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2009年 10月 28日

学習ノート 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段 その1


第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段

第1段落
・これまで考察した商品流通の直接的形態では、同じ大きさの価値量がいつでも二重に存在していた。
・すなわち一方の極に商品があり、反対の極に貨幣があった。
・したがって、商品所持者たちは、ただ、現に双方の側にある等価物の代表者として接触しただけだった。
・ところが、商品流通の発展につれて、商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情が発展する。
・一方の商品種類はその生産により長い時間を、他方の商品種類はより短い時間を必要とする。
・商品が違えば、それらの生産は違った季節に結びつけられている。
・一方の商品は、それの市場がある場所で生まれ、他方の商品は遠隔の市場に旅しなければならない。
・したがって、一方の商品所持者は、他方が買い手として現われる前に、売り手として現われることができる。
・同じ取引が同じ人々の間で絶えず繰り返される場合には、商品の販売条件は商品の生産条件によって調整される。
・他方では、ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。
・その期間が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を受け取ったことになる。
・それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。
・一方の商品所持者は、現にある商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として買うわけである。
・売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。
・ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた別の一機能を受け取るのである。
・貨幣は支払手段になる。

●「商品流通の直接的形態」とは現金売買のこと。

●「商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情」として、すぐ後ろのところで3つのこと(生産に必要な時間、生産の季節性、生産地と市場との距離の相違)を指摘し、さらに家屋の利用のように一定の期間を定めて売られる場合をあげている。この家屋の利用(家賃や宿泊料)はここでは後払いとされている。

●掛売買の例として、収穫までに時間のかかる農作物の生産者が、肥料などを掛買いすめことがあげられました。

★「貨幣の単なる代表者」というのは、現にある貨幣の代表者ではないということを意味しているように思われる。

■フランス語版では「交換者の一方は現存する商品を売り、他方は将来の貨幣の代表者として買う。」となっている。(『フランス語版資本論 上巻』江夏美千穂・上杉聰彦訳 法政大学出版会116頁)

第2段落
・債権者または債務者という役割は、ここでは単純な商品流通から生ずる。
・この商品流通の形態の変化が売り手と買い手にこの新しい極印を押すのである。
・だから、さしあたりは、それは、売り手と書いてという役割と同じように、一時的な、そして同じ流通当事者たちによってかわるがわる演ぜられる役割である。
・とはいえ、対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないものに見え、また、いっそう結晶しやすいものである。
・しかしまた、同じこれらの役割は商品流通にかかわりなく現われることもありうる。
・たとえば、古代世界の階級闘争は、主として債権者と債務者との闘争という形で行なわれ、そしてローマでは平民債務者の没落で終わり、この債務者は奴隷によって代わられるのである。
・中世には闘争は封建的債務者の没落で終わり、この債務者はかれの政治権力をその経済的基盤とともに失うのである。
・ともあれ、貨幣形態――債権者と債務者との関係は一つの貨幣関係の形態をもっている――は、ここでは、ただ、もっと深く根ざしている経済的諸条件の敵対的関係を反映しているだけである。

★商工ローンやサラ金の取り立ての実情を見れば、債権者が債務者に対してどのように振る舞うかの一端をうかがい知ることができる。「対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないもの」に見えるのである。そして、債務者は常に債務者であり続けることをさして「結晶しやすい」と述べているように思える。

●ローマの例では、生産の担い手が平民(独立自営の農民)から奴隷に代わったことを述べているのではないかとの意見が出されました。

●封建的債務者がどんな人々をさしているのかが問題となり、領主・貴族のことだろうということになりました。

■フランス語版では「債務者にたいする債権者のこの貨幣関係は、この両時代では、もっと深い敵対関係を表面上反映しているにすぎない。」となっている。(同前117頁)

■【マルクスは『資本論』第3巻第5篇第36章「先資本制的なるもの」で「高利資本」について述べています。まず「古代ローマで、製造業がまだ古代的な平均的発展よりもはるかに低い状態にあった共和制後期いらい、商人資本、貨幣取扱資本、および高利資本が--古代形態の内部では--その最高点まで発展していた」と指摘しています。そして資本主義以前の高利資本は「第一には、浪費的豪族・本質的に土地所有者・への貨幣貸付による高利であり、第二には、自分自身の労働諸条件を所有している小生産者への貨幣貸付による高利である」と述べています。そして「ローマ貴族の高利がローマ平民--小農--をすっかり破滅させた時、この搾取形態は終わりをつげたのであって、純粋な奴隷経済が小農経済の代わりに現れた」と述べています。また別のところでは「ローマの貴族が平民を破滅させ、平民を軍務--平民が労働諸条件を再生産することを妨げた軍務--に駆り立て、かくして平民を窮乏化させた(そして再生産諸条件の窮乏化、萎縮または喪失はこの場合の支配形態である)ところの戦争、--この同じ戦争は、当時の貨幣たる分捕り品の銅をもって貴族の倉庫や地下室をいっぱいにした。貴族は平民にたいし、必要品たる穀物や馬や有角家畜を直接与える代わりに、自分自身にとっては無用なこの銅を貸付け、この状態を利用して法外な高利を搾り取り、かようにして平民を自分の債務奴隷たらしめた。カール大帝治下では、フランクの農民がやはり戦争によって破滅させられたのであって、彼らは債務者から農奴となるほかはなかった。ローマ帝国では周知のように、しばしば飢饉のために自由民が子供や自分自身を奴隷として富者に売るにいたる、ということが生じた」とあります。これで古代ローマについてはだいたい分かったのはないでしょうか?
 では中世についてはどうでしょうか? 『経済学批判1861-63年草稿』を見ると1527-8頁で、「近代社会の諸要素への中世的ブルジョア的社会の分解--世界貿易や金鉱発見によって促進された過程--の時代に生きていた」ルターの著書『富者と貧者ラザロについての福音書にたいする説教』から引用して、次のように解説しています。
《ルターがここでわれわれに言っているのは、何にによって高利貸資本が成立するか、ということである。すなわち、市民(小市民および農民)、騎士、貴族、君主の破滅によって成立するということである。一方では、城外市民や農民や同職組合の剰余労働とさらに労働条件とが高利資本の手に流れてくる。……他方では、高利資本が取り上げる地代の所有者からである。つまり、浪費的で享楽的な富者から、である。高利が二つのことを引き起こすかぎりでは、すなわち、第一には一般に独立な貨幣財産を形成するということを、第二には労働条件をわがものにする、すなわち古い労働条件の所有者たちを破滅させるということを、引き起こすかぎりでは、高利は、産業資本のための諸前提の形成における強力な一手段--生産者からの生産手段の分離における強力な一能因--である。……一方では封建的な富と所有との破壊者としての高利。他方では小市民的、小農民的生産の、要するに生産者がなお彼の生産手段の所有者として現れているようなあらゆる形態の、破壊者としての高利。》】(『資本論』学ぶ会ニュース NO.44 2000年8月15日)

第3段落
・商品流通の部面に帰ろう。
・商品と貨幣という二つの等価物が売りの過程の両極に同時に現われることはなくなった。
・いまや貨幣は、第一に、売られる商品の価格決定において価値尺度として機能する。
・契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち定められた波源に彼が支払わなければならない貨幣額の大きさを示す。
・貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。
・それはただ買い手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。
・支払期限がきたときはじめて支払手段が現実に流通にはいってくる。
・すなわち買い手から売り手にうつる。
・流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。
・というのは、流通過程が第一段階で中断したからであり、言いかえれば、商品の転化した姿が流通から引きあげられたからである。
・支払手段は流通にはいってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から出て行ってからのことである。
・貨幣はもはや過程を媒介しない。
・貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる。
・売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によってある欲望を満足させるためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務を負った買い手がそうしたのは、支払ができるようになるためだった。
・もし彼が支払わなければ、彼の持ち物の強制売却が行なわれる。
・つまり、商品の価値姿態、貨幣は、いまでは、流通過程そのものの諸関係から生ずる社会的必然によって、売りの自己目的になるのである。

