『資本論』を読む会の報告

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2009年 07月 28日

学習会資料 価値尺度機能と価格の度量標準について その1

価値尺度機能と価格の度量標準について   2009.07.28   NK

 7月7日行われた第152回の学習会での報告のなかで、IGさんが「価値尺度機能は質であり、価格の度量標準は量だ」と述べられたのに対して、NKは「価値尺度機能には質的側面だけではなく量的側面もある」と発言しました。7月14日の第153回の学習会でも議論があり文章化して再度検討することとなりました。

1.何が問題か?
 「価値尺度は質である」ということの意味は何か、価値尺度機能の量的側面の存在を認めるのかどうかが問題であるように思われる。また、この問題を解きほぐすことで、価値尺度機能と価格の度量標準という機能の関連を明らかにすることもできるだろう。

2.価値尺度機能の質的側面と量的側面
 価値尺度機能について第3章第1節では「金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、また諸商品の価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較可能な大きさとして表すことにある。こうして金は諸価値の一般的尺度として機能し、この機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」(第2段落)「商品価値はいろいろな大きさの想像された金量に転化されているのであり、つまり、商品体が種々雑多であるにもかかわらず、同名の量に、すなわち金量に転化されているのであり、このようないろいろな金量として、諸商品の価値は比較され、計られるのであって、技術上、これらの度量単位としての或る固定された金量に関係させる必要が大きくなってくる。」(第7段落)「価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量標準であるのは、固定した金属重量としてである。それは、価値尺度としては、種々雑多な商品の価値を価格に、すなわち想像された金量に転化させるのに役だち、価格の度量標準としては、この金量を計る。価値の尺度では諸商品が価値として計られるのであるが、これにたいして、価格の度量標準は、いろいろな金量をある一つの金量で計るのであって、ある金量の価値を他の金量の重量で計るのではない。」(第8段落)と述べている。
 以上の引用から明らかなように、価値尺度機能とは、諸商品の価値をいろいろな大きさの想像された金量に転化することである。金(貨幣)は、諸商品が価値であること(質的側面)と同時にある量の価値であること(量的側面)をも表現する。

3.価値尺度の質
 『貨幣論』で久留間鮫造氏は宇野弘蔵氏の見解を批判する中で「価値尺度の質」の理解が重要であることを強調している。大切だと思われる箇所をいくつか紹介する。
 「商品の価格は結局金いくらという価格の形態で表示されることになる、現にそうなっているわけですが、これについては二つの過程を区別して考える必要があると思うのです。第一の過程は、金が商品世界の共同の行為によって、一般的等価物――貨幣――にされる過程です。このかぎりでは、金は何らの機能もしていない、もっぱら商品の方がはたらきかけて、金に貨幣という形態規定を与えているわけです。だが、これが過程の全部なのではない。商品はまずこのようにして、金に貨幣という形態規定を与えた上で、こんどは、この貨幣としての金で、それぞれに自分の価値を表示するわけです。たんなる金ではなくてすでに貨幣になっている金で。諸商品が共同の行為によって金を貨幣にする過程と、すでに貨幣になっている金で、いちいちの商品が自分の価値を表す過程とはちがうわけです。第一の過程では、すべての商品が左辺に立って、右辺に金がおかれる。一般的な相対的価値形態と同じです。ところが、ひとたび金が貨幣になると、そうした金での商品の価値表現は、最初の簡単な価値形態と同じ形態で行われることになる。(中略)この場合には金は、すでに貨幣という形態規定を与えられているものとして、言葉をかえて言えば、それの自然形態がそのまま価値の大いさを表すものとして、商品の価値表現において独自のはたらきをしている、独自の機能をしている、と考えられるのです。」(173-174頁)
 「実際に売られる場合の商品の価格が、買い手によって、まして購買手段としての貨幣の機能によって、決定される、と考えることは、それ自身途方もない間違いであるが、その点はしばらくおくとして、それが誰によって、あるいはなにによって決定されるにしても、また、その価格が感覚的具体的労働表示するものとして高すぎようが低すぎようが、それは価格であることに変わりはない。なぜならそれは、貨幣としての金の形態における価値の表現だからである。そして、商品の販売ということは、それを前提にして――価格を前提にして――はじめて考えられことである。なぜなら、販売は価格の実現であり、価格の実現は必然的に価格を前提するからである。販売されたさいの価格がどのようにして決定されようが、またその価格が価値を表現するものとして低すぎようが高すぎようが、それが実現されて現実の金になれば、その金の量的限界の範囲内では、どんな商品でも買えるものになる。金はけっして、本来的にそういうものではない。金がそういうものになったのは、あらゆる商品がそれらの価値をもっぱら金で表現することによって、金を貨幣に――それの自然形態がそのまま価値の定在として一般的に妥当するものに――したからであり、商品の価値がこのような貨幣としての金で、価格として表現されることになったからである。この、価値の価格としての表示は、貨幣としての金の媒介によってはじめて可能なのであり、この媒介的な機能において、貨幣金は価値の尺度なのである。これこそが、価格のしたがってまた価値尺度としての貨幣の機能の、質的な面であり、根本である。宇野君の主張は、量の問題に――マルクスの言葉をかりて言えばブルジョア的インタレストに――注意を奪われて、肝心かなめな質的な面を忘れたものと言わねばならぬ。」(177-178頁)
 「実際に売買される場合の価格が何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつのかという問題、これをわれわれは、先ず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。」(180頁)
 「商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、けっきょく、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品にかわるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、いうまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、そのかわりに金が与えられる。これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲渡されるということは、ひっきょう、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎすてられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味です。」(180頁)
 「このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによつてまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに――すなわち貨幣に――されていることを前提するので、それによつてはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な、労働への転化を意味することになりうるわけです。ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している尺度の質というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(181頁)
 「宇野君が物差しと違うという場合には、たんに量的規定のことだけを考えているのですが、マルクスはそれとは異なって、もつと根本的な、本質的な差異を見極めているのです。貨幣(金)の形態においてはじめて、商品は一般的に価値として現れるのだということ、そして価値として現れることによってはじめて、商品生産者の労働は社会的労働として現れるのだということ――これは単に量的規定上の違いではなくて、もっと根本的な本質的な違いですが――それをマルクスは明らかにしているわけです。しかし、それだからといって、彼はけっして量的規定をおろそかにしているわけではない。ただ、そういうことを問題にする前に、より根本的な質的な問題を明らかにする必要があると考えているのです。そうしないと、量的規定の問題そのものも、本当には理解されえないことになるからです。彼が量的規定の問題をおろそかにしていないことは、彼がいろいろなところで価値からの価格の乖離の問題を論じているのをみればわかるはずです。いろいろのところで彼がそれを論じているのは、量的規定といっても一概には言えないので、抽象的形式的な規定もあれば具体的実際的な規定もある。そしてそのあいだにさらにいろいろの段階がある。したがって、理論的体系の展開につれて、それぞれ適当なところで論じるほかはないからです。たとえば需給の関係による価格の決定というようなことは、簡単な流通を考察する段階では問題になりえない。この段階では、購買と販売、あるいは購買者と販売者というものは出てくるが、そのあいだの関係をいくら考えても需給の問題はわからない。需給の問題は購買者の全体と販売者の全体とのあいだの競争の関係だからです。簡単な流通のところで明らかにされうることは、せいぜい、価値からの価格の乖離の可能性は価格形態そのもののうちに横たわっているということ、それから、商品の販売は種々の事情に依存するということ、したがって、それらの事情次第で価格は価値から離れることになるのだということ、ただその程度のことにすぎないわけです。」(188-189頁)
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by shihonron | 2009-07-28 23:50 | 学習会資料
2009年 07月 28日

