『資本論』を読む会の報告

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2007年 03月 31日

第52回  3月27日 その2

■《【掛売買】これまで見てきた、二つの商品の変態の絡みあいである売買は、商品の引き渡しと貨幣の支払が同時に行なわれる現金売買であった。ところが、商品流通の発展とともに、商品の譲渡を商品価格の実現、すなわち貨幣の支払から時間的に離れさせるようなもろもろの事情が発展してくる。たとえば、ある商品を買おうとする買い手が、自分の商品の生産や販売の事情から、支払うための貨幣をまだ入手できないが、しばらくすれば入手できることが確実であるとき、その商品の売り手は、貨幣の支払をその間猶予することが行なわれる。こうして、商品の譲渡ののちに時間をおいて貨幣の支払が行なわれるという売買形態が生まれる。いわゆる掛売買(かけばいばい)である。販売は掛売りとなり、購買は掛買いとなる(図95)。
 この売買では、商品が譲渡される第1の時点で、売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。そして、第2の時点で貨幣が支払われることによって、この債権債務関係が消滅するのである。
【掛売買における貨幣の機能】 掛売買のさいに貨幣が果たす機能は、いささか複雑である。①まず、現金売買の場合と同様に、貨幣は商品の価値を価格として表現することで価値尺度として機能する。これが売り手と買い手とのあいだで話しあいがついた決まり値であるとしよう。買い手はこの量の貨幣を、この時点(第1時点)よりもあとのある確定された時点(第2時点)で、売り手に支払うことを約束する。この〈貨幣支払約束〉は観念的な貨幣量であって、価格の度量標準によって測られる。②売り手はこの時点で買い手に商品を譲渡する。買い手はいまは貨幣をもっていないが、彼が第2時点で売り手に支払う貨幣、つまり〈将来の貨幣〉が、いま第1時点で商品を買うことに役立ったのであり、この将来の貨幣がいま購買手段として――だからここではただ観念的にだけ――機能したのである。それによって、その貨幣がもつはずの貨幣としての形式的な使用価値が実現されて、買い手の欲求を充たす使用価値を買い手にもたらした。売り手は商品を譲渡したが、現実の貨幣は受け取っていない。しかし、彼はいま、買い手の貨幣支払約束をもっている。これはすでに、実現できるかどうかわからない、彼の商品のたんなる価格ではなくて、第2時点で――約束が守られるかぎり――支払われる貨幣を表わしているものである。だから、彼の商品の価格はこの時点で、すでに観念的にではあるが、実現した。価格は実現して貨幣支払約束になった。この貨幣支払約束は、買い手にとっては債務であり、売り手にとっては債権であって、この時点で売り手は債権者、買い手は債務者になった。③こうして、あと残るのは、第2時点で、債務者となった買い手が、債権者である売り手に貨幣を支払って、債務を決済することだけである。貨幣が支払手段 として流通にはいる。債権者である売り手から見れば、この支払によって、彼の商品の価格が最終的に堅実の貨幣に転化した、つまり商品の価格が現実に実現した。債務者である買い手の側では、すでに第1の時点で購買手段として機能して、その使用価値を実現してしまった貨幣を債権者に引き渡すことになる。
【支払手段としての貨幣の流通】以上が、掛売買における貨幣の機能であるが、ここではじめて現われる貨幣の機能は、第2時点で債務者が債権者に支払う貨幣が果たす機能である。このように、貨幣支払約束にもとづいて支払われる貨幣、債務を決済して債権債務関係を終わらせる貨幣を支払手段としての貨幣という。第2時点では貨幣は支払手段として流通にはいるのである(図96)。
 ここでは明らかに、債務者から債権者に貨幣が流通していくのであるが、しかしそれは、流通手段すなわち鋳貨としてではない。ここでの貨幣は、商品の一時的な価値の姿である流通手段とは異なり、債務者が債権者に価値そのものを引き渡すための形態であるから、もともとは本来の貨幣のみが果たすことができる機能であるが、しかし、本来の貨幣に代わりうる銀行券等々の貨幣形態が発展すると、本来の貨幣のそれらの代理物が、支払手段として流通することができるようになる。》  (大谷禎之介『図解社会経済学』105-106頁)


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by shihonron | 2007-03-31 00:00 | 学習会の報告
2007年 03月 31日

第52回  3月27日 その1  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段

3月27日(火)に第52回の学習会を行いました。「読む会通信」№241を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段」の第1段落から第3段落までを輪読、検討しました。
 
●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段


第1段落
・これまで考察した商品流通の直接的形態では、同じ大きさの価値量がいつでも二重に存在していた。
・すなわち一方の極に商品があり、反対の極に貨幣があった。
・したがって、商品所持者たちは、ただ、現に双方の側にある等価物の代表者として接触しただけだった。
・ところが、商品流通の発展につれて、商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情が発展する。
・一方の商品種類はその生産により長い時間を、他方の商品種類はより短い時間を必要とする。
・商品が違えば、それらの生産は違った季節に結びつけられている。
・一方の商品は、それの市場がある場所で生まれ、他方の商品は遠隔の市場に旅しなければならない。
・したがって、一方の商品所持者は、他方が買い手として現われる前に、売り手として現われることができる。
・同じ取引が同じ人々の間で絶えず繰り返される場合には、商品の販売条件は商品の生産条件によって調整される。
・他方では、ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。
・その期間が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を受け取ったことになる。
・それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。
・一方の商品所持者は、現にある商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として買うわけである。
・売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。
・ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた別の一機能を受け取るのである。
・貨幣は支払手段になる。

