『資本論』を読む会の報告

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2009年 02月 24日

第134回 2月24日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

2月24日(火)に第134回の学習会を行いました。「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第14段落から第15段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密
第14段落

・共同的な、すなわち直接に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態にまでさかのぼる必要はない。
・もっと手近な例は、自分たちの必要のために穀物や家畜やリンネルなどを生産する農民家族の素朴な家父長的な勤労である。
・これらのいろいろな物は、家族に対してその家族労働のいろいろな生産物として相対するが、しかし、それらが互いに商品として相対しはしない。
・これらの生産物を生みだすいろいろな労働、農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫などは、その現物形態のままで社会的な諸機能である。
・というのは、それらは、商品生産と同様にそれ自身の自然発生的な分業をもつ家族の諸機能だからである。
・男女の別や年齢の相違、また季節の移り変わりにつれて変わる労働の自然的条件は、家族のあいだでの労働の配分や個々の家族成員の労働時間を規制する。
・しかし、継続時間によって計られる個人的労働力の支出は、ここでははじめから労働そのものの社会的規定として現れる。
・というのは、個人的労働力ははじめからただ家族の共同的労働力の諸器官として作用するだけだからである。

★マルクスは、ここでは「共同的な労働」と「直接に社会化された労働」を同じ意味でつかっている。

●《すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態》とはなにかという疑問が出され、「いわゆる原始共産制のことではないか」との発言や「階級が発生した後でも共同体は様々な形で残っている。そうした共同体での労働のことではないか」との発言がありました。

■【原始共産制】
階級分化の行われる以前の原始社会に存在したと推定される社会体制。血縁関係を基礎に土地や生産手段を共有し、共同で生産・分配・消費を行うもの。(大辞泉)

■ 【共同体】 community
[1]「共同社会」に同じ。
[2]マルクス主義で、近代の私的所有社会以前に存在するとされる社会。生産手段の私的所有はいまだ発達せず、生産は消費を目的として、商品・貨幣関係を媒介しないで、身分的な編成を伴って、直接、社会的に組織される。アジア的・古典古代的・ゲルマン的の三つの形態をもつ。 (大辞林)

■【家族】
1 夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態。
2 民法旧規定において、戸主以外の家の構成員。 (大辞泉)

■ 【家父長制】
父系の家族制度において、家長が絶対的な家長権によって家族員を支配・統率する家族形態。また、このような原理に基づく社会の支配形態。 (大辞泉)

第15段落
・最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。
・ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。
・ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりの個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。
・この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。
・この生産物の一部分は再び生産手段として役だつ。
・それは相変わらず社会的である。
・しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。
・したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない。
・この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。
・ただ商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。
・そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。
・労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。
・他面では、労働時間は同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だつ。
・人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。

★《ロビンソンの労働のすべての規定》とは、以下のようなことであろう。
(1)いろいろな欲望を満足させなければならないのだから、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。
(2)必要な物の生産に必要とされる労働時間を考慮して総労働時間をいろいろな機能のあいだに配分する。
(3)生産物は、生産者のものであり、生産者によって消費される。


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by shihonron | 2009-02-24 23:30 | 学習会の報告
2009年 02月 17日

第133回 2月17日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密


2月17日(火)に第133回の学習会を行いました。「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第12段落から第13段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密
第12段落

・経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず島上のロビンソンに出てきてもらうことにしよう。生来質素な彼ではあるが、彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。
・彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。
・必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占めどれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。
・彼の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それの生産に必要ないろいろな作業や最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の一覧表が含まれている。
・ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので、たとえばM・ヴィルト氏でさえも特に心を労することなくこの関係を理解することができたであろう。しかもなおそのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。

●「《価値のすべての本質的な規定》とはどういうことかとの疑問が出されました。「ここでマルクスは《ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係》のうちにそれが含まれているといっている。商品の分析によって、価値は人間労働一般の支出を表しており、価値とは、抽象的人間労働の対象化したものであること。また、価値の大きさは、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって規定されることが明らかにされた。ここでの《価値のすべての本質的な規定》とは、さまざまな欲求を満たすためには様々な有用物(使用価値)を生産しなければならず、労働をさまざまな生産活動(有用労働)に配分する必要があり、その際に基準となるのは、各生産物の生産に平均的に必要とされる労働時間であるということではないか」という発言がありました。

★《価値のすべての本質的な規定》は別のいい方をすれば《価値規定の内容》である。それは、(1)価値とは抽象的人間労働の対象化である、(2)価値量は、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって規定される、(3)価値は、商品生産社会における労働の社会的性格の表現であるとまとめることができる。

●「ここで述べられているようなロビンソンの労働は、自分のための労働であり、社会的労働ではなく私的労働ではないか」との発言がありました。それに対して「ここではロビンソンの行っていることを社会的生産がどのように行われているかを明らかにするために取り上げている。社会の総労働力にあたるものとしてロビンソンという一人の人間の労働力が問題にされているのではないか」との発言がありました。

