『資本論』を読む会の報告

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2007年 04月 30日

第56回  4月24日  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段

4月24日(火)に第56回の学習会を行いました。「読む会通信」№244を使って復習をしたあと、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段」の第9段落から最後(第12段落)までを輪読、検討しました。

「商業貨幣」について
前回の議論で「商業貨幣」という用語についてマルクスはどこかで使っているのだろうかという疑問が出されました。調べた結果、第1巻では使っていないが、第3巻では使われていることが明らかになりました。第3巻第25章では次のように書かれています。

《私は前に(第1部第3章b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的基礎は拡大され、一般化され、完成されていく。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣とひきかえにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済される限りでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このように生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである。国民文庫第7分冊150-151頁・原頁413》

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段
第9段落
・信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは、売られた商品に対する債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。
・他方、信用制度が拡大されれば、支払手段としての貨幣の機能も拡大される。
・このような支払手段として、貨幣はいろいろな特有の存在形態を受け取るのであって、この形態にある貨幣は大口取引の部面を住みかとし、他方、金属鋳貨は主として小口取引の部面に追い返されるのである。

■信用貨幣という言葉がこれまでに登場したのは2カ所であった。最初は「第2節 C 鋳貨 価値章標」の第5段落。
《ここで問題にするのは、ただ、強制通用力のある国家紙幣だけである。それは直接に金属流通から生まれてくる。これに反して、信用貨幣は、単純な商品流通の立場からはまだまったくわれわれに知られていない諸関係を前提する。だが、ついでに言えば、本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生ずるように、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能にその自然発生的な根源をもっているのである。》(国民文庫224頁・原頁141)
次に触れられていたのは「b 支払手段」の第7段落の終わり近くである。
《恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。したがったまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などの信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に代わりはないのである。》(国民文庫242頁・原頁152)

●第9段落での「信用貨幣」は手形(商業手形)のことをさしており、信用制度が拡大して貨幣が受け取る「いろいろな特有の存在形態」とは銀行券などが念頭に置かれているのではないかとの発言がありました。

第10段落
・商業生産が或る程度の高さと広さとに達すれば、支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える。
・貨幣は契約の一般的商品となる。
・地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる。
・この変化がどんなに生産過程の総姿態によって制約されているかを示すものは、たとえば、すべての租税を貨幣で取り立てようとするローマ帝国の試みが二度も失敗したことである。
・ボアギュベールやヴォバン将軍があのように雄弁に非難しているルイ14世治下ののフランス農村住民のひどい窮乏は、ただ租税の高さのせいだけではなく、現物租税から貨幣租税への転化のせいでもあった。
・他方、アジアでは同時に国家租税の重要な要素でもある地代の現物形態が、自然関係と同じ普遍性をもって再生産される生産関係にもとづいているのであるが、この支払形態はまた反作用的に古い生産関係を維持するのである。
・それは、トルコ帝国の自己保存の秘密の一つをなしている。
・ヨーロッパによって強制された外国貿易が日本で現物地代から貨幣地代への転化を伴うならば、日本の模範的な農業もそれでおしまいである。
・この農業の窮屈な経済的存立条件は解消するであろう。

●《支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える》とはどういう意味かが問題となり、「商品の売買ではない、租税や地代の支払をさしているように思える。それは、商品交換ではなく、一方的な価値の移転のことではないか」との意見が出されました。

●《貨幣は契約の一般的商品となる》の意味がよく分らないとの疑問が出されましたが、納得できるような結論には至りませんでした。

●アジアでの《自然関係と同じ普遍性をもって再生産される生産関係》《古い生産関係》とは何かという疑問が出され、封建制(農奴制)ではないかという発言がありました。

●《日本の模範的な農業》とあるが、どういう意味で模範的なのかという疑問が出されましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

