『資本論』を読む会の報告

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2008年 09月 30日

第116回 9月30日 第1章 商品 第3節 A 2 a

9月30日(火)に第116回の学習会を行いました。 「読む会通信№307」を元に前々回、前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 2 a 相対的価値形態の内実」の第6段落から最後(第11段落)までを輪読、検討しました。
 今回の学習会には、2009年2月から3月にかけて『カール・マルクス:資本論、第一巻』というドキュメンタリー演劇を東京で上演するドイツのアーティスト集団リミニ・プロトコルの方が日本における『資本論』をめぐる情況調査の一環として見学にこられました。

 フェスティバル/トーキョーのホームページ 
 http://festival-tokyo.jp/index.html

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態
2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実


第6段落
・しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは、十分ではない。
・流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。
・それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になるのである。
・リンネル価値を人間労働の凝固として表現するためには、それを、リンネルそのものとは物的に違っていると同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。
・課題はすでに解決されている。

★第5段落では、上着がリンネルに等置されることによって、上着をつくる裁縫労働がリンネルを織る織布労働に等置されることで、裁縫は抽象的・人間的労働に還元さた。この関係の中では裁縫は抽象的・人間的労働以外の意味を持たなくなる。織布は、抽象的・人間的労働でしかない裁縫と等しいが故に、裁縫もまた抽象的・人間的労働であることが示されることが述べられていた。第6段落で、流動状態にある労働(価値の実体)のレベルではなく、労働が対象化・凝固した物(価値)のレベルのことが述べられている。

★「課題はすでに解決されている」ことの内容は続く箇所で述べられている。

第7段落
・リンネルの価値関係のなかで上着がリンネルと質的に等しいもの、同じ性質のものとして認められるのは、上着が価値であるからである。
・それだから、上着はここでは、価値がそれにおいて現れる物、または手でつかめるその現物形態で価値を表している物として認められているのである。
・ところで、上着は、上着商品の肉体は、たしかに一つの単なる使用価値である。
・上着が価値を表していないことは、有り合わせのリンネルの一片が価値を表していないのと同じことである。
・このことは、ただ上着がリンネルとの価値関係のなかではそのそとでよりもより多くを意味しているということを示しているだけである。
・ちょうど、多くの人間が金モールのついた上着のなかではそのそとでよりもより多くを意味しているように。

●「ここでリンネルの価値関係と述べているのは、リンネル=上着という価値関係は、リンネルによって結ばれたものであることを示しているのではないか。リンネルが主体であり、上着は受動的にリンネルに等置されるという関係だ」との発言がありました。

●「金モールのついた上着のなかではそのそとでよりもより多くを意味しているとはどういうことか」との疑問が出され、「金モールのついた軍服などの制服を着ているときには、将軍とか船長とかパイロットといった社会的役割をもった人という意味を持つ、私服を着ているときのただの人より多くを意味しているということだろう」との結論になりました。

■ モール  [(ポルトガル) mogol]
(1)〔インドのムガル帝国に由来するという。「莫臥児」とも書く〕緞子(どんす)に似た浮き織りの織物。たて糸に絹糸を、よこ糸に金糸・銀糸・色糸を用いて花紋などを織りだしたもの。金糸を用いたものを金モール、銀糸を用いたものを銀モールという。名物裂(ぎれ)として茶人に愛好された。モール織り。
(2)金・銀あるいは色糸をからませた飾り撚(よ)りの糸。モール糸。
(3)針金に色糸・ビニールなどを撚りつけたもの。クリスマスの飾りや手芸などに用いる。 (大辞林 第二版より)

第8段落
・上着の生産では、実際に、裁縫という形態で、人間の労働力が支出された。
・だから上着のなかには人間労働が積もっている。
・この面から見れば、上着は「価値の担い手」である。
・といっても、このような上着の属性そのものは、上着のどんなすり切れたところからも透いて見えるわけではないが。
・そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面からだけ、したがってただ具体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、認められるのである。
・ボタンまでかけた上着の現身にもかかわらず、リンネルは上着のうちに同族の美しい価値魂を見たのである。
・とはいえ、リンネルにたいして上着が価値を表すということは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。
・たとえば、個人Aが個人Bにたいして王位にたいする態度をとるということは、同時にAにとっては王位がBの姿をとり、したがって顔つきや髪の毛やその他なお多くのを国王が替わるごとに取り替えることなしには、できないのである。

■《使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、冨の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、冨の素材的内容をなしている。われわれの考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている――交換価値の。》   (国民文庫73頁・原頁50)

★上の引用文で、交換価値を「価値の現象形態」と読み替えるなら、使用価値は価値の現象形態の素材的担い手であるということになる。

■《使用価値であるということは、商品にとって必要な前提であると思われるが、商品であるということは、使用価値にとって無関係な規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係な場合の使用価値は、すなわち使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。使用価値がこの範囲内にはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定である場合だけである。直接には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値があらわされる素材的土台である。》(『経済学批判』国民文庫版25頁)

★《このような上着の属性》とは価値=抽象的・人間的労働の対象化であるということ。

★「価値体」という言葉は、ここで初めて登場する。その意味は「具体化された価値」であり、第7段落では「価値がそれにおいて現れる物」「手でつかめるその現物形態で価値を表している物」と表現されていた。

