『資本論』を読む会の報告

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2010年 07月 27日

第195回 7月27日 第22章 剰余価値の資本への転化 第1節

7月27日(火)に第195回の学習会を行いました。
レジュメに基づいた報告を受け、「第22章 剰余価値の資本への転化」の第1節の第23段落から第1節の最後までを検討しました。

レジュメは7月20日の学習会の報告に掲載しています。
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by shihonron | 2010-07-27 23:30 | 学習会の報告
2010年 07月 20日

第194回 7月20日 第22章 剰余価値の資本への転化 第1節

7月20日(火)に第194回の学習会を行いました。
レジュメに基づいた報告を受け、「第22章 剰余価値の資本への転化」の第1節の最初から第22段落までを検討しました。

以下は当日のレジュメです。

第22章 剰余価値の資本への転化

第1節 拡大された規模での資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転換

 ①以前に、どのように資本から剰余価値が生じるか考察したが、今度は、どのように剰余価値から資本が生じるかを考察する。剰余価値を資本として用いること、あるいは剰余価値を資本に再転化することは、資本の蓄積と呼ばれる(21)。

 ②さしあたり、この経過を個別資本家の観点から考察しよう。
 投下資本  綿花・機械   労賃    剰余価値  生産物価値
10000― 8000 + 2000 + 2000= 12000
 2000― 1600 +  400 +  400=  2400

ある価値がもっている剰余価値としての性格は、それがどのようにしてその所有者の手に入ったかを示しはするが、価値や貨幣の性質を少しも変えるものではない。

 ③こうして、二〇〇〇ポンド・スターリングのこの新しい資本は紡績工場で機能し、それがまた四〇〇ポンド・スターリングの剰余価値を生み出す。

 ④資本価値は最初は貨幣形態で前貸しされた。これに反して、剰余価値はもともと総生産物の特定部分の価値として存在する。総生産物が売られて貨幣に転化されると、資本価値はその最初の形態をふたたび獲得するが、剰余価値はその最初の定在様式を変える。しかし、この瞬間からは、資本価値と剰余価値はどちらも貨幣額であり、資本へのそれらの再転化はまったく同じ仕方で行われる。資本家はそれらのいずれをも、彼にその財貨の製造を新たに、しかも今度は拡大された規模で開始することを可能にする諸商品の購入に投じる。しかし、これらの商品を購入するためには、彼はそれらのものを市場で見いださなければならない。

 ⑤彼自身の糸が流通するのは、彼が自分の年生産物を市場に持ちこむからにほかならないのであり、これは他のすべての資本家が彼らの商品について行うのと同じである。しかし、これらの商品は、市場に来る前にすでに年々の生産財源のうちに、すなわち、個別諸資本の総額あるいは社会的総資本がその年のうちに転化し、また各個別資本家はその一可除部分を手にするにすぎないあらゆる種類の物の総量のうちに、存在していたのである。

 ⑥年生産は、さしあたりまず、その年のうちに消費される資本の物的構成部分を補填すべきあらゆる物(使用価値)を提供しなければならない。これを差し引いた後には、剰余価値がその中に潜んでいる純生産物または剰余生産物が残る。では、この剰余生産物はどういうものから成り立っているのか? もしそれが、資本家階級の消費財源に入る物だけだとすれば、剰余価値は残らず使いはたされて、単純再生産しか行われないであろう。

 ⑦蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化しなければならない。しかし、奇跡でも行われない限り、資本に転化できる物は、労働過程で使用できる物すなわち生産手段と、他には労働者が自分を生存させうる物すなわち生活手段だけである。
・剰余価値が資本に転化できるのは、剰余生産物・・その価値が剰余価値である・・がすでに新しい資本の物的諸構成部分を含んでいるからにほかならない(21a)。

 ⑧さて、これらの諸構成部分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加分を必要とする。すでに使用している労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大させられないとすれば、追加労働力が雇い入れられなければならない。このことについてもやはり、資本主義的生産の機構がすでにあらかじめ配慮ずみである。
・資本は、労働者階級によって年々いろいろな年齢で供給されるこの追加労働力を、年生産の中にすでに含まれている追加的生産手段に合体しさえすればよいのであり、それで剰余価値の資本への転化は完了する。具体的に考察すれば、蓄積は累進的規模での資本の再生産に帰着する。単純再生産の循環は変化して、シスモンディの表現によれば一つのらせんに転化する(21b)。

 ⑨そこでわれわれの例に立ち戻ることにしよう。一万ポンド・スターリングの最初の資本は二〇〇〇ポンド・スターリングの剰余価値を生み、それが資本化される。二〇〇〇ポンド・スターリングの新資本は四〇〇ポンド・スターリングの剰余価値を生み、それがふたたび資本化され、すなわち第二の追加資本に転化されて、八〇ポンド・スターリングの新しい剰余価値を生む、等々である。

 ⑩ここでは、資本家によって消費される剰余価値部分は度外視する。
・ただ忘れてならないのは、新たに形成された諸資本とならんで、最初の資本が引き続き自分を再生産し、剰余価値を生産するということ、そして、同じことが蓄積されたどの資本についても、それによって生み出された追加資本との関係ではつねに当てはまるということである。

 ⑪最初の資本は一万ポンド・スターリングの前貸しによって形成された。その所有者はどこからこれを得たのか? 彼自身の労働と彼の祖先の労働とによってである!と経済学の代弁者たちはみな一様に答える(21c)。そして実際に彼らの仮定は、商品生産の諸法則に合致する唯一のものであるかのように見える。

