『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧


2007年 06月 30日

第64回  6月26日  第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾

6月26日(火)に第64回の学習会を行いました。「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾」の第2段落から第8段落までを輪読、検討しました。(第63回で輪読、検討した第1段落についてもあわせて報告します。)
 前回議論になった第1節 第21段落の「しかし、貨幣そのものはここではただ価値の一つの形態として認められるだけである。」 の原文は以下のとおりです。

Aber das Geld selbst gilt hier nur als eine Form des Werts, denn er hat deren zwei. Ohne die Annahme der Warenform wird das Geld nicht Kapital.

gilt [ギルト](geltenの3人称単数の現在形,2人称単数の命令形)

マルクス・エンゲルス著作集(ドイツ語)

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾 
   

第1段落
・貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通過程は、商品や価値や貨幣の流通そのものの性質について以前に展開されたすべての法則に矛盾している。
・この流通形態を単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順序が逆になっていることである。
・では、どうして、このように純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか?

●「貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通過程」について、G―W―G’のことだという発言がありましたが、これに対して、ここでは形態を取り上げて問題にしているのだから、価値量の増大については度外視して G―W―G とした方がよいとの意見が出されました。資本としての貨幣の流通と単純な商品の流通の差異は、前者が 買い―売り(売るために買う)、後者が売り―買い(買うために売る)である。そのかぎり、それは売りと買いの順序が逆になっているという純粋に形態的な差異でしかないというものです。

●「商品や価値や貨幣の流通そのものの性質について以前に展開されたすべての法則」とはどういう内容かという疑問が出されました。さしあたり、商品の価値はその生産に必要な社会的労働の量によって規定され、商品の価値の大きさが商品の交換比率を規制するということだと理解しておこうということになりました。

第2段落
・それだけではない、このような逆転が存在するのは、互いに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにとってのことである。
・資本家としては私は商品をAから買ってまたBに売るのであるが、ただの商品所持者としては、商品をBに売って次にAから買うのである。
・取引仲間のAとBにとってはこのような相違は存在しない。
・彼らはただ商品の買い手かまたは売り手として姿を現すだけである。
・私自身も、彼らにたいしてはそのつどただ貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対するのであり、しかも、私は、どちらの順序でも、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方にはただ貨幣として、他方にはただ商品として、相対するだけであって、どちらの人にも資本または資本家として相対するのではない。
・すなわち、なにか貨幣や商品以上のものとか、貨幣や商品の作用以外の作用をすることができるようなものとかの代表者として相対するのではない。
・私にとっては、Aからの買いとBへの売りとは、一つの順序をなしている。
・しかし、この二つの行為の関連はただ私にとって存在するだけである。
・Aは私とBとの取引にはかかわりがないし、Bは私とAとの取引にはかかわりがない。
・もし私が彼らに向かって、順序の逆転によって私が立てる特別な功績を説明しようとでもすれば、彼らは私に向かって、私が順序そのものを間違えているのだということ、この取引全体が買いで始って売りで終わったのではなく逆に売りで始って買いで終わったのだということを証明するであろう。
・じっさい、私の第一の行為である買いはAの立場からは売りだったのであり、私の第二の行為である売りはBの立場からは買いだったのである。
・これだけでは満足しないで、AとBは、この順序全体がよけいなものでごまかしだったのだ、と言うであろう。
・Aはその商品を直接にBに売るであろうし、Bはそれを直接にAから買うであろう。
・そうすれば、取引全体が普通の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの立場からは単なる売り、Bの立場からは単なる買いになる。
・だから、われわれは順序の逆転によっては単純な商品流通の部面から抜け出てはいないのであって、むしろ、われわれは、流通にはいってくる価値の増殖したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである。

★マルクスは、売りと買いとの順序の逆転によっては、単純な商品の流通の部面から抜けでしていないという。なぜなら、一つ一つの取引(私とAとの取引、私とBとの取引)は単なる買いや単なる売りであり、順次の逆転は私についてのみいえることで、一方の買いは他方の売りであり、その逆も言えるからである。AとBにとっては、取引の内容は、Aの商品の価格が実現されAは貨幣を手に入れ、最初Aの手にあった商品をBが入手したということである。これは、AとBが直接に取引した場合にもいえることである。第1段落では〈純粋に形態的な相違によって過程の性質が変るのか〉と問題を立て、第2段落では、売りと買いとの順序の逆転は単純な商品流通の部面から抜け出てはいないことを確認し、《流通にはいってくる価値の増殖したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうか》という形で問題を再設定している。

