『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ

<   2009年 11月 ( 7 )   > この月の画像一覧


2009年 11月 17日

学習ノート 第4章 第1節 資本の一般的定式 その1

第1段落・商品流通は資本の出発点である。
・商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的前提をなしている。
・世界貿易と世界市場とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くのである。

■フランス語版(上巻129頁 江夏・上杉訳、法政大学出版局)では次のようになっている。
「商品流通は資本の出発点である。資本は、販売のための生産と商業とがすでにある発展段階に到達したばあいに、初めて現われる。資本の近代史は、16世的における二つの世界の商業と市場との創出に始る。」

●16世紀とあるがどんなことを念頭において書かれたのだろうかという疑問が出され、大航海時代のことを考えればよいのではないかとの発言がありました。

●なぜ「近代的生活史」と書かれているのかとの疑問が出され、資本主義以前の古い時代にも商人資本や高利貸し資本などが存在していたことを考慮した表現だろうとの発言がありました。

■ 前期的資本
単純な商品流通と貨幣流通の発生に伴って資本主義以前の諸社会に現れた古い資本形態。利子生み資本の古い形態である高利貸資本と,商業資本の古い形態である商人資本をさす。封建的諸身分に寄生する前者,不等価交換(安く買って高く売る)によって利潤を得る後者は,市場経済の成立・産業資本の発達による資本主義以前の生産様式の崩壊に伴って活動基盤を失い没落,貸付資本と商業資本に代わられた。(マイペディア)

■大航海時代
15世紀末以降,スペインやポルトガルを中心とする西欧諸国が探検・航海による〈地理上の発見〉を契機として,アメリカ大陸やアフリカ,アジアをはじめ各地に植民・掠奪・交易によって進出し,世界を一体化させた時代。コロンブスのアメリカ大陸到達(1492年),バスコ・ダ・ガマの喜望峰経由のインド航路発見(1498年)などに始まる。スペインとポルトガルは1494年のトルデシーリャス条約によって,新たに〈発見〉される土地の領土区分を定めた。インディアスと呼ばれた新大陸アメリカでは先住民を苛酷に使役し,金・銀を大量に収奪し(1545年ポトシ銀山発見),やがて労働力調達のためにアフリカ黒人を大西洋奴隷貿易により導入した。ここに,ヨーロッパ(織物・雑貨)→アフリカ(黒人奴隷)→新大陸(黄金)→ヨーロッパという〈三角貿易〉が始まり,西欧に〈商業革命〉をもたらすが,このころから西欧と東欧は〈中心と周辺〉の構造に分化していく。16世紀末からは英国,オランダ,フランスが海外進出の主役となり,17世紀半ばには英国とオランダが二大勢力として対立,ここに大航海時代は終わる。この時期は大規模な〈他者〉との遭遇の時代であり,人種・民族観が形成され,またキリスト教布教が世界化された画期でもあった。(マイペディア)

●フランス語版の「二つの世界」とは、ヨーロッパと新大陸をさしているのではないかとの発言がありました。

第2段落
・商品流通の素材的内容やいろいろな使用価値の交換は別として、ただこの過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれは過程の最後の産物として貨幣を見いだす。
・この商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。

■長谷部訳では「商品流通の質料的内容たるさまざまな使用価値の交換を度外視するならば…」となっている。(河出書房『世界の大思想 資本論1』125頁)岡崎訳では「~すなわち―」を「~または―」とされているいることが多い。ここでの意味は「商品流通の素材的内容」=「使用価値の交換」ということだろう。

●「この過程」とは何かという疑問が出され、「商品流通(の過程)」のことだとの発言がありました。

●「過程の最後の産物として貨幣を見いだす」とはどんな意味で述べられているのかという疑問が出され、商品交換の発展によって貨幣が生みだされること(貨幣の生成)ではないかとの意見が出されました。

第3段落
・歴史的には、資本は土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する。
・とはいえ、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。
・同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。
・どの資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現すのは、相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化すべき貨幣としてである。

●ここでの「土地所有」とは封建的な土地所有のことだとの発言がありました。

●「資本」について、『資本論』のこれまでの叙述では、どれほど触れられていたのかとの疑問が出されました。注の中で取り上げられていることはあっても、実質的に資本が何であるかについては述べられておらず、この第4章ではじめて取り上げられているとの結論になりました。

■高利貸資本
利子生み資本の歴史的な一形態。奴隷制社会,封建社会など資本主義以前の社会から存在し,奴隷所有者,領主,小商品生産者などに高利で金銭を貸し付ける。商業資本と並び前期的資本の一つであり,支配者と生産者を収奪してその社会の生産様式の分解を促進する。資本主義の未発達なところになお現存。(マイペディア)

第4段落
・貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。

●ここでの「貨幣としての貨幣」は「資本としての貨幣」に対置されるものとして述べられていて、第3章第3節「貨幣」で取り上げられた「第三の規定における貨幣」のことをさしているわけではないとの発言がありました。

第5段落
・商品流通の直接的形態は、W―G―W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。
・しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G―W―Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。
・その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命から見れば、資本なのである。

■「使命」は、新日本出版社版では「性格規定」となっている。

第6段落
・流通G―W―Gをもっと詳しく見よう。
・それは、単純な商品流通と同じに、二つの反対の段階を通る。
・第一の段階、G―W、買いでは、貨幣が商品に転化される。
・第二の段階、W―G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。
・しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換して同じ商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動である。
・または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動である。
・その全課程が消えてしまっているその結果は、貨幣と貨幣との交換、G―Gである。
・私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣で交換したわけである。

●「単純な商品流通」に対置されているのは「資本の流通(資本としての貨幣の流通)」だとの発言がありました。

第7段落
・ところで、もしも回り道をして同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのならば、流通過程G―W―Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白である。
・それよりも、自分の100ポンド・スターリングを流通の危険にさらさないで固く握っている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、やはりずっと簡単で確実であろう。
・他方、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有の独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。
・そこで、まず循環G―W―GとW―G―Wとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。
・そうすれば、同時に、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。

■下線部分は、フランス語訳では次のようになっている。
《どちらのばあいにも、彼の貨幣は特殊的、独創的運動をいつも描くのであって、たとえば小麦を売って上衣を買う農民の貨幣が通過する運動とは、全くちがう。》

