『資本論』を読む会の報告

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2008年 10月 28日

第119回 10月28日 第1章 商品 第3節 A 3 等価形態 その1

10月28日(火)に第119回の学習会を行いました。 「読む会通信№310」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 3 等価形態」の第9段落から最後(第17段落)までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態
3 等価形態


第9段落
・等価物として役立つ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ。しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。
・つまり、この具体的な労働が抽象的・人間的労働の表現になるのである。
・たとえば、上着が抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。・リンネルの価値表現では、裁縫の有用性は、それが衣服をつくり。したがって人品をもつくるということにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。
・このような価値鏡をつくるためには、裁縫そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。

★《抽象的人間労働の具体化》《抽象的人間労働の単なる実現形態》《それ自身が価値であると見られるような物体》「抽象的人間労働の凝固であると見られるような物体」――これらはすべて「価値体」のことであろう。

★「価値鏡」とは、価値を映し出す鏡という意味だろう。その映し出すものは20エレのリンネル=1着の上着 においては20エレのリンネルの価値である。鏡は自分自身を映し出すことはないのである。
                 
第10段落
・裁縫の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が支出される。
・それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。
・こういうことは、なにも神秘的なことではない。
・ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまうのである。
・たとえば、織布はその織布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布にたいして、裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。

■久留間鮫造氏は『貨幣論』の中で、《等価形態のところにも、「回り道」の理解に資する個所があるのですが、とくに、第二の特色のところには注目すべき叙述があります。『レキシコン』では現行版からの引用(『資本論』Ⅰ、七〇頁-七三頁)、「貨幣Ⅰ」[一五]しか入れませんでしたが、初版付録のなかの「β等価形態の第二の特色――具体的労働がその反対物である抽象的人間的労働になる」の部分は重要ですから、ちょっと読んでみましょう。》と述べて以下の個所を紹介しています。
《 上着はリンネルの価値表現のなかでは価値体として意義をもち、それゆえ上着の物体形態または自然形態は価値形態として、すなわち無区別な人間的労働の・人間的労働そのもの(schlechthin)の・体化として、意義を持もつ。しかし、上着という有用物をつくりその特定の形態を与える労働は、抽象的人間的労働・人間的労働そのもの(schlechthin)・ではなくて、一定の、有用的な、具体的な労働種類、すなわち裁縫労働である。簡単な相対的価値形態が必要とするのは、一商品、たとえばリンネルの価値がただ一つの他の商品種類でだけ表現されるということである。しかし、どれがこの他の商品種類かということは、簡単な価値形態にとってはまったくどうでもよいことである。リンネル価値は、商品種類上着ででなければ商品種類小麦ででも、あるいは、商品種類小麦ででなければ商品種類鉄、等々ででも、表現されることができよう。しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネルにとって価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化として、意義をもつであろう。しかもつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、抽象的人間的労働の体化ではなく、裁縫労働なり農民労働なり鉱山労働なり、とにかく一定の、具体的な、有用的な労働種類の体化であり続けるだろう。したがって、等価物の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のなかでは、つねに必然的に、人間的労働そのもの(schlechthin)の・すなわち抽象的人間的労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならないのである。たとえば上着が価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化として、意義をもつことができるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間的労働力が支出されるところの・すなわちそれにおいて抽象的人間的労働が実現されるところの・特定の形態として、意義をもつかぎりにおいてでしかない。
 価値関係およびそれに含まれている価値表現の内部では、抽象的一般的なものが具体的なもの、感覚的現実的なものの属性として意義をもつのではなく、逆に、感覚的具体的なものが、抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として意義をもつのである。たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるということが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのである。この取り違え(quid pro quo)は不可避である。なぜなら、労働生産物で表されている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無区別な人間的労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が異種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてでしかないからである。
 この転倒によって、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として意義をもつにすぎず、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として意義をもつのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づける。それは同時に、価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とはともに法である、と言うのなら、それは自明なことである。これに反して、もし私が、そも法なるものが、この抽象物(abstraktum)がローマ法において、および、ドイツ法において、これらの具体的な法において、実現される、と言えば、その関連は神秘的なものになるのである。》(『資本論』Ⅰ、初版、七七〇-七七一ページ。強調-マルクス)――『貨幣論』より重引117-118頁 『貨幣論』では強調は傍点ですがここでは太字で表現しました――

第11段落
・だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。

●現行版では等価形態の特色として3つがあげられているが、初版では《θ等価形態の第四の特色。商品形態の呪物崇拝は等価形態においては相対的価値形態におけるよりもいっそう顕著である。》と述べられていることが紹介されました。