■うつし-み 【▽現身】
〔江戸時代の国学者が上代語「うつせみ」「うつそみ」の語源と考えて作った語〕この世に生きている身。うつそみ。
「―は世にはかなくて言の葉の花のみ見むと思ひかけきや/杉のしづ枝」(大辞林 第二版より)

第9段落
・こうして、上着がリンネルの等価物となっている価値関係のなかでは、上着形態は価値形態として認められる。
・それだから、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表され、一商品の価値が他の商品の使用価値で表されるのである。
・使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違った物であるが、価値としてはそれは「上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである。
・このようにして、リンネルは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。
・リンネルの価値存在が上着とのその同等性に現れることは、キリスト教徒の羊的性格が神の子羊とのその同等性に現れるようなものである。

●「上着形態は価値形態として認められると述べられているが、この場合の価値形態とはどういうことか」との疑問が出されました。「価値形態という言葉は、相対的価値形態と等価形態の二つを含む単純な価値形態といった使い方がされているが、ここでは価値の現象形態、価値を表しているものといった意味ではないか」との発言がありました。

★リンネル=上着という価値関係のなかでは、価値体として認められるということを《上着形態は価値形態として認められる》と表現しているように思える。

★リンネルは、価値としては上着に見えるとマルクスは述べている。別の言い方をするなら、リンネルの価値形態は上着だということではないか。

●「価値存在というのは、価値性格と同じと考えていいのか」との疑問が出され、マルクスコレクション版では「価値―存在」、フランス語版では「価値属性」となっていることが紹介されました。

●新日本版では神の子羊にキリストという補足がされていることが紹介され、「キリストを神の子羊というのか」との疑問が出されました。学習会終了後調べた結果、キリストのことをさして神の子羊ということが確認できました。子羊には、生け贄という意味も含まれているようです。

■《イザヤ書の53章にはこんな預言が記されています。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」》
 http://www.nskk.org/osaka/church/sakai/messages/2005_1_16.htm

■《「生贄の子羊」・・・キリスト教において 全人類救済の為に犠牲となったイエス・キリストの象徴。または三位一体(父なる神・神の一人子キリスト・精霊)の象徴。本来は羊文化圏の中近東において 自らを他の生命のために役立たせる(弱きものには乳を与え 強きものには肉を与え 裸の者は毛で包み 寒い者は毛で覆う)無我の慈悲の象徴。》
http://www.sathya.be/lam-gods.html

第10段落
・要するに、さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのことを、いまやリンネルが別の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。
・ただ、リンネルは自分の思想をリンネルだけに通ずる言葉で、つまり商品語で言い表すだけである。
・労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいとされるかぎり、つまり価値であるかぎり、上着はリンネルと同じ労働から成っている、と言うのである。
・自分の高尚な価値対象性が自分のごわごわした肉体とは違っているということを言うために、リンネルは価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては上着にそっくりそのままである、と言うのである。
・ついでに言えば、商品語もまたヘブライ語のほかになおも多くの、もっと正確な、またはもっと不正確な方言をもっている。
・たとえば、ドイツ語の "Wertsein" [値する]は、商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表すには、ロマン語の動詞 valere,valer,valoirよりも適切ではない。
・Paris vaut bien messe![パリはたしかにミサに値する!]

★《さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのこと》とは、第1節で明らかにされたことである。
 《そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。こられの物が表しているのは、ただその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。
 諸商品の交換関係そのものなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にはまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現れた。そこで、実際に労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現れる共通物は、商品の価値なのである。研究の進行は、われわれを価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に連れもどすことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりはまずこの形態にかかわりなしに考察されなければならない。》(国民文庫77-78頁・原頁52-53)

★《価値は上着に見え》というのは、リンネルの価値関係の中では上着は具体化された価値としてのみ、価値体としてのみ認められるということだろう。

■【アンリ4世 (フランス王)】《アンリ3世の命によってブルボン家のナバラ王アンリがフランス王位を継承し、アンリ4世となった。しかしスペインの後ろ盾を持つカトリック同盟は、ローマ教皇から破門されていたアンリ4世を認めず、アンリ4世に戦いを挑んだ。アンリ4世はいったんパリを脱出し、同盟に対する勝利を重ねて軍事的優位に立つことに成功。しかし、肝心のパリを陥落できなかった。ここに至ってアンリは、最愛の女性ガブリエル・デストレの勧めもあって1593年6月25日に「Paris vaut bien une messe」(「パリはミサをささげるに値する都市である」)と宣言、カトリックへの改宗を発表した。これによってなおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年2月27日にシャルトル大聖堂で正式に戴冠式を執り行うことができた。さらに1598年4月30日にナントの勅令 を発表した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。》 (『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA4%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)

第11段落
・こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。
・言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。
・商品Aが価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。
・商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。

★《価値鏡》とは、商品Aが価値であることをうつしだすもの、価値であることを表現するものということだろう。

■ブログ「言葉の周辺」の「他者を鏡とするということ」という記事は、この箇所について取り上げている。
 http://d.hatena.ne.jp/chicagoblues/20060819/1155988077

■参考資料・石井伸夫氏の論文「『資本論』における反映概念ノート」 (「高崎経済大学論集」)
 http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/46_4/ishii.pdf
 http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/47_4/ishii.pdf


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by shihonron | 2008-09-30 23:30 | 学習会の報告
2008年 09月 24日

第115回 9月24日 第1章 商品 第3節 A 

9月24日(水)に第115回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態」の第1段落から最後(第5段落)までと「2 a 相対的価値形態の内実」の第1段落から第5段落までを輪読、検討しました。