学習会資料 価値尺度機能と価格の度量標準について その2

4.大谷禎之介『図解社会経済学』から 
大谷氏は価値表現や価格を表す等式の右辺を「値札」のような記号を用いて表記されていますが、ここでの引用では、技術的な理由から簡略化しています。
-----------以下引用-----------
§ 貨幣の機能
(1) 価値尺度および価格の度量標準としての貨幣の機能
[商品の価値表現と価値尺度としての貨幣の機能] 市場に登場する商品は、まずなによりも、自己の価値を貨幣で表現しなければならない。貨幣で表現された商品の価値が価格である。たとえば、1㎏の小麦の価値は、1㎏の小麦=7.5gの金という価格で、また貨幣である金の750㎎に「円」という貨幣名が与えられているときには、1㎏の小麦=10円という価格で表現される。
[価値尺度の質] 価格では、価値という、感覚では捉えることができない、したがって表象する(心のなかに思い浮かべる)ことができない、商品のまったく社会的な属性が、金という、感覚で捉えることができる、したがって表象することができる自然物のある量に転化されている。このように、価値という商品のまったく社会的な属性を自然物のある量に転化することによって商品の価値表現の材料として役だつということ、これが、貨幣が商品の価値を尺度する(測る)ということの最も肝心な質的内容、つまり価値尺度の質である。
[価格で表象されているのは実在の金である] 価格はある量の金という自然物であるが、価格においてはこの自然物は表象されているだけで、そこにそれの現物があるわけではない。つまり、商品の値札、正札の上にある金は表象された金でしかないのであって、現物の金ではない。けれども、そこで表象されているのは実在的な金、つまり現物の金である。商品世界から排除されて貨幣となった金が実在し、諸商品に相対しているからこそ、それを表象することができるのである。要するに、価値尺度としての貨幣は表象された観念的な貨幣であるが、それが表象・指示しているのは実在の貨幣である。
[価格表を逆に読めば貨幣商品の価値が読み取れる] それでは、貨幣である金は自己の価値をどのようにして表現するのであろうか。金の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されているそれの価値は、ほかのどの商品もそうであるように、それ自身で絶対的に言い表すことができないのであって、自己に等置された他の商品の量で表現するほかはない。ところが、一般の商品は自己の価値を、表象された金量でである価格で表現しているが、金は自分に金を等置することはできない。けれども、一般の商品がもつ価格はすべて、それらの価値と同量の価値をもつ金の量を等置したものなのだから、そこには金の価値の大きさが反映しているはずである。実際には、商品の価格の一覧リスト、つまり価格表を、商品の側からではなく、逆に金の側から読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表現されていることがわかる。
[価格の度量標準] 諸商品は、自己の価値を価格で表象された金量で表現し、たがいに比較しあう。そこで、それらの金量を計量し、同一の名称で言い表すために、技術的に、ある金量を価格の度量単位とする必要が生じる。
 金は、それが貨幣になる以前から、ポンド、グラム、貫などのような重量による度量単位をもつている。これらの度量単位は、さらに下位の補助単位に分割されて、オンスやミリグラムや匁および分などとなり、これらの単位の全体が一つの度量標準、つまり度量システムを形成する。
 価格で表象された金量を計量するための度量標準、つまり価格の度量標準として役だったのは、当初は、このような重量の度量システムであった。しかし、さまざまの原因によって、貨幣商品の重量を言い表す貨幣名は、重量の度量システムから離れて、重量名とは別のものにすることが普通のこととなってくる。もとの重量名がそのまま貨幣名になっている場合でも、貨幣名が言い表す金の重量は、重量名が言い表す重量とは異なるようになる。
 価格の度量標準は、価格である観念的な金量を測るためばかりでなく、貨幣である実在の金そのものを計量するのにも用いられるから、貨幣の度量標準でもある。それは、いわば、金量を測る物差しである。商品の価格で表象されている金であれ、貨幣である現実の金であれ、およそ金量を言い表すために金の諸量が度量システムになっているとき、金は計算貨幣として機能していると言う。
 はじめはさまざまの貨幣名が用いられるが、貨幣名は商品世界のなかで広く認められ、通用する必要があるので、価格の度量標準ないし貨幣の度量標準は、国家の法律によって確定されるようになる。たとえば、日本では「貨幣法」(1897年制定、1990年廃止)がその第2条で「純金の量目2分(750㎎)をもって価格の単位となし、これを円と称す」とし、第4条では「貨幣の算測は10進1位の法を用い、1円以下は1円の1/100を銭と称し、銭の1/10を厘と称す」としていた。こうして、1㎏の小麦=7.5gの金 という価格は、1㎏の小麦=10円というように、貨幣名の「円」で言い表されることになる。
[価格の質と量] このように、商品の価格とは、質的には、抽象的人間的労働の対象化である商品価値を、価値尺度としての貨幣である金の量で表現したものであり、量的には、この金の量を価格の度量標準である金量で測ったものである。
[価格は価値を性格に表現するわけではない] 価格は価値を表現するものであって、どの商品についても、価値どおりの価格、つまりその商品の価値と等しい価値量をもつ金量を表象している価格があるのはもちろんである。しかし、商品の価値を価格として表現するのは、商品の価値も金の価値も絶対的な大きさとして把握することが誰にもできないからである。だからこそ、同じ商品でもさまざまの価格をもつことができるのである。商品の売り手がそれで売りたいという「言い値」も、買い手がそれで買いたいという「付け値」も、売り手と買い手のあいだで一致した「決まり値」ないし「売り値」も、量的には異なった価格であるとしても、質的には、すべて商品の価値を貨幣である金の量で表現した価格である。また、商品の価値量が変わらないのに、たえず変動している価格は、量的にどのように変化しようとも、質的にはつねにその商品の価格である。このように、商品の価格は、その本性からして、商品の価値をつねに正確に表現するものではない。
[価格の価値からの乖離は商品生産にとっての不可欠の契機である] このように、価値と価格とが量的に一致しない可能性、つまり価格が価値から乖離する可能性は価格形態そのもののなかにある。しかしこのような乖離の可能性は価格形態の欠陥ではなくて、むしろ、無政府的な生産でしかありえない商品生産が社会的生産として成り立つための、ひとつの重要な契機である。
 価格が価値から離れて上昇あるいは下落していけば、それは遅かれ早かれ、商品の供給と商品に対する需要における変動を引き起こし、その結果、こんどは価格を逆の方向に変動させることになる。需要供給の変化によってたえず変動している価格は、じつは、それが価値から乖離することによって、逆に商品の需要供給を調節するのであって、そのような価格の変動そのものが、価値によって制約された変動であらざるをえない。そして、価格の価値をめぐる変動が、結果的に、社会的需要に見合った供給をもたらす作用を果たすのである。これによってはじめて、労働がすべて私的労働として無政府的に行われる諸商品の生産規模が、変転する社会的な諸欲求になんとか適合させられることになるのである。
[価値をもたないものも価格をもてる] 価値から乖離しうるという価格の本性からして、ごくわずかの価値しかもたないものがきわめて高い価格で売買されることがありうるが、そればかりか、さらにまったく価値をもっていないもの、つまりおよそ労働の生産物でないものが価格をもち、商品として売買されることができる。たとえば、良心、名誉、役職、貞操、金儲けのチャンス(いわゆる「金融商品」)等々のようなものである。それらの価格のなかには、現実の価値関係となんらかの関連をもっているものもある。たとえば、のちに第3篇第5章第2節で述べるように、企業の利潤の大きさを反映する配当の大きさと利子率とによって株式の価格が変動するとか、のちに第3篇第6章第5節で述べるように、見開墾の土地は価値をもっていないが、それがもたらすであろう地代の大きさと現行の利子率とによってその価格が変動するとかいうような場合である。
(大谷禎之介『図解社会経済学』92-96頁)

