『資本論』を読む会の報告

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2009年 06月 30日

第151回 6月30日 第3章 第1節 価値の尺度

6月30日(火)に第151回の学習会を行いました。今後の進め方について話し合い、「読む会通信」№335と№336をもとに前回までの復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第1節 価値の尺度」の第4段落から第5段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

今後の進め方について
これまで輪読して議論をするというやり方で、約1年かけて100頁ほどを学習しました。このペースでは文庫本の第1分冊を終えるのにあと2年かかる計算になります。少しスピードを上げて前に進みたいという意見が出され、今後の進め方について話し合いました。その結果、当面は以下のように進めることになりました。
1.順に参加者全員がレポーターとなり、その報告をもとに議論をする。
2.1回で進む範囲は文庫版で5頁から10頁程度の範囲で区切りのよいところまでとする。
3.段落番号を用いて報告する。
4.レポーターが欠席した場合には、輪読して議論する。

■テキストの内容と議論
第3章 貨幣または商品流通
第4段落

・一商品の金での価値表現――x量の商品A=y量の貨幣商品――は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。
・いまでは、鉄価値を社会的に通用するように表すためには、1トンの鉄=2オンスの金というような一つの単独な等式で十分である。
・この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない。
・というのは、等価物商品である金は、すでに貨幣の性格をもっているからである。
・それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的価値形態の姿をもっているのである。
・他方、展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。
・しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。
・物価表を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表されているのが見出される。
・これに反して、貨幣は価格をもっていない。
・このような、他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣はそれ自身の等価物としてのそれ自身に関係させられなければならないであろう。

■「第3節 価値形態または交換価値」の「D 貨幣形態」では以下のような式が掲げられていた。

  20エレのリンネル =   ̄|
  1着の上着     =   |
  10ポンドの茶   =    |
  40ポンドのコーヒー=   |― 2オンスの金
  1クォーターの小麦 =  |
  1/2トンの鉄   =    |
  x量の商品A    =  _|

■《すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。それゆえ、リンネルの「価格形態」は
     20エレのリンネル=2オンスの金
または、もし2ポンド・スターリングというのが2オンスの金の鋳貨名であるならば、
     20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
である。》(国民文庫132頁・原頁84)

●《この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない》について、ここで取り上げられている「他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する」が展開された価値形態(形態Ⅱ)のことか一般的価値形態(形態Ⅲ)のことであるかについて議論がありました。結論としては次のようになりました。他の諸商品の価値等式とは、内容としては「D 貨幣形態」の最初に掲げられている等式のうちの「1着の上着=2オンスの金」「10ポンド茶=2オンスの金」「40ポンドのコーヒー=2オンスの金」等々のことだろう。「D 貨幣形態」の最初に掲げられている等式は、「C 一般的価値形態」の一般的等価形態に、一般的等価物の機能を社会的に独占するようになった貨幣商品である金が置かれている。等式の形式は「C 一般的価値形態」と変わらない。この等式ではいわば貨幣形態の生成(形態Ⅲから形態Ⅳへの移行)が示されており、貨幣商品が生まれれば(金がすでに貨幣であると社会的に認められれるようになれば)、等式の形式としては「A 単純な価値形態」と同じもの、二つの商品だけが登場する等式で十分だということだろう。また、展開された価値形態(形態Ⅱ)は、左辺の商品の私事として成立するのであり、「他の諸商品の価値等式」は登場しない。したがって、ここで取り上げられている「他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する」とは、一般的価値形態(形態Ⅲ Cの形態)を念頭に述べているといえる。

■《反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしも、リンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表していない同義反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現れるのである。》(国民文庫129-130頁・原頁83)

●《これに反して、貨幣は価格をもっていない》の「これ」とはどんなことかが問題となり、直前の内容ではなくこの段落の最初のところで述べられている《一商品の金での価値表現――x量の商品A=y量の商品B――は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。いまでは、鉄価値を社会的に通用するように表すためには、1トンの鉄=2オンスの金というような一つの単独な等式で十分である。この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない。》ということと理解できるとの結論になりました。

