『資本論』を読む会の報告

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2009年 01月 27日

第130回 1月27日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

1月27日(火)に第130回の学習会を行いました。「読む会通信№317」をもとに、前回までの復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第7段落から第8段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

第7段落
・労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。
・このような、有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がすでにその生産そのものにさいして考察されるようになってはじめて実際に実証されるのである。
・この瞬間から、生産者たちの私的労働は実際に一つの二重な社会的性格を受け取る。
・それは、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。
・他面では、私的諸労働が、それら自信の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりのことである。
・互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。
・すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない。
・私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現れる諸形態でのみ反映させ、――したがって彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人のために有用でなければならないという形態で反映させ――、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、これらの物質的に違った諸物の、諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映させるのである。

●「《交換のなかではじめて…価値対象性を受け取る》と述べられているが、交換に先立って価値表現がなされるのではないか」との疑問が出されました。これについては、価値表現は交換を目的になされることであり「交換のなか」のことと考えればよいのではないかという結論になりました。

★交換には、価値関係を取り結ぶこと、価値形態をもつ=価値表現が行われることが前提されるが、それもまた「交換のなか」でのことと考えられる。

●「《有用物と価値物とへの労働生産物の分裂》は、貨幣の生成のことを指していると解釈できないか」との発言がありました。それに対して「ここでは使用価値と価値(交換価値)について述べていると考えられる」との発言がありました。

★《有用物と価値物とへの労働生産物の分裂》とは、労働生産物が使用物であるだけでなく、価値物でもある(価値対象性をもつ)ということを意味している。《このような…分裂》とは《それらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取る》ことであり、それがどのように表現されるのかは問題にされていない。したがって、「分裂」という表現に引きずられて「労働生産物の商品と貨幣への分裂」=貨幣の生成と解することは正しくない。

★私的労働が《一定の有用労働として一定の社会的欲望を満た》すとは、生産者以外の人によって消費されるということであり、そのためには、私的労働の生産物が交換によって他人の手に渡ることが必要である。つまり交換されなければならない。交換が行われるのは《特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと…同等と認められるかぎり》である。

●「第6段落で《諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係》ということが述べられていたが、それは労働と労働との交換が物と物との交換として現れるということを意味している」との発言がありました。

■《ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは人間にとってのそのものの効用が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物であることがありえる。自分自身の生産物によって自分の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品は作らない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に交換によって移されなければならない。}最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではあり得ない。物が無用であれば、それに含まれている、労働も無用であり、労働の中にはいらず、したがって価値を形成しないのである》
(国民文庫81-82頁・原頁55 第1章 第1節 第18段落)

第8段落
・だから、人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。
・逆である。
・彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。
・彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである。
・それゆえ、価値の額に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。
・価値はむしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にするのである。
・あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼らの社会的な産物の秘密を探り出そうとする。
・なぜならば、使用対象の価値としての規定は。言語と同じように、人間の社会的な産物だからである。
・労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単なる物的な表現でしかないという後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時代を画すものではあるが、しかしそれはけっして労働の社会的性格の対象的外観を追い払うものではない。
・この特殊な生産形態、商品生産だけにあてはまること、すなわち、互いに独立な私的諸労働の独自な社会的性格はそれらの労働の人間労働としての同等性にあるのであってこの社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだということが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては、かの発見のあとにも、最終的なものに見えるのであって、それは、ちょうど、科学によって空気がその諸要素に分解されてもなお空気形態は一つの物理的な物体形態として存続しているようなものである。

●《彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う》の「それ」とは何を指すのかが問題となり、「物と物とを等置することによって労働と労働とを同等の抽象的人間的労働として等置すること」という結論になりました。

■《エホバの選民の額には彼がエホバのものだということが書いてあったように、分業はマニュファクチュア労働者に、彼が資本のものだということを表している焼き印を押すのである。》(国民文庫第2分冊230頁・原頁232 第12章 第5節 第2段落「マニュファクチュアの資本主義的性格」)

■《天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」 (ヨハネの黙示録22章 1~ 7)》

●「《社会的な象形文字》とはどういう意味か」との疑問が出され「解読の対象、解かれるべき謎といったことだろう」との結論になりました。

●《労働の社会的性格の対象的外観》とはどういうことかが問題になり、「労働の社会的性格が物の性質として現れることではないか」「労働生産物が価値対象性を受け取り商品形態をとることだろう」との発言がありました。


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by shihonron | 2009-01-27 23:30 | 学習会の報告
2009年 01月 20日

