『資本論』を読む会の報告

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2009年 04月 28日

第143回 4月28日 第2章 交換過程

4月28日(火)に第143回の学習会を行いました。「第2章 交換過程」の第6段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第6段落

・われわれの商品所持者たちは、当惑のあまり、ファウストのように考え込む。太初(はじめ)に業(わざ)ありき。
・だから、彼らは、考えるまえにすでに行っていたのである。商品の本性の諸法則は、商品所持者の自然本能において自分を実証したのである。
・彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ自分たちの商品を、一般的等価物としての別の或る一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。このことは、商品の分析が明らかにした。
・しかし、ただ社会的行為のみが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表すのである。
・このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品は――貨幣になるのである。

●《太初(はじめ)に業(わざ)ありき》について、NHKドイツ語講座のテキストで以下のように述べられていることが紹介されました。
聖書(ヨハネによる福音書Ⅰ章1節)の「Im Anfang war das Wort はじめに ことばがあった」について《ここで言われているdas Wort「ことば」は、おしゃべりの言語や話し言葉といういみではなく、ギリシャ語の言語ではLogos ロゴス、つまり神の意志、理念、力、神の行動とそのことば、イエス・キリスト、といった複雑な意味を込めた語です。》
《ウルフィラがロゴスをそのままの音で使わず、「ことば」と訳したのが、現代までの聖書訳の原型になっています。》《ゲーテは、ルネサンス的行動の巨人ファウスト博士に、このロゴスをこう訳させています。「誠実な心で 神聖な原文を わが愛するドイツ語に訳そう。 こう書いてある、「太初(はじめ)にことばがあった」。 ここで俺はもうつまずく、よい知恵はないものか。 ことばというものを、そう高くは尊重できぬ。 ……… 霊の力だ! 俺にはよい知恵がありありと見える。 そして安んじて記す、はじめに行動があった、と。 [注]Tat:行為、行動。ここでは人間の行動、そして神の行為という意味も込められています。》

★第2段落から第5段落で商品交換の困難あるいは不可能性が取り上げられてきた。
・「商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。」(第2段落)「他方では、商品は価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。」(第3段落)
・「同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。」(第4段落)
・「どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。」(第5段落)
これでは商品の交換は行き詰まってしまうように思える。しかし、こうした困難は、商品の社会的行動によって一般的等価物が生み出され、一般的等価物の機能を社会的に独占する一商品=貨幣が成立することで解決される。

■資料 「使用価値の実現」と「使用価値としての実現」
『資本論』学ぶ会発行・『資本論』学ぶ会ニュースNO.27(1999年3月11日)より引用

 前回は第二章の三つのパラグラフを進んだだけでしたが、しかしかなり突っ込んだ議論を行い、理解もそれだけ深まったのではなかったかと思います。

 まず最初のパラグラフでは、交換過程では商品は価値と使用価値の統一物として現われること、だからそこでは第一章では捨象されていた商品所有者の存在(よって彼の欲望等)が分析の対象に新たに加わることが指摘されていること、ただその場合の商品所有者は現実の商品交換という経済的関係の反映したものであること、一般に『資本論』で取り扱われる「諸人格の経済的扮装は経済的関係の人格化にほかならない」こと等が述べられていることが確認されました。ここで「諸人格の経済的扮装」とは具体的には何かが質問として出ましたが、例えば「資本家」や「労働者」、「土地所有者」等々のことだろうということになりました。

 次に第二パラグラフと第三パラグラフでは、現実の交換過程で生じる矛盾が明らかにされています。マルクスはこうした矛盾として三つのものを指摘しているように思えるのですが、第二・三パラグラフで展開されているものは、その最初のものです。これらの三つの矛盾の関連をどうとらえるかも問題なのですが、それはまた別の機会にします。

 マルクスが最初に問題にしている矛盾とは、「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」ということと「価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」ということです。つまり使用価値も交換価値もその実現のためには相手の実現を前提し合う関係にあるということです。ということは現実には商品交換は不可能だということになります。『経済学批判』ではマルクスはこれを「悪循環」とも述べています。

