『資本論』を読む会の報告

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2009年 05月 26日

第146回 5月26日 第2章 交換過程

5月26日(火)に第146回の学習会を行いました。「読む会通信」№331をもとに前回の復習をした後、「第2章 交換過程」の第12段落から第13段落を輪読、検討しました。第14段落は朗読はされましたが議論する時間がありませんでした。次回再度取り上げることになりました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程


●復習では、第3段落、第4段落、第5段落の3つの段落の関係について、それぞれの段落で述べられていることは同じ内容なのかが議論になりました。最終的には、商品の使用価値としての実現と価値としての実現が相互前提の関係にあるということをちがった形で述べているのではないかという結論になりました。

第12段落
・貨幣商品の使用価値は二重になる。
・それは、商品としてのその特殊な使用価値、たとえば金が虫歯の充填や奢侈品の原料などに役だつというような使用価値のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取るのである。

★「貨幣商品」とは? 《その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する》(国民文庫130頁・原頁83)と述べられていた。貨幣として機能する商品のこと。

★「その独自な社会的機能」とは《商品世界の中で一般的等価物の役割を演ずる》(国民文庫130頁・原頁83)こと。一般的等価物の役割を演ずる商品は、他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接に社会的な形態にある。

■新日本版では「形態的使用価値」は「形式的な使用価値」となっている。使用価値については《ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする。……商品体そのものが、使用価値または財なのである。》《使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される》(国民文庫73頁・原頁50)と述べられていた。

★《 独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値》とは、適当な量がありさえすれば、それとひきかえにどんな物でも手に入れることのできる交換手段としての有用性のことだろう。

第13段落
・他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物でしかなく、貨幣は他の諸商品の一般的等価物なのだから、他の諸商品は、一般的商品としての貨幣に対して、特殊的諸商品として相対するのである。

■フランス語版では《すべての商品は貨幣の特殊な等価物にほかならず、後者は前者の一般的等価物であるから、貨幣はすべての商品にたいし一般的商品としての役割を演じるのであり、すべての商品は貨幣にたいし特殊の商品しか代表しない。》

●《他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物でしかなく》とはどういう意味なのかとの疑問が出され、「貨幣を相対的価値形態におく展開された価値形態(形態Ⅱ)のことを述べているのではないか。」との発言がありました。

★《一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で表現されるのである。》(国民文庫130頁・原頁83)そのかぎりでは、特殊的等価物である諸商品は、貨幣に対して直接的交換可能性をもつことになるが、それは現実とは異なっている。あくまでも、「貨幣商品の価値表現」という範囲でのことだと考えるべきではないだろか。ここでは最初に貨幣形態(形態Ⅳ)または一般的価値形態(形態Ⅲ)を思い浮かべたうえで、それを逆転させた形態を考えているのではないか。

●《他の諸商品は、一般的商品としての貨幣に対して、特殊的諸商品として相対する》とはどういうことかが議論になりました。「一般的商品とは価値そのもののことであり、特殊的商品とは使用価値に制約されている商品(どんな有用性を持っているかが問題となる商品)のことではないか」「一般的商品は一般的欲望の対象であり、特殊的商品は特殊な欲望の対象である」という発言がありました。また「『経済学批判』の中でも《一般的商品》についてふれている個所がある」との紹介がありました。

★一般的欲望の対象とは、誰もがほしがるもの(誰もがそれとの交換に応じると)いうことであろう。

★「一般的商品」とは、価値そのもののことであり、したがってどんな商品とでも直接に交換可能な商品であろう。特定の使用価値に制約されていないと言う意味で「一般的」と呼ぶのではないだろうか。ドイツ語ではallgemeine Ware

【英語版】
Since all commodities are merely particular equivalents of money, the latter being their universal equivalent, they, with regard to the latter as the universal commodity, play the parts of particular commodities.

 一般的商品→ universal commodity=普遍的な商品
  普遍=すべてのものに共通していること
 特殊的諸商品→particular commodities

ドイツ語allgemeineは英語ではgeneralと訳されることもある。

★一般的商品は価値そのもの、特殊的商品はある特定の使用価値といえないか?