★ここでのロビンソンの労働を私的労働だということはできるとしても、そのことはここでマルクスが明らかにしようとしている課題とは無関係であり、いわば「どうでもいい真実」である。

●ロビンソン物語について『マルクス経済学レキシコン』第5巻「唯物史観Ⅱ」で「Xイデオロギー 4 台頭しつつある18世紀のブルジョアジーの一種のイデオロギーとしてのロビンソン物語」と項目を立てて取り上げられているとの紹介がありました。

■ロビンソン・クルーソー Robinson Crusoe
イギリスの小説家D.デフォーの小説。 1719 年刊。正式タイトル《ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe》。その写実的手法のゆえに近代イギリス小説の原点と評される。 17 ~ 18 世紀に流行した多くの航海記や,チリ沖のフアン・フェルナンデス諸島に漂着し, 5 年間孤島生活を送ったというアレクサンダー・セルカークなる人物の実話に刺激されて作られた。商人の息子ロビンソンは父の忠告に反して船員となり,さまざまな苦労ののち,無人島に漂着, 28 年間,最初は 1 人で,のちには従僕フライデーとともに自給自足の生活を送り,最後には救出されて帰国する。この作品の成功によって,同年続編も出版された。

 この物語は単なる冒険小説ではなく,宗教的寓意があることも重要である。つまり,父に背いて罪を犯した人間が罰せられ,苦しみ,悔い改め,最後に救われるという当時のピューリタンの伝統にそった〈霊的自伝〉でもある。また,限られた物資のなかで生活を築いていくロビンソンの姿は,後世マルクスやウェーバーらの考察するところともなった。たとえばウェーバーは,ロビンソンの現実的・合理的行動様式に〈資本主義の精神〉に照応する目的合理的思考を読みとっている。 《ロビンソン・クルーソー》はイギリスだけでなく広く読まれており,この物語をまねた漂流記も多く作られた。ドイツ語には〈ロビンソン・クルーソーもの〉を意味する〈ロビンゾナーデRobinsonade〉という言葉も生まれ,フランス語の俗語〈ロバンソンrobinson〉はロビンソンが用いていたような大型こうもり傘を意味する。日本では早くも幕末にオランダ語訳からの重訳が出版されたが,原文からの翻訳としては井上勤《絶世奇談 魯敏糖(ロビンソン) 漂流記》 (1883) が初期のものとしては注目に値する。 榎本 太+山本 泰男 (世界大百科事典)

第13段落
・そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる――農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が、物質的生産の社会的諸関係を、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴づけている。
・しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。
・労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。
・夫役は、商品を生産する労働と同じように、時間で計られるが、しかし、どの農奴も、自分が領主のために支出するものは自分自身の労働力の一定量だということを知っている。坊主に納めなければならない十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現われるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。

●《人的従属関係》は、新日本版では《人格的依存関係》、長谷部訳では《人格的な依存関係》、マルクスコレクション版では《人格的従属》、フランス語版では《人的従属》となっていることが紹介され「人的従属関係というよりも人格的依存関係の方がふさわしいと思う」との発言がありました。

●「《人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はない》と述べられているが、裏返していうと商品生産社会では、労働も生産物も幻想的な姿をとっているということになる。労働の幻想的な姿、生産物の幻想的な姿とはどんなことを指しているのか」との疑問か出され、「社会生産社会においては。労働はありのままの有用労働としては私的労働でしかなく、対象化された価値という形態で社会的労働であることを表現すること、生産物は、商品と(使用価値であるだけではなく価値形態をもつ)いう形態をもつことを幻想的な姿といっているのではないか」との発言がありました。

●「《人的従属関係》とは経済外的強制のことではないか」との発言があり、これに対して「奴隷制社会や封建社会などでは経済外的強制といえるが、資本主義後の社会=社会主義社会・アソシエーションも人格的依存関係といえるのではないか」との発言がありました。

■夫役 ぶやく〔「ふやく」とも〕
人身に課税すること。特に、労働課役のこと。中世の佃(つくだ)の耕作や貢租の運搬、近世の助郷(すけごう)や川普請役など。ぶえき。(大辞林 第二版)

■賦役[(西洋)] ふえき
農民が土地領主のために行う無償労役(労働地代)としての賦役は前近代ヨーロッパ社会に広くみられたが,歴史的にはとくに中世封建社会の荘園制のもとでのそれをいう。古典荘園制における領主直営地では賦役が主要な労働源となり,こうした農民はふつう農奴と呼ばれる。その内容はさまざまな作業にわたり,期間も週数日,農繁期における特別賦役など不定量的であった。中世後期には農民の経済的・社会的地位が次第に向上し,農民保有地の割合が増すのとともに減少,領主への義務は現物・貨幣に移行した。近世西欧における賦役の意味は小さかったが,東欧では領主直営地が拡大して,19世紀以降の農奴解放まで大きな意味をもった。(マイペディア)