 問題はこれはいったいどういう現実を言っているのだろうか、ということです。しかしこれはそれほど難しいことではなくて、現実の生産物の物々交換(つまり貨幣がまだ現われていない交換)を想定してみれば分かります。私が魚をとって市場で野菜と交換したいと考えても、たまたま野菜を市場に持って来ている人が、魚をほしがっているならば交換可能ですが、そうでなければ交換できません。両者の欲求が一致するのはまったく偶然であって、実際にはなかなか一致せず、だから交換も出来ないのです。マルクスが明らかにしている矛盾はまさにこうした現実を示しているのではないでしょうか。

 交換過程を問題にするときには、商品は使用価値と価値の統一物であり、商品所有者の欲求が分析の対象にならなければなりません。だからまたこうした矛盾が生じるのです。第一章では20エレのリンネルは上着一着と交換されましたが、しかし等価形態に上着が来るか、鉄がくるかコーヒーが来るかは問題ではありませんでした。それは何でも良かったのです。というのは第一章では商品が交換されている現実を前提にしてそれを直接分析の対象にしていたからであって、そこでは商品所有者も彼の欲望も捨象されて問題にはされなかったからです。しかし第二章では商品交換はより具体的に分析され、商品は現実の商品としていわば運動するものとしてとらえられているともいえます。

 ところでここでは、報告者のレジュメで紹介されていた久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』の解説の理解が問題になりました。そこでは氏は「使用価値としての商品の実現」と「使用価値の実現」とは違うこと、後者は一定の欲望を満足させるという属性をもっていること、すなわち実際に役立つ可能性を実現することで、それは消費過程の問題だが、前者はあくまで交換過程上の問題である、「だからそれは、それを必要とする他人の手に移らねばならぬ。そうすることによってはじめて、使用価値として役立ちうることになる、マルクスが『使用価値としての商品の実現』といっているのは、このことをさすのであって、消費の過程ではなく、交換の過程において行われる」と述べていることを、如何に理解するかということです。またそれと関連して、「使用価値としての実現」と「使用価値であることを実証する」ということとは同じなのか、違いはあるのかどうかも問題になりました。

 マルクスは第一章第一節の使用価値の説明のところで、「使用価値は、使用または消費においてのみ、実現される。……われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている」(新日本新書版61頁)と述べていました。また『経済学批判』では「彼(商品所有者--引用者)にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。……だから諸商品の使用価値は、商品が全面的に位置を転換し、それが交換手段である人の手から、それを使用対象とする人の手に移ることによって、使用価値として生成するのである」「諸商品の使用価値としての生成は、その全面的外化、その交換過程へはいることを予想している」等々(全集⑬26~7頁)とあります。

 第一節の説明でも明らかなように、「使用価値の実現」は明らかに消費過程の問題です。他方、『批判』の一文を見ても分かるように、「使用価値として実現する」というのは、「使用価値として生成する」とも言われていますが、要するにここでは「商品の位置の転換」が言われるのみです。つまりそれを必要とする人の手に渡るということです。それが「使用価値としての実現」の意味ではないでしょうか。だからここでは使用価値は交換されるだけで、まだ消費は問題になっていないともいえます。それが「使用価値としての実現」の内容ではないでしょうか。

 それでは「実現」と「実証」には区別があるのでしょうか? 学習会では大体同じことではないか、という意見が大勢でした。だからあえて問題にする必要もないのかもしれませんが、この両者の相違を主張する見解もあることだけは紹介しておきましょう。

 すでに何度か紹介した白須五男氏は次のように説明しています。

 まず「使用価値としての実現」とは「商品が有用労働の生産物であり人間の一定の欲望を充足する対象であることを、その商品を必要とする人の手に移すことによって真にそうした内容を持つものであるとして現実的に明示すること、これである」とし、さらに「使用価値としての実証というのは、右にいう実現とは違って、商品交換が事実上なされる以前に、交換部面で対峙し合っているその商品の使用価値が他方の商品所有者にとって本当に有用労働の成果であり、他方の人の特定の欲望を満たす生産物であることをまずもって証明すること、このことである」と説明しています(『マルクス価値論の地平と原理』210~1頁)。

 果たしてこのように両者の相違を見るのが正しいのかどうか、それは皆さんの検討を待ちましょう。


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by shihonron | 2009-04-28 23:30 | 学習会の報告
2009年 04月 21日

第142回 4月21日 第2章 交換過程

4月21日(火)に第142回の学習会を行いました。「第2章 交換過程」の第3段落から第5段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第3段落