第3段落
・流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。
・二人の商品所持者が互いに商品を買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払日に決済するという場合は、常にそれである。
・貨幣はこの場合には計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役立ってはいるが、商品そのものに物として相対してはいない。
・使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方とも利益を得ることができるということは、明らかである。
・両方とも、自分にとって使用価値としては無用な商品を手放して、自分が使用するために必要な商品を手に入れるのである。
・しかも、これだけが唯一の利益ではないであろう。
・ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく、穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産するであろう。
・また、穀作農民 Bは、同じ労働時間でぶどう栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するであろう。
・だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、ぶどう酒や穀物を自分自身で生産しなければならないような場合二比べれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を、Bはより多くのぶどう酒を手に入れるのである。
・だから、使用価値に関しては、「交換は両方が得する取引である」とも言えるのである。
・交換価値のほうはそうではない、
・「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らの間で50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手に入れた価値と等しい価値をすでに交換以前に持っていたのだからである。」

■《流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。》は、フランス語版では《われわれは流通現象を、それが単なる商品交換として現われる形態においてとりあげてみよう》となっている。また、別の訳では《単なる商品交換としての外観をとる形を考えてみよう》となっていることが紹介されました。

■計算貨幣について大谷禎之介氏は次のように述べている。
《価格の度量標準は、価格である観念的な金量を測るばかりでなく、貨幣である実在の金そのものを計量するのにも用いられるから、貨幣の度量標準でもある。それは、いわば、金量を測る物差しである。商品の価格で表象されている金であれ、価格である現実の金であれ、およそ金量を言い表すために金の諸量が度量システムとなっているとき、金は計算貨幣として機能しているという》(『図解社会経済学』95頁)
 また、『資本論辞典』では《…すべての商品はその交換価値をいい洗わすそい、貨幣名でいい表わすことになる。これを貨幣の側からいえば、貨幣は計算貨幣として役立つことになる。計算貨幣というのは、貨幣が価値尺度として機能し、さらに価格の度量標準として機能するという二つの機能にもとづくものである。この二つの機能が結びついて計算貨幣という機能が形成されるのであって、この二つの機能にたいして第三の機能として計算貨幣という機能があるわけではない。》(131-132頁 三宅義夫)と書かれている。

●具体的な例を上げてみようということになりました。穀作農民がぶどう栽培者から5000円のぶどう酒を、ぶどう栽培者が穀作農民から8000円の小麦を掛買し、支払日に3000円の差額を決済した場合に、5000円分のぶどう酒と小麦は、単なる商品交換としての外観をとったといえる。

●交換者たちが使用価値において利益を得ることについて、自分の欲望を充足させるのに必要な使用価値を手に入れるという「質」の問題とともに、分業による労働生産性の向上という「量」の問題についても書いているのは興味深いとの感想が出されました。

第4段落
・貨幣が流通手段として商品と商品との間にはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれていても、事態にはなんの変わりもない。
・商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである。

★直接の商品交換でなく、貨幣が媒介するようになっても《使用価値に関しては、「交換は両方が得する取引である」とも言えるのである。交換価値のほうはそうではない》ということは変らない。

第5段落・抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他のある使用価値と取り替えられるということの他に、単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。
・同じ価値が、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所有者の手の中に、最初は彼の商品の姿で、次にはこの商品が転化する貨幣の姿で、最後にはこの貨幣が再転化する商品の姿で、とどまっている。
・この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない。
・そして、商品の価値そのものがこの過程で経験する変転は、その貨幣形態の変転に限られる。
・この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはある貨幣額、といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として存在する。
・この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものではないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソブリン貨や半ソブリン貨やシリング貨と両替えする場合のようなものである。
・こうして、商品の流通がただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、商品の流通は、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすのである。
・それだから、価値がなんであるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが一致するということ、すなわちおよそそれらの作用がなくなるということを前提しているのである。
・だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがありうるとしても両方が交換価値で得をするということはありえないのである。
・ここては、むしろ、「平等のあるところに利得はない」ということになるのである。
・もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる。
・その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値を増やす手段ではないのである。

★「抽象的に考察する」とは、理論的に考察すると言い換えられるように思える。現実には、さまざまな事情によって事態は理論が示すとおりではないことが多いのだが、さまざまな偶然的攪乱要因を捨象することで純粋に考察することができる。

