『資本論』を読む会の報告

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2007年 07月 31日

第69回 7月31日 第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買

7月31日(火)に第69回の学習会を行いました。「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買」の第10段落から第18段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買 
    

第10段落
・そこで、この独特な商品、労働力が、もっと詳しく考察されなければならない。
・他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている。
・この価値はどのように規定されるであろうか?

★「独特な商品」といわれているが、どんな点で独特なのだろうか? 労働力は労働生産物ではないということ、一定の時間を限ってのみ売られるということか。この後での叙述も踏まえて振り返ってみる必要があると思える。 

第11段落
・労働力の価値は、他のどの商品とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。
・それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。
・労働力は、ただ生きている個人の素質としてのみ存在するだけである。
・したがって、労働力の生産はこの個人の存在を前提する。
・この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼の再生産または維持である。
・自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。
・だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。
・言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。
・だが、労働力は、ただその発揮によってのみ実現され、ただ労働においてのみ実証される。
・しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。
・この支出の増加は収入の増加を条件とする。
・労働力の所有者は、今日の労働を終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければならない。
・だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。
・食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。
・他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり。したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活欲求をもって形成されたか、によって定まるものである。
・だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。
・とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。

●「労働力の生産」と「労働力の再生産」に何か区別があるのだろうかとの疑問が出されました。

第12段落
・労働力の所有者は死を免れない。
・だから、貨幣の資本への連続的転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」、やはり生殖によって永久化されなければならない。
・消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければならない。
・だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子どもの生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化される。

●《労働者の子どもの生活手段を含んでいる》と述べられているが、子どもだけではなく、労働者の妻の生活手段も含まれているのではないかとの意見が出されました。

■注46のR・トレンズからの引用では「(労働の自然価格は)…労働者を維持するために、また市場で減少しない労働供給を保証するだけの家族を彼が養うことを可能にするために、一国の気候や習慣に応じて必要になる生活手段と享楽手段との量である」と述べられている。

第13段落
・一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。
・労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。
・だから、この修行費は、普通の労働者についてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産のために支出される価値のなかにはいるのである。

★商品等価物とは、ここでは貨幣のことだと思われる。養成や教育のためには教材費やテキスト代、授業料などが必要だということだろう。

■この箇所はフランス語版では次のようになっている。
《他方、特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特定の方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってはきわめてわずかであるとはいえ、労働力の生産に必要な商品の総計のなかにはいるのである。》(160頁)

●現在ではOJT(オンザジョブトレーニング 仕事の現場で、業務に必要な知識や技術を習得させる研修。現任訓練)が多く採り入れられているが、それをどう考えればいいのだろうとの疑問が出されました。これに関連して、OJTによって獲得できるのは熟練であり、熟練労働と複雑労働は区別すべきではないかとの発言がありました。

■[複雑労働は単純労働に還元される]
 《具体的労働のなかには、普通の人間が特別の発達なしに自分の肉体のうちに持っている労働力つまり単純労働力が遂行できる具体的労働(単純労働)のほかに、特別の教育を受け、特別の修行を積んだ、したがって特別の修行費を必要とする労働力つまり複雑労働力のみが遂行できるもろもろの具体的労働(複雑労働)がある。
 労働の熟練度の相違は、具体的労働の作用度の相違であって、生産物の多寡によって一義的に評価されるのに対して、単純労働と複雑労働との区別は、それを遂行する労働力に特別な修行費が必要かどうかということであって、それが遂行する労働の作用度とは無関係である。しかも、複雑労働は一般に、単純労働をいくら積み重ねてもできないような具体的労働であり、したがってその生産物も単純労働の生産物とは種類が違うので生産物量で複雑さの程度を測ることはできない。
 このような区別は、商品生産の社会ではどのように考慮されるのか。
 商品生産の社会では、ある商品所持者が特別の修行費を必要とした労働力を持っている場合、その修行費は、彼が私的に支出したものである。しかも彼はこの修行費を、自分が提供する商品との交換によらないでは回収できない。だから、この社会で複雑労働が必要とされるかぎり、複雑労働力の所持者が彼の商品の交換をつうじて修行費も回収することができなければならないのである。
 そこで、複雑労働の1時間の生産物は、単純労働の1時間の生産物よりも多くの価値をもつものとして通用する。複雑労働の1時間は、単純労働に還元されれば、単純労働の何倍かの時間に相当することになる。つまり、複雑労働は、単純労働よりも高い力能をもつ労働として通用するのであり、したがって何倍かの単純労働に還元されることになるのである。
 こうして、複雑労働の力能の程度は、究極的には、それを行なうのに必要な複雑労働力の修行費の量によって規定されることになる。
 複雑労働の単純労働へのこのような換算が絶えず行なわれていることは、日常的な経験からもすぐにわかる。しかし、資本主義社会では、この換算は、たえまのない試行錯誤をともなう長期的な過程のなかで結果として実現されていくばかりでなく、のちに見る労働力の売買
つうじての複雑な過程を経て行なわれるものであり、したがって、それぞれの複雑労働が単純労働に還元される比率は、生産者たちにとっては、彼らの背後で確定されるもの、習慣によって与えられるもののようにしか見えない。》(大谷禎之介『図解社会経済学』61-62頁)

第14段落
・労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。
・したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の変動に応じて変動するのである。

第15段落
・生活手段の一部、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。
・他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。
・ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならない。
・しかし、これらの支出の総額がたとえば一年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われなければならない。
・かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+etc)÷365であろう。
・この一平均日に必要な商品に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。
・すなわち、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要である。
・労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。
・また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。
・もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。
・そして、我々の前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。

★労働力は、一定の期間を限って売られるのだから、労働力の価値については、ある一定の期間の労働力の価値が問題になる。だから、ここでは1日の労働力の価値(労働力の日価値)について述べられている。

第16段落
・労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。
・もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。
・なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。
・しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。

●最初の「労働力の価値」は「労働力の価格」ではないのかとの疑問が出されました。フランス語版では《労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命を危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する》(161頁)となっており、内容としては「労働力の価格の最低限」について述べていると理解しようという結論になりました。

第17段落

・このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。
「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力(puissance de travail)を把握することは、一つの妄想(etre de raison)」を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段とを、労働者と労賃とを語るのである。」

●「ここで何が非常に安っぽい感傷なのか理解できない」との発言がありました。

■この箇所はフランス語版では次のようになっています。
《労働力の価値規定を粗野であるとみなして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働という人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金と言っているのである」。》(161頁)

第18段落
・労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。
・消化という過程のためには、丈夫な胃袋以上のものが必要である。
・労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではない。
・むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。
・もし労働能力が売れなければ、それは労働者にはなんの役にも立たないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産に一定量の生活手段を必要としたこと、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感ずるのである。
・そこで、彼は、シスモンディとともに「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのである。