 ⑫二〇〇〇ポンド・スターリングの追加資本については、まったく事情が異なる。その成立過程をわれわれはまさに正確に知っている。それは資本化された剰余価値である。それは、最初から、他人の不払労働に由来しない価値を一原子も含んでいない。追加労働力が合体される生産手段も、この追加労働力が維持される生活手段も、剰余生産物、すなわち労働者階級が年々資本家階級によって奪われる貢ぎ物の主要な構成部分以外の何ものでもない。
・被征服者の商品を、被征服者から奪った貨幣で買い取るという、征服者の昔からのやり方と変わるものではない。

 ⑬追加資本がそれ自身の生産者を使用するとすれば、この生産者はまず最初の資本を引き続き価値増殖しなければならず、その上に自分の以前の労働の成果をそれに費やしたよりも多くの労働をもって買い戻さなければならない。
・いずれにしても、労働者階級は、彼らの今年の剰余労働によって、次の年に追加労働を使用するであろう資本をつくり出した(22)。これがすなわち、資本によって資本を生み出すということなのである。

 ⑭第一の追加資本二〇〇〇ポンド・スターリングの蓄積の前提は、資本家が前貸しし、彼の「最初の労働」によって自分のものになっている一万ポンド・スターリングという価値額であった。これに反して、第二の追加資本四〇〇ポンド・スターリングの前提は、第一の追加資本二〇〇〇ポンド・スターリングの蓄積が先に行われているということにほかならないのであって、第二の追加資本は第一の追加資本の剰余価値が資本化したものである。今や、過去の不払労働を所有することが、生きた不払労働をたえず増大する規模で現在取得するための唯一の条件として現れる。資本家は、すでにより多く蓄積していればいるほど、ますます多く蓄積することができる。

 ⑮・個々のどの取り引きも商品交換の法則にすべて照応し、資本家はつねに労働力を買い、労働者はつねにそれを売り、しかも、われわれがそう仮定しようとするとおり、労働力の実際の価値どおりで売買するならば、商品生産と商品流通とに基づく取得の法則または私的所有の法則は、明らかに、その固有な内的で不可避的な弁証法によって、その直接の対立物に転換する。最初の操作として現れた等価物同士の交換は、一転して、外観的にのみ交換が行われるようになる。と言うのは、労働力と交換される資本部分そのものが、第一に、等価なしに取得された他人の労働生産物の一部分にすぎず、第二に、その生産者である労働者によって補填されなければならないだけでなく、新しい剰余をともなって補填されなければならないからである。したがって、資本家と労働者のあいだの交換関係は、―内容は、資本家が、たえず等価なしに取得し、すでに対象化された他人の労働の一部分を、より大きな量の生きた他人の労働とたえずくり返し取り替えるということである。所有権は、最初は自分の労働に基づくものとして現れた。少なくとも、この仮定が妥当とされなければならなかった・・なぜなら、平等な権利をもつ商品所有者だけが相対するのであって、他人の商品を取得するための手段は自分の商品を譲渡することだけであり、そして自分の商品はただ労働によってのみ生産されうるものだからである。所有は、今や、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現れ、労働者の側では自分自身の生産物を取得することの不可能性として現れる。所有と労働との分離は、外見上は両者の同一性から生じた一法則の必然的帰結となる(23)。

 ⑯したがって、資本主義的取得様式は商品生産の本来の諸法則とどんなに矛盾するように見えるにしても、それは決してこれらの法則の侵害から生じるのではなく、むしろ反対にその適用から生じるのである。このことは、資本主義的蓄積を終点とする一連の運動諸段階の順序を単純に振り返ってみれば、さらに明らかになる。

 ⑰はじめにみたように、ある価値額の資本への最初の転化は、まったく交換の諸法則に沿うものであった。一方の契約者が自分の労働力を売り、他方の契約者がそれを買う。前者は彼の商品の価値を受け取り、それによってこの商品の使用価値・・労働・・は後者に譲渡される。そこで、後者は、すでに自分のものである生産手段を、やはり彼のものである労働の助けを借りて、新しい生産物に転化するのであり、この生産物もやはり法的に彼に属する。

 ⑱この生産物の価値は、第一に、消費された生産手段の価値を含んでいる。有用労働が、この生産手段の価値を新しい生産物に移すことなしには、この生産手段を消費することはできない。しかも労働力が売れるものであるためには、それが使用されるべき産業部門で有用労働を提供しうるものでなければならない。

 ⑲新しい生産物の価値は、さらに労働力の価値の等価と剰余価値とを含む。というのも、日、週など一定の時期を決めて売られた労働力は、その使用がこの時期中につくり出される価値よりも少ない価値しかもたないからである。しかし労働者は、彼の労働力の交換価値を支払ってもらい、その使用価値を譲渡したのである・・どんな売買でもそうであるように。

 ⑳この特殊な商品である労働力が、労働を提供する、すなわち価値をつくり出すという独自な使用価値をもっていることは、商品生産の一般的法則には影響しえない。したがって、労賃に前貸しされた価値額が単に生産物のうちに再現するだけでなく、剰余価値だけ増大して現れるとすれば、それは売り手をだますことから生じるのではなく、売り手はたしかに自分の商品の価値を受け取っているのであって、買い手がこの商品を消費することから生じるだけである。
 《21》交換の法則は相互に譲渡される商品の交換価値にとってのみ平等を条件づける。しかもこの法則は、はじめから諸商品の使用価値の相違を条件としており、取り引きの完了後にはじめて開始されるこれらの商品の消費とはまったく何の関係もない。
 《22》したがって、貨幣の資本への最初の転化は、商品生産の経済的諸法則とそれから派生する所有権とに最も厳密に一致して行われる。しかし、それにもかかわらず、この転化は次のような結果をもたらす・・
 (一) 生産物は資本家のものであって、労働者のものではない・・
 (二) この生産物の価値は前貸資本の価値のほかに剰余価値を含むが、この剰余価値は労働者にとっては労働を費やさせたが資本家にとっては何も費やせなかったにもかからわず、それは資本家の合法的所有物になる・・
 (三) 労働者は引続き自分の労働力を保有し、買い手が見つかればまた新たにそれを売ることができる。