■《商品が一定量の対象化された一般的労働時間としてただ考えられていたにすぎないあいだは、この表現は理論的であった。一般的等価物としての特殊な一商品の定在は、以上の諸等式の系列を単純に逆転することによって、たんなる抽象から交換過程そのものの社会的な結果となる。そこで、たとえば
    2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル
    1/2ポンドの茶   =1エレのリンネル
    8ポンドのパン  =1エレのリンネル
    6エレのキャラコ =1エレのリンネル
 コーヒー、茶、パン、キャラコ、つまりすべての商品が、それら自体にふくまれている労働時間をリンネルで表現することによって、リンネルの交換価値は逆にリンネルの等価物としての他の諸商品のうちにみずからを展開し、リンネルそのものに対象化されている労働時間は、他のすべての商品のさまざまな量で一様にあらわされる一般的労働時間に直接になる。リンネルはこの場合、他のすべての商品のリンネルへの全面的なはたらきかけによって一般的等価物となるのである。交換価値としては、どの商品も他のすべての商品の価値の尺度となっていた。ここでは逆に、すべての商品がその交換価値を特殊な一商品で測ることによって、この排除された商品が交換価値の十全な定在、一般的等価物としてのその定在となるのである。これにたいして、それぞれの商品の交換価値があらわされていた無限の一系列、つまり無限に多数の等式は、わずか二項からなるただひとつの等式に縮小する。2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル が、いまではコーヒーの交換価値の遺漏のない表現である。なぜならこの表現ではリンネルは、他のどの商品の一定量にたいしても直接に等価物として現われるからである。だが交換過程の内部では、いまでは諸商品はリンネルの形態をとった交換価値として互いに存在しあい、あるいは現われあうのである。すべての商品が交換価値としてはただ対象化された一般的労働時間の異なった量としてだけ互いに関係しあっているということは、いまやそれらの商品は交換価値としては、リンネルという同じ対象の異なった量だけをあらわすということとなって現われる。だから一般的労働時間のほうも、一つの特殊な物として、他のすべての商品とならんで、しかもそれらの外(そと)にある一商品としてあらわされる。しかし同時に、商品が商品にたいして交換価値としてあらわされる等式、たとえば 2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル は、なおこれから実現されなければならない等置関係である。使用価値としての商品の譲渡は、商品が一つの欲望の対象であることを交換過程で実証するかいなかにかかっているのであるが、この譲渡によってはじめて商品は、コーヒーというその定在からリンネルというその定在に現実に転化し、こうして一般的等価物の形態をとり、現実に他のすべての商品にとっての交換価値となる。逆にすべての商品が使用価値として外化することによってリンネルに転化されるから、これによってリンネルは他のすべての商品の転化された定在となり、しかも他のすべての商品のリンネルへのこのような転化の結果としてだけ、リンネルは直接に一般的労働時間の対象化 、すなわち全面的外化の産物、個人的労働の揚棄となる。諸商品が互いに交換価値として現われあうために、その存在をこのように二重化するとすれば、一般的等価物として排除された商品も、その使用価値を二重化する。