第5段落
・商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。
・鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。
・この価値は、これらの物の金との同等性によって、いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。
・それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、自分の舌をこれらの物の頭の中に突っ込むか、または、これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである。
・商品価値の金による表現は観念的なものだから、この機能のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。
・商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品の価値に価格という形態または想像された金形態を与えても、まだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、彼は何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。
・それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。
・この事情は、まったくばかげた理論が現れるきっかけになった。
・価値尺度機能のためには、ただ想像されただけの貨幣が役立つとはいえ、価格はまったく実在の貨幣材料によって定まるのである。
・たとえば1トンの鉄に含まれている価値、すなわち人間労働の一定量は、同じ量の労働を含む想像された貨幣商品量で表される。
・だから、金や銀や銅のどれが価値尺度として役立つかによって、1トンの鉄の価値は、まったく違った価格表現を与えられる。
・すなわちまったく違った量の金や銀や銅で表されるのである。

■《想像された形態》は、新日本版では《表象されただけの形態》、長谷部訳では《表象的な形態》となっている。

■【想像】(名)スル 頭の中に思い描くこと。既知の事柄をもとにして推し量ったり、現実にはありえないことを頭の中だけで思ったりすること。
「―していたよりずっと立派だ」「―がつく」 (大辞林 第二版より)

■【表象】〔哲〕〔(ドイツ) Vorstellung〕感覚の複合体として心に思い浮かべられる外的対象の像。知覚内容・記憶像など心に生起するもの。直観的な点で概念や理念の非直観作用と異なる。心像。観念。 (大辞林 第二版より)

■注52で指示された『経済学批判』の個所での叙述は以下の通りです。
《諸商品は価格としてはただ観念的に金に、したがって金はただ観念的に貨幣に転化されるという事情は、 貨幣の観念的度量単位説を生む動機となった。価格規定にあっては、ただ表象された金か銀かが機能するだけであり、金と銀はただ計算貨幣として機能するだけだから、ポンド、シリング、ペンス、ターレル、フラン等々の名称は、金または銀の重量部分、またはなんらかのしかたで対象化された労働を表現するものではなく、むしろ観念的な価値諸原子を表現するものである、と主張された。それで、たとえば一オンスの銀の価値が増加したとすれば、一オンスの銀はより多くのこういう原子をふくむこととなり、したがってより多くのシリングに計算され、鋳造されなければならない、というのである。
》(『経済学批判』国民文庫93頁・原頁59-60)


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by shihonron | 2009-06-30 23:30 | 学習会の報告
2009年 06月 23日

第150回 6月23日 第3章 第1節 価値の尺度

6月23日(火)に第150回の学習会を行いました。「読む会通信」№334をもとに前々回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第1節 価値の尺度」の第1段落から第3段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第3章 貨幣または商品流通
第1段落

・簡単にするために、本書ではどこでも金を貨幣商品として前提する

●「ここで貨幣商品という言葉が用いられているのはなぜか、貨幣商品と貨幣にはどんな違いがあるのだろうか」との疑問が出されました。

■《貨幣商品》という言葉がはじめて登場するのは、「第1章 第3節 C 一般的価値形態 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行 」の第2段落である。
《そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品となる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがって、その社会的独占となる。》(国民文庫130頁・原頁83)

第2段落
・金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表すことにある。
・こうして、金は諸価値の一般的尺度として機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。

■《諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較可能な大きさとして表すこと》は、マルクスコレクション版では《複数の商品価値を同分母の大きさとして、質的に同等で量的に比較可能な大きさとして表現することにある。》(143頁)となっている。

■「第1章 第3節 A 2相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実」の第1段落では、次のように述べられていた。
《一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかを見つけ出すためには、この価値関係をさしあたりまずその量的な面からはまったく離れて考察しなければならない。人々はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、ただ、二つの商品種類のそれぞれの一定量が互いに等しいとされる割合だけを見ているのである。人々は、いろいろな物の大きさはそれらが同じ単位に還元されてからはじめて量的に比較されうるようになるということを見落としているのである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、これらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。》(国民文庫96-97頁・原頁64)

第3段落
・諸商品は、貨幣によって通約可能になるのではない。
・逆である。
・すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。
・価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。

■「第1章第1節」の第14段落では次のように述べられていた。
《だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それの価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた1時間とか1日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。》(国民文庫78頁・原頁53)

■「第1章第1節」の第16段落では次のように述べられていた。
《だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる。したがって、等しい大きさの労働量が含まれている諸商品、または同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値量をもっているのである。一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。「価値としては、すべての商品は、ただ、一定の大きさの凝固した労働時間でしかない。」》(国民文庫79頁・原頁54)