・他方では、商品は価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。なぜならば、商品に支出された人間労働は、ただ他人にとって有用な形態で支出されたかぎりでしか、数にはいらないからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってまたその生産物が他人の欲望を満足させるかどうかは、ただ商品の交換だけが証明することができるのである。

★商品所有者は、自分の欲する他商品を手に入れる(商品の価値として実現する)ためには、自分の商品が他人にとって有用であることを実証する(商品の使用価値としての実現)ことが条件になる。しかし、自分の商品が他人にとって有用であることは、交換によってしか実証されないということではないか。「使用価値としての実現」と「使用価値として実証する」はともに、その商品を必要とする人の手に渡ることといえるのではないか。

第4段落
・どの商品所有者も、自分の欲望を満足させる使用価値をもつ別の商品とひきかえにでなければ自分の商品を手放そうとはしない。そのかぎりでは、交換は彼にとってはただ個人的な過程でしかない。他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。すなわち、自分の気にいった同じ価値の商品でさえあれば、その商品の所有者にとって彼自身の商品が使用価値をもっているかどうかにかかわりなく、どれででも実現しようとする。そのかぎりでは、交換は彼にとって一般的な社会的過程である。だが、同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。

★「そのかぎりでは、交換は彼にとってはただ個人的な過程でしかない」というのは、ここでは彼が自分の必要とする商品を入手するということでしかない、ただ自分の必要とする商品をもっている個人と交渉をもつにすぎないということであろう。価値形態で言えば相対的価値形態にある商品の私事として成立する単純な価値形態や展開された価値形態に相当する。また「そのかぎりでは、交換は彼にとって一般的な社会的過程である」とは、彼は自分の商品を任意の他の商品と無条件に交換しようとするのであり、自分の商品を一般的等価物とみなしている。だが、一般的等価物であるためには、他のすべての商品が歩調をそろえてその商品の現物形態で自分たちの価値を表現しなければならない。つまり他のあらゆる商品の社会的行為のみが一般的等価物を生み出すことができるのである。それは個人的な過程=私事ではなく一般的な社会的過程である。

■英語版ではprivate transactionとなっており、「私的取引」(私事)と訳すこともできる。

この箇所は英語版では以下のようです。
Every owner of a commodity wishes to part with it in exchange only for those commodities whose use-value satisfies some want of his. Looked at in this way, exchange is for him simply a private transaction. On the other hand, he desires to realise the value of his commodity, to convert it into any other suitable commodity of equal value, irrespective of whether his own commodity has or has not any use-value for the owner of the other. From this point of view, exchange is for him a social transaction of a general character. But one and the same set of transactions cannot be simultaneously for all owners of commodities both exclusively private and exclusively social and general.

 Looked at in this way, exchange is for him simply a private transaction. 
 「このようにみれば、交換は彼にとっては単なる私的取引である」

 From this point of view, xchange is for him a social transaction of a general character.
 「この観点からすると、交換は彼にとって、一般的な性格をもつ社会的取引である」

第5段落
・もっと詳しく見れば、どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。
・だがすべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。
・したがってまた、諸商品は、けっして商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである。

★自分の商品を一般的等価物とみなすとは、自分の商品は任意の他商品と直接に交換できるものだとみなすことである。しかし、それはひとりよがりにすぎない。実際に他の任意の商品と直接に交換可能なわけではない。
商品は、自分で一般的等価物になることはできない。自分を除いたすべての商品によって、受動的に一般的等価物にされるのである。商品世界が歩調を合わせ、ある一商品を商品世界から除外し、その商品だけを等価物だと認めることによって、その商品は一般的等価物にされるのである。(価値形態C=第3形態)
それぞれの商品が、自分は一般的等価物であり、他商品と等しく、いつでも他商品と交換可能だと言ってみても、通用しないのである。別の言い方をすれば、それぞれの商品を代表するそれぞれの商品所持者たちが自分の商品を一般的等価物だとみなしてみても通用しないのである。なぜなら、すべての商品所持者が自分の商品を一般的等価物であるとみなし、他の商品所持者の商品を一般的等価物とは認めようとはしないからである。