■労働地代 ろうどうちだい
農民が賦役労働の形で納める封建地代。一定期間または一定時期に領主や地主の農場で農耕や作物の取入れ等に従事することを義務づけられ,それが地代とされるもの。労働地代は現物地代に発展する。
(マイペディア)

■オーエンの平行四辺形について知見邦彦氏は次のように述べている。
《オーエンは農場と森林に囲まれた農村地域に‘平行四辺形’と名づけられた小規模な協同コミュニティを設立することを推奨した。なぜなら、彼は個人の利益は尊重したが、自由な競争原理の制度は強く否定していた(4)。彼は、ロンドンのような大都市が困窮と病弊をもっていることを知っており、理想として、お互いの助け合いと協調による経済的に独立したコミュニティを望んでいたからである。協調的なコミュニティは次ぎの3つの考え方を示唆している。
・生産と消費を含む協力的な人間関係
・財産の共有(この点ではオーエンの考えは一貫していなかった)
・コミュニティ主義(共同体の存在論的優位を説く思想)への確信
このような社会はエコロジカルで、環境にやさしく、持続的であると思われる。今日、工業的農業が支配的な社会では食料は単なる商品となり、農業生産物は工場ラインでの形で生産されるようになってしまった。多くの企業が環境を犠牲にして利益の最大化を求めることが責任ある行動だと考えている。農業生産の目的が自給自足から利益追求に変わったことが土壌の喪失、生物多様性のダメージ、飲料水汚染、人間の健康破壊などの副次効果をもたらしていることは無視できない。
農業の集約化や専門化などの典型的な資本主義的農業を規制することなくして、持続的な農業は実現できないであろうことをこれは示唆している。大切なことは食料の生産と消費は社会組織に深く関わってきたということである。》
(知見邦彦『EU共通農業政策(CAP)改革の評価・再検討(要約)』)         http://homepage2.nifty.com/yamanashijichiken/eu%20agricultural%20policy.doc

■《[生産関係:生活の社会的生産における人間相互の関係]
 人間は、彼らの生活の社会的生産のなかで、社会の生産力の発展段階に対応する一定の諸関係を取り結ぶ。これを生産関係と言う。この生産関係こそが人間諸個人相互間のいっさいの社会関係の根底をなすものである。
 生産関係のかなめは、労働する諸個人がどのような仕方でそのろうどうに必要な諸条件すなわち生産手段にかかわるのか、彼らはどのような仕方で生産手段と結びついて労働するのか、ということにある。このような、生産手段にたいする労働する諸個人のかかわり方が、社会を構成する諸個人による生産物の、とりわけ剰余生産物の取得のあり方を決定する。

[生産関係の歴史的形態とそのもとでの社会的再生産]
  これまでの人類史のなかで、労働する諸個人は、まずもって、共同体――すなわち、人間社会の出発点に存在していた本源的な共同体、および、それの解体過程に生じたさまざまの形態での共同体――を基礎とした共同体的生産関係を経験した。そして、その次に、共同体に代わって貨幣が人々を結びつける絆となっている生産関係である商品生産関係が現われた。現在の資本主義社会の生産関係はこの商品生産関係の最も発展した形態である。この資本主義社会はその発展のうちに、産み落とすべき新たな生産関係を自己の胎内に宿すようになる。それは、自由な諸個人が自発的・自覚的に社会関係を形成するアソシエーション的生産関係である。共同体的生産関係、商品生産的生産関係、アソシエーション的生産関係が、人類史の三つの大きな発展段階をなしているのである。》
(大谷禎之介『図解社会経済学』29-30頁)

《(A) 共同体を基礎とする人格的依存関係
 人類が最初に経験した生産関係は、原始共同体とその解体過程に生じたさまざまの形態の共同体を基礎とする生産関係である。ここでは、労働する諸個人はなんらかの共同体に帰属し、共同体の成員として相互に人格的依存関係を取り結び、労働諸条件すなわち生産手段にたいして、共同体に属するものにたいする仕方でかかわる。社会的生産のなかでの彼らの関係の特徴は、それが彼ら相互間の人格的依存関係であるか、さもなければ、労働しない諸個人が労働する諸個人を人格的に支配する支配・隷属関係であるところにある。》(同前30頁)

---------以下表題のみ-------

(A)-① 共同体的生産関係
(A)-② 人格的な支配・隷属関係(奴隷制、農奴制)
(A)-②-(a) アジア的奴隷制
(A)-②-(b) 古代的奴隷制
(A)-②-(c) 封建制
(A)-②-(c)-(ⅰ) 農奴制
(A)-②-(c)-(ⅱ) 隷農制

