『資本論』を読む会の報告

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2008年 12月 16日

126回  12月16日  第1章 商品 第3節 C 3

12月16日(火)に第126回の学習会を行いました。「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「C 一般的価値形態 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係」の第5段落から最後(第7段落)までと「3 一般的価値形態から貨幣形態への移行」の最後までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。


■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
C 一般的価値形態
3 一般的価値形態から貨幣形態への移行


第5段落
・形態Ⅱでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開しうるだけである。
・言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして等価形態にあるからこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。
・ここではもはや価値等式――たとえば、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦, 等々――の二つの辺をおきかえることは、この等式の全性格を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。

第6段落
・このあとのほうの形態。すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それはただ、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、また、そのかぎりでのことである。
・したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである。*注24

注24
・じっさい、一般的直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であって、ちょうど一磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように非直接的交換可能性の形態と不可分であるということは、けっしてわからないのである。
・それだからこそ、すべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかのように妄想することもできるのであって、それは、ちょうど、すべてのカトリック教徒を教皇にすることができると妄想することもできるようなものである。
・商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろんまったく望ましいことであろう。
・この俗物的ユートピアを描きあげたものがプルドンの社会主義なのであるが、それは、私がほかのところで示したように、けっして独創という功績などのあるものではなく、むしろ彼よりもずっと前にグレーやブレーやその他の人々によってもっとずっとよく展開されたのである。
・こういうことは、このような知恵が今日でもある種の仲間のあいだでは「科学」という名のもとに流行しているということを妨げないのである。
・プルドンの学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。
・じっさい。「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるものなんだ。」

●「《一般的な社会的な相対的価値形態》の一般的、社会的とはどういうことか」との疑問が出されました。「一般的というのは、どの商品もリンネルという同じ商品の使用価値でもって自分の価値を表現していること、社会的とは個別の商品がてんでバラバラに私事として自分の価値を表現するのではなく、リンネル以外のすべての商品が歩調を合わせて自分たちの価値をリンネルの使用価値で表現しているという意味ではないか」との発言がありました。

■《いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのはただ一つの商品で表しているからであり、そして(2)統一的に表している、というのは、同じ商品で表しているからである。
・諸商品の価値形態は単純であり共通であり、したがって一般的である。》(国民文庫123頁・原頁79)

●注24の最初で述べられていることの内容が問題になり「貨幣をもっていれば何でも買うことができるが、じつは貨幣に特別な力があるわけではなく、他のすべての商品が貨幣商品を一般的等価物にした結果であるということはわからないということを述べているのではないか」という発言がありました。

●プルドンはどのように《諸商品の非直接的交換可能性から免れる》ことを説いたのかという疑問が出され、調べることになりました。

■プルードン Pierre Joseph Proudhon 1809‐65

フランスの社会思想家で,生産者の自由連合思想による社会革命と改良を説いた社会主義者。当時の多くの社会主義思想家と異なり貧しい職工の家庭に生まれる。彼はサン・シモンやヘーゲル,アダム・スミス,聖書などの本を製造する印刷工や校正係となって独学し,ヨーロッパ大陸を修業して回る熟練工として育つなかで,個性的に自立した生産者の機能的な分業が富の基礎であるにもかかわらず,その〈集合力〉が資本家によって不当に利用されていると考えるようになった。近代工業と成長期の資本主義の多面的な矛盾を指摘しながら,社会進歩への信頼感を失わず,寡占的な産業封建制から国家統制的な産業帝制への動きに産業民主制を代替させようとした。その著《貧困の哲学Syst≡me des contradictions レconomiques, ou philosophie de la mis≡re 》 (1846) で,生産者の預託による共済的な人民銀行案や,租税改革案などを説き,労働者の精神的成熟と社会統御の能力の漸次的成長を促すことを要求したため,政治的能力を過度に強調する革命家たちに反対され,とくにマルクスの《哲学の貧困》によって攻撃を受けた。パリの熟練職工の支持で 1848 年には国民議会議員となってルイ・ボナパルトの政策を批判し,投獄と亡命生活を送った。エンゲルスの《空想より科学へ》では〈批判的社会主義者〉として扱われている。空想的社会主義者に分類されることが多いが,プルードン自身は自分を〈科学的社会主義〉と呼んでおり,また職業生活以外の社会生活の多くの領域で自治 self‐government と自主管理 self‐management を進め,国や政党,経営者による上からの制御に反対した彼の思想は,マルクスやレーニンの思想を掲げる国家群の悲喜劇を前に近年再評価されている。今日でも大陸の労働運動には反インテリ的なプルードン主義の傾向が強い。また〈アナーキズム〉の名付け親ともいわれる。  川喜多 喬 (世界大百科事典)