第8段落
・まず両方の形態に共通なものを見よう。

第9段落
・どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W―G、売りと、G―W、買いとに分かれる。
・二つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ二つの物質的要素が相対しており、また、買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた二人の人物が相対している。
・そして、どちらの場合にも、この統一は三人の当事者の登場によって媒介され、そのうちの一人はただ売るだけであり、もう一人はただ買うだけであるが、第三の一人は買いと売りを交互に行なう。

●図示すると以下のようになるだろう。

・単純な商品流通

人物A   G――W      (買うだけ)
  

人物B   W――G――W   (売って買う)


人物C       W――G   (売るだけ)        

・資本としての貨幣の流通

人物A   W――G      (売るだけ)
    

人物B   G――W――G   (買って売る)


人物C       G――W   (買うだけ)   

第10段落
・とはいえ、二つの循環W―G―WとG―W―Gとをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階の逆の順序である。
・単純な商品流通は売りで始って買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始って売りで終わる。
・前の方では商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点をなしている。
・第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全課程を媒介している。

第11段落
・流通W―G―Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。
・だから、貨幣は最終的に支出されている。
・これに反して、逆の形態G―W―Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。
・彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。
・彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。
・それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである。

●「前貸し」という言葉について、『資本論』では、日常的に用いられている場合の意味(決められた期日以前に給料などを支払うこと)とは違っている。それは、再びもどってくることをめざして手放すといった意味だとの発言がありました。

●「前貸し」と「投下」に区別はあるのだろうかという疑問が出されました。

第12段落
・形態W―G―Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。
・売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。
・商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始る総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わる。
・形態G―W―Gでは、逆である。
・ここでは、二度場所を変えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。
・買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。
・単純な商品の流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。

●前回の図示でいえば、W―G―Wでは、貨幣はA→B B→Cと二度場所を替える。
G―W―Gでは、商品がA→B B→Cと二度場所を替える。貨幣(同じ貨幣片ではないが)は、B→A C→Bと場所を替える。貨幣は、最初の出発点Bの手に還流する。
[PR]

by shihonron | 2009-11-17 23:47 | 学習ノート
2009年 11月 17日

学習ノート 第4章 第1節 資本の一般的定式 その2

第13段落
・その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。
・この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。
・還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G―W―Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。
・要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。

●《これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。》の「これ」とは何かという疑問が出され、「還流」だろうという結論になりました。また「単なる貨幣としてのその流通」とは、単純な商品流通における貨幣の流通のことであり、それは出発点に還流することはないということを確認しました。

■《労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態、W―G―Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。それゆえ、このような商品の運動は循環である。他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。…商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、または貨幣の流通(currency,cours de la monnaie)である。》(「第3章第2節流通手段 b 貨幣の流通」 国民文庫204-205頁・原頁128-129)

第14段落
・ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W―G―Wは完全に終わっている。
・それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。
・もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。
・私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。
・それは衣服商人のものである。
・そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。
・その貨幣は私が第二の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れていく。
・だから、流通W―G―Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのである。
・これに反して、G―W―Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。
・この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。
・というのは、過程の第二の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。

●《そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。》と述べられているが、「還流」という言葉は、元のところへもどるという意味だ。ここで「還流」という言葉を使うのは不適切ではないかとの意見が出されました。

第15段落
・循環W―G―Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で集結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。
・それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。
・これに反して、循環G―W―Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。
・それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。

■長谷部訳では「推進的動機および規定的目的」(158頁)、フランス語版では「その動機、決定的な目的」(132頁)となっている。

第16段落
・単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。
・それはどちらも商品である。
・それらはまた同じ価値量の商品である。
・しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。
・生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材転換が、ここでは運動の内容をなしている。
・流通G―W―Gではそうではない。
・この流通は一見無内容に見える。
・というのは同義反復的だからである。
・どちらの極も同じ経済的形態をもっている。
・それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。
・なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。
・まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣と貨幣を、同じものと同じものとを交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える。
・およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することのできるのは、ただその大きさの相違によってである。
・それゆえ、過程G―W―Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容を持つのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。
・最後には、最初に流通に投げ込まれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。
・たとえば、100ポンド・スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ポンドで再び売られる。
・それゆえ、この過程の完全な形態は、G―W―G’であって、ここでは G’=G+ΔG である。
。すなわちG’は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。
・この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ。
・それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。
・そしてこの運動がこの価値を資本に転化させるのである。

★単純な商品の流通 W―G―W の目的は、自分が必要とする使用価値を手に入れることにある。最初のWと最後のWは経済的形態においてはともに商品ではあるが、異なった使用価値である。他方、資本としての貨幣の流通 G―W―G’の目的は、最初の貨幣Gよりも多くの貨幣G’を手に入れることにある。価値増資よくという運動が、価値(貨幣)を資本に転化させる。

第17段落
・もちろん、W―G―Wで両極のWとW、たとえば穀物と衣服とが、量的に違った価値量であるということもありことである。
・農民が自分の穀物を価値よりも高く売ったり衣服をその価値よりも安く買ったりすることもありうる。
・また彼のほうが衣服商人にだまされることもありうる。
・とはいえ、このような価値の相違はこの流通形態そのものにとってはまったく偶然である。
・この流通形態は、その両極、たとえば穀物と衣服とが互いに等価物であっても、けっして過程G―W―Gのように無意味になってしまいはしない。
・両極が等価だということは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである。

★単純な商品の流通W―G―Wにあっては、最初のWと最後のWが質的に異なった使用価値である。その実質的な内容は、一商品とと他の一商品との交換である。ここでは、等価交換が正常な経過の条件である。

第18段落
・買うために売ることの反復または更新は、この過程そのものがそうであるように、限度と目標とを、過程の外にある最終目的としての消費に、すなわち特定の欲望の充足に、見いだす。
・これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。
・たしかに、GはGプラスΔGになり、100ポンド・スターリングは100・プラス・10ポンドになっている。
・しかし、単に質的に見れば、110ポンドは100ポンドと同じもの、すなわち貨幣である。
・また量的に見ても、110ポンドは、100ポンドと同じに一つの限定された価値額である。
・もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその役割からはずれてしまうであろう。
・それは資本ではなくなるであろう。
・流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に化石して世界の最後の日までしまっておいてもびた一文もふえはしない。
・つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は110ポンドの場合も100ポンドの場合も同じことである。
・なぜならば、両方とも交換価値の限定された表現であり、したがって両方とも量の拡大によって富そのものに近づくという同じ使命を持っているからである。
・たしかに、はじめに前貸しされた価値100ポンドは、流通でそれに加わる10ポンドの剰余価値からは一瞬区別されるにちがいないが、しかしこの区別はすぐにまた消えてなくなる。
・過程の終わりには、一方の側に100ポンドの価値が出てきて他方の側に10ポンドの剰余価値が出てくるのではない。
・出てくるものは、110ポンドという一つの価値であって、それは、最初の100ポンドとまったく同じに、価値増殖過程を始めるのに適した形態にあるのである。
・貨幣は運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。
・それゆえ、売りのための買いが行なわれる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしているのである。
・単純な商品流通――買いのための売り――は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。
・これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。
・というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。

