『資本論』を読む会の報告

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2010年 08月 24日

第198回 8月24日 第22章 第5節、第23章 第1節

8月24日(火)に第198回の学習会を行いました。
「第22章 剰余価値の資本への転化」の第5節「いわゆる労働財源」と「第23章 第1節 資本構成の不変な場合に蓄積に伴う労働力需要の増加」についてレジュメにもとづく報告を受けて検討しました。

以下はレジュメです。

 第5節 いわゆる労働財源            

①資本は固定的な大きさのものではなく,社会的富のうちの弾力的な一部分,すなわち剰余価値が収入と追加資本とに分割されるにつれてたえず変動する一部分。

・機能資本の大きさが与えられていても,その資本に合体される労働力,科学,および大地は,一定の限界内では,資本そのものの大きさにはかかわりのない作用範囲を資本に許すような,資本の弾力的な能力を形成する。これまでの研究では,同じ資本量ではなはだしく相異なる作用度を生じさせる原因となるような,流通過程の諸関係はすべて度外視。

・資本主義的生産の諸制限を前提----現存の生産手段および労働力によって直接的かつ計画的に実現されうるいっそう合理的な結合は度外視。

・古典派経済学は社会的資本を,固定した作用度を有する固定した大きさのものとして把握。この偏見をドグマとして固定したのは,ジェレミー・ベンサム。彼のドグマをもってしては,生産過程の最もありふれた現象,たとえばその突然の膨張や収縮といったもの,いや,蓄積さえもがまったく理解されえないものとなる。このドグマは,とりわけ資本の一部分である可変資本を,すなわち労働力に転換されうる資本を,一つの固定した大きさのものとして描くために利用された。

・可変資本の素材的存在,すなわち,可変資本が労働者のために代表する生活手段の総量,またはいわゆる労働財源は,社会的富のうちで,自然の鎖にしばられて超えることのできない特殊部分だとでっち上げられた。

・社会的富のうち,不変資本,すなわち素材的に表現すれば生産手段として機能すべき部分を運動させるためには,一定総量の生きた労働が必要である。この量は技術学的に与えられている。しかし,この労働量を流動させるのに必要な労働者の数は与えられていないし(個々の労働力の搾取度につれて変動する),またこの労働力の価格も与えられていないのであって,ただ,その価格の最低限度が,しかもきわめて弾力的なものが与えられているだけである。

・このドグマの根底に横たわる事実は次のようなものである。一方では労働者は,非労働者の消費手段と生産手段とへの社会的富の分割に際して口をはさむ権利がないということ,他方では労働者は,幸運な例外的場合にのみ,富者の「収入」の犠牲においていわゆる「労働財源」を拡大することができるということである。

②労働財源の資本主義的制限をその社会的な自然的制限につくり変えることが,どんなばかばかしい同義反復に行き着くかを,とりわけフォーシット教授が見せてくれる。
 彼は言う----「一国の流動資本は,その国の労働財源である。したがって,それぞれの労働者が受け取る平均的貨幣賃金を計算するためには,われわれはただ単純に,この資本を労働者人口数で割りさえすればよい」。

③最初に,実際に支払われる個別的労賃を合計し,次にこの合計が神と自然とにより定められた「労働財源」の価値総額をなす,と主張。こうして得られた総額を労働者の頭数で割って,各個の労働者が平均してどれだけを受け取りうるかを発見する。まったくもって狡猾な操作である。

・ところがフォーシット氏は,平気で次のように語り続ける----「イギリスで年々蓄積される富全体は,二つの部分に分けられる。一部分は,イギリスでわれわれ自身の産業を維持するために使用される。他の部分は,諸外国に輸出される。----われわれの産業に使用される部分は,この国で年々蓄積される富のうちの主要な部分ではない」。

④つまり,イギリスの労働者から等価なしで奪い取られる,年々増大していく剰余生産物の大部分は,イギリスでではなく諸外国で資本化されるわけである。しかし,こうして輸出される追加資本と共に,神とベンサムとにより発明された「労働財源」の一部分も,やはり輸出されるのである。