★《消化という過程のためには、丈夫な胃袋以上のものが必要である》とは、胃袋にはいってくる食物、消化される対象がなければ、どんなに消化能力のある胃袋をもっていても消化という過程は始らないと言うことだろう。同様に労働もまた、労働力だけではなしえない。こうした表現でマルクスは、原材料や労働用具といった生産手段がなければ労働はできないということを示唆しているように読める。


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by shihonron | 2007-07-31 23:00 | 学習会の報告
2007年 07月 30日

第68回 7月24日 第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買

7月24日(火)に第68回の学習会を行いました。前回の復習をした後、「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買」の第4段落から第9段落までを輪読、検討しました。

●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買 
    

第4段落
・貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。

★第3段落では、貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第一の本質的な条件として、労働力の所持者が労働力を売り出すこと、そのためには労働力の所持者は「労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力の、彼の一身の自由な所持者でなければならない。」と述べられていた。

第5段落
・ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。
・彼は革なしで長靴をつくることはできない。
・彼にはそのほかに生活手段も必要である。
・未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。
・そして、人間は、地上に姿を現した最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない。
・彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。
・もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。
・生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。

●「生産手段」という言葉はここではじめて登場したのではないかとの発言がありました。これに対して第1章第1節第2段落「商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、すなわち受用の対象としてか、それとも回り道をして、生産手段としてかということも、問題ではない。」が最初に登場した箇所だとの指摘がありました。

●労働力の販売は、労働力所持者が生産手段も生活手段ももっていないという条件の下で必然となる。ここで、生産手段だけではなく生活手段ももっていないことの指摘に注目しておこうとの発言がありました。

第6段落
・だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。
・自由というのは二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。

■冒頭の「だから」は、新日本出版社版やフランス語版では「したがって」と訳されている。

●〈ドイツ語に「Vogelfrei」という単語がある。Vogelとはワンダーフォーゲルのフォーゲルで鳥という意味、freiは英語のfree と同じで自由なという意味。Vogelfreiは、鳥のように自由なということになるが、行き倒れた人を鳥が自由についばむといった意味がある。〉との発言がありました。

■ vo・gel・frei [フォーゲル・フライ](形容詞)
法律の保護外に置かれた
(4格の名詞)+für vogelfrei erklären…(4格)から法律の保護を奪う

■発言者のIさんから、後日つぎのような紹介がありました。
〈先週発言したことについて,検索してみました。
「Vogelfrei マルクス」で検索したら                 http://www.osk.3web.ne.jp/~kamamat/matusige/tuika1/roumusyagainen1.htm

《労務者》概念と差別の起源 というのが載っています。その末尾にこう書いてあります。真意は理解できない部分もありますが。

「ドイツ語では、《浮浪者》に対して「フォーゲルフライ(Vogelfrei)」という言葉があります。フォーゲルというのは鳥なんですね。フライは英語のフリー。《鳥のように自由な》というわけですが、しかし、行き倒れになって《鳥が自由についばむ》ままにゆだねられる、という意味に使われ、これが定住してない人を指します。ですから字引を引くと《鳥のように自由な》とは訳してない。《法の保護の埒外に置かれた》というんです。つまり《カゴのなかにいない》ということ。カゴのなかにいないと法律は護ってくれない。これはドイツ語としてはおもしろいことだと思うんだけども、鳥のように自由だと、いつ、どんな殺され方をしても文句はいえない。それは《無宿人》がそうでしょ。そのへんで、さっきからドイツ語のことで考えていたんです。」

資本論では第24章で,マルクスは6箇所ほど使用しています。国民文庫(3)p361,362,364,374,392,405等。特にp361「人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして云々」

ここで「無保護な」のところをドイツ語原典にあたってみましたところ,すべて vogelfrei になっています。マルクスは「生活維持手段から引き離されて」の意味で使っていると思われます。〉

第7段落
・なぜこの自由な労働者が流通部面で自分の前に立ち現れるかという問題には、労働市場を商品市場の一つの特殊な部門として自分の前に見いだす貨幣所持者は関心をもたない。
・そしてこの問題はしばらくは我々の関心事でもない。
・われわれは、事実にしがみつくという、貨幣所持者が実地にやっていることを、理論的にやるわけである。
・とはいえ、一つのことは明らかである。
・自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。
・この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的関係でもない。
・それは、明らかに、それ自身が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物である。

★さしあたりは「二重の意味で自由な労働者」の存在を所与のものとして受け取って分析を進める。それがどのように生みだされたのかについては、後に第24章「いわゆる本源的蓄積」でとりあげられることになる。

●「社会的生産構成体」というのは、「経済的社会構成体」と同じ意味なのだろうかとの疑問が出されました。結論は出ませんでしたが、この箇所は新日本出版社版では「それは明らかに、それ自身、先行の歴史的発展の結果であり、幾多の経済的変革の産物、すなわち社会的生産の全一連の古い諸構成体の没落の産物である。」(上製版289頁)、フランス語版では「それは明らかに、先行する歴史的発展の結果であり、あらゆる一連の古い社会的生産形態の破壊から生じた多数の経済的革命の産物である。」(157頁)となつている。

第8段落
・さきに考察した経済的諸範疇もまたそれらの歴史的痕跡を帯びている。
・生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包み込まれている。
・商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。
・われわれが、さらに進んで、生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、どんな事情のもとで起きるかを探究したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。
・とはいえ、このような探究は商品の分析には遠いものだった。
・商品生産や商品流通は、非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行なわれうるのである。
・生産物が商品として現われることは、社会内の分業がかなり発展して、最初は直接的物々交換に始る使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。
・しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。

●「さきに考察した経済的諸範疇」とは何かという疑問が出され、「商品、貨幣、資本ではないか」との発言がありました。

●「《交換価値に支配される》とは価値法則が貫徹することを意味しており、資本主義社会になってはじめて価値法則が社会全体をとらえるということではないか」との発言がありました。★果たしてそうか、再検討した方がいいように思えます。