---------------------------

《(B)貨幣による諸個人の物象的な依存関係
(B)-① 商品生産関係
 自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象をつうじての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産様式であるが、この生産様式は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかり覆われている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的労働が社会の総労働を形成しているのであり、それは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働になるためには労働生産物のこうかんによらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象との社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり。それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。》(同前34頁)

(B)-② 資本主義的生産関係 (略)

《(C) 諸個人の意識的な人格的連合関係(アソシエーション) 
 資本主義的生産様式は、この生産様式のもとでの生産力の発展の結果、自己の胎内に、自己自身を否定し、止揚する諸契機を生まないではいない。これらの契機が指し示している新たな生産形態は、自由な諸個人によるアソシエーション(association=自発的な結合体)である。
 ここでは労働する諸個人は生産手段にたいして、社会的にアソシエイトした(associated=自発的に結合した)自由な個人としてかかわる。労働は、共同の生産手段をもって、自分たちの労働力を意識的に社会的労働力として支出する過程であり、直接に社会的な労働である。一方、生産過程が、自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれ、生産力の高度な発展が実現される。他方で、高度な生産力がもたらす必須労働時間の減少は労働日の短縮に向けられ、諸個人が個性と能力とを全面的に発展させるための自由な時間が拡大されていく。》(同前35-36頁)

■台頭しつつある18世紀のブルジョアジーの一種のイデオロギーとしてのロビンソン物語

           『マルクス経済学レキシコン』第5巻よりの引用(245-251頁)

【132】
社会のなかで生産する諸個人が――したがって諸個人の社会的に規定された生産が――もちろん出発点である。スミスやリカードが出発点とする個々の孤立した猟師や漁夫は、18世紀のロビンソン物語の幻想抜きの想像物の一種であって、これらのロビンソン物語は、文化史家たちが想像しているのとはちがい、けっして、たんに、過度の文明開化にたいする反動や、誤解された自然生活への復帰だけを表すものではない。このことは、本来は独立している諸主体を契約によって関係させ結合させるルソーの社会契約が、そのような自然主義に基づくものではないのと同様である。こうした自然主義は、大小のロビンソン物語の外観であり、しかもただ美的な外観にすぎない。それはむしろ、16世紀以来準備されて18世紀に成熟への巨歩を進めた「ブルジョア社会」を見越したものである。この、自由競争の社会では、各個人は、それ以前の歴史上の時代には彼を一定の局限された人間集団の付属物にしていた自然的紐帯などから解放されものとして現れる。スミスやリカードがまだまつたくその影響下にある18世紀の予言者たちの目には、18世紀のこの個人――一面では封建的な社会諸形態の解体の産物――が、いまや過去の存在となっている理想として、浮かんでいるのである。歴史の結果としてではなく、歴史の出発点として。なぜならば、それは彼らの目には、人間の本性についての彼らの観念に合致した自然的な個人として、歴史的に生成する個人としてではなく、本然的な個人として、現れるからである。このような錯覚は、これまでどの新しい時代にも付き物だった。多くの点では18世紀に対立し、また貴族としてより多くの歴史的な地盤のうえに立つスチュアートは、すでにこのような素朴さをまぬがれている。
 われわれが歴史を遠くさかのぼればさかのぼるほど、それだけいっそう、個人は、したがってまた生産する個人も、独立していないもの・より大きな全体に属するもの・として現れる。すなわち、最初はまだ、まったく自然的な仕方で家族のなかに、また種族にまで拡大された家族のなかに現れ、のちには、諸種族の対立や融合から生じる、種々の形態の共同体のなかに現れる。18世紀に「ブルジョア社会」ではじめて、社会連関の種々の形態が、各個人にたいして、その私的目的のためのたんなる手段として・外的な必然性として・相対するようになる。しかし、このような立場・すなわちばらばらな個人の立場・を生み出す時代こそは、まさに、これまでのうちで最も発展した社会的な(この立場から見れば一般的な)諸関係の時代なのである。 マルクス『[経済学批判への]序説』全集、13巻、611-2ページ;『経済学批判要綱』Ⅰ、5-6ページ.