第12段落
・しかしてこの具体的労働、裁縫が無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それは、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。
・それだからこそ、この労働は、他の商品と直接に交換されうる生産物となって現れるのである。
・だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。

●私的労働、社会的労働とはどういうことかが問題になりました。「私的労働はそれぞれの人がが勝手にやる労働といえるのではないか」「社会的労働とは社会の総労働の一環としてなされる労働ではないか」との発言がありました。

■《私的諸労働の社会的総労働にたいする連関は独自な形態をとる 商品生産もまた一種の社会的生産である。すなわち労働する諸個人は互いに無関係に自給自足の生活を行うのではなく、彼らは、彼らの総労働によって生産された社会的総生産物のなかから、彼らの欲求を充たすのに必要な生産物を入手して生活する。そのためには、なによりもまず、社会の総労働は、社会の必要とするさまざまの生産物を生産するためのさまざまの具体的労働の形態をとらなければならず、そのようなさまざまの労働部門に配分されなければならない。つまり社会的分業(division of labor)が行われなければならない。さらに、社会的分業によって生産されたさまざまの種類の生産物が、なんらかの仕方で労働する諸個人(およびその他の社会成員)に分配されなければならない。
 商品生産以外の社会的生産では、社会全体のさまざまの欲求の総体に対応する社会的分業のあり方も総生産物の分配のあり方も、ともに一見して明白である。すなわち、なんらかの共同体組織なり、支配者である特定の個人なり、支配階級を形成する諸個人なり、意識的に連合した自由な個人なりが、その意志にもとづいて意識的に、社会的総労働(抽象的労働)をさまざまの具体的労働に配分し、総生産物を生産手段および消費手段として同じく意識的に配分ないし分配する。その意志が独裁的なものである場合もあれば、民主的に形成される場合もあるであろうし、またそれが主として伝統に頼るだけの場合もあれば、多分に恣意的である場合もあり、また周到に計画されたものであることもあるであろうが、いずれにせよ、社会的分業のシステムや社会的分配の方法は、人間の意志によって意識的に決定されているのである。(中略)
 もちろん商品生産の場合にも、なんらかの仕方で、社会の総欲求に対応する社会的分業の有機的なシステムが形成されなければならないし、なんらかの仕方で、総生産物がそれぞれの欲求に対応するように分配されなければならない。この二つのことは、社会的生産の一般的な条件であって、それがなんらかのかたちで実現されないかぎり、社会的生産は成り立ちえないことは明らかである。
 ところが商品生産の場合には、社会的分業のシステムについても総生産物の分配についても、そのあり方を決定する個人や個人の集団がどこにも存在しない。労働する諸個人は、まったく自分の自由意志で、自分自身の判断に従って、自分自身の責任、計算において生産する。彼らの労働力の支出である労働は、各自の私事として行われる私的労働であり、直接には――労働そのものとしては――社会的性格をまったく持っていない。だから、その生産物もまた、彼らが各自で私的に取得するのであって、彼らは互いに自分の労働の生産物が各自に属することを「私的所有」として法的に承認し合うのである。彼らの生産物は私的生産物であつて、直接にはけっして社会的生産物ではないから、社会がそれを意識的に分配することもありえない。
 それでは、分業の組織や生産物の配分の方法を決める者がぜんぜんいないのに、どのようにして、商品生産は社会的生産の一つのシステムとして成り立ちうるのであろうか?
 商品生産者たちは彼らのあいだの生産関係を、直接彼ら自身のあいだの――直接に人間と人間とのあいだの――関係として取り結ぶことはないが、そのかわりに一種の回り道をして、すなわち彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ぶのである。
 