特殊な商品としてのその特殊な使用価値のほかに、それは一つの一般的な使用価値をもつことになる。こういうその使用価値は、それ自体、形態規定性であり、すなわち他の諸商品がこの商品に交換過程で全面的にはたらきかけることによってこの商品が演じる独特な役割から生じるものである。ある特殊な欲望の対象としての各商品の使用価値は、異なる人の手中では異なる価値をもち、たとえは、それを譲渡する人の手中ではそれを手に入れる人の手中にあるのとは異なった価値をもつ。一般的等価物として排除された商品は、いまや交換過程そのものから生じる一つの一般的欲望の対象であって、だれにとっても交換価値の担い手、一般的交換手段であるという同一の使用価値をもっている。こうしてこの一商品においては、商品が商品として内包する矛盾、特殊な使用価値であると同時に一般的等価物であり、したがってだれにとってもの使用価値、一般的使用価値であるという矛盾が解決されている。だから他のすべての商品は、いまやまずそれらの交換価値をこの排他的な商品との観念的な、これから実現されなければならない等式としてあらわすのにたいして、この排他的な商品にあっては、その使用価値は実在的であるとしても、過程そのものにおいては、現実の使用価値への転化によってはじめて実現されるべきたんなる形態的定在として現われるのである。もともとこの商品は、商品一般として、ある特殊な使用価値に対象化された一般的労働時間としてあらわされた。交換過程では、すべての商品は、商品一般としての、商品そのものとしての、特殊な一使用価値における一般的労働時間の定在としての排他的商品に関係する。だから諸商品は、特殊な諸商品として、一般的商品〔*〕としての特殊な一商品に対立して関係する。したがって商品所有者たちが一般的社会的労働としての彼らの労働に相互に関係しあうということは、彼らが交換価値としての彼らの商品に関係するということにあらわされ、交換過程における交換価値としての諸商品相互の関係は、諸商品の交換価値の十全な表現としての特殊な一商品にたいする諸商品の全面的な関係としてあらわされ、このことはまた逆に、この特殊な商品の他のすべての商品にたいする独特な関係として、それゆえにまた一つの物の一定の、いわばもって生まれた社会的性格として現われる。このようにすべての商品の交換価値の十全な定在をあらわす特殊な商品、または特殊な排他的な一商品としての諸商品の交換価値――これが貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものにおいて形成する、諸商品の交換価値の結晶である。だから諸商品はすべての形態規定性をぬぎすてて、その直接的な素材の姿で互いに関係しあうことによって、交換過程の内部で相互にとって使用価値となるのにたいして、交換価値として互いに現われあうためには、新しい形態規定性をとり、貨幣形成にまで進んでいかなければならない。商品としての使用価値の定在が象徴でないのと同じように、貨幣も象徴ではない。一つの社会的生産関係が諸個人の外部に存在する一対象としてあらわされ、また彼らがその社会生活の生産過程で結ぶ一定の諸関係が、一つの物の特有な諸属性としてあらわされるということ、このような転倒と、想像的ではなくて散文的で実在的な神秘化とが、交換価値を生みだす労働のすべての社会的形態を特徴づける。貨幣にあっては、それが商品の場合よりも、もっとはっきりと現われているだけである。
 〔*〕 同じ表現はジェノヴェーシにもある〔自用本中の注〕。》
  (『経済学批判』国民文庫51-54頁・原頁32-34)