●「流通手段は蓄蔵貨幣に転化した」とあるが、どういうことをさしているのかが問題になりました。債務者は、自分の商品を売って手にした貨幣で商品を買う(買うための売り W―G―W)のではなく、支払のために売る(W―G)ことではないかという結論になりました。はたしてこうした理解でよいのかについては、以下の資料を参照してください。

■ 英語版では《 The circulating medium was transformed into a hoard, because the process stopped short after the first phase, because the converted shape of the commodity, viz., the money, was withdrawn from circulation. The means of payment enters the circulation, but only after the commodity has left it.》となっている。

■フランス語版では「流通運動がその前半で止められたために、流通手段が蓄蔵貨幣に転化した。支払手段は流通に入るが、それは商品が流通から脱出した後のことであるに過ぎない。」

■同じ「本来の貨幣」である蓄蔵貨幣と支払手段との相違

【さて議論はまず第3パラグラフ全体にわたって行われましたが、今、それを便宜的に二つにわけることにしましよう。まず第3パラグラフの前半部分を紹介します。

 《さて、商品流通の部面に戻ろう。商品と貨幣という二つの等価物が販売過程の両極に同時に現れることは、すでになくなった。今や、貨幣は、第一に、売られる商品の価格規定における価値尺度として機能する。契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち彼が一定の期限に支払う責任のある貨幣額を示す。貨幣は、第二に、観念的購買手段として機能する。それは、ただ買い手の支払い約束のうちにしか存在しないけれども、商品の持ち手変換をひき起こす。支払い期限に達してはじめて支払手段は現実に流通に入る。すなわち、買い手から売り手に移る。流通過程が第一の局面で中断したので、すなわち、商品の転化された姿態が流通から引きあげられたので、流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。支払手段が流通に入って来るのは、商品がすでに流通から出ていった後のことである。貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない。貨幣は、この過程を、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、自立的に閉じる。》
 ここでまず最初に問題になったのは、1)「流通過程が第一の局面で中断したので、すなわち、商品の転化された姿態が流通から引き上げられたので、流通手段は蓄蔵貨幣に転化した」とあるが、この場合の蓄蔵貨幣に転化したとされる流通手段とは一体どういう貨幣なのか、ということです。なぜなら一般に蓄蔵貨幣に転化するのはW-G-Wの過程が、前半のW-Gで中断され、Gが流通から引き上げられた場合ですが、しかし今問題になっているのはW-Gの過程そのものが中断しており、WはGに転化していないのだから、蓄蔵貨幣になるというGは一体どこにあるのか、という問題です。2)第二に、報告者のレジュメでは「支払手段としての貨幣は、商品が流通から出て行った後(時間的に遅れて)流通に入ってくる。それゆえ……貨幣を支払うことによって商品流通は閉じてしまう」とあったのですが、マルクスが「貨幣は、この過程を、……自立的に閉じる」と述べているのは、果たして商品流通を閉じるといった意味なのかどうか、という問題についてでした。

 1)の問題はどう理解したらよいのでしょうか? これについては様々な意見が出ましたが、最終的には、結局、商品の購買者(債務者)は、支払期限に支払うためには貨幣を蓄蔵しなければならないのだから、そのことを言っているのではないか、といった理解に落ち着いたように思います。しかし果たしてそれでよいのでしょうか? そもそも商品が支払約束と引き換えに譲渡された場合には、どこにも貨幣はないのですから、それを蓄蔵することは出来ないからです。流通過程はWの一方的譲渡だけで中断しており、蓄蔵すべき流通手段なるものはどこにもありません。それは「観念的購買手段」としてあるだけです。つまりその存在は観念的であって、観念的なものを蓄蔵するわけには行きません。これは一体どう理解したらよいのでしょうか?


 こうした疑問が氷解したのは河上肇の『資本論入門』を読んだ時でした。とっいっても河上肇がそれについて言及しているわけではありません。河上肇が引用している「カウツキー版」の『資本論』の同じ箇所は次のようになっています。

 《流通手段が蓄蔵貨幣に転形したのは、流通過程が第一段階で中絶されたため、すなわ商品の転形する姿(金)が流通の外に取り出されたためであった。ところが支払手段は流通のうちにはいってゆく、しかしそれは商品がすでにそこから歩み出た後のことである。貨幣はもはや過程を媒介するのではない。それは交換価値の絶対的定在として、普遍的な商品として、独立的に過程の結末をつけるのである。》
 現行版には下線を引いた「ところが」といった助詞はありません。これは逆接の助詞ですが、前の文節と後の文節とは逆であることを示しています。つまり前の蓄蔵貨幣についての説明は、あとの文節をそれとは逆であると説明するためのものなのです。つまり私たちが理解困難に陥ったのは、明らかな読み誤りのためなのです(そしてそれは「ところが」という助詞をつけなかった翻訳者の訳文にも一因があるかもしれません)。

 掛け売買の場合、W-Gの過程が二つに分裂します。一つは販売者から購買者へのW(商品)の一方的譲渡です。二つには一定時間の経過後の購買者から販売者へのG(貨幣)の一方的譲渡です。河上肇は右図のように示しています。

 このように掛け売買の場合はW-Gの過程そのものが分裂するために、私たちは「流通過程が第一の局面で中断したので」というのをAがBに商品を譲渡してまだ貨幣の支払いを受けていない段階と考えたのでした。それを「第一の局面」と考えたのです。しかし河上肇の引用している『資本論』の当該箇所を見ると、必ずしもそう理解する必要がないこと、そればかりかそう理解するから混乱に陥ることが分かります。ここで「第一の局面」とはW-G-WのW-Gの局面のことです。商品流通の第一の変態が終わった局面のことなのです。つまりマルクスはここでは流通手段が蓄蔵貨幣に転形する場合を一般的に述べているに過ぎないのです。ではなぜここで蓄蔵貨幣について述べる必要があるのでしょうか?

 「本来の貨幣」あるいは「貨幣としての貨幣」である蓄蔵貨幣は流通手段が流通から引き上げられて初めてそうしたものに転形します(商品の一時的な価値の姿態である流通手段の場合は、貨幣はその代理物--例えば紙幣--に置き換えることは可能ですが、「本来の貨幣」である蓄蔵貨幣はそうはゆきません)。ところが同じ「本来の貨幣」である「支払手段」の場合は蓄蔵貨幣とは違って流通に入っていくのだ、とマルクスは述べているのです。つまり同じ「本来の貨幣」ではあるが、蓄蔵貨幣と支払手段とは一方は流通から引き上げられて、そうしたものになるが、他方は流通に入って行ってそうしたものとして機能するのだと言いたいのです。だから「ところが」という逆接の助詞がつけられているのです。つまりこうした両者の違いを対比して述べるために、流通手段が蓄蔵貨幣に転化する条件を一般的に述べているのだと思います。こうした対比は『経済学批判』の次の一文を読めば一層理解できます。

 《鋳貨準備金と蓄蔵貨幣とは、非流通手段としてのみ貨幣(この場合、この「貨幣」は定冠詞のないGeld、つまり「本来の貨幣」と理解すべきです--引用者)であったが、しかもそれらは、流通しなかったからこそ非流通手段であった。だが、いまわれわれが貨幣(先に同じ--引用者)を考察する場合にとる規定においては(つまり「支払手段」の規定においては--引用者)、貨幣は流通する。流通手段としては、貨幣はつねに購買手段であったが、いまやそれは、非購買手段として働くのである》(岩波文庫版180頁)
 このように同じ「貨幣としての貨幣」であっても蓄蔵貨幣と支払手段とは、一方は流通から引き上げられてそうなるが、他方は流通に入っていくのだというわけです。これがここでマルクスが言いたかったことなのです。分かってしまえば、どうということは無いのですが、ちょっとした翻訳の彩で意味がなかなか理解出来ないものの一例といえます。