 第二三章 資本主義的蓄積の一般的法則    
 第一節 資本構成の不変な場合に蓄積に伴う労働力需要の増加


①この章では,資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う。この研究での最も重要な要因は資本の構成であり,またそれが蓄積過程の進行途上で受けるいろいろな変化である。

②資本の構成は,二重の意味に解されなければならない。資本が不変資本(生産手段)の価値と,可変資本(労働力の価値すなわち労賃の総額)とに分かれる割合。充用される生産手段の量と,その充用のために必要な労働量との割合。私は第一の構成を資本の価値構成と呼び,第二の構成を資本の技術的構成と呼ぶ。資本の価値構成を,それが資本の技術的構成によって規定されその諸変化を反映するかぎりで,資本の有機的構成と呼ぶ。資本の構成と言う場合は,資本の有機的構成を意味する。

③資本の個別的構成の平均は,この生産部門の総資本の構成。すべての生産部門の平均構成の総平均は,一国の社会的資本の構成。以下ではこれだけが問題にされる。

④資本の増大は,その可変成分(労働力に転換される成分)の増大を含んでいる。追加資本に転化される剰余価値の一部分は,つねに可変資本(追加労働財源)に再転化されなければならない。他の諸事情とともに資本の構成も不変だと前提すれば,労働にたいする需要と労働者の生計財源とは,資本の増大に比例して増大する。

(1)資本は年々剰余価値を生産し,剰余価値の一部分は年々原資本につけ加えられるのだから,(2)この増加分そのものも,すでに機能している資本が大きくなって行くのにつれて年々増大するのだから,(3)特別に致富欲を刺激するもの(たとえば新たに生じた社会的欲望による新たな市場や新たな投資部面の開発)などが現われれば,蓄積の規模は,ただ資本と収入とへの剰余価値または剰余生産物の分割を変えるだけのことによって,にわかに拡大されうるのだから,             
                  ↓
資本の蓄積欲望が労働力または労働者数の増大を上回り,労働者に対する需要がその供給を上回り,賃金上昇の始まる点が,現われざるをえない。

・イギリスでは,15世紀全体,18世紀の前半。

・賃金労働者が維持され増殖されるための事情が多かれ少なかれ有利になるということは,資本主義的生産の根本性格を少しも変えるものではない。単純再生産が資本関係そのものを,一方に資本家,他方に賃金労働者を,絶えず再生産するように,拡大された規模での再生産,すなわち蓄積は,拡大された規模での資本関係を,一方の極により多くの資本家またはより大きな資本家を,他方の極により多くの賃金労働者を,再生産する。労働力は絶えず資本に価値増殖手段として合体されなければならず,資本から離れることができず,資本への労働力の隷属は,ただ労働力が売られて行く個々の資本家が入れ替わることによって隠されているだけで,このような労働力の再生産は,事実上,資本そのものの再生産の一契機をなしているのである。つまり,資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なのである。

⑤古典派経済学はこの命題を十分に理解していた----A・スミスやリカードたちは,蓄積を,剰余生産物の資本化部分全体が生産的労働者によって消費されるということ(すなわちその部分全体が追加賃金労働者に転化するということ)と,同一視。」

⑥バーナード・ド・マンデヴィル,18世紀の初め。
 「所有権が十分に保護されているところでは,貧民なしで生活するよりも貨幣なしで生活するほうが容易----もし貧民がいなければ,いったいだれが労働するだろうか?----労働者は飢えから守られなければならないが,同時に,貯えるに値するようなものを与えられてもならないであろう。----働くものを勤勉にすることのできる唯一のものは,適度な労賃である。少なすぎる労賃は,彼を,その性質に応じて,無気力にしたり絶望させたりし,多すぎる労賃は彼をわがままにし怠惰にする。----社会----を幸福にし,人民を困窮状態にも満足させておくためには,大多数のものがいつまでも無知で貧乏であるということが必要である。知識はわれわれの望みを大きくし何倍にもする。そして,人の望むところが少なければ少ないほど,その人の欲望はたやすく満たされうる」