第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態


x量の商品A=y量の商品Bまたはx量の商品Aはy量の商品Bに値する。
(20エレのリンネル=1着の上着または20エレのリンネルは1着の上着に値する。

1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

第1段落
・すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。
・それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。

第2段落
・ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。
・リンネルは自分の価値を上着で表しており、上着はこの価値表現の材料として役立っている。
・第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。
・第一の商品は相対的価値として表される。
・言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。
・第二の商品は、等価物として機能している。
・言いかえれば、その商品は等価形態にある。

★「相対的価値」とは、他の商品の一定量として表現された価値ということだろう。価値とは、抽象的・人間的労働の対象化であるが、直接に何時間の労働の対象化という形(いわば「絶対的価値」?)では表現されえない。

●「等価物とはどういう意味か」との質問が出され、「等しい価値を持つ物ということだろう」という結論になりました。

第3段落
・相対的価値形態と等価形態しは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。
・この両極は、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。
・たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。
・20エレのリンネル=20エレのリンネルはけっして価値表現ではない。
・この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。
・すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルにほかならないということである。
・つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。
・それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにかの別の商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。
・他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。
・それは自分の価値を表しているのではない。
・それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。

第4段落
・もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル または1着の上着は20エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。
・しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。
・そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。
・だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現れることはできないのである。
・この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。

★20エレのリンネルと1着の上着が交換されるなら、その交換関係のうちには、20エレのリンネル=1着の上着という価値表現と1着の上着=20エレのリンネルという二つの価値表現が含まれていると考えられる。しかし、ここで考察するのは、一商品の価値表現、一商品の価値形態である。

第5段落
・そこで、ある商品が相対的価値形態にあるか、反対の等価形態にあるかは、ただ、価値表現のなかでこの商品のそのつどの位置だけによって、すなわち、その商品が、自分の価値を表現される商品であるのか、それともそれで価値が表現されるのかということだけによって、定まるのである。

2 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実


第1段落
・一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかを見つけ出すためには、この価値関係をさしあたりまずその量的な面からはまったく離れて考察しなければならない。
・人々はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、ただ、二つの商品種類のさそれぞけの一定量が等しいとされる割合だけを見ているのである。
・人々は、いろいろな物の大きさはそれらが同じ単位に還元されてはじめて量的に比較されうるようになるということを見落としているのである。
・ただ同じ単位の諸表現としてのみ、これらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。

■【通約】「約分」の古い言い方。

■【約分】〔数〕 分数の分子と分母を共通の約数で割って簡単な分数にすること。

★二つの物を比較できるようにするということでは、約分ではなく通分だと思われる。意味としては「通約可能」は「比較可能」ということだろう。
この箇所は英語版では《It is only as expressions of such a unit that they are of the same denomination, and therefore commensurable. 》となっている。

第2段落
・20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、=20着の上着 であろうと、または =x着の上着 であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと、すくない上着に値しようと、このような割合は、どれでもつねに、価値量としてはリンネルも上着も同じ単位の諸表現であり、同じ性質の諸物であるということを含んでいる。
・リンネル=上着というのが等式の基礎である。

★リンネルと上着が質的に等しいというのがまず最初に考察すべき事柄である。

第3段落
・しかし、量的に等置された二つの商品は、同じ役割を演ずるのではない。
・ただリンネルの価値だけが表現される。
・では、どのようにしてか?
・リンネルが自分の「等価物」または自分と「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関係によって、である。
・この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、認められる。
・なぜならば、このような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである。
・他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。
・すなわち独立な表現を与えられる。
・なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係することができるからである。
・たとえば、酪酸は蟻酸プロピルとは違った物体である。
・とはいえ、両方とも同じ化学的実体――炭素(C)と水素(H)と酸素(O)とから成っており、しかも同じ百分比組成、すなわちC4H8O2をもっている。
・いま、かりに酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では第一に蟻酸プロピルはただC4H8O2の存在形態として認められているだけであろう。
・つまり、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、酪酸の化学的実体がその物体形態とは区別されて表現されていることになるであろう。

●「たとえとしての酪酸と蟻酸プロピルについての話は分かりにくい」との発言がありました。

■ 【酪酸】ブタノールの酸化によって得られる不快な酸敗臭をもつ油状の液体。化学式 C3H7COOH バターなどの乳脂肪中にグリセリン―エステルとして含まれる。酪酸菌による糖類の酪酸発酵によっても生成する。香料の合成原料などに用いる。

■蟻酸プロピルの化学式は HCOOC3H7

■【化学式】物質の化学的組成と結合の様子を元素記号・数字などを用いて表す式。分子式・組成式・実験式・示性式・構造式などの総称。

★たとえにリンネル=上着を当てはめてみると次のようになるだろう。
 リンネルは上着とは違った使用価値である。とはいえ、両方ともその生産に一定の労働力が支出されたという点では同じである。どちらにも、同じ社会的実体――抽象的・人間的労働が対象化されている。いま、かりにリンネルに上着が等置されるとすれば、この関係の中では第一に上着はただ価値の存在形態として認められているだけであろう。つまり、上着がリンネルに等置されることによって、リンネルの社会的実体がその物体形態とは区別されて(上着によって)表現されていることになるであろう。