■日本の農業について述べている箇所について、浜林正夫『資本論を読む[上]』(学習の友社)では次のように述べられています。
《この言葉を理解するためには、マルクスの『資本論』は明治維新の直前に書かれた本だ、ということを念頭においていただきたいのです。つまり、江戸時代の末期ですけれども、日本では依然としてまだ現物地代でした。つまり、コメで収めていたわけです。ところが、日本が開国を迫られて、外国との貿易が始ります。外国との貿易が始りますと、貨幣がどんどん入り込んで、貨幣経済になっていきます。そうすると、日本の地代も現物地代から貨幣地代になるだろう、そうすると日本の模範的な農業もおしまいである、というのです。
 江戸時代の農業は模範的だったのかなぁと思って、ちょっと気になるところでありますが、要するに模範的かどうかはともかくとしても、自給自足的な農業経営というものが崩れてしまって資本主義的な農業になるだろうという、そういうマルクスの予言だ、というふうに思うのです。ただし、日本では、現物で地代を納めるという状況が昭和21年まで続いていました。昭和21年から22年の「農地改革」で初めて、貨幣地代に変ったのです。ヨーロッパによって押しつけられた対外貿易は、実は日本の模範的農業を崩さなかったということになるのでしょうか》(186頁)

■ 農地改革 のうちかいかく
第2次大戦後,地主制の解体を目的として行われた農地の所有・利用関係の改革。1945年幣原喜重郎内閣が行った第1次改革は占領軍の農民解放指令に基づく自作農創設政策であったが,占領軍はその微温的な内容を不満とし,1946年〈農地改革覚書案〉(対日理事会の英国案が骨子)を日本政府に勧告した。これにより自作農創設特別措置法と改正農地調整法が成立し,1947年―1950年第2次改革が行われた。不在地主制の否定,在村地主の貸付地保有限度の引下げ(1町歩),農地の移動統制,耕作権の物権化,地主による土地取上げ禁止,小作料の金納化などがおもな内容。当時,全耕地面積の46%を占めた小作地は強制買収され小作人に売却された結果,10%に減少,地主制は解体した。山林の未解放,地主保有地の残存,零細農経営の存置など不徹底な面もあったが,農地改革は農業生産力発展の契機となった。改革の成果を維持するため1952年農地法が制定された。(マイペディア)

■金納小作料 きんのうこさくりょう
農地の小作料を貨幣で支払うもの。物納小作料よりは歴史的に進んだものとされる。戦前の日本では物納あるいはそれを貨幣換算した代金納が広く行われていたが,農地改革によってそれらは禁止され,小作料はすべて金納化された。 (マイペディア)

■ 貨幣地代 かへいちだい
貨幣で納める地代。労働で納める労働地代や生産物で納める現物地代に対する語。封建社会は現物経済の支配する社会であるが,商品生産の発展につれ,地代も貨幣で納められるに至り,貨幣地代は封建地代の最後の発展形態をなす。 (マイペディア)

■第1部第4篇第13章「機械と大工業」第10節「大工業」に次のような記述がある。
《 農業の部面では、大工業は、が古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働者をそれに替える限りで、最も革命的に作用する。こうして、農村の社会的変革要求と社会的諸対立は、都市のそれと同等にされる。旧習にになずみきった不合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術学的応用が現れる。農業や製造工業の幼稚未発達な姿にからみついてそれらを結合していた原始的な家族紐帯を引き裂くことは、資本主義的生産様式によって完成される。しかし、同時にまたこの生産様式は、一つの新しい、より高い結合のための、すなわち農業と工業との対立的につくりあげられた姿を基礎して両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では、社会の歴史的動力を集積するが、他方では、人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食糧や衣料の形態で消費する土地成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現れ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現れ、労働過程の社会的結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現れる。農業労働者が比較的広い地面の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合と同様に、現代の農業では、労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度不断の源泉を破壊することの進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景としての大工業から出発するならば、その度合いに応じてそれだけこの破壊過程も急速になる。それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と統合とを発展させるのである。》(国民文庫第2分冊464-466頁・原頁528-530)