⑦マンデヴィルが気付かなかったこと----蓄積過程そのものの機構が資本といっしょに「勤勉な貧民」の数をもふやすのだということ。貧民とは,すなわち賃金労働者であって,彼らは自分の労働力を,増大する資本の増大する価値増殖力に転化させるよりほかはないのであり,またまさにそうすることによって,資本家のうちに人格化されている自分自身の生産物への自分の従属関係を永久化するよりほかはないのである。
 「社会の一部分はたゆまず労働しなければならない。----いくらかの人々は,労働はしないのに,勤勉の産物を自由に処分することができる。----独立の財産をもっている人々は,その財産をほとんど完全に他者の労働に負っており,彼ら自身の能力に負っているわけではない。----富者を貧者から区別するものは,土地や貨幣の所有ではなく,労働にたいする支配力である。----貧者にふさわしいものは,劣悪な,または奴隷的な状態ではなく,安楽で自由な従属状態であり,また財産のある人々にとっては,自分たちのために働く人々にたいする十分な影響力と権威とである。----」(サー・F・M・イーデン)

⑧イーデンは,A・スミスの弟子のなかで18世紀になにか有意義な仕事をしたただ一人の人。

⑨労働者にとって最も有利な蓄積条件のもとでは,資本への彼らの従属関係は,我慢のできる形態,または「安楽で自由な」(イーデン) 形態をまとっている。それは,資本の増大につれていっそう強度を増すのではなく,いっそう外延的となっていく(資本の搾取・支配部面が,ただ資本そのものの広がりと資本の臣下の数とにつれて拡大される)にすぎない。

・たえず増大し,累進的に資本化される,労働者たち自身の純生産物のうちから,以前よりも大きい部分が支払手段の形で彼らの手に還流----消費財原を充実,少額の準備金を形成---。----しかし,衣服や食物や取り扱いがよくなり特有財産がふえても,それは賃金労働者の従属関係や搾取をも廃止しはしない。資本の蓄積につれて労働の価格が上がるということが実際に意味しているのは,ただ,すでに賃金労働者が自分で鍛え上げた金の鎖の太さと重みとがその張りのゆるみを許すということでしかない。

・資本主義的生産の種差〔特有な性質〕。
 資本主義的生産----買い手の目的は,自分の資本の増殖であり,彼が支払うよりも多くの労働を含んでいる商品の生産,つまり,彼にとって少しも費用がかからないのに商品の販売によって実現される価値部分を含んでいる商品の生産である。剰余価値の生産,すなわち利殖は,この生産様式の絶対的法則である。労働力が生産手段を資本として維持し自分自身の価値を資本として再生産し不払労働において追加資本の源泉を与えるかぎりでのみ,ただその限りでのみ,労働力は売れる。

・労働力の販売の条件のうちには,労働者にとってより有利であろうとより不利であろうと,労働力の不断の再販売の必然性と,資本としての富の不断の拡大再生産とが含まれている。

・労賃は,つねに労働者の側からの一定量の不払労働の提供を条件とする。労賃の増加は,労働者がしなければならない不払労働の量的な減少を意味するだけ。この減少によって制度そのものが脅かされるような点までこの減少が続くことはけっしてありえない。

・資本の蓄積から生ずる労働の価格の上昇は次の二つの場合のどららか。

⑩その一つは,労働の価格の上昇が蓄積の進行を妨げないのでその上昇が続くという場合。
A・スミス「利潤が下がる場合でも資本は増加する。それは以前より急速にさえ増大する。----大資本は,利潤が減少する場合にも,利潤が大きい場合の小資本よりも急速に増大する。」⑪この場合には,不払労働の減少もけっして資本の支配の拡大を妨げないということは明白。

・もう一つの場合----,労働の価格の上昇の結果,利得の刺激が鈍くなるので,蓄積が衰える。蓄積は減少する。しかし,その減少につれて,その減少の原因はなくなる。資本と搾取可能な労働力とのあいだの不均衡はなくなる。つまり,資本主義的生産過程の機構は,自分が一時的につくりだす障害を自分で除く。労働の価格は,再び,資本の増殖欲求に適合する水準まで下がる。