第19段落
・この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。
・彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。
・あの流通の客観的内容――価値の増殖――が彼の主観的な目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として機能するのである。
・だから、使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。
・個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである。
・この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。
・価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げ込むことによってそれをなしとげるのである。

★資本家とは、資本の運動の意識ある担い手であり、人格化され意志と意識とを与えられた資本である。

第20段落
・諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。
・これに反して、流通G―W―Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々な存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわば仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。
・価値は、この運動のなかで消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。
・自分を増殖する価値がその生活の循環の中で交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。
・しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。
・なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。
・価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘的な性質を受け取った。
・それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである。

■《諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態》の「独立な形態」は、長谷部訳では「自立的な形態」となっている。

■「存在様式」は、長谷部訳では「実存様式」となっている。

●《資本は貨幣である、資本は商品である、という説明》について「これは間違った説明だ」との発言があり、これに対して「資本は、貨幣や商品の形態をとるのであり間違っているというのはどうか」との意見が出されました。最初の発言者は「この箇所につけた注で引用されているマクラウドは《生産的目的のために使用される通貨は資本である》と言い、ジェームス・ミルは《資本は商品である》と言っている。どちらも資本の一つの形態をとらえて、それが資本だと主張するのは正しくない説明だと述べているのではないか」と答えました。

■《この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。》は、長谷部訳では次のようになっている。
《この過程においては、価値が貨幣形態と商品形態とのたえざる変換のもとでその大いさそのものを変じ、本源的価値としての自分じしんから剰余価値としての自分をうち出汁、自分じしんを増殖するのである。》(131頁)

●単純な商品の流通 W―G―W については「第3章 貨幣 第2節 流通手段 a 商品の変態」でも取り上げられていた。その運動(変態)の主体は商品であったといえるのではないかとの発言がありました。
[PR]

by shihonron | 2009-11-17 23:46 | 学習会の報告
2009年 11月 17日

学習ノート 第4章 第1節 資本の一般的定式 その3

第21段落
・このような過程のなかで価値は貨幣形態と商品形態とを取ったり捨てたりしながらしかもこの変換のなかで自分を維持し自分を拡大するのであるが、このような過程の全面をおおう主体として価値はなによりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されなければならないのである。
・そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。
・それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。
・それは100ポンド・スターリングだった、それは今では110ポンドである、等々。
・しかし、貨幣そのものはここではただ価値の一つの形態として認められるだけである。・というのは、価値はその二つの形態をもっているからである。
・商品形態をとることなしには、貨幣は資本にはならない。
・だから、貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらないのである。
・資本家は、すべての商品が、たとえそれがどんなにみすぼらしく見えようとも、どんなにいやな臭いがしようとも、内心と真実とにおいては貨幣であり、内的に割礼をうけたユダヤ人であり、しかも貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡を行なう手段であるということを知っているのである。

■「全面をおおう主体」は、長谷部訳では「支配的主体」となっている。

■《貨幣そのものはここではただ価値の一つの形態として認められるだけである》は、長谷部訳では《貨幣そのものは、ここでは価値の一つの形態としてのみ意義をもつ》となっている。

●「認められる」「意義をもつ」の原文は、おそらくgeltenだろうとの発言がありました。日本語では「通用する」「妥当する」と訳されることもある。

■gel・ten*  [ltnゲルテン]  〔(現在形)du giltst, er gilt(過去形)galt(過去分詞)gegolten〕
1(自動詞)
【1】効力がある,有効である,通用する
Ihr Pass gilt nicht mehr.あなたのパスポートはもう無効です
Das gilt nicht.(ゲームなどで)それは反則だ
《für+(4格の名詞)と》Das Gesetz gilt für alle Bürger.その法律はすべての市民に適用される
Das gilt auch für dich! それは君の場合も同じだ!
《von+(3格の名詞)と》Das Gleiche gilt auch von ihm.同じことは彼についても言える
【2】(alsまたはfür ...)〔…と〕見なされている,〔…で〕通っている
Er gilt als(またはfür)klug.彼は賢いと思われている
Er gilt als ein nüchternerMann.彼は冷静な男とみなされている((参考)alsのあとには1格の名詞や形容詞,fürのあとには4格の名詞や形容詞がくる)
【3】((3格の名詞))〔…(3格)に〕向けられている
Diese Worte gelten ihm.その言葉は彼に向けられている
◆(4格の名詞)+gelten lassen…(4格)を承認する
Ich lasse diese Erklärung nicht gelten.私はこの釈明を認めない
2(他動詞)((4格の名詞))〔…(4格)に〕値する,〔…(4格)の〕価値がある
Diese Münze gilt 30 Mark.この硬貨は30マルクの価値がある
Sein Wort gilt bei uns wenig.彼の言うことはわれわれの間では信用がない
Was gilt die Wette? 何を賭けようか?
3(非人称動詞)
【1】(zu不定詞句)〔…することが〕重要である
Jetzt gilt es zu zeigen, dass du ein Mann bist.今こそ君が男だということを示すべきだ
【2】((4格の名詞))(文語)〔…(4格)に〕かかわる
Es gilt das Glück deiner Familie.君の家族の幸せにかかわることだ
(三修社「アクセス独和辞典」 http://www5.mediagalaxy.co.jp/sanshushadj/)

●《貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらない》の「対抗的態度」とはどういう意味かとの疑問が出され、貨幣蓄蔵においては貨幣形態を固持する、けっしてそれで商品を購入しないということだろうという結論になりました。

