『資本論』を読む会の報告

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2008年 08月 26日

第112回 8月26日 第1章 商品 第2節 

8月26日(火)に第112回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第2節 商品に表される労働の二重性」の第6段落から第9段落までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第2節 商品に含まれている労働の二重性


第6段落
・こうして、どの商品にも、一定の合目的的な生産活動または有用労働が含まれているということがわかった。
・いろいろな使用価値はそれらのうちに質的に違った有用労働が含まれていなければ、商品として相対することはできない。
・社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的違いが、一つの多肢的な体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。

●「最初の二つの文章は、それぞれ第3段落、第4段落で述べたことを再確認している」との発言がありました。

●「《社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》《商品生産者の社会》とは資本主義社会だろう。つづけて出てくる独立生産者とはどのような存在だろうか。自分の生産手段を用いて労働する小商品生産者のことだとすると、前に述べていることと矛盾する。この独立生産者は、資本家から抽象して得られた商品生産者のことだと理解するべきだ」との発言がありました。これに関連して「新日本版では、独立生産者ではなく《自立した生産者》となっている」との指摘があり、「商品生産者とは、生産手段を所有し自分の裁量で生産する者ということだろう」との発言がありました。

■《多肢的な体制》は新日本版では《多岐的な体制》となっている。

■ 【多岐】(名・形動)[文]ナリ
〔道が多方面に分かれている意から〕物事が多方面にかかわりをもつ・こと(さま)。
「問題が―にわたる」「複雑―」 (大辞林 第二版より)

■【肢】 〔身体の枝の意〕手足。
「来目部をして夫と婦の四の―を木に張りて/日本書紀(雄略訓)  (大辞林 第二版より)

第7段落
・ともあれ、上着にとっては、それを着る人が仕立屋自身であろうと彼の顧客であろうと、どうでもかまわないのである。
・どちらの場合にも、上着は使用価値として働くのである。
・同時に、上着とそれを生産する労働との関係も、裁縫が特殊な職業になり社会的分業の独立な分肢になるということによっては、それ自体としては少しも変化しない。
・人間は、衣服を着ることの必要に強制されたところでは、だれかが仕立屋になるよりも何千年もまえから裁縫をやってきた。
・しかし、上着やリンネルなど、すべての天然には存在しない素材的冨の存在は、つねに、特殊な自然素材を特殊な人間欲望に適合させる特殊な合目的的生産活動によって媒介されなければならなかった。
・それゆえ、労働は使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然のあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。

★使用価値にとっては誰に消費されるかは無関係。つねに有用物として消費者の欲求を満たすだけ。使用価値を生産する有用労働はどんな時代でもなされてきたし、なされていく。

●《素材的冨》について「素材というと原料みたいだが、そうではなくて物質的ということだ。」との発言がありました。

■長谷部訳では、《素材的冨》は《質料的冨》、《自然素材》は《自然質料》、《物質代謝》は《質料変換》となっている。

●《物質代謝》とはどんなことかについて議論になり「人間と自然との物質代謝とは。人間が自然からものを取り入れたり自然に帰したりすること」「物質のやりとり」といった発言がありました。

■【物質交代】
生命維持のために生体内で行われる物質の化学変化。食物として外界から摂取された物質は種々の合成や分解を経て、生体成分や生命活動のための物質およびエネルギー源となり、また不要物として排出される。新陳代謝。代謝。物質代謝。メタボリズム。 (大辞林 第二版より)

■【代謝】
(1)生体内の物質とエネルギーとの変化。外界から取り入れた物質をもとにした合成と分解とからなる物質の交代と、その物質の変化に伴って起こるエネルギーの生産や消費からなるエネルギー交代とが密接に結びついている。
→物質交代
(2)「新陳代謝」の略。

■ 【新陳代謝】
(1)新しい物が古い物にとってかわること。
「新旧選手の―がうまくいく」
(2)物質交代。

■[自然過程の意識的制御としての労働] 人間は、自然に働きかけて、自然から彼の欲求を充たす使用価値を取得し、消費後の廃棄物を自然のなかに戻す。これが人間特有の物質代謝の全過程である。このうち、使用価値を生産するための活動が労働である。不要物の廃棄は、しばしば、意図しない自然の形態変化(環境の汚染や破壊など)を引き起こすのであり、生産活動に必然的にともなう人間活動として経済学の対象の重要な一部をなしている。
                   (大谷禎之介『図解社会経済学』11頁)