■《物理学者は、自然過程を、それが最も典型的な形態で、またそれが撹乱的な影響によってかき乱されることが最も少なく現れるところで、観察するか、あるいはそれが可能な場合には、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行う。私がこの著作で研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所はこんにちまでのところイギリスである。これこそ、イギリスが私の理論的展開の主要な例証として役立つ理由である。しかしもしドイツの読者が、イギリスの工業労働者や農業労働者の状態についてパリサイ人のように眉をひそめるか、あるいは、ドイツでは事態はまだそんなに悪くなっていないということで楽天的に安心したりするならば、私は彼にこう呼びかけなければならない、“おまえのことを言っているのだぞ! De te fabula narratur! ”と。》(第1版序文)
《分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。そこでとにかくことが進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、変則的にはこの形態変換で実体――価値量――が減らされたり加えられたりすることがあるにしても、つねに行なわれているのである。》(第3章 第2節 流通手段 a 商品の変態 第11段落 )

■「平等のあるところに利得はない」の「平等」は、他の訳では「対等性」とか「相等しければ」と訳されている。

第6段落
・それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようという試みの背後には、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。たとえばコンディャックの場合には次のようである。
・「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。……もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。……なぜか? 諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望に対する物の関係にある。一方にとってはより多く必要なものは、他方にとってはより少なく必要なのであり、またその逆である。……われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは当然だった。……しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。」

■コンディヤック  1715‐80
フランスの哲学者。法服貴族マブリ子爵を父としてグルノーブルに生まれた。パリで神学を学び,1740 年僧職につく。当時まだ無名のディドロ,ルソーたち新時代の知識人と親しく交わった。 58 年から 9 年間ルイ 15 世の孫,大公子フェルディナンの家庭教師としてイタリアのパルマに滞在,のちにその《講義録》 (1775) を出版した。 67 年に帰国,翌年フランス・アカデミーの会員に選ばれた。晩年はボジャンシーの近くの田園に隠棲した。哲学的主著には,《人間認識の起源に関する試論》 (1746) と《感覚論》(1754) がある。前者ではロックの学説を継承し,人間の認識の起源として感覚と反省の二つを認める立場をとった。しかし後者では,この立場をさらに徹底させ,人間の精神活動のいっさい (記憶,判断,欲望) を感覚の変形として一元的に説明した。この理論を証明するために彼が構想したのが, 〈私たちと同じように内部が組織されている〉立像で,この立像に順次賦与した嗅覚,聴覚,味覚,視覚,触覚の組合せによってしだいに精神的機能が形成されていく様相を,思考実験的に示した。なお彼は当時のエコノミストと直接のかかわりはなかったが,その著書《商業と統治との相関的考察》 (1776) によって,近代経済学の創始者の一人とみなされている。
(中川 久定 世界大百科事典)

第7段落
・これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値を混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会とすりかえて、生産者が自分の生産手段で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである。
・それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。
・ことに、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。
・たとえば、次のように言う。
・「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。
・したがって、商業は文字どおりに(strictly)」生産行為とみなされなければならない。

■strict・ly   ━━ ad. 厳しく; 厳密に.  ・strictly speaking 厳密にいえば. 
                           (エクシード英和辞典)

第8段落・しかし、人々は商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない。
・また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがもっと有用だとすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用である。
・そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか? 
・また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字通り(strictly)一つの「生産行為」を行なうのだ、とも言えるであろう。

★商業は生産行為だと主張する人々に対して、売り手が生産行為を行なうと言うのであれば、買い手は売り手にとってより有用な貨幣をもたらす(売り手の商品を貨幣に転化する)のだから、買い手もまた生産行為を行なうとも言えるではないかとマルクスは批判している。


[PR]

by shihonron | 2007-06-30 00:00 | 学習会の報告
2007年 06月 26日

第63回  6月19日  第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式

6月19日(火)に第63回の学習会を行いました。「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式」の第20段落から最後(第25段落)までと「第2節 一般的定式の矛盾」の第1段落を輪読、検討しました。(第2節については次回まとめて報告します。)

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式 
   

第20段落
・諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。
・これに反して、流通G―W―Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々な存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわば仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。
・価値は、この運動のなかで消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。
・自分を増殖する価値がその生活の循環の中で交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。
・しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。
・なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。
・価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘的な性質を受け取った。
・それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである。

■《諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態》の「独立な形態」は、長谷部訳では「自立的な形態」となっている。

