、すなわち貨幣が手から手に渡る時に貨幣がたどる過程または経路という意味で使われており、流通〔circulation〕とは本質的にちがう過程である〕
〔なお、第3章「貨幣または商品流通」や同章第2節「流通手段」の表題などにあるのは『流通』(Zirkulation)である。〕(テキスト版編集視野による注記)
■cur・ren・cy 
  ━━ n. 流通, 通用, 流布(るふ); 通貨, 紙幣; 声価. (エクシード英和辞典)
■ cìr・cu・lá・tion
  ━━ n. 循環; 流通; 配布; 発行部数; 売れ行き; 通貨; (うわさなどの)流布, 伝播(でんぱ)
■ 【流通】(名)スル
   (1)滞ることなく、流れ通じること。「空気の―をよくする」
   (2)広く世間に通用すること。「その言葉はまだ世間に―していない」
   (3)貨幣・商品などが市場で移動すること。特に、商品が生産者から消費者まで移動すること。    「現在―している貨幣」「―機構」               (大辞林 第二版)

■区別を表現することを意図したのか、新日本出版社版では「貨幣の通流」と訳されている。

第2段落 
・貨幣の流通は、同じ過程の普段の繰り返しを示している。
・商品はいつでも売り手の側にたち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側にたっている。
・貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。
・貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかっていく、また別の商品と同じ過程を繰り返す。
・このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。
・商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。
・商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけでなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。
・商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。
・それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。
・その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。
・流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。
・それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。
・そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を含んでいるのである。
・それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。
・貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけていく。
・それゆえ貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ表れるのである。

★「貨幣運動の一面的な形態」とは G―W のことであり、「商品の二面的な形態運動」とは W―G―W のことである。

★「商品流通そのものの性質」とはどういうことか?

★W―G―W のGについて「商品の価値姿態または貨幣仮面」と述べている。

■《貨幣の流通は、同じ過程の不断の繰り返しとして現われる。すなわち、買い手の手の中にある貨幣が、いつでも、売り手の手にある商品にたいして、この商品を購買する手段として登場し、商品の価格を実現するのである。ここでは貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を購買する手段、つまり購買手段として機能するのである。貨幣は購買手段としての機能を果たしながら、商品所持者の手を次々に移っていくことを不断に繰り返している。(前出第11図)
 すでに見たように、このような貨幣の運動は、商品の二面的な運動、すなわちW―GおよびG―Wという形態運動から生じるものであった。貨幣が流通手段の機能をもつのは、貨幣が諸商品の価値の自立化したものであり、諸商品の価値姿態だからであった。だから、流通手段としての運動は、実際には、商品自身の形態運動でしかない。前出の第13図における貨幣の運動を見れば明らかなように、同じ貨幣片が場所を変える運動のひんぱんな繰り返しに反映しているのは、商品世界における無数の商品の絡み合いなのである。
 ところが、商品流通そのものの本性がこれと反対の外観を生みだし、このことを覆い隠してしまうのである。商品の第2の変態は、商品がすでに商品形態を脱ぎ捨てて貨幣という価値姿態をとって行なわれる。しかも、商品はそれにたいする欲求をもつ貨幣所持者を見いだすことができてはじめて貨幣に転化できるのであるが、貨幣という価値姿態にある商品は、どの商品にもただちに転化することができる。そこで、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。その結果、一方での販売と他方での購買とからなる商品所持者間の取引は、貨幣の側からの、貨幣所持者の側からのイニシアチヴだけによって生じるものであるかのように見えることになる。あるWが他のWと入れ替わる物質代謝は、商品自身の形態変換によって行なわれるのに、あたかも購買手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見える。購買手段としての貨幣が、自分では運動できない商品を流通させるように見えるのである。こうして貨幣運動は、ただ商品流通の表現でしかないのに、逆に、商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ表れるのである。》(大谷禎之介「貨幣の機能」269-270頁 同前)

c0007135_1017412.jpg


[PR]

by shihonron | 2007-01-28 10:24 | 学習会の報告
2007年 01月 21日

第44回 1月16日  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

1月16日(火)に第44回の学習会を行いました。「読む会通信」№233を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第13段落から第20段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態