●《永遠の自然必然性》を分かり易くいうとどういえるかが問題になり、「いつでもそうせざるをえないこと」「変わることのない当たり前のこと」という発言がありました。

第8段落
・使用価値である上着やリンネルなど、簡単に言えばいろいろな商品体は、二つの要素の結合物、自然素材と労働との結合物である。
・上着やリンネルなどに含まれている有用労働の総計を取り去ってしまえば、あとには常に或る物質的な土台が残るが、それは人間の助力なしに天然に存在するものである。
・人間は、彼の生産において、ただ自然そのものがやるとおりにやることができるだけである。
・すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。
・それだけではない。
・この形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力にささえられている。
・だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的冨の、ただ一つの源泉なのではない。
・ウィリアム・ペティの言うように、労働は素材的冨の父であり、土地はその母である。

●《自然そのものがやるとおり》とはどういうことかとの疑問が出され「無から有を造り出す(創造)のではなく、すでに存在している物の形態を変化させるということだろう」との発言がありました。

●《自然力にささえられている》とはどういうことかとの疑問が出され「自然法則といったことではないか」「生糸はカイコのおかげだといえるのでは」との発言がありました。

●《土地》は、マルクスコレクション版では《大地》、英語版では《earth》となっていることが紹介され「土地というより大地=自然という方が適切に思える」との発言がありました。

第9段落
そこで今度は使用対象であるかぎりでの商品から商品-価値に移ることにしよう。

●《商品-価値》という表記についてなぜ「-」で商品と価値が結ばれているのかとの疑問が出されました。これに対して「長谷部訳では《商品価値》、フランス語版では《商品の価値》となっている。」との紹介があり、「使用対象であるかぎりでの商品に対して価値であるかぎりでの商品ということではないか」との発言がありました。

★商品であるということは、使用価値であるだけではなく価値でもあるということだ。使用対象であるかぎりでの商品とは、商品体=「物体としての商品」のことであり、それは有用物(使用価値)である。ある物を商品にするのは、使用価値であるということではなく、価値であるということだ。


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by shihonron | 2008-08-26 23:30 | 学習会の報告
2008年 08月 19日

第111回 8月19日 第1章 第1節・第2節 


8月19日(火)に第111回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」の第18段落と「第2節 商品に表される労働の二重性」の第1段落から第5段落までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
     

第18段落
・ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。
・それは人間にとってのそのものの効用が労働によって媒介されていない場合である。
・たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。
・ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物であることがありえる。
・自分自身の生産物によって自分の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品は作らない。
・商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に交換によって移されなければならない。}
・最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではあり得ない。
・物が無用であれば、それに含まれている、労働も無用であり、労働の中にはいらず、したがって価値を形成しないのである。

●「大気とか日光などを自然財と呼ぶことがある」との発言がありました。

●「社会的使用価値とは、他人のための使用価値のことだということを確認しておこう」との発言がありました。

●《物が無用であれば》について、「無用とは、売れなかった商品のことだという論者もいるようだが、そうではなくて使用価値を持たないということではないか 。使用価値を持たないかぎり価値を持つことはないとマルクスは述べている」との発言がありました。

●直接にこの段落に関連してというわけではありませんが、「社会的必要労働時間」について「過去にその商品の生産に必要とされた労働時間ではなく、これから生産する際に必要な労働時間と理解すべきではないか」との発言があり議論になりました。明確な結論には至らず、文章化して検討することになりました。

第1章 商品 第2節 商品に含まれている労働の二重性

第1段落
・最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現れた。
・次には、労働も、それが価値にあわされているかぎりでは、もはや、使用価値の生みの母としてのそれに属するような特徴を持ってはいないということが示された。
・このような商品に含まれている労働の二面的な性質は、わたしがはじめて批判的に指摘したものである。
・この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもつと詳しく説明しておかなければならない。

●「表題では《二重性》という言葉が使われているが、本文には登場しない。《労働の二重性》とは《労働の二面的な性質》のことだろう」との発言がありました。

■第1節第11段落では《労働生産物の有用性といっしょに、労働の生産物に表されている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働の具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されている。》と述べられていた。


●《このような商品に含まれている労働の二面的な性質は、わたしがはじめて批判的に指摘したものである》と述べているが、古典派に労働の二面的な性質についての認識が全くなかったわけではない。マルクスが《はじめて批判的に指摘した》のだ。久留間鮫造・玉野井芳郎『経済学史』(岩波全書)の第1章に一般性において把握された労働についての興味ある叙述がある」との発言がありました。