第4段落
・われわれが、価値としては商品は人間労働の単なる凝固である、と言うならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが、商品にその現物形態とは違った価値形態を与えはしない。
・一商品の他の一商品にたいする価値関係のなかではそうではない。
・ここでは、その商品の価値性格が、他の一商品にたいするそれ自身の関係によって現れてくるのである。

●「価値抽象となにか」という疑問が出され、「1節で行われたように価値がなんであるをとらえた概念、分析者の認識のことではないか」という発言がありました。またマルクスコレクション版では「価値抽象体」、フランス語版では「価値という抽象概念」となっていることが紹介さました。

★《その現物形態とは違った価値形態》とは、ここでの例に従えば商品リンネルの現物形態とは違った価値形態とは、上着のことである。

★《他の一商品にたいするそれ自身の関係》とは、ここの例でいえば「上着はリンネルに等しい」「上着はリンネルと交換されうる」ということだろう。そして、そのような関係をつくりだすのは、リンネルであって上着ではない。上着は受動的にリンネルによってそうした地位を与えられるのである。

第5段落
・たとえば上着がリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。
・ところで、たしかに、上着をつくる裁縫は、リンネルをつくる織布とは種類の違った具体的労働である。
・しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、還元するのである。
・このような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区別する特徴をもっていないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、いわれているのである。
・ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。
・というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の労働を、実際にそれに共通なものに、人間労働一般に還元するのだからである。

●《このような回り道》とはどういう意味かが問題になりました。「まず裁縫が抽象的・人間的労働であるとし、それと等置されている織布もまた抽象的・人間的労働だということではないか」という意見と「上着がリンネルに等置され、それによってリンネルに含まれている織布が上着に含まれている裁縫に等置されるということではないか」との意見がだされました。

★織布が抽象的・人間的労働であることを表現するために。まず裁縫を抽象的・人間的労働に還元してから、その抽象的・人間的労働としての裁縫と等しいことによって、織布もまた抽象的・人間的労働であることを示しているのではないか。目的地は「織布は抽象的・人間的労働である」ということを示すことだが、「裁縫が織布に等置されることによって、裁縫を抽象的・人間的労働に還元する」という回り道をしているのである。

■《一般に商品の価値というものは、常に、その商品に等しいと置かれる他の商品の使用価値、すなわち物としての形態であらわされる。これは発展して貨幣形態、現にわれわれが見る価格の形態になるわけであるが、そうなると、すべての商品の価値は金の一定量という価値で表されることになる。現にわれわれはすべての商品の価値を金何円という価値でいいあらわしているが、この「円」というのは、貨幣の場合に特有な金の重量の単位名で、もともと貨幣法で金2分を円と名づけたものである。すなわち金何円というのは、分とか匁とかの普通の重量単位名の代わりに、貨幣のばあいにかぎって用いられる円という重量単位名でいいあらわした、金の分量にほかならない。この金の分量によって、商品の価値は--その価値性格と価値とが--現に表示されている。ここに貨幣の謎がある。物としての金の分量が商品の価値をあらわすということ、これはいったいどのようにして可能であるのか。これをマルクスは問題にしたのである。そういうことを問題にした者はかつてなかった。それをマルクスは問題にして見事に解いたのであるが、そのさいに彼はまず、この貨幣での価値の表現、たとえば20エレのリンネル・イコール金2ポンド、あるは金何円というのは、たとえば、20エレのリンネル・イコール1枚の上衣 というような、いわゆる簡単な価値形態の発展したものにほかならぬのであって、価値表現の根本の秘密はこの簡単な価値形態のうちに横たわっているということを看取したのである。そこで彼は、この簡単な価値形態を分析することによって、価値表現の根本の秘密を形成するいわゆる「回り道」を発見したのであるが、それはどういうことかというと、たとえば20エレのリンネル・イコール1枚の上着 というとき、20エレのリンネルの価値は1枚の上衣という形で表現されているのであるが、そういうことが行なわれうるためには、上衣そのものが価値の定在に、いわば価値物になっていなければならぬ。そうでなければ、物としての上衣の分量が価値の大きさをあらわすことはできないはずだからである。ではどのようにして上衣は--その自然形態そのものが--そのまま価値をあらわすものに、すなわち価値物になるのかというと、それはつまり、今の例でいえば、上衣がリンネルに等しいのだとされる、そのことによって今いったような資格が、一つの経済的形態規定性が、上衣に与えられることになる、上衣が一つの社会的生産関係を担わされることになる。上衣をつくる労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的な労働であって、抽象的な労働ではない、上衣をつくるのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労働に等置されることなり、両者の間に共通な、抽象的人間的労働に還元されることになる。と同時に上衣は、こうした抽象的人間的労働の体化物、すなわち価値物を意味するものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で、そういうものとしての上衣の体で、はじめて自分の価値を表現するのである。こう考えてはじめて価値表現の謎は解ける、とマルクスはいうのである。この場合よくよく注意しなければならないことは、20エレのリンネル・イコール1枚の上衣、という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自分は上衣に等しいのだということによって、自分自身で価値の形態になっているのではなくて、上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に--その自然形態がそのまま価値をあらわすものに--しているのだということ、そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマルクスのいわゆる価値表現の回り道なのである。》
(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』6~8頁)


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by shihonron | 2008-09-24 23:30 | 学習会の報告
2008年 09月 09日

第114回 9月9日 第1章 商品 第3節 前文

9月9日(火)に第114回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の前文の第1段落から最後(第4段落)までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 前文