 《23》単純再生産はこの第一の操作の周期的反復にすぎない。そのつど、貨幣はたえず新たに資本に転化される。したがって、法則は破られるのではなく、反対に、確認される機会を得るにすぎない。

《24》・ それにもかかわらず、すでに見たように、単純再生産はこの第一の操作・・それを孤立した経過としてとらえた限りでの・・にまったく変化した性格を刻印するのに十分である。
・ 「国民所得を分けあう人々のうち、一方」(労働者)「は毎年新しい労働によってそれに対する新しい権利を獲得するが、他方」(資本家)「は最初の労働によってそれに対する永久的な権利をそれ以前に獲得してしまっている」(シスモンディ、前出、一一〇、一一一ページ〔前出訳、上、一一九ページ〕)。


 《25》周知のように、労働の分野は、長子が奇跡を行う唯一の分野ではない。

 《26》単純再生産の代わりに、拡大された規模での再生産、すなわち蓄積が行われても、変わりはない。前者の場合には、資本家は剰余価値をすべて使い果たすが、後者の場合は、一部分だけを消費し残りを貨幣〔カウツキー版では、資本、となっている・・岩波版訳者〕に転化することによりみずからの市民的徳性を示す。

 《27》剰余価値は資本家の所有物であり、彼以外の者に属したことはない。彼がそれを生産に前貸しするとすれば、彼はそれを、はじめて市場を訪れた日とまったく同じように、彼自身の財源から前貸しするわけである。この財源が、今度は彼の労働者の不払労働から生まれたものだということは、事態にはまったくかかわりがない。労働者Bが、労働者Aの生産した剰余価値で働かされるとしても、第一に、Aは自分の商品の正当な価格を一文も削られることなしにこの剰余価値を提供したのであり、第二に、この取り引きはBにとっておよそ何の関係もないことである。Bが要求すること、そして要求する権利を持つことは、資本家が彼にその労働力の価値を支払うということである。
・ 「それでも両者はともに利益を得たのであって、労働者は、労働がなされる前に」(彼の労働が成果をもたらす前に、と言うべきだ)「労働の」(他の労働者の不払労働の、と言うべきだ)「成果が彼に前貸しされたからであり、雇い主は、この労働者の労働が賃金よりも大きい価値をもっていた」(彼の賃金の価値より大きい価値を生産した、と言うべきだ)「からである」(シスモンディ、前出、一三五ページ〔前出訳、上、一三五~一三六ページ〕)。

 《28》われわれが資本主義的生産を絶え間ない更新の流れの中で考察し、個々の資本家と個々の労働者とではなく、全体、すなわち資本家階級とそれに相対する労働者階級とに注目すれば、たしかに事態はまったく違って見える。しかしそうすれば、われわれは、商品生産とはまったく異質な尺度をあてがうことになる。

 《29》商品生産では、売り手と買い手とがたがいに独立して相対しているにすぎない。彼らの相互関係は、両者のあいだに結ばれた契約の満期日と共に終わる。取り引きがくり返されるとすれば、それは新しい契約によるのであって、その契約は以前の契約と何の関係もなく、この契約で同じ買い手が同じ売り手と再会するとしても、それはただの偶然にすぎない。

 《30》したがって、商品生産またはそれに属する経過は商品生産固有の経済的諸法則にしたがって判断されるべきであるからには、われわれはおのおのの交換行為を、それ自体として、すなわちそれに先行し後続する交換行為とのいっさいの関連を離れて、考察しなければならない。そして、売買は個々のあいだでのみ行われるのであるから、全体としての社会的階級間の諸関係を売買のうちに探求することは許されない。

 《31》こんにち機能している資本が通過してきた周期的な再生産と先行する蓄積との系列がどんなに長いとしても、この資本はいつでもその最初の処女性を保持している。おのおのの交換行為・・個別的にみたそれ・・において交換の諸法則が守られる限り、取得様式は、商品生産に適合する所有権には何らふれることなしに、全面的な変革をこうむることができる。この同じ所有権は、端初の時期・・この時期には、生産物は生産者のものであり、生産者は等価物同士を交換しながら自分の労働だけで富を得ることができる・・におけると同様に資本主義時代・・この時代には、社会の富が、たえず増大する量で、他人の不払労働をたえず新たに取得する立場にある人々の所有となる・・においても有効なのである。

 《32》こうした結果は、労働力が労働者自身により商品として自由に売られるのと同時に、不可避となる。しかしまた、その時に初めて、商品生産は一般化されて典型的な生産形態となる。
・賃労働の介入は商品生産を不純にするなどと語ることは、商品生産が不純にされたくなければ発展してはならないと語るに等しい。商品生産がそれ自身の内的諸法則に従って資本主義的生産に成長していくのと同じ程度で、商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換する(24)。


