『資本論』を読む会の報告

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2010年 01月 26日

第174回 1月26日 第5章 第1節 労働過程

 1月26日(火)に第174回の学習会を行いました。
 「172回・173回の報告」のペーパーをもとに前回までの復習をしました。ペーパーの中で、《第17段落の冒頭で「労働過程で役立っていない機械は無用である」と述べられていることに関連して、この「労働過程で役立っていない機械」をどう理解するかで議論がありました。「故障している機械のことではないか」という発言がありましたが、これに対して「《生きている労働は、労働手段と労働対象をつかまえ、生き返らせて》という表現をマルクスはしている。故障している機械ということではなく、生きた労働と結びついていない使われていない機械と理解すべきではないか」との発言があり、故障している機械と理解するのはおかしいとの結論になりました。》と書かれていることについて、「故障している機械も労働過程で役立たないので、故障している機械だけではなく、使われていない機械とした方がいい。マルクスは恐慌時に生産が行われないことなどを念頭に置いていたのではないか」との発言があり、その通りだとの結論になりました。
 
 「第5章 第1節 労働過程」の第19段落から最後(第25段落)までをレジュメに基づいた報告を受けて検討しました。
 第21段落について議論になりました。レジュメでは以下のように書かれていました。
----------------------------以下引用----------------------------------------------------
第21段落 これまで述べてきたような労働過程は歴史貫通的
・これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通の物である。
・それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである。
・一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。

★《単純な抽象的な諸契機》とは、労働そのもの、労働対象、労働手段のこと。

★「《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》とは、どのような生産関係のもとでの生産であるかということではないか。
---------------------------引用終わり----------------------------------------------------------

 最後のところで述べられている《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》を生産関係と理解するのは正しいのだろうかという疑問が出され、「協業などのことを念頭に述べているのではないか」との発言もありました。レジュメの作成者は「これまで明らかにされた労働過程は、どんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されていて、そのことを述べていると考えてこのように書いたが、生産における人と人との関係が生産関係であり、《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》というのが生産関係というのは不適切かもしれない。生産の仕方という意味での生産様式といえるかもしれない」と述べました。

 第22段落の中で《すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させる。労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変らない。また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家の介入によって変るわけではない。資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである。》と述べられていることについて、「《資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。》という箇所は資本の本源的蓄積のところで述べられているようなことが念頭に置かれているのだろうか。市場で彼の前にあるがままの労働力とは、どんな労働力なのか。資本家がまだいなかった時代とは封建制の解体期以前だろうがそこで生じた形のままという労働はどういうものだろうか」との疑問が出され、「囲い込み運動などで路頭に追いやられたかつての農民などのこと言っているのではないか、また資本家がまだいなかった時代に生じた形とは、手工業ということではないか」との発言がありました。

■包摂 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 包摂(ほうせつ、subsumption)とは、経済・社会が、その本来の諸関係にとって外生的な存在を取り込む過程をいう。はじめ、マルクスの論文「直接的生産過程の諸結果」において、「労働の形式的・実質的包摂」としてこの用語が用いられ、後に、労働(技術)以外の外生的な要素を取り込む場合の概念に拡張された。
 経済・社会は、捨象して抽象化することが可能な人間相互の関係である。他方、現実の経済・社会は、自然科学の法則を合目的的にシステム化した技術、生物としての人間、自然環境、空間など、ざまざまの外生的な存在を取り込まない限り存続することができない。
 これらはいずれも、自然的存在であって、自然科学が究明する独自の運動法則をもつ統一体である。経済や社会は、このような自然的存在のうち有用な性質だけを取り込んで(包摂して)活用しようとするが、自然は統一体として存在しているのであるから、有用な性質の包摂は、同時に、経済・社会にとって障害となる要素も同時に包摂せざるを得ないことを意味する。その結果、この障害となる要素が、経済・社会にさまざまの否定的帰結をもたらす。これが、経済・社会にとって外生的なものの形式的包摂(formal subsumption)である。
 そこで、経済・社会の主体は、この自然の存在が障害をもたらさないように、この自然存在を作り変えなければいけない。これは、経済・社会による人為的な自然の生産過程である。人為的自然が適切に生産されれば、形式的包摂に際して存在していた障害は消滅する。これにより、経済・社会は、外生的な自然を実質的包摂(real subsumption)したことになる。
 マルクスが用いた例で具体的に示そう。マニュファクチュア期の熟練技術が資本主義の生産様式に形式的包摂されると、技術を自己の身体に体化している熟練労働者は資本に対し高い地位を保有し、頑固な熟練労働者の言うことに社長が従わない限り、生産は出来ない。また、熟練労働者は容易に養成できないため、拡大再生産が困難で、資本蓄積の障害となる。そこで、技術体系そのものを作り直し、熟練を排除した機械制大工業のシステムが構築される。これが、労働(技術)の実質的包摂である。機械を用いれば未熟練労働者でも生産が出来るようになるし、機械に設備投資さえすれば任意に生産規模を拡大できる。これによって資本の労働に対する優越性は確保され、資本蓄積の障害は解消する。すなわち、テーラーシステムのようなコンベアを用いた大量生産の過程は、労働(技術)の実質的包摂の帰結である。アメリカの労働経済学者ブレイヴァマンはこれを、「訓練されたゴリラでも出来る」作業であり「労働の低質化」だと指摘した。