★「商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである」とはどういうことか? 労働生産物は、使用価値に加えて、価値形態をもつことによって商品となる。ここでは、一般的価値形態をもつことができないので、労働生産物は価値形態をもつことができず、商品として、価値として等しいものとして相対することができないということを述べているのではないか。


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by shihonron | 2009-04-21 23:30 | 学習会の報告
2009年 04月 14日

第141回 4月14日 第2章 交換過程

4月14日(火)に第141回の学習会を行いました。「読む会通信」№322から№326をもとに、この間の復習をしました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

●№322で《★宗教は階級社会(支配隷属関係や物象的依存関係が存在する社会)に根拠を持っており、宗教(宗教的迷妄)の消滅は単なる啓蒙によってではなく、アソシエーション(共産主義社会)の実現によってはじめて可能になるということだろう。》と述べられていたことに関連して、「階級が発生する前の原始共産制の社会においても宗教は存在したのではないか。科学が未発達であったから宗教が生まれたといえるのではないか」との意見が出されました。

●№324の【★ここで商品が言っていることは正しいのだろうか? 商品は、物の自然的属性である使用価値について《物としてのわれわれにそなわっているものではない》と言い、社会的属性(人と人との関係の表現)である価値は《物としてのわれわれにそなわっている》と語っている。それは、逆立ちした考え(転倒した観念)でありまちがっている。これと同じ内容を経済学者は「価値(交換価値)は物の属性であり冨(使用価値)は人間の属性である」と述べるのである。マルクスは、どのように商品が人を惑わしているかを、商品自身に語らせたといえるのではないか。】という部分について、「ここでの《物としてのわれわれそなわっているものではない》と述べられている《物》は自然的な物(ディングDing )のことだろう、物と訳されていても、自然的な物と物象という区別がある」との発言がありました。

■das Ding [dディング]

〔(単数の2格)Ding[e]s/(複数の1・2・4格)Dinge(複数の3格)Dingen〕
1(中性名詞)
【1】〔ふつう複数で〕物,物品((英)thing)
wichtige Dinge大切なもの
Ding an sich(哲学)物自体(カントの用語)
【2】〔複数で〕事,事柄;事態,出来事
Ich habe andere Dinge zu tun.私はほかにやることがある
In diesem Dorf ereigneten sich einmal seltsame Dinge.この村で昔不思議な出来事が起きた
Aller guten Dinge sind drei.(ことわざ)いいことはなんでも三つ重なる
so wie die Dinge liegen(またはstehen)ありのままに
nach der Lage der Dinge現状では
2(中性名詞)〔(単数の2格)‐[e]s/(複数の1・2・4格)‐er(複数の3格)‐ern〕(口語)
【1】もの,こと,代物(しろもの)
Was ist das für ein Ding? それはどんなものですか?
Gib mir mal das Ding da! ちょっと,そこのそれを取ってくれ
【2】〔複数なし〕(婉曲的に)あそこ(性器)
◆Das geht nicht mit rechten Dingen zu.(口語)どうもうさんくさい;これはどこか怪しい
Das ist ein Ding der Unmöglichkeit.それはありえないことだ
Das ist ein tolles Ding! それはたいしたものだ
ein Ding drehen(口語)悪事を働く
guter Dinge seinご機嫌である((注)guter Dingeは複数2格)
über den Dingen stehen超然としている
unverrichteter Dinge目的を果たさずに,志半ばで
vor allen Dingenとりわけ;何よりも (アクセス独話辞典より)