■最初の部分は、長谷部訳では《最初に商品は、二者闘争的なもの、すなわち使用価値および交換価値として、われわれに現象した。》となっている。

■この後の第8段落では「労働は素材的冨の父であり、土地はその母である」というウィリアム・ベティの言葉が紹介されている。

●《決定的な跳躍点》の「跳躍点」は「要(かなめ)」「中軸」「旋回点」などと訳すこともできるとの指摘がありました。

第2段落
・二つの商品、たとえば1着の上着と10エレのリンネルをとってみよう。
・前者は後者の2倍の価値をもっており、したがって、10エレのリンネル=Wならば、1着の上着=2W であるとしよう。

●「このWは、ドイツ語のWert(価値)の略記だろう」との発言がありました。

第3段落
・上着は、ある特殊な欲望を満足させる使用価値である。
・それを生産するためには、一定種類の生産的活動が必要である。
・この活動は、その目的、作業様式、対象、手段、結果によって規定されている。
・このようにその有用性がその使用価値に、またはその生産物が使用価値であるということに、表される労働を、われわれは簡単に有用労働と呼ぶ。
・この観点のもとでは、労働はつねにその有用効果に関連して考察される。

★《その有用性》とは「労働の有用性」、《その有用効果》とは「労働のもつ有用効果」だと思われるが、それでいいのだろうか?



第4段落
・上着とリンネルとか質的に違った使用価値であるように、それらの存在を媒介する労働も質的に違ったもの――裁縫と織布である。
・もし、これらの物が質的に違った使用価値でなく、したがって質的に違った有用労働の生産物でないならば、それらはおよそ商品として相対することはありえないであろう。
・上着は上着とは交換されないのであり、同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはないのである。

第5段落
・いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現れている。
・社会的分業は商品生産の存在条件である。
・といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。
・古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。
・あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。
・ただ、独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する。

【種】 
生物分類の基準単位。英語ではspecies。種の概念はリンネにより形態の不連続性を基礎として設定された(18世紀中ごろ)。その後進化論,遺伝法則の確立,生態学的見地の導入などによって少しずつ修正を加えられ,現在,最も広く受け入れられている定義では,相互に交配して生殖能力のある子孫をつくることができる自然集団で,しかも他の集団から生殖的に隔離されたものを指す。属genus,科family,目order,綱class,門phylum,divisionなど他の上位の分類単位と異なって,種は生物の生活単位としての実体をもち,生物群集や生態系の中で固有の役割を果たしている。種の記載には,分類学上の約束に従って,二名法(学名)が用いられる。種を細分する場合は亜種,変種,品種が用いられるが,これらの厳密な定義は困難である。
(マイペディア)

●《古代インドの共同体》とはいつ頃のどのような共同体だろうかとの疑問が出されましたが、分かりませんでした。


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by shihonron | 2008-08-19 23:30 | 学習会の報告
2008年 08月 12日

第110回 8月12日 第1章 第1節 


8月12日(火)に第110回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」の第12段落から第17段落までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
     

第12段落
・そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。
・それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。
・こられの物が表しているのは、ただその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。
・このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。

●《これらの労働生産物》とはどんなものかという疑問が出され、「商品体から使用価値を捨象したもののことだろう」という結論になりました。

●《まぼろしのような対象性》とはどういう意味かとの疑問が出され、「まぼろしというのは手でつかむことができないといった意味ではないか」「ここでの対象性は性質という意味と同じではないか」との発言がありました。

■英語版では unsubstantial reality  となっている。
 unsubstantial 実質[実体]のない; 見かけだけの; 非現実的な
 reality 現実, 実在; 現実性; 実体, 本性; 迫真性
●「《無差別な人間労働》について《支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出》と述べていることに注意しておこう。これは抽象的・人間的労働のことに他ならない」との発言がありました。

●「価値について《共通な社会的実体の結晶として》と表現している。価値が自然的な性質ではなく、社会的な性質であることを示している」との発言がありました。

第13段落
・諸商品の交換関係そのものなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にはまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現れた。
・そこで、実際に労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。
・だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現れる共通物は、商品の価値なのである。
・研究の進行は、われわれを価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に連れもどすことになるであろう。
・しかし、この価値は、さしあたりはまずこの形態にかかわりなしに考察されなければならない。

●《諸商品の交換関係そのものなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にはまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現れた》と書かれているが、このことはどの箇所で述べられていたのかとの疑問が出されました。一つの箇所ではなく、第9段落と第10段落といえるのではないかと結論になりました。