 《33》すでに見たように、単純再生産の場合でさえ、すべての前貸資本は・・最初にどのようにして獲得されたものであれ・・蓄積された資本または資本化された剰余価値に転化する。しかし、生産の流れの中では、およそ最初に前貸しされたすべての資本は、直接に蓄積された資本にくらべると、すなわち資本に再転化された剰余価値または剰余生産物・・それが今蓄積した人々の手の中で機能しているか、それとも他人の手の中で機能しているかを問わず・・にくらべると、しだいに消滅していく大きさ(数学的意味での“無限小 magnitudo evanescens ”)になる。したがって経済学は、一般に、資本を「あらためて剰余価値の生産に用い入られる蓄積された富(25)」(転化された剰余価値または収入)として説明し、あるいはまた資本家を「剰余生産物の所有者(26)」として説明している。現存するすべての資本は蓄積された利子または資本化された利子であるという表現では、同じ見方が別の形態をとっているにすぎない。というのは、利子は剰余価値の単なる一断片にすぎないからである(27)。
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by shihonron | 2010-07-20 23:30 | 学習会の報告
2010年 07月 13日

第193回 7月13日 第21章 単純再生産

7月13日(火)に第193回の学習会を行いました。
レジュメに基づいた報告を受け、「第21章 単純再生産」を検討しました。

以下は当日のレジュメです。

 第七篇 資本の蓄積過程                

①資本の流通
・資本として機能するべき価値量が通る第一の運動=ある貨幣額の生産手段と労働力とへの転化。 この運動は,市場すなわち流通部面で行なわれる。
・運動の第二の段階=生産過程。生産手段が商品に転化されたときに終わる。
・この商品の価値はその諸成分の価値を越えている。最初に前貸しされた資本に剰余価値を加えた ものを含んでいる⇒商品は再び流通部面に投げ込まれ(販売)その価値を貨幣に実現
         +-A
    G--W |   ---P---(W+w)---(G+g)
         +-Pm
    +-----+   +-+    +--------+              ・その貨幣をあらためて資本に転化させること,そしてそれが絶えず繰り返されることが必要。
 このような絶えず同じ継起的諸段階を通る循環は,資本の流通をなしている。

②蓄積の第一の条件は,資本家が,自分の商品を売ることと,こうして手に入れた貨幣の大部分を資 本に再転化させること。以下では,資本はその流通過程を正常な仕方で通るということが前提さ れる。この過程のもっと詳しい分析は第二部で行なわれる。

③剰余価値を生産(不払労働を直接に労働者から吸い上げる)して商品に固定する資本家は,その 剰余価値の最初の取得者ではあるが,決してその最後の所有者ではない。⇒社会的生産全体の なかで他の諸機能を果たす資本家たちや土地所有者などと分けあう。---利潤や利子や商業利 得や地代など。これらの剰余価値の転化形態は,第三部で分析。
④諸前提の確認
・商品を生産する資本家は商品をその価値どおりに売るものと想定。流通部面で資本に付着する新 たな諸形態にも,再生産の具体的な諸条件にも,立ち入らない。
・資本家的生産者は全剰余価値の所有者(または彼と獲物を分け合う仲間全体の代表者)とみなさ れる。われわれは蓄積を抽象的に,すなわち単に直接的生産過程の一契機として,考察する。

⑤蓄積過程の純粋な分析のために,蓄積過程の機構の内的作用を隠蔽する一切の現象を無視
・蓄積が行なわれるかぎり,資本家は,生産した商品の販売に,またそれによって得た貨幣を資本  に再転化させることに,成功しているわけである。
・剰余価値の分配は,剰余価値の性質や,剰余価値が蓄積の要素になるために必要な諸条件を変え  るものでもない。蓄積の説明で想定することは,蓄積の現実の過程でも前提されている。
・剰余価値の分割と流通の媒介運動とは,蓄積過程の単純な基本形態を不明瞭にする。

  第二一章 単純再生産

①生産過程は,その社会的形態がどのようであるかにかかわりなく,連続的でなけれはならない。
・社会は,消費をやめることができないように,生産をやめることもできない。
・どの社会的生産過程も,同時に再生産過程である。

②生産の諸条件は同時に再生産の諸条件である。
・どんな社会も,その生産物の一部分を絶えず生産手段に再転化させることなしには,再生産するこ とはできない。
・社会がその富を同じ規模で再生産するためには,例えば一年というような期間に消費された生産 手段(労働手段や原料や補助材料)を,同量の新品によって現物で補填されて再び生産過程に合 体される。年間の生産物の一定量は生産のためのもので,それは個人的消費を排除するような現 物形態で存在する。

③もし生産が資本主義的形態のものであれば,再生産もそうである。
・資本主義的生産様式では労働過程はただ価値増殖過程の一手段として現われるだけである。
・再生産もただ前貸価値を資本として,すなわち自己増殖価値として再生産するための一手段とし て現われるだけである。
・資本家という経済的扮装が或る人に固着しているのは,ただ彼の貨幣が絶えず資本として機能し ているということだけによるのである。
・資本価値の周期的増加分,または過程進行中の資本の周期的果実としては,剰余価値は資本から生 ずる収入という形態を受け取る。

④全収入(全剰余価値)の資本家による消費財源(周期的消費)としての利用⇒単純再生産
・単純再生産(同じ規模での生産過程の単なる繰り返し)⇒この単なる繰り返しまたは連続がこ の過程にいくつかの新しい性格を押印する。