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by shihonron | 2009-06-23 23:30 | 学習会の報告
2009年 06月 16日

第149回 6月16日 第2章 交換過程

6月16日(火)に第149回の学習会を行いました。「第2章 交換過程」の第16段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第16段落

・われわれが見たように、すでに x量の商品A=y量の商品B という最も単純な価値表現にあっても、他の一つの物の価値量がそれで表されるところの物は、その等価形態をこの関係にはかかわりなく社会的な自然属性としてもっているかのように見える。
・われわれはこのまちがった外観の固定化を追跡した。
・この外観は、一般的等価形態が一つの特別な商品種類の現物形態と合生すれば、または貨幣形態に結晶すれば、すでに完成している。
・一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表すのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表すように見える。
・媒介する運動は、運動そのものの結果では消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない。
・諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のそとに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見出すのである。
・これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。
・ここに貨幣の魔術がある。
・人間の社会的生産過程における彼らの単なる原子的な行為は、したがってまた彼ら自身の生産関係の、彼らの制御や彼らの意識的個人的行為にはかかわりのない物的な姿は、まず第一に、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということに現れるのである。
・それゆえ、貨幣呪物の謎は、ただ商品呪物の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかないのである。

■《ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。等価形態については、逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現れるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。》(「第1章 第3節 A 3 等価形態」の第8段落 国民文庫110頁・原頁71-72)

■《まちがった外観》は、長谷部訳では《虚偽の仮象》、マルクスコレクション版では《みせかけ》となっている。

■《合生》は、新日本版、長谷部訳、マルクスコレクション版では《癒着》となっている。

★《媒介する運動》とは《他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表す》ことであり、《運動そのものの結果》とは、一商品が貨幣になるということであろう。

■《原子的な行為》は、新日本版と長谷部訳では《原始的なふるまい》、マルクスコレクション版では《アトム的にふるまい》となっている。

■ 【原子】 〔atom〕
(1)物質を構成する基本的な粒子。一個の原子核とそれをとりまく何個かの電子とから構成される。大きさは半径 10-7~10-8 センチメートル。原子の化学的性質は主としてそれのもつ電子の個数で定まる。
(2)(通俗的に)原子核。
(3)〔哲〕 ギリシャ哲学で、これ以上不可分と考えられた、事物を構成する微小存在。アトム。〔明治期には「元子」とも書かれた〕  (大辞林 第二版より)

●《原子的な行為》とはどういう意味だろうかとの疑問が出されました。また、関連してそれは商品生産社会だけについていわれているのかが問題になりました。「原子的を無政府的と言いかえられないか」「原子的な行為とは、相互のつながりなくてんでバラバラに行われる行為といえるのではないか」「ここでは《彼らの制御や彼らの意識的個人的行為にはかかわりのない物的な姿》として、物象的依存関係の社会について述べているのだから、商品生産社会についてのみ問題にしているといえるのではないか」との発言がありました。

■《自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象をつうじての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産関係であるが、この生産関係は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかり覆われている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的諸労働が社会の総労働を形成しているのであり、それらは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働となるためには労働生産物の交換によらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象との社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり。それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。(大谷禎之介『図解社会経済学』34頁)》

★労働生産物が商品形態をとるとは、労働生産物が価値形態をもつこと、価格をもつということだろう。

■《商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現れるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。》(「第1章 第3節 前文」国民文庫92-93頁・原頁62)