第1段落
・商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。
・これが商品のありのままの現物形態である。
・それらが、商品であるのは、ただ、それらが二重まものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。
・それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりのみ、商品として現れるのであり、いいかえれば商品という形態をもつのである。

★商品は、使用価値=商品体=ありのままの現物形態=使用対象であるとともに、価値形態をもっている。価値形態をもつことで、使用価値は商品という形態をもつ。

●価値形態とは、ここではどんなもののことをそしているのだろうかという疑問が出されました。「価値の現象形態である交換価値のことだ」という発言や「価格だと考えれば分かり易い」との発言がありました。また「価格は貨幣による価値の表現であり、まだ貨幣は登場していないので価格というと引っかかる」との発言もありました。

第2段落
・商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろものだということによって、マダム・クイックリーとは違っている。
・商品体の感覚的に粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。
・それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。
・とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的単位の諸表現であるかぎりのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であることを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現れえないということもまたおのずと明らかである。
・われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価を追跡追跡したのである。
・いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない。

●「価値対象性を分かり易くいいかえるとどうなるのか」との質問が出され、「価値を持っているという性質」「価値性格(物の性質として)」といった発言がありました。関連して「対象性は物の性質といえるのではないか」との発言もありました。

★「価値物」という言葉が登場しているが、ここでの意味は「価値を持つ物」であろう。

●「人間労働という同じ社会的単位とはどういうことだろう」との疑問が出され、「価値は抽象的・人間的労働の対象化だが、価値量は個別の労働支出の継続時間によってではなく、社会的必要労働時間によって規定される。価値を考察する際には、個々の労働ではなく社会的平均労働が問題になるということではないか」との発言がありました。

■《そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。こられの物が表しているのは、ただその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。》(国民文庫77頁・原頁52)

■《研究の進行は、われわれを価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に連れもどすことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりはまずこの形態にかかわりなしに考察されなければならない。》(国民文庫78頁・原頁53)

■《諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。
商品世界の諸価値として現れる社会の総労働力は、無数の個別的労働力からなっているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性質をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な労生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。》(国民文庫78-79頁・原頁53)

第3段落
・諸商品は、それらの使用価値の雑多な現物形態とは著しい対照をなしている一つの共通な価値形態――貨幣形態をもっているということだけは、だれでも、ほかのことはなにも知らなくても、よく知っていることである。
・しかし、いまここでなされなければならないことは、ブルジョア経済学によってただ試みられたことさえないこと、すなわち、この貨幣形態の生成を示すことであり、したがって、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の秘密をの最も単純な最も目だたない姿から光まばゆい貨幣形態に至るまで追跡することである。
・これによって同時に貨幣の謎も消えさるのである。

★マルクスはこの節での課題を、ここで明示している。それは、《貨幣形態の生成を示すこと》であり、《諸商品の価値関係に含まれている価値表現の秘密をの最も単純な最も目だたない姿から光まばゆい貨幣形態に至るまで追跡すること》である。

★《貨幣の謎》とは何かは、後に取り上げることになろう。

第4段落
・最も単純な価値関係は、明らかに、なんであろうと一つの異種の商品にたいするある一つの商品の価値関係である。
・それゆえ、二つの商品の価値関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである。

★価値関係という言葉は、ここで初めて登場する。二つの商品は、等置されるのだが、それは価値としては等しいということである。二つの商品は、使用価値としてではなく、価値として関係している。


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by shihonron | 2008-09-09 04:08 | 学習会の報告
2008年 09月 01日

第113回  9月2日 第1章 商品 第2節

9月2日(火)に第113回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第2節 商品に表される労働の二重性」の第10段落から第16段落までを輪読、検討しました。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第2節 商品に含まれている労働の二重性


第10段落
・われわれの想定によれば、上着はリンネルの2倍の価値を持っている。
・しかし、それはただ量的な差違にすぎないもので、このような差違はさしあたりはまだわれわれの関心をひくものではない。
・そこで、われわれは、1着の上着が10エレのリンネルの価値の2倍であれば、20エレのリンネルは1着の上着と同じ価値量を持っていることを思い出す。
・価値としては、上着とリンネルとは、同じ実体をもった物であり、同種の労働の客体的表現である。
・ところが、裁縫と織布とは、質的に違った労働である。
・とはいえ、次のような社会状態もある。
・そこでは同じ人間が裁縫をしたり織布をしたりしているので、この二つの違った労働様式は、ただ同じ個人の労働の諸変形でしかなく、まだ別々の諸個人の特殊な固定した諸機能になっていないのであって、それは、ちょうど、われわれの仕立屋が今日つくる上着も彼が明日つくるズボンもただ同じ個人労働の諸変形を前提しているにすぎぎないようなものである。
・さらに、一見して分かるように、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化に従って、人間労働の一定の部分が、あるときは裁縫の形態でねあるときは織布の形態で供給される。
・このような労働の形態変換は、摩擦なしにはすまないかもしれないが、とにかくそれは行われなければならない。
め生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである。
・裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間労働である。
・それは、ただ人間の労働力を支出するための二つの違った形態でしかない。
・たしかに、人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。
・しかし、商品の価値は、ただの人間労働を、人間労働一般の支出を、表している。
・ところで、ブルジョア社会では将軍や銀行家は大きな役割を演じており、これに反してただの人間はひどくみすぼらしい役割を演じているのであるが、この場合の人間労働についても同じことである。
・それは、平均的にだれでも普通の人間が、特別の発達なしに、自分の肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。
・もちろん、単純な平均労働そのものも、国が違い文化段階が違えばその性格は違うのであるが、しかし、現に或る一つの社会では与えられている。
・より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいということになる。
・このような換算が絶えず行われていることは、経験の示すところである。
・ある商品がどんなに複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身ただ単純労働の一定量を表しているにすぎないのである。
・いろいろな労働種類がその度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的過程によって生産者の背後で確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられたもののように思われる。
・簡単にするために、以下では各種の労働力を直接に単純な労働力とみなすのであるが、それはただ換算の労働省くためにすぎない。