(A)可変資本である賃金の真の源泉が明らかになる

⑤生産過程
・一定時間を限っての労働力の購買⇒一定の生産期間(週や月など)ごとに更新。
・労働者は,働いて労働力の価値をも剰余価値をも商品に実現後,はじめて支払を受ける。つまり, 彼は,資本家の消費財源(剰余価値)と,自身への支払の財源である可変資本をも,それが労賃の 形で彼の手に還流してくる前に生産している。しかも彼は絶えずこの財源を再生産するかぎりで のみ使用される。労働者自身によって絶えず再生産される生産物の一部分が労賃の形で絶えず労 働者の手に還流する。
・資本家は労働者に商品価値を,貨幣で支払う。
・この貨幣はただ労働生産物の転化した形態でしかない。労働者が生産手段の一部分を生産物に転 化しているあいだに,彼の以前の生産物の一部分は貨幣に再転化されている。先週とか過去半年 間とかの彼の労働によって彼の今日の労働とか次の半年間の労働とかが支払われる。
・貨幣形態が生みだす幻想は,個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考 察されるならば,消え去ってしまう。資本家階級は労働者階級に,後者によって生産されて前者に よって取得される生産物の一部分を指示する手形を,絶えず貨幣形態で与える。この手形を労働 者は絶えず資本家階級に返し,彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家階級か ら引き取る。生産物の商品形態と商品の貨幣形態とがこの取引を変装させる。

⑥可変資本
・社会的生産のどんな体制でも自分で再生産しなければならない生活手段財源(労働財源)の一つ の特殊な歴史的現象形態。
・労働者が彼の自己維持と再生産とのために必要。
・労働財源が彼の労働の支払手段という形で絶えず彼の手に流れてくるのは,ただ,彼自身の生産物 が絶えず資本という形で彼から遠ざかるからでしかない。
・夫役農民との比較---週に三日は自分の生産手段を用いて自分の畑で労働。残りの三日は彼は 領主の農地で夫役。彼は彼自身の労働財源を絶えず再生産するが,この財源は支払手段という形 はとらない。領主直営地での強制的不払い労働も支払われる労働の形態をとらない。
・ブルジョア経済学者の偏狭な頭脳は,現象形態を,この形態において現われるものと区分すること ができないので,彼は労働財源は地球上でただ例外的に資本という形で現われるだけだという事 実にたいしては目を閉じている。
       +c       +c+    +Pm+      
 P---W’+v ---G’+v+---W +A +---- P 
       +m      +m--- w            
     +-------------------+  

⑦資本主義的生産過程をその更新の不断の流れのなかで考察するや否や,可変資本が資本家自身の 財源から前貸しされる価値という意味を失う。
・この過程には,どこかに,いつか,その始まりがなければならない⇒本源的蓄積。
・資本主義的生産過程の単なる連続(単純再生産)は,ただ可変資本部分だけではなく総資本をも とらえる奇妙な変化をひき起こす。

(B)総資本の真の源泉が明らかになる---剰余価値によって置き換えられている

⑧投下資本1000ポンド⇒年剰余価値200ポンド---毎年消費される
・この過程が五年繰り返されたあとでは消費された剰余価値の総額は 5×200=最初に前貸しされ た資本価値1000ポンドに等しい。
・前貸資本価値を毎年消費される剰余価値で割れば,最初の前貸資本が資本家によって食い尽くさ れて消えてなくなるまでに経過する年数または再生産周期の数が出てくる。
・ある年数が過ぎたあとでは,彼が取得した資本価値は同じ年数のあいだに等価なしで取得した剰 余価値の総額に等しく,彼が消費した価値額は最初の資本価値に等しい。
・ある人が,自分の財産の価値に匹敵する借金をすることによって,全財産を使い果たすとすれば, まさにこの全財産はただ彼の借金の総額を表わしているだけ。資本家が自分の前貸資本の等価を 食い尽くした場合も同じことで,この資本の価値はもはやただ彼が無償で取得した剰余価値の総 額を代表しているだけ。彼の元の資本の価値はもはや一原子も存在しない。

⑨単純再生産でも,長短の期間の後には,どの資本をも必然的に蓄積された資本または資本化された 剰余価値に転化させる。
・資本そのものが生産過程にはいったときにはその充用者が自分で働いて得た財産だったとして  も,それは,等価なしで取得された価値=他人の不払労働の物質化になる。

(C)資本主義的生産関係そのものの再生産・永久化

⑩貨幣を資本に転化させるための条件(第四章)。
・第一に,一方には価値または貨幣の所持者(=生産手段と生活手段との所持者)---買い手
     他方には価値を創造する実体の所持者(=ただ労働力だけの所持者) ---売り手
・労働生産物と労働そのものとの分離,客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が,資本主義的 生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だった。

⑪ところが,はじめはただ出発点でしかなかったものが,過程の単なる連続,単純生産によって,資本 主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化される。
・一方では生産過程は絶えず素材的富を資本に転化させ,資本家のための価値増殖手段と享楽手段 とに転化させる。
・他方ではこの過程から絶えず労働者が,そこに入ったときと同じ姿で出てくる。彼がこの過程に 入る前に,彼自身の労働は彼自身から疎外され,資本家のものとされ,資本に合体されているのだ から,その労働はこの過程のなかで絶えず他人の生産物に対象化される。生産過程は同時に資本 家が労働力を消費する過程でもあるのだから,労働者の生産物は,絶えず商品に転化するだけでは なく,資本に,すなわち価値を創造する力を搾取する価値に,人身を買う生活手段に,生産者を使用 する生産手段に,転化する。それだから,労働者自身は絶えず客体的な富を,資本として,すなわち 彼にとって外的な,彼を支配し搾取する力として,生産するのであり,そして資本家もまた絶えず 労働力を,主体的な,それ自身を対象化し実現する手段から切り離された,抽象的な,労働者の単な る肉体のうちに存在する富の源泉として,生産するのであり,簡単に言えば労働者を賃金労働者と して,生産する。このような,労働者の不断の再生産または永久化が,資本主義的生産の不可欠の 条件なのである。