■die Sa・che [zxザッヘ]
物;事
〔(単数の2格)Sache/(複数の1・2・3・4格)Sachen〕
(女性名詞)
【1】〔複数で〕物((英)thing)
teure Sachen kaufen高い品物を買う
Er packt seine Sachen.彼は持ち物をトランクに詰める
Sie hatte ihre besten Sachen an.彼女は一番いい服を着てきた
Sie mag süße Sachen.彼女は甘い物が好きだ
【2】事,事柄;事態,事情;問題
Die Sache ist ernst〈eilig〉.事は深刻だ〈急を要する〉
Das ist eine andere Sache(またはeine Sache für sich).それはまた別の話だ
Das ist nicht Ihre Sache.それはあなたには関係のないことだ
Die Sache ist die, dass...問題は…ということだ
sagen, was Sache ist(口語)ずばり核心を突く
Mach keine Sachen! (口語)ばかなまねはするな! ;そんなばかな!
Was sind denn das für Sachen! (口語)なんとばかげたことだ!
nicht[ganz]bei der Sache seinうわの空である
in eigener Sache kommen自分の用件でやってくる
【3】(話の)本題
Das gehört nicht zur Sache.それは本題とは関係ない
【4】(法律)訴訟事件,件
eine Sache anhängig machen訴訟を起こす
Die Sache schwebt noch.この件は係争中である
【5】(法律)物件
bewegliche〈unbewegliche〉Sachen動産〈不動産〉
【6】〔複数なし〕目的,目標
sich(4格)für die Sache des Fortschritts einsetzen進歩のために尽くす
【7】〔複数で〕(口語)時速…キロメートル
mit 120 Sachen時速120キロメートルで
◆bei der Sache bleiben本題から離れない
[Das ist]Sache! (口語)よし,分かった;それはすごい!
Das tut nichts zur Sache.それはどうでもよいことだ;それは関係ない
zur Sache kommen本題に入る
(複合名詞)Drucksache(郵便の)印刷物
Hauptsache最も重要なこと
Nebensache副次的な事柄
Privatsache私事
Schmucksachen〔複数で〕装身具 (アクセス独話辞典より)

●「平等派(水平派)」「犬儒派」について、新日本版では次のような注がつけられていることが紹介されました。
《水平派(レヴエラーズ)は17世紀イギリスのピューリタン革命期にリルバーンたちに指導されて活躍した左翼民主主義的平等主義者たち、犬儒学派(キクニ学派)はディオゲネスたち古代ギリシアの一学派で、禁欲的自然主義者。礼儀、慣習を無視した。商品は相手を選ばず交換するの意》

●第2章第2段落の《だから生まれながらの平等派であり、犬儒派である商品は、他のどの商品とでも、心だけではなくからだまでも取り交わそうといつでも用意しているのである。》という叙述について、山内清氏は『資本論商品章詳注』(草土文化刊)の中で「観念的な価値表現だけでなく、現実的な交換関係に入る、の意」との注をつけているとの紹介がありました。


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by shihonron | 2009-04-14 23:30 | 学習会の報告
2009年 04月 07日

第140回 4月7日 第2章 交換過程

4月7日(火)に第140回の学習会を行いました。『資本論』のこれまでの範囲で気になっている事柄が二つ出されましたが、文章化したものを提出した上で議論しようということになりました。今回から第2章に入り、「第2章 交換過程」の第1段落と第2段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第1段落

・商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない。
・これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにする。のである。
・それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法律関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する。
・一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。

■《商品の番人》は、新日本版とマルクスコレクション版、長谷部訳では《商品の保護者(たち)》、フランス語版では《商品の保管者や監督者》となっている。

●「商品の番人」は、「商品の世話人」といい変えることもできるとの発言がありました。

★「商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない」というのはどういう意味なのか? 商品という物には意志がないが、人間である商品所有者には意志がある。商品所有者は、自分の商品を自分の意志に基づいて取り扱うということではないか。

●ここでの「契約」とはどんなものかが問題となり、商品の交換(商品の売買)のことだろうという結論になりました。

●《経済的関係がそこに反映している一つの意志関係》の「経済的関係」とはなにかが問題になり、商品生産関係だろうということになりました。

■商品生産関係
 自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象をつうじての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産様式であるが、この生産様式は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかり覆われている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的労働が社会の総労働を形成しているのであり、それは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働になるためには労働生産物の交換によらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象との社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり。それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。(大谷禎之介『図解社会経済学』34頁)


★「ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する」とは、商品交換の関係においては、商品所有者は、どんな人か、だれであるかなどとは関係なく、ただ商品を代表する人(人格)としてだけ認められるということだろう。私たちは人を「パン屋さん」とか「靴屋さん」と呼んだりすることがある。それは、その人の名前や年齢や性別、容姿、性格、思想などは全く問題にせず、ただパンや靴という商品の所持者としてのみとらえているるからだ。

■《人々の経済的扮装はただ経済的諸関係人化でしかない》は、新日本版では《諸人格の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化にほかならず》(長谷部訳もほぼ同じ)、マルクスコレクション版では《人格の経済的仮面は経済的諸関係の人格化にすぎず》、フランス語版では《人々が状況においてかぶるさまざまな仮面が、彼らが互いに相手にたいして維持する経済的諸関係の擬人化にほかならない》となっている。