第7段落
・反対に。一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。
・もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。
・その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表していない同義反復になるであろう。
・一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。
・一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。
・こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現れるのである。

■《20エレのリンネル=20エレのリンネルはけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルにほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。》(国民文庫95頁・原頁63)

3 一般的価値形態から貨幣形態への移行

第1段落
・一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。
・だから、それはどの商品にでも付着することができる。
・他方、ある商品が一般的等価形態(形態Ⅲ)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。
・そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。

●《一般的等価形態は価値一般の一つの形態である》とはどういうことかとの疑問が出され、「《価値一般》は《価値そのもの》という意味で用いられている」との指摘がなされましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

★単純な価値形態における個別的等価物は相対的価値形態にある一商品の価値の表現である。展開された価値形態における特殊的等価物もまた相対的価値形態にある一商品の価値の表現にすぎない。これに対して、一般的価値形態における一般的等価物は、一商品の価値ではなくあらゆる商品の価値を表現する。したがって、一般的等価形態は、なにかある特殊な商品の価値の形態にとどまらず価値一般の形態だといえるのではないだろうか。

●「マルクスは、統一的な相対的価値形態が客観的な固定性と一般的な社会的妥当性をかちえると述べているが、むしろ一般的等価物が客観的な固定性と一般的な社会的妥当性を獲得することで貨幣になるという方が分かりやすいように思う」との発言がありました。

第2段落
・そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。
・いいかえれば、貨幣として機能する。
・商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。
・このよう特権的な地位を、形態Ⅱではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態Ⅲでは自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。
・すなわち、金である。
・そこで、形態Ⅲのなかで商品リンネルを商品金に取り替えれば、次のような形態が得られる。

●「なぜ《貨幣商品》という言葉が用いられているのだろうか」との疑問が出され、「貨幣は商品にほかならないこと、商品が貨幣になることをはっきりとさせたかったからではないか」との発言がありました。

●「《ある一定の商品が歴史的にかちとった》と述べられているが、それは形態の発展そのものから論理的に金が貨幣商品になることを説くことはできないということではないか」との発言がありました。


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by shihonron | 2008-12-16 23:30 | 学習会の報告
2008年 12月 09日

第125回 12月9日 第1章 商品 第3節 C 1・2

12月9日(火)に第125回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「C 一般的価値形態 1 価値形態の変化した性格」の第9段落と「2 相対的価値形態と等価形態の発展関係」の第1段落から第4段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
C 一般的価値形態  
1 価値形態の変化した性格


第9段落
・諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。
・こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである。

■《一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。》は、マルクスコレクション版では《一般的価値形態は、それ自身の骨格によって、それが商品世界の社会的表現であることを明示している。》(104頁)、フランス語版では《一般的価値形態は、その構成自体によって、この形態が商品世界の社会的表現であることを示している。》(41頁)となっている。

●「一般的価値形態が商品世界の社会的表現であると述べられているが、どういう意味だろうか」との疑問が出されました。「展開された価値形態までは一商品の価値表現はその商品の私事、個別的なものでしかなかったが、一般的価値形態では、様々な商品の価値表現は様々な商品の共同行為としてなされている。私事ではなく社会的ということではないか」との発言がありました。

★《それ自身の構造》とは、相対的価値形態にあらゆる商品がならび、ただ一つの商品だけが一般的等価物とされているということを指している。あらゆる商品が共同して一つの商品を等価物にし、そのただ一つの商品(一般的等価物)の現物形態によって自分たちの価値を表現している。