第11段落

・どの国でも、いくつかの一般的な支払期限が固定してくる。それらの時期は、再生産の循環運行を別とすれば、ある程度まで、季節の移り変わりに結びついた自然発生的生産条件にもとづいている。それらはまた、直接に商品流通から生ずるのではない支払、たとえば租税や地代などをも規制する。
・社会の表面に分散したこれらの支払のために一年のうちの何日間かに必要な貨幣量は、支払手段の節約に周期的な、しかしまったく表面的な攪乱をひき起こす。
・支払手段の流通速度に関する法則からは次のことが出てくる。
・すなわち、その原因がなんであろうと、すべての周期的な支払について、支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する、ということである。

■【節季】せっき
(1)季節の終わり。時節の終わり。時節。
(2)年の暮れ。年末。歳末。一二月。[季]冬。
(3)勘定の締めくくりをする時期。普通、盆と暮れの二回。
「―に帳かたげた男の顔を見ぬを嬉しや/浮世草子・永代蔵 2」 (大辞林 第二版)

■ 【三十日払い/▼晦日払い】みそかばらい
金銭の支払いをその月の末日にすること。みそか勘定。 (大辞林 第二版)

■【五十日】ごとおび
月のうち、五・十のつく日。取引の支払い日にあたり、交通渋滞が激しい日とされる。

●《表面的な攪乱》とは何かが問題となり、支払手段として機能する貨幣の不足のこと。しかし、恐慌時とはちがって、流通する銀行券などの「現金」が一時的に(特定の日に)増大するが、すぐに銀行に帰っていくといったことだろうということになりました。

■最後の文の「正比例」について、新日本出版社の新書版には次のような注がつけられている。
《ここは、カウツキー版およびインスティトゥート版(1932年)以外での版本では「反比例」となっており、戦後のロシア語版、ドイツ語版、フランス語版等、たいていの版本で「正比例」に改められた。マルクスは、支払手段の流通速度を制約する事情として、債権者・債務者の関係の連鎖と、さまざまな支払期限のあいだの時間の長さとをあげているが、これは支払期限(満期日)に達した債務についての行論である。したがって「支払期限の長さ」を「支払期限と支払期限とのへだたり」(週払いとか月払い)と解すれば、長い方が支払総額が多くなるから「正比例」である。これにたいして、「支払期限」を「支払が行なわれる期間」(一日とか一週間)と解すれば、長い方が同一の貨幣が支払手段として転々流通するので貨幣の必要額量は少なくなり、「反比例」となる。マルクスはここでは「支払期限」について論じており、「期間」については一カ所しか言及しておらず、周期的支払を問題にしているため「諸支払期間」(周期的な期限と期限とのあいだ)としたものと思われる。第二巻、第九章末でこの文が再び引用されているが、ここで「反比例」と解すると矛盾した解釈をせざるをえなくなる。(240-241頁)》

■第2部第2篇第9章「前貸資本の総回転 回転の循環」の中に次のような記述がある。
《まず第一にここで言っておかなければならないのは、支払周期の長さ、すなわち労働者が資本家に信用を与えていなければならない時間の長さに応じて、つまり賃金の支払周期が毎週か、毎月か、三ヶ月ごとか、半年ごとか、等々に応じて、労賃そのものに関していろいろな相違が生ずるということである。ここでは「支払手段の(つまり一度に前貸しされなければならない貨幣資本の)必要量は支払周期の長さに正比例する」という以前に展開された法則が妥当するのである。(第一部第三章第三節b、一二四頁)》(国民文庫第4分冊303頁・原頁187)なお、この箇所の「正比例」には「初版および第二版では、反、となっている」というドイツ語全集版編集者による注がつけられている。

第12段落
・支払手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要とする。
・独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョア社会の進歩につれてなくなるが、反対に、支払手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大するのである。

●「独立な致富形態としての貨幣蓄蔵」とは何かという疑問が出され、富の社会的表現である貨幣を貯め込むことを自己目的とするような貨幣蓄蔵、「貨幣蓄蔵の素朴な形態」のことだろうということになりました。

(5月21日に、誤字などを訂正しました。)


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by shihonron | 2007-04-30 14:00 | 学習会の報告
2007年 04月 22日