第13段落
・これまでのところでは、われわれの知っている人間の経済関係は、商品所持者たちの関係の他にはない。
・それはただ、自分自身の労働生産物を他人のものにすることによってのみ、他人の労働生産物を自分のものにするという関係である。
・それゆえ、ある商品所持者に他の人が貨幣所持者として相対することができるのは、ただ、彼の労働生産物が生来貨幣形態をもっており、したがって金やその他の貨幣材料であるからか、または、彼自身の商品がすでに脱皮してその元来の使用価値を捨てているからである。
・言うまでもなく、貨幣として機能するためには、金は、どこかの点で商品市場に入らなければならない。
・この点は金の生産源にあるが、そこでは金は、直接的労働生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換される。
・しかし、この瞬間から、その金はいつでも実現された商品価格を表している。
・金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W―Gの、産物である。
・金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すべての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの使用姿態の想像された反対物にし、自分たちの価値姿態にしたからである。
・金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである。
・その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またはそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を捨て去って。無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化する。
・それだから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからないのである。
・その貨幣形態にあっては、どれもこれもまったく同じに見える。
・だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。
・といっても糞尿は貨幣ではないが。
・いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化した姿であると仮定しよう。
・リンネルの売り、W―Gに、同時に、その買い、G―Wである。
・しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。
。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始ったものである。
・W―G(リンネル―貨幣)、この、W―G―W(リンネル―貨幣―聖書)の第一の段階は、同時にG―W(貨幣―リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W―G―W(小麦―貨幣―リンネル)の最終の段階である。
・一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣から商品へのその再転化である。

●「(金の生産源では)金は、直接的労働生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換される。」というのは、生産された金は、価格をもっていないということではないかという意見が出されました。

■《金が貨幣として機能するためには、それはどこかの点で商品市場にはいらなければならないが、その地点は言うまでもなく金の生産源である。そこでは、金は貨幣としてでなく、たんなる労働生産物として、同じ価値の他の労働生産物と交換される。だから金生産者から見れば、この取引は直接的な生産物交換なのであるが、しかし、金と引き換えに金生産者に商品を譲渡する商品所持者の側から見れば、この取引は、彼の商品の価格を実現する販売である。この取引は、販売だけがあってそれに対応する購買のない独特な取引なのである。
 ここで金は、社会的必要労働時間によって規定された或る大きさの価値をもった商品として登場する。そして、この交換を経るやいなや、金はすでに実現された商品価格なのであって、これ以後はつねに、実現された商品価格として商品市場にあるのである。》
(大谷禎之介「貨幣の機能」265頁 「経済志林」第61巻第4号 1994年)

■【参照】《先に指摘したように、一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。金が貨幣であり、したがって他のすべての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、たとえば一〇ポンドの金の価値がどれだけであるかはわからない。どの商品もそうであるように、貨幣〔*〕はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、他の諸商品によってのみ、表現することができる。貨幣〔*〕自身の価値は、その生産のために必要とされる労働時間によって規定され、等量の労働時間が凝固した、他の各商品の量で表現される(48)。貨幣〔*〕の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引の中で行われる。それが貨幣として流通に入る時には、その価値はすでに与えられている。すでに一七世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある(49)。》(電子テキスト版 原頁・106-107)

●蛹化とは、さなぎになることだが、幼虫(孵化して)――さなぎ(蛹化して)――蝶(羽化して)といった変態(メタモルフォーゼ)を念頭に置いて、さなぎが蝶になるように、貨幣が自分が求める商品に転化すこと、貨幣Gは、W―G―Wという商品変態の一段階であることをこうした言葉で表現しているのではないかとの意見が出されました。

■【参照】《商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品であるリンネルに、一般的等価という性格を押しつける。リンネル自身の現物形態がこの商品世界の共通な価値姿態であり、したがって、リンネルは、他のすべての商品と直接に交換されうるものである。リンネルの物体形態が、いっさいの人間労働の目に見える化身、一般的社会的蛹化(ヨウカ)、として通用する。リンネルを生産する機織りという私的労働が、同時に、一般的社会的形態で、他のすべての労働との同等性の形態で存在する。一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に、順々に等置し、そうすることによって、機織りを人間労働一般の一般的現象形態にする。こうして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象される労働として消極的に表されているだけではない。この労働自身の積極的な性質がはっきりと現れてくる。この労働は、いっさいの現実的労働が人間労働というそれらに共通な性格に、人間労働力の支出に、還元されたものである。》(電子テキスト版・原頁81)