★補足したり言い換えたりすると「価値としては、上着とリンネルとは、抽象的人間的労働という同じ実体をもった物であり、その生産に人間労働力が支出されたことの物質的表現である。」といえる。

★価値を「同種の労働の客体的表現」といい、具体的有用的労働について「質的に違った労働」と表現している。

●《このような労働の形態変換は、摩擦なしにはすまないかもしれない》の「摩擦」とはどんなことだろうかとの疑問が出され、失業や資本家が必要とする労働者をすぐには雇うことができないといったことという結論になりました。

●《生産活動の規定性》とはどんなことかとの疑問が出され、第3段落で述べられていた《この活動は、その目的、作業様式、対象、手段、結果によって規定されている。》ということだろうとの結論になりました。

■《ただの人間労働》《ただの人間》は、マルクスコレクション版では《人間労働自体》《人間そのもの》、新日本版では《人間的労働力自体》《人間自体》、英語版では《mere human labour》《mere man》となっている。

■mere [mir]  ━━ a. 単なる, ほんの; 全くの. (エクシード英和辞典より)

●《より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされる》という箇所について《より複雑な労働は,単純労働の<強められたもの>,またはむしろ<何倍かされたもの>としてのみ通用し》と訳されることもあるとの指摘がありました。
 この箇所は英語版では《Skilled labour counts only as simple labour intensified, or rather, as multiplied simple labour, a given quantity of skilled being considered equal to a greater quantity of simple labour.》となっています。

■skilled          ━━ a. 熟練した ((in, at (doing))); 熟練を要する.
■in・ten・si・fy  [intensfai]  ━━ v. 激しくする[なる]; 強くする[なる]; 増大する.
■mul・ti・ply   [mltplai]  ━━ v. 増す, ふえる, 繁殖させる[する];
                【数】掛ける ((by; together)). (エクシード英和辞典より)

●「熟練複雑労働―単純労働」と「熟練労働―不熟練労働」には差違があるのかについて議論になりました。「熟練複雑労働は、一定の教育を受けて初めて行うことのできる労働(例えば高層ビルの設計)であり、単純労働者がたくさん集まっても同じことをできない。一方、熟練と不熟練の差は、生産物の量的な違いに結果するだけではないか。複雑労働には費用のかかる教育や修行が必要であり、熟練労働は労働する中で身につくといえるのではないか」との発言がありました。これにたいして「果たしてそんなきれいに区別できるのだろうか。フランス語版では複雑労働の所にカッコ書きで熟練労働となっている」との発言があり、さらに考えていくことになりました。

第11段落
・こういうわけで。価値としての上着やリンネルではそれらの使用価値の相違が捨象されている。
・これらの価値に表されている労働でもそれらの有用形態の相違、裁縫と織布の相違は捨象されているのである。
・使用価値としての上着やリンネルは、目的を規定された生産活動と布や糸との結合物であり、これに反して価値としての上着やリンネルは単なる同質の労働凝固であるが、それと同じように、これらの価値に含まれている労働も、布や糸に対するその生産的な作用によつてではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。
・裁縫や織布が使用価値としての上着やリンネルの形成要素であるのは、まさに裁縫や織布の互いに違った質によるものである。
・裁縫や織布が上着価値やリンネル価値の実体であるのは、ただ、裁縫や織布の特殊な質が捨象されて両者が同じ質を、人間労働という質をもっているかぎりでのことである。

●《価値としての上着やリンネル》という表現について問題になり、新日本版では《価値である上着やリンネル》となっていることが紹介され、「価値という側面から見た上着やリンネル」ということだろうという結論になりました。

●「岡崎訳では《人間労働》となっているが、《人間的労働》とした方が適切だ」との発言がありました。

■新日本版と長谷部訳では《人間的労働》となっている。

第12段落
・しかし、上着やリンネルは価値一般であるだけでなく、特定の大きさの価値である。
・そして、われわれの想定によれば、1着の上着は10エレのリンネルの2倍の価値がある。
・それらの価値量のこのような相違は、どこから生ずるのか?
・それは、リンネルは上着に比べて半分の労働しか含んでおらず、したがって上着の生産に比べて2倍の時間にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生ずるのである。

■《価値一般》は英語版では《merely values》となっている。「単に価値」と訳すことができる。

■mere・ly ━━ ad. 単に(…にすぎない), 全く.  ⇒mere1

第13段落
・つまり、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的に認められるとすれば、価値量との関連では、もはやそれ以外には質をもたない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである。
・前のほうの場合には労働のどのようにしてどんな[Wie und Was]が問題なのであり、あとのほうの場合には労働のどれだけ[Wieviel]が、すなわちその継続時間が、問題なのである。
・一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表しているのだから、諸商品は、ある一定の割合をなしていれば、常に等しい大きさの価値でなければならないのである。