⑫労働者の行なう二種類の消費
・生産的消費---労働による生産手段の消費⇒前貸資本の価値よりも大きな価値の生産物に転 化。資本家による彼の労働力の消費。労働者は資本の動力として行動し,資本家に帰属する。
・個人的消費---労働者は労働力の代価として支払われた貨幣を生活手段に振り向ける。この消 費は自分自身のものであり,生産過程の外でいろいろな生活機能を行なう。
・一方の消費の結果は資本家の生活であり,他方の消費の結果は労働者自身の生活である。

⑬労働者は自分の個人的消費を生産過程の単なる付随事にすることを強制されている。
・彼は自分の労働力の活動を維持するために自分に生活手段を給する(ちょうど,蒸気機関に石炭 や水が,車輪に油が給されるようなもの)。そのとき彼の消費手段はただ生産手段の消費手段で しかなく,彼の個人的消費は直接に生活的消費である。とはいえ,これは,資本主義的生産過程に とって本質的ではない一つの乱用として現われる

⑭資本家階級と労働者階級(個々の資本家と個々の労働者とにではなく)とに目を向け,資本主義 的生産過程をその流れとその社会的な広がり(商品の個別的生産過程ではなく)とのなかで見る ならば,事態は別の様相を呈してくる。
・資本家が彼の資本の一部分を労働力に転換⇒一石二鳥
・彼は,労働者から受け取る---剰余労働
    労働者に与えるものからも利得する。
・労働力と引き換えに手放される資本は生活手段に転化⇒この生活手段の消費は,現存する労働  者の筋肉や神経や骨や脳を再生産して新しい労働者を生みだす。労働者階級の個人的消費は,資 本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の,資本によって新たに搾取されうる労働力 への再転化である。
・それは,資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である。 つまり,労働者の個人的消費は,資本の生産および再生産の一契機。たとえば,役畜の食うものは 役畜自身が味わうのだからといって,役畜の行なう消費が生産過程の一つの必然的な契機だとい うことに変わりはない。労働者階級の不断の維持と再生産も,やはり資本の再生産のための恒常 的な条件である。
・資本家はこの条件の充足を労働者の自己維持本能と生殖本能とに任せておくことができる。彼は, ただ,労働者たちの個人的消費をできるだけ必要物に制限しておくように取り計らうだけ。

⑮資本家も,その理論的代弁者である経済学者も,労働者の個人的消費のうちでただ労働者階級の永 久化のために必要な部分だけを,つまり資本が労働力を消費するために実際に消費されなければ ならない部分だけを,生産的とみなすのである。
・そのほかに労働者が自分の快楽のために消費するものがあれば,それは不生産的消費なのである。 もしも資本の蓄積が労賃の引き上げをひき起こし,したがって資本によるより多くの労働力の消 費なしに労働者の消費手段の増加をひき起こすとすれば,追加資本は不生産的に消費されること になるで。
・実際には,労働者の個人的消費は彼自身にとって不生産的である。というのは,それはただ貧困な 個人を再生産するだけだからである。
・それは資本家や国家にとっては生産的である。というのは,それは他人の富を生産する力の生産 だからである。

⑯社会的立場から見れば,労働者階級は,直接的労働過程の外でも,生命のない労働用具と同じに資 本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも,ある限界のなかでは,ただ資本の再生産過 程の一契機でしかない。しかし,この過程は,このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわ ないようにするために,彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。

・個人的消費は,一方では彼ら自身の維持と再生産とが行なわれるようにし,他方では,生活手段を なくしてしまうことによって,彼らが絶えず繰り返し労働市場に現われるようにする。ローマの 奴隷は鎖によって,貸金労働者は見えない糸によって,その所有者につながれている。賃金労働者 の独立という外観は,個々の雇い主が絶えず替わることによって,また契約という擬制によって, 維持される。
⑰1815年以前は,資本は,自由な労働者にたいする自分の所有権を強制法(機械労働者の移住は重刑をもって禁止)によって確保。

⑱⑲⑳
・労働者階級の再生産は,同時に,世代から世代への技能の伝達と累積とを含んでいる。
・熟練労働者階級の存在を,どんなに資本家が自分の所有する生産条件の一つに数え,この階級を実 際に自分の可変資本の現実的存在とみなしているかということは,恐慌に際してこのような階級 がなくなるおそれが生ずれば,たちまち明らかになる---労働力にたいする資本の所有権をあ からさまに表明
・綿花飢饉⇒多数の綿業労働者の失業⇒エドマンド・ポッターの一つの書簡(「工場主宣言」)
 綿業労働者(1/3は過剰)の移民に反対----「そこで私は尋ねたい,この産業は維持するに値 するか,この機械」(すなわち生きている労働機械)「を整えておくことは労に値するか,そして, これを放棄しようなとと考えるのは最大の愚ではないか! 私はそうだと思う。たしかに,労働 者は所有物ではないし,ランカシャや雇い主たちの所有物ではない。だが,----この力は一代 で補充できるものではない。ところが,もう一つの,彼らが使用する機械は,大部分は,12か月で有 利に取り替えられたり改良されたりすることもあるであろう。労働力の移住を奨励したり許可し たりして(!)いったい資本家はどうなるか?」
・侍従長カルプ「一国の最良の工場労働者を輸出し一国の最も生産的な資本や富の一部分を無価値 にすることによって国民を弱くしようとする計画以上に,一国のすべての階級にとって自殺的な 計画がありうるだろうか?」