●「商品流通の直接的形態」とは現金売買のこと。

●「商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情」として、すぐ後ろのところで3つのこと(生産に必要な時間、生産の季節性、生産地と市場との距離の相違)を指摘し、さらに家屋の利用のように一定の期間を定めて売られる場合をあげている。この家屋の利用(家賃や宿泊料)はここでは後払いとされている。

●掛売買の例として、収穫までに時間のかかる農作物の生産者が、肥料などを掛買いすめことがあげられました。

★「貨幣の単なる代表者」というのは、現にある貨幣の代表者ではないということを意味しているように思われる。

■フランス語版では「交換者の一方は現存する商品を売り、他方は将来の貨幣の代表者として買う。」となっている。(『フランス語版資本論 上巻』江夏美千穂・上杉聰彦訳 法政大学出版会116頁)

第2段落
・債権者または債務者という役割は、ここでは単純な商品流通から生ずる。
・この商品流通の形態の変化が売り手と買い手にこの新しい極印を押すのである。
・だから、さしあたりは、それは、売り手と書いてという役割と同じように、一時的な、そして同じ流通当事者たちによってかわるがわる演ぜられる役割である。
・とはいえ、対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないものに見え、また、いっそう結晶しやすいものである。
・しかしまた、同じこれらの役割は商品流通にかかわりなく現われることもありうる。
・たとえば、古代世界の階級闘争は、主として債権者と債務者との闘争という形で行なわれ、そしてローマでは平民債務者の没落で終わり、この債務者は奴隷によって代わられるのである。
・中世には闘争は封建的債務者の没落で終わり、この債務者はかれの政治権力をその経済的基盤とともに失うのである。
・ともあれ、貨幣形態――債権者と債務者との関係は一つの貨幣関係の形態をもっている――は、ここでは、ただ、もっと深く根ざしている経済的諸条件の敵対的関係を反映しているだけである。

★商工ローンやサラ金の取り立ての実情を見れば、債権者が債務者に対してどのように振る舞うかの一端をうかがい知ることができる。「対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないもの」に見えるのである。そして、債務者は常に債務者であり続けることをさして「結晶しやすい」と述べているように思える。

●ローマの例では、生産の担い手が平民(独立自営の農民)から奴隷に代わったことを述べているのではないかとの意見が出されました。

●封建的債務者がどんな人々をさしているのかが問題となり、領主・貴族のことだろうということになりました。

■フランス語版では「債務者にたいする債権者のこの貨幣関係は、この両時代では、もっと深い敵対関係を表面上反映しているにすぎない。」となっている。(同前117頁)

■【マルクスは『資本論』第3巻第5篇第36章「先資本制的なるもの」で「高利資本」について述べています。まず「古代ローマで、製造業がまだ古代的な平均的発展よりもはるかに低い状態にあった共和制後期いらい、商人資本、貨幣取扱資本、および高利資本が--古代形態の内部では--その最高点まで発展していた」と指摘しています。そして資本主義以前の高利資本は「第一には、浪費的豪族・本質的に土地所有者・への貨幣貸付による高利であり、第二には、自分自身の労働諸条件を所有している小生産者への貨幣貸付による高利である」と述べています。そして「ローマ貴族の高利がローマ平民--小農--をすっかり破滅させた時、この搾取形態は終わりをつげたのであって、純粋な奴隷経済が小農経済の代わりに現れた」と述べています。また別のところでは「ローマの貴族が平民を破滅させ、平民を軍務--平民が労働諸条件を再生産することを妨げた軍務--に駆り立て、かくして平民を窮乏化させた(そして再生産諸条件の窮乏化、萎縮または喪失はこの場合の支配形態である)ところの戦争、--この同じ戦争は、当時の貨幣たる分捕り品の銅をもって貴族の倉庫や地下室をいっぱいにした。貴族は平民にたいし、必要品たる穀物や馬や有角家畜を直接与える代わりに、自分自身にとっては無用なこの銅を貸付け、この状態を利用して法外な高利を搾り取り、かようにして平民を自分の債務奴隷たらしめた。カール大帝治下では、フランクの農民がやはり戦争によって破滅させられたのであって、彼らは債務者から農奴となるほかはなかった。ローマ帝国では周知のように、しばしば飢饉のために自由民が子供や自分自身を奴隷として富者に売るにいたる、ということが生じた」とあります。これで古代ローマについてはだいたい分かったのはないでしょうか?
 では中世についてはどうでしょうか? 『経済学批判1861-63年草稿』を見ると1527-8頁で、「近代社会の諸要素への中世的ブルジョア的社会の分解--世界貿易や金鉱発見によって促進された過程--の時代に生きていた」ルターの著書『富者と貧者ラザロについての福音書にたいする説教』から引用して、次のように解説しています。
《ルターがここでわれわれに言っているのは、何にによって高利貸資本が成立するか、ということである。すなわち、市民(小市民および農民)、騎士、貴族、君主の破滅によって成立するということである。一方では、城外市民や農民や同職組合の剰余労働とさらに労働条件とが高利資本の手に流れてくる。……他方では、高利資本が取り上げる地代の所有者からである。つまり、浪費的で享楽的な富者から、である。高利が二つのことを引き起こすかぎりでは、すなわち、第一には一般に独立な貨幣財産を形成するということを、第二には労働条件をわがものにする、すなわち古い労働条件の所有者たちを破滅させるということを、引き起こすかぎりでは、高利は、産業資本のための諸前提の形成における強力な一手段--生産者からの生産手段の分離における強力な一能因--である。……一方では封建的な富と所有との破壊者としての高利。他方では小市民的、小農民的生産の、要するに生産者がなお彼の生産手段の所有者として現れているようなあらゆる形態の、破壊者としての高利。》】(『資本論』学ぶ会ニュース NO.44 2000年8月15日)