第129回 1月20日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

1月20日(火)に第129回の学習会を行いました。「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第3段落から第6段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密


第3段落
・それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか? あきらかにその形態そのものからである。
・いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。

●「その謎のような性格」とはどんなことかが問題になりました。「第1段落では、《商品とは非常にへんてこなもの》とか《感覚的であると同時に超感覚的であるもの》と言い、第2段落では《商品の神秘的な性格》と言われている。ここでは《その謎のような性格》と呼ばれているが、内容は同じであり、商品が価値であるということではないか。価値は抽象的人間的労働の対象化であり、価値の大きさはその商品の生産に社会的に必要とされる労働量(社会的必要労働時間)によって規定される。労働力の支出が対象化された形態つまり物の性質として現れ、労働時間が価値の量として、価値であることとその量は、他商品の使用価値の一定量によって表現される」との発言がありました。

●《生産者たちの労働の前述の社会的規定》とはなにかという疑問が出され、「第2段落で述べられていた《人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになる》と言うことではないか」との発言がありました。

●「第2段落で述べられている3つの事柄と第3段落で述べられている3つの事柄は、それぞれ対応している」との発言がありました。

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 *表をクリックすると大きく表示されます

★どんな労働も人間労働力の支出として見れば(抽象的・人間的労働としては)相
等しい。このことが商品生産社会においては、諸商品が価値としては相等しいということに現れる。商品の生産に必要な労働時間は、その商品の価値量として現れる。商品生産社会における生産者が(結果として)相互のために行う労働は、商品と商品との社会的関係(価値関係あるいは交換関係)として現れる。商品の価値が表現しているのは、労働の社会的性格――労働が「社会的」労働力の支出とし
て存在するかぎりでの――の特定の歴史的形態なのである。

第4段落
・だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。
・すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。
・このような置き換え[Quidproquo]によって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。
・同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態として現れる。
・しかし、視神経の場合には、現実に光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜられたのである。
。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。
・これに反して、商品形態やこの形態が現れるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。
・ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。
・それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。
・ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。
・同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。
・これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。

■《人間にたいして…反映させ》は、マルクスコレクション版では《彼らの頭の中に反映させる》《かれらの頭の中に映し出す》、長谷部訳では《人間の目に反映させ》となっている。

●《社会的自然属性》について「社会と自然は対義語なのにその二つがくっついた表現でわかりにくい」という発言がありました。これにたいして「ここでの自然は社会の対義語ではなく、生まれながらにもっているという意味だろう。社会的自然属性とは、本来的にもっている社会的性質のことではないか」との発言がありました。

●《総労働にたいする生産者たちの社会的関係》とはどんなことかとの疑問が出され、直接には私的労働として行われる商品生産者の労働が、社会的総労働の諸環(諸分肢)であることではないか。彼らは実際には(結果としては)相互のために労働しているのだ」との発言がありました。

■《置き換え[Quidproquo]》は、長谷部訳では《交替》、新日本版では《取り違え》、マルクスコレクション版では《取り替え[quid pro quo換位]》となっている。

■《独立した姿》は、新日本版では《自立的姿態》、長谷部訳は《自立的な姿態》、マルクスコレクション版では《自立した姿》となっている。

■《マルクスが使っているこの“入れ替わり”(Quidproquo)という表現は、あるものとあるものが、入れ替わって現れることであって、それによって人々が欺かれることになる。たとえば、モーツアルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴァ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナとが衣裳を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが“入れ替わり”である。『女はみんなこうしたもの(Cosi fan tutte)』のフィオルディリージとドラベッラもそうである。Quidproquoは、オペラではときに現れて愉快な舞台回しをするのであるが、商品生産ではでずっぱりで登場人物たちを惑わし続けるのである。》(「価値形態」191頁、『経済志林』第62巻第2号)

第5段落
・このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすでに示したように、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。

●《前の分析》とはどの個所を指しているのかという疑問が出され、「この章の第2段落のことだろうか」との発言がありましたが、これに対して「すぐ前の個所ではなく、第1節の商品の分析ではないか」との発言がありました。

■《いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する。こうして、どの商品の使用価値にも、一定の合目的的な生産活動または有用労働が含まれているということがわかった。いろいろな使用価値は、それらのうちに質的に違った有用労働が含まれていなければ、商品として相対することはできない。社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的違いが、一つの多肢的な体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。》(国民文庫84頁・原頁56-57) 