21綿業工場主たちの代弁者ポッター---「機械」の二つの種類(どちらも資本家のもの)を区別。
・一方は彼の工場のなかにあり,他方は夜と日曜は外の小屋に住んでいる。一方は生命がなく,他方 は生きている。生命のない機械は,毎日損傷して価値を減少させるだけでなく,その大部分が不断 の技術的進歩のために絶えず時代遅れになり,わずか数か月でもっと新しい機械と取り替えるこ とが有利になることもある。生きている機械は,長もちがすればするほど,代々の技能を自分のう ちに積み重ねれば重ねるほど,ますます改良されてゆく。
・『タイムズ』(1863年3月24日)の答え。
22『タイムズ』の論説は,ただの知恵あそびでしかなかった。じつは,工場労働者は工場の付属動産 だというポッター氏の意見と同じだったのである。彼らの移住は阻止された。人々は彼らを綿業 地帯の「道徳的救貧院」のなかに閉じ込めた。

23資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。それは 労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは,労働者には自分の労働力を売って生きてゆく ことを絶えず強要し,資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働 者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは,もはや偶然ではない。労働者を 絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し,また彼自身の生産物を絶えず資本家の 購買手段に転化させるものは,過程そのものの必至の成り行きである。労働者は,彼が自分を資本 家に売る前に,すでに資本に属している。彼の経済的隷属は,彼の自己販売の周期的更新や彼の個 人的雇い主の交替や労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時に隠蔽されている。

24資本主義的生産過程は,再生産過程としては,ただ商品だけを,剰余価値だけを生産するのではな く,資本関係そのものを,一方には資本家を,他方には賃金労働者を,生産し再生産する。
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by shihonron | 2010-07-13 23:30 | 学習会の報告
2010年 07月 06日

第192回 7月6日 第20章 労賃の国民的相違

7月6日(火)に第192回の学習会を行いました。
レジュメに基づいた報告を受け、「第20章 労賃の国民的相違」を検討しました。

以下は当日のレジュメです。


第6篇 労賃 第20章 労賃の国民的相違                                    ()内の数字は段落を示しています。

・第15章で取り扱った様々な組合せ(労働日の長さ、労働の強度、労働の生産力の組合せ)は労働力の価値の絶対的または相対的(すなわち剰余価値に比べての)大きさの変動を引き起こしうるものだったが、他方、労働力の価格が実現される生活手段の量もまた、この価格の変動からは、独立な、またはそれと違ったいろいろな運動をすることができた。(1)

★「この価格」とは「労働力の価格」のこと。労働力の価格が高くなっても、それによって買うことのできる生活手段の量は、変化しないこともあれば、増大することも、減少することもありえる。

・労働力の価値または価格を単に労賃という通俗的な形態に翻訳するだけのことによって、かの諸法則はすべて労賃の運動の諸法則に転化するのである。(1)

★「かの諸法則」とは、第15章であきらかにした労働力の価値の絶対的または相対的な変動についての法則のこと。

・この運動の中で変動する組み合わせとして現れるものは、違った国々については、国民的労賃の同時的相違として現れうるものである。(1)

・だから、諸国民の労賃を比較するにあたっては、労働力の価値の大きさの変動を規定するすべての契機を考慮しなければならないのである。すなわち、自然的な、また歴史的に発達した第一次生活必需品の価格と範囲、労働者の養成費、婦人・児童労働の役割、労働の生産性、労働の外延的および内包的な大きさがそれである。(1)

・まったく表面的な比較のためにも、まず第一に各国における同じ産業の平均日賃金を同じ長さの労働日に還元することが、必要である。このように日賃金を調整してから、さらに時間賃金を出来高賃金に換算しなければならない。なぜならば、労働の生産性についても労働の内包的な大きさについても測度器になるのは出来高賃金だけだからである。(1)

★各国の賃金の比較は、出来高賃金に換算してはじめて可能であるかに述べている。この出来高賃金は、時間賃金を換算したものだという。具体的にはどういうことか?

A国の方がB国よりも労働の生産力は高いと仮定する。

A国では、10時間労働日で、12000円の日賃金が支払われる。
 この10時間に120個の製品が生産される。
 A国の10時間の労働に対する賃金は12000円。(調整した日賃金)
 A国の製品1個あたりの出来高賃金は100円。

 B国では、12時間労働日で、3000円の日賃金が支払われる。
 この12時間に50個の製品が生産される。
 B国の10時間の労働に対する賃金は2500円。(調整した日賃金)
 B国の製品1個あたりの出来高賃金は60円。

・与えられた一国では労働時間の単なる長さによる価値の度量に変更を加えるものは、ただ国民的平均よりも強い強度だけである。個々の国々をその構成部分とする世界市場ではそうではない。労働の中位の強度は国によって違っている。これらの種々の国民的平均は一つの階段をなしており、その度量単位は世界的労働の平均単位である。だから、強度のより大きい国民的労働は、強度のより小さい国民的労働に比べれば、同じ時間により多くの価値を生産するのであって、この価値はより多くの貨幣で表現されるのである。(2)

★ A国の中位の労働強度(国民的平均) 1
  B国の中位の労働強度(国民的平均) 2
  C国の中位の労働強度(国民的平均) 3
  D国の中位の労働強度(国民的平均) 4
  E国の中位の労働強度(国民的平均) 5