第3段落・商品流通の部面に帰ろう。
・商品と貨幣という二つの等価物が売りの過程の両極に同時に現われることはなくなった。
・いまや貨幣は、第一に、売られる商品の価格決定において価値尺度として機能する。
・契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち定められた波源に彼が支払わなければならない貨幣額の大きさを示す。
・貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。
・それはただ買い手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。
・支払期限がきたときはじめて支払手段が現実に流通にはいってくる。
・すなわち買い手から売り手にうつる。
・流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。
・というのは、流通過程が第一段階で中断したからであり、言いかえれば、商品の転化した姿が流通から引きあげられたからである。
・支払手段は流通にはいってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から出て行ってからのことである。
・貨幣はもはや過程を媒介しない。
・貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる。
・売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によってある欲望を満足させるためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務を負った買い手がそうしたのは、支払ができるようになるためだった。
・もし彼が支払わなければ、彼の持ち物の強制売却が行なわれる。
・つまり、商品の価値姿態、貨幣は、いまでは、流通過程そのものの諸関係から生ずる社会的必然によって、売りの自己目的になるのである。

●「流通手段は蓄蔵貨幣に転化した」とあるが、どういうことをさしているのかが問題になりました。債務者は、自分の商品を売って手にした貨幣で商品を買う(買うための売り W―G―W)のではなく、支払のために売る(W―G)ことではないかという結論になりました。はたしてこうした理解でよいのかについては、以下の資料を参照してください。

■ 英語版では《 The circulating medium was transformed into a hoard, because the process stopped short after the first phase, because the converted shape of the commodity, viz., the money, was withdrawn from circulation. The means of payment enters the circulation, but only after the commodity has left it.》となっている。

■フランス語版では「流通運動がその前半で止められたために、流通手段が蓄蔵貨幣に転化した。支払手段は流通に入るが、それは商品が流通から脱出した後のことであるに過ぎない。」

■同じ「本来の貨幣」である蓄蔵貨幣と支払手段との相違

【さて議論はまず第3パラグラフ全体にわたって行われましたが、今、それを便宜的に二つにわけることにしましよう。まず第3パラグラフの前半部分を紹介します。

 《さて、商品流通の部面に戻ろう。商品と貨幣という二つの等価物が販売過程の両極に同時に現れることは、すでになくなった。今や、貨幣は、第一に、売られる商品の価格規定における価値尺度として機能する。契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち彼が一定の期限に支払う責任のある貨幣額を示す。貨幣は、第二に、観念的購買手段として機能する。それは、ただ買い手の支払い約束のうちにしか存在しないけれども、商品の持ち手変換をひき起こす。支払い期限に達してはじめて支払手段は現実に流通に入る。すなわち、買い手から売り手に移る。流通過程が第一の局面で中断したので、すなわち、商品の転化された姿態が流通から引きあげられたので、流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。支払手段が流通に入って来るのは、商品がすでに流通から出ていった後のことである。貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない。貨幣は、この過程を、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、自立的に閉じる。》
 ここでまず最初に問題になったのは、1)「流通過程が第一の局面で中断したので、すなわち、商品の転化された姿態が流通から引き上げられたので、流通手段は蓄蔵貨幣に転化した」とあるが、この場合の蓄蔵貨幣に転化したとされる流通手段とは一体どういう貨幣なのか、ということです。なぜなら一般に蓄蔵貨幣に転化するのはW-G-Wの過程が、前半のW-Gで中断され、Gが流通から引き上げられた場合ですが、しかし今問題になっているのはW-Gの過程そのものが中断しており、WはGに転化していないのだから、蓄蔵貨幣になるというGは一体どこにあるのか、という問題です。2)第二に、報告者のレジュメでは「支払手段としての貨幣は、商品が流通から出て行った後(時間的に遅れて)流通に入ってくる。それゆえ……貨幣を支払うことによって商品流通は閉じてしまう」とあったのですが、マルクスが「貨幣は、この過程を、……自立的に閉じる」と述べているのは、果たして商品流通を閉じるといった意味なのかどうか、という問題についてでした。

 1)の問題はどう理解したらよいのでしょうか? これについては様々な意見が出ましたが、最終的には、結局、商品の購買者(債務者)は、支払期限に支払うためには貨幣を蓄蔵しなければならないのだから、そのことを言っているのではないか、といった理解に落ち着いたように思います。しかし果たしてそれでよいのでしょうか? そもそも商品が支払約束と引き換えに譲渡された場合には、どこにも貨幣はないのですから、それを蓄蔵することは出来ないからです。流通過程はWの一方的譲渡だけで中断しており、蓄蔵すべき流通手段なるものはどこにもありません。それは「観念的購買手段」としてあるだけです。つまりその存在は観念的であって、観念的なものを蓄蔵するわけには行きません。これは一体どう理解したらよいのでしょうか?