【133】
 すべての生産物および活動の交換価値への分解は、生産におけるすべての強固な人的(歴史的)依存諸関係の分解、ならびに、生産者たち相互の全面的な依存性を前提する。どの個人の生産も他のすべての人々の生産に依存しており、それとともに[また]、彼の生産物を自分自身の生活手段に転化することも、他のすべての人々の消費に依存するものとなった。価格は古くからあるし、同様に交換も古くからある。しかし、価格がしだいに生産費によって規定されるようになることも、交換がすべての生産関係をおおいつくすようになることも、ブルジョア社会・すなわち自由競争の社会・ではじめて完全に発展したし、またたえずすます完全なものに発展するのである。アダム・スミスが正真正銘の18世紀流の仕方で、先史時代のものとして、歴史に先行させているものは、むしろ歴史の所産なのである。
 こうした相互の依存性は、交換のたえざる必然性のなかに、また、全面的な媒介者としての交換価値のなかに表されている。経済学者たちは、このことを次のように表現する。すなわち、各人は自分の私的利益を、しかももっぱら自分の私的利益だけを追求する、そしてこのことを通じて、――自分では欲することも知ることもないまま――万人の私的利益・一般的利益・に奉仕するのだ、と。肝心な点は、各人が自分の私的利益を追求することによって私的利益の総体・したがって一般的利益が・達成される、ということではない。むしろ、この抽象的なきまり文句から推論できることがあるとすれば、それは、各人が相互に他人の利益の貫徹を妨げるということ、そして、このすべての人のすべての人にたいする戦いからでてくるのは、一般的な肯定ではなくて、むしろ一般的な否定であるということであろう。眼目はむしろ、私的利益そのものがすでに、社会的に規定された利益であって、この利益は社会によって措定された諸条件の内部でのみ・また社会によって与えられた諸手段をもってしてのみ・達成されるということ、したがって、これらの諸条件と諸手段との再生産に結びつけられているのだということにある。それは私人の利益であるが、しかしその内容は、実現の形態および手段と同様に、万人から独立した社会的諸条件によって与えられているのである。  マルクス『経済学批判要綱』Ⅰ、77-8ページ.


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by shihonron | 2009-02-17 23:30 | 学習会の報告
2009年 02月 10日

第132回 2月10日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

2月10日(火)に第132回の学習会を行いました。「読む会通信№319」をもとに、前回までの復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第11段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密
第11段落

・このような諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである。それらの形態こそは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての社会的に認められた、つまり客観的な思想形態なのである。
・それゆえ、商品世界の一切の神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧のなかに包み込むいっさいの奇怪事は、われわれが他の生産形態に逃げこめば、たちまち消えてしまうのである。

●「このような諸形態」とは何かという疑問が出され、商品・価値・貨幣・価格(さらには資本・利潤・地代)などではないかということになりました。そして、ブルジョア経済学の諸範疇は、単にブルジョア経済学者の誤った考えに基づく主観的なものではなく、資本主義社会における必然的(客観的)な思想形態だということも確認しました。また、「ブルジョア経済学では、労働力の価格は、労賃つまり労働の価格としてとらえられる。それは科学的には間違いではあるが、資本主義社会の中で生活している人々の一般的な認識でもある」との発言がありました。

■マルクスコレクション版では《この種の[経済的]形態こそがまさにブルジョア経済学のカテゴリーをなしている。このようなカテゴリーは、商品生産という歴史的に規定された社会的生産様式の生産関係にとっては、社会的に妥当な、したがって客観的な思想形態である。だから商品世界のすべての神秘主義、すなわち商品生産に基づく労働生産物を霧で覆い隠すすべての魔法と亡霊は、われわれが別の生産形態に逃げ出すやいなや、ただちに雲散霧消してしまう。》となっている。(116-117頁)

■フランス語版では《ブルジョア経済学の諸範疇は、それらが現実の社会的諸関係を反映するかぎり、客観的な真理をもつ悟性形態であるが、これらの諸関係は、商品生産が社会的な生産様式であるような特定の歴史時代にしか属していない。われわれが別の生産形態を考察すれば、現代において労働生産物を覆い隠しているこの神秘性はまるごと、たちまちに消え失せるであろう。》となっている。(51-52頁)

●「《歴史的に規定された社会的生産様式の》と《商品生産の》は並列であり、それぞれが生産関係にかかる」との発言がありました。つまり商品生産は、歴史的に規定された社会的生産様式だということを述べているということでしょう。

●《思想形態》は、新日本版では《思考諸形態》となっている。

■生産関係 せいさんかんけい
生産過程の中で人間が互いに必然的に結んでいる社会的関係の総体。生産手段の所有関係が基本であるが,それから生じる階級や階層の関係,種々の生産部門への労働の配分関係,さらに生産に基づく交換と分配の関係を含む。社会の下部構造をなし,生産力とともに生産様式の一側面である。生産力の発展はそれに照応した生産関係を生み,後者は前者の発展を促すが,後その障害に転じる。マルクス主義経済学の基本的カテゴリーの一つである。(マイペディア)

■生産力 せいさんりょく
人間の心身の生産能力,労働手段と労働対象,科学技術など,労働生産性の高さを決定する主観的・客観的要素の総体。生産関係とともに生産様式の一側面をなす。生産諸力のうち創造能力を備える労働力が最重要。(マイペディア)