  私的労働が商品価値に媒介されてはじめて社会的労働になる

 それでは、商品生産者たちのあいだの生産関係は、どのようにして、彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ばれるのであろうか、言い換えれば、彼らの生産物の商品としての交換関係は、どのようにして、商品生産者たちのあいだの生産関係を媒介するのであろうか?
 商品は種々さまざまのものから成っており、使用価値としては千差万別である。だからこそそれらは交換されるのである。すなわち交換は、商品の使用価値としての相互の差異を前提する。だがそれだけではまだ交換は行われない。その上にさらに、Aの所有する物はAにとっては使用価値ではないがBにとっては有用であり、反対にまた、Bの所有する物はBにとって使用価値ではないが、Aにとっては有用である、ということを前提する。そうしてはじめて彼らは交換することになる。
 けれども、こうしたことは交換が行われるための条件であるには違いないが、これらの条件だけで直ちに生産物の商品としての交換が生じるとは言えない。たとえば、もう飽きたゲームソフトをもっている太郎と要らないサッカーボールをもっている花子とがそれらの物を互いに交換したとしても、それは商品の交換ではない。なぜなら、この交換はおよそ、それの媒介によって彼らのあいだに社会的生産のシステムが成立する、という性質のものではないからである。
 それでは、商品の交換を特徴づけるものはなんであろうか? それはいま述べたような、たんに人びとの所有する物の使用価値としての相互の差異、ないしはそれらの物と人間の欲求との関連ではなくて、むしろ、使用価値としての相互の差異にもかかわらず諸商品が互いに価値として等しいとされる関係、すなわちそれらの価値関係である。商品は使用価値としては千差万別であるが、価値としては無差別一様である。だからこそ、どの商品もみな一様に金何円という形態、すなわち価格をもつのであるが、この価格において表示される価値によって、商品生産者たちの労働ははじめて統一性を獲得するのである。
 商品生産者の労働は、すでに述べたように、直接に労働としては社会的な統一性をもっておらず、社会的な性格をもっていない。それは、労働する諸個人が私的な諸個人であることから出てくる必然的な結果である。彼らの労働は直接には社会的労働ではありえない。すなわち商品生産の場合には、はじめから労働力が社会の総労働力として存在し、それが種々の生産目的のために、あるいは耕作労働として、あるいは紡績労働として支出されるというふうにはことが運ばない。もしそうであれば、労働はそのアクティブな状態において、それが行われる瞬間から、直接に労働として、そしてまた、あるいは耕作労働、あるいは紡績労働といったふうな、それぞれ異なる特殊的な、具体的労働として、その自然のままの姿において、立派に社会的な性格をもつであろう。ところが、商品生産者の場合はそうはいかない。
 だがそのかわりに、彼らの労働は生産物に対象化されて、生産物の価値を形成するのである。価値としてはすべての労働は無差別一様であり、たんに量的な差異があるだけで質的な差異はもたない。商品生産者の労働はこういうかたちで――すなわち第1には、労働そのものの性質としてではなく労働の生産物の性質というかたちで、さらに第2には、生産物の自然的な、例えば米なら米、布なら布といったふうの、それぞれ違った使用目的に役立つ使用価値としてではなく、無差別一様な価値性質というかたちで――はじめてそれらのあいだの統一性を獲得し、それによってはじめて社会的な労働になるのである。換言すれば、社会がその総欲求の充足のために費やす総労働時間の一部としての、すなわち社会の総労働力の支出の一部としての意味を持つようになるのである。
 だから、商品生産の場合には、生産者間の社会関係は他の社会的生産の場合とはまったく逆の仕方で取り結ばれるのであり、すべてが転倒して現れることになる。最初にまず人間の関係が取り結ばれて、それに従って社会的生産が行われるのではなく、最初にまず、相互に独立して行われる私的な労働の生産物がお互いに価値において等しいとされ、交換される。そしてそれによって、商品生産者の労働もまた、価値を生産するかぎりではなんらの差異がないものとされ、無区別で一様な抽象的人間的労働に還元される。そしてこのような一種独特な形態においてはじめて商品生産者の労働は統一性を獲得し、社会の総労働力の支出の一部だということになるのである。
 要約しよう
 商品生産は、相互に自立した私的生産者としての労働する諸個人によって行われる社会的生産である。直接には私的な彼らの労働は、その生産物の交換の関係においてはじめて独自の社会的形態を獲得する。すなわち彼らの労働の生産物は、それらの交換の関係において、使用価値としての千差万別のすがたにもかかわらず価値として相互に等置されるのであるが、これによって彼らの労働もまた、使用価値を生産する労働としてのあらゆる現実の差異にもかかわらず、価値を形成するかぎりにおいてはそれらの差異を捨象されて、無区別一様な人間的労働、すなわち人間的労働力のたんなる支出の一定量にほかならないものとされるのである。そして、この一般的な人間的労働の結晶としての「価値」の形態において――生産物の価値というこの物的形態において――はじめて商品生産者の労働は、社会がその欲求の充足のために支出する総労働時間中の一定量を意味するものとなりうるのである。
 商品生産関係とは、私的生産者たちが彼らの労働生産物の商品形態をつうじてはじめて互いに取り結ぶ社会的関係であって、彼らの私的労働が生産物の価値をつうじてはじめて社会的労働になるという独自な生産関係にほかならない。
 商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた人間が商品所持者として相互に関わり合う関係が支配的な社会的関係であるような社会を商品生産社会と呼ぶことができるが、このような社会はじつは資本主義社会であって、資本主義社会とは異なる商品生産社会なるものは歴史的に存在しない。なぜなら、資本主義社会においてはじめて、社会をたえず再生産する労働する諸個人が彼の必要生産物ないし労働ファンドのすべてを商品市場で買わなければならない諸関係が、すなわち資本・賃労働関係が発展するのだからである。なぜ、資本主義社会では労働する諸個人が自己の必要生産物を市場で買わなければならないのか、という点については、のちに資本のところで立ち入って説明することになるが、その要点は、彼らは、労働するための諸条件を持っていないので、必要生産物を入手するためには、まずもって自分の労働力を労働市場で商品として売り、その代金である貨幣すなわち賃銀で必要生産物を買わなければならないのだ、というところにある。》
(大谷禎之介「商品および商品生産」 「経済志林」第61巻第2号 85-93頁)