第22段落
・単純な流通では、商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立な形態を受け取るだけであるが、その価値はこでは、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現われるのであって。この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。
・だが、それだけではない。
・いまや価値は、諸商品の関係を表わしているのではなく、いわば自分自身にたいする私的な関係にはいるのである。
・それは、原価値としての自分を剰余価値としての自分自身から区別する。
・つまり父なる神としての自分を子なる神としての自分自身から区別するのであるが、父も子も同じ年なのであり、しかも実は両者は一身なのである。
・なぜならば、ただ10ポンド・スターリングという剰余価値によってのみ、前貸しされた100ポンドは資本になるのであって、それが資本になるやいなや、すなわち子が生まれて子によって父が生まれるやいなや、両者の区別は再び消えてしまって、両者は一つのもの、110ポンドであるからである。

★資本としての貨幣の流通 G―W―G’においてはは、価値は自分自身で運動する実体である。単純な商品の流通 W―G―W において貨幣は商品の使用価値に対立する、商品の価値の独立的表現(いわば商品の影)でしかなかったが、今や価値そのものが主体となり、商品や貨幣という形態をとる。

★「価値は、諸商品の関係を表わしているのではなく、いわば自分自身にたいする私的な関係にはいる」とはどういうことか? 労働生産物は、他の労働生産物との交換関係のなかで商品になる。交換関係は、価値としての関係であり、価値は商品と商品の関係(物理的とか化学的などの自然的関係ではなく社会的関係)を表わしているといえるのではないか。《自分自身にたいする私的な関係》ではなく、他の商品との社会的な関係を表わしていると理解できるのではないか。

■《商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろものだということによって、マダム・クイックリとは違っている。商品体の感覚的に粗雑な対象性とは正反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸表現であるかぎりでのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であるということを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現われえないということもまたおのずと明らかである。われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価値を追跡したのである。いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない。》(「第1章 第3節 価値形態または交換価値」の第2段落 国民文庫93頁・原頁62) 

第23段落
・つまり、価値は、過程を進みつつある価値、課程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。
・それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始めるのである。
・G―G’、貨幣を生む貨幣――money which begets money――、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である。

■「資本の最初の通訳、重商主義者たち」は、長谷部訳では「資本の最初の通弁たる重商主義者たち」となっている。

第24段落
・売るために買うこと、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G―W―G’は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに特有な形態のように見える。
・しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。
・買いと売りとの中間で、すなわち流通過程の外で行なわれるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。
・最後に利子生み資本では、流通G―W―G’は、短縮されて、媒介のない結果として、いわば簡潔体で、G―G’として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きい価値として、現われる。

●ここで本文でははじめて「産業資本」が登場するとの指摘がありました。

■《産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。》は、長谷部訳では《産業資本もまた、貨幣――みずから商品に転形し、そして商品の販売によって、みずからをより多くの貨幣に再転化する貨幣――である。》となっている。

●「商人資本」について前期的資本のみをさしているのだろうか、「商業資本」と区別してこの言葉が使われているのだろうかの疑問が出され、調べてみることになりました。

■『資本論辞典』(青木書店)の「商業資本」の項目では「〈商業資本〉および〈商人資本〉という用語も、同じ意味のものとして使用されているとみてよい。」と書かれています。(253頁)

■シスモンディ Jean Charles Lレonard Simonde de Sismondi  1773‐1842
スイスの経済学者,歴史家。シモンド・ドゥ・シスモンディが姓であるが,ふつうはシスモンディとよばれる。経済学史上,古典派とロマン派の境界に位置する。ジュネーブの上流階級に属する新教徒牧師の家に生まれたが,フランス革命の政治的・経済的衝撃によって地位と財産を失った一家は,一時イギリスに,ついでイタリアに亡命し,トスカナのペッシャに定住する。しかし,シスモンディの政治家,思想家としての活動の場所は,革命後のジュネーブとパリであり,死んだのはジュネーブ近郊であった。経済学においては,彼はアダム・スミスの信奉者として出発するが,ヨーロッパ各国で恐慌のなかにある労働者の窮乏をみたり,イギリスでロバート・オーエンに会ってその影響をうけたりして,主著《経済学新原理》2 巻 (1819) では資本主義批判に転じた。彼の対策は,独立小生産者の社会の再建であったので,小市民的あるいはロマン主義的反動とよばれることがあるが,最初のリカード派社会主義者という評価もある。ほかに,《中世イタリア諸共和国史》16 巻 (1807‐18), 《フランス史》31 巻 (1821‐44) など著書多数。  (水田 洋 世界大百科事典)

■「マルクスは古典派経済学の始めと終わりの代表者を、イギリスにおいてペティとリカード、フランスにおいてはポアギュベールとシスモンディにもとめ、シスモンディをリカードに対応させて評価している。《リカードにおいて経済学がおそれることなく、その最後の結論をひきだし、それをもって終結をつげたとすれば、シスモンディは、経済学の自己自身に対する疑惑を表明することによって、この終結を補完したのである。》」
(『資本論辞典』494頁)

■ペティ William Petty 1623‐87
イギリスの経済学者,統計学者。はじめ船乗りであったが,1643 年大陸に渡り医学と数学を学び,帰国後オックスフォード大学の解剖学の教授。 52 年,クロムウェルのアイルランド派遣軍の軍医として従軍,さらにアイルランドの没収地の測量〈ダウン・サーベー〉の仕事を行った。 62 年王立協会会員。主要著作は《租税貢納論》(1662),《政治算術》 (1690), 《アイルランドの政治的解剖》 (1691) だが,特に《政治算術》において,〈数と量と尺度〉を用いる議論によってイギリスとフランスの国力比較を試みた。これによって彼は〈政治算術〉なる学問の創始者となったが,また国富の推定にあたって労働を価値の尺度と考え,余剰利得という概念をも提起したことから,マルクスによって〈経済学の最初の形態〉と呼ばれるにいたった。しかし,土地または自然にも価値を生む力があると考えていた点では,労働価値論としては不十分さを残している。友人のJ.グラントとともに〈近代統計学の父〉ともいわれる。 竹内 啓+ 浜林 正夫  (世界大百科事典)