■「存在様式」は、長谷部訳では「実存様式」となっている。

●《資本は貨幣である、資本は商品である、という説明》について「これは間違った説明だ」との発言があり、これに対して「資本は、貨幣や商品の形態をとるのであり間違っているというのはどうか」との意見が出されました。最初の発言者は「この箇所につけた注で引用されているマクラウドは《生産的目的のために使用される通貨は資本である》と言い、ジェームス・ミルは《資本は商品である》と言っている。どちらも資本の一つの形態をとらえて、それが資本だと主張するのは正しくない説明だと述べているのではないか」と答えました。

■《この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。》は、長谷部訳では次のようになっている。
《この過程においては、価値が貨幣形態と商品形態とのたえざる変換のもとでその大いさそのものを変じ、本源的価値としての自分じしんから剰余価値としての自分をうち出汁、自分じしんを増殖するのである。》(131頁)

●単純な商品の流通 W―G―W については「第3章 貨幣 第2節 流通手段 a 商品の変態」でも取り上げられていた。その運動(変態)の主体は商品であったといえるのではないかとの発言がありました。

第21段落
・このような過程のなかで価値は貨幣形態と商品形態とを取ったり捨てたりしながらしかもこの変換のなかで自分を維持し自分を拡大するのであるが、このような過程の全面をおおう主体として価値はなによりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されなければならないのである。
・そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。
・それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。
・それは100ポンド・スターリングだった、それは今では110ポンドである、等々。
・しかし、貨幣そのものはここではただ価値の一つの形態として認められるだけである。・というのは、価値はその二つの形態をもっているからである。
・商品形態をとることなしには、貨幣は資本にはならない。
・だから、貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらないのである。
・資本家は、すべての商品が、たとえそれがどんなにみすぼらしく見えようとも、どんなにいやな臭いがしようとも、内心と真実とにおいては貨幣であり、内的に割礼をうけたユダヤ人であり、しかも貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡を行なう手段であるということを知っているのである。

■「全面をおおう主体」は、長谷部訳では「支配的主体」となっている。

■《貨幣そのものはここではただ価値の一つの形態として認められるだけである》は、長谷部訳では《貨幣そのものは、ここでは価値の一つの形態としてのみ意義をもつ》となっている。

●「認められる」「意義をもつ」の原文は、おそらくgeltenだろうとの発言がありました。日本語では「通用する」「妥当する」と訳されることもある。

■gel・ten*  [ltnゲルテン]  〔(現在形)du giltst, er gilt(過去形)galt(過去分詞)gegolten〕
1(自動詞)
【1】効力がある,有効である,通用する
Ihr Pass gilt nicht mehr.あなたのパスポートはもう無効です
Das gilt nicht.(ゲームなどで)それは反則だ
《für+(4格の名詞)と》Das Gesetz gilt für alle Bürger.その法律はすべての市民に適用される
Das gilt auch für dich! それは君の場合も同じだ!
《von+(3格の名詞)と》Das Gleiche gilt auch von ihm.同じことは彼についても言える
【2】(alsまたはfür ...)〔…と〕見なされている,〔…で〕通っている
Er gilt als(またはfür)klug.彼は賢いと思われている
Er gilt als ein nüchternerMann.彼は冷静な男とみなされている((参考)alsのあとには1格の名詞や形容詞,fürのあとには4格の名詞や形容詞がくる)
【3】((3格の名詞))〔…(3格)に〕向けられている
Diese Worte gelten ihm.その言葉は彼に向けられている
◆(4格の名詞)+gelten lassen…(4格)を承認する
Ich lasse diese Erklärung nicht gelten.私はこの釈明を認めない
2(他動詞)((4格の名詞))〔…(4格)に〕値する,〔…(4格)の〕価値がある
Diese Münze gilt 30 Mark.この硬貨は30マルクの価値がある
Sein Wort gilt bei uns wenig.彼の言うことはわれわれの間では信用がない
Was gilt die Wette? 何を賭けようか?
3(非人称動詞)
【1】(zu不定詞句)〔…することが〕重要である
Jetzt gilt es zu zeigen, dass du ein Mann bist.今こそ君が男だということを示すべきだ
【2】((4格の名詞))(文語)〔…(4格)に〕かかわる
Es gilt das Glück deiner Familie.君の家族の幸せにかかわることだ
(三修社「アクセス独和辞典」 http://www5.mediagalaxy.co.jp/sanshushadj/)