・第一の場合には,労働力または労働者人口の絶対的または比率的増大の減退が資本を過剰にするのではなく,反対に,資本の増加が搾取可能な労働力を不足にする。

・第二の場合には,労働力または労働者人口の絶対的または比率的増大の増進が資本を不足にするのではなく,反対に,資本の減少が搾取可能な労働力またはむしろその価格を過剰にする。
・このような資本の蓄積における絶対的諸運動が,搾取可能な労働力の量における相対的諸運動として反映するのであり,したがって,労働力の暈そのものの運動に起因するように見える。蓄積の大きさは独立変数であり賃金の大きさは従属変数であって,その逆ではない。

・産業循環上の恐慌局面では商品価格の一般的な低落が相対的な貨幣価値の上昇として表現され,繁栄局面では商品価格の一般的な上昇が相対的な貨幣価値の低落として表現される。

・通貨学派は,物価の高いときには流通する貨幣が多すぎ,物価の低いときにはそれが少なすぎるのだと結論する。彼らの無知と事実の完全な誤認とは,あの蓄積の諸現象を,一方の場合には賃金労働者が少なすぎ,他方の場合には多すぎるのだと説明する経済学者たちと好一対。

⑫いわゆる「自然的人口法則」の根底にある資本主義的生産の法則

・資本蓄積と賃金率との関係は,支払を受けない,資本に転化する労働と,追加資本の運動に必要な追加労働との関係にほかならない。

・それは,けっして,一方には資本の大きさ,他方には労働者人口,という二つの互いに独立な量の関係ではなくて,むしろ結局はただ同じ労働者人口の不払労働と支払労働との関係でしかない。
・労働者階級によって供給され資本家階級によって蓄積される不払労働の量が,支払労働の異常な追加によらなければ資本に転化できないほど急速に増大すれば,賃金は上がるのであって,他の事情がすべて変わらないとすれば,不払労働はそれに比例して減少する。

・この減少が,資本を養う剰余労働がもはや正常な量では供給されなくなる点に触れるやいなや,そこに反動が現われる。蓄積は衰え,賃金の上昇運動は反撃を受ける。労働の価格の上昇は,ある限界のなかに,すなわち資本主義体制の基礎を単にゆるがさないだけではなく,増大する規模でのこの体制の再生産を保証するような限界のなかに,閉じ込められている。

・一つの自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則

・資本関係の不断の再生産と絶えず拡大される規模でのその再生産とに重大な脅威を与えるおそれのあるような労働の搾取度の低下や,またそのような労働の価格の上昇は,すべて,資本主義的蓄積の本性によって排除されている,ということ。そこでは労働者が現存の価値の増殖欲求のために存在するのであって,その反対に対象的な富が労働者の発展欲求のために存在するのではないという生産様式。

・人間は,宗教では自分の頭の作り物に支配されるが,同様に資本主義的生産では自分の手の作り物に支配される。
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by shihonron | 2010-08-24 23:30 | 学習会の報告
2010年 08月 10日

第197回 8月10日 第22章 第3節・第4節

8月10日(火)に第197回の学習会を行いました。
、「第22章 剰余価値の資本への転化」の第3節「剰余価値の資本と収入とへの分割」を検討し、レジュメにもとづく報告を受け第4節「剰余価値の資本と収入とへの分割から独立して蓄積の規模を規定する諸事情」を検討しました。

以下はレジュメです。


第22章 第3節 剰余価値の資本と収入とへの分割 節欲説                                   
(1)剰余価値の一部分は資本家によって収入として消費されるのであり、他の一部分は資本として充用され、蓄積される。

 注32 収入[Revenue]という語は二重の意味に用いられる。第一には、周期的に資本から生ずる果実としての剰余価値を表すために用いられ、第二には、この果実のうちから資本家によって周期的に消費される部分、かなわち彼の消費財源に加えられる部分を表すために用いられる。