5.論文「貨幣の機能」(大谷禎之介 『経済志林』第61巻第4号)から
--------以下引用-------------
(5) 価値の尺度と価格の度量標準との関係
 貨幣である金が価値の尺度として果たす機能と、それが価格の度量標準として果たす機能とは、まずもって、はっきりと区別されなければならない。貨幣が価値尺度であるのは、抽象的人間的労働の対象化である価値の体化物(価値体)、つまりそれの使用価値の姿がそのまま価値というまったく社会的なものと認められている特別な商品として、要するに一般的等価物というそれの社会的性質においてである。それにたいして、貨幣が価格の度量標準であるのは、或るきまった金属重量として、つまり自然物としてのそれの重量としてである。貨幣は、価値尺度としては、諸商品の価値を価格に、つまり表象された金量に転化するのに役だつのにたいして、価格の度量標準としては、その金の量を計量するのである。価値尺度では、諸商品の価値が尺度されるのであるが、これにたいして、価格の度量標準では、もろもろの金量を単位としての金量で計量するのであって、価値を金量で測るのではない。(注1)
 価格の度量標準のためには、度量単位としての金量は固定されていなければならない。どのような単位系でもそうであるように、度量単位となる量はいつでも同じ量でなければならないのであって、同じ金量が度量単位として役立つことが不変的であればあるほど、価格の度量標準の機能はよりよく果たされるのである。
 ところが、金が価値の尺度として役立つことができるのは、それが他のすべての商品と同じく価値をもった商品だからである。そうでなければ、諸商品は、金を自己に価値の等しいものとして等置することはありえない。商品の価値はそれの生産に社会的に必要な労働時間の対象化であり、社会的必要労働時間の変化につれて商品の価値は変動するのであって、貨幣である金の価値もこのような変動をまぬがれない。つまり、金は、可能性から見てたえず変動しうる、可変的な価値であるからこそ、他の商品にとっての価値の尺度となることができるのである。
 まず、金の価値が変動しうるということが、金の価値尺度としての機能を妨げないことは明らかである。というのは、価格ではただもろもろの金量の相互の関係、比率だけが問題なのであって、金の価値が変動しても、すべての商品がその変動した新たな価値をもった金を自己に等置するので、諸商品の価値の相対的な関係、比率にはなんの変化も起こらないのだからである。もちろん、金の価値が高くなれば、同じ価値をもった商品は以前よりも少ない金量を自己に等置するし、金の価値が低くなれば、それは以前よりも多くの金量を自己に等置することになるが、諸商品の価格の相互の関係は以前とまったく変わらないのである。金の価値の変動に伴う商品価格の変動については、別稿で述べた〈相対的価値表現の法則〉(注2)がそのまま妥当する。
 さらに、金の価値が変動しうるということは、価格の度量標準としての金の機能を妨げることもない。というのは、金価値の変動に伴う価格の変動は、商品に等置される観念的な金の量を変化させるだけであって、その量を計量する単位となる金量を変化させるものではまったくないのだからである。同じ計量単位である金量で測れば、より高い価格は、つまりより多くの金量は、より多くの貨幣名で言い表されるのであり、逆はまた逆である。
 このように、価値尺度としての貨幣の機能と価格の度量標準としての貨幣の機能とはそれぞれ異なった機能であるが、しかし、一方で、価格の度量標準は、金が価値尺度として機能して、諸商品の価値を観念的な金量に転形していることを前提するし、他方で、価値の尺度は、それによって転形された価値である観念的な金量が価格の度量標準によって計量され、一定の貨幣名で言い表されることによって、はじめて諸商品の価値を相互に比較するものとして機能することができる。両機能のあいだには、このような関連がある。
 のちに見るように、貨幣である金の象徴として流通する紙幣だけがもっぱら流通する〈不換制〉のもとでは、価格の度量標準としての金の機能を妨げる重大な変化が生じてくる。ここではまだ、この変化の内容とそれが生じる原因とについて述べることができないが、不換制のもとでは、貨幣名はもはや固定された金量ではなく、社会全体の流通必要金量を流通紙幣の総量が言い表している貨幣名で除した金量、すなわち貨幣名を背負う紙幣片の代表金量を言い表すことになるのであって、それはたえず変動する流通必要金量と流通紙幣量との関係によって決定される、たえず変動する金量となる。ここでは価格の度量標準の固定性は失われてしまう。