■価値形態の復習

・形態Ⅰ 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
 x量の商品A=y量の商品B
 
 商品Aの単純な相対的価値形態 → 個別的等価物(商品B)

・形態Ⅱ 全体的な、または展開された価値形態
 z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =  x量の商品E または =等々
 
 A商品の展開された相対的価値形態 → 特殊的等価物(B、C、D、E等々の諸商品)

・形態Ⅲ 一般的価値形態   
  1着の上着 =         
  10ポンドの茶 =       
  40ポンドのコーヒー =   
  1クォーターの小麦 =         } 20エレのリンネル
  2オンスの金 =    
  1/2 トンの鉄 =      
  x量の商品A =    
  等々の商品 =     
  
 諸商品の一般的相対的価値形態 → 一般的等価物(リンネル)

・形態Ⅳ 貨幣形態
  20エレのリンネル =  
  1着の上着 =        
  10ポンドの茶 =  
  40ポンドのコーヒー =       } 2オンスの金
  1クォーターの小麦 =
  1/2トンの鉄 =  
  x量の商品A =  
  等々の商品 =  

20エレのリンネル= 2オンスの金

20エレのリンネルの貨幣形態 → 貨幣(金)

《形態Ⅰから形態Ⅱへの、また形態Ⅱから形態Ⅲへの移行では、本質的変化が生じている。これに反して、形態Ⅳは、いまではリンネルに代わって金が一般的等価形態をもっているということのほかには、形態Ⅲと違うところはなにもない。形態Ⅳでは金は、やはり、リンネルが形態Ⅲでそうだったもの――一般的等価物である。前進は、ただ、直接的な交換可能性の形態または一般的等価形態がいまでは社会的慣習によって最終的に商品金の独自的な現物形態と合生しているということだけである。》(国民文庫131-132頁・原頁84)


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by shihonron | 2009-05-26 23:30 | 学習会の報告
2009年 05月 19日

第145回 5月19日 第2章 交換過程

5月19日(火)に第145回の学習会を行いました。「読む会通信」№330をもとに前回の復習をした後、「第2章 交換過程」の第9段落から第11段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第9段落

・直接的生産物交換では、どの商品も、その商品の所持者にとっては直接に交換手段であり、その非所持者にとっては等価物である。
・といっても、それが非所持者にとって使用価値であるかぎりでのことではあるが。
・つまり、交換される物品は、それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にはかかわりのない価値形態をまだ受け取っていないのである。
・この形態の必然性は、交換過程にはいってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。
・課題は、その解決の手段と同時に生まれる。
・商品所持者たちが彼ら自身の物品をいろいろな他の物品と交換し比較する交易は、いろいろな商品がいろいろな商品所持者たちによってそれらの交易のなかで一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較されるということなしには、けっして行われないのである。
・このような第三の商品は、他のいろいろな商品の等価物となることによって、狭い限界のなかでではあるが、直接に、一般的な、または社会的な等価形態を受け取る。
・この一般的等価形態は、それを生み出した一時的な社会的接触と一緒に発生し消滅する。
・かわるがわる、そして一時的に、一般的等価形態はあれこれの商品に付着する。
・しかし、商品交換の発展につれて、それは、排他的に特別な商品種類だけに固着する。
・言いかえれば、貨幣形態に結晶する。
・それがどんな商品種類にひきつづき付着しているかは、はじめは偶然である。
・しかし、だいたいにおいて二つの事情が事柄を決定する。
・貨幣形態は、域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品に付着するか、または域内の譲渡可能な財産の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものに付着する。
・遊牧民族は最初に貨幣形態を発展させるのであるが、それは、彼らの全財産が可動的な、したがって直接に譲渡可能な形態にあるからであり、また、彼らの生活様式が彼らを絶えず他の共同体と接触させ、したがって彼らに生産物交換を促すからである。
・人間はしばしば人間そのものを奴隷の形で原始的な貨幣材料にしたが、しかし土地をそれにしたことはなかった。
・このような思いつきは、すでにできあがったブルジョア社会でしか現われることはできなかった。
・それが現われたのは、17世紀の最後の三分の一期のことであり、その実行が国家的規模で試みられたのは、やっと一世紀後にフランスのブルジョア革命のさいちゅうのことだった。

★《直接的生産物交換では、どの商品も、その商品の所持者にとっては直接に交換手段であり》というのは、「直接に使用対象(自分にとっての使用価値)ではなく、交換手段である」という意味であろう。

★《その非所持者にとっては等価物である》とは、AとBが交換される場合には、Aの所持者にとってはBが、Bの所持者にとってはAが自分のもっている商品と同じだけの価値をもつ物、自分のもっている商品に対して直接的交換可能性をもつ物とみなされるということだろう。

★《それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にかかわりのない価値形態》とは、一般的価値形態、貨幣形態のこと。

●《課題は、その解決の手段と同時に生まれる》と述べられていることについて、「解決の手段は貨幣が生まれることだろうが、課題とは何だろうか」との疑問が出され、「第2段落から第5段落で述べている商品交換が実現することの困難の解決、商品交換の行き詰まりの打開ということではないか」「すぐ後で述べている《商品所持者たちが彼ら自身の物品をいろいろな他の物品と交換し比較する交易》を実現することではないか」という発言がありました。
 また、「正しく問題を設定することの中にすでに解答が含まれているといえる」、「第3章第2節の冒頭で述べられているように、矛盾の解決とは、矛盾を解消するのではなくその矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだすことだ」との発言がありました。