第6段落
・およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的労働の生産物であるからにほかならない。
・これらの私的労働の複合体は社会的総労働をなしている。
・生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現れるのである。
・言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて社会的総労働の諸環として実証されるのである。
・それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現れるのである。
・すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。

■《諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。》は、長谷部訳では《彼らの諸労働そのものにおける人と人との直接的に社会的な関係としてではなく、むしろ。人と人との物象的関係および物象と物象との社会的関係として、現象する。》、フランス語版では《自分たちの労働そのものにおける人と人との直接的な社会的関係としてではなくむしろ物と物との社会的関係として、現れることになる。》

■《「物象」というのはドイツ語のSacheの訳語であり、「物件」と訳されることもある。道ばたの石であろうと海辺の貝殻であろうと、人々の外部にあるたんなる「物《Ding》」であるが、値札をつけて店頭に置かれているもろもろの商品は、どれもみな人間によって社会的な意味を与えられたものであって、たんなる「物」ではない。このように、人々の社会的な関係によってなんらかの形態を与えられ、その結果、彼らにとってなんらかの社会的意味をもち、したがって彼らにとって社会的な行為の対象となっているもののことを「物象」という。商品、貨幣、資本はいずれも、資本主義的生産における最も基本的な物象である。》(大谷禎之介『図解社会経済学』76頁)

■ die Sache [ザッヘ]物;事   das Ding  [ディング] 物


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by shihonron | 2009-01-20 23:30 | 学習会の報告
2009年 01月 15日

第128回 1月15日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

1月15日(木)に第128回の学習会を行いました。「読む会通信№316」をもとに前回の復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第1段落から第2段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密


■《商品の呪物的性格》は、長谷部訳と新日本版では《商品の物神的性格》、マルクスコレクション版では《商品のフェティッシュ的性格》となっている。

●この節の表題について、ドイツ語原文の「Der Fetischcharakter derWare und sein Geheimnis」のうち“Fetischcharakter derWare”は英語では「commodity fetishism」(商品物神崇拝)と訳されていることがあるが、それは適切ではなく「fetish-like character of the commodity」(商品の物神的性格)と訳すべきだというHans G. Ehrbar氏(ユタ大学経済学部の先生のようです)の見解が紹介されました。
《Before our detailed commentary of section 1.4 can begin, we must look at its title, which reads, in German, “Der Fetischcharakter derWare und sein Geheimnis.” Usually, “Fetischcharakterder Ware” is translated with “commodity fetishism.” Howewer, a more accurate translationwould be “fetish-like character of the commodity.” Marx distinguishes between “fetishism,”which is a false interpretation, and “fetish-like character,” which is a property in fact possessed by social relations. Commodities have a fetish-like character, while members of capitalist society often display fetishism (systematized in “bourgeois economics”). Fetishism and bourgeois economics will be discussed in subsections 1.4.c and 1.4.e. A brief allusion to fetishism is already given at the end of 1.4.a, but the early parts of this section focus on the fetish-like character of the commodity》
    http://www.econ.utah.edu:80/~ehrbar/akmc.htm

 ハンス氏は、《マルクスは「物神崇拝」(それは「偽の解釈」、誤った認識)と「物神的性格」(それは実は社会関係が取り憑いている特性、社会的関係が表現されている物の性質)を区別します。商品は物神的性格を持っています。その一方で資本主義社会のメンバーはしばしば物神崇拝(「ブルジョア経済学」の中で組織化された)を示しています。》と主張しているようです。(私の翻訳なので不正確かもしれません)
 これに関連して、「物神性」は「物神的性格」と同じ意味ではないかとの発言がありました。

第1段落
・商品は、一見、自明な平凡なものに見える。
・商品の分析は、商品とは非常にへんてこなもので形而上学的な小理屈や神学的な小言でいっぱいなものだということを示す。
・商品が使用価値であるかぎりでは、その諸属性によって人間の諸欲望を満足させるものだとという観点から見ても、あるいはまた人間労働の生産物としてはじめてこれらの属性を得るものだという観点から見ても、商品には少しも神秘的なところはない。
・人間が自分の活動によって自然素材の形態を人間にとって有用な仕方で変化させるということはわかりきったことである。
・たとえば、材木で机をつくれば、材木の形は変えられる。
・それにもかかわらず、机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なものである。
・ところが、机が商品として現れるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。
・机は、自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊り出すときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。