(2)剰余価値の量が与えられていれば、これらの部分の一方が小さければ他方はそれだけ大きい。この分割は剰余価値の所有者の意志行為である。

■国民文庫版・フランス語版で「貯蓄」となっている言葉は、新日本版では、「節約」となっている。

(3)資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ一つの歴史的な価値と歴史的な存在権をもっている。使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、そしてまた、各個人の十分な発達を強制し、そしてまた、各個人の十分自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実的基礎となりうる物質的生産条件の想像を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。社会的機構の中では彼は一つの動輪でしかない。資本主義的生産の発展は一つの企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである。

(4)それゆえ、彼のあらゆる行動が、ただ彼において意志と意識を与えられている資本の機能でしかないかぎりでは、彼にとって彼自身の私的消費は彼の資本の蓄積から盗みとることを意味する。蓄積は、社会的な冨の世界の征服である。蓄積は、搾取される人間材料の量を拡大すると同時に、資本家の直接間接の支配を拡大するのである。

(5)資本主義的生産様式が発展し蓄積が増進し冨が増大するにつれて、資本家は資本の単なる化身ではなくなる。古典的な資本家は、個人的消費に、資本家の職分に反する罪悪で蓄積「抑制」だという烙印を押すのであるが、現代化された資本家は、蓄積を彼の享楽欲の「禁欲」として理解することができるのである。

(6)資本主義的生産様式の歴史的発端では、致冨欲と貪欲が絶対的な熱情として優勢を占める。しかし、資本主義的生産の進展は、ただ享楽の世界をつくりだすだけではない。それは、投機や信用制度によって、いくらでもにわかな致冨の源泉を開く。発展がある程度の高さに達すれば、冨の誇示であり同時に信用の手段でもある世間並みな程度の浪費は「不幸な」資本家の営業上の必要にさえなる。奢侈は資本の交際費の一部となる。彼の浪費は、彼の蓄積といっしょに、しかも一方が他方を中断させる必要なしに、増大するのである。

■国民文庫版での「貪欲」は、フランス語版では、「吝嗇」となっている。

■ 国民文庫版での「にわかな」は、フランス語版では「突然の」、新日本版では「突発的な」となっている。

(7)ドクター・エイキンによるマンチェスターの工業の四つの時期。「第一期には工場主たちは自分の生計のために激しく働かなければならなかった。」

(8)「第二の時期にはすでに彼らは小財産をもちはじめていたが、やはり以前と同じに激しく働いた。」なぜなら労働の直接的搾取には労働が必要だからである。「そして、彼らは相変わらず同じように質素に暮らしていた。……第三の時期にには奢侈がはじまった。……このころ、またもうすこしあとでは、工業家たちはすでに貨幣を蓄積していて、木やしっくいの家のかわりに石造の家を建てはじめていた。」

(9)「第四の時期」、一八世紀の最後の三分の一期は、「営業の拡張にささえられた非常な奢侈と浪費との時期である。」
(10)蓄積のための蓄積、生産のための生産、この定式のなかに古典派経済学はブルジョア時代の歴史的使命を言い表した。マルサスは、今世紀の二〇年代の初めに、現実に生産に携わる資本家には蓄積の仕事を割り当て、その他の剰余価値を分け取る人人、すなわち土地貴族や国家と教会からの受給者などには浪費の仕事を割り当てるという分業を弁護した。こうしたマルサスの主張に対しては、すでに享楽家になっていた資本家からの反発があった。資本家の代弁者の一人、リカード学派のある人は「このようなやり方では生産は促進されるどころかかえって妨害される」と叫んだ。

(12)シーニアはおごそかに言った「私は、生産用具と考えられる資本という言葉のかわりに説欲という言葉を用いる。」これこそ俗流経済学の「発見」のなによりの見本だ! 俗流経済学は経済的範疇のかわりにへつらいものの文句をもってくる。ただそれだけだ。要するに、世界はただこの現代のヴィシュヌ神前の贖罪者である資本家の難行苦行によってのみ生活しているのである。ただ蓄積するためだけではなく、単に「資本を維持するためにもそれを食ってしまうことの誘惑に抵抗するための不断の努力が必要である。」だから、単純な人道も、明らかに、資本家を殉教と誘惑から救うことを命じているのである。

