『資本論』を読む会の報告

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2008年 11月 26日

第123回 11月26日 第1章 商品 第3節 C 1

11月26日(水)に第123回の学習会を行いました。「読む会通信№313」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「C 一般的価値形態 1 価値形態の変化した性格」の第1段落から第3段落までを輪読、検討しました。
「読む会通信№313」の記述の内、次の個所について議論になり、記述は訂正すべきだとの結論になりました。

1 展開された相対的価値形態

第1段落・ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、今では商品世界の無数の他の要素で表現される。
・他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。
・こうして、この価値そのものがはじめてほんとうに無差別な人間労働の凝固として現れる。
・なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表されているからである。
・すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。
・それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。
・商品として、リンネルはこの世界の市民である。
・同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現れる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。

★《他のどの人間労働》とは、抽象的人間労働労働のことではなく、具体的有用的労働のことをさしている。岡崎訳では、抽象的人間的労働も人間が行う労働も区別なく「人間労働」とされているが、前者は「人間的労働」という表現で区別を明らかにすべきだと思う。》

以上の引用にあるように、報告者は《他のどの人間労働》を具体的有用的労働だとしていました。しかし、新日本版の訳では「人間的労働」と訳されており、《他のどの人間労働》は抽象的人間的労働のことだとの指摘があり、そのように理解すべきだとの結論になりました。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
C 一般的価値形態


    1着の上着     =  ̄|
    10ポンドの茶   =   |
    40ポンドのコーヒー=  |
    1クォーターの小麦 = |
    2オンスの金    =  |― 20エレのリンネル
    1/2トンの鉄   =   |
    x量の商品A    =   |
    等々の商品     = _ |

1 価値形態の変化した性格

第1段落
・いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのはただ一つの商品で表しているからであり、そして(2)統一的に表している、というのは、同じ商品で表しているからである。
・諸商品の価値形態は単純であり共通であり、したがって一般的である。

■新日本版では《諸商品の価値形態は、簡単かつ共同的であり、それゆえ一般的である。》、英語版では《This form of value is elementary and the same for all, therefore general. 》となっている。

第2段落
・形態ⅠとⅡはどちらも、ただ、一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった。

★単純な価値形態(形態Ⅰ)では、一つの商品はその価値を他の一商品の使用価値で表わす。たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 というように。この等式の意味は、20エレのリンネルは価値としては1着の上着に等しいということである。あるいは、20エレのリンネルの交換価値は1着の上着であるともいえよう。ここでは、リンネルの価値は上着という使用価値で表現されており、それによってリンネの価値は、リンネルの使用価値とは違ったもの―上着と等しいもの―であることが表現されている。展開された価値形態(形態Ⅱ)では、一つの商品はその価値を他のあらゆる商品の使用価値で表わす。しかし、それは単純な価値形態の多彩な寄木細工であり、単純な価値形態と同様に相対的価値形態にある商品体の価値をその商品自身の使用価値とは違ったものとして表現するだけである。

第3段落
・第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 などという価値等式を与えた。
・上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は、鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。
・この形態が実際にはっきりと現れるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。

★第1の形態では、諸商品の価値は、統一的に表現されていないと言うことだろう。

■《直接的生産物交換は、一面では単純な価値形態の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。》(国民文庫160頁・原頁102)

■《それから、このいわゆる偶然的な価値形態は価値形態の歴史的発展の過程と関係づけることができものなのかどうか、という質問ですが、このようなことが問題になるのは、おそらく、同じ『資本論』のなかに次のような記事が見いだされるからだと思います。

第1の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10重量ポンドの茶=1/2トンの鉄 等々のような価値等式を示した。上着価値は、リンネルに等しいものとして、茶価値は、鉄に等しいものとして、というように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわちこれら上着と茶の価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。この形態が実際に現れるのは、明らかにただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品に転化される最初の時期だけである。》(『資本論』Ⅰ80頁、「貨幣Ⅰ」[20])