■この個所に山内清氏は次のような注をつけている。《マルクスの愛用したことば。「人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。」なぜならば、詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、常に見られるであろうからだ。」(批九)》(『資本論商品章詳注』174頁)

■《すでに見たように、諸商品の交換過程は矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。》(国民文庫188頁・原頁118-119)

■《先生は、学問をするときには問題をもつことが大事だということ、また、問題のつかみかた、立てかたが重要だということをいつも言われていました。肝心な問題をつかみ、その問題を正しく立てれば、半分は解決したのも同じだ、と言われるのでした。》(大谷禎之介『マルクスに拠ってマルクスを編む』39頁 先生とは久留間鮫造氏のこと)

●《域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品》とはどんな物かとの疑問が出され、「域内では生産されない貴重な物、中国では子安貝が貨幣であった時代があった」との発言がありました。

■中国の前近代,いわゆる王朝時代に用いられた貨幣は金貨・銀貨・銅銭・紙幣・布帛(ふはく)(織物)など多彩である。最も古く交換の媒介物として用いられたと考えられるのは貝(子安貝)である。貝は殷人に宝物として尊重され,早くから貨幣的な役割を担わされていたらしい。 (世界大百科事典より)

●土地を貨幣材料としようとした国家規模での試みとはアッシニャ紙幣のこと。 

■アッシニャ
フランス革命期,1789年―1796年に発行された紙幣。最初は革命政府が没収した王室・教会・亡命貴族の領地を担保とする公債であったが,紙幣として流通するようになった。1792年からは担保の価値を越えて乱発され,インフレをひき起こして民衆の生活を困窮させた。発行停止時の1796年にはその価値は額面のわずか1%であった。 (マイペディア)

第10段落
・商品交換がその局地的な限界を打ち破り、したがって商品価値が人間労働一般の物質化に発展してゆくにつれて、貨幣形態は、生来一般的等価物の社会的機能に適している諸商品に、貴金属に移ってゆく。

★《商品交換がその局地的な限界を打ち破》るとはどういうことか? 当初は、共同体と共同体のときおりの接触で行われるにすぎなかった商品の交換が、恒常的になる。そして、限られた場所や地域の枠を超えて商品の交換が行われるようになるということだろう。

■山内清氏は《商品交換がその局地的な限界》という個所について《封建的、排他的な市場規制》という注をつけている。(『資本論商品章詳注』176頁)


★「一般的等価物の社会的機能」とは? 他のすべての商品にとって、共通の価値表現に役立ち、したがってまた価値を尺度する手段として役立つということであろう。一般的等価物が生まれることによって、他のすべての商品は互いに価値として等置され価値量として比較されることができるようになる。言い換えれば、諸商品が商品として相対することを可能にする。

■貨幣と貨幣形態 貨幣とは、その現物形態に一般的等価物の機能が合体し、癒着した商品であり、だからまた一般的等価物の機能を社会的に独占する商品である。商品が自分の価値を貨幣で表現している価値形態をその商品の貨幣形態と言う。(大谷禎之介『図解 社会経済学』73-74頁)

第11段落
・ところで「金銀は生来貨幣なのではないが、貨幣は生来金銀である」ということは、金銀の自然属性が貨幣の諸機能に適しているということを示している。
・しかし、これまでのところでは、われわれはただ貨幣の一つの機能を知っているだけである。
・すなわち、商品価値の現象形態として、または諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役だつという機能である。
・価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがって同等な人間労働の物質化でありうるのは、ただ、どの一片をとってみてもみな同じ均等な質をもっている物質だけである。
・他方、価値量の相違は純粋に量的なものだから、貨幣商品は、純粋に量的な区別が可能なもの、つまり任意に分割することができ、その諸部分から再び合成することができるものでなければならない。
・ところが、金銀は生来これらの属性をもっているのである。