■ リカード David Ricardo 1772‐1823
古典派経済学の完成者とみなされ,今日にも大きな影響力を及ぼしているイギリスの経済学者。オランダ生れのユダヤ教徒の株式仲買人の子としてロンドンに生まれ,初等教育だけで 14 歳から父の見習として働いたが, 1793 年クエーカー教徒との結婚のため父に義絶された。その後独立の株式仲買人となり,とくに公債引受人として成功し,大きな財産を築いた。 1819 年 42 歳のとき,イギリス南西部のグロスターシャーの土地を購入して事業を退き, 地金論争 (1809‐12) ころからしだいに関心を強めていた経済学面での研究・文筆生活にはいったが,主著刊行時と同様,J.ミルの強制に近いまでの勧告によって同年下院議員となり,耳疾の悪化で急死するまで,その地位にとどまった。
 リカードは,職業柄,初めから金融問題を中心に経済問題に関心をもっていたはずだが,その関心に弾みを与えたのは,1797 年夫人の病気療養のために赴いたバース温泉で偶然接した A.スミスの《国富論》だったといわれる。 1809 年,当時の兌換 (だかん) 停止下での物価騰貴問題について《モーニング・クロニクル》紙に〈金の価格〉を寄稿,翌 10 年それを整理・再編成したパンフレット《地金の高価格》を公刊して,兌換停止が物価騰貴の原因だとして当時のイングランド銀行の不換銀行券の過剰発行を批判し,兌換の再開を求めたが,これが同年発表された《地金委員会報告書》と同一線上のものだったため,一躍経済学者として注目されるようになった。引き続く穀物法論争 (1813‐15) 時には, J.ミルの強い影響下にパンフレット《低廉な穀物価格が資本の利潤に及ぼす影響についての一試論》 (通称《利潤論》) を著して穀物法を擁護するマルサスを批判し,穀物の輸入制限は穀価騰貴=賃金騰貴によって利潤の減少と地代の増加をもたらすから,地主階級の利害と資本家・労働者階級の利害とは対立するとして, 差額地代論を中心に,価値論を除く,主著《経済学および課税の原理》(1817) の長期動態論の主要骨格を提示し,穀物の自由貿易への漸次的移行を提唱した。主著で展開された投下労働価値論からはリカード派社会主義やマルクス経済学が生まれ,また彼の差額地代論からはやがて土地国有化論が生まれた。 P.スラッファ編 (M.ドッブが協力) の《リカード全集》 (1951‐73) がある。     早坂 忠 (世界大百科事典)

第25段落
・要するに、実際に、G―W―G’は、直接に流通過程に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。
[PR]

by shihonron | 2009-11-17 23:45 | 学習ノート
2009年 11月 17日

第167回 11月17日 第4章 第1節 資本の一般的定式

11月17日(火)に第167回の学習会を行いました。前回の議論の確認をした後「第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式」の第16段落から最後(第25段落)までについてレジュメに基づいた報告を受け、検討しました。

以下は当日配布されたレジュメです。

                                    
『資本論』第1巻 第四章 貨幣の資本への転化    
 第三節 資本の一般的定式 (その2)

     
第19段落 資本家と貨幣蓄蔵者との違い ―― 流通を利用
(1)資本の運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家になる。
(2)価値の増殖が唯一の推進動機である限り、人格化された資本である。
(3)致富衝動は、資本家と貨幣蓄蔵者とに共通である。
  ①貨幣蓄蔵者は、狂気の沙汰の資本家(?)でしかない。貨幣を流通から救い出すことによって追求する。
  ②資本家は合理的な貨幣蓄蔵者である。貨幣を絶えず繰り返し流通にゆだねることによって、価値増殖
を達成する。

第20段落 G-W-Gでの自動的な運動主体 ―― 価値
(1)流通G-W-Gにおいては、商品と貨幣は共に価値そのものの、異なる実存様式として機能するに過ぎない。(貨幣は価値の一般的な実存様式、商品は価値の特殊な実存様式)
   注(11)「資本をつくるものは、素材ではなくて、この素材の価値である。」
(2)価値は、このG-W-Gという運動のなかで、一つの自動的な主体に転化する。
   貨幣、商品は、その循環運動の中で、資本が身につける特殊な現象形態である。
(3)しかし、実際には、価値はここでは、過程の主体になる。
   この過程の中で、価値である主体は、貨幣と商品とに絶えず形態を変換しながら、その大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から、剰余価値としての自己を突き出して、自己自身を増殖する。
(4)価値は、それが価値であるがゆえに価値を生むという、オカルト(摩訶不思議)な資質を受け取る。

第21段落 資本としての価値 ―― 貨幣形態とともに商品形態をも取らなければならない。
(1)このG-W-Gという過程の支配的な主体として、価値は何よりもまず、それによって価値の自己自身との同一性が確認されるような、一つの自立的形態を必要とする。
   この形態を価値は、ただ貨幣という形でもつ。
   それゆえ、貨幣はあらゆる価値増殖過程の出発点と終点をもつ。
(2)すべての商品は、貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡的手段である。

第22段落 W-G-Wと区別されたG-W-Gでの価値の役割 ―― 過程を進行し運動する主体
(1)W-G-W、単純な流通では、商品の価値は、使用価値に対してせいぜい貨幣という自立的形態を受け取るに過ぎない。
(2)G-W-Gでは、価値は突然に過程を進みつつある、みずから運動しつつある実体として現われる。この実体にとっては、商品および貨幣は二つの単なる形態にすぎない。
(3)価値はいまや、自己自身に対する私的な関係に入り込む。
   原価値としての自己を、剰余価値としての自己から区別する。
   前貸しされた貨幣は、剰余価値を獲得することによって、資本となる。

第23段落 本節の総括 ―― 資本とは、自己増殖する価値である
   価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になり、かくして資本となる。

第24段落 資本の一般的定式 ―― G-W-G’
(1)G-W-G’は、商人資本にだけ固有の形態のように見える。
(2)しかし、産業資本もそうだ。貨幣を商品に転化し、商品の販売によって自己をより多くの貨幣に再転化する。購買と販売との合間に流通部面の外部で行われるであろう諸行為は、この運動の形態を変えない。 
(3)利子生み資本は、G-G’である。

第25段落 資本の一般的定式
したがって、事実上、G-W-G’は、直接に流通部面に現われる資本の一般的定式である。
[PR]

by shihonron | 2009-11-17 23:30 | 学習会の報告
2009年 11月 11日

第166回 11月10日 第4章 第1節 資本の一般的定式

11月10日(火)に第166回の学習会を行いました。前回の続きで「第3節 貨幣 c世界貨幣」についての二つの疑問点について検討しました。そして「第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式」の第1段落から第15段落までについてレジュメに基づいた報告を受け、検討しました。

