『資本論』を読む会の報告

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2010年 11月 23日

第206回 11月23日 第24章 第2節

11月23日(火)第206回の学習会を行いました。
「第24章 第2節 農村住民からの土地の収奪」の第12段落から最後第11段落までについてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。
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by shihonron | 2010-11-23 23:30 | 学習会の報告
2010年 11月 16日

第205回 11月16日 第24章 第1節・第2節

11月16日(火)第205回の学習会を行いました。
「第24章 いわゆる本源的蓄積 第1節 本源的蓄積の秘密」と「第24章 第2節 農村住民からの土地の収奪」の第1段落から第11段落までについてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。


 第24章 いわゆる本源的蓄積 第1節  本源的蓄積の秘密
①貨幣→資本→剰余価値の生産→より多くの資本
資本の蓄積は剰余価値を前提とし、剰余価値は資本主義的生産を前提とするが、
しかし、資本主義的生産はまた商品生産者たちの手の中に比較的大量の資本と労働力とが現存していることを前提とする。
この全運動は堂々巡りのように見えるが、ここから抜け出るためには
資本主義的蓄積に先行する「本源的」蓄積を想定しなければならない。

②この本源的蓄積が経済学で演じる役割≒原罪が神学で演ずる役割
一方に勤勉で、聡明で、倹約家がいて、他方に怠惰で浪費家の浮浪者がいた。
前者は富を蓄積し、後者は自分自身の皮以外には何も売れる物をもっていないということになった。そしてこの原罪以来、どんなに労働しても相変わらず自分自身以外何も持っていない大衆の貧困と、ずっと以前から労働しなくなっているにもかかわらず、なお増大する、少数の人々の富が始まった。

現実の歴史では・・・征服や圧政や強盗殺人が、要するに暴力が大きな役割を演じている。ものやさしい経済学では、昔から牧歌が支配していた。昔から正義と「労働」とが唯一の致富手段であった。実際には本源的蓄積の諸方法は決して牧歌的なものではない。
③貨幣も商品もはじめから商品ではないのであって、それは生産手段や生活手段がはじめからそうではないのと同じである。それらのものは資本への転化を必要とする。それには一方に、自分が所有している価値額を他人の労働力の購入によって増殖することが必要な、貨幣、生産手段、および生活手段の所有者と、他方に、自分の労働力の売り手であり、それゆえ労働の売り手である自由な労働者という、二種類の非常に違った商品所有者が向かい合い接触しなければならない。自由な労働者とは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分に属するのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らに属さず、彼らはむしろ生産手段から自由である、すなわち引き離されてもいるという、二重の意味でそうなのである。・・資本関係は、労働者と労働実現条件の所有との分離を前提とする。資本主義的生産がひとたび自分の足で立てば、それはこの分離をただ維持するだけでなく、ますます増大する規模で再生産する。・・・いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない。それが「本源的なもの」として現れるのは、それが資本の、そしてまた資本に照応する生産様式の前史をなしているためである。
④資本主義社会の経済構造は封建社会の経済構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を遊離させたのである。
⑤直接生産者である労働者は・・・すべての生産手段が奪い取られ、古い封建的諸制度によって与えられていた彼らの生存上のすべての保証を奪い取られてしまったのちに、はじめて自分自身の売り手になる。
⑥この新しい主権者である産業資本家たちは・・・彼らは同職組合の手工業親方だけでなく、富の源泉を所有している封建領主をも駆逐しなければならなかった。この側面から見ると、彼らの台頭は封建勢力とその特権に対するまた同職組合やそれが生産の自由な発展と人間による人間の自由な搾取とに課していた桎梏にたいする、競争の成果として、現れる。
⑦賃労働者と資本家とを生み出した発展の出発点は労働者の隷属状態であった。その進展の本領は、この隷属の形態変換に、すなわち封建的搾取の資本主義的搾取への転化にあった。この経過を理解するにはそれほど遡る必要はない。・・・資本主義時代が始まるのは、ようやく16世紀からである。
⑧本源的蓄積の歴史において歴史的に画期的なものといえば、形成されつつある資本家階級のために梃子として役立つ変革がすべてそうであるが、しかしわけても画期的なのは、人間の大群が突如としてかつ暴力的にその生産維持手段から引き離され、鳥のように自由な(人間社会の拘束から放たれ、そのため法律の保護も奪われた)プロレタリアとて労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者である農民からの土地収奪が、この全課程の基礎をなしている。・・それはイギリスにおいて典型的な形態をとっており、それゆえわれわれはイギリスを例にとるのである。。


疑問点②ティエール氏はかつてはあんなに機知をひらめかせたフランス人に向かって・・とあるのは何を意味するのか?
⑥産業の騎士たちは、自分のまったく関与しない事件を利用する、とは何か?
⑦賃労働者と資本家とを生み出した発展の出発点=労働者の隷属状態とは?