★貨幣の機能については「第3章 貨幣または商品流通」で展開されている。ここで《商品価値の現象形態として、または諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役だつという機能》と述べられているのは、価値尺度機能のこと。

●「《これまでのところでは、われわれはただ貨幣の一つの機能を知っているだけである》と述べられているが、価値形態の分析では等価物商品の相対的価値形態にある商品に対する直接的交換可能性について述べ、価値尺度機能以外についても述べていたといえるのではないか」との疑問が出されました。これに関連して、「第1章〈商品〉および第2章〈交換過程〉と第3章〈貨幣または商品流通〉では考察の対象が違っている。第1章と第2章はいわば商品論であり、第3章になってはじめて貨幣そのものが取り上げられるのであり、ここまででは商品の価値を表現するという貨幣の機能のみを知っているといえるのではないか」との発言がありました。

■久留間鮫造氏は『価値形態論と交換過程論』の中で次のように説明しています。《価値形態論で問題にされるのは文字どおりに商品の価値の形態だということである。商品の価値形態は、使用価値でありかつ価値であるところの商品が、そこではもっぱら価値として、それの使用価値としての直接的な存在から区別してあらわれるところの商品――すなわち相対的価値形態にある商品――の使用価値が固有の考察の対象の圏外におかれることは、いわば当然のことでなければならぬ》(11-12頁)《第4節――これが問題の物神性論、正確には「商品の物神的性格とその秘密」であるが――はどうかというと、これもまた同じ等式の分析ではあるが、その観点がもうひとつちがっている。すなわち、「価値の実体」のところでは、この等式で表現されているものが何であるかが問題にされ、「価値形態」のところでは、その表現の如何にしてが問題にされているものとすれば、ここではその何故が問題にされているのだということができるであろう。》(39頁)《交換過程は、使用価値および価値の直接的統一としての商品の矛盾が、右に述べたような態様で展開してくる場として、したがってまた、それを媒介するものとしての貨幣の形成が必然とされる場として、独自の考察の対象を形成する》(20頁)《わたくしの見るところでは、貨幣は第3章になってはじめて、一定の機能をおこなうサブゼクトとしてあらわれることになる。第1章および第2章では、サブゼクトとしてあらわれるのは商品であって貨幣ではない。貨幣はたんに、商品がその矛盾を媒介するために必然的につくりだすものとして出てくるにすぎない。ところが第3章では、このようにしてつくりだされた貨幣が、こんどは一定の機能をおこなう主体としてあらわれることになる。両者のあいだの本質的なちがいは、一言にしていえば、こういう点にあるということができると思うのである。》(42-43頁)

★均等な質をもち任意に分割・合成ができるという金銀の属性は、「商品価値の現象形態として、また諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役だつという機能」に適している。


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by shihonron | 2009-05-19 23:30 | 学習会の報告
2009年 05月 12日

第144回 5月12日 第2章 交換過程

5月12日(火)に第144回の学習会を行いました。「読む会通信」の№327から№329をもとにこの間の復習をした後、「第2章 交換過程」の第7段落から第8段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第7段落

・貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に互いに等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。
・交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。
・この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである。

●「なぜ単に貨幣ではなく貨幣結晶ということばが使われているのだろうか」との疑問が出され「価値が貨幣という姿をとって現れる、価値が結晶した物として貨幣があるといったことを表現しているのではないか」との発言がありました。

●《商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立》について、「それは分析者の観察によって明らかにされたものといえる」との発言があり、これに対して「分析によってとらえられたというのはその通りだが、分析者の意識とは独立に、商品のうちに使用価値と価値との対立が客観的実在としてあると考えるべきではないか」との発言がありました。

●《商品価値の独立形態》について「それは最後には貨幣に行き着かざるを得ないのだが、等価物のことと理解できるのではないか」との意見が出されました。議論の結果、ここでは《向かって進み…最終的にこの形態に到達する》と書かれているのだから貨幣のことだという結論になりました。