 第25段落で《生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者のものではない。資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払う。そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その一日は彼のものである。労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである。》と述べていることについて、マルクスは後に資本家による搾取について明らかにしているが、ここでこのように書いていることと矛盾するのではないかという疑問が出されました。また、これと関連して不払労働という用語は適切なのかという疑問も出されました。
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by shihonron | 2010-01-26 23:30 | 学習会の報告
2010年 01月 19日

第173回 1月19日 第5章 労働過程

 1月19日(火)に第173回の学習会を行いました。
 レジュメにもとづく報告を受け、「第5章 労働過程」の第7段落から第18段落までを検討しました。

 前回学習したところについて、「第5段落で《労働手段は、人間の労働力の発達の測定器であるだけでなく、労働がその中で行われる社会的諸関係の表示器でもある》と述べられているが、労働手段かがどんな物であるかによって生産関係が明らかになるといえるのだろうか」との疑問が出されました。これについて「機械制大工業は資本主義になって始めて登場する、機械という労働手段は資本制的生産関係を表示するといえるのではないか」「機械についてはそういえるとしても、道具などから正確に生産関係が分かるというものではない。かなりおおざっぱな話としてならいいが」、「労働手段は生産力の発展段階を示していて、生産関係は生産力の発展によって規定されるということではないか」といつた発言がありました。

 第7段落に関連してレジュメで「労働の結果は、使用価値という物の性質(静止した性質・静止的な属性)として表されている。これが労働の対象化(労働が物の属性として現れること)である。ここでは、具体的有用的労働の対象化について述べている。他方、商品の価値は、商品に対象化した抽象的人間的労働である。」と書かれていることについて「抽象的人間的労働はどんな社会についても語ることのできる概念なのだから、ここで具体的有用的労働の対象化だと述べているが、具体的有用的労働と抽象的人間的労働のどちらの側面も持った労働の対象化だといえないか」との意見が出され、「第5章第1節では労働過程をどんな社会的形態にもかかわりなく考察することが課題であり、どんな社会でもなされる使用価値の生産について述べているのだから、抽象的人間的労働の対象化については問題にならないのではないか。抽象的人間的労働が対象化して商品の価値として現れるのは商品生産社会(資本主義社会)においてのことではないか。」との発言がありました。

 第8段落の注7で「このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない。」と書かれていることについて「単純な労働過程」をどう理解するかで議論がありました。「この単純な労働過程というのは単純商品の生産ということではないか」という意見が出され、それに対して「ここでの単純な労働過程とは、どんな社会的形態にもかかわりのない、労働過程という意味ではないか」「ここで述べられている生産的労働は、物質的生産のことであり、資本主義のもとでは物質的生産と言うこととは別に資本家に利潤をもたらす労働が生産的労働とされることを念頭に置いていると思う」の発言がありました。
 『資本論辞典』では、「第一の意味――使用価値を生産する労働としての生産的労働」「第二の意味――剰余価値を生産する労働としての生産的労働」について述べています。また、教師の労働については「資本家がその資本を彼らの労働と交換し、そして彼らのサーヴィスを公衆に販売すれば、その資本は賃金を回収し、剰余価値を取得しうる。医者、俳優なども同様である。」と述べ、また商業的賃労働者の労働について「彼らの労働は価値・剰余価値を生産しないが、商業資本家のために剰余価値の取得を創造するのであって、商業資本にとっては彼らの不払い労働は利潤の源泉であり、その意味で商業労働は商業資本にとっては直接に生産的である」と述べてます。