第二四章   いわゆる本源的蓄積      第二節 農村住民からの土地の収奪
①イギリスでは農奴制は14世紀の終わりごろには事実上なくなっていた。
・14末~15世紀には人口の非常な多数が自由な自営農民(彼らの所有権がどんなに封建的な看板に よって隠されていたにしても)。
・いくらか大きな領主所有地では,以前はそれ自身農奴だったベイリフ〔bailiff 荘園の土地管理 人〕は自由な借地農業者によって駆逐されていた。農業の賃金労働者は,一部は余暇利用の農民, 一部は本来の賃金労働者の階級。後者もまた事実上は同時に自営農民でもあった(賃金のほかに 4ac.以上の大きさの耕地と小屋,共同地の用益権)。
・ヨーロッパの封建的な生産は,多くの家臣のあいだに土地を分割。
・ノルマン人による征服後,イギリスの土地は巨大なバロン領に分割(ただ一つで900の旧アング ロサクソン貴族領を包括するものも)----この土地に小農民経営(あちこちに大きい領主直属地 が点在)。このような事情は,人民の富を許したのであるが,しかしその同じ事情が資本の富を許 さなかった。

②資本主義的生産様式の基礎をつくりだした変革の序曲は,15世紀の最後の1/3期と16世紀の最初の 数十年間。封建家臣団の解体⇒無保護なプロレタリアの大群が労働市場に投げ出された。
・それ自身ブルジョア的発展の一産物だった王権は,総対的王権の追求にさいしてこの家臣団の解 体を強行的に促進。
・王権や議会に最も頑強に対抗しながら,大封建領主は,農民をその土地から暴力的に駆逐,農民の 共同地を横領⇒大きなプロレタリアートを創出。これに直接の原動力を与えたものは,イギリ スでは特にフランドルの羊毛マニュファクチュアの興隆とそれに対応する羊毛価格の騰貴だった。 古い封建貴族は大きな封建戦争に食い尽くされていたし,新しい貴族は,貨幣が権力中の権力にな った新しい時代の子だった。だから,耕地の牧羊場化は新しい貴族の合い言葉になった。

③イギリスの労働者階級は,過渡段階も通らないで,その黄金の時代から鉄の時代に転落。
④立法は,この変革を前にして恐れおののいた。それは,「国民の富」〔"Wealth of the Nation"〕 すなわち資本形成と民衆の容赦ない搾取と貧困化とがいっさいの国策の極致とみなされるような 文明水準には,まだ立っていなかったのである。
・ベーコン----そのころ(1489年)少数の牧夫によって容易に管理される牧場に耕地が変えられる ことについて苦情。定期契約や終身契約や一年契約の借地農場(ヨーマンの一大部分がこれによ って生活)が領主直営地に変えられた。民の衰退,その結果,都市や教会や十分の一税の凋落をも たらした。当時の王や議会は共同地横領や,人口削減的な牧場経営を阻止する方策をとった。

⑤1489年のヘンリ7世の一条例----最低20ac.の土地がついている農民家屋の破壊を禁止。
・ヘンリ8世第25年の一条例----同じ法律が更新。
 「多くの借地農場および家畜の大群,特に羊が少数の手に集中され,それによって地代は非常に増 大して耕作は非常に衰退し,教会も家屋も取り払われ,驚くほど多数の人民が自分自身をも家族を も養うことを不可能にされている。」
⑥この法律は荒廃した農場の再建を命じ,穀作地と牧場地との割合などを規定。
・1533年の一条例----24,000頭もの羊を所有する土地所有者が何人もあることを嘆き,2000頭に制 限。
・人民の訴えも,ヘンリ7世以来150年にわたり小借地農業者や農民の収奪に抗した立法も,効果なし。
・不成功の秘密をベーコンはわれわれに漏らしている----ヘンリ7世の条例は,一定の標準規格の農 業経営と農家とを創出,農業経営と農家とのためにある割合の土地を保存⇒十分な富をもち隷 属状態に陥っていない臣民を生みだし,雇い人の手にではなく所有者の手に犂《すき》を維持す ることができるようになった。