それでも、そのような代表金量の変動が相対的に安定しているときには、諸商品はまだ、自己の価値を表現するのにどれだけの金量を自己に等置するべきかを、経験的に決定することができ、そのような不確定の度量標準でもとにかく一応の機能果たすことができる。ところが、この代表金量が急激に、かつ大きく変動するようなときには、価格の度量標準としての貨幣は機能不全の状態に陥ることになる。そのような事態は、とくに〈インフレーション〉の時期に生じる。それぞれの商品が自己に金量を等置するさいの基準が失われて、ある商品は自己に著しく過大な金量を等置し、ある商品は自己に過小な商品(ママ――正しくは商品ではなく貨幣だと思われる――引用者)を等置することになり、流通当事者たち相互のあいだでの価値の大幅な移転が生じることになる。けれども、このようなときに機能不全に陥っているのは、商品に等置される金量を度量すべき金量である価格の度量標準であって、それは金の量の問題である。不換制になっても、価値尺度の質、すなわち私的労働を社会的労働に転化するための契機としての、価値という社会的なものを金という自然物の量に転化することについては、なんの変更も受けない。(注3)不換制とそのもとでのインフレーションとについては、のちにあらためて述べるとしよう。
 要するに、量をもたない質も質のない量もありえないように、価値を質的に尺度する貨幣の価値尺度としての機能と、金の量を測る価格の度量標準としての機能とは、相互に密接に結びついた機能であって、価格の度量標準とは価値尺度として質的に機能している商品の一定量なのであるが、しかし、この両者は明確に区別されなければならず、質の問題と量の問題を混同しないようになくてはならない。

(注1)曲線状の2点間の長さを測定しようとするときには、まず、自由に曲げることのできるもの、たとえば紐をその2点間の曲線にあてがい、そののちにそれを延ばして物差しで測ればよい。この場合、その紐は、曲線を直線に転形するという、いわば質の転換をもたらす役割をはたし、物差しは、そのようにして直線に転換された或る長さを単位となる長さの直線で測るという量的計量を行っている。比喩的に言えば、価値尺度としての金の機能はこの紐が果たす役割であり、価格の度量標準としての機能はこの物差しが果たす役割である。言うまでもなく、曲線を直線に転換するのは、物のまったく物理的なある属性を他の属性に転換することであるのたいして、価値尺度としての金は、物のまったく社会的な属性を自然物の量に転換するのであり、ここに価値尺度の質があるのである。

(注2)「価値形態」、『経済志林』第61巻第2号、1993年、177-178ページ

(注3)価格の度量標準が、不確定で、しかも急激な変更を蒙っているために、機能不全の状態にあって、諸商品の販売価格がそれらの価値から著しく偏倚することがあるとしても、そのことが価値尺度の質になんら触れるものではないことについては、次の記述が参考になるであろう。
「商品が、その価値以下で、あるいはその価値以上で売られることがあるかもしれない。このことは、ただそれの価値量にかかわるだけである。だが、いやしくもそれが販売されており、貨幣に転化されていさいすれば、いつでも、それの交換価値は、それの使用価値から分離された自立的な定在をもっているのである。それはもはや、社会的労働時間の一定分量として存在するにすぎず、また、自らがかかる物であることを、直接にどんな任意の商品とでも交換可能であり、どんな任意の使用価値にでも(その分量の範囲で)転化可能であるということによって、実証する。この点は、一商品に含まれている労働が商品の価値要素として受けとる形態上の転化と同じく、貨幣を論じるさいに見過ごされてはならない。ところで貨幣においては、言い換えれば、商品が貨幣としてもっているこの絶対的な交換可能性、すなわち、交換価値としての商品の絶対的な効力――このことは価値量にはなんのかかわりもなく、量的な規定ではなくて質的な規定なのである――においては、次のことが明らかとなる。すなわち、商品そのものの過程によって商品の交換価値が自立化され、自由な形で商品の使用価値と並んで実在的に表されるが、これは商品の交換価値が商品の価格においてすでに観念的に貨幣であるのと同様なのだ、ということである。」(『1861-1863年草稿』(『剰余価値学説史』)、MEGA、Ⅱ/3.4,S.1323強調―引用者)
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by shihonron | 2009-07-28 23:45 | 学習会資料
2009年 07月 28日