 次に2)については報告者の勘違いだということで簡単にケリがつきました。つまりこの場合の「自立的に閉じる」「過程」とはW-Gの過程だということです。つまり商品流通(W-G-W)が完結するということではなく、その前半(第一段階)が終わるということが確認されました。

 ところでこれは学習会では問題として出されなかったのですが、ここで「自立的に閉じる」とありますが、「自立的に閉じる」とはそもそもどういうことなのでしょうか? なぜ「自立的」なのか、それが問題です。それはその先に述べている「貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない」ということと関連しているように思えます。ここでは明らかに債務者から債権者に貨幣が流通していくのですが、しかしそれはいうまでもなく流通手段、つまり鋳貨としてではありません。ここでの貨幣は、「交換価値の絶対的定在または一般的商品として」とあるように、債務者が債権者に価値そのものを引き渡すための形態ですから、もともとは、本来の貨幣のみが果たすことの出来る機能なのです(しかし本来の貨幣に代わりうる銀行券等々の貨幣形態が発展すると、そうした代理物も支払手段として流通することができるようになります)。しかもすでに商品は流通してしまっているのですから、貨幣はただ一方的に債務者から債権者に渡されるだけであって、それによっては何も媒介するわけではないのです。「自立的に」というのはそうした事態を述べているのではないかと思います。つまり何の媒介もなしにという意味で「自立的」だということです。そして債権・債務が最終的に決済されるという点でこの取引(=この過程)は「閉じている」わけです。

 後半部分についてもまずは本文を紹介しておきましょう。

 《売り手が商品を貨幣に転化したのは、貨幣によってある欲求を満たすためであり、貨幣蓄蔵者が商品を貨幣に転化したのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務者である買い手が商品を貨幣に転化したのは、支払うことができるようになるためである。もしも彼が支払わなければ、彼の所有物の強制販売が行われる。こうして、商品の価値姿態である貨幣は、今や、流通過程そのものの諸関係から生じる社会的必然によって、販売の目的そのものになる。》
 ここで問題になったのは、最後の部分、「貨幣は、今や、……販売の目的そのものになる」とはどういうことか? という質問でした。これは議論のなかで解決したと思いますが、若干、補足しておきたいと思います。マルクスは『批判』で次のように述べています。

 《まえには(流通手段の考察では--引用者)価値標章が貨幣を象徴的に代理したのであるが、ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である。しかも、前には価値標章の一般的象徴性が国家の保証と通用強制とを呼び起こしたように、ここでは買手の人格的象徴性が、商品所有者間の法律的強制力を持つ私的契約を呼び起こすのである。》
 つまりこうした法的強制力をもって債務者は支払いを強制される。もし支払えなければ破産を宣告されて、彼の所有物の強制販売が行われるのです。だから債務者は破産を免れるためには、とにかく商品を捨て値ででも投げ売って支払手段を手に入れなければなりません。つまり貨幣そのものが販売の目的になるのです。

 ところで『批判』でマルクスは「ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である」と述べています。つまり債務者自身が貨幣を象徴的に代理しているというのです。これなどは「腎臓を売ってでも金をつくれ」などと脅して取り立てたどこかの悪徳金融業者を思い出させる指摘といえないでしょうか。あの金融業者は貨幣を象徴的に代理している債務者の身体そのものを現実の貨幣に変えようとしたと言うことができます。】(『資本論』学ぶ会ニュース NO.45 2000年8月30日)
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by shihonron | 2009-10-28 23:34 | 学習ノート
2009年 10月 28日

学習ノート 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段 その2

■《【掛売買】これまで見てきた、二つの商品の変態の絡みあいである売買は、商品の引き渡しと貨幣の支払が同時に行なわれる現金売買であった。ところが、商品流通の発展とともに、商品の譲渡を商品価格の実現、すなわち貨幣の支払から時間的に離れさせるようなもろもろの事情が発展してくる。たとえば、ある商品を買おうとする買い手が、自分の商品の生産や販売の事情から、支払うための貨幣をまだ入手できないが、しばらくすれば入手できることが確実であるとき、その商品の売り手は、貨幣の支払をその間猶予することが行なわれる。こうして、商品の譲渡ののちに時間をおいて貨幣の支払が行なわれるという売買形態が生まれる。いわゆる掛売買(かけばいばい)である。販売は掛売りとなり、購買は掛買いとなる(図95)。


 この売買では、商品が譲渡される第1の時点で、売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。そして、第2の時点で貨幣が支払われることによって、この債権債務関係が消滅するのである。
【掛売買における貨幣の機能】 掛売買のさいに貨幣が果たす機能は、いささか複雑である。①まず、現金売買の場合と同様に、貨幣は商品の価値を価格として表現することで価値尺度として機能する。これが売り手と買い手とのあいだで話しあいがついた決まり値であるとしよう。買い手はこの量の貨幣を、この時点(第1時点)よりもあとのある確定された時点(第2時点)で、売り手に支払うことを約束する。この〈貨幣支払約束〉は観念的な貨幣量であって、価格の度量標準によって測られる。②売り手はこの時点で買い手に商品を譲渡する。買い手はいまは貨幣をもっていないが、彼が第2時点で売り手に支払う貨幣、つまり〈将来の貨幣〉が、いま第1時点で商品を買うことに役立ったのであり、この将来の貨幣がいま購買手段として――だからここではただ観念的にだけ――機能したのである。それによって、その貨幣がもつはずの貨幣としての形式的な使用価値が実現されて、買い手の欲求を充たす使用価値を買い手にもたらした。売り手は商品を譲渡したが、現実の貨幣は受け取っていない。しかし、彼はいま、買い手の貨幣支払約束をもっている。これはすでに、実現できるかどうかわからない、彼の商品のたんなる価格ではなくて、第2時点で――約束が守られるかぎり――支払われる貨幣を表わしているものである。だから、彼の商品の価格はこの時点で、すでに観念的にではあるが、実現した。価格は実現して貨幣支払約束になった。この貨幣支払約束は、買い手にとっては債務であり、売り手にとっては債権であって、この時点で売り手は債権者、買い手は債務者になった。③こうして、あと残るのは、第2時点で、債務者となった買い手が、債権者である売り手に貨幣を支払って、債務を決済することだけである。貨幣が支払手段 として流通にはいる。債権者である売り手から見れば、この支払によって、彼の商品の価格が最終的に堅実の貨幣に転化した、つまり商品の価格が現実に実現した。債務者である買い手の側では、すでに第1の時点で購買手段として機能して、その使用価値を実現してしまった貨幣を債権者に引き渡すことになる。
【支払手段としての貨幣の流通】以上が、掛売買における貨幣の機能であるが、ここではじめて現われる貨幣の機能は、第2時点で債務者が債権者に支払う貨幣が果たす機能である。このように、貨幣支払約束にもとづいて支払われる貨幣、債務を決済して債権債務関係を終わらせる貨幣を支払手段としての貨幣という。第2時点では貨幣は支払手段として流通にはいるのである(図96)。
 ここでは明らかに、債務者から債権者に貨幣が流通していくのであるが、しかしそれは、流通手段すなわち鋳貨としてではない。ここでの貨幣は、商品の一時的な価値の姿である流通手段とは異なり、債務者が債権者に価値そのものを引き渡すための形態であるから、もともとは本来の貨幣のみが果たすことができる機能であるが、しかし、本来の貨幣に代わりうる銀行券等々の貨幣形態が発展すると、本来の貨幣のそれらの代理物が、支払手段として流通することができるようになる。》
(大谷禎之介『図解社会経済学』105-106頁)