■《貨幣呪物》《商品呪物》は、新日本版、長谷部訳では《貨幣物神》《商品物神》、マルクスコレクション版では《貨幣フェティシュ》《商品フェティシュ》となっている。

■《人と人との関係(生産関係)が物象と物象との関係(物象関係)として現れることによって、人と人との関係はすっかり見えなくなってしまう。人びとの目には、まるで人間の手の生産物そのものが相互に関係をもち、また人間と関係をもつかのように見える。このように人びとが労働の社会的性格の対象的・物象的な外観にとらわれるのは、人間が、たとえばトーテム・ポールのような自分の手でつくった生産物を、神秘的な力をもった物神(fetish)として崇拝し、それに引きずり回されるのとそっくりである。そこで、このような人びとの転倒的な意識とそれにもとづいて行動することとを物神崇拝(fetishism)と呼ぶ。
 物神崇拝は、労働生産物が商品という形態をとるやいなや生じるものである。すなわち、商品が他商品と交換できる力である価値を生まれながらにもっているかのような外観が生じ、人びとは、商品とはこのような不可解な特別な力を持ったものなのだ、と錯覚するようになる。こうして商品は、商品物神として人間を支配するのである(商品による人間支配)。
 商品世界のなかで金という特定の商品が貨幣となり、どの商品の価値も貨幣で表現されるようになると、金という特定の自然物がそのまま価値のかたまりとして通用するようになり、物神崇拝は完成された姿で現れる。金があらゆる商品と直接に交換可能であるのは、他のすべての商品が金を商品世界から排除してそれを一般的等価物にするからであるのに、人びとの目には、金はその直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとかきらきら輝くといった属性と同様に、生まれながらにもっているのであって、それは生まれながらに貨幣なのだから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をそれで表現するのだと、というように見える。金は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間的労働の直接的化身となる。これが黄金崇拝であり、拝金思想の源である。貨幣は、貨幣物神として人びとを支配する圧倒的な力をもつものとなる。こうして、人びとは貨幣によって引きずり回され、物によって、貨幣によって支配される(貨幣による人間支配)。》(大谷禎之介『図解社会経済学』77-78頁)

■《トーテムポールは仏像のような偶像ではなく、崇拝の対象物ではない。》と述べている人もいる。Canada Native.com  http://www.canada-native.com/totem.html

★貨幣物神の謎とは 金はその直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとかきらきら輝くといった属性と同様に、生まれながらにもっているようにみえること、商品物神の謎とは、商品が他商品と交換できる力である価値を生まれながらにもっているかのようにみえることといえるだろう。


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by shihonron | 2009-06-16 23:30 | 学習会の報告
2009年 06月 09日

第148回 6月9日 第2章 交換過程

6月9日(火)に第148回の学習会を行いました。「読む会通信」№333をもとに前回の復習をした後、「第2章 交換過程」の第15段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第15段落

・前にも述べたように、一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的な規定を含んではいない。
・金が貨幣であり、したがってすべての他の商品と直接に交換されうるものだということを知っていても、それだからといって、例えば10ポンドの金にどれだけの価値があるかがわかるわけではない。
・どの商品でもそうであるように、貨幣もそれ自身の価値量をただ相対的に他の諸商品で表すことができるだけである。
・貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の各商品の量で表現される。
・このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる。
・それが貨幣として流通にはいるとき、その価値はすでに与えられている。
・すでに17世紀の最後の数十年間に貨幣分析の端緒はかなり進んでいて、貨幣は商品だということが知られていたとしても、それはやはり端緒でしかなかった。
・困難は、貨幣が商品だということを理解することにあるのではなく、どのようにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるのかを理解することにあるのである。

■《商品種類上着が価値表現において等価物の地位を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられていない。この商品種類は価値等式のなかではむしろただ或る物の一定量としてあらわれるだけである。》(第1章 第3節 A3 等価形態 第2段落 国民文庫107頁・原頁70 )

■《このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる》は、新日本版では《貨幣の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引のなかで行われる》(156頁)、長谷部訳では《その産源地で直接的な交換取引[物々交換]のなかで行われる》(82頁)、マルクスコレクション版では《その生産現場で、直接的なバーター取引で確定される》(140頁)となっている。

★ 産源地で金生産者の手のなかにある金は貨幣ではなく商品だということだろうか。商品金と他の商品との直接的な交換取引とは貨幣が媒介しない取引ということだろう。金生産者は自分の生産した商品である金と自分が必要とする他の商品との交換を行う。この交換の結果、他のある商品の所有者が自分の商品との交換によって手にした金は、彼が生産した商品の価値(価格)を実現したものであり貨幣といえるのではないか。貨幣商品である金は、一般的な価値表現(価格)をもつことができないので、他の商品の一定量によって自分の価値を表現するしかないのである。