 なるほどここには、「この形態」は「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」に「実際に現れる」と書かれていますが、ここで「この形態」と言っているのは、左右両辺のどちらにもただ一つの種類の商品がおかれている、等式としての形態であって、これを、商品の価値表現の基本的な形態としての簡単な価値形態と同じだと読んだら、とんでもない間違いになるでしょう。商品の価値形態は、生産物がすでに商品になっており、その生産のために費やされた労働が、社会の総労働の支出の一部として商品の価値を形成していることを前提しているのであって、この商品の価値を、その商品の使用価値から区別して表現する形態が価値形態なのです。ところが、右に引用した個所で問題にされているのは、「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」のことなのだから、そこでは、生産物は交換以前にはまだ商品になっていないわけです。したがって、商品の価値形態もまだ問題になりえないはずです。しかし、このことをわきまえた上でなら、価値形態論での形態発展と歴史におけるそれとの照応関係を考えることは、もちろんそれなりに意味のあることだと思います。》(久留間鮫造『貨幣論』91-92頁)


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by shihonron | 2008-11-26 23:30 | 学習会の報告
2008年 11月 18日

第122回 11月18日 第1章 商品 第3節 B 2・3


11月18日(火)に第122回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「B 全体的な、または展開された価値形態 2 特殊的等価形態」と「3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥」を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
B 全体的な、または展開された価値形態
2 特殊的等価形態


・上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物として、したがってまた価値体として、認められている。
・これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的等価形態である。
・同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、いまでは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊な実現形態または現象形態として認められているのである。

●新日本版では《人間労働一般の特殊的な具現形態または現象形態として通用する》と訳されていることに関連して、ここでは、ヘーゲルの一般・特殊・個別といったことが意識されているのだろうかという疑問が出され、ヘーゲルの一般・特殊・個別について分かりやすく説明して欲しいとの要望が出されました。これについて「訳としては《人間労働そのもの》の方がわかりやすく適切ではないか、ことさら一般・特殊・個別を意識してはいないのではないか」という発言がありました。また、普遍(一般)・特殊・個別については「一般は普遍とも呼ばれる。たとえば果物を普遍とすれば、リンゴは特殊、目の前にあるこのリンゴが個別ということになる。しかし、リンゴを普遍、国光とかデリシャスを特殊ということもでき、普遍と特殊は相対的だ」との発言がありました。

★ここでの特殊的等価形態とは、様々な商品が等価形態におかれるのだが、その中の一つということではないか。単純な価値形態では等価形態にくる商品はただ一つだけであり、それは個別的等価形態である。表題では「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」となっていた。

3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥

第1段落・第一に、商品の相対的価値表現は未完成である。
・というのは、その表示の列は完結することがないからである。
・一つの価値等式が他の等式につながってつくる連鎖は、新たな価値表現の材料を与える新たな商品種類が現れるごとに、相変わらずいくらでも引き伸ばされるものである。
・第二に、この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。
・最後に、それぞれの商品の相対的価値が、当然そうならざるをえないこととして、この展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。
・――展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。
ここでは各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで一つの特殊的等価形態なのだから、およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである。
・同様に、それぞれの特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ、人間労働の特殊的な、したがって尽きるところのない現象形態でしかない。
・人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。
・しかし、そこでは人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。

●「《どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。》と述べられているが、ここでの《相対的価値形態》とは相対的価値表現のことであり、相対的価値表現あるいは展開された価値形態とする方が適切だと思う」との発言がありました。

★《どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。》とは、商品Aの展開された価値形態は、A=B、A=C、A=D……であり、商品Bの展開された価値形態は、B=A、B=C、B=D…である。このようにどの商品の相対的価値表現においても、右辺は異なった列になることを述べていると思われる。