世界貨幣についての疑問をめぐって
「c世界貨幣」についての疑問の一つは、第5段落で「第二の運動-さまざまな国民的部面のあいだを絶えず往復する-「これは為替相場のやむことのない動揺のあとを追う運動」とあるが、それだけに限定されるのかという疑問でした。そして、これと関連して新たな疑問も出されました。第5段落の文章を先ず引用します。
 《金銀の流れの運動は二重のものである。一方では、金銀の流れはその源から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいっていったり、摩滅した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりする。この第一の運動は、諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている。他方では、金銀は各国の流通部面のあいだをたえず行ったり来たりしている。それは、為替相場の絶え間ない振動に伴う運動である。》(国民文庫253-254頁・原頁159)
 
新たな疑問は、第一の運動、金銀生産国から他国への金銀の流れについて《諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている》と述べられているが、それはどういうことなのかというものでした。「これまでの叙述の中で《貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる(国民文庫168頁・原頁107)》、《貴金属はその生産源では直接に他の商品と交換される。ここでは、売り(商品所持者の側での)が、買い(金銀所持者の側での)なしに行われる》と述べられていた。金銀の生産源での交換は、直接的生産物交換であることを言っているのではないか」という発言がありました。これに対して、「ここでは金銀生産国と他の国との間での金銀の流れについて問題視している。他国の商品が金銀の生産源で金銀と交換されるということがあるのだろうか? 金銀生産国でその生産源ではその国の商品と交換されると思える」、「結果としてみれば金銀生産国の金銀と他国の商品が交換されるのであり、そのことを直接的生産物交換だと述べているのではないか」といった発言がありました。明確な結論には至らず、今後の課題としました。

最初の疑問については、「為替が高騰し、為替を買うよりも輸送費を加えても現物の金で支払った方が有利な場合のことを言っているのではないか」という発言があり、これに対して「金本位制の下で為替相場が大きく変動することなどあるのだろうか」という疑問が出されました。マルクスが述べている時代の為替の実情がどんなものであったかを調べた上で検討することにしました。

もうひとつの疑問は、第6段落につけられている注113で《これらのさまざまな機能は、銀行券のための兌換準備金の機能が加わるやいなや、危険な衝突におちいることがありうる》とはどういう意味かというものでした。
 第6段落では《ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最小限に制限する。いくらかの例外はあるが、蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を超えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである》と述べ、《その独自な諸機能に必要な最小限に制限する。》という箇所に注113がつけられています。
 これについては「信用不安がある場合に銀行に対して多数の人々が兌換を求めると準備金が不足して兌換に応じられなくなるという事態、取り付け騒ぎのようなことを念頭に置いて述べているのではないか」という発言がありました。
 
この疑問に関連して「《蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を超えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである》と述べているが、恐慌の際のことを言っているのだろうか」「《蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を超えて目につくほどあふれる》とは、裏返して言えば流通貨幣量の減少のことだ。《商品流通の停滞または商品変態の流れの中断》とは簡単に言えば商品が売れないということであり不況や恐慌のことを念頭に述べているのではないか」、「蓄蔵貨幣の独自な諸機能とは、購買および支払準備金という理解でいいのだろうか」という疑問も出されました。 

以下は当日配布されたレジュメです。

第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式            

第1段落 商品流通を基礎に資本は生まれる
・商品流通は資本の出発点である。
・商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的前提をなしている。

第2段落 資本の最初の現象形態は貨幣である商品流通の過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれは過程の最後の産物として貨幣を見いだす。この貨幣は、資本の最初の現象形態である。

★商品の流通は、貨幣を生み出す。資本の本質が何であるかはまだ明らかにされていないが、資本の最初の現象形態は貨幣である。

第3段落 歴史的にも日々の現実においても資本はまず貨幣として登場する
歴史的には、資本は土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する。とはいえ、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。どの資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現すのは、相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化すべき貨幣としてである。

★市場として、商品市場、労働市場、貨幣市場の3つがあげられている。この3つの市場は、我々が分析しようとしている資本制的生産様式が支配的な社会(資本主義社会)に現に存在しているものであり、我々が日々目にしているものである。

第4段落 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣のさしあたりの相違
・貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。

第5段落 商品流通の直接的形態とは区別される資本としての貨幣の流通の形態
商品流通の直接的形態は、W―G―W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G―W―Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命(性格規定)から見れば、資本なのである。

第6段落 資本としての貨幣の流通の形態―売るために買う
・流通G―W―G
・第一の段階、G―W、買いでは、貨幣が商品に転化される。
・第二の段階、W―G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。
・二つの段階の統一は、売るために商品を買うという総運動である。
・その結果は、貨幣と貨幣との交換、G―Gである。
・私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。

★商品流通の直接的形態 W―G―W は、買うために売るであり、資本としての貨幣の流通の形態 G―W―G は、売るために買うである。

第7段落 循環G―W―GとW―G―Wとの形態的相違の特徴づけ
・貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのならば、流通過程G―W―Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白である。他方、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有の独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。
そこで、まず循環G―W―GとW―G―Wとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。そうすれば、同時に、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。

■下線部分は、フランス語訳では次のようになっている。
《どちらのばあいにも、彼の貨幣は特殊的、独創的運動をいつも描くのであって、たとえば小麦を売って上衣を買う農民の貨幣が通過する運動とは、全くちがう。》


第8段落 
まず両方の形態に共通なものを見よう。

第9段落 二つの形態に共通なもの
どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W―G、売りと、G―W、買いとに分かれる。二つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ二つの物質的要素が相対しており、また、買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた二人の人物が相対している。そして、どちらの場合にも、この統一は三人の当事者の登場によって媒介され、そのうちの一人はただ売るだけであり、もう一人はただ買うだけであるが、第三の一人は買いと売りを交互に行なう。

★図示すると以下のようになる。

・単純な商品流通

人物A   G――W      (買うだけ)
  

人物B   W――G――W   (売って買う)


人物C      W――G   (売るだけ)        

・資本としての貨幣の流通

人物A   W――G      (売るだけ)
    

人物B   G――W――G   (買って売る)


人物C      G――W   (買うだけ)   


第10段落 二つの循環では「売り」と「買い」の順序が逆であり、何が出発点と終点になるかが違っている
とはいえ、二つの循環W―G―WとG―W―Gとをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階の逆の順序である。単純な商品流通は売りで始って買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始って売りで終わる。前の方では商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点をなしている。第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全過程を媒介している。