⑦資本主義体制の要求したものはこれとは反対のもの
・民衆の隷属状態,民衆自身の被傭人への転化,民衆の労働手段の資本への転化。
・この過渡時代の立法----農村の賃金労働者の小屋についている4ac.の土地を維持することに努め, 自分の小屋に下宿人をおくことを禁止。
・クロムウェルも,ロンドンの周辺から4マイル以内の地に4ac.の土地のついていない家を建てるこ とを禁止した。
・18世紀の前半になっても,農村労働者の小屋に1~2ac.の付属地のない場合には,告訴。
・今日----ドクター・ハンター(1864)
 「地主と借地機業者とはここでは提携。かりにわずか数エーカーでも小屋につければ,労働者を あまりにも独立させすぎることになるだろう。」

⑧民衆の暴力的な収奪過程は16世紀には宗教改革によって,またその結果としての大がかりな教会 領の横領によって,新たな恐ろしい衝撃を与えられた。
・カトリック教会は宗教改革の時代にはイギリスの土地の一大部分の封建的所有者だった。
・修道院などにたいする抑圧⇒その住人のプロレタリアート化。教会領⇒大部分は国王の寵臣 に与えられるか,捨て値で投機師的な借地農業者や都市ブルジョアに売却。世襲領民を追い出し て,農場をひとまとめにした。貧困農民に保証されていた十分の一税の一部分の所有権は没収。
・「いたるところに貧民がいる」----エリザベス女王。彼女の治世の第43年には,ついに救貧税の 実施によって受救貧民の存在を公式に認めざるをえなくなった。
    
⑨この法律は,チャールズ1世(位1625~49)第16年の法律第4号によって永久的なものと宣言。
・1834年,いっそう厳格な形を与えられた(新救貧法)。
 (197) プロテスタント「精神」は,本質的にブルジョワジーの宗教である(仏語版)。
・富裕な借地農業者----この条例の施行に伴うすべての混乱を除去することができる巧妙な一策を案出。教 区に一つの監獄を設ける,監獄に拘禁されることを欲しない貧民には,救済が拒絶される。
・教区の貧民を賃借りしたいという人があれば,最低の借り賃を書いて一定の期日に封書で申し込め,という 公示。----もしどこかで貧民が契約者のもとで死ぬようなことでもあれば,罪は契約者の側にある。なぜな らば,教区はその貧民にたいする自分の義務を果たしたわけだから。
・この州や隣接諸州の他の自由保有者たちもわれわれに加担して,次のような法案,すなわち貧民の拘禁と強 制労働とを許して拘禁を拒むものには救済を受ける権利を与えないという法案を提出するように彼らの下 院議員を促すであろう。これは,貧困者が救済を要求することを予防するであろう。
・スコットランドでは農奴制の廃止はイングランドよりも数世紀遅れる。
・農奴制の廃止がではなく,まさに農民の土地所有の廃止こそが農民をプロレタリアにし受救貧民にした
・教会領は古代的な土地所有関係の宗教的砦。砦が落ちて,この関係も維持できなくなった。
 (198) ロジャーズ----宗教改革による民衆の貧民化を力説

⑩17世紀の最後の数十年間も,ヨーマンリは借地農業者の階級よりも多く,クロムウェルの主力。
・農村賃金労働者でさえも,まだ共同地の共同所有者だった。
・1750年にはヨーマンリはほとんどなくなっていたし,また18世紀の最後の数十年間には農民の共 同地の最後の痕跡も消失。ここでは農業革命の暴力的槓杆を問題にする(農業革命の純粋に経済 的な原動力は見ない)。
⑪ステュアート王朝復位(1603~49,60~1714)
・土地所有者たちは法律によって横領をなし遂げた(大陸では法律的な回り道なしで)。彼らは封 建的土地制度を廃止(国家にたいする土地の義務を振り落とし)し,農民やその他の民衆への課 税によって国家への「償い」をし,土地の近代的私有権(ただ封建的権利名義を所有していただ けだった)を要求。
・定住関係諸法律を強要⇒イギリスの農耕者に大きな影響。農民⇒教区の付属物(仏語版)
            