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by shihonron | 2008-10-28 23:59 | 学習会の報告
2008年 10月 28日

第119回 10月28日 第1章 商品 第3節 A 3 等価形態 その2


第13段落
・最後に展開された等価形態の二つの特色は、価値形態を他の多くの思考形態や社会形態や自然形態とともにはじめて分析したあの偉大な探究者にさかのぼってみれば、もっと理解しやすいものになる。
・その人は、アリストテレスである。

■アリストテレス [Aristotelēs]
(前384-前322) 古代ギリシャの哲学者。プラトンの弟子。アレクサンドロス大王の師。アテネ郊外に学園リュケイオンを創設。その学徒は逍遥(ペリパトス)学派と呼ばれる。プラトンのイデア論を批判し、形相(エイドス)は現実の個物において内在・実現されるとし、あらゆる存在を説明する古代で最大の学的体系を立てた。中世スコラ哲学をはじめ、後世の学問への影響は大きい。主な著作に、後世「オルガノン」と総称される論理学関係の諸著書、自然学関係の「動物誌」「自然学」、存在自体を問う「形而上学」、実践学に関する「ニコマコス倫理学」「政治学」、カタルシスを説く「詩学」などがある。 (大辞林 第二版より)

第14段落
・アリストテレスがまず第一に明言しているのは、商品の貨幣形態は、ただ単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわちある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそうの発展した姿でしかないということである。
・というのは、彼は次のように言っているからである。 
「5台の寝台=1軒の家」("Κλιναι πεντε αντι οικιαζ")
というのは、
「5台の寝台=これこれの額の貨幣」("Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι")
というのと「違わない」と。

●「貨幣形態という言葉はここで最初に登場するのだろうか」との疑問が出され、「ここが最初ではなく第3節の最初の部分ででている。それが本文では最初だ」との発言がありました。

■《諸商品は、それらの使用価値の雑多な現物形態とは著しい対照をなしている一つの共通な価値形態――貨幣形態をもっているということだけは、だれでも、ほかのことはなにも知っていなくても、よく知っていることである。しかし、いまここでなされなければならないことは、ブルジョア経済学によってただ試みられたことさえないこと、すなわち、この貨幣形態の生成を示すことであり、したがって、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をその最も単純な最も目だたない姿から光まばゆい貨幣形態に至るまで追跡することである。
・これによって同時に貨幣の謎も消えさるのである。》(国民文庫93-94頁・原頁62)

第15段落
・彼は、さらに、この価値表現がひそんでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とするということ、そして、これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係することはできないであろうということを見ぬいている。
・彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」("ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ")と。
・ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。
・「しかしこのように種類の違う諸物が通約可能だということ」すなわち、質的に等しいということは、「ほんとうは不可能なのだ」("τη μεν ουν αληθεια αδυνατον")と。
・このような等置は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない。
・つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。

第16段落・つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念がなかったからだということを、自分でわれわれに語っているのである。
・この同等なもの、すなわち、寝台の価値表現のなかで家が寝台のために表している共通な実体は、なんであるか? そのようなものは「ほんとうは存在しえないのだ」とアリストテレスは言う。
・なぜか? 家が寝台にたいして或る同等なものを表しているのは、この両方のもの、寝台と家とのうちにある現実に同等なものを、家が表しているかぎりでのことである。
・そして、この同等なものは――人間労働なのである。

●「価値概念とはどのような内容か」との疑問が出され「価値とは抽象的人間的労働の対象化だということではないか」との発言がありました。これに対して「それだけではなく、その生産に必要な社会的必要労働時間によって価値量がきまることも含んでいるのではないか」との発言がありました。

第17段落
・しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって、同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。
・価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。
・しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。
・アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。
・ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」なんであるのかを、彼が見つけだすことを妨げているだけである。