●「《感覚的であると同時に超感覚的であるもの》は、原文に忠実に訳すと〈感覚的に超感覚的なもの〉となる」との指摘がありました。

■《形而上学的な小理屈や神学的な小言》は、長谷部訳では《形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さ》、新日本版では《形而上学的なつべこべと神学的なしかつめらしさ》、マルクスコレクション版では《形而上学的な精妙さと神学的な気むずかしさ》となっている。

■ 【形而上学】〔metaphysics〕
(1)存在者を存在者たらしめている超越的な原理、さらには神・世界・霊魂などを研究対象とする学問。第一哲学。
(2)客観的実在やその認識の可能を端的に認める哲学的立場。不可知論や実証主義の立場から独断論や実在論を称した語。
(3)事実を離れて抽象的なものにだけとどまる議論を揶揄(やゆ)していう語。
(4)書名(別項参照)。 (大辞林 第二版より)

■ 【神学】〔theology〕
特定の宗教を信仰する立場から、その宗教の教義や信仰について研究する学問。特に、キリスト教の神学についていわれることが多く、そこには聖書神学・歴史神学・組織神学・実践神学などの各部門があり、キリスト・終末・救済・宣教など
が論じられる。(大辞林 第二版より)

■《感覚的》《超感覚的》は、新日本版、長谷部訳、マルクスコレクション版では《感性的》《超感性的》となっている。

■【感性的認識】
〔哲〕 感覚や知覚によって得られる認識。感覚的認識。(大辞林 第二版より)

■【理性的認識】
〔哲〕 感覚器官を媒介とせず、思惟や理性のみを基礎とする認識。プラトンのイデアの認識あるいは数学的認識などがこれにあたり、通常感性的認識より高次のものとされる。(大辞林 第二版より)

●注25で「ほかの世界がすべて静止しているように思われたときに、シナと机が踊りだした――ほかのものを励ますために――ということが思い出される」と書かれていることについて、「1848年の革命の敗北の後に、中国で民衆の運動が展開されたこと、太平天国などのことが念頭にあったのだろうか。マルクスは全集15巻に収められてある論文・中国問題では、こうした中国での動きをたいして評価していないようだ」との発言がありました。

■マルクスは。「中国問題」で次のように書いている。《この中国革命で独特なのは、実際はただその担当者だけである。彼らは、王朝の交替ということを除いては、どのようなスローガンももっていない。彼らは旧統治者によるよりも人民大衆によってよけいに恐れられている。彼らの使命は、保守的老衰に対立して、怪奇な、いとわしい形態における破壊、なんらの新しい建設の萌芽ももたない破壊を代表する以外にはなにもないかのように思われる。》(全集第15巻490頁)

■chi・na [táin] ━━ n., a. 磁器(の), 陶磁器; 瀬戸物. ( エクシード英和辞典より)

■国民文庫では、注25について次のような注解が付されています。《ほかのものを励ますために( pour encourager les autres )――1848-49年の革命の敗北後、ヨーロッパでは暗い政治的反動期が始まった。そのころヨーロッパの貴族仲間は、またブルジョア仲間も霊交術や特に卓踊術に熱中していたが、他方、シナではとくに農民のあいだに強力な反封建的解放運動が広がっており、それは太平天国の乱として歴史に残っている。》(407頁)また、新日本版では《テーブルや陶器が踊るというのは心霊術の一種で、1848年の革命の敗北後ヨーロッパで流行したが、マルクスはここで、1850年から起こった中国の太平天国運動とそれとをかけている。》と解説されている。

■1848年革命 せんはっぴゃくよんじゅうはちねんかくめい
1848年に起こったヨーロッパ諸国の一連の革命を全体的にとらえた呼称。48年革命とも。同年2月のフランスの二月革命は,ウィーン,ベルリンの三月革命に連動し,これが東欧のハンガリー(クロアチアなどもその支配下),ボヘミア,ポーランドなどの民族運動を触発した。イタリアではミラノ,ベネチアの反乱からサルデーニャのイタリア統一戦争へと発展した。この段階での革命は敗北に終わるが,近代ヨーロッパの転換点の意味を持ち,〈諸民族の春〉とも呼ばれる。ハプスブルク家やロシア帝国の支配下の東欧における民族運動の目標達成は,第1次大戦とロシア革命による支配大国の崩壊まで持ち越されるが,この間の状況からエンゲルスは民族国家を形成しえない民族を〈歴史なき民〉と呼んだ。《共産党宣言》はこの激動の年に発表された。(マイペディア)