■ 社会構成体 しゃかいこうせいたい Gesellschaftsformation[ドイツ]
 史的唯物論の立場から社会発展を世界史的に把握する際の基本概念。発展段階あるいは歴史の時代区分にも相当する。 経済的社会構成体ökonomische Gesellschaftsformationあるいは社会経済構成体sozialökonomische Formation ともいう。人間は生きていくために,彼自身の意志を超えて与えられている一定の社会関係にはいらねばならない。この関係の基本が生産関係であり,これは,その時代に相応する発達程度の生産力に照応している。こうした生産諸関係の総体が社会の経済的構造であり,いわば土台 Basis (下部構造 Unterbau) である。政治的・法律的諸制度や社会的諸意識形態すなわちイデオロギーあるいは固有の文化などは,いわば上部構造Überbau であって,こうした土台のうえにのみ成立し,そこからさまざまな規定や制約を受ける。そこで,その時代に相応する生産諸力が特性的な経済的構造に編成されるしかたを生産様式と呼ぶとすれば,生産様式は土台と上部構造との関係をも基本的な点で特色づけることになり,ここに歴史的に固有な社会構成体が成り立つのである。
 社会構成体は累重的かつ前進的に生成する。マルクスは《経済学批判》序言でアジア的,古代的,封建的,近代ブルジョア的という四つの生産様式をあげ,その発展段階を示唆したが,現在では原始共同体,奴隷制社会,封建制社会,資本主義社会,社会主義社会という 5 段階を想定するのが定説とされている。こうした諸段階は,一つの社会構成体の内部で生産力が十分に発達し,既存の生産諸関係がそれに照応しなくなることによって土台が変わり,それに応じて徐々に,あるいは急激に上部構造が変革されることを通じて継起していく。こうした変化を具体的に表現するものが階級闘争であり,社会革命である。しかし,上部構造はとくにその文化的な面でしばしば強い相対的自律性をもち,具体的にある地域にある民族によって形成される社会の発展を制約するものであるから,こうした発展段階がすべての社会によって順次にたどられるのではない。  庄司 興吉 (世界大百科事典)

第9段落
・あるいはまた貨幣に目を向けるならば、それは商品交換のある程度の高さを前提する。
・種々の特殊な貨幣形態、単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣は、あれこれの機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的生産過程の非常にさまざまな段階をそし示している。
・それにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発展で十分である。
・資本はそうではない。
・資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。
・資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。
・それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。
●「単なる商品等価物」とは何かという疑問が出され、「商品価値を表現するという貨幣の機能=価値尺度機能のことを述べており、《単なる》というのは《実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態》という意味で使われているのではないか」との発言がありました。

■新日本出版社版では「貨幣の特殊な諸形態――単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣――は、いずれかの機能の作用範囲の違いと相対的優越とに応じて、社会的生産過程のきわめて異なる諸段階を示している」(上製版290頁)、フランス語版では「単なる等価物、流通手段、支払手段、蓄蔵貨幣、準備金などとしての貨幣の多様な機能は、それらの一方が他方にたいして相対的に優越することによって、社会的生産のきわめて多様な段階を示している。」(157-158頁)となっている。

●《この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである》とはどういうことかとの疑問が出されました。

■この箇所はフランス語版では《資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。》(158頁)となっている。

●注41に出てくる「賃労働」とはどういう意味で使われているのかという疑問が出されました。

■ 賃労働 ちんろうどう
 商品として売買される労働力によって遂行される労働。生産手段を奪われた無産者は,労働力を売って生活することを経済的に強制され,労働の代償として賃金を受け取る。労働が全部不払の形をとる奴隷労働,支払・不払部分が分割されている農奴労働に対し,全部支払の外観をとるが,実は賃労働の過程で剰余価値が生み出され,不払労働がなされる。 (マイペディア)

■ 賃労働 ちんろうどう wage labour∥Lohnarbeit[ドイツ]
 賃金収入を得るために雇用主に労働を提供すること。資本主義社会になって初めてこのような形態の労働が行われるようになった。奴隷や農奴の場合は,一定の時間決めで労働力を売るということはなかったし,また彼らは人格的にも主人や領主に従属していた。だから賃労働が支配的な形態となるためには,単なる社会への商品経済の浸透だけではなく,封建的な束縛から解放され,またこれといった生産手段をもたず,したがって生活手段ももたない,いわゆる〈二重の意味で自由〉な労働者が歴史的にまた恒常的につくりだされねばならなかった。歴史的には,これは封建的家臣団の解体やイギリスで最も典型的にエンクロージャー (囲込み運動) として現れた農民の土地からの追い出しによって行われた。 労働の対価として受けとる賃金が労働力の価値に相当し,したがって労働者は労働力を再生産するに必要な生活資料を買い戻せるにすぎないことによって,労働者が資本の再生産過程に繰り返し登場する。こうして賃労働は恒常的につくりだされる。労働者はその労働力を売ることによって,資本家ないしその代理の命ずる場所で,彼らの指揮のもとに労働に従事しなければならないのであるが,それは,そうすることによってのみ賃金が支払われるからである。そして,この賃金の後払いが労働者に対する資本家の支配を容易にし,また賃金が生活資料を買い戻すにすぎないところから,労働者は〈賃金奴隷〉として特徴づけられることもある。資本の再生産は,こうしてその実,資本家と労働者の関係の再生産にほかならないことになる。そればかりか,資本の蓄積は,より拡大された規模で賃労働者をつくりだし,彼らを資本の下に従属させることになる。賃労働者は資本の蓄積がつくりだす景気循環によって産業に吸収され,またそこから反発されながら全体としては資本家の指揮・命令に服し,賃労働を繰り返すことを余儀なくされているのである。   大塚 忠 (世界大百科事典)


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by shihonron | 2007-07-30 00:00 | 学習会の報告
2007年 07月 22日

第67回 7月18日 第4章 第2節 一般的定式の矛盾 第3節 労働力の売買

7月18日(水)に第67回の学習会を行いました。前回の復習をした後、「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾」の第24段落から最後(第26段落)までと、「第3節 労働力の売買」の第1段落から第3段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾 
   

第24段落
・つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにはゆかないのである。
・資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。

●「いささかくどい言い回しだが、剰余価値は流通から発生しない、また自分の労働によって商品を生産する場合には流通の外でも剰余価値は発生しないというこれまでの叙述で確認してきたことをまとめている」との発言がありました。

第25段落
・こうして、二重の結果が生じた。

★「二重の結果」とは、貨幣の資本への転化は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならないということ。

第26段落
・貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。
・いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所有者は、商品をその価値どうりに買い、価値どうりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。
・彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。
・これが問題の条件である。
・ここがロドスだ、さあ跳んでみろ![Hic Rhodus,hic salta!]

■第24段落から第26段落にあたる部分は、フランス語版では以下のようになっている。現行版での第24段落の文章は削除されている。
《こうして、われわれは二重の結果に到達した。
 貨幣の資本への転化は、商品流通の内在的法則を基礎として説明されるべきであるから、等価物同士の交換が出発点として役だつのである。まだ蛹の状態にしかない資本家であるわれわれの貨幣所有者は、まず商品をその正当な価格で買い、次いでその価値どおりに売らなければならないが、それでも最後には、彼が以前に前貸ししたよりも多くの価値を回収しなければならない。貨幣所有者の資本家への変態は、流通部面で起こらなければならず、同時にけっしてそこで起こってはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳べ!》

●岡崎訳の「幼虫」がフランス語版で「蛹」になっていることについて、「どちらであっても蝶として羽化すること――変態について述べている点では差異はない。」との発言がありました。