⑫名誉革命----オレンジ公ウィリアム3世といっしょに地主的および資本家的利殖者たちをも支配 者の地位につけた。
・彼らは,国有地の横領を巨大な規模で実行。これらの地所は贈与され,捨て値で売られ,または直 接的横領によっても私有地に併合された。詐取的に横領された国有地は,残っていた教会からの 盗奪地といっしょになって,イギリスの少数支配貴族の今日の領地の基礎をなしている。
・ブルジョア的資本家たちはこの処置を助けたのであるが,その目的は,土地の純粋な取引物への転 化,農業大経営の領域拡大,農村からのプロレタリアの供給などにあった。
・新たな土地貴族は,新たな銀行貴族や,孵化したばかりの大金融業者や,当時は保護関税に支持さ れていた大製造業者たちの当然の盟友だった。
⑬共同地(国有地とは別。古代ゲルマン的制度,封建制の外皮の下で存続した)の暴力的横領が,多 くは耕地の牧場化を伴って,15世紀末に始まり16世紀にも続けられる。この過程は個人的な暴行 として行なわれ,これにたいして立法は150年にわたってむだな抗争を続けた。
・18世紀の進歩は,法律そのものが人民共有地の盗奪の手段になるということ(大借地農業者たち の個人的な方法も併行)。「共同地囲い込み法案」----地主が人民共有地を私有地として自分自 身に贈与するための法令であり,人民収奪の法令。
 (203) 「借地農業者たちは,小屋住み農夫が自分自身のほかになにか生き物を飼うことを禁止しているが, その口実は,もし農夫が家畜や家禽を飼えば彼らは穀倉から飼料を盗むにちがいないからと。また,小屋住 み農夫を貧乏にしておけば彼らを勤勉にしておくことにもなる,とも言っている。ほんとうの事実は,共同 地にたいする全権利の横奪」(『荒蕪地囲い込みの諸結果に関する政治的研究』,ロンドン,1785年)

⑭一方では独立のヨーマンに代わって任意借地農業者(tenants-at-will,一年の解除予告期間を条 件とする小借地農業者,地主の意のままになる隷属的な一群)が出現。
・他方では,国有地の横領と並んで,ことに,組織的に行なわれた共同地の横領が,18世紀に資本借地 農場とか商人借地農場とか呼ばれた大借地農場の膨張を助けたのであり,また農村民を工業のた めのプロレタリアートとして「遊離させる」ことを助けた。

⑮18世紀----国の富と人民の貧との同一性を19世紀と同じ程度にはまだ把握していなかった。
・当時の経済学の文献のなかには「共同地の囲い込み」に関して非常に激しい論戦。当時の状態が いきいきと描きだされる資料。
・平均50~150ac.の24の借地農場が合併⇒三つの農場。
・以前は1500ac.も耕作されていた領地⇒今では50ac.も耕作されていないものがたくさんある。
・住宅や穀倉や厩舎などの廃嘘⇒前に人の住んでいたことの唯一の痕跡。
・100戸の家と家族⇒8戸か10戸に減っているところも少なくない。
・4人か5人の富裕な牧畜業者⇒大きな最近囲い込まれたばかりの領地(これらの土地は以前は20人から30人の借地農業者や同じくらいに多数の比較的小さい所有者の手にあった)を横領。
⑯ドクター・R・プライス
・単に休閑地だけではなく,共同体に一定の支払をして耕すとか共同的に耕すとかされていた土地 ⇒囲い込みという口実で隣接の大地主により併合。
・開放地と既耕地との囲い込み⇒大借地農場の独占を増進し,生活手段の価格を高め,人口減少を ひき起こす。
・荒れ地の囲い込みでさえ⇒貧民からはその生活維持手段の一部を奪い,また借地農場をいっそ う膨張させる。
・少数の大借地農業者への土地の集中⇒
 a.小借地農業者----他人のための労働に上って生計の資を得なければならず,自分に必要なすべ  てのものを市場に求めざるをえない。より多くの労働がなされるであろう。
 b.都市も工場も大きくなるであろう。仕事を求める人々が追い立てられてくるから。
・これが,借地農場の集中が自然的に作用する仕方である。