■太平天国 たいへいてんごく
中国,清末1851年1月反清をうたって武装蜂起(ほうき)した洪(こう)秀全を指導者とする集団およびそれが同年樹立した国号。1864年まで存続。清側ではこの反乱を太平天国の乱とし,辮髪(べんぱつ)を拒否し長髪にしたことから長髪賊の乱,その地域名から粤匪(えつぴ)の乱とした。また太平天国を偽国家としている。拝上帝会の首領洪秀全が馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・石達開らと広西省桂平県金田村に蜂起し,永安攻略後,ここを都として建国。自らを天王とし,諸王を定め,体制を整えた。のち湖南から江蘇に進撃し1853年南京を占領,天京と改め都とする。以後北征・西征の軍を進め,制度文物の整備に努めたが,内紛が激化し,清軍とゴードンの率いる常勝軍の反攻を受けて各地で敗北。1864年天京陥落により滅亡。洪秀全は陥落を前に自殺。蜂起は排満興漢・平等世界建設という理想をもち,清末の革命に大きい影響を及ぼした。

第2段落
・だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。
・それはまた価値規定の内容からも出てこない。
・なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産的活動がどんなに違っていようとも、それが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。
・第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。
・どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。
・といっても、発展段階の相違によつて一様ではないが。
・最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。

■《すべての労働は、一面では、生理学的な意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。》(国民文庫91頁・原頁61)

●《商品の神秘的な性格》とは何かが問題になり、「商品が使用価値としては違った物でありながら、価値としては等しく、したがって交換されうるということか」「後の第4段落で述べられている商品の呪物的性格のことではないか」との発言がありました。

★価値規定の内容とは何か?
(1)価値とは抽象的人間労働の対象化である
(2)価値量は、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって規定される
(3)価値は、商品生産社会における労働の社会的性格の表現である

■ 1868年7月11日付けのクーゲルマンへの手紙
《価値概念を証明する必要があるなどというおしゃべりは、当面の問題についての、さらにまた、この科学の方法についての完全な無知にもとづくものにほかならない。いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子どもでも知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子どもでも知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたが変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。》
(国民文庫87~89頁)

■「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」
《さて、ロートベルトゥスが――私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言おう――すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、――交換価値は商品が複数で見いだされ、さまざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから――彼はこの現象形態の背後に「価値」を発見したはずである。彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要にするのである〕、こういうことを発見したことであろう。つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格――労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎりでの――を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとすれば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。》
(全集第19巻376~7頁)


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by shihonron | 2009-01-15 23:30 | 学習会の報告
2009年 01月 06日

第127回 1月6日 第1章 商品 第3節 D 貨幣形態

1月6日(火)に第127回の学習会を行いました。「読む会通信№315」をもとに前回までの復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「D 貨幣形態」の第1段落から最後(第4段落)までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
     D 貨幣形態

    
    20エレのリンネル =  ̄|
    1着の上着     = |
    10ポンドの茶   = |
    40ポンドのコーヒー= |― 2オンスの金
    1クォーターの小麦 = |
    1/2トンの鉄   = |
    x量の商品A    = _|

第1段落
・形態Ⅰから形態Ⅱへの、また形態Ⅱから形態Ⅲへの移行では、本質的な変化が生じている。
・これに反して形態Ⅳは、いまではリンネルに代わって金が一般的等価形態をもっているということの他には、形態Ⅲと違うところはなにもない。
・形態Ⅳでは金は、やはり、リンネルが形態Ⅲでそれだったもの――一般的等価物である。
・前進は、ただ、直接的な一般的交換可能性の形態または一般的等価形態がいまでは社会的慣習によって最終的に商品金の独自な現物形態と合生しているということだけである。

■《一般的等価形態をもっている》は、長谷部訳では《一般的等価形態をとる》となっている。

■《最終的に商品金の独自な現物形態と合生しているということだけである》は、長谷部訳では《金という商品の独自な自然形態と窮極的に癒着した、という点だけである。》、マルクスコレクション版では《商品金の特殊な実物形態と決定的に癒着している、という事実である。》となっている。

●「一般的等価物としての機能と金の現物形態が分かちがたく結びついていて分けることができないという内容には《癒着》より《合生》の方がふさわしいと思う」との発言がありました。

●「形態Ⅲ(一般的価値形態)と形態Ⅳ(貨幣形態)とでは等式そのものの形は何も変わっていない。金が一般的等価物の機能を独占し貨幣になることを、形態発展の論理からは説明できない。だから《社会的慣習によって》と述べられているのではないか」との発言がありました。