★ ・W―G―W  売りではじまり買いで終わる 貨幣が全課程を媒介している
   ・G―W―G  買いではじまり売りで終わる 商品が全課程を媒介している

第11段落 二つの形態における貨幣の役割の違い―貨幣の最終的な支出と貨幣の前貸
流通W―G―Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。
だから、貨幣は最終的に支出されている。これに反して、逆の形態G―W―Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである。

★G―W―Gでは、商品を使用価値として消費するためではなく、その商品を売って貨幣を手に入れるために買う。貨幣は最終的に支出されるのではなく、前貸される。言いかえれば、貨幣は再び戻ってくることを目指して一時的に手放される。

第12段落 全過程を媒介するものの相違(第10段落で指摘したことを敷衍)形態W―G―Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。形態G―W―Gでは、同じ貨幣片ではなく、同じ商品が二度場所を替える。単純な商品の流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。

★第9段落のところでの図でいえば
・W―G―Wでは、貨幣はA→B B→Cと二度場所を替える。
・G―W―Gでは、商品がA→B B→Cと二度場所を替える。Bが手放した貨幣は最後 にはBのところに還流する。

■還流とはもともとは化学の用語で、発生した蒸気を冷却して凝縮液とし、再びもとの容器に戻すこと。 

第13段落 出発点への貨幣の還流が資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違
その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G―W―Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。要するに、その出発点への貨幣の還流が、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。

■《労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態、W―G―Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。それゆえ、このような商品の運動は循環である。他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。…商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、または貨幣の流通(currency,cours de la monnaie)である。》(「第3章第2節流通手段 b 貨幣の流通」 国民文庫204-205頁・原頁128-129)

第14段落 G―W―Gでは貨幣が還流する必要がある
・流通W―G―Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もない。
・G―W―Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。
というのは、過程の第二の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。

第15段落 一方の目的は消費(使用価値)であり、他方の目的は交換価値そのもの
循環W―G―Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で集結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環G―W―Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。

■長谷部訳では「推進的動機および規定的目的」(158頁)、新日本版では「推進する動機とそれを規定する目的」(255頁)、フランス語版では「その動機、決定的な目的」(132頁)となっている。

第16段落 G―W―Gは両極の量的な相違によってその内容が与えられる
単純な商品の流通 W―G―W の目的は、自分が必要とする使用価値を手に入れることにある。最初のWと最後のWは経済的形態においてはともに商品ではあるが、異なった使用価値である。他方、資本としての貨幣の流通 G―W―G’の目的は、最初の貨幣Gよりも多くの貨幣G’(最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分―剰余価値―)を手に入れることにある。価値増殖という運動が、価値を資本に転化させる。

第17段落 両極が等価であることが流通形態W―G―Wの正常な経過の条件
単純な商品の流通W―G―Wにあっては、最初のWと最後のWが質的に異なった使用価値である。その実質的な内容は、一商品とと他の一商品との交換である。ここでは、等価交換が正常な経過の条件である。

第18段落 資本としての貨幣の流通という運動には終わりがない
・買うための売りでは、消費(特定の諸欲求の充足)が目的であり、それには限度がある。、・売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。過程の終わりに出てくるものは、増殖した価値(増加した貨幣)であり、価値増殖過程を始めるのに適した形態にある。貨幣は運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。売りのための買いが行なわれる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしている。
・単純な商品流通――買いのための売り――は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。
・これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。
[PR]

by shihonron | 2009-11-11 08:30 | 学習会の報告
2009年 11月 04日

学習ノート 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 c 世界貨幣

第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 c 世界貨幣

■フランス語版の表題では《普遍的貨幣》となっている。

第1段落
・国内流通部面から外に出るときには、貨幣は価格の度量標準や鋳貨や補助貨や価値章標という国内流通部面でできあがる局地的な形態を再び脱ぎ捨てて、貴金属の元来の地金形態に逆もどりする。
・世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する。
・したがってまた、ここでは諸商品にたいしてそれらの独立の価値形態も世界貨幣として相対する。
・世界市場ではじめて貨幣は十分な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。
・貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる。

★貴金属が最初に貨幣となったときには、秤量貨幣(受渡しの際品位・重量の鑑定や秤量を必要とする貨幣)であった。それは地金形態であり、そこから鋳貨や価値章標へと発展した。だからマルクスは「逆戻りする」と述べている。

★国内では生産されない商品も存在する。それは貿易によって外国から輸入される。

★《世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する》とはどういう意味か?

■ universalには「宇宙の, 万有の, 全世界の; 万人の, 広く行われる; 普遍的な, 世間一般の; 万能の」という意味がある。

★《貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる》とはどういうことか? 世界貨幣とは金地金であり、金地金こそ「一般的等価物の機能を社会的に独占する商品」という貨幣の概念に適合する、国内流通部面での鋳貨や補助貨や価値章標は、貨幣概念に適合したといえないということではないか。

第2段落
・国内流通部面ではただ一つの商品だけが価値尺度として、したがってまた貨幣として、役立つことができる。
・世界市場では二とおりの価値尺度が、金と銀とが、支配する。

●一国内でも地域によって金と銀が価値尺度として機能することもある(江戸と大坂など)のではないかという発言がありました。

第3段落
・世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、富一般(universal wealth )の絶対的社会的物質化として機能する。
・支払手段としての機能は、国際貸借の決済のために、他の機能に優越する。
・それだからこそ、重商主義の標語――貿易差額!
・金銀が国際的な購買手段として役だつのは、おもに、諸国間の物質代謝の従来の均衡が突然攪乱されるときである。
・最後に、富の絶対的社会的物質化として役だつのは、購買でも支払でもなく、一国から他国への富の移転が行なわれる場合であり、しかも商品形態でのこの移転が、商品市場の景気変動や所期の目的そのものによって排除されている場合である。

■英語版では
Money of the world serves as the universal medium of payment, as the universal means of purchasing, and as the universally recognised embodiment of all wealth. Its function as a means of payment in the settling of international balances is its chief one. Hence the watchword of the mercantilists, balance of trade.
ここでは、一般的=普遍的だといえる。
「一般的」を意味する英語には、《全般的》general; 《普遍的》universal; 《普通》common.がある。