(13)非常にさまざまな経済的社会構成体のなかでただ単純再生産が行われるだけではなく、規模の相違はあるにせよ、拡大された規模での再生産が行われる。ますます多く生産されて、ますます多く消費され、したがってますます多くの生産物が生産手段に転化される。しかし、この過程は、労働者にたいして彼の生産手段が、したがってまた彼の生産物も彼の生活手段も、まだ資本という形で対立していないあいだには、資本の蓄積としては現れないし、したがってまた資本家の機能としても現れない。

                                  
『資本論』第1巻 第22章 剰余価値の資本への転化
 第四節 剰余価値の資本と収入とへの比例的分割から独立して蓄積の規模を規定する諸事情
     ―― 労働力の搾取度、労働の生産力、充用される資本と消費される資本との差額の増大、前貸資本の大きさ
 
    
① 序、剰余価値が資本と収入とに分裂する比率を与えられたものとして前提する。
   この場合は、蓄積される資本の大きさは、剰余価値の絶対的大きさによって決まる。
     例、 前提            80%が資本化  20%が消費
     総剰余価値3000ポンド    2400ポンド
          1500ポンド 1200ポンド
蓄積の大きさの規定に際しては、剰余価値の総量を規定する諸事情のすべてが作用する。

1、労働の搾取度
② 実際には、労賃は労働力の価値以下への引き下げが重要な役割を演じる。
   労働者の必要消費元本を資本の蓄積元本に転化され、蓄積の規模が拡大される。
③‐⑦ 労賃をゼロにしようとするのは、資本の変わらぬ傾向である。
      イギリスの労賃をオランダの水準まで引き下げるべきだと主張されている。
⑧ 18世紀末および、19世紀はじめの数十年間に、イギリスの借地農業経営者や地主は、日雇い農業労働者に対して、労賃の形態では最低額以下を支払い、残りを教区救済金の形態で支払う
ことによって、絶対的な最低賃金を押し付けた。
⑨ 「・・・借地農場経営者たちは、労働者の側のもっとも不可欠な消費元本の蓄積さえもさまたげることによって、みずからの儲けを増やしてきた。」
⑩ 労働者の必要消費元本を直接に略奪することが、こんにち、剰余価値の形成、それゆえまた資本の蓄積元本の形成にどのような役割をもつかは、すでに「家内労働」(第13章第八節)でみた。
⑪ 労働力のより高度な緊張によって生み出される追加的労働は、それに比例して不変資本部分を高めることなしに、剰余生産物と剰余価値を、すなわち蓄積の実体を増大させることができる。
⑫ 採取産業、たとえば鉱山業では、原料は資本の前貸しの構成部分にならない。労働対象は、自然によって無償で贈られたものだからである。(金属鉱石、鉱物、石炭、石材)
   生産物の総量と価格は、使用される労働に正比例して増大する。労働力の弾力性のおかげで、不変資本をあらかじめ増加することなしに蓄積の領域が拡大される。
⑬ 農業では、従来どおりの労働者数による労働量の増大は、労働手段の新たな前貸しを要求することなしに、土地の豊度が高められる。新たな資本の介在なしに、蓄積が増大する直接的源泉となるのは、ここでもまた自然に対する人間の直接的な働きかけである。
⑭ 採取産業と農業が、追加的な資本の供給をまたないで生み出した生産物増加分は、製造工業をも利する。
⑮ 以上の、一般的結論。資本は一見すると、資本自身の大きさによって定められた限界を超えて、すなわち資本の定在形態たる、すでに生産されている生産手段の価値および総量によって定められた限界を超えて、自己の蓄積の諸要素を拡大することができる。