 第13段落で「同じ生産物が同じ労働過程で労働手段としても原料としても役だつことがある。たとえば家畜の肥育では、家畜という加工される原料が同時に肥料製造の手段でもある。」と述べられていることに関連して、「家畜は役畜として労働手段になる、例えば鋤を引かせると理解できないか」という疑問が出され、「ここでは同じ労働過程が肥育でもあり肥料生産でもあることについて述べているので役畜のことではないだろう」との発言がありました。また、「家畜を加工される原料と言うのには違和感がある」との意見が出され、「ここでの原料は労働生産物である労働対象という意味で理解すればいいのではないか。子牛の生産には労働が必要であり、労働生産物である子牛を労働対象として肥育するということだろう」との発言がありました。

 第17段落の冒頭で「労働過程で役立っていない機械は無用である」と述べられていることに関連して、この「労働過程で役立っていない機械」をどう理解するかで議論がありました。「故障している機械のことではないか」という発言がありましたが、これに対して「《生きている労働は、労働手段と労働対象をつかまえ、生き返らせて》という表現をマルクスはしている。故障している機械ということだけではなく、生きた労働と結びついていない使われていない機械と理解すべきではないか」との発言があり、故障している機械と理解するのはおかしいとの結論になりました。

2月3日に一部訂正しました。
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by shihonron | 2010-01-19 23:30 | 学習会の報告
2010年 01月 05日

第172回 1月5日 第5章 労働過程

1月5日(火)に第172回の学習会を行いました。
前回学習した箇所と関連して「第2編のタイトルは〈貨幣の資本への転化〉となっているが、実際に貨幣が資本に転化することを明らかにしているとはいえないのではないか。生産過程での剰余価値の生産によって貨幣は資本に転化する。その内容は第5章で展開されている。それは第2章のタイトルが〈交換過程〉となっていても実際の交換過程の内容については〈第3章第2節流通手段a商品の変態〉で展開されているのと同様に思える」との意見が出されました。これに対して「すべてのことを一挙に明らかにすることはできないので、叙述が進むに連れて説明の内容が豊かになるとはいえるが、第2編ではまず資本の一般的定式を取り上げ、その矛盾を明らかにすることを通じて、労働力という独特な商品の存在が貨幣の資本への転化を可能にすることを説いている。そこではまだ生産過程のなかでどのようなことが行われるかについて詳しい説明は与えられていないが、貨幣の資本への転化について書かれていないというのはどうかと思う」、「第2編の内容を表すタイトルとしては〈貨幣の資本への転化の前提〉がふさわしいと言うことだろうか。」との発言がありました。〈第2章交換過程〉のことも含めて検討することを今後の課題としました。

「第5章第1節 労働過程」の第1段落から第6段落までをレジュメに基づいた報告を受けて検討しました。

 問題になったのは、「土地」をどのようにとらえればいいのかということでした。「単に土地=地面というよりは、大地とか地球や自然といった感じではないか」との発言がありました。土地については次のように述べられていますが、調べてみると、土地と訳されている単語は英語版ですべてが同じではありませんでした。

「人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地(経済的には水もそれに含まれる)は、人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的対象として存在する」(第4段落)
The soil (and this, economically speaking, includes water) in the virgin state in which it supplies [1] man with necessaries or the means of subsistence ready to hand, exists independently of him, and is the universal subject of human labour.
■英語版ではsoil―土, 土壌; 農業; 土地; 国; (悪の)温床。