■第9段落では《商品の交換関係を明白に特徴づけているものは、まさに商品の使用価値の捨象なのである》、 第10段落では《(交換価値としては)一分子の使用価値も含んではいない》と述べられている。

★《商品の交換関係または交換価値のうちに現れる共通物は、商品の価値なのである》と述べられているが、これまでに取り上げられてきた 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 という等式は1クォーターの小麦とaツェントナーの鉄との交換関係を表していたといえる。1クォーターの小麦とaツェントナーの鉄は、価値としては等しいのである。
 この同じは等式は、価値形態の分析においては1クォーターの小麦の価値の《必然的な表現様式または現象形態》として取り上げられることになる。

●《価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値》については、第1章第3節「価値形態または交換価値」で取り上げられることになるとの発言がありました。

●『資本論』第1巻初版では、価値と交換価値とについて注で述べられているとの紹介がありました。

■《交換価値の実体が商品の手でつかめる存在または使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは、商品の交換関係がひと目でこれを示している。この交換関係は、まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである。すなわち、交換価値から見れば、ある一つの商品は、ただそれが正しい割合でそこにありさえすれば、どのほかの商品ともまったく同じなのである。
 それゆえ、諸商品は、それらの交換関係とは独立に、またはそれらが諸交換-価値として現れる場合の形態からは独立しに、まず第一に、単なる諸価値として考察されるべきなのである。》最後の部分に注9がつけられている。その内容は以下の通りである。《われわれが今後「価値」という言葉をそれ以上の規定なしに用いる場合には、それらはつねに交換価値のことである。》(『資本論第1巻初版』国民文庫24頁 原頁・4-5)

第14段落
・だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。
・では、それの価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。
・労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた1時間とか1日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。

■ここでは《対象化》《物質化》という表現がされているが、価値とその実体である抽象的・人間的価値労働について、第12段落では《無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物》《それらに共通な社会的実体の結晶》と述べられていた。

第15段落
・一商品の価値がその生産中に支出される労働の量によって規定されているとすれば、ある人が怠惰または不熟練であればあるほど、彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので、彼の商品はそれだけ価値が大きい、というように思われるかもしれない。
・しかし、諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。
・商品世界の諸価値として現れる社会の総労働力は、無数の個別的労働力からなっているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。
・これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性質をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。
・社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な労生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。
・たとえば、イギリスで蒸気織機が採用されてからは、一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう。
・イギリスの手織工は、この転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが、彼の個別的労働時間の生産物は。いまでは半分の社会的労働時間を表すにすぎなくなり、したがって、それらの以前の価値の半分に下落したのである。

●「この段落で述べられていることが価値規定と呼ばれている」との発言がありました。

■大谷禎之介氏は次のように述べている。
《社会的必要労働時間による商品の価値量の規定を、略して価値規定と言う。》(『図解社会経済学』57-58頁)
《商品の価値は社会的必要労働時間によって決まる。だから同じ種類の商品の価値は同じである。そこで、商品の価値を表現する商品の価格も、一つの市場では同じである。これがいわゆる「一物一価」である》(『図解社会経済学』225頁)

★《ここでは一つの同じ人間労働力とみなされる》のは「社会の総労働力」がそのようにみなされるという理解でよいのだろうか?

●「平均といってもいろいろある。怠惰な人まで含めて平均を問題にするのだろうか」という疑問が出されましたが、はっきりとした結論には至りませんでした。

●「ここでは、ある商品種類全体を生産するのに、社会全体でどれだけの労働時間が費やされるかが問題になるといっているのではないか。そして、その商品1個の価値は、その商品種類全体を生産するのに必要な労働時間を生産された総数で割ったもの(1個を生産するのに平均的に必要な労働時間)によって決まると述べているように思われる。」との発言がありました。

●「価値は具体的有用労働とは無関係のはずなのに、具体的労働に関わる労働の生産力のことについて述べるのはおかしいのではないかという疑問にどう答えることができるだろうか。久留間鮫造氏や宇野弘蔵氏などが参加した研究会で話題になっていた」との紹介がありました。