■ペルソナ  [persona] (ラテン)
(1)キリスト教の三位一体論で、父と子と聖霊という三つの位格。本質(ウーシア)が唯一神の自己同一性をあらわすのに対して、個別性を強調する。ギリシャ語では、ヒュポスタシス。
(2)人。人格。人物。
(3)美術で、人体・人体像のこと。
(4)仮面。 (大辞林 第二版より)

●「ドイツ語では、法と権利とは同じ言葉であり、正しことという意味もある」との紹介がありました。

■Recht
[レヒト](中性名詞)
〔(単数の2格)‐[e]s/(複数の1・2・4格)‐e(複数の3格)‐en〕
【1】権利((英)right)
das Recht auf Arbeit働く権利
ein Recht ausüben権利を行使する
Das ist mein gutes Recht.それは私の当然の権利だ
Mit welchem Recht sagen Sie das? なんの権利があってあなたはそんなことを言うのか?
Der Körper verlangt sein Recht.体が休みたがっている(←体が自分の権利を主張する)
【2】〔複数なし〕法,法律
das bürgerliche〈öffentliche〉Recht民法〈公法〉
das Recht beugen〈brechen〉法を曲げる〈犯す〉
nach geltendem Recht現行法に基づいて
gegen das Recht handeln法に反する行動をとる
【3】〔複数なし〕正しいこと,正当性,正義(⇔Unrecht)
zwischen Recht und Unrecht unterscheiden正しいことと正しくないことを区別する
Er war im Recht, als er das sagte.彼がそう言ったのは正しかった (アクセス独話辞典より)

■契約 
〔法〕 私法上、相対する二人以上の合意によって成立する法律行為。債権の発生を目的とするもののほか、身分上の合意や物権的な合意も含まれる。典型契約・非典型契約・混合契約、有償契約・無償契約、諾成契約・要物契約等に区分される。また、より広く合同行為も含めた、複数の意思表示によって成立する法律行為を意味することもある。
(大辞林 第二版)

■法律
(1)社会生活の秩序を維持するために、統治者や国家が定めて人民に強制する規範。法。
(2)憲法に基づいて国家の立法機関により制定される成文法。 (大辞林 第二版)

■法律関係 
法律によって律せられる関係。例えば、家主と借家人の間の権利・義務の関係。
(大辞林 第二版より)

■ 【親和力】
(1)「化学親和力」に同じ。
(2)書名〔原題 (ドイツ) Die Wahlverwandtschaften〕ゲーテの長編小説。1809年刊。化学の親和力の原理を二組の男女の恋愛に適用して、その心理を巧みに描く。 (大辞林 第二版より)

■【化学親和力】
物質間の反応性の違いを説明するために考えられた古典的な概念。一三世紀頃から一九世紀まで、物質の質量・濃度、反応熱などが、化学親和力を表す尺度として提唱された。現在では、化学変化による自由エネルギーの減少値によって表される。親和力。 (大辞林 第二版より)

第2段落
・商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態として認められるだけだという事情である。だから生まれながらの平等派であり、犬儒派である商品は、他のどの商品とでも、心だけではなくからだまでも取り交わそうといつでも用意しているのである。このような、商品に欠けている、商品体の具体的なものにたいする感覚を、商品所持者は自分自身の五つ以上もの感覚で補うのである。
・彼の商品は、彼にとっては直接的使用価値をもっていない。もしそれを持っているなら、彼はその商品を市場にもってゆかないであろう。彼の商品は、他人とっての使用価値をもっている。彼にとっては、それは、直接にはただ、交換価値の担い手でありしたがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである。それだからこそ、彼はその商品を、自分を満足させる使用価値をもつ商品とひきかえに、手放そうとするのである。
・すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。だから商品は、全面的に持ち手を取り替えねばならない。そして、この持ち手の取り替えが商品の交換なのであり、また商品の交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現するのである。それゆえ、商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。

★《商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態として認められるだけだ》とは、他の商品体がどんな使用価値をもっているかということ(使用価値としての使用価値)は、商品にとっては問題にならないということだ。