「土地は彼の根源的な食糧倉庫であるが、同様にまた彼の労働手段の根源的な武器庫でもある。それはたとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石を提供する。土地はそれ自身一つの労働手段ではあるが、それが農業で労働手段として役立つためには、さらに一連の他の労働手段とすでに高度に発達した労働力とを前提する。」(第5段落)
As the earth is his original larder, so too it is his original tool house. It supplies him, for instance, with stones for throwing, grinding, pressing, cutting, &c. The earth itself is an instrument of labour, but when used as such in agriculture implies a whole series of other instruments and a comparatively high development of labour.
■英語版ではthe earth――(普通the 〜) 地球; この世, しゃば, 俗界; (the 〜) 世界中の人々; 陸地, 大地; 地面; 土;

「もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに数えるものとしては、その対象への労働の働きかけを媒介ししたがってあれこれの仕方で活動の導体として役だつ物のほかに、およそ過程が行なわれるために必要なすべての対象的条件がある。それらは直接には過程にはいらないが、それらなしでは過程はまったく進行することができないか、またはただ不完全にしか進行することができない。この種類の一般的労働手段はやはり土地そのものである。なぜならば、土地は、労働者に彼の立つ場所[ locus stand]を与え、また彼の過程に仕事の場所[field of employment]を与えるからである。この種類のすでに労働によって媒介されている労働手段は、たとえば作業用の建物や運河や道路などである。」(第6段落)
In a wider sense we may include among the instruments of labour, in addition to those things that are used for directly transferring labour to its subject, and which therefore, in one way or another, serve as conductors of activity, all such objects as are necessary for carrying on the labour-process. These do not enter directly into the process, but without them it is either impossible for it to take place at all, or possible only to a partial extent. Once more we find the earth to be a universal instrument of this sort, for it furnishes a locus standi to the labourer and a field of employment for his activity. Among instruments that are the result of previous labour and also belong to this class, we find workshops, canals, roads, and so forth.
■英語版ではthe earth―(普通the 〜) 地球; この世, しゃば, 俗界; (the 〜) 世界中の人々; 陸地, 大地; 地面; 土;
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by shihonron | 2010-01-05 23:30 | 学習会の報告
2010年 01月 05日

第5章 第1節 労働過程のレジュメ その1

レジュメ 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程                   
                          
第1段落 労働過程をどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察することが課題
・労働力の使用は労働そのものである。
・彼の労働を商品に表わすには、彼はそれをなによりも使用価値に、なにかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に表わさなければならない。だから、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある一定の品物である。
・使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのである。

★ここでは「第1節 労働過程」の課題が示されている。それは、労働過程をどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察することである。別言すれば、有用労働一般の運動を考察することである。

■フランス語版では次のようになっている。
《労働力の売り手が商品を生産するためには、彼の労働は有用でなければならない。すなわち、使用価値のうちに実現されなければならない。したがって、資本家が自分の労働者に生産させるものはある個別的な使用価値、ある個別的な物品である。》《したがってわれわれは、社会のあれこれの経済的発展段階が有用労働に刻印するかもしれない個々の独自性はすべて度外視して、まず、有用労働一般の運動を考察しなければならない。》(上巻167頁)

第2段落 労働の持つ意義、労働は合目的的行動
・労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程であり、人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行動によって媒介し、規制し、制御する。
・人間は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間はこの運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然[天性]を変化させる。彼は、彼自身のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。
・労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心像のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化を引き起こすだけではない。彼は自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。
・その目的は彼が知っているものであり、法則として彼の行動を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである。そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が労働継続期間全体にわたって必要である。

★労働は、①人間と自然の間の物質代謝を媒介し、②自然に働きかけて変化させると同時に自分自身の自然[天性]を変化させる(さまざまな能力を獲得する)。また労働は、合目的的な行動である。

■《労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。》(国民文庫85頁・原頁57)

第3段落 労働過程の3つの契機
・労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。

★労働過程の3つの単純な契機 ①労働そのもの ②労働対象 ③労働手段

第4段落 労働対象――天然に存在する労働対象と労働生産物である原料
・人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地(経済的には水もそれに含まれる)は、人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的対象として存在する。
・労働によってただ大地との直接的な結びつきから引き離されるだけの物は、すべて、天然に存在する労働対象である。それは、たとえばその生活要素である水から引き離されて捕らえられる魚であり、原始林で伐り倒される木であり、鉱脈からはぎ取られる鉱石である。
・これに反して、労働対象がそれ自体すでに過去の労働によって濾過されているならば、われわれはそれを原料と呼ぶ。ば、すでにはぎ取られていてこれから洗鉱される鉱石はそれである。