●《貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらない》の「対抗的態度」とはどういう意味かとの疑問が出され、貨幣蓄蔵においては貨幣形態を固持する、けっしてそれで商品を購入しないということだろうという結論になりました。


第22段落
・単純な流通では、商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立な形態を受け取るだけであるが、その価値はこでは、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現われるのであって。この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。
・だが、それだけではない。
・いまや価値は、諸商品の関係を表わしているのではなく、いわば自分自身にたいする私的な関係にはいるのである。
・それは、原価値としての自分を剰余価値としての自分自身から区別する。
・つまり父なる神としての自分を子なる神としての自分自身から区別するのであるが、父も子も同じ年なのであり、しかも実は両者は一身なのである。
・なぜならば、ただ10ポンド・スターリングという剰余価値によってのみ、前貸しされた100ポンドは資本になるのであって、それが資本になるやいなや、すなわち子が生まれて子によって父が生まれるやいなや、両者の区別は再び消えてしまって、両者は一つのもの、110ポンドであるからである。

★資本としての貨幣の流通 G―W―G’においてはは、価値は自分自身で運動する実体である。単純な商品の流通 W―G―W において貨幣は商品の使用価値に対立する、商品の価値の独立的表現(いわば商品の影)でしかなかったが、今や価値そのものが主体となり、商品や貨幣という形態をとる。

★「価値は、諸商品の関係を表わしているのではなく、いわば自分自身にたいする私的な関係にはいる」とはどういうことか? 労働生産物は、他の労働生産物との交換関係のなかで商品になる。交換関係は、価値としての関係であり、価値は商品と商品の関係(物理的とか化学的などの自然的関係ではなく社会的関係)を表わしているといえるのではないか。《自分自身にたいする私的な関係》ではなく、他の商品との社会的な関係を表わしていると理解できるのではないか。

■《商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろものだということによって、マダム・クイックリとは違っている。商品体の感覚的に粗雑な対象性とは正反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸表現であるかぎりでのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であるということを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現われえないということもまたおのずと明らかである。われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価値を追跡したのである。いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない。》(「第1章 第3節 価値形態または交換価値」の第2段落 国民文庫93頁・原頁62) 

第23段落
・つまり、価値は、過程を進みつつある価値、課程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。
・それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始めるのである。
・G―G’、貨幣を生む貨幣――money which begets money――、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である。

■「資本の最初の通訳、重商主義者たち」は、長谷部訳では「資本の最初の通弁たる重商主義者たち」となっている。

第24段落
・売るために買うこと、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G―W―G’は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに特有な形態のように見える。
・しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。
・買いと売りとの中間で、すなわち流通過程の外で行なわれるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。
・最後に利子生み資本では、流通G―W―G’は、短縮されて、媒介のない結果として、いわば簡潔体で、G―G’として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きい価値として、現われる。

●ここで本文でははじめて「産業資本」が登場するとの指摘がありました。

■《産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。》は、長谷部訳では《産業資本もまた、貨幣――みずから商品に転形し、そして商品の販売によって、みずからをより多くの貨幣に再転化する貨幣――である。》となっている。

●「商人資本」について前期的資本のみをさしているのだろうか、「商業資本」と区別してこの言葉が使われているのだろうかの疑問が出され、調べてみることになりました。

■『資本論辞典』(青木書店)の「商業資本」の項目では「〈商業資本〉および〈商人資本〉という用語も、同じ意味のものとして使用されているとみてよい。」と書かれています。(253頁)

■シスモンディ  1773‐1842
スイスの経済学者,歴史家。シモンド・ドゥ・シスモンディが姓であるが,ふつうはシスモンディとよばれる。経済学史上,古典派とロマン派の境界に位置する。ジュネーブの上流階級に属する新教徒牧師の家に生まれたが,フランス革命の政治的・経済的衝撃によって地位と財産を失った一家は,一時イギリスに,ついでイタリアに亡命し,トスカナのペッシャに定住する。しかし,シスモンディの政治家,思想家としての活動の場所は,革命後のジュネーブとパリであり,死んだのはジュネーブ近郊であった。経済学においては,彼はアダム・スミスの信奉者として出発するが,ヨーロッパ各国で恐慌のなかにある労働者の窮乏をみたり,イギリスでロバート・オーエンに会ってその影響をうけたりして,主著《経済学新原理》2 巻 (1819) では資本主義批判に転じた。彼の対策は,独立小生産者の社会の再建であったので,小市民的あるいはロマン主義的反動とよばれることがあるが,最初のリカード派社会主義者という評価もある。ほかに,《中世イタリア諸共和国史》16 巻 (1807‐18), 《フランス史》31 巻 (1821‐44) など著書多数。  (水田 洋 世界大百科事典)