■『資本論研究―商品および交換過程』(河出書房 1948年)より引用

相原 一寸、その前に、生産力と必要労働時間との関係を分かり易く教えていただきたいのです。
 労働生産力が大であればある程、或る品物の産出に必要とされる労働時間は小となり、価値も従って小となる。逆の場合は逆になるといって、必要労働時間は直接労働生産力の凡ゆる変化につれて変化する、ということが書いてある。ところが少し先には、労働の生産力は、労働の具体的な有用的な形態に属しているから、それは、労働の具体的な有用的な形態が抽象されるや否やもう労働には関係しない、云々、と述べられている。
 その間のつながりというのはどういうことになるのか。価値の大きさを定める社会的必要労働時間は直接に生産力の変化に逆比例して変化するようにも云われ、次にこの生産力の変化がそういった価値を作る抽象的な労働とは直接関係がない様にも云われていること、この点は生産力の増減が使用価値の増減であって、それを媒介としてつまり商品の単位当たりにすればそこに含まれている労働が増えたり減ったりするものだと理解していいのか、何かそこに品質と分量とのむずかしい関係がある様でもあり櫛田さんのものも読んだが、よく読まないせいか未だ安心ができない節があります。

久留間 その疑問は価値の大いさに関する二つの異なった問題をはっきりと区別しないことから来るのではないでしょうか。いま引き合いにだされたマルクスの二つの命題はいずれも価値の大いさに関するものではあるがそれを問題にする視角が全然異なっていると思う。すなわち、生産力と無関係だといっている場合には、価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。即ちこの観点からすれば、等しい人間労働力の支出は、それがどのような種類の使用価値のどれだけの分量に結果しようが、常に一定の価値を造り出すということになる。即ち労働の生産力には無関係だということになる。これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。

相原 必要労働時間の労働と、品質の方の時にいっている労働とは違いますか。

久留間 必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。》(110-111頁)

第16段落
・だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。
・個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる。
・したがって、等しい大きさの労働量が含まれている諸商品、または同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値量をもっているのである。
・一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。
・「価値としては、すべての商品は、ただ、一定の大きさの凝固した労働時間でしかない。」

■ 【平均】
(1)ものの数や量の大小の凸凹(でこぼこ)をならすこと。不揃いでないようにすること。
「―に分ける」「品質が―している」「農の利と工商の利と、互に―するに至りて/文明論之概略(諭吉)」
(2)〔数〕 いくつかの数値の代表として採用する値の一。相加平均・相乗平均・調和平均などがある。普通、相加平均をさす。
「損得は―すると五分五分だ」「―より背が高い」
(3)釣り合いがとれていること。均衡。
「―を保つ」
(4)安定した状態にすること。平和であること。穏やかなこと。
「国ヲ―ニ治ムル/日葡」 (「大辞林」 第二版より )

■【見本】
商品などの品質や効用などを示すため、生産された全体から抜き出された一部の商品など。また、そのために特に作ったもの。サンプル。(「大辞林」 第二版より )

第17段落
・それゆえ、もしある商品の生産に必要な労働時間が不変であるならば、その商品の価値の大きさも不変であろう。
・しかし、この労働時間は、労働の生産力に変動があれば、そのつど変動する。
・労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性とその発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている。
・同量の労働でも、例えば豊作のときには8ブッシェルの小麦に表され、凶作のときには4ブッシェルの小麦にしか表されない。
・同量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を産出する、等々。
・ダイヤモンドは地表に出ていることがまれだから、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。
・したがって、ダイヤモンドは僅かな量で多くの労働を表す。
・ジェーコブは、金にその全価値が支払われたことがあるかどうかを疑っている。
・このことは、ダイヤモンドにはもっとよくあてはまる。
・エッシュヴェーゲによれば、1823年には、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去80年間の総産額は、ブラジルの砂糖またはコーヒーの農園の1年分の平均生産物の価格にも達していなかったというが、じつはそれよりもずっと多くの労働を、したがってずっと多くの価値を表していたにもかかわらず、そうだったのである。
・もしも鉱山がもっと豊かだったならば、それだけ同じ労働量がより多くのダイヤモンドに表されたであろうし、それだけダイヤモンドの価値は下がったであろう。
・もしほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功するならば、ダイヤモンドの価値が煉瓦の価値よりも低く下がることもありうる。
・一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ小さく、その物品に結晶している労働量はそれだけ小さく、その物品の価値はそれだけ小さい。
・逆に。労働の生産力が小さければ小さいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その物品の価値はそれだけ大きい。
・つまり、一物品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。

●「この箇所で金やダイヤモンドにその全価値が支払われたかどうかを取り上げているのは疑問だ。むしろない方がスッキリとして分かり易い。」との発言がありました。

▲8月23日に誤字脱字の訂正をしました。


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by shihonron | 2008-08-12 23:30 | 学習会の報告