★土地は人間労働の一般的対象である。

★労働対象には、天然に存在する労働対象と労働生産物である原料がある。

第5段落 労働手段
・労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役だつ物またはいろいろな物の複合体である。
・労働者は、いろいろな物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる。
・労働者が直接に支配する対象は――完成生活手段、たとえば果実などのつかみどりでは、彼自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつのであるが、このような場合を別として――労働対象ではなく、労働手段である。
・土地は彼の根源的な食糧倉庫であるが、同様にまた彼の労働手段の根源的な武器庫でもある。それは、たとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石を提供する。
・土地はそれ自身一つの労働手段ではあるが、それが農業で労働手段として役立つためには、さらに一連の他の労働手段とすでに比較的高度に発達した労働力とを前提する。
・およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された労働手段を必要とする。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具や石製の武器が見いだされる。加工された石や木や骨や貝殻のほかに、人類史の発端では、馴らされた、つまりそれ自身すでに労働によって変えられた、飼育された動物が、労働手段として主要な役割を演じている。
・労働手段の使用や創造は、人間特有の労働過程を特徴づけるものである。
・死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遺物がもっているのである。
・なにがつくられたかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測定器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある。

■《労働者は、いろいろな物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる。》は、新日本出版社版では《彼は、それらの諸物を彼の目的に応じて、他の諸物に働きかける力の手段として作用させるために、それらの物の機械的・物理的・化学的諸属性を利用する。》(308頁)となっている。また、長谷部訳では《彼は諸物を、能力手段として他の諸物に――彼の目的に応じて――作用させるために、それらのものの力学的・物理学的・化学的な属性を利用する。》(152頁)とされている

■《死滅した動物種属の体制》は、新日本出版社版では《絶滅した動物種属の身体組織》(309頁)となっている。

第6段落 もっと広い意味での労働手段――土地や建物など
・もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに数えるものとしては、その対象への労働の働きかけを媒介ししたがってあれこれの仕方で活動の導体として役だつ物のほかに、およそ過程が行なわれるために必要なすべての対象的条件がある。それらは直接には過程にはいらないが、それらなしでは過程はまったく進行することができないか、またはただ不完全にしか進行することができない。この種類の一般的労働手段はやはり土地そのものである。なぜならば、土地は、労働者に彼の立つ場所[ locus stand]を与え、また彼の過程に仕事の場所[field of employment]を与えるからである。この種類のすでに労働によって媒介されている労働手段は、たとえば作業用の建物や運河や道路などである。

★労働が行われるために必要なすべての対象的条件(物的条件)は労働手段である。

第7段落 労働過程とその結果である生産物
・要するに労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化を引き起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。
・労働はその対象と結びつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。
・労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物のうちに現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたのである。

★労働の結果は、使用価値という物の性質(静止した性質・静止的な属性)として表されている。これが労働の対象化(労働が物の属性として現れること)である。ここでは、具体的有用的労働の対象化について述べている。他方、商品の価値は、商品に対象化した抽象的人間的労働である。

★労働過程とその結果について次のように述べていると思われる。労働過程では、労働は流動状態にある=労働そのものであり、「過程」「運動」である。その結果は、「静止した性質(属性)」として「存在の形態」として生産物のうちに現われる。

第8段落 生産物の立場から見れば――生産手段と生産的労働
・この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。

★「生産物の立場」とは、「労働過程の結果の立場」「静止した性質の立場」である。

第9段落 生産物は、労働過程の結果であるだけではなく、同時にその条件でもある 
・ある一つの使用価値が生産物として労働過程から出てくるとき、それ以前のいくつもの労働過程の生産物である別の使用価値は生産手段としてこの労働過程にはいっていく。この労働の生産物であるその同じ使用価値が、あの労働の生産手段になる。それだから、生産物は、労働過程の結果であるだけではなく、同時にその条件でもあるのである。