⑰彼は囲い込みの総結果を次のように要約する。
・下層人民階級の状態はほとんどどの点から見ても悪化
・比較的小さい土地所有者や借地農業者⇒日雇い人や常雇い人の地位⇒生活を維持することは ますます困難

⑱共同地の横領とそれに伴う農業革命⇒農業労働者にきわめて急激に作用----イーデンの言
・1765年から1780年までに彼らの賃金は,最低限度を割って公共の貧民救済によって補充。彼らの労賃は,  「やっと絶対的な生活必需品を得るに足りるだけ」

⑲囲い込みの擁護者でドクター・プライスの反対者だった人の言葉。
・小農民を他人のために労働しなければならない人々に変える⇒より多くの労働が動かされる  ⇒国民の利益。
・彼らの結合された労働が一つの借地農場で使用⇒生産物増。こうして工業のための余剰生産物 が形成され,工業が穀物の生産量に比例して増大〔J・アーバスノト〕。
 (212)「労働者は自分の小屋から追い出されて,都市で職を求めることを強制される。----しかし,やがても っと大きい余剰が得られ,こうして資本がふやされる。」(〔R・B・シーリ〕

⑳サー・F・M・イーデン
・「神聖な所有権」にたいするどんなにあつかましい冒瀆でも,人間にたいするどんなにひどい暴 行でも,それが資本主義的生産様式の基礎を築くために必要だとあれば,それを擁護。----15世紀 の最後の1/3期から18世紀の末まで行なわれた暴力的な人民収奪に伴う数々の盗賊行為や残虐や 人民の苦難⇒「快適な」結論的省察に到達
・「耕地と牧地との適当な割合が設けられなければならなかった。14世紀の全体と15世紀の大部分 とをつうじて,なお,耕地2ac.または3ac.にたいして,また場合によっては4ac.にたいしてさえも, 牧場は1ac.の割合だった。16世紀の中期にはこの割合は耕地2ac.にたいして牧地2ac.となり,さ らに後には耕地1ac.にたいして牧場2ac.となり,最後に耕地1ac.にたいして牧地3ac.という適当 な割合ができあがった。」

2119世紀には,農耕者と共同地との関連の記憶さえもなくなってしまった。
・1801年から1831年までに3,511,770ac.の共同地が農村民から取り上げられて議会によって地主か ら地主へと贈られた----農村民にわずかな補償もなし

22農耕者から土地を取り上げる最後の大がかりな収奪過程は,いわゆる地所の清掃(Clearing of E states----実際には土地からの人間の掃き捨て)である。これまで考察してきたいっさいのイギ リス的方法は,この「清掃」において頂点に達した。
・もはや掃き捨てられるべき独立農民もいなくたった今では,ついに小屋の「清掃」にまで進んで きたので,農業労働者たちは自分の耕す土地そのものの上にはもはや自分の住居に必要な空間を 見いださないのである。
・本来の意味での「地所の清掃」がなにを意味するかは,近代ロマン文学の約束の地,スコットラン ド高地で,はじめて知ることができる。
 a.この過程の組織的な性質によって,
 b.それが一挙に遂行される規模の大きさによって(ドイツの公国ほどの大きさの地面が清掃),
 c.横領された土地所有の特殊な形態によって,一段ときわだっているのである。