■生産様式 せいさんようしき
一定の生産力とそれに照応する一定の生産関係が結合してつくられている社会的生産の歴史的形態。史的唯物論の基礎概念。生産力の発展が生産関係に妨げられると,古い生産関係は破砕され新たな生産様式に置き換えられる。歴史上,原始共産制,奴隷制,封建制,資本主義的,社会主義的の五つの基本的な型がある。(マイペディア)


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by shihonron | 2009-02-10 23:30 | 学習会の報告
2009年 02月 03日

第131回 2月3日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

2月3日(火)に第131回の学習会を行いました。「読む会通信№318」をもとに、前回までの復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第9段落から第10段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密
第9段落

・生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。
・この割合がある程度の慣習的固定制性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。
・たとえば、1トンの鉄と2オンスの金とが等価であることは、1ポンドの金と1ぽん゛の鉄とがそれらの物理的属性や化学的属性の相違にもかかわらず同じ重さであるのと同じことのように見える。
・じっさい、労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証される事によってはじめて固まるのである。
・この価値量のほうは、交換者たちの意志や予知や行為に関係なく、絶えず変動する。
・交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。
・互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重量の法則のように、規制的な自然法則として強力に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発達した商品生産が必要なのである。
・それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。
・それの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。

●「《自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか》と述べられているが、別の言い方をすれば生産物交換者たちが第一に関心を持つのは、自分の生産物の交換価値のことだといえる」との発言がありました。

★生産物の交換価値は、生産物が生まれながらにもっている属性ではなく、ある特定の社会において受け取る社会的性格であるが、あたかも重さと同じように自然的属性であるかのように見える。
■《じっさい、労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証される事によってはじめて固まるのである。》は、新日本版では《労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まる。》(127頁)、長谷部訳では《事実上では、労働生産物の価値性格は、それらが価値の大いさたる実を示すことによってはじめて確立される。》(68頁)、マルクスコレクション版では《ところが実際には、労働生産物の価値性格は、それぞれの価値の大きさとしての働きを通してはじめて確定する。》(115頁)、フランス語版では《労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定された場合にかぎられる。》(50頁)となっている。

★《価値量として実証される》《価値の大きさとしての諸生産物の発現》《価値の大いさたる実を示す》《価値の大きさとしての働きを通して》《価値量として規定された場合》とは、ある労働生産物の価値が、他の労働生産物の使用価値の一定量で示されるという、価値形態をもつということではないか。価値は抽象的・人間的労働の対象化したものであり、価値の大きさ(価値量)は社会的必要労働時間によって規定される。しかし、価値量は労働時間としては表現されえない。価値量は他の商品の使用価値の一定量によって表現されるしかないのである。

●《交換者たち自身の社会的運動》、《諸物の運動》とはそれぞれどんなことなのかが問題になり、「《諸物の運動》とは交換ということではないか」との発言がありました。

★《諸物の運動》とは、ここでは価値量の変動を念頭に置いて述べているように思える。《交換者たち自身の社会的運動》とは、労働であり、生産力の変化をもたらすような行為(生産方法の変革)や生産部門の移動などを指しているのではないか。

■《絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元される》は、新日本版では《社会的に均斉のとれた基準に絶えず還元されるの》(128頁)、長谷部訳では《たえず、その社会的・比率的な尺度に還元される》(68-69頁)、マルクスコレクション版では《その社会的にみあった比率尺度に向かって絶えまなく整理されていく。》(115頁)、フランス語版では《その社会的な比率尺度に絶えず還元される》(50頁)となっている。

■初版では次のように述べられている。
《そこでさらに価値の大きさについて言えば、互いに独立に営まれているところの、といっても、自然発生的な分業の諸分肢であるがゆえに、全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のようなことによって、絶えずそれらの社会的に釣り合いのとれた標準に還元されるのである。すなわち、彼らの諸生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のなかでは、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時間が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫徹される、ということによって、そのような標準に還元されるのである。それだから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的な諸運動の下に隠されている秘密なのである。》(国民文庫84頁)


●《社会的に均衡のとれた限度》とは何を意味しているかが問題となりました。「問題になっているのは、私的諸労働の社会的に均衡のとれた限度だ。交換価値(価格)の変動をつうじて、社会が必要としている物を生産する総労働の配分がなされることを意味しているのではないか」という発言があり、これに対して「ここでは価値量が社会的必要労働時間によって規制されていることをいっているのであり、《社会的に均衡のとれた限度》とは価値通りに交換されることをさしているのではないか」「ここで総労働力の配分について読み込むことができるのか、ただ二つの事柄は矛盾しないのではないか」との発言がありました。