★例えば、布は織布という労働過程の生産物であるが、糸は生産手段としてこの労働過程に入っていく。製糸という労働過程の生産物である糸が、織布労働の生産手段になる。糸は、製糸という労働過程の結果であるだけではなく、織布という労働過程の条件でもある。また織機は機械製造という労働過程の生産物であるが織布という労働過程の生産手段になる。織機は、機械製造という労働過程の結果であるだけではなく、織布という労働過程の条件でもある。

第10段落 労働対象が天然に与えられている場合の他は原料が労働対象
・鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを開墾するかぎりで)のように、その労働対象が天然に与えられている採取産業を除いて、他のすべての産業部門が取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。たとえば農業における種子がそれである。
・特に労働手段について言えば、その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示しているのである。

★開墾とは山野を切り開いて新しく田畑にすることだが、それを採取産業と呼ぶのは適切ではないように思う。これ以前の叙述では一貫して土地は労働手段だとされていたが、、処女地そのものの開墾においては、処女地そのものが労働対象であり、開墾された土地は労働手段といえるのではないか(土地は作物栽培の手段であり、種子が労働対象といえよう)。原始林を伐採する場合には、切られる樹木が労働対象であり、自生している果実をもぎ取る場合なら、もぎとられる果実が労働対象であろう。

第11段落 生産物の主要実体(主要材料)と補助材料
・原料は、ある生産物の主要実体をなすことも、またはただ補助材料としてその形成に加わることもありうる。
・補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草がひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。
・主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになる。なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として現われるものはなにもないからである。

■後の箇所では《原料と補助材料》という言い方もされている。
《要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。》(国民文庫363頁・原頁223)

■原材料(げんざいりょう、英語:raw material)とは、物(製品など)を製造するための元になる物。
原材料は原料と材料を組み合わせた言葉である。両者とも似たような言葉ではあるが、違いとしては原料は通常、物(製品など)が完成したときに原型をとどめていない物のことを指す。(『ウィキペディア』より)

第12段落 同じ生産物がさまざまな労働過程の原料になる
・物はそれぞれさまざまな性質をもっており、したがっていろいろな用途に役立つことができるので、同じ生産物でも非常にさまざまな労働過程の原料になることができる。たとえば穀物は製粉業者や澱粉製造業者や酒造業者や飼畜業者などにとって原料である。それは、種子としてはそれ自身の原料になる。
・同様に、石炭は生産物としては鉱山業から出てくるが、生産手段としてはそれにはいっていく。

★《石炭が生産手段として鉱山業にはいっていく》とは、水をくみ上げるポンプなどの蒸気機関の燃料になるといったこと。

第13段落  同じ生産物が同じ労働過程で労働手段としても原料としても役だつ
・同じ生産物が同じ労働過程で労働手段としても原料としても役だつことがある。
・たとえば家畜の肥育では、家畜という加工される原料が同時に肥料製造の手段でもある。

★ここでは同じ労働過程が、家畜の生産(肥育)と肥料製造という二つの側面をもっているということだろう。家畜の生産においては、家畜は労働対象(原料)であり、肥料製造においては、糞尿が労働対象、家畜が労働手段ということである。肥料製造において家畜が労働手段であるというのは、穀物生産において、土地が労働手段(労働対象は穀物)であることと同様に理解できる。

第14段落 原料としての生産物のいろいろな形態――中間製品と完成品
・消費のために完成された形態で存在する生産物が、たとえばぶどうがぶどう酒の原料になるように、新しく別の生産物の原料になることもある。
・または、労働がその生産物を、再び原料として使うよりほかにはないような形態で手放すこともある。この状態にある原料、たとえば綿花や繊維や糸などのようなものは、半製品とよばれるが、中間製品と呼ぶほうがよいかもしれない。
・最初の原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、いろいろな過程から成っている一つの全段階を通らなければならないことがあり、その場合には、それを完成生活手段または完成労働手段として押し出す最後の労働過程にいたるまでの各課程で、絶えざる変化する姿で絶えず原料として機能するのである。