2、労働の生産力
⑯ 資本の蓄積におけるもう一つの重要な要因は、社会的労働の生産性の程度である。
⑰ 労働の生産力の上昇 → 剰余生産物の総量の増大。労働者の低廉化。剰余価値率の上昇。
  こうして、加速された蓄積が行われる。
⑱ 労働の生産力の発展は、原資本あるいはすでに生産過程にある資本にも反作用する。
  労働手段がより効率の高い、安価な機械、道具、装置などが、旧式のものに取って代わる。
   化学の進歩は、廃物を再生産過程の循環のなかに投げ返すことを教え、こうして、先行の資本投下を要することなく新らたな資本素材をつくり出す。
科学・技術は、機能資本の与えられた大きさからは独立した資本の膨張力能を形成する。
⑲ 同一の労働量はつねに同量の新価値額しか生産物につけ加えないが、それが同時に生産物に移転する旧資本価値は、労働の生産性が高まるにつれて増大する。
⑳ 新価値を創造しながら旧価値を維持するということは、生きた労働の天分である。それゆえ労働は、生産手段の効果や、規模や価値の増大につれて、したがって、労働の生産力の発展に伴う蓄積につれて、絶えず膨張する資本価値をつねに新しい形態で維持し永久化する。労働のこうした自然力は、労働を合体した資本の維持力として現われる。

3、充用された資本と消費された資本との差額の増大
(21) 資本の増大とともに、充用された資本と消費された資本との差額が増大し、資本の蓄積に影響する。
建物、機械設備、排水管、役畜、各種の装置は、生産過程のなかで全範囲に機能するが、その摩損は、漸次的である。つまり、これらの労働手段は、全部的に充用されながら、部分的にしか消費されない程度に応じて、水、蒸気、空気、電気などのような自然力と同様の無償の役立ち
をする。生きた労働によってとらえられ活気づけられる過去の労働のこの無償の役立ちは、蓄積規模の拡大とともに、累積されていく。
(22) 過去の労働は、つねに資本に扮装する。
  したがって、生産手段の形態で協力する過去の労働の重要性が絶えず増大することは、労働そのものから疎外された過去の労働(労働者の過去の不払い労働)の姿態、すなわち資本という姿態のせいだとされてしまう。

4、投下資本の大きさ(蓄積の規模を規定する要因としての)
(23) 継続的な蓄積によって資本が増大すればするほど、消費元本と蓄積元本とに分かれる価値総額もそれだけ増加する。資本家はますます贅沢に暮らしながら、ますます多くの蓄積をすることができる。
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by shihonron | 2010-08-10 23:30 | 学習会の報告
2010年 08月 03日

第196回 8月3日 第22章 剰余価値の資本への転化 第2節・第3節

8月3日(火)に第196回の学習会を行いました。
レジュメに基づいた報告を受け、「第22章 剰余価値の資本への転化」の第2節「経済学による、拡大された規模での再生産に関する誤った見解」を検討しました。第3節「剰余価値の資本と収入とへの分割 説欲説」についてレジュメにもとづく報告をしたところで時間切れとなりました。

以下は第2節のレジュメです。

第2節 経済学による、拡大された規模での再生産に関する誤った見解

 ①さて、蓄積、すなわち剰余価値の資本への再転化に関するいくつかのよりくわしい規定に入る前に、古典派経済学によって生み出されたあいまいさを片づけておかなければならない。

 ②資本家が剰余価値の一部分で自分自身の消費のために買う諸商品が、彼にとって生産手段および価値増殖手段として役立たないのと同様に、彼が自分の自然的・社会的欲求を満たすために買う労働も生産的労働ではない。資本家は、このような商品や労働の購買によっては、剰余価値を資本に転化させるのではなく、反対にそれを収入として消耗し、または支出するのである。
・他方、ブルジョア経済学は、通俗的偏見・・資本主義的生産を蓄蔵貨幣の形成と混同し(28)、したがってまた、蓄積された富とは、その現存する現物形態の破壊を、すなわち消費をまぬがれた、あるいは流通から救われた富であると考える通俗的偏見・・と闘わなければならなかった。貨幣を流通しないように秘蔵することは貨幣を資本として増殖するのと正反対であり、蓄財的意味での商品蓄積はまったく愚かなことである(28a)。大量の商品蓄積は流通の停滞または過剰生産の結果である(29)。たしかに、この通俗的観念の中には、一方では富者の消費財源として積み立てられ徐々に消耗される財貨の姿があり、他方では、すべての生産様式に付随する現象である在庫形成・・この現象については流通過程の分析のところでふれるであろう・・がある。