第154回 7月28 第3章 第2節 流通手段 a 商品の変態

7月28日(火)に第154回の学習会を行いました。価値尺度機能と価格の度量標準との関連や意義についてNKさんが提出した文書(別掲)をもと議論しました。レポーターの報告をうけ「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第1段落から第12段落までを検討しました。時間切れとなり、議論は次回に続くことになりました。
以下は、当日配布されたレジュメです。

第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

第1段落
諸商品の交換過程は、商品は、使用価値として実現されるまえに価値として実現されなければならない、他方では、商品は、自分を価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならないという矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。
貨幣は、これらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。

第2段落
交換過程が諸商品を、それが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。使用価値として役だつ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部に落ちる。商品の変態を研究する際にわれわれが関心をもつのは、商品交換方の部面だけである。われわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。

★「諸商品を、それが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移す」とは「使用価値としての商品の実現」のことである。

★商品所持者は、自分にとっては非使用価値である自分の商品を手放し、自分にとっての使用価値である他の商品を手に入れる。

★「ある有用な労働様式の生産物」とは、具体的・有用的労働の生産物のことであり、ある使用価値という意味であろう。

■「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会状態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。」(第1章第2節「商品に表される労働の二重性」の第7段落 国民文庫85頁・原頁57)

★「社会的物質代謝」とは、人と人との間での物質代謝であり、人と自然との間での物質代謝と区別されている。

第3段落
商品と金の交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすのである。

★商品の形態変換とは、まずはある商品が、商品形態から貨幣形態に変わること。

★「素材的な契機」とは、使用価値の側面という意味であり、ある使用価値が金という使用価値に姿を変えたこととして捕らえるだけでは不十分だということ。金はただの商品ではなく、貨幣であることを見る必要がある。

★商品の価値は、まず表象された金(貨幣商品)の量として価格の形態で表現され、実際に貨幣に転化することで、価値にふさわしい形態を得ることになる。

第4段落
商品はさしあたりは、生まれたままの姿で、交換過程にはいる。交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化、すなわち商品がその使用価値と価値との内的な対立をそこに表すところの外的な対立を生みだす。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である。しかしこのような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表されていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表している。商品は実在的には使用価値であり、その価値存在は価格においてただ観念的に現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立する金に、関係させている。逆に、金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。このような、諸商品の対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実の運動形態なのである。

★交換過程では、ある商品と貨幣が相対する。ある商品は、実在的には使用価値であり、その価値は価格によって観念的に表されている。貨幣は、実在的には交換価値であり、その使用価値は、価格をもつあらゆる商品のさまざまな使用価値によって観念的に表されている。

20エレのリンネル=1.5gの金 あるいは 20エレのリンネル=2円

20エレのリンネルは実在的に使用価値である。

20エレのリンネルの価値は、表象された金量である1.5gの金あるいは2円として表現されている。

表象された1.5gの金あるいは2円は、20エレのリンネルの価値の現象形態、言いかえれば交換価値である。

価格が指示している1.5gの金あるいは2円という貨幣は、実在的には交換価値である。

貨幣は、どんな商品とも直接に交換可能であり、貨幣の使用価値はあらゆる商品の使用価値によって観念的に表されている。

■「貨幣商品の使用価値は二重になる。それは、商品としてのその特殊な使用価値、たとえば金が虫歯の充填や奢侈品の原料などに役だつというような使用価値のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取るのである。
 他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物でしかなく、貨幣は他の諸商品の一般的等価物なのだから、他の諸商品は、一般的商品としての貨幣に対して、特殊的諸商品として相対するのである。」(第2章交換過程 第12・13段落 国民文庫164頁・原頁104)

第5段落
交換過程の場面、商品市場で行われることをリンネル所有者についてみてみよう。彼の商品、20エレのリンネルは、価格が決まっている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼は、それを2ポンド・スターリングと交換し、次に、この2ポンド・スターリングをさらに同じ価格の家庭用聖書と交換する。彼にとってはただ商品であり価値の担い手でしかないリンネルが、その価値姿態である金とひきかえに手放され、そして、この姿態からさらに他の一商品、聖書とひきかえに手放されるのであるが、この聖書は使用対象として織職の家にはいって行き、そこで信仰欲望を満足させることになる。こうして、商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態――商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのである。商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引――売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、そして両行為の統一 、すなわち買うために売る、である。

★ここでの「商品所持者」は「商品生産者」であることに注意しておこう。
 
第6段落
いま、リンネル織職が取引の最終結果を調べてみるとすれば、彼は、リンネルの代わりに聖書を、つまり、彼の最初の商品の代わりに価値は同じだが有用性の違う別の一商品をもっている。同じやり方で、彼はそのほかの生活手段や生産手段も手に入れる。彼の立場から見れば、全過程は、ただ彼の労働生産物と他人の労働生産物との交換、つまり生産物交換を媒介しているだけである。

第7段落
こういうわけで、商品の交換過程は次のような形態変換をなして行なわれる。
商品――貨幣――商品

  W――G――W

第8段落
その素材的内容から見れば、この運動はW―W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では過程そのものは消えてしまっている。