■「半製品」と呼ばれる物として国民文庫版では、《綿花や繊維や糸など》があげられているが、フランス語版では《綿花や糸やキャラコなど》、長谷部訳では《綿花・縫糸・織糸など》、マルクス・コレクションでは《綿花、糸、撚糸》となっている。
   【綿花】ワタの種子を包む繊維。紡いで綿糸とする。
   【繊維】微細な糸状物質。
   【糸】繊維が長く線状に連続したもの。綿糸・毛糸など短い繊維を紡績したものと、生糸・合成繊維など長い繊維からなるものがある。
   【キャラコ】緻密に織った薄地平織り綿布。
   【撚糸】糸によりをかけること。また、よりをかけた糸。
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by shihonron | 2010-01-05 22:30 | レジュメ
2010年 01月 05日

第5章 第1節 労働過程のレジュメ その2

第15段落 原料か労働手段か生産物かは使用価値が労働過程で占める位置による
・要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物のうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程で行なう特定の機能、それがそこで占める位置によるのであって、この位置が変ればかの諸規定も変るのである。

第16段落 労働過程に入った生産物は生きてい労働の対象的条件として機能するだけ
・それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失うのである。それは、ただ生きてい労働の対象的条件として機能するだけである。紡績工は、紡錘を、ただ自分が紡ぐための手段としてのみ取り扱い、亜麻を、ただ自分が紡ぐ対象としてのみ取り扱う。この過程そのものでは、亜麻や紡錘が過去の労働の産物だということはどうでもよいのである。

第17段落 生きている労働は生産手段を消費して生産物を生み出す 
・生きている労働は、労働手段と労働対象をつかまえ、生き返らせて、単に可能的な使用価値から現実の有効な使用価値に変えなければならない。
・生きている労働は生産手段を目的に適するように消費して生産物を生み出す。生産物には生活手段と生産手段がある。生活手段は個人的消費の対象であり、生産手段は、生産的消費の対象であり、新しい生産物の形成要素として消費される。

■《商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の種類は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、つまり受用の対象としてか、それとも回り道をして生産手段としてかということも、問題ではない。》(国民文庫71-72頁・原頁49)

第18段落 生きている労働によって過去の労働の生産物は使用価値として維持される 
・このように、現にある生産物は労働過程の結果であるだけではなくてその存在条件でもあるとすれば、他面では、それを労働過程に投げ入れることは、つまりそれが生きている労働に触れることは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。

★使用価値の実現とは消費することであり、ここでは生産的に消費されることで使用価値の実現がなされることを述べている。

第19段落 生産的消費と個人的消費
・労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって消費過程である。
・この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費するということである。
・それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別の生産物である。

■長谷部訳で次のようになっている。
《労働は、それらの質料的諸要素――それの対象とそれの手段――を消費し、それらを食い尽くすのであり、つまり消費過程である。》

第20段落 生産手段としての生産物や自然素材の利用
・その手段やその対象がそれ自身すでに生産物であるかぎりでは、労働は、生産物をつくるために生産物を消費する。
・言い換えれば、生産物の生産手段として生産物を利用する。
・しかし、労働過程が元来はただ人間とその助力なしに存在する土地とのあいだだけで行なわれるように、今もなお労働過程では、天然に存在していて自然素材と人間労働との結合を少しも表わしてはいない生産手段も役立っているのである。

■《元来は》は、長谷部訳と新日本出版社版では《本源的には》となっている。また、マルクス・コレクションでは《しかし、もともと労働過程は人間と、人間の手が加わることなく存在していた大地との間にのみ生じたものである。》(272頁)となっている。

第21段落 これまで述べてきたような労働過程は歴史貫通的
・これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通の物である。
・それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである。
・一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。

★《単純な抽象的な諸契機》とは、労働そのもの、労働対象、労働手段のこと。

★「《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》とは、どのような生産関係のもとでの生産であるかということではないか。

■「第1章 第2節 労働の二重性」では次のように述べられていた。
《人間は、衣服を着ることの必要に強制されたところでは、だれかが仕立屋になるよりも何千年も前から裁縫をやってきた。しかし、上着やリンネルなど、すべて天然には存在しない素材的富の要素の存在は、つねに特殊な自然素材を特殊な人間欲望に適合させる特殊な合目的的生産活動によって媒介されなければならなかった。それゆえ、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。
 使用価値である上着、リンネルなど、簡単に商品体は、二つの要素の結合物、自然素材と労働の結合物である。上着やリンネルなどに含まれるいろいろな有用労働の総計を取りさってしまえば、あとには常に或る物質的な土台が残るが、それは人間の助力なしに天然に存在するものである。人間は、彼の生産において、ただ自然がやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。この形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力にささえられている。だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、ただひとつの源泉なのではない。ウィリアム・ペティの言うように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である。》(国民文庫85頁・原頁57-58)