★《それぞれが互いに排除しあう制限された等価形態》とは、商品Aの展開された価値形態 A=B、A=C、A=D……において、BやCやDは互いに排除しあう、A=BであるならばA=CやA=Dではない。そして、A=Bは商品Aの展開された価値形態の一部、無数の等式のなかの一つにしかすぎないという点で制限されている。

第2段落
・とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計からなっているにすぎない。
・たとえば
  20エレのリンネル=1着の上着
  20エレのリンネル=10ポンドの茶
などの総計からである。

★この個所の《展開された相対的価値形態》は、「展開された価値形態」のことだと思われる。

第3段落
・しかし、これらの等式は、それぞれ、逆にすればまた次のような同じ意味の等式をも含んでいる。
すなわち
   1着の上着 =20エレのリンネル
  10ポンドの茶=20エレのリンネル
などを含んでいる。

第4段落
・じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。
・――そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc.という列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表してみれば、次のような形態が与えられる。

●「展開された価値形態から一般的価値形態への移行に際して、マルクスが《列を逆にすれば》と述べていることに対して批判する人々がいる。しかし、価値形態論の課題は貨幣形態への発展を跡づけることであり、単純な価値形態や展開された価値形態は貨幣形態を分析した結果であることを考えれば、こうした叙述も不思議ではない」との発言がありました。

■日高晋氏は「拡大された価値形態から、次の一般的価値形態への移行を『資本論』では、この形態を転倒するならば、として導いている。しかしそこでは転倒されなければならない必然性などなに一つ説明されてはいないし、また説明されることはできないのだから、この移行のばあいに形式の転倒をうんぬんすることはまちがっている。」と述べている。(法政大学通信教育部発行『経済原論(Ⅰ)』19頁)


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by shihonron | 2008-11-18 23:30 | 学習会の報告
2008年 11月 11日

第121回 11月11日 第1章 商品 第3節  B 1 展開された相対的価値形態


11月11日(火)に第121回の学習会を行いました。 「読む会通信№312」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「B 全体的な、または展開された価値形態 1 展開された相対的価値形態」を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
B 全体的な、または展開された価値形態



 z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =etc.
(20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =40ポンドのコーヒー または =1クォーターの小麦 または =2オンスの金 または =1/2トンの鉄 または =その他)

●「展開された価値形態を表すのに、後で出てくる一般的価値形態や貨幣形態のように } を用いていないが、 } を用いるべきでないということなのだろうか」との疑問が出されました。「展開された価値形態では、一つの商品(リンネル)が自分の価値を他のあらゆる商品の現物形態で表すが、それは他の商品と共同して行うわけではない。それは個別商品の私事である。他方、一般的価値形態では、相対的価値形態にあるすべての商品が歩調を合わせて共同行為としてある一つの商品(リンネル)を一般的等価物にする。 } はその共同行為を表現しているのではないか」という発言がありました。一方、「 }にそこまでの意味を持たせているのかは疑問だ。第2形態=展開された価値形態についても{ を用いて表現することはありえるし、そのようにしている人がいたように思う」との発言もありました。

■{ を用いて展開された価値形態を表現している人がいるかどうかを調べたところ、大谷禎之介『図解社会経済学』(69頁)、越村信三郎『新訂図解資本論』(23頁)においては{ を用いた表記がされていました。

1 展開された相対的価値形態

第1段落
・ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、今では商品世界の無数の他の要素で表現される。
・他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。
・こうして、この価値そのものがはじめてほんとうに無差別な人間労働の凝固として現れる。
・なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表されているからである。
・すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。
・それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。
・商品として、リンネルはこの世界の市民である。
・同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現れる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。

★《他のどの人間労働》とは、抽象的人間労働労働のことではなく、具体的有用的労働のことをさしている。岡崎訳では、抽象的人間的労働も人間が行う労働も区別なく「人間労働」とされているが、前者は「人間的労働」という表現で区別を明らかにすべきだと思う。