■《社会的に均衡のとれた限度》とは何を意味しているかについては、第1期の学習会でも議論になり、次のように報告されています。
《「絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限界に還元させる」とはどのような内容を述べているのか?
「均衡のとれた限界」をどう理解するかで二つの意見が出されました。一つは、価格は変動するが、その変動の中心には価値がある。変動する価格は、結局は価値に還元されるということではないかというもの。
もう一つは、「均衡のとれた限度」というのは、社会が必要とする物の生産が行われること、社会全体の需要に応じた生産が行われることではないか。需要との関係で言えば、供給が過少なら価格はあがり、供給が過剰であれば価格は下がる。こうした価格の変動を通じて、さまざまな使用価値を生産する各部門のバランスがとられるということではないかというもの。明確な結論は出ず、今後も考えていくことにしました。》
(2003年6月10日 第18回学習会の報告)
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=17509&pg=20030610

■玉野井芳郎『経済学の主要遺産』より
《マルクスはまず商品の生産をとつて、その労働に二つの面があり、一つは特定の生産活動として示される具体的な有用労働の面、一つは一般的な人間労働力の支出として示される抽象的な一般的労働の面があることを明らかにする。ところで、人間が自然に働きかけて生活に必要な諸物資を獲得するにあたっては、かれはその生産活動の全体を、所期の有用生産物の生産に要する労働時間を基準にして種々の有用労働に配分しなければならない。商品生産社会でも、社会の存続のためには、社会的総労働が、社会的欲望を充足するにたる種種な使用価値の生産に、それぞれの生産に要する労働時間を基準にして配分されなければならない。このばあい、一定の有用労働として一定の社会的欲望をみたす個々の生産者の私的労働は、商品社会全体の総労働の一部として、他のすべての私的労働と同じように一般的な人間労働として支出されることになる。
 けれども、もともと労働が全体として社会化されていない商品生産の社会では、それぞれ特定の有用労働に従事する個々の生産者は、その人間労働力をそのまま直接に社会的労働として支出するのではない。個々の人間の労働がなんらなの仕方で、社会的総労働の部分としての関連をもたなければならないという社会的な生産の一般的条件は、ここでは一種の回り道によって、すなわち、直接に人間どうしの関係においてではなくて、かれらの労働の生産物の、商品としての交換関係をとおして達成される。いいかえると個々の商品生産者が支出する私的労働は、その生産物が商品として交換される特殊な社会的過程を媒介としてはじめて社会的労働となりうるのである。商品の価値というのは、こうした商品生産者の私的な労働が社会的な労働となるためにとる特殊な形態規定にほかならない。すなわち、私的労働として支出される有用労働の面が商品の使用価値となって現れて、種々雑多な商品体の差異をつくりだすのに対して、一般的な人間労働の面は価値として諸商品の質的な同等性をつくりだし、価値の大いさは諸商品の生産に必要な労働時間を基準にして比較計量されうるものとなり、かくしてはじめて社会的総労働の部分としての関連をもつようになるのである。したがってまた個々の商品価値はその生産に必要な一般的な社会的労働の分量によって規定されることになるにしても、その価値はそのまま社会的労働時間いくらとしては測定されないということが重要である。
 商品の価値を形成する一般的労働は商品交換をとおしてはじめて社会的なものとして評価されるのであるから、一商品の価値は他の商品との交換関係における価値、すなわち交換価値として表示され、そういうものとして測定されるほかはない。要するに、商品の交換価値は、市場における生産物の単なる交換比率ではなくて、一定の客観的基準によって決定される商品の価値が必然的に表現される形態であると同時に、商品生産の社会における社会的労働の配分を規制する特殊な形態であるということができる。》
(玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 111-113頁)

《商品生産の社会では、社会的労働の配分という社会的生産の一般的原則が直接に人間の手で処理されないで、商品と商品の交換関係、すなわち物と物との関係という回り道をとおして実現される。それゆえ、人間は逆に商品交換の法則性に支配されざるをえなくなり、それと同時に商品のもつ特定の社会的性格は商品という物のもつ自然的性質のごとく受取られ、商品交換の法則性はあたかも自然法則のごとき観を呈するし、また実際そういう作用をなすことになる。このようにして商品経済は、もともと人間のつくり出した物が、逆に人間自身を支配するという物神的性格を固有のものとして生み出すのである。》
(玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 117-118頁)

●私的労働について、「それは商品生産における独自なものだ」という意見と「自給自足、つまり自分で消費することを目的に労働する場合にも、私的労働といえるのではないか」という意見が出されました。

★初版では、商品生産者の私的労働を《互いに独立に営まれているところの、といっても、自然発生的な分業の諸分肢であるがゆえに、全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働》と特徴づけている。こうした表現から「互いに独立に営まれており、互いに依存していない私的労働」の存在を考えることはできるように思える。

●《科学的認識が経験そのものから生まれてくる》とは、古典派経済学のことをさしているのだろう。アダムスミスなどは、産業革命以前に労働価値説を述べていてすごいことだといえる。」との発言がありました。