第22段落 生産手段と労働力を購入した将来の資本家のところへ帰る
・われわれの将来の資本家のところに帰ることにしよう。
・われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要な要因のすべてを、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを買ってからのことだった。
・彼は、抜け目のないくろうとの目で、紡績業とか製靴業とすいうような彼の専門の営業に適した生産手段と労働力とを選び出した。
・そこで、われわれの資本家は、自分の買った商品、労働力を消費することに取りかかる。
・すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させる。
・労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変らない。
・また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家の介入によって変るわけではない。
・資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。
・労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである。

★《われわれの将来の資本家》という表現が使われているのは、流通部面で生産手段と労働力を購入した貨幣所有者は、潜勢的に資本家であるに過ぎず、生産過程を経てはじめて実際に資本家になるからではないか。

■「第4章 貨幣の資本への転化」の第22段落では次のように述べられていた。
《この単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準をとってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変っている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者として後についていく。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんののぞみもない人のように。》(国民文庫309頁・原頁190-191)

★《労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化》について、「ここでの生産様式は、《長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方》と述べられているように生産の特定の仕方(生産方法)のことであり、資本主義にふさわしい生産の仕方(生産方法)とは大工業のことであろう。

■『資本論辞典』(青木書店刊)では《生産様式という語は、より狭くは、直接的生産過程において労働の技術的および社会的条件に制約された〈生産の仕方〉ないし〈生産の方法〉の意味に用いられる。》と述べられている。

第23段落 資本家による労働力の消費過程が示す2つの特有な現象  
・ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行なわれるものとしては、二つの特有な現象を示している。

第24段落 ①労働者の労働は資本家に属し、資本家の監督の下で行われる
・労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。
・資本家は、労働が整然と行なわれて生産手段が合目的的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具が大切にされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむを得ないかぎりでしか損傷されないように、見守っている。

■英語では、指揮は command 監督は control である。

■《[指揮および監督の機能は資本に属する]多くの労働者による社会的な労働は指揮を必要とすし、それを行なう指揮者を必要とする。資本によって実現される協業では、指揮の機能は資本に属する資本の機能であり、その人格的担い手は、まずもって資本家である。
 資本のもとでの労働は労働者にとって、自分の立てた目的を実現する自分の労働ではなく、資本の目的を実現するための他人の労働だから、彼らの労働には資本による監督が必要である。これはもちろん資本の機能であり、まずもって資本の人格化である資本家が彼らの監督者となる。
 指揮は多人数による社会的労働が社会形態にかかわりなく必要とするものであり、監督は賃労働という労働の社会的形態が要求するものであって、両者はほんらい区別されるべきものであるが、実際には、どちらも資本の機能として渾然一体となって資本家によって遂行され、〈指揮・監督〉という一つの機能として現われる。
 まずもって資本家自身によって果たされるこの指揮・監督の機能はやがて資本家から特別な種類の労働者、すなわちマネージャー(産業士官)やもろもろの職制(産業下士官)に譲り渡されるようになる。
 一方では、資本のもとでの協業に必要な指揮および監督が資本家によって行なわれるところから、およそ協業には資本が必要であるかのような転倒した観念が生まれるとともに、他方では、これらの機能が特別な種類の労働者によって遂行されるところから、指揮ばかりでなく監督までも、社会形態にかかわりのない社会的労働一般が必要とするものであるかのような転倒した観念が生まれる。》(大谷禎之介『図解社会経済学』159-160頁)

第25段落 ②生産物は資本家の所有物である、またその根拠
・また、第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者のものではない。
・資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払う。そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その一日は彼のものである。
・彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本家のものになったのである。
・資本家の立場からは、労働過程は、ただ彼が買った労働力という商品の消費過程でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのである。
・労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。
・それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである。
              
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by shihonron | 2010-01-05 22:25 | レジュメ