 こうした疑問が氷解したのは河上肇の『資本論入門』を読んだ時でした。とっいっても河上肇がそれについて言及しているわけではありません。河上肇が引用している「カウツキー版」の『資本論』の同じ箇所は次のようになっています。

 《流通手段が蓄蔵貨幣に転形したのは、流通過程が第一段階で中絶されたため、すなわ商品の転形する姿(金)が流通の外に取り出されたためであった。ところが支払手段は流通のうちにはいってゆく、しかしそれは商品がすでにそこから歩み出た後のことである。貨幣はもはや過程を媒介するのではない。それは交換価値の絶対的定在として、普遍的な商品として、独立的に過程の結末をつけるのである。》
 現行版には下線を引いた「ところが」といった助詞はありません。これは逆接の助詞ですが、前の文節と後の文節とは逆であることを示しています。つまり前の蓄蔵貨幣についての説明は、あとの文節をそれとは逆であると説明するためのものなのです。つまり私たちが理解困難に陥ったのは、明らかな読み誤りのためなのです(そしてそれは「ところが」という助詞をつけなかった翻訳者の訳文にも一因があるかもしれません)。

 掛け売買の場合、W-Gの過程が二つに分裂します。一つは販売者から購買者へのW(商品)の一方的譲渡です。二つには一定時間の経過後の購買者から販売者へのG(貨幣)の一方的譲渡です。河上肇は右図のように示しています。

 このように掛け売買の場合はW-Gの過程そのものが分裂するために、私たちは「流通過程が第一の局面で中断したので」というのをAがBに商品を譲渡してまだ貨幣の支払いを受けていない段階と考えたのでした。それを「第一の局面」と考えたのです。しかし河上肇の引用している『資本論』の当該箇所を見ると、必ずしもそう理解する必要がないこと、そればかりかそう理解するから混乱に陥ることが分かります。ここで「第一の局面」とはW-G-WのW-Gの局面のことです。商品流通の第一の変態が終わった局面のことなのです。つまりマルクスはここでは流通手段が蓄蔵貨幣に転形する場合を一般的に述べているに過ぎないのです。ではなぜここで蓄蔵貨幣について述べる必要があるのでしょうか?

 「本来の貨幣」あるいは「貨幣としての貨幣」である蓄蔵貨幣は流通手段が流通から引き上げられて初めてそうしたものに転形します(商品の一時的な価値の姿態である流通手段の場合は、貨幣はその代理物--例えば紙幣--に置き換えることは可能ですが、「本来の貨幣」である蓄蔵貨幣はそうはゆきません)。ところが同じ「本来の貨幣」である「支払手段」の場合は蓄蔵貨幣とは違って流通に入っていくのだ、とマルクスは述べているのです。つまり同じ「本来の貨幣」ではあるが、蓄蔵貨幣と支払手段とは一方は流通から引き上げられて、そうしたものになるが、他方は流通に入って行ってそうしたものとして機能するのだと言いたいのです。だから「ところが」という逆接の助詞がつけられているのです。つまりこうした両者の違いを対比して述べるために、流通手段が蓄蔵貨幣に転化する条件を一般的に述べているのだと思います。こうした対比は『経済学批判』の次の一文を読めば一層理解できます。

 《鋳貨準備金と蓄蔵貨幣とは、非流通手段としてのみ貨幣(この場合、この「貨幣」は定冠詞のないGeld、つまり「本来の貨幣」と理解すべきです--引用者)であったが、しかもそれらは、流通しなかったからこそ非流通手段であった。だが、いまわれわれが貨幣(先に同じ--引用者)を考察する場合にとる規定においては(つまり「支払手段」の規定においては--引用者)、貨幣は流通する。流通手段としては、貨幣はつねに購買手段であったが、いまやそれは、非購買手段として働くのである》(岩波文庫版180頁)
 このように同じ「貨幣としての貨幣」であっても蓄蔵貨幣と支払手段とは、一方は流通から引き上げられてそうなるが、他方は流通に入っていくのだというわけです。これがここでマルクスが言いたかったことなのです。分かってしまえば、どうということは無いのですが、ちょっとした翻訳の彩で意味がなかなか理解出来ないものの一例といえます。

 次に2)については報告者の勘違いだということで簡単にケリがつきました。つまりこの場合の「自立的に閉じる」「過程」とはW-Gの過程だということです。つまり商品流通(W-G-W)が完結するということではなく、その前半(第一段階)が終わるということが確認されました。

 ところでこれは学習会では問題として出されなかったのですが、ここで「自立的に閉じる」とありますが、「自立的に閉じる」とはそもそもどういうことなのでしょうか? なぜ「自立的」なのか、それが問題です。それはその先に述べている「貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない」ということと関連しているように思えます。ここでは明らかに債務者から債権者に貨幣が流通していくのですが、しかしそれはいうまでもなく流通手段、つまり鋳貨としてではありません。ここでの貨幣は、「交換価値の絶対的定在または一般的商品として」とあるように、債務者が債権者に価値そのものを引き渡すための形態ですから、もともとは、本来の貨幣のみが果たすことの出来る機能なのです(しかし本来の貨幣に代わりうる銀行券等々の貨幣形態が発展すると、そうした代理物も支払手段として流通することができるようになります)。しかもすでに商品は流通してしまっているのですから、貨幣はただ一方的に債務者から債権者に渡されるだけであって、それによっては何も媒介するわけではないのです。「自立的に」というのはそうした事態を述べているのではないかと思います。つまり何の媒介もなしにという意味で「自立的」だということです。そして債権・債務が最終的に決済されるという点でこの取引(=この過程)は「閉じている」わけです。