第4段落
・買い手は自分が商品を貨幣に転化させるまえに貨幣を商品に転化させる。
・すなわち第一の商品変態よりもさきに第二の商品変態を行なう。
・売り手の商品は流通するが、その価格をただ私法上の貨幣請求権に実現するだけである。
・その商品は貨幣に転化するまえに使用価値に転化する。
・その商品の第一の変態はあとからはじめて実行される。

★(貨幣支払約束)→(商品)貨幣は観念的購買手段として機能 
              商品は使用価値に転化

 (商品)→(貨幣請求権)  価格の観念的実現

★買い手 (貨幣支払約束)→(売り手の商品)   【購買】(第二の商品変態 G―W)
      (買い手の商品)→(貨幣)    【販売】(第一の商品変態 W―G)   売り手への貨幣支払

★売り手 (売り手の商品)→(貨幣請求権)  【販売】
     (貨幣請求権)→(貨幣)

第5段落
・流通過程のどの一定期間にも、満期になった諸債務は、その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表わしている。
・この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず第一に支払手段の流通速度によって定まる。
・この流通速度は二つの事情によって定まる。
・第一には、Aが自分の債務者Bから貨幣を受け取って次にこの貨幣を自分の債権者Cに支払うというような債権者と債務者との関係の連鎖であり、第二には支払期限と支払期限との間の時間の長さである。
・いろいろな支払の連鎖、すなわちあとから行なわれる第一の変態の連鎖は、さきに考察した諸変態列のからみ合いとは本質的に違っている。
・流通手段の流通では、売り手と買い手の関連がただ表現されているだけではない。
・この関連そのものが、貨幣流通において、また貨幣流通とともに、はじめて成立するのである。
・これに反して、支払手段の運動は、すでにそれ以前にできあがっている社会的な関連を表わしているのである。

●支払手段の流通速度とは何かが問題となりました。「それは、支払手段として機能する貨幣が一定の期間に何回持ち手を変えるかということであり、流通回数といった方が分りやすい」という意見が出されました。

■ 「さまざまな支払期限のあいだの時間の長さ」とは?
 ここで問題になったのは下線の部分についてです。まず「さまざまな支払い期限のあいだの時間の長さ」とは一体どういうことか、またそれは支払手段の流通速度にどのように関係するのかということと、もう一つはそれはその前にある「債務者と債権者との諸関係の連鎖」に含まれるのではないか、という疑問です。これも色々と議論は出ましたが、しかし最終的にはこれだいう解決には至らなかったように思います。この問題を少し考えてみましょう。
 流通手段としての貨幣の流通速度とは、同じ貨幣片が与えられた時間内に流通する(商品の価格を実現する)回数でした。だから今回の場合の「支払手段の流通速度」というのも、与えられた時間内に同じ貨幣片が支払手段として支払われる回数ということになります。これは流通手段の場合と同様、「さしあたり」次の(第6)パラグラフで述べているような「相殺」を考えに入れないとすれば、時間的・空間的に平行して行われる諸支払いの場合は同じ貨幣片がそれらの諸支払いを同時に果たすことは出来ません。だから諸支払いが時間的に継続して起こることが必要です。しかし継続して起こるにしても、まずその連鎖が問題になります。例えばAがBに支払っても、BがCへの支払いの必要がないなら、同じ貨幣片は続けて支払われないからです。また連鎖があったとしても、その間隔がやはり問題になります。つまりAがBに支払っても、BがCに支払うまでには長い期間がある場合、次にCがDに支払うにはさらに長い期間が生じる場合を考えると、そういう場合には、今問題にしている一定期間内の枠の外に出てしまうかも知れません。だから期間が短ければ短いほど、一定期間内における連鎖によって同じ貨幣片が支払い手段として支払われる頻度が高くなります。つまり速度が早くなるわけです。だからやはり連鎖だけではなく、「諸支払い期限のあいだの時間の長さ」も支払手段の速度を規定する要因として考える必要があるわけです。だいたい以上のように考えたらよいのではないでしょうか。          (『資本論』学ぶ会ニュース NO.45 2000年8月30日)

●「さきに考察した諸変態列のからみ合い」とは何かという疑問が出され、「流通手段のところで考察されたもののことだ」という結論になりました。

■《ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するとともに、他の一商品(小麦)の総変態を閉じる。その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。これに反して、生けとし生けるものの道をたどってこの商品そのものが化していく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。この総過程は商品流通として現われる。》(国民文庫200頁・原頁126)

★現金売買では、貨幣流通によって売り手―買い手という関係がはじめて成立する。支払手段の運動は、債権者―債務者という掛売買によってすでに成立している関係を表わしている。

第6段落
・多くの売りが同時に並んで行なわれることは、流通速度が貨幣量の代わりをすることを制限する。
・反対に、このことは支払手段の節約の一つ新しい梃子(てこ)になる。
・同じ場所に諸支払が集中されるにつれて、自然発生的に諸支払の決済のための固有な施設と方法が発達してくる。
・たとえば中世の振替(virements)がそれである。
・AのBにたいする、BのCにたいする、CのAにたいする、等々の債権は、ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。
・こうして、あとに残った債務差額だけを精算すればよいことになる。
・諸支払の集中が大量になればなるほど、相対的に差額は小さくなり、したがって流通する支払手段の量は小さくなるのである。

■ リヨン [Lyon]
フランス南東部、ローヌ川とソーヌ川との合流点にある都市。水陸交通の要地。伝統的な絹織物工業で知られ、機械・化学工業も盛ん。古代ローマの遺跡や大聖堂などがある。 (大辞林 第二版)


■振替制度 ふりかえせいど
通貨による決済に代わり,取引銀行の預金口座の移転を行い帳簿上のみで債権債務を決済する仕組み。現在日本では普通銀行の預金振替,郵便局の扱う郵便振替,日本銀行の当座勘定交換尻決済の振替がある。歴史的にはヨーロッパ,なかでもドイツで17世紀以降発達,小切手を使用せず振替証書で預金口座の付け替えを行っており,英国や米国では小切手で振替をした。日本にこの制度が導入されたのは1906年,郵便振替が初めである。

■手形交換所 てがたこうかんじょ
一定地域内にある多数の銀行が相互に取り立てる手形,小切手,公社債,郵便小為替,諸官庁の支払通知書などを毎日一定時刻に持ち寄って交換し,受取総額と支払総額の差額(交換尻(じり))のみを決済する場所,またはこの決済を協定する銀行の団体。交換尻は通常各行が日本銀行にもっている当座預金勘定を増やしたり減らしたりして決済する。日本では1879年大阪に創設。法務大臣の指定を受けた手形交換所は1997年末現在全国に185ヵ所。 (マイペディア)
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by shihonron | 2009-10-28 23:32 | 学習ノート
2009年 10月 28日

学習ノート 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段 その3

第7段落
・支払手段としての貨幣は、媒介されない矛盾を含んでいる。
・諸支払が相殺されるかぎり、貨幣はただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。
・現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、すなわち物質代謝のただ瞬間的な媒介的な形態として現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の独立な定在、絶対的商品として現われるのである。
・この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。
・貨幣は恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことある。
・この機構の比較的一般的な攪乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から堅い貨幣に一変する。
・それは、卑俗な商品では代わることができないものになる。
・商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。
・たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。
・商品こそは貨幣だ、と。
・いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ! という声が響きわたる。
・鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ。
・恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。
・したがったまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。
・支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などの信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に代わりはないのである。

●「媒介されない矛盾」とはどういうことかという疑問が出され「展開されない(解決されない)矛盾、絶対的な矛盾ということではないか」との意見が出されました。

■信用貨幣 しんようかへい
信用を基礎にして流通する貨幣(厳密には貨幣代用物)。基本的には支払手段としての貨幣機能から生じたもので,最初に商業信用に基づいて商業手形が信用貨幣になったが,銀行信用の発展に伴い,これを基礎にして流通する銀行券が現代の代表的な信用貨幣になっている。当座預金による預金貨幣はその発展した形態。

★「影を失う」とはどういう意味なのだろうか?