第9段落
W―G、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように、商品の命がけの飛躍[Salto mortale]である。社会的分業は彼の労働を一面的にするとともに、彼の欲望を多面的にしている。それだからこそ、彼にとって彼の生産物はただ交換価値としてのみ役だつのである。しかし、彼の生産物はただ貨幣においてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取るのであり、しかもその貨幣は他人のポケットにある。それを引き出すためには、商品はなによりもまず貨幣所有者にとっての使用価値でなければならず、したがって、商品に支出された労働は社会的に有用な形態で支出されなければならない。言いかえれば、その労働は社会的総労働の一環として実証されなければならない。しかし、分業は一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者達の背後で織られたものであり、また絶えず織られているのである。
場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするかまたは或る欲望をこれから自力で呼び起こそうとする或る新しい労働様式の生産物であるかもしれない。昨日まではまだ同じ一人の生産者の多くの機能のうちの一つの機能だった或る一つの作業が、おそらく、今日はこの関連から切り離されて、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになる。この分離過程のために事情はすでに熟していることまた熟していないこともあるであろう。生産物は今日は或る一つの社会的欲望を満足させる。明日はおそらくその全部または一部が類似の種類の生産物によってその地位から追われるであろう。労働が、われわれの織職のそれのように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の20エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいない。リンネルに対する社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物はよけいになり、したがって無用になる。もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。しかし、かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしよう。ところが、今度は、どれだけの貨幣がという問題が起きてくる。答えはもちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値量の指標によって、予想されている。商品所有者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないことにしよう。それは市場ではすぐに客観的に訂正される。彼は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずである。だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかない。しかし、古くから保証されていたリンネル織物業の生産条件が、われわれの織職の同意もなしに、彼の背後で激変したとしよう。昨日までは疑いもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうではなくなる。それは、われわれの友人の何人もの競争相手の価格表から貨幣所有者が最も熱心に立証するところである。われわれの友人にとっては不幸なことだが、世の中にはたくさんの織職がいるのである。最後に、市場にあるリンネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。それにもかかわらず、これらのリンネルの総計は、余分に支出された労働時間をふくんでいることがありうる。もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングとしい正常な価格で吸収できないならば、それは社会的総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。ここでは、死なばもろともというわけである。市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。そて、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。

★ 商品の命がけの飛躍
商品の第一変態(売り)が、行なわれない場合(A)とⅡ.売りが行なわれたとしても価格で示されていたよりも少ない量の貨幣としか交換されない二つの場合(B、C)

A.新製品やこれまでは商品として登場していなかったでなかった部分生産物が商品となるが、それに対する需要はあらかじめ確保されているとは限らず、売れないことがある。また、ある使用価値に対する社会の欲望には限度があり、競争者によってそれが満たされている場合には、売れないことがある。

B.生産条件が激変(競争者が新たな高度な生産方法を導入)した場合には、一定量の商品の価値は下落し、生産方法が不変な生産者の商品は、かつての価格以下でしか売ることができない。

C.ある産業部門に、社会が必要とする生産物の量を超えた生産がされるように総労働時間の一部が配分された場合には、個々の商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされていても、正常な価格(価値どおりの価格)以下でしか売れない。

★「市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。」とは、一物一価の法則のこと。

■一物一価について、大谷禎之介氏は《商品の価値は社会的必要労働時間によって決まる。だから、同じ種類の商品の価値は同じである。そこで、商品の価値を表現する商品の価格も、一つの市場では同じである。これがいわゆる「一物一価」である。》と述べている。

■岩井克人氏は、《『資本論』のなかでマルクスは、商品を売ることはその商品に「とんぼ返り= 命がけの跳躍」を強いることだと茶化している。》(筑摩書房『貨幣論』187頁)と述べている。

■最後の「同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたもの」の箇所の「物質化」は、マルクスコレクション版では「受肉化」と訳されている。

■ 【受肉】キリスト教の根本教義の一。神がキリストとして、人間となって現れること。霊が肉に結合すること。託身。インカルナチオ。(大辞林 第二版)

■自然発生的な社会的分業や社会的総労働についてこれまで述べられていたことを振り返っておこう。
《いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する。こうして、どの商品にも、一定の合目的的な生産活動または有用労働が含まれているということがわかった。いろいろな使用価値はそれらのうちに質的に違った有用労働が含まれていなければ、商品として相対することはできない。社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的違いが、一つの多肢的な体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。》(国民文庫84頁・原頁56-57)

《およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現れるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて社会的総労働の諸環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現れるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。》(国民文庫136-137頁・原頁87)

《それ(私的諸労働は)は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。》(国民文庫137頁・原頁87)

《じっさい、労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証される事によってはじめて固まるのである。この価値量のほうは、交換者たちの意志や予知や行為に関係なく、絶えず変動する。交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重量の法則のように、規制的な自然法則として強力に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発達した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。》(国民文庫139-140頁・原頁89)

第10段落
このように、商品は貨幣を恋いしたう。だが「まことの恋がなめらかに進んだ試しはない」[“the course of true love never does run smooth ”] 。分業体制のうちにそのバラバラな四肢 [membra disjecta]を示している社会的生産有機体の量的編成は、その質的編成と同じに、自然発生的で偶然である。それだから、われわれの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。

★「社会的生産有機体の量的編成」とは、総労働力の各産業部門へ配分のことだろう。言いかえると、各産業間のバランスではないか。「その質的編成」とは、社会全体でどんな使用価値の生産を行なうのかということだろう。商品生産の社会では、社会全体でどんなもの(質的)をどれだけ(量的)生産するかが自然発生的で偶然だということである。

第11段落
分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。そこでとにかくことが進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、変則的にはこの形態変換で実体――価値量――が減らされたり加えられたりすることがあるにしても、つねに行なわれているのである。