第2段落
・金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にたいしてすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。
・すべての他の商品と同じように、金もまた、個々別々の交換行為で個別的等価物としてであれ、他のいろいろな商品等価物と並んで特殊的等価物としてであれ、等価物として機能していた。
・しだいに、金は、あるいはより狭いあるいはより広い範囲のなかで一般的等価物として機能するようになった。
・それが商品世界の価値表現においてこの地位の独占をかちとったとき、それは貨幣商品になる。
・そして、金がすでに貨幣商品になってしまった瞬間から、はじめて形態Ⅳは形態Ⅲと区別されるのであり、言いかえれば一般的価値形態は貨幣形態に転化しているのである。

●《金が他の諸商品にたいしてすでに以前から商品として相対していた》とはどういうことかが問題になり「金がさまざまな他の商品と交換されていたということだろう」との結論になりました。

●「《すべての他の商品と同じように》との指摘は重要だ。金も他の商品と変わることのない商品であり、最初から特別な商品であったわけではない」との発言がありました。

第3段落
・すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。
・それゆえ、リンネルの「価格形態」は
     20エレのリンネル=2オンスの金
または、もし2ポンド・スターリングというのが2オンスの金の鋳貨名であるならば、
     20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
である。

★ 価格形態→貨幣商品での一商品の単純な相対的価値表現

■第3章では次のように述べている。《一商品の金での価値表現―x量の商品A=y量の貨幣商品―は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。いまでは、鉄価値を社会的に通用するように表すためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような一つの単独な等式で十分である。この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない。というのは、等価物商品である金は、すでに貨幣の性格を持っているからである。それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的価値形態の姿をもっているのである。》(国民文庫172頁・原頁110)

■鋳造貨幣 ちゅうぞうかへい
鋳貨とも。金が一般的貨幣商品として使われるようになると交換のたびに試金・秤量(ひょうりょう)が必要となる。その手数を省くため,国家がその貨幣商品が一定の品質と重量をもっていることを証明するために鋳造して作った貨幣を鋳造貨幣という。(マイペディア)

■秤量貨幣 ひょうりょうかへい
受渡しの際品位・重量の鑑定や秤量を必要とする貨幣。品位の一定しない貨幣や偽造貨幣が流通していた時代には,鑑定と秤量を経て初めて貨幣の受渡しが可能となった。江戸時代の丁銀はその一例。(マイペディア)

■オンス 
ヤード・ポンド法の質量と体積の単位。
(1)一般に用いられる質量単位のオンス(常用オンス)。記号ozまたはoz av。1オンス=1/16ポンド=16ドラム=28.35g。
(2)薬品の計量に用いられる薬量オンス。記号oz ap。1薬量オンス=1/12薬量ポンド=24スクループル=31.1035g。
(3)貴金属や宝石の計量に用いられるトロイオンスまたは金衡オンス。記号oz tr。1トロイオンス=1/12トロイポンド=20ペニーウェイト=31.1035g。
(4)液量オンス。記号fl oz。イギリスでは1/160英ガロン=28.412cc,アメリカでは1/128米ガロン=29.573cc。→ポンド(質量単位)   (マイペディア)

■ポンド(通貨)
英国,アイルランド,キプロス,シリア,レバノン,エジプトなどの国の通貨単位。£またはL.と略記する。マルタ,オーストラリア,ニュージーランドでも使用した時期がある。単にポンドといえば英国のポンド(正称はポンド・スターリングpound sterling)をさす。これは8世紀半ばから流通した銀貨に由来し,11世紀半ばに1£=20シリング=240ペンスが確立。19世紀初期から第1次大戦ころまではポンドは基軸通貨の地位を占めたが,やがて英国の停滞とドルの基軸通貨としての登場の結果,ポンドはドルにリンクされ,ドルの補完的な基軸通貨となった。1971年2月15日以降は十進法に移行し,1£=100ペンス。
(マイペディア)

■ 金衡(貴金属、宝石、薬品を計る衡量)
  1ポンド(トロイ・ポンド)=12オンス………372.242g
  1オンス(トロイ・オンス)………………………31.103g

第4段落
・貨幣形態の概念における困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態一般の、形態Ⅲの、理解に限られる。
・形態Ⅲは、逆関係的に形態Ⅱに、展開された価値形態に、解消し、そして、形態Ⅱの構成要素は、形態Ⅰ、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 またはx量の商品A=y量の商品B である。
・それゆえ、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽なのである。

■Die Schwierigkeit im Begriff der Geldform beschränkt sich auf das Begreifen der allgemeinen Äquivalentform, also der allgemeinen Wertform überhaupt, der Form III. Form III löst sich rückbezüglich auf in Form II, die entfaltete Wertform, und ihr konstituierendes Element ist Form I: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder x Ware A = y Ware B. Die einfache Warenform ist daher der Keim der Geldform.