●「貨幣は糞尿であるかもしれない」とは、ある貨幣は、商品・糞尿の転化した姿、商品・糞尿の価格を実現した貨幣であるかもしれないという意味ではないかという意見が出されました。

●売りと買いの絡み合いは、図示するとずつと分りやすい。(ウィスキーについては、後述されていることを先取りして図示)

(A)   小麦――貨幣――リンネル


(B)        リンネル――貨幣――聖書


(C)                 聖書――貨幣―ウィスキー

          
第14段落
・G―W、商品の第二の、または最終の変態、買い。――貨幣は、他のいっさいの商品の離脱した姿、またはそれらの一般的な譲渡の産物だから、絶対的に譲渡されうる商品である。
・貨幣はすべての価格を逆の方向から読むのであり、こうして、貨幣自身が商品になるための献身的な材料としてのすべての商品体に、自分の姿を映しているのである。
・同時に、諸商品の価格は、諸商品が貨幣に投げかけるこの愛のまなざしは、貨幣の転化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示している。
・商品は、貨幣になれば消えてなくなるのだから、貨幣を見ても、どうしてそれがその所持者の手にはいったのか、または、なにがそれに転化したのかは、わからない。
・その出所がなんであろうと、それは臭くはないのである。
・それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである。

●「絶対的に譲渡されうる商品」であるとは、貨幣があらゆる他の商品に対して直接的交換可能性をもっているということだろう。

●「貨幣はすべての価格を逆の方向から読む」とは、逆から読む価格表は、貨幣が転化しうる商品のリストになっているということだろう。

■【参照】《金による一商品の価値表現・・x量の商品A=y量の貨幣商品・・は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。鉄の価値を社会的に通用する仕方で表すためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような単一の等式で今や十分である。この等式は、他の諸商品の価値等式と隊伍を整えて行進する必要はもはやない。なぜなら、等価物商品である金がすでに貨幣の性格をおびているからである。それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、今やふたたび、その最初の、単純なまたは個別的な相対的価値形態の姿態をとる。他面、展開された相対的価値表現、または相対的価値諸表現の無限の列が、貨幣商品の独特な相対的価値形態になる。しかし、この列は、今やすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表の値段表示を後ろから読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表されていることがわかる。これに反して、貨幣は何の価格ももたない。他の諸商品のこうした統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣はそれ自身の等価としてのそれ自身に関係させられなければならないであろう。》(電子テキスト版 原頁110)

●「愛のまなざし」は、長谷部文雄訳では「秋波」(美人のすずしい目もと。また、女性が異性の気をひくためにする色っぽい目つき。流し目。いろ目。ウィンク。)となっていることが紹介されました。

●「貨幣の転化能力の限界」とはどういう意味かをめぐって議論がありました。貨幣は、どんな種類の商品にでも転化しうる(質的側面・可能性)しかし、ある量の貨幣がなければ実際に商品に転化することはできない(量的側面・限界)。リンゴ1個=100円、桃1個=200円であれば、100円の所持者は、自分の貨幣を1個のリンゴに転化することができるが、桃に転化することはできないということではないかという意見が出されました。

第15段落・G―W、買いは、同時に、売り、W―Gである。
・したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態である。
・われわれのリンネル織職にとっては、彼の商品の生涯は、彼が2ポンド・スターリングを再転化させた聖書で終わる。
・しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた2ポンド・スターリングをウィスキーに替える。
・G―W、すなわちW―G―W(リンネル―貨幣―聖書)の最終変態は、同時にW―G、すなわちW―G―W(聖書―貨幣―ウィスキー)の第一段階である。
・商品生産者はある一つの方面に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのであるが他方、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち貨幣額を絶えず多数の買いに分散せざるをえない。
・したがって、一つの売りは、いろいろな商品の多くの買いに分かれる。
・こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのである。