■久留間鮫造氏は『価値形態論と交換過程論』のなかで次のように述べている。
《交換価値の最も簡単な姿は、x量の商品A=y量の商品B である。そこでマルクスは、これを分析していくのであるが、彼は最初にまず、この式の両辺に置かれている商品は使用価値としては異なっているのにここでは等しいとされているという点に注目して分析を進め、両者に共通なものは何であり、その大いさは何で決まるかを究明する。これが第一節「商品の二要因――使用価値と価値(価値の実体、価値の大いさ)」の研究である。次の第二節「商品で表示される労働の二重性格」は、第一節の分析で、商品の二要因としての使用価値と価値との区別と、価値を形成する労働の抽象的性格とが明らかになったので、さらに一歩を進めて、使用価値を形成する労働と価値を形成する労働との――同じ商品を生産する労働の二重性格としての――対立的関係を明らかにしたものであり、第一節の分析をさらに徹底させたものと見ることができる。ところが、第三節――「価値形態」――では、やはり同じ等式が分析されるのではあるが、その視角がちがっている。すなわちさきには、両辺の商品には同じ大いさの或る共通なものがなければならないという見地から分析がおこなわれ、それが何であるかが究明されたのに反して、ここでは、両辺にある商品が等式内で演じているちがった役割に、すなわち左辺にある商品の価値が右辺にある商品の使用価値で表示されているのだという点に注目して、分析が行われ、商品の価値が如何にして他商品の使用価値で――進んでは貨幣商品の一定量という形で一般的に――表示されうるかが究明されているのである。ではその次の第四節――これが問題の物神性論、正確には「商品の物神的性格とその秘密」であるが――はどうかというと、これもまた同じ等式の分析であるが、その観点がもひとつちがっている。すなわち「価値の実体」のところでは、この等式で表現されているものが何であるかが問題にされ、「価値形態」のところでは、その価値の表現の如何にしてが問題にされているものとすれば、ここではその何故が問題にされているのだということができるであろう。マルクスがそこでいっているように、「なるほど経済学は、不完全にではあるが価値および価値の大いさを分析して、これらの形式のうちにかくされている内容を発見した。だが経済学は、何故この内容がかの形式をとるか、すなわち、何故労働が価値において、またその時間的継続による労働の度量が労働生産物の価値の大いさにおいて、みずからを表示するか? という問題を、かつて提起したことさえもない。」(八五-八七頁。)この、かつて提起されたことのない問題を、マルクスはここで問題にしているのである。そしてこれを論じることは同時にまた、何故商品の価値は――この商品の価値は何労働時間であるというふうに――直接労働時間では表示されないで、その商品に等置される他商品の物量という形で、そして結局においては、現にわれわれが見るごとく貨幣商品――金――の分量、すなわち金何円という形で表示されざるをえないのか、という問題を論じることにもなるわけであるから、特に貨幣への関連についていえば、価値形態論では貨幣の「如何にして」が論じられているのに対して、物神性論ではその「何故」が論じられているのだということもできるであろう。(中略)「資本論」の第一章は商品の分析による研究の場であり、そして商品の分析は、当然、生産物が商品としてあらわれる形態の分析によって行われるが、そうした形態そのものが問題であるかぎりでは、商品はまだ運動の過程にはない。使用価値として、それを必要とする他の商品所有者の手に移っていく過程にもなければ、価値として、所有者の必要とする他の商品に現実に転化する過程にもない。言葉をかえていえば、使用価値としても価値としても、実現はまだ問題にならず、したがって、そういう二重のものとしての実現のあいだの矛盾の関係もまた、問題にはなりえない。だからそのような矛盾を媒介するものとしての貨幣の必要もまた、問題にはなりえない。すべてこれらのことは、交換の過程においてはじめて問題になるのである。価値形態論でも貨幣の形成が論じられるが、そこでの問題は貨幣形成の「如何にして」であって、「何によって」ではない。言葉をかえていえば、特殊の一商品である金が如何にして一般的等価物に――すなわちその自然形態がそのまま価値として通用するものに――なるかであって、そういうものが何によって必要とされ、形成されるかではない。――大体以上のように前には述べたのであるが、今やわれわれは次のようにいうことができる。価値形態論では貨幣の「如何にして」が論じられ、物神性論ではその「何故」が論じられるのに対して、交換過程論ではその「何によって」が論じられるのであると。マルクス自身も、「資本論」の第二章「交換過程」の終わりに近いところ(それは第三章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第三章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる)にこう書いている。「困難は、貨幣が商品であることを把握する点にあるのではなく、如何にして、何故に、何によって wie, warum, wodurch」商品が貨幣であるかを把握する点にある。」(九八頁。)ここでのこれら三つの困難の指摘が、同時に、彼自身が見事にそれらを克服したことを暗示していることは明らかではあるが、どこでそれをなしとげたかについては何らの暗示をあたえていない。わたくしは、この》「如何にして」と「何故に」と「何によって」とが、それぞれ、第一章の第三節と第四節と第二章とで答えられているものと解するわけであるが、これによるとマルクスは、ここで三つの困難を指摘したさいに、彼がそれらを「資本論」で克服した順序にしたがって、あげたのだ、ということになるであろう。》(38-41頁)