■「マルクスは古典派経済学の始めと終わりの代表者を、イギリスにおいてペティとリカード、フランスにおいてはポアギュベールとシスモンディにもとめ、シスモンディをリカードに対応させて評価している。《リカードにおいて経済学がおそれることなく、その最後の結論をひきだし、それをもって終結をつげたとすれば、シスモンディは、経済学の自己自身に対する疑惑を表明することによって、この終結を補完したのである。》」
(『資本論辞典』494頁)


■ペティ William Petty 1623‐87
イギリスの経済学者,統計学者。はじめ船乗りであったが,1643 年大陸に渡り医学と数学を学び,帰国後オックスフォード大学の解剖学の教授。 52 年,クロムウェルのアイルランド派遣軍の軍医として従軍,さらにアイルランドの没収地の測量〈ダウン・サーベー〉の仕事を行った。 62 年王立協会会員。主要著作は《租税貢納論》(1662),《政治算術》 (1690), 《アイルランドの政治的解剖》 (1691) だが,特に《政治算術》において,〈数と量と尺度〉を用いる議論によってイギリスとフランスの国力比較を試みた。これによって彼は〈政治算術〉なる学問の創始者となったが,また国富の推定にあたって労働を価値の尺度と考え,余剰利得という概念をも提起したことから,マルクスによって〈経済学の最初の形態〉と呼ばれるにいたった。しかし,土地または自然にも価値を生む力があると考えていた点では,労働価値論としては不十分さを残している。友人のJ.グラントとともに〈近代統計学の父〉ともいわれる。 竹内 啓+ 浜林 正夫  (世界大百科事典)

■ リカード David Ricardo 1772‐1823
古典派経済学の完成者とみなされ,今日にも大きな影響力を及ぼしているイギリスの経済学者。オランダ生れのユダヤ教徒の株式仲買人の子としてロンドンに生まれ,初等教育だけで 14 歳から父の見習として働いたが, 1793 年クエーカー教徒との結婚のため父に義絶された。その後独立の株式仲買人となり,とくに公債引受人として成功し,大きな財産を築いた。 1819 年 42 歳のとき,イギリス南西部のグロスターシャーの土地を購入して事業を退き, 地金論争 (1809‐12) ころからしだいに関心を強めていた経済学面での研究・文筆生活にはいったが,主著刊行時と同様,J.ミルの強制に近いまでの勧告によって同年下院議員となり,耳疾の悪化で急死するまで,その地位にとどまった。
 リカードは,職業柄,初めから金融問題を中心に経済問題に関心をもっていたはずだが,その関心に弾みを与えたのは,1797 年夫人の病気療養のために赴いたバース温泉で偶然接した A.スミスの《国富論》だったといわれる。 1809 年,当時の兌換 (だかん) 停止下での物価騰貴問題について《モーニング・クロニクル》紙に〈金の価格〉を寄稿,翌 10 年それを整理・再編成したパンフレット《地金の高価格》を公刊して,兌換停止が物価騰貴の原因だとして当時のイングランド銀行の不換銀行券の過剰発行を批判し,兌換の再開を求めたが,これが同年発表された《地金委員会報告書》と同一線上のものだったため,一躍経済学者として注目されるようになった。引き続く穀物法論争 (1813‐15) 時には, J.ミルの強い影響下にパンフレット《低廉な穀物価格が資本の利潤に及ぼす影響についての一試論》 (通称《利潤論》) を著して穀物法を擁護するマルサスを批判し,穀物の輸入制限は穀価騰貴=賃金騰貴によって利潤の減少と地代の増加をもたらすから,地主階級の利害と資本家・労働者階級の利害とは対立するとして, 差額地代論を中心に,価値論を除く,主著《経済学および課税の原理》(1817) の長期動態論の主要骨格を提示し,穀物の自由貿易への漸次的移行を提唱した。主著で展開された投下労働価値論からはリカード派社会主義やマルクス経済学が生まれ,また彼の差額地代論からはやがて土地国有化論が生まれた。 P.スラッファ編 (M.ドッブが協力) の《リカード全集》 (1951‐73) がある。     早坂 忠 (世界大百科事典)