第16段落・そこで今度は、ある商品、たとえばリンネルの総変態を考察するならば、まず第一に目につくのは、それが、互いに補いあう二つの反対の運動、W―GとG―Wとから成っているということである。
・商品所持者の二つの反対の社会的過程で行なわれ、商品所持者の二つの反対の経済的役割に反映する。
・売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として彼は買い手になる。
・しかし、商品のどちらの変態でも、商品の両形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかし、ただ反対の極に存在するように、同じ商品所持者に対して、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対している。
・同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのである。
・だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である。

第17段落・一商品の総変態は、その単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。
・まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。
・こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。
・商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一般的等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちらの側で他の商品体のうちに存在する。
・第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。
・こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。

●「四つの極と三人の登場人物」とはなんのことかとの疑問が出されました。

   
(A 小麦――貨幣――リンネル


(B)      リンネル――貨幣――聖書
     

(C)               聖書――貨幣―ウィスキー
   

三人の登場人物とは、小麦の売り手=リンネルの買い手(A)とリンネルの売り手=聖書の買い手(B)と聖書の売り手=ウィスキーの買い手(C)。
四つの極とは、太字の箇所のこと。

■《一商品の変態W―G―Wには、四つの極があり、三人の人物が登場する。すなわち、まず、商品と、それの価値姿態として他人のふところのなかにある貨幣とが、相対する二つの極をなし、商品所持者と貨幣所持者が相対する。次に、商品が貨幣に転化されれば、この貨幣と、それの使用姿態として他人のもとにある商品とが、相対する二つの極をなし、貨幣所持者と商品所持者とが相対する。第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、第二幕では彼に対して、第三の商品所持者が売り手として相対するのである。》(大谷禎之介「貨幣の機能」207頁)

★「向こう側」とは、商品の売り手(B)にとっての向こう側=貨幣所持者(A)の側のこと、「こちら側」は商品の売り手の側(C)と理解できる。一商品リンネルの総変態、リンネル―貨幣―聖書を考えるなら、リンネルの売り手(B)、それに相対する貨幣所持者(A)が「向こう側」、聖書の売り手(C)が「こちら側」ということではないだろうか。

第18段落・商品変態の二つの逆の運動は、一つの循環をしている。
・すなわち、商品形態、商品形態の脱ぎ捨て、商品形態への復帰。
・もちろん、商品そのものがここでは対立的に規定されているのである。
・それは、その所持者にとって、出発点では、非使用価値であり、終点では使用価値である。
・こうして、貨幣は、まず、商品が転化する堅い価値結晶として現われるが、後には商品の単なる等価形態として融けてなくなるのである。

■【循環】(1)閉じた回路を繰り返し通ること。ひとめぐりすること。
     「市内を―するバス」「血液の―」
     (2)一連の変化の過程を繰り返すこと。
     「水の―」「大気の―」    (大辞林 第2版)

●貨幣が「融けてなくなる」のは、商品所有者の手の中での話であることに注意しておこうとの意見が出されました。

第19段落
・ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。
・同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するとともに、他の一商品(小麦)の総変態を閉じる。
・その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。
・これに反して、生けとし生けるものの道をたどってこの商品そのものが化していく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。
・こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。
・この総過程は商品流通として現われる。

第20段落
・商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換と違っている。
・事態の経過をほんのちょっとだけ振り返ってみよう。
・リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。
・しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。
・冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。
・Bの商品がAの商品に替わるのではあるが、しかしAとBとが交換するのではない。
・実際には、AとBとが彼らどおしのあいだで互いに買い合うということもおこりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。
・商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。
・他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。
・織職がリンネルを売ることができるのは、農民が小麦をすでに売っているからこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸留酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水をすでに売っているからこそである、等々。

●商品流通と直接的生産物交換の形態的な違いとは何かという疑問が出されました。商品交換では、登場人物は三人であり、直接的生産物交換では二人だけである。また、直接的生産物交換では、貨幣は出てこない。簡単に言えば、商品交換はW―G―Wであり、直接的生産物交換はW―Wということだろうという結論になりました。

●「冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手」の「冷たいもの」は何かという疑問が出され、リンネルは亜麻の繊維を原料とする糸・織物のことで、涼感があり夏物衣料などに広く用いられることから、リンネルのことだと説明されました。

■「永遠の命の水」とは聖書のこと。《イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしの与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の水がわき出ます。」》(ヨハネの福音書4章13,14節)