●「《この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっている》とはどういうことだろうか」との疑問が出されました。これについて「商品生産社会においては、社会の総労働の一環であることが、抽象的・人間的労働であることとして現れるということではないか。商品生産社会において労働生産物が価値という性質を持つことの意味を述べているように思われる」との発言がありました。

2 相対的価値形態と等価形態との発展関係

第1段落
・相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。
・しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。

■《ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表しており、上着はこの価値表現の材料として役立っている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。》(国民文庫95頁・原頁63)

■《すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表すことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける。》(国民文庫106頁・原頁70)

第2段落
・商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にする。
・相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。
・さいごに、ある特別な商品種類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。

■フランス語版では《偶然的な等価物》という言葉が用いられている。(41頁)

★単純な価値形態     相対的価値形態←→個別的等価物(偶然的等価物)
 展開された価値形態 相対的価値形態←→特殊的等価物
 一般的価値形態     相対的価値形態←→一般的等価物
 
第3段落
・しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。

■《相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。》(国民文庫95頁・原頁63)

第4段落
・すでに第一の形態――20エレのリンネル=1着の上着――もこの対立を含んではいるが、それを固定させてはいない。
・同じ等式が前の方から読まれるかあとのほうから読まれるかにしたがって、リンネルと上着というような二つの商品極のそれぞれが、同じように、ある時は相対的価値形態にあり、ある時は等価形態にある。
・両極の対立をしっかりとつかんでおくには、ここではまだ骨が折れるのである。

●「岡崎訳では《しっかりとつかんでおく》となっているが、新日本訳では《固持する》と訳されている。固持するのは誰なのか」との疑問が出され、「観察者・分析者ではないか」「リンネルや上着ではないか」という二つの意見が出されました。

■長谷部訳では《このばあいでは、両極対立をとり押さえるにはまだ骨がおれる。》
マルクスコレクション版では《この段階では両極の対立を固定しようとしても、まだ相当に骨が折れる。》となっている。

■フランス語版では《この等式をあべこべに読むならば、リンネルと上着とはただたんにその役割を変えるだけだが、等式の形態は同じままである。》との記述がある。(41頁)


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by shihonron | 2008-12-09 23:30 | 学習会の報告
2008年 12月 02日

第124回 12月2日 第1章 商品 第3節 C 1

最初に掲載したものには、左辺と右辺が逆になるなど、重要な個所で誤りがありました。以下は訂正したものです。


12月2日(火)に第124回の学習会を行いました。 「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「C 一般的価値形態 1 価値形態の変化した性格」の第4段落から第8段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
C 一般的価値形態


    1着の上着     =  ̄|
    10ポンドの茶   = |
    40ポンドのコーヒー= |
    1クォーターの小麦 = |
    2オンスの金    =   |― 20エレのリンネル
    1/2トンの鉄   = |
    x量の商品A    = |
    等々の商品     = _|

1 価値形態の変化した性格

第1段落
・いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのはただ一つの商品で表しているからであり、そして(2)統一的に表している、というのは、同じ商品で表しているからである。
・諸商品の価値形態は単純であり共通であり、したがって一般的である。

■新日本版では《諸商品の価値形態は、簡単かつ共同的であり、それゆえ一般的である。》、英語版では《This form of value is elementary and the same for all, therefore general. 》となっている。

第2段落
・形態ⅠとⅡはどちらも、ただ、一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった。

★単純な価値形態(形態Ⅰ)では、一つの商品はその価値を他の一商品の使用価値で表わす。たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 というように。この等式の意味は、20エレのリンネルは価値としては1着の上着に等しいということである。あるいは、20エレのリンネルの交換価値は1着の上着であるともいえよう。ここでは、リンネルの価値は上着という使用価値で表現されており、それによってリンネルの価値は、リンネルの使用価値とは違ったもの―上着と等しいもの―であることが表現されている。展開された価値形態(形態Ⅱ)では、一つの商品はその価値を他のあらゆる商品の使用価値で表わす。しかし、それは単純な価値形態の多彩な寄木細工であり、単純な価値形態と同様に相対的価値形態にある商品の価値をその商品自身の使用価値とは違ったものとして表現するだけである。

第3段落
・第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 などという価値等式を与えた。
・上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は、鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。
・この形態が実際にはっきりと現れるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。