第25段落
・要するに、実際に、G―W―G’は、直接に流通過程に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。

▼7月1日に、誤字脱字を訂正しました。


[PR]

by shihonron | 2007-06-26 00:00 | 学習会の報告
2007年 06月 16日

第62回  6月12日  復習

6月12日(火)に第62回の学習会を行いました。前回と前々回の復習のみで終わりました。


[PR]

by shihonron | 2007-06-16 00:00 | 学習会の報告
2007年 06月 12日

第61回  6月5日  第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式

6月5日(火)に第61回の学習会を行いました。「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式」の第12段落から第19段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式  
  

第12段落
・形態W―G―Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。
・売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。
・商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始る総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わる。
・形態G―W―Gでは、逆である。
・ここでは、二度場所を変えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。
・買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。
・単純な商品の流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。

●前回の図示でいえば、W―G―Wでは、貨幣はA→B B→Cと二度場所を替える。
G―W―Gでは、商品がA→B B→Cと二度場所を替える。貨幣(同じ貨幣片ではないが)は、B→A C→Bと場所を替える。貨幣は、最初の出発点Bの手に還流する。

第13段落
・その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。
・この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。
・還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G―W―Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。
・要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。

●《これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。》の「これ」とは何かという疑問が出され、「還流」だろうという結論になりました。また「単なる貨幣としてのその流通」とは、単純な商品流通における貨幣の流通のことであり、それは出発点に還流することはないということを確認しました。

■《労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態、W―G―Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。それゆえ、このような商品の運動は循環である。他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。…商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、または貨幣の流通(currency,cours de la monnaie)である。》(「第3章第2節流通手段 b 貨幣の流通」 国民文庫204-205頁・原頁128-129)

第14段落
・ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W―G―Wは完全に終わっている。
・それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。
・もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。
・私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。
・それは衣服商人のものである。
・そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。
・その貨幣は私が第二の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れていく。
・だから、流通W―G―Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのである。
・これに反して、G―W―Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。
・この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。
・というのは、過程の第二の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。

●《そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。》と述べられているが、「還流」という言葉は、元のところへもどるという意味だ。ここで「還流」という言葉を使うのは不適切ではないかとの意見が出されました。

第15段落
・循環W―G―Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で集結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。
・それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。
・これに反して、循環G―W―Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。
・それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。

■長谷部訳では「推進的動機および規定的目的」(158頁)、フランス語版では「その動機、決定的な目的」(132頁)となっている。

第16段落
・単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。
・それはどちらも商品である。
・それらはまた同じ価値量の商品である。
・しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。
・生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材転換が、ここでは運動の内容をなしている。
・流通G―W―Gではそうではない。
・この流通は一見無内容に見える。
・というのは同義反復的だからである。
・どちらの極も同じ経済的形態をもっている。
・それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。
・なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。
・まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣と貨幣を、同じものと同じものとを交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える。
・およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することのできるのは、ただその大きさの相違によってである。
・それゆえ、過程G―W―Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容を持つのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。
・最後には、最初に流通に投げ込まれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。
・たとえば、100ポンド・スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ポンドで再び売られる。
・それゆえ、この過程の完全な形態は、G―W―G’であって、ここでは G’=G+ΔG である。
。すなわちG’は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。
・この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ。
・それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。
・そしてこの運動がこの価値を資本に転化させるのである。

★単純な商品の流通 W―G―W の目的は、自分が必要とする使用価値を手に入れることにある。最初のWと最後のWは経済的形態においてはともに商品ではあるが、異なった使用価値である。他方、資本としての貨幣の流通 G―W―G’の目的は、最初の貨幣Gよりも多くの貨幣G’を手に入れることにある。価値増資よくという運動が、価値(貨幣)を資本に転化させる。

第17段落
・もちろん、W―G―Wで両極のWとW、たとえば穀物と衣服とが、量的に違った価値量であるということもありことである。
・農民が自分の穀物を価値よりも高く売ったり衣服をその価値よりも安く買ったりすることもありうる。
・また彼のほうが衣服商人にだまされることもありうる。
・とはいえ、このような価値の相違はこの流通形態そのものにとってはまったく偶然である。
・この流通形態は、その両極、たとえば穀物と衣服とが互いに等価物であっても、けっして過程G―W―Gのように無意味になってしまいはしない。
・両極が等価だということは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである。