●「価値表現の秘密とはどういうことか」との疑問が出されましたが、明確な結論には至りませんでした。

●「彼の生きていた社会の歴史的な限界とは何か」という疑問が出され「古代ギリシアが奴隷制の社会であったことではないか」「商品生産における自己労働に基づく生産物の所有がいまだなされていなかったことではないか」という発言がありました。

■古代ギリシャ・ローマの奴隷制 ホメロスの叙事詩には、戦争捕虜が奴隷とされていたことがしるされている。アリストテレスは、忠実な奴隷にはその報償として自由をあたえるべきだ、と提唱しているが、一般に古代ギリシャ後期の哲学者たちは、奴隷制を道徳的に問題のある制度とはみていなかった。古代ギリシャでは、奴隷はおおむね人道的な扱いをうけていたが、スパルタでは、被征服民の子孫で奴隷化されたヘロット(ヘイロータイ)が市民よりはるかに多かったため、苛酷な待遇をうけた。一般的に、奴隷は家内の雑務や手工業、農業に従事し、船員や船のこぎ手としてつかわれることもあり、家内奴隷の場合は、主人と親密な関係になることもまれではなかった。

古代ギリシャにくらべ、古代ローマの奴隷主は奴隷に対して法的により大きな権力をふるい、生かすも殺すも意のままだった。ローマ帝国では、奴隷制はきわめて重要な経済的・社会的制度で、社会の存立そのものが多数の奴隷に依存せざるをえなかった。ローマ帝国が諸外国を征服し領土を拡張するにしたがって必然的に労働力不足を生み、奴隷を獲得することが必要になり、おびただしい数の戦争捕虜を奴隷化した。結局、奴隷労働に依存しすぎたことが帝国の滅亡の一因となった。

キリスト教がローマ帝国の公認宗教になり、さらに中世にヨーロッパ全土から中東の一部にまでひろまると、奴隷の扱いに改善がみられるようになる。ローマ帝国の衰退後、5~10世紀までに何度か異民族が侵入、奴隷制はより拘束力の弱い農奴制へと変容していった。
(「MSN エンカルタ 百科事典ダイジェスト版」より)


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by shihonron | 2008-10-28 23:50 | 学習会の報告
2008年 10月 21日

第118回 10月21日 第1章 商品 第3節 A 3 等価形態

10月21日(火)に第118回の学習会を行いました。 「読む会通信№309」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 3 等価形態」の第1段落から第8段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態
3 等価形態


第1段落
・すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表すことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける。
・リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。
・だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。
・したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。

●「価値形態というと、単純な価値形態とか全体的な価値形態、一般的な価値形態、貨幣形態というような等式だと理解していたが、ここでは等価物という価値形態という表現がされている。」との発言があり、これに対して「等式全体だけではなくて、等式の左辺は相対的価値形態と名付けられている。右辺(等価形態)もまた価値形態だということではないか」との発言がありました。

●「価値存在という言葉が出てくるが、価値を持っていることという意味だと理解できる」との発言がありました。

★《リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現する》とは、リンネルによって上着は等価物にされ、リンネルに対して上着はいつでも直接に交換できる立場に立つ。この関係の中では、上着は、価値であると認められ、したがって使用価値としては異なっているが抽象的人間労働の対象化としては同じであるリンネルに直接に変わりうる(交換できる)のである。そして、リンネルは、価値以外のどんな性質も表現していない価値の具体化としての上着と等しいということを通じて、自らも価値に外ならないことを表現している。

■《しかし、質的に等置された二つの商品は、同じ役割を演ずるのではない。ただリンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか?リンネルが自分の「等価物」または自分と「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関係によって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、認められる。なぜならば、このような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである。他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち独立な表現を与えられる。なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係することができるからである。》(国民文庫97頁・原ページ64)

■フランス語版には次のような記述がある。
《すべての商品は、価値としては人間労働という同じ単位の同等な表現であり。相互に置き換えることができる。したがって、商品が価値として現れる形態をもつやいなや、この商品は別の商品と交換可能なものになる。》(26頁)

第2段落
・或る一つの商品種類、たとえば上着が、別の商品種類、たとえばリンネルのために、等価物として役立ち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという独特な属性を受け取るとしても、それによっては、上着とリンネルとの交換されうる割合はけっして与えられてはいない。
・この割合は、リンネルの価値量が与えられているのだから、上着の価値量によって定まる。
・上着が等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、また逆にリンネルが等価物として表現され、上着が相対的価値として表現されていようと、上着の価値量は、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって、したがって上着の価値形態にかかわりなく、規定されている。
・しかし、商品種類上着が価値表現において等価物の地位を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられていない。
・この商品種類は価値等式のなかではむしろ或る物の一定量として現れるだけである。