23スコットランド高地のケルト人
・氏族制----それぞれ自分の定住している土地の所有者。氏族の代表者(首長)=グレート・マン ----この土地の名目上の所有者(イギリスの女王が全国士の名目上の所有者であるようなもの)
・氏族の首長たちは彼らの昔からの盗賊稼業をやめず,自分自身の権威によって彼らの名目的所有 権を私有権に変えた。氏族員たちの反抗にぶつかると,暴力で氏族員たちを追い払う。
・18世紀には,農村から追い出されたゲール人には同時に国外移住も禁止された。彼らをむりやり にグラスゴーやその他の工業都市に追い込むためだった。
・19世紀に支配的だった方法の実例----サザランド女公の「清掃」。この,経済に通じていた人物 は,公位につくと同時に経済の根本治療(全州の牧羊場化)に着手。 1814年から1820年まで,こ の15,000の住民,約3000戸の家族は,組織的に追放・根絶。村落は取りこわされて焼き払われ,耕 地はすべて牧場に変えられた。
・この夫人は,氏族のものになっていた794,000ac.の土地をわがものにした。追い払われた土着民 には,彼女は海浜に約6000ac.(それまでは荒れるにまかされていた),一戸当たり2ac.をあてが った。女公は,この土地を1ac.平均2シリング6ペンスの地代で賃貸しした。横領した氏族地全体 を彼女は29の大きな賃貸し牧羊場に分割,イングランド人である農業労働者を住まわせた。1825 年には15,000のゲール人は131,000の羊にとって代わられていた。海浜に投げ出された土着民は 両棲動物になった。半分は陸上,半分は水上で暮らしたが,しかも両方合わせて半人分の暮らしし かしていなかった。

24魚のにおいが首長(グレート・メン)たちの鼻にはいった。彼らはもうけ口をかぎつけて,海浜 をロンドンの大きな魚商人たちに賃貸しした。ゲール人は二度目の追い出しにあった。

25最後に牧羊場の一部分は狩猟場に再転化される。
・イングランドには元からの森林というものはない。貴人の猟園にいる鹿は体質的には家畜であっ て,ロンドンの市参事会員のようにふとっている。
・スコットランド高地では森林が拡張された。土地の牧羊場化はゲール人をいっそう不毛な土地に 追いやった。今では鹿が羊にとって代わろうとしており,ゲール人をさらにいっそう破磯的な貧 困に追い込んでいる。
・鹿猟林と人民とは共存することはできない。狩猟場にすれば,多くの場合牧羊場とは比べものに ならないほど有利。鹿はますます自由な遊び場を得たのに,人間はますます狭い柵の中に追いこ まれた。
 (219a) スコットランドの "deer forests"(鹿猟林)には一本の樹木もない。羊を追い出してから,はげ山 に鹿を追い入れ,それを「鹿猟林」と名づけるのである。
 第二版への追補。1866年3月,レオン・リーヴァイ教授,牧羊場の猟林化について講演----「牧羊場にしてし まうことは,出費なしに収入を得るための最も好都合な手段を提供した。牧羊場のかわりに鹿猟林,という のが,高地で普通に見られる変化になった。かつては人間が,羊に席を与えるために,駆逐されたが,今度は 羊が野獣に駆逐される。広大な地帯がわずかばかりの人々の狩猟道楽にささげられている。」

26教会領の横領,国有地の詐欺的な譲渡,共同地の盗奪,横領と容赦ない暴行とによって行なわれた 封建的所有や氏族的所有の近代的私有への転化,これらはみなそれぞれ本源的蓄積の牧歌的な方 法だった。それらは,資本主義的農業のための領域を占領し,土地を資本に合体させ,都市工業の ためにそれが必要とする無保護なプロレタリアートの供給をつくりだした。
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by shihonron | 2010-11-16 23:30 | 学習会の報告
2010年 11月 09日

第204回 11月9日 第23章 第5節

11月9日(火)に第204回の学習会を行いました。
「第23章 第5節 資本主義的蓄積の一般的法則の例解」のfの第14段落から最後までについてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。
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by shihonron | 2010-11-09 23:30 | 学習会の報告
2010年 11月 02日

第23章 第5節のレジュメ その1

第二三章   第五節 資本主義的蓄積の一般的法則の例解 
                            
    a 1846~1866年のイギリス
①近代社会のどの時期を見ても,最近の20年間ほど資本主義的蓄積の研究に好都合な時期はない。 すべての国のうちで典型的な実例を提供しているのはイギリス。イギリスは世界市場で第一位を 維持----資本主義的生産様式が十分に発展。生産の巨人的前進,しかもこの20年間の後半はまた    その前半をはるかに越えるということは,第四篇で十分に示唆。