■恐慌の二つの抽象的な可能性
 恐慌の可能性を論じるところでは、マルクスの叙述は弁証法的になって難しくなるように思えます。例えばすでに学んだ第三章第二節「a 商品の変態」の終わりの部分に出てくる販売と購買の分離による恐慌の可能性を論じているところでも、新しく参加した人が「マルクスは衒学的だ」などとぼやいていたことを思い出します。その部分も復習のために紹介しておきましょう。
 〈商品に内在的な対立、すなわち使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的労働として現れなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ通用するという対立、物の人格化と人格の物化との対立--この内在的矛盾は、商品変態上の諸対立においてそれの発展した運動諸形態を受け取る。だから、これらの形態は、恐慌の可能性を、といってもただ可能性のみを、含んでいる〉。
 このように恐慌は資本主義的生産に内在する矛盾の爆発として生じます。もちろん、ここで論じているのは商品流通に内在する矛盾であり、だからそれはまだ恐慌の抽象的な可能性に過ぎないのですが、しかしマルクスはいずれも矛盾の発現として論じていることが分かります。マルクスは後者を恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」とし、前者を「第二の形態」ともしています。
 興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。
 まず「第一の形態」の矛盾について分かりやすく説明している『マルクス経済学レキシコン』の栞(№6)の一文を紹介しましょう。
 〈商品は、使用価値と価値という対立物の直接的統一だから、それ自体一つの矛盾だ。だがこの矛盾は、商品の現実の交換過程のなかで、はじめて、媒介されなければならない現実的な矛盾として現れてくる。商品の使用価値としての実現と商品の価値としての実現との矛盾、等々としてね。この矛盾を媒介するものが貨幣だが、どのようにしてこの矛盾を媒介するのかというと、商品の交換過程のなかにある、商品の譲り渡しと譲り受けという二つの契機を、W-GとG-Wの二つの変態に分離することによってだね。これで矛盾がなくなるかといえば、もちろんそうではない。相合して一体をなす二契機が、外的に対立した二つの過程に独立化し、この両過程を通して、使用価値と価値との統一としての商品の矛盾が展開されることになる。交換過程の矛盾は一般化され、普遍化されざるをえない。この独立化は、それが進んでいって、ついには内在的な統一が強力的につらぬかざるをえない点にたちいたる可能性を含んでいる。これは可能性に過ぎないのだが、ともかくも、ここには恐慌の抽象的な可能性があるわけだ〉(9頁)
 ところが支払手段の機能からくる恐慌の抽象的な可能性の場合は、「媒介されない矛盾」の発現なのです。学習会でも、最初に「一つの媒介されない矛盾」とは何か、という質問が出されました。これについては続けてマルクス自身が説明しているように、支払手段としての貨幣の機能が、諸支払いが相殺される限りは観念的なものとして機能するが、しかし現実の支払いが行われなければならないとなれば、交換価値の自立した定在として、つまり現実の「貨幣としての貨幣」、「本来の貨幣」でなければならないという矛盾だと説明されました。しかし①これは果たして矛盾と言えるのかどうか、②「媒介されない」とはどういうことか、という疑問が出されました。
 まず①について、一般に、矛盾とは、例えば「AはAであるとともに非Aでもある」といった関係のことです。つまり互いに排斥の関係にありながら、同時に共存していなければならないような関係です。だから支払手段として機能する貨幣は、一方では観念的でもよいが、しかし他方では現実的な貨幣でもなければならないというのですから、明らかにそれは矛盾です。では②それが「媒介されない」とはどういうことでしょうか。まず単純な誤解としてこの「媒介されない」というのは、そのすぐ後に出てくる「素材変換のただ一時的な媒介的な形態」ということに対応させて、素材変換を「媒介しない」ということではないか、という意見も出されましたが、しかしこれはそうした意味ではなく、新日本新書版で「媒介されない」というところに[直接的]と書き換えがあるように、そのあとに出てくる「貨幣は、突然かつ媒介なしに、計算貨幣というただ観念的なだけの姿態から硬い貨幣に急変する」とあるような意味での、つまり「直接的な移行を強制されるような」という意味だろうということになりました。
 つまり交換過程に内在する矛盾の場合は、貨幣に媒介されてより発展した運動諸形態を獲得するような矛盾だったのですが、しかし支払手段の機能に内在する矛盾は、そうしたものではなく、直接的に移行しあうような矛盾だといえます。
 次にこのパラグラフで理解困難として質問が出たのは「商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態をまえにして姿を消す」という部分です。これは一体どう理解すれば良いのでしょうか?
 しかしこの部分については、この部分をだけを取り出してどうこういうよりも、『経済学批判』の当該箇所を紹介しておくだけで十分と思います(下線部分を参照)。
 〈だから諸支払いの連鎖とそれらを相殺する人為的制度とがすでに発達しているところでは、諸支払いの流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を攪乱する激動が生じると、貨幣は突然に、価値の尺度としてのそのかすみのような幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。だから、商品所持者がずっとまえから資本家になっており、彼のアダム・スミスを知っており、金銀だけが貨幣であるとか、貨幣は一般に他の諸商品とは違って絶対的に商品であるとかいう迷信を見下して嘲笑している、そういう発達したブルジョア的生産の状態のもとでは、貨幣は突然に、流通の媒介者としてではなく、交換価値の唯一の十全な形態として、貨幣蓄蔵者が考えているのとまったく同様な唯一の富として再現する。……これが、貨幣恐慌と呼ばれる、世界市場恐慌の特殊な契機である。こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる「至上の善」は貨幣、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるという、まさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、たんなる華美と飽食として現れる〉           
(『資本論』学ぶ会ニュース NO.46 2000年10月9日)

●「恐慌の二つの可能性」についての議論
 議論になったのは、資料として「『資本論』学ぶ会ニュース№46」から引用された「恐慌の二つの可能性」についてでした。
 引用文では、販売と購買の分離による恐慌の可能性を、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」、「支払手段の機能からくる恐慌の抽象的可能性」を「第二の形態」であるとして《興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。》と述べられています。
 これに対して、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのか、「第一の形態」も媒介されないからこそ恐慌として爆発する可能性を持っているのではないかという疑問が出され、「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりました。

★当日の議論では、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりましたが、報告をまとめるために読み直していて、読み間違えがあったと考えるようになりました。

 まず恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」がどんなものであったかを確認しておきましょう。マルクスは第3章第2節流通手段「a 商品の変態」の最後のところで次のように述べています。

《どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。その意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期をなすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的統一をなしていることは、同時にまた、これらの過程の内的対立が外的な対立において運動するということを意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が直接的に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立――この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。
この可能性の現実性への発展は、単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。》(国民文庫202-203頁・原頁127-128)

 マルクスは、商品に内在する矛盾は、「商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」と述べています。この「商品変態における諸対立」とは、簡単に言えば販売と購買の分離、「売りと買いとの対立」です。そして「これらの形態」=「商品変態の諸対立」=「売りと買いとの対立」は、恐慌の可能性を含んでいるというのです。商品に内在する矛盾は交換過程においてはじめて現実的矛盾として現われます。それは、使用価値としての実現と価値としての実現が相互前提の関係にあるということです。この矛盾は、貨幣に媒介されて販売と購買の分離(対立)という発展した運動形態を受け取ります。
 第2節流通手段「a商品の変態」の冒頭で《すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは一般に現実の矛盾が解決される方法である。》(国民文庫188頁・原頁118-119)と述べられていましたが、販売と購買の分離は、交換過程が含んでいる矛盾の運動を可能にし、その限りで解決を与えたといえるのです。しかし、それは矛盾の解消ではありません。だからマルクスは《互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。》と述べているのです。
 出された疑問は、「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのかというものでしたが(そして私もその疑問に賛成しましたが)、引用文は《「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ》たと述べているのであって、「媒介されなければならない矛盾」であるとしているわけではありません。この点では誤読したといえると思います。
 「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾から生まれたが、それ自身は媒介されない矛盾を抱えているといえるのではないでしょうか。