●《その物的な形態》とはなにかとの疑問が出され、「価値の物的形態ということであり、商品形態、価値形態のことだろう」との発言がありました。

★《その物的な形態》とは、価値量(量的にも規定された価値)の物的形態であり、他の商品の使用価値の一定量という形態つまり、交換価値=価値形態(価値の現象形態)のこと。

●「自然」という言葉をめぐって、「社会の対義語ではなく、〈生まれながらにもっている〉、〈本然の〉、〈必然〉のといった意味もある」との発言があり、「自然権」や「社会契約論」についても紹介がありました。


第10段落
・人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。
・それはあとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果からから始まるのである。
・労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分にはむしろ不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定制性をもっているのである。
・このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。
・ところが、まさに商品世界のこの完成形態――貨幣形態――こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。
・もし私が、上着や長靴などが抽象的人間労働の一般的な具体化としてのリンネルに関係するのだと言うならば、この表現の奇異なことはすぐに感ぜられる。
・ところが、上着や長靴などの生産者たちがこれらの商品を一般的等価物としてのリンネルに――または金銀に、としても事柄に変わりはない――関係させるならば、彼らにとっては自分たちの私的労働の社会的総労働にたいする関係がまさにこの奇妙な形で現れるのである。

●《人間生活の諸形態》とは何かとの疑問が出され、「第11段落では《このような諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしている》と述べられている。商品・価値・貨幣・価格などのことではないか」との発言がありました。

■《人間生活の諸形態の考察》は、新日本版では《人間の生活の諸形態の省察》(128頁)、長谷部訳では《人間の生活の形態にかんする追思惟》(69頁)、マルクスコレクション版では《人間生活のさまざまな形態をとくと考え》(116頁)、フランス語版では《社会生活の諸形態にかんする反省》(51頁)となっている。

●「追思惟というのは適切な訳だと思う。あとからよく考えてみるといった意味だ」との発言がありました。

■「教えて!goo」で《ミネルヴァのふくろうは夕闇迫るころ飛び立つ。の意味を教えてください》との質問にたいして、serpent-owlさんが次のような回答をされています。
《「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」「ここがロードスだ、ここで飛べ」「ここに薔薇がある、ここで踊れ」など、数々の名文句に彩られた『法哲学』序文に見える言葉です。
一応、「定訳」を載せます。 「ミネルヴァの梟は暮れ染める黄昏を待って飛び立つ」。
「ミネルヴァ」はギリシア神話に出てくる知恵と学問の女神、アテネのローマ名。「ふくろう」はその象徴。この場合「哲学の知」を意味しています。
 そして「黄昏」。これは、「現実がある一つの形成過程を終え、死につつあるとき」を指します。
 ということで、「ミネルヴァの梟は…」という言葉の意味は、「現実が一つの形成過程を終え、死につつあるときに哲学の知は動き始める」「哲学の知が始まったとき、すでに現実は終わっている」というほどの意味になります。
 これに関連する話は、1ページ後ろの「現実とは何か、それは理想やロマンをかみ殺すか?」という質問のところにありますので、よろしければ御一読ください。》
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa53960.html

■ 【極印】ごくいん
(1)江戸時代、品質証明あるいは偽造防止・盗難防止のため、品物や金銀貨に押した文字や印形。
(2)永久に残るしるし。いつまでも消えない証拠。刻印。
――を=打・つ(=押・す)
(1)極印(1)を金銀貨に打つ。
(2)(よくない評価で)そうであるときめつける。
「前科者の―・たれる」 (大辞林 第二版より)

●《価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかった》《商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかった》と述べられているが、これは『資本論』における分析の事をさしているのか、それとも古典派経済学以降のの分析のことを指しているのだろうかとの疑問が出されました。はっきりとした結論は出されず、今後の課題となりました。

●《私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係》とはどういうことかが問題となりました。「私的諸労働の社会的性格、私的諸労働者の社会的諸関係とは、社会の総労働の諸環―諸分肢―であるということだろう」との発言がありました。

●「《抽象的人間労働の一般的な具体化》とは価値体のことだ」との発言がありました。

★「20エレのリンネル=1着の上着」という単純な価値形態において
左辺の20エレのリンネルは、【使用価値】、【具体的有用的労働】、【私的労働】であることを、右辺の1着の上着は、【価値】、【抽象的人間的労働】、【社会的労働】を表しており、
「20エレのリンネル=1000円」という価格形態においては20エレのリンネルは、【使用価値】、【具体的有用的労働】、【私的労働】であることを、右辺の1000円は、【価値】、【抽象的人間的労働】、【社会的労働】を表しているといえないだろうか。

▲2月22日に誤字を訂正しました。


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by shihonron | 2009-02-03 23:30 | 学習会の報告