★「その正常な進行」とは「価値どおりに売れる(商品が貨幣に転化する)こと」という意見だろう。

第12段落
一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。すぐに目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的価値姿態とである。そして金はなにと?その使用価値の一つの特殊な姿態とである。なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンド・スターリングというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W―Gは同時にG―Wである。

■ 「金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。」(国民文庫189頁・原頁119)
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by shihonron | 2009-07-28 23:30 | 学習会の報告
2009年 07月 14日

第153回 7月14日 第3章 第1節 価値の尺度

7月14日(火)に第153回の学習会を行いました。前回議論になった、価値尺度機能と価格の度量標準との関連や意義についての議論があり、次回に文章化したものをもとに検討することになりました。レポーターの報告をうけ「第3章 貨幣または商品流通 第1節 価値の尺度」の第18段落から最後(第21段落)までを検討しました。

以下は、当日配布されたレジュメです。議論の報告は後にアップします。

第1篇 商品と貨幣  第3章 貨幣または商品流通  
第1節 価値の尺度


18段落
 商品と貨幣分量=商品の価格=とが等価である、というのは同義反復である。
しかし、商品の価値の大きさの指標としての価格が、その商品の貨幣との交換比率の指標であるとしても、逆に、商品の貨幣との交換比率の指標が必然的に商品の価値の大きさの指標であるということにはならない。
仮に等しい大きさの社会的必要労働が、
 1クォーターの小麦=2ポンド・スターリング(約2分の1オンスの金)
とによって表されているとしよう。
今、事情によって、1クォーターの小麦に3ポンド・スターリングあるいは1ポンド・スターリングの価格がつけられるとするなら、それらはどちらもこの小麦の価格である。というのは
 第一に、それらはこの小麦の価値形態、すなわち貨幣であり、
 第二に、小麦の貨幣との交換比率の指標だからである。
商品の価値の大きさは、社会的労働時間にたいする、一つの必然的な、この商品の形成過程に内在する関係を表現する。・・この必然的な関係は、一商品とその商品の外部に実存する貨幣商品との交換比率として現れる。この比率において、その商品が価値の大きさより以上に、またはより以下に譲渡されることも表現されうる。この価格と価値の大きさの不一致の可能性は価格形態そのもののうちにある。このことは価格形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、一つの生産様式に適切な形態にするのである。―規律が、盲目的に作用する無規律制の平均法則としてのみ自己を貫徹しうる一つの生産様式に。

19段落
ところが、価格形態は、価値の大きさとそれ自身の貨幣表現との量的不一致の可能性を許すばかりでなく、一つの質的な矛盾―貨幣は諸商品の価値形態に他ならないにもかかわらず、価格がそもそも価値表現であることをやめるにいたるほどの矛盾―をも宿しうる。商品でないもの―たとえば良心、名誉などが貨幣で売られるものとなり、価格をもち、商品形態を受け取ることがありうる→価値をもたずに価格をもつことがありうる。 未耕地の価格のように価値をもたない想像的な価格形態も、ある現実の価値関係を潜ませていることがありうる。

20段落
 相対的価値形態一般がそうであるように、たとえば一トンの鉄の価値を表現するのは、一定分量の等価物、たとえば一オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによるのであって、逆に鉄の方が金と直接に交換されうるということによって表現するのでは決してない。商品が実際に交換価値の作用を果たすためには・・ただ表象されただけの金から現実の金に自己を転化させなければならない。商品は、たとえば鉄というような実在的な姿態とならんで、価格という観念的価値姿態、または表象された金姿態を持つことができる。商品に価格を与えるためには、表象された金を商品に等値すれば十分だが、商品がその所有者のために一般的等価物の役割を果たすためには、商品は金と取り替えられなければならない。鉄の所有者が鉄の価格をさしてこれは貨幣形態である―からこれである商品と交換してくれ―と言っても、相手はこう答えるだろう。ペテロがダンテに言ったように「それをおのが財布の中にもっているのか?」

21段落
 価格形態は、貨幣と引き換えに商品を譲渡する可能性と譲渡する必然性とを含んでいる。他方、金が観念的価値尺度として機能するのは、金がすでに交換過程において貨幣商品として動き回っているからにほかならない。だから、観念的な価値の尺度のうちには、硬い貨幣が待ちかまえている。

疑問点

18段落
・「1クォーターの小麦を再生産するためには、相変わらず等しい量の社会的労働時間が支出されなければならない」ということと
 「商品の価値の大きさは、社会的労働時間にたいする、一つの必然的な、この商品の形成過程に内在する関係を表現する」ということとはどう関わっているのか?

・価格形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、価格形態を、一つの生産様式に適切な形態にするのである、とあるが、価値の大きさから価格が背離する可能性があることは資本主義的生産様式にとって適切なことという意味なのか?
19段落
・ある現実の価値関係とは何か?

20段落
・商品が交換価値の役割を果たすとか、一般的等価物の役割を果たすとかあるが、こうした表現は一般的?