●「《リンネルの価値量が与えられている》と述べられているがどういうことだろうか」との疑問が出され「ここでは、ある一定量のリンネル(例では20エレ)の価値表現が問題にされている、ある一定量のリンネルの価値量は与えられているという意味。等式で言えば20エレのリンネル=x着の上着ということだろう。」との結論になりました。

●「《或る物の一定量》と書かれているが、この《或る物》とはどういう物か」との疑問が出され、「商品の現物形態(上着という使用価値)という意味だろう」という結論になりました。

第3段落
・たとえば、40エレのリンネルは「値する」――なにに? 2着の上着に。
・商品種類上着がここでは等価物の役割を演じ、使用価値上着がリンネルにたいして価値体として認められているので、一定量の上着はまた一定の価値量リンネルを表現するのに足りるのである。
・したがって、2着の上着は40エレのリンネルの価値量を表現することはできるが、しかしそれはそれ自身の価値量を表現することはけっしてできないのである。
・価値等式における等価物は、つねに、ただ、ある物の、ある使用価値の、単純な量の形態をもっているだけだというこの事実の皮相なな理解は、ベーリをもその多くの先行者や後続者をも惑わして、価値表現のうちに単なる量的な関係を見るに至らせたのである。
・そうではなくて、一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいないのである。

★《一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいない》というのは「等価物商品(上着)の価値の大きさは表現されない」ということではないだろうか。

■「A 1価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態」の第3段落では《つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表しているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。》と述べられていた。(国民文庫95頁・原ページ63)

●フランス語版では、この段落にあたる箇所の後に《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。》という記述があることが紹介され「等価形態が含んでいる矛盾とはどういうものだろう」との疑問が出されました。これについては、これから考えていくことになりました。

第4段落
・等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。

第5段落
・商品の現物形態が価値形態になるのである。
・だがよく注意せよ。
・この取り替え[Quidproquo]が一商品B(上着や小麦や鉄など)にとって起きるのは、ただ任意の他の一商品A(リンネルなど)が商品Bに対してとる価値関係のなかだけでのことである。
・どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。
・すなわち、他の商品の現物形態の皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。

■《取り替え[Quidproquo]》は、新日本版では《“入れ替わり”》、長谷部訳では《交替》、マルクスコレクション版では《換位[Quid pro quo]位置の取り換え》、フランス語版では《取り替え》と訳されている。

●久留間鮫造氏は、「頓珍漢事」という表現をしていたということが紹介されました。

■【頓珍漢】(名・形動)〔鍛冶(かじ)屋の相槌(あいづち)の音から来た語。いつも交互に打たれてそろわないことから〕
(1)物事のつじつまが合わないこと。行き違ったりちぐはぐになったりすること。また、そのさま。
「―な会話」「―な返事」
(2)とんまな言動をする・こと(さま)。
「―な男で、しくじってばかりいる」「この―め」 (大辞林 第二版より)

■《マルクスが使っているこの〈入れ替わり[Quidproquo]〉という表現は、あるものとあるものとが、入れ替わって現れることであって、それによって人びとが欺かれることになる。たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴェ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナが衣装を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが〈入れ替わり〉である。》(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号191頁)

●初版の付録「価値形態」(国民文庫『資本論第1巻初版』143頁・原ページ771頁)において「この取り違えは不可避である」と述べられていることが紹介されました。これについては今後の課題としました。

第6段落
・このことをわかりやすくするのは、商品体としての商品体に、すなわち使用価値としての商品体にあてがわれる尺度の例であろう。
・棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じたりすることはできない。
・そこで、われわれは重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。
・鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。
・それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。
・この関係のなかでは、鉄は重さ以外のなにものをも表していない物体とみなされるのである。
・それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体にたいしてたんなる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。
・この役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。
・もしこの両方の物に重さがないとすれば、それらの物はこのような関係にはいることはできないであろうし、したがって一方のものが他方のものの重さの表現に役立つこともできないであろう。
・両方を秤の皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであるということが、実際にわかるのである。
・鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。

★《上着体》とは、上着の現物形態ということだろう。

■【分銅】竿秤(さおばかり)や天秤(てんびん)とともに用いて、物の目方を量る際に標準とする金属製のおもり。

★分銅は、重さの現象形態である。重さの表現においては、分銅は、重さの具体化(その現物形態で重量を表している物=「重量体」)としてのみ認められる。

第7段落
・とはいえ、類似はここまでである。
・鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表している――、ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方の物の超自然的な属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的な或るものを代表しているのである。