第55回  4月17日  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段


4月17日(火)に第55回の学習会を行いました。「読む会通信」№243を使って復習をしたあと、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段」の第8段落を輪読、検討しました。
 
●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

「読む会通信」№243についての議論
 議論になったのは、資料として「『資本論』学ぶ会ニュース№46」から引用された「恐慌の二つの可能性」についてでした。
 引用文では、販売と購買の分離による恐慌の可能性を、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」、「支払手段の機能からくる恐慌の抽象的可能性」を「第二の形態」であるとして《興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。》と述べられています。
 これに対して、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのか、「第一の形態」も媒介されないからこそ恐慌として爆発する可能性を持っているのではないかという疑問が出され、「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりました。

★当日の議論では、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりましたが、報告をまとめるために読み直していて、読み間違えがあったと考えるようになりました。

 まず恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」がどんなものであったかを確認しておきましょう。マルクスは第3章第2節流通手段「a 商品の変態」の最後のところで次のように述べています。

《どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。その意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期をなすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的統一をなしていることは、同時にまた、これらの過程の内的対立が外的な対立において運動するということを意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が直接的に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立――この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。
この可能性の現実性への発展は、単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。》(国民文庫202-203頁・原頁127-128)

 マルクスは、商品に内在する矛盾は、「商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」と述べています。この「商品変態における諸対立」とは、簡単に言えば販売と購買の分離、「売りと買いとの対立」です。そして「これらの形態」=「商品変態の諸対立」=「売りと買いとの対立」は、恐慌の可能性を含んでいるというのです。商品に内在する矛盾は交換過程においてはじめて現実的矛盾として現われます。それは、使用価値としての実現と価値としての実現が相互前提の関係にあるということです。この矛盾は、貨幣に媒介されて販売と購買の分離(対立)という発展した運動形態を受け取ります。
 第2節流通手段「a商品の変態」の冒頭で《すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは一般に現実の矛盾が解決される方法である。》(国民文庫188頁・原頁118-119)と述べられていましたが、販売と購買の分離は、交換過程が含んでいる矛盾の運動を可能にし、その限りで解決を与えたといえるのです。しかし、それは矛盾の解消ではありません。だからマルクスは《互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。》と述べているのです。
 出された疑問は、「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのかというものでしたが(そして私もその疑問に賛成しましたが)、引用文は《「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ》たと述べているのであって、「媒介されなければならない矛盾」であるとしているわけではありません。この点では誤読したといえると思います。
 「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾から生まれたが、それ自身は媒介されない矛盾を抱えているといえるのではないでしょうか。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段
第8段落

・次に与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから相殺される諸支払を引き、最後に同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。
・たとえば、農民が彼の穀物を2ポンド・スターリングで売るとすれば、その2ポンド・スターリングは流通手段として役立っている。
・彼はこの2ポンドで、以前に織職が彼に供給したリンネルの代金をその支払期限に支払う。
・同じ2ポンドが今度は支払手段として機能する。
・そこで、織職は1冊の聖書を現金で買う――2ポンドは再び流通手段として機能する――等々。
・それだから、価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とが与えられていても、ある期間たとえば1日に流通する貨幣量と商品量とはもはや一致しないのである。
・もうとっくに流通から引きあげられてしまった商品を代表する貨幣が流通する。
・また他方では、その日その日に契約される支払と、同じその日に期限がくる支払とは、まったく比較できない大きさのものである。

●「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」とは何のことかよく分らないとの発言があり、次回までに考えてくることになりました。

■国民文庫版の「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」は次のように訳されている。
・新日本出版社版「同じ貨幣片がある時は流通手段として、ある時は支払手段として、かわるがわる機能する通流の回数」(新書第1分冊234頁)
・長谷部訳「同じ貨幣片が時には流通手段・時には支払手段としてこもごも機能する流通の回数」(河出書房「世界の大思想18」 119頁)
・フランス語版「実現すべき商品価格の総額に、満期となる支払総額を加え、相殺される支払総額を控除し、最後に、流通手段と支払手段という二重の機能として同じ貨幣片が二度またはそれ以上の頻度にわたる使用を控除したものである。」(法政大学出版会 上巻120頁)
・初版「実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻134-135ページ)
・第2版「実現されるべきもろもろの商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻121ページ)