21段落
・価格形態は貨幣と引き換えに商品を譲渡する可能性と必然性を含んでいるとあるが、この意味は? 何のために言及しているのか? 他方、金が観念的価値尺度として機能するのは・・と続くが、「一方では、他方では」と同じ使い方なのか。
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by shihonron | 2009-07-14 23:30 | 学習会の報告
2009年 07月 07日

第152回 7月7日 第3章 第1節 価値の尺度

7月7日(火)に第152回の学習会を行いました。「読む会通信」№337をもとに前回の復習をした後、レポーターの報告をうけ「第3章 貨幣または商品流通 第1節 価値の尺度」の第6段落から第17段落までを検討しました。

以下は、当日配布されたレジュメです。(⑥は第6段落、⑦は第7段落を示しています)

第3章 貨幣または商品流通
第1節 価値の尺度


⑥価値尺度の二重化----機能と矛盾する
   二つの違った商品(例---金と銀)が同時に価値尺度として役立つ場合
   ⇒二通りの価値表現-----金価格・銀価格

   価値比率が不変な場合----平穏無事に共存
   価値比率が変動した場合
     ⇒攪乱----事実上常に一方の商品だけが価値尺度としての地位を維持

  注53 金と銀との価値比率の法律による固定は不可(名目価値)
     金と銀の現実の比価
        ⇒衝突・混乱の連続


⑦価格の度量標準
諸商品の価値はいろいろな大きさの想像された金量に転化されている

a量の商品A=x量の金
b量の商品B=y量の金
c量の商品C=z量の金  - いろいろな金量として諸商品の価値は互いに比較され,計られる                                         ↓
   これらの金量をそれらの度量単位としてのある固定された金量に関係される必要(技術的要請)          ↓
                       更にいくつかの可除部分に分割=度量標準
                       重量の度量標準⇒貨幣の度量標準


⑧価値の尺度と価格の度量標準-----貨幣の二つの全く違った機能

価値の尺度
・人間労働の社会的化身として機能
・諸商品の価値を価格に(=表象された金量に)転化させるのに役立つ    
・諸商品は価値として計られる                         

*価値の尺度として金が役立つことができるのは,金そのものが可変的な価値(労働の生産物)だからである     

価格の度量標準
 ・固定した金属重量として機能 
 ・金量を計る---いろいろな金量をある一つの金  量で計る

 *度量比率の固定制(不変性)が決定的

                         
⑨金の価値変動と価格の度量標準
   金の価値変動-----金が価格の度量標準としての機能することを妨げない
           12オンスの金は相変わらず1オンスの12倍の価値をもつ
             価値が変動しても重量は変わらない

⑩金の価値変動と金の価値尺度機能
   金の価値変動-----金の価値尺度機能を妨げない
   金の価値変動-----諸商品の相互の相対的価値には変化を引き起こさない
           諸商品の金価格(金で表現した価格)は一様に変わる

⑪金での価値表現(前提-----一定の時・一定量の金の生産には一定量の労働が必要)
   単純な相対的価値表現の法則があてはまる (s.67-9 b相対的価値形態の量的規定性 )

⑫商品価格の変動
   商品価格 ↑ --商品価値 ↑ u. 貨幣価値 →
              商品価値 → u. 貨幣価値 ↓  商品価格の比例的上昇

   商品価格 ↓ --商品価値 ↓ u. 貨幣価値 →
              商品価値 → u. 貨幣価値 ↑  商品価格の比例的下落

   商品価値と貨幣価値との同時的変動-----様々な組み合わせ
    商品価値 ↑ u. 貨幣価値 ↑
    商品価値 ↑ u. 貨幣価値 ↓

    商品価値 ↓ u. 貨幣価値 ↑
    商品価値 ↓ u. 貨幣価値 ↓

⑬価格形態の考察へ

⑭当初の金属重量名と貨幣名との分離----何故か?
 イ.外国貨幣の輸入-----明らかに国内の重量名と異なる
 ロ.価値尺度機能を果たす金属-----低級な金属は高級な金属に駆逐される
                 例・銅⇒銀⇒金(より高級に)
    かつてはポンド(重量)は1ポンドの銀の貨幣名
    ⇒金が価値尺度としての銀を駆逐
    ⇒銀と金との価値比率から 1ポンド ⇒ 1ポンド----(貨幣名)
                (銀1ポンド)  (金1/15ポンド)----(weight)
ハ.貨幣変造-----鋳貨の重量名だけ残る

⑮歴史的過程⇒金属重量名での貨幣名と金属重量名から分離した貨幣名----国民的慣習
 貨幣の度量標準-----慣習的⇒法律の洗礼名(一般的効力が必要)
   たとえば1オンスの金は公式にいくつかの可除部分に分割
   ⇒それらの部分にポンド(英)・ターレル(独)等の法定の洗礼名
   ⇒貨幣の固有の度量単位⇒更にシリングやペニー等の法定の洗礼名のついた可除部分に細分
   *一定の金属重量が金属貨幣の度量標準であること-----これは変わらない
                            変わったのは分割と命名だけ

⑯価格=商品の価値が観念的に転化されている金量
  ↓
 金の度量標準の貨幣名(法律上有効な計算名)で表現
     諸商品は自分たちがどれだけに値するかを貨幣名で語り合う

 貨幣はある物を価値として,従って貨幣形態に固定(確定)することが必要な時には,
     いつでも計算貨幣として役立つ
     商品はその価値をいい表す際,貨幣名で表す。
                  このとき,貨幣は計算貨幣として機能する
                   (価値尺度+価格の度量標準としての機能)

⑰ポンド・ターレル・フラン等の貨幣名は価値関係の痕跡を消し去る(消えてしまっている)
               ----〔章標の秘儀〕⇒混乱
 何故か----貨幣名は商品の価値を表す
          同時にある金属重量(貨幣の度量標準)の可除部分を表す
                        
 商品価値の貨幣名による表現----価値形態の発展の必然

注61 『経済学批判』
例 1オンスの金=3ポンド 17シリング 101/2ペンス
  1トンの鉄 =      〃
           ↓
       金の計算名⇒金の鋳造価格
       ----他の商品と違って国家によって固定した価格を与えられるかのような
         奇妙な考え方が生じた(一定の金重量の計算名の固定=この重量の価値を固定させることと見間違える)

注62 『経済学批判』
  「鋳造価格」の引き上げ・引き下げについての幻想
      法定貨幣名を国家が移し変えること
      (例---1/4オンスの金を20シリングではなく40シリングに鋳造)
           ↑
      経済的「奇跡療法」を目的
   *ペティによる批判
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by shihonron | 2009-07-07 23:30 | 学習会の報告