■《[抽象的労働=人間的労働]労働力支出としての労働とは、人間の力の支出、発揮として見られた活動である。「君はたくさん労働するが、僕はあまり労働しない」、「僕は昨日はたくさん労働したが、今日はあまり労働しなかった」、「これを生産するのには多くの労働が要るが、あれを生産するのには少しの労働しか要らない」などと言うとき、ひとは「労働」という言葉をこの意味で使っている。この意味での労働は、さまざまの具体的形態をもつ現実の労働から労働力支出という共通の質だけを抽象してみた労働だから抽象的労働と呼ばれ、またその共通の質が人間の労働力の支出だから人間的労働とも呼ばれる。抽象的労働の量は継続時間で測られる。その計測単位は、時間(time)の計測単位である、時間(hour)、分、などである。なお「人間の労働」あるいはたんに「人間労働」と言うときには、一般に、具体的労働と抽象的労働との両面をもつ人間の労働のことをさし、「人間的労働」と言うとき、つまり「的」を入れて言うときには、人間の労働の一つの側面である、人間労働力の支出としての労働(つまり抽象的労働)のことを指す 3)。

注3)「人間の労働」あるいは「人間労働」はドイツ語のdie menschliche Arbeit (定冠詞つき)の訳語、「人間的労働」はmenschliche Arbeit (無冠詞)の訳語であって、ドイツ語では両者ははっきりと区別される。「的」の有無に注意してほしい。》(大谷禎之介『図解社会経済学』18-19頁)

★抽象的人間的労働の対象化が価値であり、具体的有用的労働の対象化が使用価値だということができる。

★織布労働=裁縫労働、織布労働=耕作労働、裁縫労働=製鉄労働…とされることによって、 裁縫労働や耕作労働や製鉄労働等々は抽象的人間的労働の現象形態となり、リンネルを織る労働もまた抽象的人間的労働にほかならないことが表現される。

★《商品として、リンネルはこの世界の市民である》とは、単なる使用価値リンネルではなく、価値形態をもったリンネルが商品世界を構成する一部だということだろう。

●注22について、S・ベーリの主張をどう評価するのか。また「リカード学説の急所とは何か」という疑問が出されました。「ベーリは同じ商品のいろいろな相対的表現があることを指摘したが、彼自身には価値概念がなかつたということではないか」「リカード学派の急所とは、価値形態についての分析がなかったということではないか」との発言がありました。

第2段落
・第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。
・これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現れてくる。
・リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表されようと、つねに同じ大きさのものである。
・二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。
・交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。

★《偶然的事実でありうる》とは、いつでも偶然的だというわけではなく、偶然的事実の場合もあるということ。リンネル商品所持者と上着商品所持者という二人の間では、価値量に対応しない割合での交換もありえるということだろうか。

★《二人の個人的商品所持者の偶然的な関係》とはどういう意味か?


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by shihonron | 2008-11-11 23:30 | 学習会の報告
2008年 11月 05日

第120回 11月5日 第1章 商品 第3節 A 4 単純な価値形態の全体

11月5日(水)に第120回の学習会を行いました。 「読む会通信№311」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 4 単純な価値形態の全体」の第1段落から最後(第7段落)までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態 
4 単純な価値形態の全体


第1段落
・ある一つの商品の単純な価値形態は、異種の一商品にたいするその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の一商品との交換関係のうちに、含まれている。
・商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。
・商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの直接的交換可能性にによって表現される。
・言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。
・この章のはじめに普通の言い方で、商品は使用価値または使用対象であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密にいえばまちがいだった。
・商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。
・商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、のあるがままのこのような二重物として現れるのであって、商品は孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにだ第二の異種の一商品にたいする価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。
・とはいえ、このことを知っておきさえすれば、さきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役立つのである。