●「如何にして、何故、何によっては、交換過程論の内容について述べていると理解することもできるのではないか」との発言がありました。また「久留間氏の叙述によって第一章、第二章をどのように理解するかについて多くのものを学んだ」との発言もありました。


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by shihonron | 2009-06-09 23:30 | 学習会の報告
2009年 06月 02日

第147回 6月2日 第2章 交換過程

6月2日(火)に第147回の学習会を行いました。「読む会通信」№332をもとに前回の復習をした後、「第2章 交換過程」の第14段落を輪読、検討しました。ました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第14段落

・すでに見たように、貨幣形態は他のすべての商品の関係の反射が一つの商品に固着した物でしかない。
・だから、貨幣が商品であるということは、ただ貨幣の完成形態から出発してあとからこれを分析しようとするものにとって一つの発見であるだけである。
・交換過程は、自分が貨幣に転化させる商品にその価値を与えるのではなく、独自な価値形態を与えるのである。
・この二つの規定の混同は、金銀の価値を想像的なものと考える誤りに導いた。
・貨幣は、一定の諸機能においてはそれ自身の単なる章標によって代理されることができるので、もう一つの誤り、貨幣は単なる章標であるという誤りが生じた。
・他方、この誤りのうちには、物の貨幣形態はその物自身にとっては外的なものであって、背後に隠された人間関係の単なる現象形態である、という予感があった。
・この意味ではどの商品も一つの章標であろう。
・というのは、価値としては商品に支出された人間労働の物的な外皮でしかないからである。
・しかし、一定の生産様式の基礎の上で物が受けとる社会的性格、または労働の社会的規定が受けとる物的性格を、単なる章標だとするならば、それは、同時に、このような性格を人間のえてかってな反省の産物だとすることである。
・これこそは、18世紀に愛好された啓蒙主義の手法だったのであって、この手法によってその発生過程をまだ解明することができなかった人間関係の不可解な姿から少なくともさしあたり奇異の外観だけでもはぎ取ろうとしたのである。

■フランス語版では《貨幣形態は、あらゆる種類の商品が唯一の商品種類においてもつところの価値関係の反映にほかならない。》となっている。(67頁・原頁37)

■《新たにえられた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類。たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表す。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ。この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現れさせるのである。》(国民文庫125頁・現象80)

■《だから、貨幣が商品であるということは、ただ貨幣の完成形態から出発してあとからこれを分析しようとするものにとって一つの発見であるだけである。》は、マルクスコレクション版では《貨幣が商品であるという事実は、貨幣の完成した姿から出発して事後的にそれを分析するものにとってのみ、発見であるにすぎない。》、フランス語版では《したがって、貨幣のすっかり完成した形態から出発してあとから貨幣の分析に到達する人にとってだけ、貨幣そのものが商品であるということが、一つの発見になりうるのである。》(67頁・原頁37)、長谷部訳では《それゆえに、貨幣の完成した姿態から出発してこれを後から分析する者にとって、発見たるにすぎない。》(81頁)、新日本版では《したがって、貨幣は商品であるということは、貨幣の完成した姿態から出発してあとから分析する者にとっての一つの発見であるにすぎない。》(153頁)となっている。

■《人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それはあとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。》(国民文庫140頁・原頁89)

■この個所に山内清氏は《「貨幣は商品である」という発見は、画期的ではあるが、それだけでは貨幣にまとわりつく物神的性格を追い払うものではない。》との注をつけている。(『資本論商品章詳注』179頁)

●この個所をどう理解するかについて議論がありました。「貨幣が商品であることはすでに知られていたことであるが、貨幣の完成形態から出発してあとからこれを分析しようとするものだけがその意味をとらえ、《発見》するができたということではないか」という意見が出されましたが、議論の結果そうした理解は正しくないとの結論になりました。「貨幣の完成形態から出発してあとからこれを分析しようとするものとは、マルクス以前に貨幣が商品であることを明らかなした人々も含めてのことであり、発見に意義はあるが、山内氏の述べているよう限界もあることを指摘しているのではないか」との発言があり、反対の意見はありませんでした。