■【変態】(名)スル
(1)形や状態が変わること。また、その変わった形や状態。
「主権より民主政治に―するに於て/民約論(徳)」
(2)「変態性欲」の略。また、その傾向のある人。
(3)動物が成体とは形態・生理・生態の全く異なる幼生(幼虫)の時期を経る場合に、幼生から成体へ変わること。また、その過程。
(4)植物の根・茎・葉などの器官が本来のものと異なる形態に変わり、その状態で種として固定すること。捕虫葉・葉針・気根・巻きひげなど。
(5)〔物・化〕 同じ化学組成をもちながら、異なった物理的性質を示す状態または物質。特に、単体の場合は同素体、結晶の場合は多形ともいう。また、有機化合物が化学組成を変えずに原子・原子団の位置の変化で別の状態・物質に変わること。転位。(大辞林 第二版)

■ 【羽化】(名)スル
(1)昆虫が幼虫または蛹(さなぎ)から変態して成虫になること。〔養蚕では化蛾(かが)という〕→孵化(ふか)→蛹化(ようか)
(2)人間に羽が生え、空中を飛べる仙人となること。うけ。
「―して登仙(とうせん)するの想あらん/真善美日本人(雪嶺)」 (大辞林 第二版)


第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買

第1段落
・資本に転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。
・なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変ることのない化石に固まってしまうからである。
・同時に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。
・なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。
・そこで、変化は第一の行為G―Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。
・というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はの価値どおりに支払われるのだからである。
・だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるほかはない。
・ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。
・そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである――労働能力または、労働力に。

★資本としての貨幣の流通G―W―G’において、G―Wは等価交換であり、W―G’もまた等価交換である。したがって事態は G―W……W’―G’ということになる。

第2段落
・われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。

■労働力について述べられていたいくつかの部分からの引用

《そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。》(第1章第1節第12段落 国民文庫77頁・原頁52)

《生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである。裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である。それらは、ただ、人間の労働力を支出するための二つの違った形態でしかない。たしかに、人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、ただの人間労働を、人間労働(力)一般の支出を、表わしている。》(第1章第2節第10段落 国民文庫87頁・原頁58-59)

《すべての労働は、一面では生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてされは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。》(第1章第2節第16段落 国民文庫87頁・原頁58-59)

《流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは凝固状態において、価値になるのである。》(第1章第3節A―1 第6段落 国民文庫99頁・原頁65)

第3段落
・しかし、貨幣所有者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない
・商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。
・この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。
・労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない。
・労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。
・この関係の持続は、労働力の所有者がつねに一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。
・なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。
・彼が人として彼の労働力にたいしてねつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。
・そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする所有権は放棄しないというかぎりでのことである。

●「それ自体としては」というのはどんな意味なのかが問題になり、「即自的にも向自的にも」「絶対的」と同じ意味ではないかとの発言がありました。

■【即自】
〔(ドイツ) an sich〕〔哲〕 物の在り方が直接的で自足しており、無自覚で他者や否定の契機をもたないこと。へーゲル弁証法では、未だ対立の意識をもたない直接無媒介の状態とされ、この直接態が矛盾を生じ自と他の対立から反省を経て対自となり、さらに自他を止揚した即自かつ対自に至るとされる。これらは弁証法の正・反・合に対応している。アン-ジッヒ。(大辞林 第二版)

■【対自】
〔哲〕〔(ドイツ) für sich〕存在者が自己自身を対象化する自覚的在り方。ヘーゲル弁証法の一契機。向自。フュール-ジッヒ。

■【即自且つ対自】
〔(ドイツ) an und für sich〕ヘーゲル弁証法で、「即自(アン-ジッヒ)」と「対自(フュール-ジッヒ)」の統一。即自は自己発展により対自となり、さらにこの対立が否定されて即自かつ対自となる。アン-ウント-フュール-ジッヒ。(大辞林 第二版)

■「それ自体としては」という表現が用いられているいくつかの箇所からの引用

《より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的富をなしている。》(国民文庫90頁・原頁60)

《諸物はそれ自体としては人間にとって外的なものであり、したがって手放されうるものである。》(国民文庫160頁・原頁102)

《それ自体としては商品でないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣とひきかえに売ることのできるものであり、こうしてその価格をつうじて商品形態を受け取ることができる》(国民文庫185頁・原頁117)

●「従属関係」は、他の訳本では「依存関係」と訳されており、「従属依存関係」という訳のほうが適切だろうとの結論になりました。商品交換は、自給自足ではなく、社会的分業が行なわれていることを前提している。個々の商品生産者は特定の使用価値の生産に従事し、自分では生産しない生活に必要な使用価値を他の商品生産者から買うことによって生きていく。ここでは、相互の依存関係がある。従属関係というと、奴隷主と奴隷、領主と農奴との関係のような支配・隷属関係をさすように思える。

■人格的な依存関係と物象的な依存関係

《人類が最初に経験した生産関係は、原始共同体とその解体過程に生じたさまざまな形態の共同体を基礎とする生産関係である。ここでは、労働する諸個人はなんらかの共同体に帰属し、共同体の成員として相互に人格的依存関係を取り結び、労働諸条件すなわち生産手段にたいして、共同体に属するものにたいする仕方でかかわる。社会的生産のなかでの彼らの関係の特徴は、それが相互間の人格的な依存関係であるか、さもなければ、労働しない諸個人が労働する諸個人を人格的に支配する支配・隷属関係であるところにある。》(大谷禎之介『図解社会経済学』30頁)

《自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象を通じての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産手段依存関係であるが、この生産関係は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかりおおわれている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的労働が社会の総労働を形成しているのであり、それらは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働となるためには労働生産物の交換によらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象の社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり、それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。》  (大谷禎之介『図解社会経済学』34頁)

■《だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態として現われる。しかし、視覚の場合には、現実の光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜられるのである。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに反して、商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分な物である。》(第1章第4節 国民文庫135-136頁・原頁86-87)

《およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的関係として、現われるのである。》(第1章第4節 国民文庫136-137頁・原頁87)

《そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる――農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が、物質的生産の社会的諸関係を、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴づけている。しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。夫役は、商品を生産する労働と同じように、時間で計られるが、しかし、どの農奴も、自分が領主のために支出するものは自分自身の労働力の一定量だということを知っている。坊主に納めなければならない十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現われるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。》(第1章第4節 国民文庫143-144頁・原頁91-92)

▼7月27日に誤字脱字および内容に関わるな訂正をしました。本文中で明示した以外の重要な訂正は以下の通りです。訂正箇所を下線で示しました。

●「それ自体としては」というのはどんな意味なのかが問題になり、「即自的にも向自的にも」「絶対的」と同じ意味ではないかとの発言がありました。


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by shihonron | 2007-07-22 00:00 | 学習会の報告
2007年 07月 16日

第66回 7月10日 第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾

7月10日(火)に第66回の学習会を行いました。前回の復習をした後、「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾」の第20段落から第23段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾 
   