●《商品と貨幣とへの商品の二重化》について「貨幣が生成するということだろう」との発言がありました。

★《労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現される》と述べられている。商品は生まれながらに現物形態をもっており、価値形態をもつことによって商品であることが示される。第1章第3節で価値形態の発展を見たが、価値形態の発展は商品形態の発展にほかならない。等価物商品はその現物形態によって価値を表現し、相対的価値形態にある商品に対して直接的交換可能性を持つ。そのかぎりでは貨幣と同様の性質を持ち、価値形態の発展の過程は《商品の貨幣への転化》の過程でもあるといえるのではないか。

●注40の小ブルジョア社会主義者について、「プルードンが念頭に置かれているのではないか」との発言があり、マルクスが参照を求めている『経済学批判』の個所が紹介され、直接にはグレーについて取り上げていることが明らかになりました。

■第3節前文の第1段落では次のように述べられていた。(国民文庫92-93・原頁62)
《商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この夜に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現れるのであり、言いかえれば商品としう形態をもつのである。》

■「第3節 A 4 単純な価値形態の全体」の第1段落では次のように述べられていた。(国民文庫115頁・原頁74-75)
《ある一つの商品の単純な価値形態は、異種の一商品にたいするその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の一商品との交換関係のうちに、含まれている。商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの直接的交換可能性にによって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。この章のはじめに普通の言い方で、商品は使用価値または使用対象であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密にいえばまちがいだった。
商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、のあるがままのこのような二重物として現れるのであって、商品は孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにだ第二の異種の一商品にたいする価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。とはいえ、このことを知っておきさえすれば、さきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役立つのである。》

■ 「第3節A4 単純な価値形態の全体」の第3段落では次のように述べられていた。(国民文庫116-117頁・原頁75-76)
《商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。つまり、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の関係が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。
・つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。》

■「第3節 A4 単純な価値形態の全体」の第4段落では次のように述べられていた。(国民文庫117頁・原頁76)
《商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。》

■「第3節 C1 価値形態の変化した性格」の第5段落、第6段落では次のように述べられていた。(国民文庫125-126頁・原頁80-81)
《新たにえられた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類。たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表す。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ。この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現れさせるのである。
 前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であって、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれを成しとげるのである。他の諸商品は、その商品にたいして。等価物という単に受動的な役割を演ずる。これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現れるどの商品種類もこれにならわなければならない。こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現れてくるのである。》

■「第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第7段落では次のように述べられていた。(国民文庫137頁・原頁87)
《労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受けとるのである。このような、有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がでにその生産そのものにさいして考慮されるようになったときに、はじめて実証される。》

第8段落
・直接的生産物交換は、一面では単純な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。
・この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。
・直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。
・AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。
・ある使用対象が可能性から見て交換価値であるという最初のあり方は、非使用価値としての、その所有者の直接的欲望を超える量の使用価値としての、それの定在である。
・諸物は、それ自体としては人間にとって外的な物であり、したがって手放されうる物である。
・この手放すことが相互的であるためには、人々はただ暗黙のうちにその手放されうる諸物の私的所有者として相対するだけでよく、また、そうすることによって互いに独立な人として相対するだけでよい。
・とはいえ、このように互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。
・その共同体のとる形態が家長制家族であろうと古代インドの共同体であろうとインカ国その他であろうと、同じことである。
・商品交換は、共同体が果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる。
・しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。
・諸物の量的な交換割合は、最初はまったく偶然的である。
・それらの物が交換されうるのは、それらの物を互い手放しあうというそれらの物の所持者たちの意志行為によってである。
・しかし、そのうちに、他人の使用価値にたいする欲望は、だんだん固定してくる。
・交換の普段の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする。
・したがって、時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。
・この瞬間から、一方では、直接的必要のための諸物の有用性と、交換のための諸物の有用性との分離が固定してくる。
・諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。
・他方では、それらの物が交換される量的割合が、それらのものの生産そのものによって定まるようになる。
・慣習は、それらの物を価値量として固定させる。