■『図解社会経済学』(大谷禎之介 桜井書店 117頁)では次のように述べられている。(分数で表記されているものを割り算の式に変えています)
《流通手段および支払手段として流通する貨幣の総量は、最終的には次の式によって規定されることになる。
(実現されるべき商品価格総額)÷(流通手段の流通速度)+(支払われるべき債務総額-相殺される支払総額)÷(支払手段の流通速度)-(流通手段および支払手段の両方の機能で流通する貨幣片の合計額) 》

■『資本論入門』(河上肇 青木文庫 第2分冊 486頁)では次のように述べられている。
《一定の期間内に流通手段および支払手段として必要とされる貨幣の総額は、の期間内に現金をもって売買されるべき諸商品の価格の総和に対し、第一には、その期間中満期となるべき諸支払の総和を加へ、第二には、互いに相殺される諸支払の額を差し引き、次に、これをば流通手段および支払手段としての貨幣の流通速度をもって割り、最後にかくして得たる商から、同一の貨幣片が或る時は流通手段として或る時は支払手段として交互に働くために決済される金額を、差し引いたものに相当する。》

★流通する貨幣の総額を問題にしているのだから、単位は円(貨幣の単位)であるはずなのだから、「回数」ではおかしいと思う。だが、どんな金額なのかは、依然としてよく理解できない。


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by shihonron | 2007-04-22 23:50 | 学習会の報告
2007年 04月 16日

第54回  4月10日  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段


4月10日(火)に第54回の学習会を行いました。前回にひきつづき「読む会通信」№242を使って復習をしたあと、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段」の第4段落から第7段落までを輪読、検討しました。
 
●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段


第4段落
・買い手は自分が商品を貨幣に転化させるまえに貨幣を商品に転化させる。
・すなわち第一の商品変態よりもさきに第二の商品変態を行なう。
・売り手の商品は流通するが、その価格をただ私法上の貨幣請求権に実現するだけである。
・その商品は貨幣に転化するまえに使用価値に転化する。
・その商品の第一の変態はあとからはじめて実行される。

★(貨幣支払約束)→(商品)貨幣は観念的購買手段として機能 
              商品は使用価値に転化

 (商品)→(貨幣請求権)  価格の観念的実現

★買い手 (貨幣支払約束)→(売り手の商品) 【購買】(第二の商品変態 G―W)
       (買い手の商品)→(貨幣)     【販売】(第一の商品変態 W―G)      
        売り手への貨幣支払

★売り手 (売り手の商品)→(貨幣請求権)  【販売】
      (貨幣請求権)→(貨幣)

第5段落
・流通過程のどの一定期間にも、満期になった諸債務は、その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表わしている。
・この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず第一に支払手段の流通速度によって定まる。
・この流通速度は二つの事情によって定まる。
・第一には、Aが自分の債務者Bから貨幣を受け取って次にこの貨幣を自分の債権者Cに支払うというような債権者と債務者との関係の連鎖であり、第二には支払期限と支払期限との間の時間の長さである。
・いろいろな支払の連鎖、すなわちあとから行なわれる第一の変態の連鎖は、さきに考察した諸変態列のからみ合いとは本質的に違っている。
・流通手段の流通では、売り手と買い手の関連がただ表現されているだけではない。
・この関連そのものが、貨幣流通において、また貨幣流通とともに、はじめて成立するのである。
・これに反して、支払手段の運動は、すでにそれ以前にできあがっている社会的な関連を表わしているのである。

●支払手段の流通速度とは何かが問題となりました。「それは、支払手段として機能する貨幣が一定の期間に何回持ち手を変えるかということであり、流通回数といった方が分りやすい」という意見が出されました。