第20段落
・こういうことからも、資本の基本形態、すなわち近代社会の経済組織を規定するものとしての資本の形態をわれわれが分析するにあたって、なぜ資本の普通に知られているいわば大洪水以前的な姿である商業資本と高利資本とをさしあたりはまったく考慮に入れないでおくのか、がわかるであろう。
・本来の商業資本では、形態G―W―G’、より高く売るために買う、が最も純粋に現われている。
・他方、商業資本の全運動は流通部面のなかで行なわれる。
・しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようになれば、不可能なものとして現われ、したがって、ただ、買う商品生産者と売る商品生産者とのあいだに寄生的に割り込む商人によってこれらの生産者が両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われる。
・この意味でフランクリンは「戦争は略奪であり、商業は詐取である」と言うのである。・商業資本の価値増殖が単なる生産者の詐取からではなく説明されるべきだとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのであるが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの前提となっているここでは、まだまったく欠けているのである。

●「大洪水以前的な姿である商業資本と高利資本」について、文字通りに(歴史的事件としての)大洪水以前のものをさしているのではないかという意見が出されました。これに対して、大洪水以前的というのは比喩的な記述であり、資本主義的生産が行なわれるようになる前に存在した前期的資本の事をさしているいう意見が出されました。

●他の訳本では、この段落の二つめの文章が次の段落となっているとの指摘がありました。事情は不明ですが、内容的に見ても、そのほうが適当だろうとの結論になりました。

●「本来の商業資本」が前期的資本をさしているのかどうかをめぐって、二つの意見が出されました。一つは前期的資本のことだという見解、もう一つは、資本主義社会での商業資本のことだという見解でした。 ★再度検討する必要があります。

●岡崎訳の「等価物どうしが交換されるようになれば」は、新日本出版社版では「等価物どうしが交換される限り」となっている。これについて、資本主義になった後は等価物どうしの交換がなされるようになり、商業資本は(その成立が)不可能になるということではないかという意見が出されました。これに対して、果たしてそうだろうかとの疑義が出されました。

■浜林正夫氏は「『資本論』を読む(上)」のなかで次のように述べている。
《近代以前のかたちの場合には、商業が未発達であったり、あるいはお金が十分に流通していない、というようなことがある。その場合には不等価交換ということが、行なわれやすい、むしろ不等価交換があたりまえのようになってしまうということがあります。よく言われる話ですけれども、先ほどもちょっと述べたシルクロードなどというようなレベルで、取り引きをしている場合には、東洋の物産は大へんな貴重品であって、それをヨーロッパへもっていくと、ばかみたいな高い値段で売れたのです。それは一種の独占でありまして、ヨーロッパとアジアをつなぐような取引きができるのは、ごく少数の人に限られていた。だから彼らは思いどおりの値段をつけることができた。そういう時代には流通過程から儲けが生ずることもありました。資本主義社会の特徴は、経済学のほうでよくいう言葉で言いますと、価値法則が貫徹するということで、それは等価交換になるということですね。》(217頁)
《本来の商業資本においては、…… うんぬんとありますが、これは大洪水以後のこと、つまり、近代における商業資本です。近代における商業資本では、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能だ。そうすると、商業資本というものはなくなってしまう、いらなくなってしまうのではないかという考え方があります。》(218頁) 

■『資本論』第3部第4篇「商品資本および貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化(商人資本)」で商業資本の価値増殖が分析されている。

第21段落
・商業資本にあてはまることは、高利資本にもっとよくあてはまる。
・商業資本では、その両極、すなわち市場に投ぜられた貨幣と、市場から引きあげられる増殖した貨幣とは、少なくとも買いと売りとによって、流通の運動によって、媒介されている。
・高利資本では、形態G―W―G’が、無媒介の両極G―G’に、より多くの貨幣と交換される貨幣に、貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の立場からは説明することのできない形態に、短縮されている。
・それだからアリストテレスも次のように言うのである。
・「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要なもので賞賛に値するが、前者は流通にもとづいて、当然非難される(というのは、それは自然にもとづいていないで相互の詐取にもとづいているからである)。それゆえ、高利が憎まれるのはまつたく当然である。というのは、ここでは貨幣そのものが営利の源泉であって、それが発明された目的のために用いられるのではないからである。じっさい、貨幣は商品交換のために生じたのに、利子は貨幣をより多くの貨幣にするのである。その名称」(τοκοζ利子および生まれたもの)「もここからきている。なぜならば、生まれたものは、生んだものに似ているからである。しかし、利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちでこれがもっとも反自然的なものである。」

●「貨幣の性質と矛盾しており」と述べられているが、その「貨幣の性質」とはどんなもののことかとの疑問が出されました。(新日本出版社版では「貨幣の本性」)これについては「貨幣は商品価値の表現ということではないか」「流通手段のことか」などの発言がありました。

●第4章第1節「資本の一般的定式」のところでもアリストテレス『政治学』からの引用がされており、マルクスは「アリストテレスは貨殖術に家政術を対立させている」と述べていたことが指摘されました。

■中村達也氏は、ネットの「エンジニアのための経済学最適インストール」のなかで《 「エコノミー」というのはもともとギリシャ語で“オイコス・ノモス”、意味は“家・法=家政”です。どうやって家計をやりくりするか。それがエコノミーだったんです。…経済という言葉自体はもっと古く、4世紀ごろの中国の「経世済民」という言葉から生まれたものです。「経世済民」は「国を治め、民を救う」ということですから、「経済」も、今でいう「政治」の意味です。江戸時代に太宰春台という儒学者が『経済録』という本を書いていますが、これも内容は政治ですね。…「ポリティカル・エコノミー」だと家政ではなく社会全体・国全体の経済という意味になります。つまり、ナショナル・エコノミーと同じです。今は、「経済学」は「エコノミクス」ですが、この言葉を使うようになったのは19世紀後半以降で、古典派の時代までは「ポリティカル・エコノミー」と言っていたんです。》と述べています。
 http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001092&vos=nyternns000000000001