★第1の形態では、諸商品の価値は、統一的に表現されていないと言うことだろう。

■《直接的生産物交換は、一面では単純な価値形態の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。》(国民文庫160頁・原頁102)

■《それから、このいわゆる偶然的な価値形態は価値形態の歴史的発展の過程と関係づけることができものなのかどうか、という質問ですが、このようなことが問題になるのは、おそらく、同じ『資本論』のなかに次のような記事が見いだされるからだと思います。

第1の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10重量ポンドの茶=1/2トンの鉄 等々のような価値等式を示した。上着価値は、リンネルに等しいものとして、茶価値は、鉄に等しいものとして、というように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわちこれら上着と茶の価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。この形態が実際に現れるのは、明らかにただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品に転化される最初の時期だけである。》(『資本論』Ⅰ80頁、「貨幣Ⅰ」[20])

 なるほどここには、「この形態」は「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」に「実際に現れる」と書かれていますが、ここで「この形態」と言っているのは、左右両辺のどちらにもただ一つの種類の商品がおかれている、等式としての形態であって、これを、商品の価値表現の基本的な形態としての簡単な価値形態と同じだと読んだら、とんでもない間違いになるでしょう。商品の価値形態は、生産物がすでに商品になっており、その生産のために費やされた労働が、社会の総労働の支出の一部として商品の価値を形成していることを前提しているのであって、この商品の価値を、その商品の使用価値から区別して表現する形態が価値形態なのです。ところが、右に引用した個所で問題にされているのは、「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」のことなのだから、そこでは、生産物は交換以前にはまだ商品になっていないわけです。したがって、商品の価値形態もまだ問題になりえないはずです。しかし、このことをわきまえた上でなら、価値形態論での形態発展と歴史におけるそれとの照応関係を考えることは、もちろんそれなりに意味のあることだと思います。》(久留間鮫造『貨幣論』91-92頁)


第4段落
・第二の形態は第一の形態よりももっと完全に一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別している。
・なぜならば、たとえば上着の価値は、いまではあらゆる可能な形態で、すなわちリンネルに等しいもの、鉄に等しいもの、茶にひとしいもの、等々として、つまりただ上着に等しいものだけを除いて他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対しているからである。
・他方、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。
・なぜならば、ここではそれぞれの商品の価値表現のなかでは他のすべての商品はただ等価物の形態で現れるだけだからである。
・展開された価値形態がはじめて実際に現れるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに習慣的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。

★《一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別》するとは、一商品の価値は、その商品自身の使用価値以外のあらゆる使用価値によって表現され、価値は自分自身の使用価値とはまったく関わりないことを示しているということだろう。
単純な価値形態においては、他の一つの商品の使用価値によって相対的価値形態にある商品の価値が表現されたが、展開された価値形態においては、他のあらゆる商品の使用価値によって表現される。それによって、相対的価値形態にある商品の価値は、よりはっきりとそれ自身の使用価値から区別される。

★《上着の価値は、…ただ上着に等しいものだけを除いて他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対している》という表現について。 単純な価値形態 1着の上着=20エレのリンネル であれば、左辺の「1着の上着」はただ使用価値のみを意味しており、右辺の「20エレのリンネル」は上着の価値を表現している。商品上着は使用価値であるとともに価値なのだが、この等式においては、左辺は上着が使用価値であることを、右辺は上着が価値であることを表現している。こうして使用価値―現物形態―(左辺)は、価値(右辺)に相対しているのである。展開された価値形態においても同様である。違いは、展開された価値形態においては、右辺に相対的価値形態にある商品以外のすべての商品がおかれるということだけである。

●ここで《展開された価値形態がはじめて実際に現れる》時期についてマルクスは述べており、価値形態の発展と歴史的発展との照応関係を意識しているように思われるが、それをどのように考えるかについては価値形態論全体を終えてからの課題としました。

第5段落
・新たにえられた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類。たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表す。
・リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。
・それだからこそ。この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現れさせるのである。