 後半部分についてもまずは本文を紹介しておきましょう。

 《売り手が商品を貨幣に転化したのは、貨幣によってある欲求を満たすためであり、貨幣蓄蔵者が商品を貨幣に転化したのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務者である買い手が商品を貨幣に転化したのは、支払うことができるようになるためである。もしも彼が支払わなければ、彼の所有物の強制販売が行われる。こうして、商品の価値姿態である貨幣は、今や、流通過程そのものの諸関係から生じる社会的必然によって、販売の目的そのものになる。》
 ここで問題になったのは、最後の部分、「貨幣は、今や、……販売の目的そのものになる」とはどういうことか? という質問でした。これは議論のなかで解決したと思いますが、若干、補足しておきたいと思います。マルクスは『批判』で次のように述べています。

 《まえには(流通手段の考察では--引用者)価値標章が貨幣を象徴的に代理したのであるが、ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である。しかも、前には価値標章の一般的象徴性が国家の保証と通用強制とを呼び起こしたように、ここでは買手の人格的象徴性が、商品所有者間の法律的強制力を持つ私的契約を呼び起こすのである。》
 つまりこうした法的強制力をもって債務者は支払いを強制される。もし支払えなければ破産を宣告されて、彼の所有物の強制販売が行われるのです。だから債務者は破産を免れるためには、とにかく商品を捨て値ででも投げ売って支払手段を手に入れなければなりません。つまり貨幣そのものが販売の目的になるのです。

 ところで『批判』でマルクスは「ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である」と述べています。つまり債務者自身が貨幣を象徴的に代理しているというのです。これなどは「腎臓を売ってでも金をつくれ」などと脅して取り立てたどこかの悪徳金融業者を思い出させる指摘といえないでしょうか。あの金融業者は貨幣を象徴的に代理している債務者の身体そのものを現実の貨幣に変えようとしたと言うことができます。】(『資本論』学ぶ会ニュース NO.45 2000年8月30日)


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by shihonron | 2007-03-31 00:00 | 学習会の報告
2007年 03月 25日

第51回  3月13日  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 a 貨幣蓄蔵

3月13日(火)に第51回の学習会を行いました。「読む会通信」№240を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 a 貨幣蓄蔵」の第7段落から最後(第9段落)までを輪読、検討しました。
 
●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣  a 貨幣蓄蔵


第7段落
・金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として固持するためには、流通することを、または購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。
・それだから、貨幣蓄蔵者は黄金呪物のために自分の肉体の欲望を犠牲にするのである。
・彼は禁欲の福音を真剣に考える。
・他方では、彼が貨幣として流通から引き上げることのできるものは、ただ、彼が商品として流通に投ずるものだけである。
・彼は、より多く生産すればするほど、より多く売ることができる。それだから、勤勉と節約と貪欲とが彼の主徳をなすのであり、たくさん売って少なく買うことが彼の経済学の全体をなすのである。

■「享楽手段」は新日本出版社版では「消費手段」となっている。

■福音
(1)〔(ギリシヤ) evangelion〕キリスト教で、イエスの十字架上の死と復活を通して啓示された救いの教え。ゴスペル。
(2)喜ばしい知らせ。「―を待つ」
〔漢訳聖書からの借用語〕(大辞林 第二版より)

■ゴスペル [gospel]
(1)イエス-キリストの説いた神の国と救いに関する福音。
(2)新約聖書の初めの四つの福音書の総称。
■貪欲
〔古くは「とんよく」〕次々と欲を出し満足しないこと。非常に欲張りであること。また、そのさま。金銭欲・物欲だけでなく、知識欲にもいう。「―に知識を吸収する」「―心」 (大辞林 第二版より)

■主徳
「元徳(げんとく)」に同じ。〔cardinal virtues〕各時代・社会において最も基本的な徳。ギリシャではプラトンの知恵・勇気・節制・正義、キリスト教では信仰・希望・愛、儒教思想では五倫五常。主徳。
(大辞林 第二版より)

●「節約」と「貪欲」は反対の意味ではないのかという疑問がだされましたが、節約の反対は浪費であり、「節約」して貨幣を貯め込むことに「貪欲」だということだとの結論になりました。なお、フランス語版の訳では「勤勉、節約、吝嗇」となっている。

第8段落
・蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有がある。
・それは、ブルジョア社会の富とともに増大する。「金持ちになろう。さもなければ、金持ちらしくみせかけよう。」[Soyons riches ou paraissons riches](ディドロ)
・こうして、一方では、金銀の絶えず拡大する市場が、金銀の貨幣機能にはかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源が形成されて、それが、ことに社会的な荒天期には、流出するのである。

■新日本出版版では「金銀製品」となっている。その方が適切と思われる。

第9段落
・貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。
・まず第一の機能は、金銀鋳貨の流出条件から生ずる。
・すでに見たように、商品流通が規模や価格や速度において絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち干きする。
・たから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。
・ある時は貨幣が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣としてはじき出されなければならない。
・現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには、一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。
・この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。
・蓄蔵貨幣貯水池は流通する貨幣の流出流入の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。
●「ある時は貨幣が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣としてはじき出され」るとあるが、どのようにそれがなされるのだろうかとの疑問が出され、「宿題」となりました。

★「流通する貨幣がその流通水路からあふれる」とは、流通過程に必要以上の鋳貨(流通手段)が存在すると言うことを意味していると思える。

4月1日に脱落していた文章を補いました。


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by shihonron | 2007-03-25 23:30 | 学習会の報告
2007年 03月 12日

第50回  3月6日  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 前文 a 貨幣蓄蔵

3月6日(火)に第50回の学習会を行いました。「読む会通信」№239を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣」の前文と「a 貨幣蓄蔵」の第1段落から第6段落までを輪読、検討しました。
 