■《支払手段としての機能は、国際貸借の決済のために、他の機能に優越する》は、新日本版では《国際収支の差額を決済するための、支払い手段としての機能が[他の機能に]優先する。》、マルクスコレクション版では《支払い手段としての機能は、国際的な貿易差額を精算するために必要だから、他の機能にもまして重要である。》となっている。

●「国がちがえば、その生産のために等しい量の労働が支出されても、同じ価値をつけ加えたと言えるのだろうか。例えば中国の労働者が1時間の労働した場合と、日本の労働者が1時間の労働をした場合に、それが対象化された価値は等しくないのではないか」という疑問が出されました。これについては、全員で考えてみようということになりました。

第4段落
・各国はその国内流通のために準備金を必要とするように、世界市場流通のためにもそれを必要とする。
・だから、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通・支払い手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣の機能から生じる。
・後のほうの役割のためには、つねに現実の貨幣商品、生身の金銀が要求される。
・それだからこそ、ジェームズ・スティアートは、金銀を、それらの局地的代理物から区別して、はっきりと世界貨幣[money of the world]と呼んで特徴づけているのである。

■フランス語版では2つ目の文は《この準備金の機能は、一部が国内流通・支払い手段としての貨幣の機能に結びつき、一部が普遍的貨幣の機能に結びついている。》となっている。

★流通手段の機能――商品流通を媒介するという機能
《商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能を持つことになる。》(国民文庫204頁・原頁128)

★支払い手段の機能――掛売買で貨幣支払い約束に基づいて債務者が債権者に価値そのものを引き渡す際に果たす機能
《支払い手段は流通にはいってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から出て行ってからのことである。貨幣はもはや過程を媒介しない。貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立にとじる。》(国民文庫239-240頁・原頁150)

第5段落
・金銀の流れの運動は二重のものである。
・一方では、金銀の流れはその源から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面にいろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいって行ったり、摩滅した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりする。
・この第一の運動は、諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている。
・他方では、金銀は各国の流通部面のあいだをたえず行ったり来たりしている。
・それは、為替相場の絶え間ない振動に伴う運動である。

■《貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の各商品の量で表現される。このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる。》(国民文庫168頁・原頁107)
《貴金属はその生産源では直接に他の商品と交換される。ここでは、売り(商品所持者の側での)が、買い(金銀所持者の側での)なしに行なわれる。》(国民文庫231頁・原頁145)

■外国為替 がいこくかわせ
国際間の債権債務を現金輸送によらずに決済する方法。外貨預金制度の発達した今日では,自国貨をもって外貨債権を売買すること,すなわち市場を通じる異種通貨の交換と解される。外国為替手形を用い,外国為替銀行がその売買を仲介する。通貨の交換比率が為替相場である。(マイペディアより)

第6段落
・ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最小限に制限する。
・いくらかの例外はあるが、蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を超えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである。

▲11月23日に誤字を訂正しました。
[PR]

by shihonron | 2009-11-04 23:30 | 学習ノート
2009年 11月 03日

第165回 11月3日  第3章 第3節 貨幣 c 世界貨幣


11月3日(火)に第165回の学習会を行いました。「第3節 貨幣 c世界貨幣」でをレジュメに基づいた報告を受け、検討しました。以下はレジュメです。

第3章貨幣または商品流通 第3節 貨幣 c 世界貨幣

第1段落
・貨幣は国内の流通から外へ歩み出るとき、価格の度量標準、鋳貨、補助鋳貨、および価値章標という局地的諸形態を脱ぎ捨てて、貴金属のもともとの地金形態に逆戻りする。
・世界市場においてはじめて、貨幣は、その自然的形態が同時に“抽象的”人間的労働の直接的に社会的な具現形態である商品として、全面的に機能する

第2段落
・国内の流通部面では、ただ一つの商品だけが、価値尺度として、それゆえまた貨幣として役立つことができる。
・世界市場では二重の価値尺度、金と銀とが、支配する。
(注)金銀の比価の変動が著しい→金銀両方の蓄蔵が求められる。
しかし?金を生産する労働が増大したのに銀を生産する労働は減少→ますます銀の価値は低下し続ける→銀は世界市場において貨幣資格を失うであろう(エンゲルス)。

第3段落
・世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、および、富一般(“普遍的富”)の絶対的社会的物質化として機能する。
・重商主義のスローガン―貿易差額を!
・富の絶対的社会的物質化として役立つのは、一国から他国への富の移転が問題である場合、商品形態によるこの移転が排除される場合である。

第4段落
・どの国も、世界市場流通のためにも準備金を必要とする。したがって、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通手段および支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての機能から生じる。このあとのほうの役割においては、つねに、現実の貨幣商品、生身の金銀が必要とされる。だからこそ、ジェイムズ・ステュアトは、金銀を、その単に局地的な代理物特別して、はっきりと“世界貨幣”として性格づけるのである。

第5段落
・金銀の流れの運動は、一つの二重運動である。一面では、その流れは産源地から世界市場の全体に広がり、→摩滅した金銀鋳貨を補填し、奢侈品の材料を提供し、また蓄蔵貨幣に凝結する。この第一の運動は、諸商品に実現された国民的労働と貴金属に実現された金銀産出諸国の労働との直接的交換によって媒介されている。
・他面、金銀は、さまざまな国民的流通部面のあいだを絶えず往復する。これは、為替相場のやむことのない動揺のあとを追う運動である。

第6段落
・ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行という貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能のために必要とされる最小限にまで制限する。
・貯水池があふれるということは-例外を除き-商品流通の停滞か、または商品変態の流れの中断を指し示すものである。

疑問点

(1)第2段落の注108
「金と銀とが支配する」につけられているが、その注では銀がその役割を後退させ、金のみになりそうなことを述べているのではないか?また現実はどうなっているのか?

(2)第3段落
 「さまざまな国民のあいだにおける素材変換の従来の均衡が突然攪乱されるたびに、金銀は本質的に国際的購買手段として役立つ」←なぜ購買手段としてだけとりあげるのか?

(3)第5段落
 第二の運動-さまざまな国民的部面のあいだを絶えず往復する-「これは為替相場のやむことのない動揺のあとを追う運動」とあるが、それだけに限定されるのか?

(4)第6段落の注113
 「これらのさまざまな機能は、銀行券のための兌換準備金の機能が加わるやいなや、危険な衝突におちいることがありうる。」の意味は?
[PR]

by shihonron | 2009-11-03 23:30 | 学習会の報告