■ ◎「さまざまな支払期限のあいだの時間の長さ」とは?
 ここで問題になったのは下線の部分についてです。まず「さまざまな支払い期限のあいだの時間の長さ」とは一体どういうことか、またそれは支払手段の流通速度にどのように関係するのかということと、もう一つはそれはその前にある「債務者と債権者との諸関係の連鎖」に含まれるのではないか、という疑問です。これも色々と議論は出ましたが、しかし最終的にはこれだいう解決には至らなかったように思います。この問題を少し考えてみましょう。
 流通手段としての貨幣の流通速度とは、同じ貨幣片が与えられた時間内に流通する(商品の価格を実現する)回数でした。だから今回の場合の「支払手段の流通速度」というのも、与えられた時間内に同じ貨幣片が支払手段として支払われる回数ということになります。これは流通手段の場合と同様、「さしあたり」次の(第6)パラグラフで述べているような「相殺」を考えに入れないとすれば、時間的・空間的に平行して行われる諸支払いの場合は同じ貨幣片がそれらの諸支払いを同時に果たすことは出来ません。だから諸支払いが時間的に継続して起こることが必要です。しかし継続して起こるにしても、まずその連鎖が問題になります。例えばAがBに支払っても、BがCへの支払いの必要がないなら、同じ貨幣片は続けて支払われないからです。また連鎖があったとしても、その間隔がやはり問題になります。つまりAがBに支払っても、BがCに支払うまでには長い期間がある場合、次にCがDに支払うにはさらに長い期間が生じる場合を考えると、そういう場合には、今問題にしている一定期間内の枠の外に出てしまうかも知れません。だから期間が短ければ短いほど、一定期間内における連鎖によって同じ貨幣片が支払い手段として支払われる頻度が高くなります。つまり速度が早くなるわけです。だからやはり連鎖だけではなく、「諸支払い期限のあいだの時間の長さ」も支払手段の速度を規定する要因として考える必要があるわけです。だいたい以上のように考えたらよいのではないでしょうか。 (『資本論』学ぶ会ニュース NO.45 2000年8月30日)

●「さきに考察した諸変態列のからみ合い」とは何かという疑問が出され、「流通手段のところで考察されたもののことだ」という結論になりました。

■《ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するとともに、他の一商品(小麦)の総変態を閉じる。その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。これに反して、生けとし生けるものの道をたどってこの商品そのものが化していく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。この総過程は商品流通として現われる。》(国民文庫200頁・原頁126)

★現金売買では、貨幣流通によって売り手―買い手という関係がはじめて成立する。支払手段の運動は、債権者―債務者という掛売買によってすでに成立している関係を表わしている。

第6段落
・多くの売りが同時に並んで行なわれることは、流通速度が貨幣量の代わりをすることを制限する。
・反対に、このことは支払手段の節約の一つ新しい梃子(てこ)になる。
・同じ場所に諸支払が集中されるにつれて、自然発生的に諸支払の決済のための固有な施設と方法が発達してくる。
・たとえば中世の振替(virements)がそれである。
・AのBにたいする、BのCにたいする、CのAにたいする、等々の債権は、ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。
・こうして、あとに残った債務差額だけを精算すればよいことになる。
・諸支払の集中が大量になればなるほど、相対的に差額は小さくなり、したがって流通する支払手段の量は小さくなるのである。

■ リヨン [Lyon]
フランス南東部、ローヌ川とソーヌ川との合流点にある都市。水陸交通の要地。伝統的な絹織物工業で知られ、機械・化学工業も盛ん。古代ローマの遺跡や大聖堂などがある。 (大辞林 第二版)

■振替制度 ふりかえせいど
通貨による決済に代わり,取引銀行の預金口座の移転を行い帳簿上のみで債権債務を決済する仕組み。現在日本では普通銀行の預金振替,郵便局の扱う郵便振替,日本銀行の当座勘定交換尻決済の振替がある。歴史的にはヨーロッパ,なかでもドイツで17世紀以降発達,小切手を使用せず振替証書で預金口座の付け替えを行っており,英国や米国では小切手で振替をした。日本にこの制度が導入されたのは1906年,郵便振替が初めである。