★欲望をもたない物である商品にとっては、他のどんな商品体(商品の現物形態=使用価値)も自分の価値形態(価値の現象形態)として認められるだけである。だから商品は、他のどんな商品との交換にでも応じる準備がある。しかし、人間である商品所持者は、自分の欲求を満たす商品と引き替えでなければ自分の商品を譲渡しようとはしない。

●「《心だけではなくからだまでも取り交わそうといつでも用意している》の《心だけ》は観念的な価値形態を《からだまでも》は現実的な交換を意味している」との発言がありました。

■犬儒派(キニク学派)
〔(ギリシヤ) kynikos(「犬のような」の意)〕アンティステネスを祖とする古代ギリシャの哲学の一派。幸福とは外的な条件に左右されない有徳な生活であるとし、無所有と精神の独立を目指したため反文化的な乞食生活を送る者もいた。シノペのディオゲネスが有名。犬儒学派。キュニコス学派。
http://www.oguradaiclinic.jp/untiku/page666.html

★直接的使用価値とは、消費の対象としての本来的な使用価値のことであり、商品所有者にとっては自分のもっている商品は交換手段であるという使用価値(形態的使用価値)をもつだけだ。

■【五感】
目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚。視覚・聴覚・味覚・嗅覚(きゆうかく)・触覚。また、人間の感覚の総称としてもいう。 「―を鋭くする」 (大辞林 第二版より)

●「《五つ以上もの感覚》とは、自然的な感覚だけではなく社会的な感覚を念頭に置いて述べられているのでないか」との発言がありました。

★「他人にとっての使用価値」については、第1章第1節の最後でもふれられていた。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。(国民文庫82頁、原頁55)

★《使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、冨の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、冨の素材的内容をなしている。われわれの考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている――交換価値の。》(国民文庫73頁・原頁50)

■《「使用価値の実現」とは、「一定の欲望の充足に役立ちうる属性を物がもっている、それを実際に役立たすこと、すなわち物がもっているそういう可能性を実現することであって、これはいうまでもなく消費の過程で行われる。これに反して、使用価値としての商品の実現は交換過程上の問題であって、消費過程上の問題ではない。商品の使用価値は、単なる使用価値ではなくて、一定の社会的な規定性をもつ使用価値である。すなわちそれは、現にそれを商品としてもっている者のための使用価値ではなくて、他人のための使用価値である。だからそれは、それを必要とする他人の手に移らねばならぬ。そうすることによってはじめて、使用価値として実際に役立ちうることになる。マルクスが「使用価値としての商品の実現」といっているのはこのことをさすのであって、消費の過程においてではなく、交換の過程において行われる。」(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』14頁)
・「価値の実現ということは、いわば即自的にのみある商品の価値を、現実の価値に、客観的に妥当な価値の姿態に、すなわち貨幣に転化することであって、これはいうまでもなく販売の過程においておこなわれる。ところが、交換過程論で価値としての商品の実現が問題とされている場では、貨幣はまだ形成されておらず、交換の過程はまだ販売および購買の二つの過程に分裂していないのであるから、この点からだけみても、価値としての商品の実現という言葉が商品の価値の実現ということとはちがった意味に用いられていることは明らかなはずである。では、それはどういう意味であるかというと、現にマルクス自身が「彼[商品所持者]は彼の商品を価値として実現しようと欲する。すなわち、彼自身の商品がその他商品の所有者にとって使用価値をもつと否とにかかわらず、同じ価値ある任意の他商品で実現しようと欲する」(「資本論」第1巻、九二頁)といっているのによっても明らかなように、商品を現に価値であるものとして妥当させること、価値としての能力を実現すること、を意味するのである。》(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』15頁)

★「商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。」とはどういうことか? 商品所有者は、自分の欲しい他商品と引き替えにでなければ、自分の商品を相手に譲渡しようとはしない。それを必要とする人に譲渡されることによってはじめて使用価値としての実現がなされるのだが、その譲渡のためには、自分の欲しい商品を手に入れる(価値として実現する)ことが条件になるということだろう。

●「商品の使用価値としての実現と価値としての実現はどちらが先なのか」という疑問が出され、「今後展開されていくが、相互前提の関係ではないか」との発言がありました。


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by shihonron | 2009-04-07 23:30 | 学習会の報告