★異種の一商品にたいするその商品の価値関係=異種の一商品との交換関係。そのうちにある一つの商品の単純な価値形態は含まれている。

●《商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。》という叙述をどう理解するかで議論がありました。ひとつの意見は「商品Aと商品Bはどちらも価値であるから等置されえる。この二つの商品に共通なものは抽象的人間労働が対象化されているというように理解できるのではないか」というもの。これに対して、もう一つの意見は「両者に共通なものはなにかというのは、価値がなんであるかを解明した第1節での課題設定であり、価値形態の分析では、価値が抽象的人間労働の対象化であることを前提にして、商品の価値がどのようにして表現されているか解明することが課題だ。」というものでした。

★《商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。》と述べられているが、これは商品Aが価値であること(価値をもっていること)が表現されるという意味だろう。どのようにしてか? 「商品A=商品B あるいは、商品Aは商品Bに値する」ということんよってである。言いかえれば、商品Bはいつでも直接に商品Aと交換されうる(商品Bは商品Aにたいして直接的交換可能性をもつ)ということによってである。ここでは商品Bの使用価値は、価値の具体化としてのみ認められ、それと等しいということを通じて商品Aも価値であることが表現される。

●《一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。》と述べられているが「独立に」とはどういうことかという疑問が出されました。

■「独立に」は、新日本版や長谷部訳、マルクスコレクション版では「自立的に」となっている。フランス語版では《換言すれば、一商品の価値は、その商品が交換価値の座に置かれることによってしか表現されないのだ。》(32頁)となっている。

★《一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。》とマルクスが述べているのは、第1節の商品の分析によって、価値とは抽象的人間的労働の対象化であり、価値の大きさはその商品の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されるということを明らかにした。しかし、《われわれが、価値としては商品は人間労働の単なる凝固である、というならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが。しかし、その商品とは違った価値形態を与えはしない》(国民文庫98頁・原頁65)。ある商品の交換価値とは、その商品とは違った価値形態なのである。「20エレのリンネル=1着の上着」 とは、「20エレのリンネルの価値(交換価値)は1着の上着だ」ということに外ならない。手につかめる形、目に見える形で、ある商品の価値が異種の商品の使用価値の一定量によって表現されることを「独立に表現」と呼んでいる。

●「《この章のはじめに普通の言い方で商品は使用価値または使用対象であるとともに交換価値である、と言った》と述べられているが、どの個所のことか? 『経済学批判』においては、価値と交換価値の区別がはっきりしていなかったといえるかもしれないが、『資本論』第1章第1節でも価値という言葉で表現していることがほとんどではないか」との発言がありました。

■《商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろものだということによって、マダム・クイックリーとは違っている。
・商品体の感覚的に粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。
・それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。
・とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的単位の諸表現であるかぎりのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であることを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現れえないということもまたおのずと明らかである。
・われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価を追跡追跡したのである。》(国民文庫93頁・原頁62)

第2段落
・われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるのであって、逆に価値や価値量がそれの交換価値から出てくるのではない。
・ところが、この逆の考え方は、重商主義者たちやその近代的蒸し返し屋であるフェリエやガニルなどの妄想でもあるとともに、彼らとは正反対の近代の自由貿易外交店員、バスティアやその仲間の妄想でもある。
・重商主義者たちは価値表現の質的な面に、したがって貨幣をその完成形態とする商品の等価形態に、重きをおいているが、これと反対に、どんな価格ででも自分の商品を売りさばかなくてはならない近代の自由貿易行商人たちは相対的価値形態の量的側面に重きをおいている。
・したがつて、彼らにとっては、商品の価値も価値量も交換関係による表現のなかよりほかにはないのであり、したがってまた、ただ日々の物価表のなかにあるだけなのである。
・スコットランド人マクラウドは、ロンバート街の混乱をきわめた諸観念をできるだけ学問らしく飾り立てるというその機能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとをみごとに総合したものになっているのである。

●「この逆の考え方の内容はどういうものか」との疑問が出され「価値や価値量が交換価値から出てくるといった考え方だろう」という結論になりました。これに関連して「重商主義者や自由貿易論者たちがそうした考え方をしていたといえるのだろうか」との疑問が出されました。これについては「重商主義者や自由貿易論者は交換価値から価値や価値量を導き出したというよりも、価値の概念などなかったといえるのではないか」との発言がありました。