■手形交換所 てがたこうかんじょ
一定地域内にある多数の銀行が相互に取り立てる手形,小切手,公社債,郵便小為替,諸官庁の支払通知書などを毎日一定時刻に持ち寄って交換し,受取総額と支払総額の差額(交換尻(じり))のみを決済する場所,またはこの決済を協定する銀行の団体。交換尻は通常各行が日本銀行にもっている当座預金勘定を増やしたり減らしたりして決済する。日本では1879年大阪に創設。法務大臣の指定を受けた手形交換所は1997年末現在全国に185ヵ所。 (マイペディア)

第7段落
・支払手段としての貨幣は、媒介されない矛盾を含んでいる。
・諸支払が相殺されるかぎり、貨幣はただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。
・現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、すなわち物質代謝のただ瞬間的な媒介的な形態として現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の独立な定在、絶対的商品として現われるのである。
・この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。
・貨幣は恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことある。
・この機構の比較的一般的な攪乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から堅い貨幣に一変する。
・それは、卑俗な商品では代わることができないものになる。
・商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。
・たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。
・商品こそは貨幣だ、と。
・いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ! という声が響きわたる。
・鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ。
・恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。
・したがったまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。
・支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などの信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に代わりはないのである。

●「媒介されない矛盾」とはどういうことかという疑問が出され「展開されない(解決されない)矛盾、絶対的な矛盾ということではないか」との意見が出されました。

■信用貨幣 しんようかへい
信用を基礎にして流通する貨幣(厳密には貨幣代用物)。基本的には支払手段としての貨幣機能から生じたもので,最初に商業信用に基づいて商業手形が信用貨幣になったが,銀行信用の発展に伴い,これを基礎にして流通する銀行券が現代の代表的な信用貨幣になっている。当座預金による預金貨幣はその発展した形態。

★「影を失う」とはどういう意味なのだろうか?