第8段落
・次に与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから相殺される諸支払を引き、最後に同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。
・たとえば、農民が彼の穀物を2ポンド・スターリングで売るとすれば、その2ポンド・スターリングは流通手段として役立っている。
・彼はこの2ポンドで、以前に織職が彼に供給したリンネルの代金をその支払期限に支払う。
・同じ2ポンドが今度は支払手段として機能する。
・そこで、織職は1冊の聖書を現金で買う――2ポンドは再び流通手段として機能する――等々。
・それだから、価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とが与えられていても、ある期間たとえば1日に流通する貨幣量と商品量とはもはや一致しないのである。
・もうとっくに流通から引きあげられてしまった商品を代表する貨幣が流通する。
・また他方では、その日その日に契約される支払と、同じその日に期限がくる支払とは、まったく比較できない大きさのものである。

●「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」とは何のことかよく分らないとの発言があり、次回までに考えてくることになりました。

■国民文庫版の「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」は次のように訳されている。
・新日本出版社版「同じ貨幣片がある時は流通手段として、ある時は支払手段として、かわるがわる機能する通流の回数」(新書第1分冊234頁)
・長谷部訳「同じ貨幣片が時には流通手段・時には支払手段としてこもごも機能する流通の回数」(河出書房「世界の大思想18」 119頁)
・フランス語版「実現すべき商品価格の総額に、満期となる支払総額を加え、相殺される支払総額を控除し、最後に、流通手段と支払手段という二重の機能として同じ貨幣片が二度またはそれ以上の頻度にわたる使用を控除したものである。」(法政大学出版会 上巻120頁)
・初版「実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻134-135ページ)
・第2版「実現されるべきもろもろの商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻121ページ)

■『図解社会経済学』(大谷禎之介 桜井書店 117頁)では次のように述べられている。(分数で表記されているものを割り算の式に変えています)
《流通手段および支払手段として流通する貨幣の総量は、最終的には次の式によって規定されることになる。
(実現されるべき商品価格総額)÷(流通手段の流通速度)+(支払われるべき債務総額-相殺される支払総額)÷(支払手段の流通速度)-(流通手段および支払手段の両方の機能で流通する貨幣片の合計額) 》

■『資本論入門』(河上肇 青木文庫 第2分冊 486頁)では次のように述べられている。
《一定の期間内に流通手段および支払手段として必要とされる貨幣の総額は、の期間内に現金をもって売買されるべき諸商品の価格の総和に対し、第一には、その期間中満期となるべき諸支払の総和を加へ、第二には、互いに相殺される諸支払の額を差し引き、次に、これをば流通手段および支払手段としての貨幣の流通速度をもって割り、最後にかくして得たる商から、同一の貨幣片が或る時は流通手段として或る時は支払手段として交互に働くために決済される金額を、差し引いたものに相当する。》

★流通する貨幣の総額を問題にしているのだから、単位は円(貨幣の単位)であるはずなのだから、「回数」ではおかしいと思う。だが、どんな金額なのかは、依然としてよく理解できない。

第9段落
・信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは、売られた商品に対する債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。
・他方、信用制度が拡大されれば、支払手段としての貨幣の機能も拡大される。
・このような支払手段として、貨幣はいろいろな特有の存在形態を受け取るのであって、この形態にある貨幣は大口取引の部面を住みかとし、他方、金属鋳貨は主として小口取引の部面に追い返されるのである。

■信用貨幣という言葉がこれまでに登場したのは2カ所であった。最初は「第2節 C 鋳貨 価値商標」の第5段落。
《ここで問題にするのは、ただ、強制通用力のある国家紙幣だけである。それは直接に金属流通から生まれてくる。これに反して、信用貨幣は、単純な商品流通の立場からはまだまったくわれわれに知られていない諸関係を前提する。だが、ついでに言えば、本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生ずるように、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能にその自然発生的な根源をもっているのである。》(国民文庫224頁・原頁141)
次に触れられていたのは「b 支払手段」の第7段落の終わり近くである。
《恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。したがったまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などの信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に代わりはないのである。》(国民文庫242頁・原頁152)

●第9段落での「信用貨幣」は手形(商業手形)のことをさしており、信用制度が拡大して貨幣が受け取る「いろいろな特有の存在形態」とは銀行券などが念頭に置かれているのではないかとの発言がありました。
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by shihonron | 2009-10-28 23:31 | 学習ノート
2009年 10月 28日

学習ノート 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段 その4

第10段落
・商業生産が或る程度の高さと広さとに達すれば、支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える。
・貨幣は契約の一般的商品となる。
・地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる。
・この変化がどんなに生産過程の総姿態によって制約されているかを示すものは、たとえば、すべての租税を貨幣で取り立てようとするローマ帝国の試みが二度も失敗したことである。
・ボアギュベールやヴォバン将軍があのように雄弁に非難しているルイ14世治下ののフランス農村住民のひどい窮乏は、ただ租税の高さのせいだけではなく、現物租税から貨幣租税への転化のせいでもあった。
・他方、アジアでは同時に国家租税の重要な要素でもある地代の現物形態が、自然関係と同じ普遍性をもって再生産される生産関係にもとづいているのであるが、この支払形態はまた反作用的に古い生産関係を維持するのである。
・それは、トルコ帝国の自己保存の秘密の一つをなしている。
・ヨーロッパによって強制された外国貿易が日本で現物地代から貨幣地代への転化を伴うならば、日本の模範的な農業もそれでおしまいである。
・この農業の窮屈な経済的存立条件は解消するであろう。

●《支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える》とはどういう意味かが問題となり、「商品の売買ではない、租税や地代の支払をさしているように思える。それは、商品交換ではなく、一方的な価値の移転のことではないか」との意見が出されました。

●《貨幣は契約の一般的商品となる》の意味がよく分らないとの疑問が出されましたが、納得できるような結論には至りませんでした。

●アジアでの《自然関係と同じ普遍性をもって再生産される生産関係》《古い生産関係》とは何かという疑問が出され、封建制(農奴制)ではないかという発言がありました。

●《日本の模範的な農業》とあるが、どういう意味で模範的なのかという疑問が出されましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

■日本の農業について述べている箇所について、浜林正夫『資本論を読む[上]』(学習の友社)では次のように述べられています。
《この言葉を理解するためには、マルクスの『資本論』は明治維新の直前に書かれた本だ、ということを念頭においていただきたいのです。つまり、江戸時代の末期ですけれども、日本では依然としてまだ現物地代でした。つまり、コメで収めていたわけです。ところが、日本が開国を迫られて、外国との貿易が始ります。外国との貿易が始りますと、貨幣がどんどん入り込んで、貨幣経済になっていきます。そうすると、日本の地代も現物地代から貨幣地代になるだろう、そうすると日本の模範的な農業もおしまいである、というのです。
 江戸時代の農業は模範的だったのかなぁと思って、ちょっと気になるところでありますが、要するに模範的かどうかはともかくとしても、自給自足的な農業経営というものが崩れてしまって資本主義的な農業になるだろうという、そういうマルクスの予言だ、というふうに思うのです。ただし、日本では、現物で地代を納めるという状況が昭和21年まで続いていました。昭和21年から22年の「農地改革」で初めて、貨幣地代に変ったのです。ヨーロッパによって押しつけられた対外貿易は、実は日本の模範的農業を崩さなかったということになるのでしょうか》(186頁)
■ 農地改革 のうちかいかく
第2次大戦後,地主制の解体を目的として行われた農地の所有・利用関係の改革。1945年幣原喜重郎内閣が行った第1次改革は占領軍の農民解放指令に基づく自作農創設政策であったが,占領軍はその微温的な内容を不満とし,1946年〈農地改革覚書案〉(対日理事会の英国案が骨子)を日本政府に勧告した。これにより自作農創設特別措置法と改正農地調整法が成立し,1947年―1950年第2次改革が行われた。不在地主制の否定,在村地主の貸付地保有限度の引下げ(1町歩),農地の移動統制,耕作権の物権化,地主による土地取上げ禁止,小作料の金納化などがおもな内容。当時,全耕地面積の46%を占めた小作地は強制買収され小作人に売却された結果,10%に減少,地主制は解体した。山林の未解放,地主保有地の残存,零細農経営の存置など不徹底な面もあったが,農地改革は農業生産力発展の契機となった。改革の成果を維持するため1952年農地法が制定された。(マイペディア)