■経済 けいざい 
〈経済〉とは,衣食住など物財の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体である。われわれ人間も他の動物同様,ものを食べなければ生きていけない。しかしわれわれがものを摂取する過程は,動物とは根本的に相違する。われわれは食物を料理したり容器に盛りつけるなど,さまざまな様式で形姿を整える。動物として生理的に胃の腑を満たすという点からすれば,過剰といえるような部分がまとわりついている。しかもこれら過剰な部分は効率的にものを摂取するため,あるいは節約するためということとは無関係で,むしろそれらのためにはマイナスでしかない。こうした過剰性は食の過程にとどまらない。われわれの衣や住は寒さから身を守るため,雨露をしのぐためといった単純明快さをこえている。そこには,衒示,宗教・呪術,審美,新奇といった,機能性をこえた,総称すれば文化とでもよべるような要素が離れがたく付着している。われわれは単に生理的要求から消費しているだけでなく,文化的要求を満たすためにも消費している。すなわち文化を食べ,文化を身にまとい,文化のなかに住み,文化を呼吸し消費しなければならない。
 こうしたことは生産においても流通においてもいえる。生産活動は食いつないでいく必要から遂行されるのではなく,仕事を完成する喜び,隣人よりより良いものを生産したいとの意欲,協働の喜び,献身,原罪の償い,天職,征服欲など,労働意欲をかきたてる労働観に支えられている。労働は労働観の消費でもある。他方では,こうした労働観を供給する活動,労働の指揮・監督,呪術師・宗教家・教育家などの活動も重要な意味をもつことになる。流通でも,等価性の観念にもとづく交換,租税・婚資・供物などのかたちの財の移転等々,単に有無相通ずるといったような機能的な要因をこえる文化が深く働いている。しかも消費,生産,流通のおのおので作用する文化的要因とは,別個ばらばらのものではなく,互いに関係づけあいつつ全体を構成する文化体系である。そこで文化というものを,慣行,言語,法,信仰,政治,技術から構成され,慣習・伝統として不動の側面と変化に向けて開かれた側面との両者を含む,ある種有機的に統合された巨大な一体系であるとすれば,経済とは,こうした文化体系にとりかこまれ,文化が細部にもわたって分かちがたく絡まりついた,物財の生産・消費・流通のことだといえよう。経済をどうみるかという経済観も,経済活動の目的はなにかといった人間の観念も,経済の重要な要素だということになる。また,経済はしばしば伝統慣習経済,市場経済,指令経済の三つに分類されるが,伝統,市場,指令は一経済のなかに並存する要素の若干であるにすぎず,それ以上の意味をもたせることはできない。
[〈経済〉という語の系譜]
 〈経済〉という語は中国晋代の書《抱朴子》〈外篇〉にある〈経世済民〉に発し,これを略したものといわれる。 〈経世済民〉とは,〈世を治め民をたすける〉という意で,現在いうところの,政治にかかわるもろもろの事柄をさしていた。日本の江戸時代の太宰春台の《経済録》などの〈経済〉の意味もこれに沿ったものである。明治以降,〈経済〉は〈economy〉の訳語にあてられ, 〈economy〉の意を含むように変わっていった。 〈economy〉の語源はギリシア語 oikonomia にあり,これは oikos (家) と nomos (慣習,法) からなる合成語で,家の管理・運営のあり方,家政を意味している。このように〈economy〉は当初,家を単位とする規定であったが,その後,ひとつは都市国家社会を単位とするように拡大していった。このように拡大すれば〈economy〉は〈経世済民〉の〈経済〉と意味を同じくすることになる。ところが〈economy〉はこれにとどまらず, 17 世紀以降の絶対王政,近代国民国家の形成過程において物質的な豊かさを柱とする国力の増強が各国の主題となるにおよび,物質的・唯物的要因を中心とする概念に固まっていった。この時期に形成された political economy (経済学) は唯物的な意味での国富についての学である。 〈economy〉はもうひとつ,個人個人,しかもひとりの人の個々的な行為を単位とする規定にも分化した。人々の活動において目的がはっきりし,条件も確定しており,その過程はおもしろくもおかしくもない,といったかなり限定された技術的な局面は,散らばってではあるが多く存在する。こうした局面では節約意識が明りょうに働き育つ。たとえば人がある場所へ行かなければならない,そしてどの道をとっても道中くたびれるだけという場合,大概の人は最も近道になる道を選ぶであろう。節約意識は,家政としての〈economy〉のなかから生まれる一つの独立した観念である。こうして〈economy〉が〈節約〉の意味をももつことになる。これは〈最小費用の最大効果〉であって,なにを目的に選ぶかにはまったく適用できない,いわば技術的・形式的規定である。ところが技術文明の隆盛に呼応して 19 世紀末の economics (経済学) はこの規定を,人間本来の目的が物質的豊かさにあるということと結びつけて,人間の普遍の原理にまで拡張し,経済人 (ホモ・エコノミクス) からなる社会を構想するにいたった。
 〈経済〉は上記のような意味の変遷を経た〈economy〉の訳語として使用され定着した。しかし,物質的側面もたしかに人間の一関心であり,長い歴史の趨勢 (すうせい) が生活の物質的側面の巨大化に向かってきたのだから, 〈economy〉すなわち〈経済〉概念の中心が物質的側面に集中・分化してきたのは当然であったとしても, 〈経済〉の目的・動機が唯物的にすぎないとするのは,たかだかこの 200 ~ 300 年の特異な経済観にすぎない。この点から反省するならば,この特異な〈経済〉をもひとつの系として含みうる本項のような〈経済〉がえられる。またそれとともに経済学も,上記の特異な経済観を当然のこととし,これにもとづいて政策技術を練り,仮構の純粋システムのメカニズムを解明するといったことにともなう視点の狭さ・非現実性から,解放されつつある。 経済人類学,経済社会学,経済倫理学,経済体制論などは社会科学としてのパースペクティブを経済学にとりもどそうとのさまざまな試みであるが,これらも含めて現代の経済学は生活の物質的側面に深く入りこみ,物質的関係をとおして表現される観念,文化,歴史,政治,要するに社会のあり様を解釈していこうとの尽きざる営みへと指向している。        吉沢 英成  (世界大百科事典)

第22段落
・商業資本と同様に利子生み資本もわれわれの研究の途上で派生的な形態として見いだされるであろう。
・また同時に、なぜそれが歴史的に資本の近代的な基本形態よりも先に現われるかということもわかるであろう。

●これまでは「高利資本」という言葉が使われてきたが、ここでは「利子生み資本」という言葉が使われているという指摘がありました。ただ、なぜここで「利子生み資本」という言葉が使われているのかについてははっきりとはしませんでした。

●「資本の近代的な基本形態」について、それは産業資本のことだろうとの発言がありました。

■第1節の第24段落で「利子生み資本」という言葉がはじめて登場した。
《売るために買うこと、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G―W―G’は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。買いと売りとの中間で、すなわち流通過程の外で行なわれるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。最後に利子生み資本では、流通G―W―G’は、短縮されて、媒介のない結果として、いわば簡潔体で、G―G’として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きい価値として、現われる。》(国民文庫273頁・原頁170)

第23段落
・これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。
・しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるだろうか?
・流通は、商品所持者たちのすべての相互関係の総計である。
・流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。
・その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでいるということに限られている。
・この労働の量は、彼の商品の価値に表現される。
・そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。
・しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を超えるある超過分とで表わされるのではない。
・すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。
・商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。
・彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴をつくることによってである。
・同じ素材が今ではより多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。
・それゆえ、長靴は革よりも大きな価値を持っているが、しかし革の価値は元のままである。
・革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。
・つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。