■◎恐慌の二つの抽象的な可能性
 恐慌の可能性を論じるところでは、マルクスの叙述は弁証法的になって難しくなるように思えます。例えばすでに学んだ第三章第二節「a 商品の変態」の終わりの部分に出てくる販売と購買の分離による恐慌の可能性を論じているところでも、新しく参加した人が「マルクスは衒学的だ」などとぼやいていたことを思い出します。その部分も復習のために紹介しておきましょう。
 〈商品に内在的な対立、すなわち使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的労働として現れなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ通用するという対立、物の人格化と人格の物化との対立--この内在的矛盾は、商品変態上の諸対立においてそれの発展した運動諸形態を受け取る。だから、これらの形態は、恐慌の可能性を、といってもただ可能性のみを、含んでいる〉。
 このように恐慌は資本主義的生産に内在する矛盾の爆発として生じます。もちろん、ここで論じているのは商品流通に内在する矛盾であり、だからそれはまだ恐慌の抽象的な可能性に過ぎないのですが、しかしマルクスはいずれも矛盾の発現として論じていることが分かります。マルクスは後者を恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」とし、前者を「第二の形態」ともしています。
 興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。
 まず「第一の形態」の矛盾について分かりやすく説明している『マルクス経済学レキシコン』の栞(№6)の一文を紹介しましょう。
 〈商品は、使用価値と価値という対立物の直接的統一だから、それ自体一つの矛盾だ。だがこの矛盾は、商品の現実の交換過程のなかで、はじめて、媒介されなければならない現実的な矛盾として現れてくる。商品の使用価値としての実現と商品の価値としての実現との矛盾、等々としてね。この矛盾を媒介するものが貨幣だが、どのようにしてこの矛盾を媒介するのかというと、商品の交換過程のなかにある、商品の譲り渡しと譲り受けという二つの契機を、W-GとG-Wの二つの変態に分離することによってだね。これで矛盾がなくなるかといえば、もちろんそうではない。相合して一体をなす二契機が、外的に対立した二つの過程に独立化し、この両過程を通して、使用価値と価値との統一としての商品の矛盾が展開されることになる。交換過程の矛盾は一般化され、普遍化されざるをえない。この独立化は、それが進んでいって、ついには内在的な統一が強力的につらぬかざるをえない点にたちいたる可能性を含んでいる。これは可能性に過ぎないのだが、ともかくも、ここには恐慌の抽象的な可能性があるわけだ〉(9頁)
 ところが支払手段の機能からくる恐慌の抽象的な可能性の場合は、「媒介されない矛盾」の発現なのです。学習会でも、最初に「一つの媒介されない矛盾」とは何か、という質問が出されました。これについては続けてマルクス自身が説明しているように、支払手段としての貨幣の機能が、諸支払いが相殺される限りは観念的なものとして機能するが、しかし現実の支払いが行われなければならないとなれば、交換価値の自立した定在として、つまり現実の「貨幣としての貨幣」、「本来の貨幣」でなければならないという矛盾だと説明されました。しかし①これは果たして矛盾と言えるのかどうか、②「媒介されない」とはどういうことか、という疑問が出されました。
 まず①について、一般に、矛盾とは、例えば「AはAであるとともに非Aでもある」といった関係のことです。つまり互いに排斥の関係にありながら、同時に共存していなければならないような関係です。だから支払手段として機能する貨幣は、一方では観念的でもよいが、しかし他方では現実的な貨幣でもなければならないというのですから、明らかにそれは矛盾です。では②それが「媒介されない」とはどういうことでしょうか。まず単純な誤解としてこの「媒介されない」というのは、そのすぐ後に出てくる「素材変換のただ一時的な媒介的な形態」ということに対応させて、素材変換を「媒介しない」ということではないか、という意見も出されましたが、しかしこれはそうした意味ではなく、新日本新書版で「媒介されない」というところに[直接的]と書き換えがあるように、そのあとに出てくる「貨幣は、突然かつ媒介なしに、計算貨幣というただ観念的なだけの姿態から硬い貨幣に急変する」とあるような意味での、つまり「直接的な移行を強制されるような」という意味だろうということになりました。
 つまり交換過程に内在する矛盾の場合は、貨幣に媒介されてより発展した運動諸形態を獲得するような矛盾だったのですが、しかし支払手段の機能に内在する矛盾は、そうしたものではなく、直接的に移行しあうような矛盾だといえます。
 次にこのパラグラフで理解困難として質問が出たのは「商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態をまえにして姿を消す」という部分です。これは一体どう理解すれば良いのでしょうか?
 しかしこの部分については、この部分をだけを取り出してどうこういうよりも、『経済学批判』の当該箇所を紹介しておくだけで十分と思います(下線部分を参照)。
 〈だから諸支払いの連鎖とそれらを相殺する人為的制度とがすでに発達しているところでは、諸支払いの流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を攪乱する激動が生じると、貨幣は突然に、価値の尺度としてのそのかすみのような幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。だから、商品所持者がずっとまえから資本家になっており、彼のアダム・スミスを知っており、金銀だけが貨幣であるとか、貨幣は一般に他の諸商品とは違って絶対的に商品であるとかいう迷信を見下して嘲笑している、そういう発達したブルジョア的生産の状態のもとでは、貨幣は突然に、流通の媒介者としてではなく、交換価値の唯一の十全な形態として、貨幣蓄蔵者が考えているのとまったく同様な唯一の富として再現する。……これが、貨幣恐慌と呼ばれる、世界市場恐慌の特殊な契機である。こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる「至上の善」は貨幣、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるという、まさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、たんなる華美と飽食として現れる〉  (『資本論』学ぶ会ニュース NO.46 2000年10月9日)


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by shihonron | 2007-04-16 00:00 | 学習会の報告
2007年 04月 09日

第53回  4月3日  復習

4月3日(火)に第53回の学習会を行いました。「読む会通信」№242を使って前回の復習をしましたが、時間切れで最後まで終わりませんでした。


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by shihonron | 2007-04-09 00:00 | 学習会の報告