■金納小作料 きんのうこさくりょう
農地の小作料を貨幣で支払うもの。物納小作料よりは歴史的に進んだものとされる。戦前の日本では物納あるいはそれを貨幣換算した代金納が広く行われていたが,農地改革によってそれらは禁止され,小作料はすべて金納化された。 (マイペディア)

■ 貨幣地代 かへいちだい
貨幣で納める地代。労働で納める労働地代や生産物で納める現物地代に対する語。封建社会は現物経済の支配する社会であるが,商品生産の発展につれ,地代も貨幣で納められるに至り,貨幣地代は封建地代の最後の発展形態をなす。 (マイペディア)

■第1部第4篇第13章「機械と大工業」第10節「大工業」に次のような記述がある。
《 農業の部面では、大工業は、が古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働者をそれに替える限りで、最も革命的に作用する。こうして、農村の社会的変革要求と社会的諸対立は、都市のそれと同等にされる。旧習にになずみきった不合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術学的応用が現れる。農業や製造工業の幼稚未発達な姿にからみついてそれらを結合していた原始的な家族紐帯を引き裂くことは、資本主義的生産様式によって完成される。しかし、同時にまたこの生産様式は、一つのより高い結合のための、すなわち農業と工業との対立的につくりあげられた姿を基礎して両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では、社会の歴史的動力を集積するが、他方では、人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食糧や衣料の形態で消費する土地成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。農業でも、製造工業の場合と同様に生産者たちの殉難史のと同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現れ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現れ、労働過程の社会的結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現れる。農業労働者が比較的広い地面の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合と同様に、現代の農業では、労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度不断の厳選を破壊することの進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景としての大工業から出発するならば、その度合いに応じてそれだけこの破壊過程も急速になる。それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と統合とを発展させるのである。》(国民文庫第2分冊464-466頁・原頁528-530)

第11段落
・どの国でも、いくつかの一般的な支払期限が固定してくる。それらの時期は、再生産の循環運行を別とすれば、ある程度まで、季節の移り変わりに結びついた自然発生的生産条件にもとづいている。それらはまた、直接に商品流通から生ずるのではない支払、たとえば租税や地代などをも規制する。
・社会の表面に分散したこれらの支払のために一年のうちの何日間かに必要な貨幣量は、支払手段の節約に周期的な、しかしまったく表面的な攪乱をひき起こす。
・支払手段の流通速度に関する法則からは次のことが出てくる。
・すなわち、その原因がなんであろうと、すべての周期的な支払について、支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する、ということである。

■【節季】せっき
(1)季節の終わり。時節の終わり。時節。
(2)年の暮れ。年末。歳末。一二月。[季]冬。
(3)勘定の締めくくりをする時期。普通、盆と暮れの二回。
「―に帳かたげた男の顔を見ぬを嬉しや/浮世草子・永代蔵 2」 (大辞林 第二版)

■ 【三十日払い/▼晦日払い】みそかばらい
金銭の支払いをその月の末日にすること。みそか勘定。 (大辞林 第二版)

■【五十日】ごとおび
月のうち、五・十のつく日。取引の支払い日にあたり、交通渋滞が激しい日とされる。

●《表面的な攪乱》とは何かが問題となり、支払手段として機能する貨幣の不足のこと。しかし、恐慌時とはちがって、流通する銀行券などの「現金」が一時的に(特定の日に)増大するが、すぐに銀行に帰っていくといったことだろうということになりました。

■最後の文の「正比例」について、新日本出版社の新書版には次のような注がつけられている。
《ここは、カウツキー版およびインスティトゥート版(1932年)以外での版本では「反比例」となっており、戦後のロシア語版、ドイツ語版、フランス語版等、たいていの版本で「正比例」に改められた。マルクスは、支払手段の流通速度を制約する事情として、債権者・債務者の関係の連鎖と、さまざまな支払期限のあいだの時間の長さとをあげているが、これは支払期限(満期日)に達した債務についての行論である。したがって「支払期限の長さ」を「支払期限と支払期限とのへだたり」(週払いとか月払い)と解すれば、長い方が支払総額が多くなるから「正比例」である。これにたいして、「支払期限」を「支払が行なわれる期間」(一日とか一週間)と解すれば、長い方が同一の貨幣が支払手段として転々流通するので貨幣の必要額量は少なくなり、「反比例」となる。マルクスはここでは「支払期限」について論じており、「期間」については一カ所しか言及しておらず、周期的支払を問題にしているため「諸支払期間」(周期的な期限と期限とのあいだ)としたものと思われる。第二巻、第九章末でこの文が再び引用されているが、ここで「反比例」と解すると矛盾した解釈をせざるをえなくなる。(240-241頁)》

■第2部第2篇第9章「前貸資本の総回転 回転の循環」の中に次のような記述がある。
《まず第一にここで言っておかなければならないのは、支払周期の長さ、すなわち労働者が資本家に信用を与えていなければならない時間の長さに応じて、つまり賃金の支払周期が毎週か、毎月か、三ヶ月ごとか、半年ごとか、等々に応じて、労賃そのものに関していろいろな相違が生ずるということである。ここでは「支払手段の(つまり一度に前貸しされなければならない貨幣資本の)必要量は支払周期の長さに正比例する」という以前に展開された法則が妥当するのである。(第一部第三章第三節b、一二四頁)》(国民文庫第4分冊303頁・原頁187)なお、この箇所の「正比例」には「初版および第二版では、反、となっている」というドイツ語全集版編集者による注がつけられている。

第12段落
・支払手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要とする。
・独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョア社会の進歩につれてなくなるが、反対に、支払手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大するのである。

●「独立な致富形態としての貨幣蓄蔵」とは何かという疑問が出され、富の社会的表現である貨幣を貯め込むことを自己目的とするような貨幣蓄蔵、「貨幣蓄蔵の素朴な形態」のことだろうということになりました。
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by shihonron | 2009-10-28 23:30 | 学習ノート
2009年 10月 27日

第164回 10月27日  第3章 第3節 貨幣 b 支払い手段

10月27日(火)に第164回の学習会を行いました。「第3節 貨幣 b支払い手段」の第5段落から最後(第12段落)までをレジュメに基づいた報告を受け、検討しました。以下はレジュメです。

資本論 第1部 第3章 貨幣または商品流通   
               第3節 貨幣  b支払手段


支払手段として必要な貨幣量⑤ 支払手段の流通速度
・一定期間の満期になった諸債務(債務が生まれた諸商品の価格総額)の実現に必要な貨幣量
   支払手段の流通速度(これを制約する二つの事情)
             債権者と債務者との関係の連鎖
             支払期限と支払期限とのあいだの時間の長さ
 ・支払手段の運動は,すでにそれ以前にできあがっている社会的な関連を表わしている

債権と債務との相殺(相殺が行われるためには,諸支払の連鎖と人為的組織が必要))
 ・諸販売の同時性と並行性----流通速度が鋳貨量の代わりをする程度を制限
               しかし支払手段の節約の梃子になる
 ・同じ場所に諸支払が集中⇒自然発生的に諸支払の決済のための施設と方法とが発達
     中世のリヨンの振替の例
     債務差額だけが清算
 ・諸払の集中が大量化⇒清算されるべき差額は相対的に小さくなる
            したがって流通する支払手段の量も小さくなる