●「《純粋に社会的な或るもの》とはなにか」という疑問が出されました。これに関連して「価値とは関係だということが最初はなかなか理解できなかった」という発言がありました。この箇所の理解については、今後の課題となりました。

第8段落
・ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。
・等価形態については、逆である。
・等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。
・いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。
・しかし、ある物の諸属性は、その物の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。
・それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現れるとき、はじめてブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。
・そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。
・彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。

●「《ある物の諸属性は、その物の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけ》という考えは正しいと言えないのではないか」との疑問が出されましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

●「《等価形態の謎》とは、どのような内容なのか」という疑問が出されました。

■大谷禎之介氏は「貨幣形態の謎」と「貨幣の謎」について次のように述べている。
《物である金(Au)の量が価値の量を表現する、というようなことがいったいどのようにして可能なのであろうか。これは、われわれのこれまでの分析で得たところから見るならば、一つの謎だと言わなければならない。ここでは商品の価値が貨幣という形態をとっているので、この謎を〈貨幣形態の謎〉と呼ぶ。
 さらに、商品はすべて、20エレのリンネル=100円、1着のシャツ=40円、1tの鉄=10万円、等々といった価格をもっており、すべての商品の価値が金の一定量で表現されているので、金はあらゆる商品と直接に交換できる。つまり、金は、その現物形態そのものが価値物として、価値のかたまりとして通用する、一種独特のものとなっている。
 ここにも一つの謎がある。物である金、使用価値としての金が、それの反対物である価値そのものとして通用することの謎、〈貨幣の謎〉である。》(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号156-157頁)

▼11月3日に誤字を訂正しました。


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by shihonron | 2008-10-21 23:30 | 学習会の報告
2008年 10月 07日

第117 回 10月7日 第1章 商品 第3節 A 2 b

10月7日(火)に第117回の学習会を行いました。 「読む会通信№308」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 2 b 相対的価値形態の量的規定性」の第1段落から最後(第8段落)までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態
2 相対的価値形態 b 相対的価値形態の量的規定性


第1段落
・その価値が表現されるべき商品は、それぞれ与えられた量の使用対象であって、15シェッフェルの小麦とか100ポンドのコーヒーとかいうものである。
・この与えられた商品量は一定量の人間労働を含んでいる。
・だから、価値形態は、ただ価値一般だけではなく、量的に規定された価値すなわち価値量をも表現しなければならない。
・それゆえ、商品Aの商品Bにたいする価値関係、リンネルの上着にたいする価値関係のなかでは、上着という商品種類がただ価値体一般としてリンネルに質的に等置されるだけではなく、一定量のリンネル量、たとえば20エレのリンネルに、一定量の価値体または等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。

★ある商品の価値が他の商品の使用価値によって表現されることを「a 相対的価値表現の内実」で確認した。リンネル=上着 においては、リンネルはその価値(リンネルが価値であること、リンネルには抽象的・人間的労働が対象化されていること)を、上着を自らに等置することによって表現する。リンネルの価値関係の中では、上着は「具体化された価値」(価値体)としてのみ認められ、その上着と等しいということによってリンネルもまた価値であることが表現される。そして、今度は、価値であるということ(質的表現)だけではなく、一定量の価値であること(価値量の表現)がどのようになされるかを問題にしている。

第2段落
・「20エレのリンネル=1着の上着、または、20エレのリンネルは1着の上着に値する」という等式は。1着の上着に、20エレのリンネルに含まれているのとちょうど同じ量の価値実体が含まれているということ、したがって両方の商品量に等量の労働または等しい労働時間が費やされているということを前提する。
・しかし、20エレのリンネルまたは1着の上着の生産に必要な労働時間は、織布または裁縫の生産力の変動につれて変動する。
・そこで次にはこのような変動が価値量の相対的表現に及ぼす影響をもっと詳しく研究しなければならない。

★生産力の変動が、価値量の相対的表現に及ぼす影響をこれからみていく。

第3段落
・Ⅰ リンネルの価値は変動するが、上着価値は不変だという場合。
・リンネルの生産に必要な労働時間が、たとえば亜麻を生産する土地の不毛度の増進のために、二倍になれば、リンネルの価値は二倍になる。
・20エレのリンネル=1着の上着 に代わって、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。
・というのは、1着の上着はいまでは20エレのリンネルの半分の労働時間しか含んでいないからである。
・これに反して、リンネルの生産に必要な労働時間が、たとえば織機の改良によって、半分に下落すれば、リンネルの価値は半分に低下する。
・したがって、今度は 20エレのリンネル=1/2着の上着 となる。
・つまり、使用価値Aの相対的価値、すなわち商品Bで表された商品Aの価値は、商品Bの価値が同じままだあっても、商品Aの価値に比例して上昇または低下するのである。