★《もはやそれ以外には質をもたない人間労働》とは「人間の労働力の支出」という質のことだろう。

■英語版では《どのようにしてどんな[Wie und Was]》は《How and What》、《どれだけ[Wieviel]》は《How much》となっている。

第14段落
・たとえば1着の上着の生産に必要ないっさいの有用労働の生産力が変わらないならば、上着の価値量は上着自身の量が増すにつれて増大する。
・もし1着の上着がx労働日を表しているとすれば2着の上着は2x労働日を表している、というようにである。
・ところで1着の上着の生産に必要な労働が2倍に増すか、半分に減るかするとしてみよう。
・前のほうの場合には1着の上着は以前の2着の上着と同量の価値をもち、あとのほうの場合には、2着の上着が以前の1着の上着と同量の価値しかもたない。
・といっても、どちらの場合にも上着は相変わらず同じ役立ち方をするのであり、上着に含まれている有用労働の質の良否は相変わらず同じなのであるが。
・しかし、上着の生産に支出された労働量は変化しているのである。

第15段落
・より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的富をなしている。
・2着の上着は2人に着せられるが、1着の上着は1人にしか着せられないというように。
・それにもかかわらず、素材的冨の増大にその価値量の同時的低下が対応することがありうる。
・このような相反する運動は、労働の二面的性格から生ずる。
・生産力は。もちろん。つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。
・それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇または低下に比例して、より豊富な、またはより貧弱な生産物源泉になるのである。
・これに反して、生産力の変動は、価値に表されている労働それ自体には少しも影響しない。
・生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態に属が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響することはできないのである。
・それゆえ、同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。
・しかし、その労働は、同じ時間に違った量の使用価値を、すなわち生産力が上がればより多くの使用価値を、生産力が下がればより少ない使用価値を、与える。
・それゆえ、労働の豊度を増大させ、したがって労働の与える使用価値の量を増大させるような生産力の変動は、それが使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮する場合には、この増大した使用価値総量の価値量を減少させるのである。
・逆の場合も同様である。

●「《同じ労働》は抽象的人間的労働のことだろうか」との疑問が出されましたが、「次の部分で使用価値を与えるとされているのだから、抽象的人間的労働に限定しているのではなく、あるがままの労働(具体的労働の側面と抽象的労働の側面をあわせもつ労働)ではないか」という発言がありました。

■《労働の豊度》は、新日本版と長谷部訳では《労働の多産性》、マルクスコレクション版では《労働の産出力》となっている。

★生産力について、第14段落では《有用労働の生産力》と述べ、この段落では《生産力は労働の具体的な有用形態に属する》と述べている。

■【労働の生産性(生産力)】質的および量的に一定した使用価値の生産に必要な労働時間の大小は、その労働の生産力の大小を表す。いいかえれば、それは一定の労働時間内に生産される使用価値の大小によって表される。それは、労働者の熟練度、科学とその技術的応用との発展度、生産過程の社会的結合、生産手段の規模およびその作用力、土地の豊度など、多種の社会的および自然的諸条件によって制約される。ゆえに、労働の生産力を高くするには、労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産方法(Produktionsweise)そのものを変革せねばならない。 (『資本論辞典』青木書店刊より)

■【労働の生産力は具体的労働の生産力である】同じ量の労働(抽象的労働)でも生産物の量は異なりうる。生産物量のこのような相違をもたらすのは、労働の有効性、作用度の違いである。この違いは労働力を支出するさいの具体的な形態の違い、有用物をもたらす程度の違いであり、つまりは具体的労働の違いである。労働が生産物を生産する力量である労働の生産力とは、じつは具体的労働の生産力なのである。
 労働(具体的労働)の生産力の増大は、同一の労働(抽象的労働)量で生産される生産物の量を増大させるが、これは、生産物一単位についてみれば、生産物を生産するのに必要な抽象的労働の減少、つまり生産物の生産費用としての労働量の減少にほかならない。(大谷禎之介『図解社会経済学』21-22頁)


第16段落
・すべての労働は、一面では、生理学的な意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。
・すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。

●初版では、この段落の手前に文章が入っていたとの紹介がありました。

■資料----現行版・フランス語版・初版,異同
赤字は現行版第2節最後のパラグラフ,青字は著者のコメント

① 資本論 第2節最後のパラグラフ  岡崎訳
 すべての労働は,一面では,生理学的意味での人間の労働力の支出であって,この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において,それは商品価値を形成するのである。すべての労働は,他面では,特殊な,目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって,この具体的有用労働という属性において,それは使用価値を生産するのである。

② 遊部久蔵 『商品論の構造』1973年 青木書店 p261・2
-----第5章 フランス語版『資本論』第一巻第一章「商品」の研究----ドイツ語本文との比較研究-----

「以上にのべてあることの結果,つぎのようなことになる。適切にいうと,商品中には二種の労働がないとしても,労働が労働の生産物としての商品の使用価値に属させられるか,あるいはその純粋に客観的表現としてのこの商品の価値に属させられるかにつれて,そこでの同一の労働が自分自身に対立させられる。すべての労働は一面では生理学的意味での人間的力の支出であり,この相等しい人間的労働の資格でそれは諸商品の価値を形成する。他面,すべての労働は,特定の目的によって規定されたかくかくの生産的形態のもとでの人間的力の支出であり,この具体的・有用的労働の資格でそれは使用価値または有用物を生産する。商品は価値であるためにはなによりもまず有用物でなければならないのと同様に,労働は言葉の抽象的意味で人間的力の支出,人間的労働とみなされるためには,なによりもまず有用でなければならない」。