★「直接的生産物交換」とは、貨幣の媒介なしに「直接的」に行われる、生産物と生産物との交換(物々交換)のことであろう。

★直接的生産物交換においては、交換によってはじめて商品になる。つまり、最初から交換を目的として(商品として)生産されたのではなく、交換の結果として商品になる。

■《ある使用対象が可能性から見て交換価値であるという最初のあり方は、非使用価値としての、その所有者の直接的欲望を超える量の使用価値としての、それの定在である。》は、長谷部訳では《ある使用対象が可能性からみて交換価値であるである第一の様式は、非使用価値としての・その所有者の直接的欲望をこえる分量の使用価値としての・その使用対象の定在である。》(78-79頁)となっている。またマルクスコレクション版では《ひとつの使用価値が可能性からみて交換価値である交換価値である最初の存在様式は、その物が非=使用価値として、その所持者の直接的欲望を越える量の使用価値として、現実に存在することである。》(134頁)となっている。 

★「諸物の私的所有者」とは、物を自分の所有物として、自分の意志でどのようにも取り扱うことができ人。

■ 所有権 しょゆうけん
物を全面的に支配できる物権で,所有者は法令の制限内においてその所有物を自由に使用・収益・処分できる(民法206,207条)。財産権の中心をなす。地上権や永小作権などによって制限されることがあっても,これらの制限は有限であるから,所有権は全面的支配に復する弾力性を有する。近代の所有権は自由な所有権として確立され,私有財産制の基礎をなす。20世紀に入ると所有権は公共の福祉による制約を受けるものとされ,所有権の行使は権利濫用の法理によって制約されることがある。  (マイペディア)

■「互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない」について、大谷禎之介氏は「労働する諸個人を結びつけているのは原生的な種族関係にもとづく共同体であり、彼らを支配しているのは自然発生的な人格的依存関係である。彼らは共同体の中に埋没しており、個人として自立できない。」(『図解社会経済学』30頁)と述べている。

■第1章第4節では《古代アジア的とか古代的などの生産様式では、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割、といっても共同体がその崩壊過程にはいるにつれて重要さを増してくる役割を演じている。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またポーランド社会の気孔の中でのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。》(国民文庫146頁・原頁93)と述べられていた。

●「物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる」という点について、内部的共同生活でも商品になる」をどのように理解するかで議論になりました。「共同体の内部で商品交換がなされるということではなく、最初から交換を目的としての生産が行われるようになるということではないか」という発言や「他の共同体にたいして私的所有者として立ち現れた人々は、やがて共同体の内部においても私的所有者として振る舞うようになるということではないか。いわば階級の発生ということだ」との発言がありました。
 
■浜林正夫氏は「まず、二つの共同体がお互いに余ったものを村はずれにおいて交換する。そういうかたちで交換が始まった。それがいったん始まると、共同体の中でも商品交換が始まるようになる」(『資本論を読む[上]』151-152頁)と説明しています。

★ 内部的共同生活と商品交換は両立しえるのだろうか? その中で商品交換が始まると共同体とはいえないのではないだろうか。

★「直接的必要のための諸物の有用性」=自分の欲望を満たす使用対象であるという役立ち
 「交換のための諸物の有用性」=他の使用対象と交換することができるという役立ち

●「労働生産物が、はじめから交換を目的として生産されるようになれば、すでに貨幣が生まれていると考えられるのではないか」という意見が出され、これに対して「労働生産物の少なくとも一部分について交換目的に生産するだけであれば、貨幣が生まれる以前にもありうるのではないか」との発言がありました。

■第1章第4節第9段落では《生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合がある程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。たとえば1トンの鉄と2オンスの金とが等価であることは、1ポンドの金と1ポンドの鉄がそれらの物理的属性や科学的属性の相違にもかかわらず同じ重さであるのと同じことのように見える。じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。》(国民文庫139頁・原頁89)と述べられていた。


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by shihonron | 2009-05-12 23:30 | 学習会の報告