■ Be・griff
[brfベグリフ](男性名詞)
〔(単数の2格)‐[e]s/(複数の1・2・4格)‐e(複数の3格)‐en〕
【1】概念((英)concept)
ein physikalischer Begriff物理学上の概念
【2】理解,把握;考え;想像
Das geht über meine Begriffe.それは私の理解を超えている
ein neuer Begriff von Demokratie民主主義についての新しい考え方
Du kannst dir keinen rechten Begriff davon machen.君にはそのことがまったくわかっていない〈理解できない〉
◆(3格の名詞)+ein Begriff sein…(3格)に知られている
Sein Name ist mir kein Begriff.彼の名前は私には聞き覚えがない
für meine Begriffe私の考えでは
im Begriff sein《zu不定詞句と》まさに…しようとしている
Ich war im Begriff, aus dem Bus auszusteigen.私はちょうどバスから降りるところでした
schwer von Begriff seinわかりが遅い〈悪い〉

■be・grei・fen*
[brfnベグライフェン]理解する
Ich begreife nicht, warum Peter nie Geld hat.
私はペーターがどうしていつもお金を持っていないのかわからない
(現在形)
ich begreife
du begreifst
er begreift
wir begreifen
ihr begreift
sie begreifen
Sie begreifen
(過去形)
ich begriff
du begriffst
er begriff
wir begriffen
ihr begrifft
sie begriffen
Sie begriffen
(過去分詞)
begriffen
(他動詞)((4格の名詞))〔…(4格)を〕理解する,把握する((英)understand=verstehen)
die Formeln nicht begreifen公式が理解できない
Ich kann sein Verhalten nicht begreifen.私は彼の行動を理解することができない
Ich kann ihn sehr gut begreifen.私には彼のことがよくわかる
《(4格の名詞)なしで》Das Kind begreift schnell.その子は物わかりが早い
◆Es begreift sich, dass...…は明白である
Es begreift sich, dass er in dieser Weise nichts erreichen kann.彼がこのやり方でなにも達成できないことは明白である→begriffen
(関連語)verstehen理解する,erkennenわかる,認識する,fassen理解する,把握する,kapieren(口語)理解する


■《貨幣形態の概念における困難》は、新日本版では《貨幣形態の概念把握における困難》となっている。

■長谷部訳では《貨幣形態の概念(べグリフ)における困難は、一般的な等価形態を、つまり一般的な価値形態一般を、形態Ⅲを、概念(ベグライフェン)することだけである》と原語がわかるようにで訳している。マルクスコレクション版では《貨幣形態の概念を理解するさいのむずかしさは、もっぱら一般的等価形態、したがって一般的価値形態なるもの、つまり形態Ⅲを概念的に把握することにある。》フランス語版では《貨幣形態という概念のなかにある困難は、ただたんに、一般的等価形態、すなわち、一般的価値形態である形態Ⅲを、十分に理解することである。》となっている。

●「新日本版の訳はわかりやすいが意訳である。原文に忠実に訳すなら《概念における困難》がふさわしい。概念における困難と概念把握における困難は一致するといえるのではないか」との発言がありました。

■《形態Ⅲは、逆関係的に形態Ⅱに、展開された価値形態に、解消し》は、長谷部訳では《形態Ⅲは、逆の連関では形態Ⅱ、すなわち開展された価値形態に帰着する》、新日本版では《形態Ⅲは、もとにさかのぼれば形態Ⅱ、すなわち展開された価値形態に帰着し》、マルクスコレクション版では《形態Ⅲは、もとをただせば形態Ⅱに、つまり展開された価値形態に解消するし》、フランス語版では《形態Ⅲが、発展した価値形態である形態Ⅱに解消し》となっている。

■大谷禎之介氏は論文「価値形態」(『経済誌林』第61巻第2号)の中で「逆の連関」について興味深い見解を述べている。

■《ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が、経済的細胞形態なのである。》(国民文庫22頁・原ページ12)

■《価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。
しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。》(本文ではじめて「商品形態」という言葉が登場する個所 国民文庫114頁・原ページ74)

■《労働生産物は、どんな社会的状態のなかでも使用対象であるが、しかし、労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。》(国民文庫117頁・原ページ76)