●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣


前文
・価値尺度として機能し、したがってまた自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は、貨幣である。
・それゆえ、金(または銀)は貨幣である。
・金が貨幣として機能するのは、一方では、その金(または銀)の肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度の場合のように単に観念的でもなく流通手段の場合のように代理可能でもなく現われなければならない場合であり、他方では、その機能が金自身によって行なわれるか代理物によって行なわれるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品にたいして固定させる場合である。

■第3節の表題「貨幣」について、新日本出版版では次のような訳者による注がついている。《この「貨幣」は、貨幣一般を意味するDas Geld(第3章の表題)ではなく、定冠詞のないGeld(英語では money)であり、価値尺度および流通手段という第一および第二の規定にたいして「第三の規定における貨幣」とマルクスが呼んだものである。フランス語版では、この表題は La monnaie l'argent となり、次の最初のパラグラフもすっかり書き換えられている。》

■フランス語版ではこの箇所は次のようになっている。
《これまでわれわれは、貴金属を、価値尺度と流通手段という二重の姿態のもとで考察してきた。貴金属は、観念的な貨幣として第一の機能を果たし、第二の機能では象徴によって代表されることができる。だが、貴金属がその金属体のままで、商品の実在の等価物すなわち貨幣商品として現われなければならない機能が存在する。もう一つの機能、すなわち、貴金属が、あるいはみずからあるいは代理人によって果たしえても、日用商品の価値の唯一無二の的確な化身としてこの商品に対面する機能も、存在する。どちらの場合も、貴金属が厳密な意味での貨幣として、価値尺度や鋳貨としての機能と対照的に機能する、とわれわれは言うのである。》(『フランス語版資本論』上巻 江夏美千穂・上杉聰彦訳 法政大学出版会 110頁)
 
●「一方では」「他方では」として述べられているのはどんな事柄なのかとの疑問が出されました。「一方では」は蓄蔵貨幣や世界貨幣、「他方では」は支払い手段のことを述べているのではないかという発言がありましたが、第3節を終えた後で議論しようということになりました。

●「交換価値の唯一の定在」と書かれているが、「価値の唯一の定在」というべきではないのかという疑問が出されました。すぐに結論は出ず、今後の課題となりました。

第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 a 貨幣蓄蔵

第1段落
・二つの反対の商品変態の連続的な循環、または売りと買いとの流動的な転換は、貨幣の無休の流通、または流通の永久自動機関[perpetuum mobile]としての貨幣の機能に現われる。
・変態列が中断され、売りが、それに続く買いによって補われなければ、貨幣は不動化され、または、ボアギュベールの言うところでは、可動物[meuble]から不動物[immeuble]に、鋳貨から貨幣に転化する。

第2段落・商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と熱情とが発展する。
・商品は、商品を買うためではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。
・この形態変換は、物質代謝の単なる媒介から自己目的になる。
・商品の離脱した姿は、商品の絶対的に譲渡可能な姿またはただ瞬間的な貨幣形態として機能することを妨げられる。
・こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。

★「この形態変換」とは、商品の貨幣への転化 W―G のこと。

★「商品の絶対的に譲渡可能な姿」とは、他のすべての商品にたいして直接的交換可能性の形態にあるということ。

★「瞬間的な貨幣形態」とは、買うための売り W―G―W のGのこと。

第3段落

・商品流通が始ったばかりのときには、ただ使用価値の余剰分だけが貨幣に転化する。
・こうして、金銀は、おのずから、有り余るものまたは富の社会的な表現になる。
・このような貨幣蓄蔵の素朴な形態が永久化されるのは、かたく閉ざされた欲望範囲が伝統的な自給自足的な生産様式に対応している諸民族の場合である。
・たとえばアジア人、ことにインド人の場合がそうである。
・ヴァンダリントは、商品価格は一国に存在する金銀の量によって規定されると妄信しているのであるが、彼は、なぜインドの商品があんなに安いのか? と自問する。
・答えは、インド人は貨幣を埋蔵するからだ、というのである。
・彼の言うところでは、1602-1734年に、インド人は1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋めたが、それは元来はアメリカからヨーロッパにきたものだった。
・1856-1866年に、つまり10年間に、イギリスはインドとシナに(シナに輸出された金属は大部分再びインドに向かって流れる)1億2000万ポンド・スターリングの銀を輸出したが、この銀は以前にオーストラリアの金と交換して得られたものだった。

★「欲望範囲」が生産様式に対応していると述べていることに注意しておこう。使用価値の多様さとそれに対する欲望もまた生産力の高さに規定されているということではないか。

●「1602-1734年の100年余の期間に埋められた銀の量と1856-1866年の10年間に埋められた銀の量がほぼ等しいことに注目しておこう」との発言がありました。

●「シナに輸出された金属は大部分再びインドに向かって流れる」に関連して、三角貿易やアヘン戦争についての説明がされました。

■アヘン戦争
1840年―1842年,清朝のアヘン密貿易禁止をめぐる英国と清朝間の戦争。清では雍正帝以来アヘン禁止が祖法とされた。18世紀末以降インド産アヘンの密貿易が盛行し吸煙の害が政治問題化,また茶,絹などの輸出による外国銀流入はアヘン貿易によって銀の国外流出に転じ,財政上からも問題化した。このため1839年道光帝は林則徐を欽差大臣として広東(カントン)に派遣。林は広東でアヘンの没収,棄却など強硬策をとり,英国との交易禁止という挙にでた。1840年英国は遠征軍を派遣し,清朝は林則徐を罷免して,和を策したが成功しなかった。1842年6月総攻撃を再開した英軍に大敗,8月南京条約が締結され,清の鎖国はくずれた。なお,アロー戦争(1856年―1860年)を第2次アヘン戦争ともいう。 (マイペディア)