★単純な商品の流通W―G―Wにあっては、最初のWと最後のWが質的に異なった使用価値である。その実質的な内容は、一商品とと他の一商品との交換である。ここでは、等価交換が正常な経過の条件である。

第18段落
・買うために売ることの反復または更新は、この過程そのものがそうであるように、限度と目標とを、過程の外にある最終目的としての消費に、すなわち特定の欲望の充足に、見いだす。
・これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。
・たしかに、GはGプラスΔGになり、100ポンド・スターリングは100・プラス・10ポンドになっている。
・しかし、単に質的に見れば、110ポンドは100ポンドと同じもの、すなわち貨幣である。
・また量的に見ても、110ポンドは、100ポンドと同じに一つの限定された価値額である。
・もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその役割からはずれてしまうであろう。
・それは資本ではなくなるであろう。
・流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に化石して世界の最後の日までしまっておいてもびた一文もふえはしない。
・つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は110ポンドの場合も100ポンドの場合も同じことである。
・なぜならば、両方とも交換価値の限定された表現であり、したがって両方とも量の拡大によって富そのものに近づくという同じ使命を持っているからである。
・たしかに、はじめに前貸しされた価値100ポンドは、流通でそれに加わる10ポンドの剰余価値からは一瞬区別されるにちがいないが、しかしこの区別はすぐにまた消えてなくなる。
・過程の終わりには、一方の側に100ポンドの価値が出てきて他方の側に10ポンドの剰余価値が出てくるのではない。
・出てくるものは、110ポンドという一つの価値であって、それは、最初の100ポンドとまったく同じに、価値増殖過程を始めるのに適した形態にあるのである。
・貨幣は運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。
・それゆえ、売りのための買いが行なわれる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしているのである。
・単純な商品流通――買いのための売り――は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。
・これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。
・というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。
・それだから資本の運動には限度がないのである。

■フランス語版では次のようになっている。
《他の商品を購買するための、商品販売の更新あるいは反復は、流通の外部で、消費上の限界、特定な必要をみたす上での限界に出会う、これに反して、販売のための購買では、始めも終わりも貨幣、交換価値という、同一の物であり、それの同一性そのものが、運動に終わりのないようにさせている。》(135頁)

★消費の対象はある量の(特定の質を持った)使用価値である。消費が目的であれば、食べきれないで腐らせてしまうほどの食料や着ることのできないほど大量の衣服を買う人はいない。また人はその欲望に応じて特定の使用価値を買う。

★資本としての貨幣の流通G―W―G’は、Gで始りG’で終わるが、G’もまたGと同じく貨幣であり次の循環の始めとなる。G’は一つの限定された価値額であり、価値増殖可能なものである。

●「貨幣として支出される」と書かれていることについて議論があり、それは資本としての貨幣としてではなく「単なる貨幣」としてということだろうという結論になりました。

●「価値増殖過程という言葉が出てくるが、ここまでの叙述ではその内容は展開されていない」との発言がありました。また、「産業資本家が売るために買うのは、生産手段と労働力ということになるが、ここでは、労働力などではない普通の商品について述べているように思えるが、そうした理解で良いのだろうか」との疑問が出されました。
これに関連して、「ここでは安く買って高く売る商人資本について書かれているように見えるが、そうではないのではないか。資本としての貨幣の流通G―W―G’は、資本主義社会での資本の運動から抽象したものととらえることができる。そしてそれは、抽象されたものだから商人資本についてもあてはまるととらえられるのではないか」との発言がありました。

★「資本としての貨幣の流通は自己目的である」とは、資本の運動は過程の外に目的を持たず、ただ過程の反復による自己増殖を無限に繰り返す(繰り返そうとする)ことを指している。「目的」の反対は「手段」だが、単純な商品流通(買いのための売り)が特定の欲望の充足のために使用価値を手に入れる手段であるのに対して、資本としての貨幣の流通の目的は価値増殖であり、それは繰り返される資本の運動(資本としての貨幣の流通)によってのみ可能となる。

第19段落
・この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。
・彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。
・あの流通の客観的内容――価値の増殖――が彼の主観的な目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として機能するのである。
・だから、使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。
・個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである。
・この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。
・価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げ込むことによってそれをなしとげるのである。

★資本家とは、資本の運動の意識ある担い手であり、人格化され意志と意識とを与えられた資本である。


[PR]

by shihonron | 2007-06-12 04:00 | 学習会の報告