★《どの商品の価値も、…いっさいの使用価値から区別され》るとはどういうことか。一般的価値形態においては、左辺に一般的等価物となる商品を除いたあらゆる商品が並び、その諸商品が足並みをそろえて自分たちの価値を、ただ一つの商品=一般的等価物商品で表している。展開された価値形態は、価値は左辺に来るあらゆる商品の使用価値とは違ったもの、上着でも茶でもコーヒー等々ではないもの(区別されたもの)であることを表現している。

●《諸商品を互いに価値として関係させる》《諸商品を互いに交換価値として現れさせる》とはどういうことかという疑問が出されました。「どの商品の価値も一般的等価物にされる商品で表されるということを言っているのではないか」「ここではまだ貨幣が登場してはいないが、諸商品が価格をもつという形で互いに交換価値として現れるのと同様なことではないか」との発言がありました。

第6段落
・前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。・どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であって、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれを成しとげるのである。
・他の諸商品は、その商品にたいして。等価物という単に受動的な役割を演ずる。
・これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。
・一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。
・そして、新たに現れるどの商品種類もこれにならわなければならない。
・こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現れてくるのである。

★単純な価値形態や展開された価値形態においては、一商品が自分の価値を表現する(自分に価値形態を与える)ことは、個別商品の私事であり、他の諸商品の価値表現とは無関係にそうすることができた。しかし、ある一つの商品を一般的等価物にする一般的価値形態においては、一般的等価物以外のすべての商品が歩調を合わせることが必要である。一商品が一般的価値表現を行うことが可能なのは、他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからである。

★「個別商品の私事」と「商品世界の共同の仕事」

★一般的価値形態は、諸商品の全面的社会的関係の現れである。
 「商品世界」=「諸商品の全面的社会的関係」

●《諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である》とはどういうことかが問題になりました。「価値対象性とは、商品に抽象的人間的労働が対象化されているということではないか」「商品は価値という性質を持っているということではないか」という発言がありました。そして、価値は物の自然的な性質ではなくて社会的な性質だということを確認しました。

■《商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろものだということによって、マダム・クイックリーとは違っている。商品体の感覚的に粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的単位の諸表現であるかぎりのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であることを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現れえないということもまたおのずと明らかである。われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価値を追跡したのである。いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない。》(国民文庫93頁・原頁62)

★《諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならない》ということは、単純な価値形態や展開された価値形態ではこうした要請に応える交換価値とはできず、したがって、より発展した価値形態が必要とされるということでもある。

第7段落
・リンネルと等しいものという形態ではいまやすべての商品が質的に同等なもの、すなわち価値一般として現れるだけでなく、同時に、量的に比較されうる価値量として現れる。
・すべての商品がそれぞれの価値量を同じ一つの材料、リンネルに映すので、これらの価値量は互いに反映しあう。
・たとえば10ポンドの茶=20エレのリンネル、そして、40ポンドのコーヒ=20エレのリンネル。したがって、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒ というように。
・または1ポンドのコーヒーに含まれている価値実体、労働は、1ポンドの茶に含まれているそれの4分の1でしかない、というように。

★展開された価値形態では、x量の商品A=y量の商品B、x量A=z量の商品C…という形態でx量の商品Aの価値は商品Bや商品Cを材料として表現される。ここでは、商品Bや商品Cの価値は表現されていないので、商品B=商品Cということはできないのではないか。

第8段落
・商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。
・リンネルの現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。 
・リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められる。
・織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すなわち他のすべての労働との同等性の形態にあるのである。一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。
・このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形態と有用的形態とが捨象されている労働として、消極的に表しているだけではない。
・この労働自身の積極的な性質がはっきりと表れてくる。
・この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。

●「商品価値に対象化されている労働の積極的な性質」とはどういうことかが問題になりました。「抽象的・人間的労働を現実の労働から具体的形態と有用的形態を捨象したものとしてとらえるのではなく、いっさいの現実の労働から共通なものとして労働力の支出という性格を取りだしたもということではないか」との発言がありました。

★第5段落では、価値について《リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。》と述べられていた。自分自身の使用価値からの区別(使用価値の捨象―使用価値ではないあるもの)としてとらえることは消極的であり、すべての商品に共通なものとしてとらえることは積極的だと述べているように思える。


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by shihonron | 2008-12-02 23:30 | 学習会の報告