●最後の文章をどう理解するかで議論がありました。「この文章は、生産過程で剰余価値が生産されることへとつながる内容を含んでいる。《流通部面の外で、他の商品所持者と接触する》とは、労働力商品の所持者である賃労働者との接触のことをさしているのではないか 」との発言があり、これに対して「ここでは、他の商品所持者との接触は流通部面でしかないこと、流通部面の外では商品所持者は自分自身の商品との関係しか持たず、そこでは価値の増殖が不可能だと述べているだけではないか。先取り的な事柄になるが、労働力商品の所持者との接触は流通部面でのことであり、生産過程では労働者はすでに労働力商品の所持者ではなくなっているのではないだろうか」との反論が出されました。

■計算貨幣について、大谷禎之介氏は以下のように説明しています。
《このように、価格の大きさも現実の貨幣の量もすべて価格の度量標準である貨幣名で言い表されるようになると、売られるべき商品の価格や現実の貨幣ばかりでなく、およそなんらかの物を、価値の大きさとして表現使用とするときには、この貨幣名が用いられるようになる。たとえば、一国の富を価値の大きさとして表現しようとするときには、たとえば円、ドルなどの貨幣名が用いられる。このように貨幣名として表現しているときの貨幣を〈計算貨幣〉と言う。価格の度量標準としての貨幣は同時につねに計算貨幣でもある。》(「貨幣の機能」246頁 『経済志林』Vol.61,No.4 )

■計算貨幣についてのこれまでの叙述
《こうして、価格、または、商品の価値が観念的に転化されている金量は、いまでは金の度量標準の貨幣名または法律上有効な計算名で表現される。そこで1クォーターの小麦は1オンスの金に等しいと言うのに代わって、イギリスでならば、それは3ポンド・スターリング17シリング101/2ペンスに等しいと言われることになるであろう。このようにして、諸商品は、自分たちがどれだけに値するかを、自分たちの貨幣名で互いに語り合うのであり、そして、貨幣は、ある物を価値として、したがって貨幣形態に固定することが必要なときには、いつでも計算貨幣として役だつのである。》(第3章 第1節 価値尺度 国民文庫181頁・原頁115)

《支払手段としての貨幣は、媒介されない矛盾を含んでいる。諸支払が相殺されるかぎり、貨幣はただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、すなわち物質代謝のただ瞬間的な媒介的な形態として現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の独立な定在、絶対的商品として現われるのである。この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。貨幣は恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことある。
・この機構の比較的一般的な攪乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から堅い貨幣に一変する。それは、卑俗な商品では代わることができないものになる。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。商品こそは貨幣だ、と。いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ! という声が響きわたる。鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ。恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。したがったまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などの信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に代わりはないのである。》(第3章 第3節 貨幣 b 支払手段 国民文庫242頁・原頁151-152)

《流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。二人の商品所持者が互いに商品を買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払日に決済するという場合は、常にそれである。貨幣はこの場合には計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役立ってはいるが、商品そのものに物として相対してはいない。》(第4章 第2節 一般的定式の矛盾 国民文庫275頁・原頁171)

【参考】
 《第二点は、「他の商品所有者たちと接触することなしに」の文言をどう理解するかという点で、単に流通部面の外ということを表現しているにすぎない、という意見と、労働者(労働力商品の所有者としての)のことを指しているという意見が出されました。
 後者は、労働者は流通部面で雇われ(労働力を買われ)、生産過程で労働することで剰余価値を生むということを暗に示唆しているのではないか、という意見でしたが、解決しませんでした。なお、向坂編著の『資本論解説』では、直接の説明はありませんが、この文言にだけ傍点を付しており、間接的にこうした見解を表明しているようでした。
 後日の検討では、次節で《使用価値が価値の源泉であるという特殊な商品》の存在を流通部面で見出し、その特殊な商品の所有者である《他の商品所有者》と接触する(雇う)ことによって剰余価値と資本の発生を論証しようとしているということで、この《他の商品所有者》とは労働者であろうということになりました。》(『資本論』学習会第16回(第2篇第4章第2節「一般的定式の諸矛盾」)の報告より)
    http://members3.jcom.home.ne.jp/study-capital/hokoku/study-wn-capi-016.html


▼7月22日に誤字・脱字を訂正。


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by shihonron | 2007-07-16 00:00 | 学習会の報告
2007年 07月 08日

第65回 7月3日  第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾

7月3日(火)に第65回の学習会を行いました。「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾」の第9段落から第19段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾 
   

第9段落
・もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣とが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。
・そうすれば、剰余価値の形成は行なわれない。
・しかし、その純粋な形態では、商品の流通過程は等価物どおしの交換を条件とする。
・とはいえ、ものごとは現実には純粋には行なわれない。
・そこで、次に互いに等価でないものどうしの交換を想定してみよう。

★等価交換が行なわれるなら、流通からより多くの価値を引き出すことは不可能であり、したがって剰余価値も形成されないということになる。そこで、不等価交換を想定して検討してみよう。

第10段落
・とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。
・いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させる。
・というのは、彼らのうちのだれも自分自身の欲望の対象は持っていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。
・このような、諸商品の使用価値の素材的な相違の他には、諸商品のあいだにはもう一つの区別があるだけである。
・すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣との区別である。
・したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品の所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。

■第2章交換過程の第1段落では、商品所持者について次のように述べられていた。
《商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法律関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する。一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。》(国民文庫155頁・原頁99-100)

★「これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。」とは、商品所持者相互の関係は、商品と商品との関係の人化であり、経済的関係に他ならない。そこには、人格的支配隷属関係などはない。商品所持者は、商品の代表者としてのみ存在しているのである。

■マルクスは、ここで貨幣を「商品の転化した形態」と呼んでいる。他の箇所(「第3章 第2節 流通手段 b 貨幣の流通」の第3段落 国民文庫207頁 原頁・150など)では貨幣を「諸商品の価値が独立化されたもの」と呼んでいた。

■フランス語版では《商品の有用性のあいだでのこの相違を別にすれば、商品間のもう一つの相違、商品の自然形態と商品の価値形態である貨幣との相違しか、もはや存在しない。》となっている。(146頁)

第11段落
・そこで、なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高く売ること、たとえばその価値が100ならば110で、つまり名目上10%の値上げをして売ることが許されると仮定しよう。
・つまり売り手は10という剰余価値を納めるわけである。
・しかし、彼は、売り手だったあとでは買い手になる。
・こんどは第三の商品所持者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた商品を10%高く売る特権をもっている。
・かの男は、売り手としては10の得をしたが、次に買い手としては10を損することになる。
・成り行きの全体は実際には次のようなことに帰着する。
・すべての商品所持者が互いに自分の商品を価値よりも10%高く売り合うので、それは、彼らが商品を価値どおりに売ったのとまったく同じことである。
・このような、諸商品の一般的な名目的値上げは、ちょうど、商品がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。
・諸商品の貨幣名、すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は変らないであろう。