●「重商主義主義者たちは、金こそ価値だという考え方をしたといえないか」との発言があり、「重商主義では、一国の冨は貨幣だという観念があり、そのため、たくさん売って少なく買うというのがモットーだった」との発言がありました。
また、「相対的価値形態の量的側面とは、自由貿易論者にとっては、自分の商品がどれだけ多く売れるかがなによりの関心事であったということだろう」という結論になりました。

第3段落
・商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。
・つまり、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の関係が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。
・つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。

■フランス語版では《商品A自然形態が使用価値形態としてのみ現われ、商品Bの自然形態が価値形態としてのみ現れる》となっている。

★20エレのリンネル=1着の上着 において、商品リンネルの現物形態は、その使用価値だけを表現している。一方、上着は、商品リンネルの価値だけを表現している。リンネルの使用価値はリンネルであり、20エレのリンネルの価値(交換価値)は1着の上着である。

●「《商品のうちに包みこまれている使用価値と価値の内的対立》とはどのようなことだろうか」との疑問が出されました。「商品の二つの側面である使用価値と価値とは相容れない性質だということではないか。使用価値は生産物が生まれながらにもっている自然的な性質であり、価値はある特定の社会で生産物が受け取る社会的性質だといったことではないか」との発言がありました。

●「対立と矛盾とはどう違うのだろう」「長谷部訳では《最初に商品は、二者闘争的なもの、すなわち使用価値および交換価値として、われわれに現象した》(第1章第2節の冒頭)というように二者闘争的という訳語が用いられているが、適切なのだろうか(岡崎訳では二面的)」といった疑問も出されましたが、今後の課題としました。

第4段落
・労働生産物は、どんな社会的状態のなかでも使用対象であるが、しかし、労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。
・それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。

●「一つの歴史的に規定された発展段階とは資本主義社会のことだろうか」との疑問が出され、「資本主義以前に商品は登場しているのだから資本主義社会を指しているとはいえないのではないか」との発言がありました。

■フランス語版では《労働生産物は、どんな社会状態においても使用価値、すなわち有用物である。だが、労働生産物が一般的に商品に転化するのは、社会の歴史的発展上の一定の時代にかぎられるのであるって、その時代は、有用物の生産に支出された労働が、この物に固有な特性、すなわち、この物の価値、という性格を帯びるような時代である。》となっている。

第5段落・単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。

第6段落
・ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aをそれ自身とは違ったなんらかの一つの商品種類にたいする交換関係のなかにおくだけであって、ほかのすべての商品との質的な同等性と量的な割合とを表すものではない。
・一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。
・こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現のなかでは、ただ一つの商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。

第7段落
・とはいえ、個別的な価値形態 はおのずともっと完全な形態に移行する。
・個別的な価値形態によっては、一商品Aの価値はただ一つの別種の商品で表現されるだけである。
・しかし、この第二の商品がどんなものであるか、上着や鉄や小麦などのどれであるかは、まったくどうでもよいのである。
・つまり、商品Aが他のどんな商品種類にたいして価値関係にはいるかにしたがって、同じ一つの商品のいろいろな単純な価値形態が生ずるのである。
・商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。
・それゆえ、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き伸ばせる列に転化するのである。

●「ここで個別的な形態という表現が登場している。表題は《単純な、個別的な、または偶然的な価値形態》であったが、略して単純な価値形態と書かれてきていた。」との発言がありました。

★《この第二の商品がどんなものであるか、上着や鉄や小麦などのどれであるかは、まったくどうでもよいの》のであり、どんな商品が等価形態におかれるかは、偶然的である。だから、単純な価値形態は、偶然的な価値形態でもある。


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by shihonron | 2008-11-05 23:30 | 学習会の報告