 ③したがって、古典派経済学は、不生産的労働者によってではなく生産的労働者によって剰余生産物が消費されることを蓄積過程の特徴的契機として強調する限りでは、正しい。しかし、その誤りもまたここから始まる。A・スミスは、蓄積を、単に生産的労働者による剰余生産物の消費として、または、剰余価値の資本化を、単に剰余価値の労働力への転換として、説明することを流行させた。たとえばリカードの言うところを聞いてみよう・・
・ 「一国の生産物はすべて消費されるものと理解されるに違いない。しかし、それが別の価値を再生産する者によって消費されるのか、それともこれを再生産しない者によって消費されるのかによって、考えられる限りの最大の相違が生じる。収入が貯蓄されて資本に追加されると言う時、それが意味することは、収入のうち資本に追加されると言われる部分が、不生産的労働者ではなくて生産的労働者によって消費されるということである。資本が非消費によって増加すると想定することほど大きな誤りはない(30)」。

 ④リカードとその後のすべての人々が、A・スミスの口まねで次のように言うことほど大きな誤りはない・・
・ 「収入のうち資本に追加されると言われる部分は、生産的労働者によって消費される。」

 ⑤この考え方によれば、資本に転化される剰余価値はすべて可変資本になるであろう。ところが、剰余価値は、最初に前貸しされた価値と同様に、不変資本と可変資本とに、生産手段と労働力とに、分かれる。労働力は、可変資本が生産過程の内部に存在する際の形態である。この過程において、労働力そのものは資本家たちによって消費される。労働力は、その機能、・・労働・・によって生産手段を消費する。それと同時に、労働力の購入に支払われた貨幣は生活手段に転化し、この生活手段は、「生産的労働」によってではなく「生産的労働者」によって消費される。A・スミスは根本的にまちがった分析によって次のようなおろかな結論に到達した。すなわち各個別資本は不変的構成部分と可変的構成部分とに分かれるとしても、社会的資本はただ可変資本のみに帰着する、すなわち労賃の支払いのみに支出される、というのである。たとえば、ある織物工場主が二〇〇〇ポンド・スターリングを資本に転化するとしよう。彼は、この貨幣の一部分を織布工の雇い入れに支出し、他の部分を毛糸や毛織機械などに支出する。しかし、彼が糸や機械を買う相手の人々は、さらにその代金の一部をもって労働に支払い、以下同様にして、ついには、この二〇〇〇ポンド・スターリングの全部が労賃の支払に支出される、すなわちこの二〇〇〇ポンド・スターリングで代表される生産物の全部が生産的労働者によって消費されつくす、というわけである。明らかに、この議論の全力点は、われわれをたらいまわしにする「以下同様にして」という言葉にある。実際、A・スミスは、ちょうど研究が困難になろうとするところで研究を打ち切ってしまう(31)。

 ⑥年総生産の財源のみに注目する限り、年々の再生産過程は容易に理解できる。しかし、年生産のすべての構成部分が商品市場に持ち出されなければならないのであって、そこから困難が始まる。個別諸資本と個人的諸収入の運動が、全般的な場所変換・・社会的富の流通・・では交錯し、混雑しあい、消失するのであり、この全般的な場所変換が見る目を混乱させ、非常にもつれた課題の解決を研究に提起する。第2部、第3編において、私は、現実的関連の分析を行うであろう・・流通から出てくる際の姿態で年生産の形象を示すという試みを彼らの“経済表 Tableau economique ”の中ではじめて行ったことは、重農主義者の大きな功績である(32)。

 ⑦なお、純生産物のうちから資本に転化される部分がすべて労働者階級によって消費されるというA・スミスの命題を、経済学が資本家階級のためにぬかりなく利用したのは、自明の理である。
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by shihonron | 2010-08-03 23:30 | 学習会の報告