★《この二つの規定》とは、価値と価値形態のことである。

★《この独自な価値形態》とは一般的等価物あるいは貨幣という形態

■《章標》ということばは一般の国語辞典には出ていない。フランス語版では《表章》、マルクスコレクション版では《記号》となっている。英語ではsymbol(象徴, 表象; シンボル; 記号)である。

■【象徴】(名)スル
直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること。また、その表現に用いられたもの。例えば、ハトで平和を、王冠で王位を、白で純潔を表現する類。シンボル。
(大辞林 第二版より)

■《物の貨幣形態はその物自身にとっては外的なものであって、背後に隠された人間関係の単なる現象形態である》は、フランス語版では《貨幣が外的な物体という外観のもとで社会的関係を実際は隠している》(68頁・原頁37)となっている。

●《他方、この誤りのうちには、物の貨幣形態はその物自身にとっては外的なものであって、背後に隠された人間関係の単なる現象形態である、という予感があった。》という記述について、「貨幣は単なる章標にすぎないという見解をそれほどに評価することはできるのか、本当に予感していたのだろうか」との疑問が出されました。

●「《価値としては商品に支出された人間労働の物的な外皮でしかない》の主語は何か」という疑問が出され、商品だろうという結論になりました。

★《一定の生産様式の基礎の上で物が受けとる社会的性格、または労働の社会的規定が受けとる物的性格》とは価値のことだろう。

■《しかし、一定の生産様式の基礎の上で物が受けとる社会的性格、または労働の社会的規定が受けとる物的性格を、単なる章標だとするならば、それは、同時に、このような性格を人間のえてかってな反省の産物だとすることである。》は、フランス語版では《ところが特殊な生産様式の基礎の上で物が帯びる社会的性格、あるいは労働の社会的規定が帯びる物的性格のうちに、たんなる表章しか見なくなるやいなや、この性格は、いわゆる人間の普遍的な合意によって承認された慣習的な擬制という意味を与えられる。》(68頁・原頁37)

■ 【擬制】
〔法〕〔fiction〕相異なる事実を法的には同一のものとみなし、同一の法律的効果を与えること。失踪宣告を受けた者を死亡とみなし、電気を有体物とみなすなどの類。 (大辞林 第二版より)

●「あとで擬制資本ということばも『資本論』では使われている。ここでの擬制は、法律的な意味ではなく、《みせかけ》といった意味合いだろう」との発言がありました。

■最後の部分はフランス語版では《人は、社会的関係で装われた謎めいた形態の起源も発展もまだ解読できないので、この謎めいた形態は人間の考え出したものであり、天から降ったものではない、と宣言することによって、この謎めいた形態を厄払いしたわけである。》(68頁・原頁37)

●《人間のえてかってな反省の産物》とはどういうことかが議論になり、「貨幣は人間が発明した物だといった見解ではないか」という発言がありました。

●《18世紀に愛好された啓蒙主義の手法》とはなにかが問題になりました。「社会契約説に代表されるように、人間の契約、約束事としてし事態を説明する立場といえないか」、「単純なものに還元するといったことではないか」との発言がありました。

■社会契約説 しゃかいけいやくせつ
17―18世紀のヨーロッパで展開された自然法的合理主義に基づく社会理論。理論の前提には個人の確立があり,平等な個人間の自由意志に基づく契約によって人間は自然状態から脱して国家を設立する,すなわち,平等な個人間の契約によって社会は成立すると主張する。理論家としてはホッブズ(《リバイアサン》),ロック(《統治二論》),J.J.ルソー(《社会契約論》)らが著名。彼らの理論内容は多くの差異を含むが,自然状態の克服を社会のモデルとした,近代社会成立期のブルジョアジーの政治理論であった。(マイペディアより)

■啓蒙思想 けいもうしそう
17―18世紀の西欧において,近代市民社会の形成を推進した思想運動の総称。英語,ドイツ語,フランス語などの原語は理性の光,あるいはその光による闇の追放を含意する。宗教思想(理神論,ボルテール,レッシング),認識論・知識論(カント,ヒューム,百科全書派),社会思想(モンテスキュー),経済思想(スミス)など,多様な領域で革新と〈中世的遺制〉に対する批判が展開された。そのシンボリックな帰結がフランス革命。理性と進歩への過度の信頼はロマン主義以降の反動を招くことになる。 (マイペディアより)


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by shihonron | 2009-06-02 23:30 | 学習会の報告