恐慌の可能性の第二形態
⑦ 支払手段としての貨幣の機能は,媒介されない矛盾を含む(恐慌の可能性の第二形態)
 恐慌のときには,商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は,絶対的な矛盾にまで高められる。 そこでは貨幣の現象形態がなんであろうと(金,信用貨幣など)貨幣飢饉に変わりはない
  ・諸支払の相殺----貨幣は観念的に,計算貨幣(価値尺度)として機能
  ・現実の支払い----貨幣は流通手段としてではなく
               社会的労働の個別的な化身,
         交換価値の独立な定在,絶対的商品として現われる
  ・この矛盾は,生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する
     (諸支払の過程的連鎖と諸支払の決済の人為的制度とが発達している場合)
     この機構の比較的一般的な攪乱
      ↓
     貨幣は,突然,媒介なしに,計算貨幣というただ単に観念的な姿から堅い貨幣に一変
      ↓
     商品の使用価値は無価値になり,商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う
      ↓
     ブルジョアの叫び----商品こそは貨幣だ⇒ただ貨幣だけが商品だ!

流通する貨幣量 (流通する貨幣量についての法則の修正 Kr.s123)
⑧ 与えられた一期間に流通する貨幣の総額
   (流通手段と支払手段の流通速度があたえられている場合)
  《実現されるべき商品価格の総額+満期になった諸支払の総額》
      マイナス
  《相殺される諸支払+同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だ  けの流通額》
 ある期間たとえば一日に流通する貨幣量と流通する商品量とは,もはや一致しない

信用貨幣は,支払手段としての貨幣の機能に,その自然発生的な根源をもつ(s141)
信用貨幣は,支払手段としての貨幣の機能から直接に発生する
   売られた商品にたいする債務証書=商業手形
   ⇒債権の移転のために流通する=商業貨幣(約束手形・為替手形)

  信用制度が拡大⇒支払手段としての貨幣の機能も拡大される
          支払手段として,貨幣はいろいろな特有な存在形態を受け取る
   ・この形態にある貨幣は大口商取引の部面を住みかとし,
   ・金銀鋳貨は主として小口取引の部面に追い帰される



貨幣は契約の一般的商品となる⑩ 商品生産の進展⇒支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える
          地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる
               (生産過程の総姿態によって制約されている)
      ・現物租税から貨幣租税への転化
          ローマ帝国の試みが二度も失敗
         ルイ一四世治下のフランス農村住民のひどい窮乏

      ・アジアでの地代の現物形態(同時に国家租税の車要な要素)
       この支払形態はまた反作用的に古い生産関係を維持する
          トルコ帝国の自己保存の秘密,日本の模範的な農業


⑪ 一般的な支払時期の固定化
  ・再生産の他の諸循環
  ・季節の移り変わりに結びついた自然的生産条件
    ⇒直接に商品流通から生ずるのではない支払,たとえば租税や地代などをも規制する
 ・一年のうちの何日間かに必要な貨幣量は,支払手段の節約に周期的な,しかしまったく表面的 な攪乱をひき起こす

 ・支払手段の流通速度に関する法則
    すべての周期的な支払について,支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例〔*〕する


支払手段の準備金としての貨幣蓄蔵

⑫ 支払手段としての貨幣の発展
  ・債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要にする
     支払手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大する
  ・独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョア社会の進歩につれてなくなる
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by shihonron | 2009-10-27 23:30 | 学習会の報告
2009年 10月 20日

第163回 10月20日  第3章 第3節 貨幣 b 支払い手段

10月20日(火)に第163回の学習会を行いました。「第3節 貨幣 b支払い手段」の第1段落から第4段落までをレジュメに基づいた報告を受け、検討しました。以下はレジュメです。

『資本論』第1巻 第三章 貨幣または商品流通
 第三節 貨幣 b 支払手段


第1段落 商品の譲渡と価格の実現の分離 ――商品の価値形態の展開を変える。
(1)商品流通の発展とともに、商品の譲渡がその商品の価格の実現から時間的に分離される。
(2)ある商品所有者は、別の商品所有者が買い手として登場する前に、売り手として登場することがありえる。
   (例)①商品生産にかかる時間の長短。
     ②商品生産が季節に結びつく場合。
     ③市場に近いか遠いか。  
     ④家屋の利用
商品の販売条件は、商品の生産条件によって規制される。
(3)一方の商品所有者は現存する商品を売るが、他方は、貨幣の単なる代表者として、買う。
   このとき、①売り手は債権者となり、②買い手は債務者となる。
(4)この場合、商品の変態、または商品の価値形態の展開が変わるので、貨幣もまた一つの別の機能を受け取る。貨幣は支払手段となる。

第2段落 債権者と債務者  ――商品流通の場合と古代、中世の場合。
(1)債権者、債務者という役柄は、単純な商品流通から生じる。
(2)この役柄が、商品流通とはかかわり無く登場することがありうる。
   ①古典古代(ローマでは平民の債務者が没落)
   ②中世  (封建的債務者の没落)

第3段落 支払手段の機能 ――流通過程を媒介しないのに流通過程を完結させる貨幣
(1)商品と貨幣という二つの等価物が販売過程の両極に同時に現れなくなる。
貨幣は、①売られる商品の価格の価値尺度として機能する。契約によって確定された商品の価格は、買い手の債務であり、一定期限に支払う責任のある貨幣額を示す。
     ②観念的購買手段として機能する。買い手の支払約束のうちに実存する。
(2)現実に支払手段が流通に入ってくるのは、商品が流通から出て行った後のことである。
 貨幣は、もはやこの過程を媒介するのではない。
 貨幣は、交換価値の絶対的定在、または一般的商品として、この過程を自立的に閉じる。
  債務者である買い手が、商品を貨幣に転化したのは、支払うことができるようになるためであり、流通過程そのものの諸関係から生じる社会的必然によって販売の目的そのものになる。
 
第4段落 商品変態の順序が変更 ――第一変態より第二変態が先になる。
 買い手は、自分の商品を貨幣に転化する(売る)前に、貨幣を商品に再転化する(買う)。
(仏語版)農民:(通常の商品変態) 小麦――貨幣――リンネル
     農民は、リンネルを買い、1ヵ月後にその支払をする。
つまり、貨幣―リンネル(第二変態)を先行させる。
     リンネルは流通し、その所有者は、私法上の貨幣請求権において、価格を実現する。
     リンネル商品は、貨幣に転化する前に、使用価値に転化する。
【注98】「貨幣の前払い」は、貨幣が購買手段として機能するだけ。
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by shihonron | 2009-10-20 23:30 | 学習会の報告
2009年 10月 06日

第162回 10月6日 第3章 第3節 貨幣 b 支払い手段

10月6日(火)に第162回の学習会を行いました。「読む会通信№343」をもとに前回の復習をしました。復習の中では前回に引き続き交換過程論の課題について議論がありました。その後、「蓄蔵貨幣を貨幣の機能だと考えるのはまちがっていると思う。蓄蔵貨幣は、貨幣が置かれている一つの状態、あるいは貨幣の一つの形態規定ではあるが、それ自身が一つの独自な機能なのではない」という久留間鮫造氏の見解が述べられている「マルクス経済学レキシコンの栞№12」を検討しました。「久留間氏の主張を素直に読んで、その通りだと思った」という発言や「蓄蔵貨幣は様々な機能を果たしているわけで、蓄蔵貨幣機能ということが間違いだと言い切れるのか疑問が残る。久留間氏の見解はそれまでの通説とを批判したものだが、久留間説への批判を展開した人はいないのか」といった発言がありました。
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by shihonron | 2009-10-06 23:30 | 学習会の報告