     
[PR]

by shihonron | 2007-01-21 15:30
2007年 01月 15日

第43回 1月10日  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

1月10日(水)に第43回の学習会を行いました。「読む会通信」№231、№232を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第9段落から第12段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態


第9段落
・W―G、商品の第一変態または売り。
・商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように、商品の命がけの飛躍[Salto mortale]である。
・この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くないが、商品所持者にとってはたしかに痛い。
・社会的分業は彼の労働を一面的にするとともに、彼の欲望を多面的にしている。
・それだからこそ、彼にとって彼の生産物はただ交換価値としてのみ役だつのである。
・しかし、彼の生産物はただ貨幣においてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取るのであり、しかもその貨幣は他人のポケットにある。
・それを引き出すためには、商品はなによりもまず貨幣所有者にとっての使用価値でなければならず、したがって、商品に支出された労働は社会的に有用な形態で支出されなければならない。
・言いかえれば、その労働は社会的総労働の一環として実証されなければならない。
・しかし、分業は一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者達の背後で織られたものであり、また絶えず織られているのである。

・場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするかまたは或る欲望をこれから自力で呼び起こそうとする或る新しい労働様式の生産物であるかもしれない。
・昨日まではまだ同じ一人の生産者の多くの機能のうちの一つの機能だった或る一つの作業が、おそらく、今日はこの関連から切り離されて、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになる。
・この分離過程のために事情はすでに熟していることまた熟していないこともあるであろう。
・生産物は今日は或る一つの社会的欲望を満足させる。
・明日はおそらくその全部または一部が類似の種類の生産物によってその地位から追われるであろう。
・労働が、われわれの織職のそれのように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の20エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいない。
・リンネルに対する社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物はよけいになり、したがって無用になる。
・もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。

・しかし、かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしよう。
・ところが、今度は、どれだけの貨幣がという問題が起きてくる。
・答えはもちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値量の指標によって、予想されている。
・商品所有者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないことにしよう。
・それは市場ではすぐに客観的に訂正される。
・彼は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずである。
・だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかない。
・しかし、古くから保証されていたリンネル織物業の生産条件が、われわれの織職の同意もなしに、彼の背後で激変したとしよう。
・昨日までは疑いもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうではなくなる。
・それは、われわれの友人の何人もの競争相手の価格表から貨幣所有者が最も熱心に立証するところである。
・われわれの友人にとっては不幸なことだが、世の中にはたくさんの織職がいるのである。

・最後に、市場にあるリンネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。
・それにもかかわらず、これらのリンネルの総計は、余分に支出された労働時間をふくんでいることがありうる。
・もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングとしい正常な価格で吸収できないならば、それは社会的総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。
・結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。
・ここでは、死なばもろともというわけである。
・市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。
・そて、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。

●この長い段落の内容は、3つに分けることができるとの意見が出されました。それは、商品の第一変態(売り)が、行なわれない場合(A)、行なわれたとしても価格で示されていたよりも少ない量の貨幣としか交換されない二つの場合(B、C)の指摘である。また、最初のところで述べられている、商品生産が、自然発生的な分業による生産が行なわれる体制であることをl理解することも重要です。

A.新製品やこれまでは商品として登場していなかったでなかった部分生産物が商品となるが、それに対する需要はあらかじめ確保されているとは限らず、売れないことがある。また、ある使用価値に対する社会の欲望には限度があり、競争者によってそれが満たされている場合には、売れないことがある。

B.生産条件が激変(競争者が新たな高度な生産方法を導入)した場合には、一定量の商品の価値は下落し、生産方法が不変な生産者の商品は、かつての価格以下でしか売ることができない。

C.ある産業部門に、社会が必要とする生産物を超えた生産がされるような総労働時間の一部が配分された場合には、個々の商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされていても、正常な価格(価値どおりの価格)以下でしか売れない。

●「市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。」とは、一物一価の法則のことだとの発言がありました。

■一物一価について、大谷禎之介氏は《商品の価値は社会的必要労働時間によって決まる。だから、同じ種類の商品の価値は同じである。そこで、商品の価値を表現する商品の価格も、一つの市場では同じである。これがいわゆる「一物一価」である。》と述べている。