■《じっさい、一般的直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であり、ちょうど、一磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように、非直接的交換可能性の形態と不可分であるということは、決してわからないのである。》(国民文庫129頁・原頁82)

■久留間鮫造氏は一般的価値形態と貨幣形態との関係について次のように述べている。
《価値形態論の趣旨を要約しているものと見られる次の叙述もまた、上述のわたくしの見解を裏書きするもののように思われる。

われわれの見た如く、すでに、もっとも簡単な価値表現たる x商品A=y商品B においても、他のある物の価値の大いさがそれで表示されるところの物は、それの等価形態を、この関連から独立に、社会的な自然属性として有するように見える。われわれは、このまちがった仮象の確立を追跡した。この仮象は、一般的な等価形態が、ある特殊な商品種類の自然形態と癒着したとき、あるいは貨幣形態に結晶したとき、完成したのである。一商品は、それにおいて他の諸商品が全面的にそれらの諸価値を表示するがゆえにはじめて貨幣になるのだとは見えないで、むしろその逆に、その商品が貨幣であるがゆえに、それにおいて他の諸商品が一般的にそれらの諸価値を表示するかに見える。媒介する運動はそれ自身の結果のうちに消失して、あとには何らの痕跡も残さない。諸商品は、それらの力添えを俟たないで、それら自身の価値姿態がそれらの外部に・且つそれらの傍らに・実存する一商品体として完成されているのを見出す。こうした金銀なるものは、地中から出てくるままで、同時にすべての人間的労働の直接的な化身である。ここから貨幣の魔術が生じる。(同上、98-99頁)

 だから問題は、一般的価値形態から独立に貨幣形態を認めたのは何のためかと問う代わりに、貨幣形態の前段階として一般的価値形態を認めたのは何のためかと問うことによって、一層容易に理解しうることになる。われわれの前に現実に与えられているのは貨幣形態であるから、それを最後の形態とすることはむしろ当然のことと考えてよい。そこでわれわれの課題は、この貨幣形態の謎を解くことであるが、そのためにはまず第一に、この形態を一般的価値形態に還元する必要がある。あらゆる商品が左辺に立ち特殊の一商品が右辺にあるこの形態においてはじめて「一商品は、それにおいて他の諸商品が全面的にそれらの諸価値を表現するがゆえにはじめて貨幣になるのだ、」という本来の関係が如実に顕現するからである。貨幣形態においては、この「媒介する運動はそれ自身の結果のうちに消失して、あとには何らの痕跡も残さない。」一般的価値形態において見られる左辺における諸商品の隊伍は消え失せて、価値形態は、一見簡単な価値形態とまったく同様な価格の形態になる。そしてそれと同時に貨幣の独自な謎が出来上がる。一般的価値形態への還元は、この貨幣の謎を解くために欠くことのできない還元の第一歩なのである。》(『価値形態論と交換過程論』116-118頁 単行本での傍点による強調を引用に際しては太字で表しました。)

■貨幣の謎、貨幣形態の謎
《『資本論』における価値形態論の目的は、商品の価格すなわち貨幣形態の謎を、そしてそれと同時にまた貨幣の謎を解くことにある。ここに貨幣形態の謎というのは、一般に商品の価値が特殊の一使用価値――金――の一定量という形態で表現されることの謎であり、貨幣の謎というのは、このばあい金の使用価値――本来価値の反対物たるもの――がそのまま一般に価値として妥当することの謎である。」(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』4頁)
 また大谷禎之介氏は「貨幣形態の謎」と「貨幣の謎」について次のように述べている。
《物である金(Au)の量が価値の量を表現する、というようなことがいったいどのようにして可能なのであろうか。これは、われわれのこれまでの分析で得たところから見るならば、一つの謎だと言わなければならない。ここでは商品の価値が貨幣という形態をとっているので、この謎を〈貨幣形態の謎〉と呼ぶ。
 さらに、商品はすべて、20エレのリンネル=100円、1着のシャツ=40円、1tの鉄=10万円、等々といった価格をもっており、すべての商品の価値が金の一定量で表現されているので、金はあらゆる商品と直接に交換できる。つまり、金は、その現物形態そのものが価値物として、価値のかたまりとして通用する、一種独特のものとなっている。
 ここにも一つの謎がある。物である金、使用価値としての金が、それの反対物である価値そのものとして通用することの謎、〈貨幣の謎〉である。》(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号156-157頁)


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by shihonron | 2009-01-06 23:30 | 学習会の報告