さらに改行してつぎの一パラグラーフ(Ⅱ・①・全文)が付加されている。
「価値の実体と価値の量とがいまや規定されている。あとはただ価値の形態の分析をするだけだ」。

(付注)Gallimard版編注(五七五ページ,編注1,2,一六三六ページ)によれば,第一のパラグラーフのはじめの部分(「以上にのべてあること……対立させられる。」)とおわりの部分(「商品は価値であるためには……有用でなければならない。」)・および第二のパラグラーフ全体がフランス語版のための付加であるとのぺられている。たしかにそうであるが,第一のパラグラーフのはじめの部分とおわりの部分とは,初版のこの部分(初版には節の区分はないが,第二節に該当する部分の最終パラグラーフ。S13)にある(第一のパラグラーフのはじめの部分についてのみ,この点の指摘が公文宏和氏によってなされている。「価値論と商品論」,『経済科学』一八巻二号,昭和四六年一月,九〇-九一ページ)。さらに第二のパラグラーフは,初版の第三節に該当する部分の冒頭(S13)にある(双方とも独仏文の間にわずかなちがいはあるが)。

③ 林直道 『フランス語版資本論の研究』大月書店1975年p106・7
 7労働の二重性への補足
現行版の第一章第二節の末尾には,労働の二重性と商品の二要因との関係,すなわち,労働は抽象的人間労働として価値を形成し,具体的有用労働として使用価値を生産するという命題を述べたパラグラフがある。フランス語版ではこの箇所の前と後とにかなりの補足がなされている。

-----《これまでのところから次のことが結論される,すなわち,商品のなかに,正直にいって,二種類の労働が存在するのではないが,それでもなお,商品のなかで同じ労働がそれ自身にたいして対立的になっている,それは労働が,その生産物としての商品の使用価値に関係し,あるいはその純粋に客観的な表現としてのこの商品の価値に関係することによってである。すべての労働は,一面では,生理学的意味における人間力の支出であり,この間等な人間労働という資格において〔a ce titre〕,それは商品の価値を形成する〔former〕。他面において,すべての労働は,特殊な目的によって規定された,あれやこれやの生産的形態のもとでの人間力の支出であって,この具体的および有用的労働という資格において,それは使用価値あるいは有用物を生産する〔produire〕。商品が価値であるためには,何よりもまず有用物であらねばならぬのと同様に,労働が人間力の支出,語の抽象的意味における人間労働とみなされるためには,何よりもまず有用的であらねばならない。
今までは価値の実体および価値量が規定された。残るは価値の形態を分析することである。》(La.18.Ⅰ-Ⅱ,----大月版①六三ページに該当)

右の文中の第2文と第3文とが,現行版のさきの命題に相当する。その前後の文章が現行版にない補足記述である。このなかでは,とくに第1文が,労働の二重性ということは,商品のなかに二種類の労働があるという意味ではなくて,同一の労働がそれ自体で対立をふくんでいるという意味だと述べているのは,きわめて重要な点である。これはのちに生産物の価値形成過程における労働の二面的作用(価値移転プラス価値創造)をのべたところで,〈労働者は,同じ時間に二重に労働するのではない〉((La.85.Ⅰ)としているのと照応するものである。
改行後の補足文は,これまでの価値の実体,価値の量の研究から価値の形態の研究へ移ろうとするつながりをガイドしたもので,『資本論』初版一三ページに同趣旨の文章がある。


④ フランス語版 江夏訳p16
上述の結果,次のことが生ずる。すなわち,厳密に言って,二種類の労働が商品のなかにあるわけではないが,労働をその生産物としての商品の使用価値に関連づけるか,または,その純粋に客体的な表現としての商品の価値に関連づけるかにしたがって,その商品のなかで同じ労働が自己とは反対のものになる,ということ。どんな労働も一方では,生理学的な意味で人間労働力の支出であり,この同等な人間労働という資格において商品の価値を形成する。他方,どんな労働も,特殊な目的によって規定されるなんらかの生産形態のもとでの,人間労働力の支出であって,この具体的な有用労働という資格において使用価値あるいは有用性を生産する。商品が価値であるためには,商品はなによりもまず有用でなければならないのと同じように,労働が人間労働力の支出,言葉の抽象的な意味での人間労働と見なされるためには,労働はなによりもまず有用でなければならない。

⑤ 初版 岡崎訳 p39・40
以上に述べたことからは次のような結論が出てくる。すなわち,商品のなかには,もちろん,二つの違った種類の労働が含まれているわけではないが,しかし,同じ労働が,その労働の生産物としての商品の使用価値に関連して見られるか,それとも,その労働の単に対象的な表現としての商品価値に関連して見られるか,によって,違った規定を受けるし,また,対立的にさえ規定されている,ということである。商品は,価値であるためには,なによりもまず使用対象でなければならないのであるが,それと同様に,労働も,人間の労働力の支出として,したがってまた単なる人間労働として,数えられるためには,なによりもまず有用な労働,すなわち目的を規定された生産的な活動でなければならないのである。



▲9月23日に誤字を訂正しました。
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by shihonron | 2008-09-01 23:30 | 学習会の報告