■アヘン貿易
18世紀後半から,イギリス東インド会社がインド産アヘンを中国向けに輸出した貿易。実際は,中国からの茶の輸入の資金として,英国がインド(ベンガル地方と中央インドの藩王国など)につくらせたアヘンを中国に売り,インド人の受け取る代金で英国のつくった工業製品の消費を可能にさせる,という三角貿易であった。また,植民地インドにおける英国の歳入の17%(19世紀平均)はアヘン専売収入が占め,中国への輸出は清朝の禁令のため,中国人商人を介した密貿易で行われた。
(マイペディア)

■三角貿易 
外国貿易によって生じる2国間の国際収支の不均衡を調整するため,第三国を交えて貿易し3国間で差額を相殺し合い,各国相互の貿易量を拡大しようとする方式。多角貿易のうち3国間で行うものをいう。 (マイペディア)

第4段落
・商品生産がさらに発展するにつれて、どの商品生産者も、諸物の神経[ nervus rerum]、「社会的な質物」を確保しておかなければならなくなる。
・彼の欲望は絶えず更新され、絶えず他人の商品を買うことを命ずるが、彼自身の商品の生産と販売は、時間がかかり、また偶然によって左右される。
・彼は、売ることなしに買うためには、まえもって、買うことなしに売っていなければならない。
・このような操作は、もし一般的に行なわれるとすれば、それ自身と矛盾しているように見える。
・しかし、貴金属はその生産源では直接に他の商品と交換される。
・ここでは、売り(商品所持者の側での)が、買い(金銀所持者の側での)なしに行なわれる。
・そして、それ以後の、あとに買いの続かない売りは、ただすべての商品所持者のあいだへの貴金属の再分配を媒介するだけである。
・こうして、交易のすべての点に、大小さまざまな金属蓄蔵が生ずる。
・商品を交換価値として、また交換価値を商品として固持する可能性とともに、黄金欲が目覚めてくる。
・商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が、増大する。
・「金は素晴らしいものだ! それをもっている人は、自分が望むすべてのものの主人である。そのうえ、金によって魂を天国に行かせることさえできる」(コロンブス『ジャマイカからの手紙』1503年。)

■《諸物の神経[ nervus rerum]、「社会的な質物」を確保しておかなければならなくなる。》は、新日本出版社版では《“万物の神経”である「社会的動産担保」を確保しなければならなくなる。》となっている。

■【質物】しちもつ  質におく品物。しちぐさ。(大辞林 第二版)

●「《このような操作は、もし一般的に行なわれるとすれば、それ自身と矛盾しているように見える》とは、すべての人々が買うことなしに売ることはできないように見えるということではないか。しかし、産金業者は、いわば売ることなしに買うのであり、このことによって一般商品の生産者は、買うことなしに売ることができるということではないか」との発言がありました。

★一般商品の生産者も、過去に「買うことなしの売り」によって手にした貨幣でもって買うことがある。そのかぎりでは、「買うことなしの売り」と「売ることなしの買い」が並存するといえると思える。

●「《貴金属の再分配》とは、産金業者から新たに流通にはいってきた金属のことをさしているのか」との疑問が出されましたが、明確な結論は出ませんでした。

●「《商品を交換価値として、また交換価値を商品として固持する可能性》とは、商品を、価値として通用する形態=貨幣に転化して保持することをさしていると思えるが、《交換価値を商品として固持する》という表現はよく分らない」との発言がありました。(★内容としては、あらゆるものが商品として現われるような《商品流通の拡大》のことと思える。)

●「第2段落・第3段落では《商品流通そのものの最初の発展》の時期=《商品流通が始ったばかりのとき》について述べ、第4段落では《商品生産がさらに発展》した段階でのことを対比的に述べている」との発言がありました。

■コロンブス  1451-1506
イタリアの航海者。イタリア語名ではコロンボCristoforo Colomboで,Columbusは英語表記。ジェノバ生れ。大西洋を西航してインドに達し得ると考え,数学者トスカネリらの支持を得た。1492年スペイン宮廷の援助と総督の地位を得ることに成功,8月サンタ・マリア号など3隻の船でパロスを出帆した。10月バハマ諸島のグアナハニ島に上陸,そこをインドの一部と誤認し神に感謝しつつ〈サン・サルバドル(聖なる救済者)〉と名づけた。その後キューバなどに寄りながら1493年帰国。第2回(1493年―1496年),第3回(1498年―1500年)と航海を重ねるが原住民の反乱に悩まされ,第4回航海(1502年―1504年)の際には総督の地位からはずされた。その後も宮廷は彼を重んぜず,彼は死に至るまでアジアの一部を発見したと信じつつ失意のうちに死んだ。コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰ったとされるものに梅毒,タバコ,トウガラシなどがある。(マイペディア)

第5段落
・貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。
・すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。
・流通は、大きな社会的坩堝となり、いっさいのものがそこに投げ込まれてはまた貨幣商品となって出てくる。
・この錬金術は聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物[res sacrosanctae, extra commercium hominum]にいたっては、なおさらである。
・貨幣ではいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである。
・しかし、貨幣はそれ自身商品であり、だれの私有物にもなれる外的なものである。
・こうして、社会的な力が個人の個人的な力になるのである。
・それだからこそ、古代社会は貨幣をその経済的および道徳的秩序の破壊者として非難するのである。
・すでにその幼年期にプルトンの髪をつかんで地中から引きずりだした近代社会は、黄金の聖杯をその固有の生活原理の光り輝く化身としてたたえるのである。