  世界的労働の平均単位=(1+2+3+4+5)÷5=15÷5=3

・価値法則は、国際的に適用される場合に次のようなことによっても修正される。世界市場では、より生産的な国民的労働も、そのより生産的な国民が自分の商品の販売価格をその価値まで引き下げることを競争によって強制されないかぎり、やはり強度のより大きい国民的労働として数えられるということによって修正される。(3)

★生産性が高く製品1個の生産に1時間の労働が費やされるが、価値どおりの10円ではなく、20円で販売することができれば、製品1個の生産に支出された1時間の労働は、世界的平均労働の2倍の強度の労働として、したがって世界的平均労働の2時間分とみなされる。

・ある一国で資本主義的生産が発達していれば、それと同じ度合いでそこでは労働の国民的な強度も生産性も国際水準の上に出ている。だから、違った国々で同じ労働時間に生産されるいろいろに違った分量は、不当な国際的価値をもっており、これらの価値は、いろいろに違った価格で、すなわち国際的価値の相違に従って違う貨幣額で表現されるのである。だから、貨幣の相対的価値は、資本主義的生産様式がより高く発達している国民のもとでは、それがあまり発達していない国民のもとでよりも小さいであろう。したがって、名目賃金、すなわち貨幣で表現された労働力の等価も、第一の国民のもとでは第二の国民のもとでよりも高いであろうということになる。といっても、このことが現実の賃金にも、すなわち労働者が自由に処分しうる生活手段にもあてはまる、という意味ではけっしてないのであるが。(4)

★マルクスは、「先進国」について
①労働の国民的な強度が国際水準を超えている、
②労働の生産性が国際水準を超えている、
③貨幣の相対的価値は小さい、
④名目賃金は高い と述べている。
 だが、①②だから③④だというのがよくわからない。
 ①労働の強度が国際水準を超えているから、同じ時間で生産される生産物の価値は大きくなる。
 ②労働の生産性が国際水準を超えているから、同じ時間で生産される生産物の量はより多い。

「先進国」での労働の強度は「未発達な国」の2倍、生産力は10倍だとする。
強度が2倍であれば、同じ時間に2倍の価値を生産する。また、生産性が10倍なら、同じ時間に10倍の生産物(使用価値)を生産する。「先進国」の生産物1個あたりの価値は、「未発達な国」の生産物の価値(100円)の5分の1(20円)ということになる。しかし、それは世界市場で価値以上の価格(80円)で販売されうる。 生産物1個の価値が20円であっても、世界市場では80円で販売されうる。
 ③「貨幣の相対的価値は小さい」とは、一定額の貨幣が表している価値が小さいということ、簡単に言えば「物価が高い」ということだろう。「先進国」の生産物は、価値以上に販売されるのだから、物価が高いと言うことだろうか。
 物価が高ければ、一定量の生活必需品の価格も高いのだから、名目賃金は高いということか。

★「先進国では物価が高い」というのは経験的事実であるように思えるが、なぜそうなのかはよくわからない。「先進国」では、労働の生産性は高く、生産物の価値は小さいのだから価格も安くなるのではないのだろうか…。注65では「土地の生産物が安く、また穀物一般が安い貧国では、労働の外観上の価格は他の諸国に比べて低いのが常だとはいえ、じつはたいていの場合に実質的にはより高いのだ」という文章が引用されている。生活必需品の大きな部分を占める食料品価格が「先進国」では高いということか。

★「名目賃金」=貨幣で表現された労働力の等価
 「現実の賃金」=労働者が自由に処分しうる生活手段

・しかし、違った国での貨幣価値のこのような相対的相違は別としても、しばしば見られるように、日賃金や週賃金などは第一の国民のもとでは第二の国民のもとでよりも高いが、相対的な労働の価格、すなわち剰余価値に比べての労働の価格も、生産物の価値に比べての労働の価格も、第二の国民のもとでのほうが第一の国民のもとでよりも高いのである。(5)

★「先進国」 6000c:1500v:4500m  
        
        v/m=1/3  v/(c+v+m)=1/8 

「途上国」 1000c:1000v:1000m
       
        v/m=1  v/(c+v+m)=1/3

・工場調査委員会の一員の結論――「イギリスでは賃金が大陸よりも、労働者にとっては高いかもしれないが、工場主にとっては事実上安い」(6)

・工場監督官の指摘――大陸の労働は、イギリスの労働に比べて、賃金は低く労働時間はずっと長いにもかかわらず、生産物に対する割合から見ればイギリスの労働より高価だ。(7)

・ドイツにある綿工場のイギリス人支配人は言う「賃金は、イギリスよりもずっと」低くて、多くの場合に50%も低いが、労働者の数は機械設備に対する割合から見ればずっと大きくて、いくつかの部門では5対3の割合になっているという。(7)

・東欧やアジアでの鉄道建設においては、実際上の必要から、労働の強度の国民差を考慮に入れざるをえなかったが、会社の経験が教えるところでは、賃金の高さは多かれ少なかれ中位の労働強度に対応しているが、相対的な(生産物と比べての)労働価格は概して反対に動くのである。(8)

・H・ケアリは、種々の国民的労賃は種々の国民的労働日の生産性の程度に正比例することを示して、この国際的な関係から、労賃は一般的に労働の生産性につれて上がり下がりするという結論を引き出そうとしている。このような結論のばかばかしさは、剰余価値の生産に関するわれわれの分析の全体がそれを証明している。(9)

★労働の生産性の増大は、それが生活必需品の生産に関わるものであれば必要生活手段の価値を低落させ、従って労働力の価値も低落させることを相対的剰余価値の生産のところでわれわれはすでに見た。



 


        
        
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by shihonron | 2010-07-06 23:30 | 学習会の報告