●「諸商品の一般的な名目的値上げについては、金の生産性の上昇(金の価値の減少)の場合でも言えるし、その方がわかりやすいように思える」との発言がありました。

第12段落
・今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。
・ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。
・彼は、買い手になる前にはすでに売り手だつたのである。
・彼は買い手として10%もうける前に、売り手としてすでに10%損をしていたのである。
・いっさいはやはり元のままである。

●「商品所持者について、これまでのところでは一貫して商品所持者は、自分で生産した商品を売り、そうして手に入れた貨幣で自分が必要とするものを買うような人々とされている。商品所持者=商品生産者といえる」との発言がありました。

第13段落
・要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売ることによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うことによっても、説明することができないのである。

第14段落
・そこで、問題外の諸関係をこっそりもちこんで、たとえばトレンズ大佐などといっしょに次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはならない。
・「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある。」

第15段落
・流通のなかでは生産者と消費者とはただ売り手と買い手として相対するだけである。
・生産者にとつての剰余価値は、消費者が商品に価値よりも高く支払うということから生ずる、と主張することは、商品所持者は売り手として高すぎる価格で売る特権を持っているという簡単な命題に仮面をつけることでしかない。
・売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、どちらかであるが、同様に買い手も彼の貨幣に表わされた商品を生産したか、またはその生産者を代表しているか、どちらかである。
・だから、ここで相対するのは、生産者と生産者とである。
・彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。
・商品所持者は、生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を払うのだ、と言ってみても、それは、われわれを一歩も前進させるものではない。

●売り手が「その商品の生産者を代表している」とはどういう場合のことかとの疑問が出され、「父が生産した野菜をその子供が売りに出るといった場合が考えられるのではないか」との発言がありました。買い手が彼の貨幣に表わされた商品の生産者を代表するについても問題になりましたが、明確な結論は出ず、商品所持者は、商品の代表者であり、商品の人格化したものであることを押さえておこうということになりました。

■フランス語版では「その商品の生産者を代理する」と訳されている。

第16段落
・それゆえ、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生ずるという幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。
・このような階級の存在は、われわれがこれまでに到達した立場すなわち単純な流通の立場からは、まだ説明のできないものである。
・しかし、ここでは先回りしてみることにしよう。
・このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとづいて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならない。
・この階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部再びをだまして取りもどすというだけのことである。
・たとえば、小アジアの諸都市は年々の貨幣貢租を古代ローマに支払った。
・この貨幣でローマはそれらの都市から商品を買い、しかもそれを高すぎる価格で買った。
・小アジア人はローマ人をだました。
・というのは、彼らは商業という方法で征服者から貢租の一部分を再びだまし取ったからである。
・しかし、それにもかかわらず、やはり小アジア人はだまされた人々であった。
・彼らの商品の代価は、相変わらず彼ら自身の貨幣で彼らに支払われたのである。
・こんなことはけっして致富または剰余価値形成の方法ではないのである。

■フランス語版では《このような階級が不断に買うために使う貨幣は、無償で、交換なしに、自発的にまたは既得権によって、生産者の金庫からこの階級の金庫に不断に戻ってこなければならない》となっている。(148頁)

●「単純な流通の立場」とは「資本主義社会から抽象することによって取り出された商品生産者の社会」と言うことだろうとの発言がありました。

■フランス語版では「単純な流通の観点」となっている。

●「売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級」とは何をさしているのかが問題となり、「地主や貴族などのことではないか」との発言がありました。

●ローマと小アジアのことが例として取り上げられているが適切なのだろうかとの疑問が出されました。

■権原 けんげん
〔法〕 ある行為をなすことを正当とする法律上の原因。(大辞林 第二版)

■小アジア=アナトリア 
古くは小アジアとも呼ばれる。トルコ語ではアナドルAnadulu。アジア西部にあり,黒海,エーゲ海,地中海に囲まれた半島。マルマラ海を隔ててバルカン半島と対する。現在のトルコの大部分を占める。高原状台地で,北にクゼイアナドル(ポントス)山脈,南にトロス山脈が走る。海岸は地中海式気候,内陸は雨量も少なく草原,砂漠をなす。主産物は穀物,果実,ヒツジ,クロム,銅など。アナトリアの歴史は古く,世界最古の鉄器使用地といわれる。前2000年ころにはヒッタイト王国が成立した。ローマ帝国領などを経て,11世紀ころトルコ人の移住が始まり,以降トルコ人の居住地となる。ヨーロッパとアジアを結ぶ東西交渉の舞台であり,ボスポラス海峡,ダーダネルス海峡を擁し,現在も戦略的に非常に重要な位置を占める。

第17段落
・そこで、われわれは、売りは買い手であり買い手は売り手であるという商品交換の限界のなかにとどまることにしよう。
・われわれの当惑は、ことによると、われわれが登場人物を人格化された範疇としてとらえているだけで、個人としてとらえていないということからきているのかもしれない。

■フランス語版では《我々の困惑はおそらく、流通当事者たちの個々の性格をなんら考慮せず、彼らを擬人化された範疇としたことから、生じているのであろう。》となっている。(148-149頁)

第18段落
・商品所持者Aは非常にずるい男で、仲間のBやCをだますかもしれないが、BやCのほうはどうしても仕返しができないということにしよう。
・Aは40ポンド・スターリングという価値のあるぶどう酒をBに売って、それと引き換えに50ポンド・スターリングという価値のある穀物を手に入れるとしよう。
・Aは彼の40ポンドを50ポンドに転化させた。
・より少ない貨幣をより多くの貨幣にし、彼の商品を資本に転化させた。
・もう少し詳しく見てみよう。
・交換が行なわれる前には、Aの手には40ポンド・スターリングのぶどう酒があり、Bの手には50ポンド・スターリングの穀物があって、総価値は90ポンド・スターリングだった。
・交換のあとでも、総価値は同じく90ポンド・スターリングである。
・流通する価値は少しも大きくなっていないが、AとBとへのその配分は変っている。
・一方では剰余価値として現われるものは他方では不足価値であり、一方でプラスとして現われるものは他方ではマイナスとして現われる。
・同じ変化は、Aが交換という仮装的な形態によらないでBから直接に10ポンドを盗んだとしても、起きたであろう。
・流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないことは明らかであって、それはちょうど、あるユダヤ人がアン王女時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないようなものである。
・一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのである。

●「博打や投機において、一方の儲けは他方の損失になり、プラスマイナスゼロで総計は変らないのと同じことだ」との発言がありました。

■ゼロサムゲーム  [zero-sum game]
ゲームの理論で、参加者それぞれの選択する行動が何であれ、各参加者の得失点の総和がゼロになるゲーム。零和ゲーム。(大辞林 第二版)

第19段落
・要するにどんなに言いくるめようとしても、結局は同じことなのである。
・等価物どおしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どおしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。
・流通または商品交換は価値を創造しないのである。


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by shihonron | 2007-07-08 18:00 | 学習会の報告