●マルクスがここで「20エレのリンネル=1/2着の上着」という等式を書いていることをとらえて、1/2着の上着は使用価値を持たないからこの等式はおかしいと批判する論者がいることが紹介されました。

★生産物は、使用価値を持たなければ価値を持つこともないというのはその通りだが、価値形態を分析している中でマルクスが「20エレのリンネル=1/2着の上着」という等式を書いていることは誤りであろうか? ここでは、比率の変化が起きることを問題にしているのであって、批判者は、何が課題になっているかを理解していないように思える。さらにいえば、相対的価値形態にある商品の価値は等価形態にある商品の使用価値で表現されるのだが、等価形態にある商品の「使用価値としての使用価値」はここでは問題にならない。等価形態にある商品は、ただ「価値の具体化(価値体)」としてのみ認められるのである。1/2着の上着が、役に立たない=使用価値を持たないというのはたしかだが、「20エレのリンネル=1/2着の上着」という価値表現においては「使用価値としての上着」は問題にならないのである。

第4段落
・Ⅱ リンネルの価値は不変のままであるが、上着価値は変動するという場合。
・このような事情のもとで、たとえば羊毛刈りの不出来のために上着の生産に必要な労働時間が二倍になれば、20エレのリンネル=1着の上着 に代わって、いまでは、 20エレのリンネル=1/2着の上着 となる。
・逆に上着の価値が半減すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となる。
・それゆえ、商品Aの価値が同じままであっても、商品Aの相対的な、商品Bで表された価値は、Bの価値変動に反比例して低下または上昇するのである。

第5段落
・ⅠとⅡに属するいろいろな場合を比べてみれば、相対的価値の同じ量的変動が正反対の原因から生じうるということがわかる。
・そこで、20エレのリンネル=1着の上着 が(1)20エレのリンネル=2着の上着 という等式になるのは、リンネルの価値が二倍になるかまたは上着の価値が半分に減るからであり、また(2)20エレのリンネル=1/2着の上着 という等式になるのは、リンネルの価値が半分に下がるか上着の価値が二倍に上がるかするからである。

第6段落
・Ⅲ リンネルと上着の生産に必要な労働量が、同時に、同じ方向に、同じ割合で変動することもありうる。
・この場合には、これらの商品の価値がどんなに変化しても、やはり20エレのリンネル=1着の上着 である。
・これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値の変わっていない第三の商品と比べてみれば、すぐに見いだされる。
・かりにすべての商品の価値が同時に同じ割合で上昇または低下するとすれば、諸商品の相対的価値は不変なままであろう。
・諸商品の現実の価値変動は、同じ労働時間でいまでは一般的に以前よりも多量かまたはより少量の商品が供給されるということから知られるであろう。

●「諸商品の現実の価値変動は、流通の場面ではなく、生産の場面でのみ知ることができる」との発言がありました。

★「一般的に」とマルクスは書いている。「個別的」ではなく「社会的」ということを意味していると思える。価値量を規定するのは、その生産に社会的に必要な労働時間である。

第7段落
・Ⅳ リンネルと上着のそれぞれの生産に必要な労働時間、したがってまたそれらの価値が、同時に同じ方向にではあるがしかし同じでない程度でとか、または反対の方向にとか、その他いろいろな仕方で変動することがありうる。
・考えられるかぎりのすべてのこの種の組合せが一商品の相対的価値に及ぼす影響は、ⅠとⅡとⅢの場合の応用によって簡単にわかる。

★20エレのリンネルの生産に必要な労働時間が10時間から20時間に変動し、1着の上着の生産に必要な労働時間が10時間から40時間に変動するなら、20エレのリンネル=1/2着の上着 ということになる。

★20エレのリンネルの生産に必要な労働時間が10時間から15時間に変動し、1着の上着の生産に必要な労働時間が10時間から5時間に変動するなら、20エレのリンネル=3着の上着 ということになる。

第8段落
・こういうわけで、価値量の現実の変動は、価値量の相対的表現または相対的価値の大きさには明確にも完全にも反映しないのである。
・一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも変動することがありうる。
・その商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありうる。
・そして、最後に、その商品の価値量とこの価値量の相対的表現とに同時に生ずる変動が互いに一致する必要は少しもないのである。

▼10月27日に誤字を訂正しました。


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by shihonron | 2008-10-07 23:30 | 学習会の報告