■《もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物》は、フェニキアの乙女のこと。

●「《社会的な力》とはなにをさしているのか」との疑問が出され、「どんなものでも入手可能にする貨幣=価値の力のことだろう」ということになりました。

■《個人の個人的な力》は、新日本出版版では《私人の私的な力》となっている。
英語版では But money itself is a commodity, an external object, capable of becoming the private property of any individual. Thus social power becomes the private power of private persons. である。

■長谷部訳や英語版では、第4段落と第五段落はひとつの段落になっている。

■プルトンは、ギリシア神話の富の神ハデスのこと。

■ハデス
 ギリシア神話で,地下の冥府の王。その名は〈見えざる者〉の意。地中に埋蔵される金銀などの富の所有者としてプルトン (富者) とも呼ばれたところから,ローマ神話ではプルトPluto,またはそのラテン訳のディスDisが彼の呼称となっている。ティタン神族のクロノスの子として生まれ,兄弟のゼウス,ポセイドンと力を合わせて,当時,世界の覇者であった父神とティタン神族を 10 年にわたる戦いで征服し,ゼウスが天,ポセイドンが海の王となったとき, ハデスは冥界の支配権を得た。のち,みずからの姉妹にあたる女神デメテルの娘ペルセフォネを地上からさらって后とした 。
 古代ギリシア人の考えによれば,死者の亡霊はまずヘルメスによって冥界の入口にまで導かれ,ついで生者と死者の国の境の川ステュクスまたはアケロンを渡し守の老人カロンに渡されたあと,三つ頭の猛犬ケルベロスの番するハデスの館で,ミノス,ラダマンテュス,アイアコスの3判官に生前の所業について裁きを受ける。その結果,多くの亡霊はアスフォデロス (不鰻花) の咲きみだれる野にさまようことになるが,神々の恩寵めでたき英雄や正義の人士はエリュシオンの野 (古い伝承では,はるか西方の地の果て,のちに冥界の一部と考えられた) に送られて至福の生を営む一方,シシュフォスやタンタロスのごとき極悪人はタルタロスなる奈落へ押しこめられ,そこで永遠の責め苦にあうものと想像された。  水谷 智洋 (世界大百科事典)

第6段落・使用価値としての商品は、ある特殊な欲望を満足させ、素材的な富の一つの特殊な要素をなしている。
・ところが、商品の価値は、素材的な富のすべての要素に対するその商品の引力の程度を表わし、したがってその商品の所有者の社会的な富の大きさを表わしている。
・未開の単純な商品所持者にとっては、また西ヨーロッパの農民にとってさえも、価値は価値形態から不可分なものであり、したがつて金銀蓄蔵の増加は価値の増加である。
・もちろん、貨幣の価値は変動する。
・それ自身の価値変動の結果であるにせよ、諸商品の価値変動の結果であるにせよ、しかし、このことは、一方では、相変わらず200オンスの金は100オンスよりも、300オンスは200オンスよりも大きな価値を含んでいるということを妨げるものではない。
・他方では。この物の金属的現物形態がすべての商品の一般的等価形態であり、いっさいの人間労働の直接に社会的な化身であるということを妨げるものではない。
・貨幣蓄蔵の衝動はその本性上無際限である。
・質的には、またその形態から見れば、価値は無制限である。
・すなわち、素材的な富の一般的な代表者である。
・貨幣はどんな商品にも直接に転換されうるからである。
・しかし、同時に、どの現実の貨幣額も、量的に制限されており、したがってまた、ただ効力を制限された購買手段でしかない。
・このような、貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾は、貨幣蓄蔵者をたえず蓄積のシシュフォス労働へと追い返す。
・彼は、いくら新たな征服によって国土をひろげても国境をなくすことのできない世界征服者のようなものである。

●「《価値は価値形態から不可分なもの》とはどういうことか」との疑問が出され、「価値は、その現象形態である貨幣=貴金属そのものだとみなされることではないか」との発言がありました。

●「諸商品の価値変動の結果として貨幣の価値が変動するというのがよく分らない」との疑問が出され、「貨幣商品の価値はさまざまな商品のさまざまな量によって表現される(物価表を逆から読むこと)ことを述べているのではないか」との発言がありました。

★貨幣の価値の大きさは、貨幣商品(金や銀など)の生産に社会的に必要な労働時間によって決まるので、それが変化しない場合には価値変動はないように思える。貨幣の価値に変化がなくても、諸商品の価値変動によって、同じ額の貨幣で入手できる諸商品の量(さまざまな使用価値の量)が変動することを述べているということだろうか。

★「一方では」以下は、貨幣商品間の大小関係は不変だという量の問題について、「他方では」以下は、貨幣が 《すべての商品の一般的等価形態であり、いっさいの人間労働の直接に社会的な化身である》という質の問題について述べている。

■【シシュフォス [Sisyphos]】 
ギリシャ神話中のコリント王。ゼウスから怒りを買い死神を送られたが、死神をだまし捕らえたため、しばらく死ぬ者が絶えたという。重なる悪業の罰として、地獄でたえず転がり落ちる大石を山頂へ押し上げる永遠の空しい苦業を課せられた。シジフォス。 (大辞林 第二版より)


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by shihonron | 2007-03-12 23:00 | 学習会の報告