■岩井克人氏は、《『資本論』のなかでマルクスは、商品を売ることはその商品に「とんぼ返り= 命がけの跳躍」を強いることだと茶化している。》(筑摩書房『貨幣論』187頁)と述べている。

●最後の「同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたもの」の箇所の「物質化」は、筑摩書房のマルクスライブラリーでは「受肉化」と訳されていることが紹介されました。

■ 【受肉】キリスト教の根本教義の一。神がキリストとして、人間となって現れること。霊が肉に結合すること。託身。インカルナチオ。(大辞林 第二版)


■自然発生的な社会的分業や社会的総労働についてこれまで述べられていたことを振り返っておこう。(電子テキスト版より引用)

「さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用労働の総体・・社会的分業・・が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。…自立した、たがいに従属していない、私的労働の生産物だけが、たがいに商品として相対するのである。 したがって、われわれは次のことを見てきた・・どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。」(原頁56-57)

「そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象がたがいに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。生産者たちは彼らの労働生産物の交換を通してはじめて社会的接触に入るから、彼らの私的諸労働の特有な社会的性格もまたこの交換の内部ではじめて現れる。あるいは、私的諸労働は、交換によって労働生産物が、そしてまた労働生産物を媒介として生産者たちが、結ばれる諸関係を通して、事実上はじめて、社会的総労働の諸分肢として自己を発現する。だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関係は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現れるのである。」(原頁87)

「私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなければならない。」(原頁87)

「労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まる。価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、および行為にはかかわりなく、たえず変動する。交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。たがいに独立〔unabhaengig〕に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が・・たとえば、だれかの頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように・・規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからである(28)、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、その前に、完全に発展した商品生産が必要である。だから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的運動のもとに隠されている秘密である。この秘密の発見は、労働生産物の価値の大きさが単に偶然的に規定されるだけであるという外観を取りのぞくが、この規定の物的形態を取りのぞきはしない。」(原頁89)

第10段落
・このように、商品は貨幣を恋いしたう。だが「まことの恋がなめらかに進んだ試しはない」[“the course of true love never does run smooth ”] 。
・分業体制のうちにそのバラバラな四肢 [membra disjecta]を示している社会的生産有機体の量的編成は、その質的編成と同じに、自然発生的で偶然である。
・それだから、われわれの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。

★「社会的生産有機体の量的編成」とは、総労働力の各産業部門へ配分のことだろう。言いかえると、各産業間のバランスではないか。「その質的編成」とは、社会全体でどんな使用価値の生産を行なうのかということだろう。商品生産の社会では、社会全体でどんなもの(質的)をどれだけ(量的)生産するかが自然発生的で偶然だということである。

第11段落
・分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。
・同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。
・とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。
・そこでとにかくことが進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、変則的にはこの形態変換で実体――価値量――が減らされたり加えられたりすることがあるにしても、つねに行なわれているのである。

●「その正常な進行」とは何かが問題になりました。「価値どおりに売れる(商品が貨幣に転化する)ことだ」という意見と「価値どおりであるかどうかに関わりなく、売れるということではないか」との二つの意見が出されました。叙述の中で「変則的には」として価値から乖離した価格での販売が述べられているので、「正常」は価値どおりということと理解できるとの結論になりました。

第12段落
・一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。
・すぐに目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。
・だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的価値姿態とである。
・そして金はなにと?その使用価値の一つの特殊な姿態とである。
・なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンド・スターリングというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。
・もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。
・それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品の転化である。
・この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所有者の反対極からは買いである。
・言いかえれば、売りは買いであり、W―Gは同時にG―Wである。

●最初の部分では、二人の商品所持者として述べられていて、最後では商品所持者と貨幣所持者として述べられているのはなぜかという疑問が出されました。内容的には最初から商品所持者と貨幣所持者が相対しているが、貨幣もまた商品であるということだろうかという意見が出されましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

● 「貨幣の単に観念的な使用価値の実現」について、貨幣は価値そのものとして通用し、あらゆる商品に対して直接的交換可能性をもっている。貨幣は、どんな使用価値にもなることができる一般的商品であり、可能性として(観念的には)はどんな使用価値でもありうるということだろうとの発言がありました。

■ 「金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。」(国民文庫189頁・原頁119)


[PR]

by shihonron | 2007-01-15 18:00 | 学習会の報告