②最近の半世紀間のイギリスの人口の絶対的増加は非常に大きかったにもかかわらず,その相対的 増加すなわち増加率は引き続き減少。

③別の面から富の増加を見る----最も確かな手がかりになるのは,所得税を課される利潤や地代な どの変動。課税される利潤(農業者やその他いくつかの項目は含まれていない)の増加は,大ブ リテンでは1853年から1864年までに50.47% (すなわち年平均4.58%),同じ期間の人口の増加 は約12%。課税対象になる土地(家屋,鉄道,鉱山,漁場などを含む)の賃貸料の増加は,1853年か ら1864年までに38%,すなわち年々3 5/12%。

④1853~1864年の期間の各4年間を比較すれば,所得の増加度は絶えず増大。
       利潤から生ずる所得の増加度  連合王国の課税所得の総額
1853~1857年   年々1.73%         £307,068,898(1856年)
1857~1861年   年々2.74%         £328,127,416(1859年)
1861~1864年   年々9.30%         £351,745,241(1862年)
                       £359,142,897(1863年)
                       £362,462,279(1864年)
                       £385,530,020(1865年)

⑤資本の蓄積は同時に資本の集積と集中とを伴った。
・1851年から1861年までに100ac.未満の借地農場は31,583から26,567に減少。
・相続税を課された100万ポンドを越える動産の増加。
・集中が最もよく推測されるのは,課税所得の増加と配分(s.680表)

⑥19C中葉の連合王国----生産額の増加についての統計(石炭,銑鉄,鉄道,総輸出入額)

⑦イギリスの戸籍長官の勝利の叫び。
 「人口は急激に増加したとはいえ,産業や富の進展には追いつかなかった。」

⑧グラッドストン(1843年2月13日の下院演説)
 「人民の消費力が減退し,労働者階級の窮乏や貧困が増大しているのに,それと同時に上層階級で は不断の富の蓄積と資本の不断の増大とが行なわれているということは,この国の社会状態の最 も憂欝な特徴の一つである。」

⑨20年後の1863年4月16日の予算演説。
 「1842年から1852年までのあいだにこの国の課税所得は6%増加した。1853年から1861年までの8 年間には,それは20%増加した。信じられないほど驚くべきもの,人を酔わすような,富や力の増 加も----有産階級だけに限られている。----しかし,それは一般に消費される品物を安くするの だから,労働者人口にとっても間接の利益----富者はますます豊かになったが,貧者もまた貧しさ を少なくしてきた。貧困の極点が軽減された。」

⑩労働者階級は相対的には相変わらず貧乏。貧困の極点は軽減されず増大。富裕の極点は増大。
・生活手段----ロンドンの孤児院の報告は,
  1851----1853年に比べて,1860----1862年の3年間の平均として20%の騰貴。
  1863----1865年,肉類,バター,牛乳,砂糖,塩,石炭,その他多数の必要生活手段の累進的な騰貴
・1864年4月7日のグラッドストンの予算演説----労働者階級の幸福を次の言葉に要約。
 「人生は十のうち九までは単なる生存のための闘争である」
⑪フォーセット教授
・「----富者は急速に富を増すが(the rich grow rapidly richer),労働者階級の安楽の増加は 少しも見られない。----労働者たちは,彼らの債権者である小売商人の奴隷になる」

⑫『資本論』労働日や機械に関する諸篇の考察対象----社会的機能を行なっているあいだの労働者。
・蓄積の諸法則の十分な解明のためには,作業場の外での彼の状態,彼の食い物や住まいの状態----, 工業プロレタリアートと農業労働者とのうちの最悪の支払を受ける部分,すなわち労働者階級の 過半をなしている部分が考察される。

⑬公認の受救貧民(労働者階級のなかでも労働力の販売という自分の生存条件を失って公共の施し 物で露命をつないでいる部分)
・イングランドでは1855年--- 851,369人,
         1856年--- 877,767人,
         1865年--- 971,433人
         1863年---1,079,382人  綿花飢饉
         1864年---1,014,978人
・1866年の恐慌⇒ロンドンの貧民増加率は,1866年には1865年に比べて19.5%,1864年に比べて24.4 %だったが,1866年に比べての1867年の最初の数か月間の増加率はもっと大きかった。
・貧民統計を分析するにあたっては次の二つの点を重視しなければならない。
 1.貧民群の干満運動は産業循環の周期的な局面変換を反映する
 2.資本の蓄積⇒階級闘争が発展⇒労働者の自覚が発展⇒受救貧民の現実の範囲について公式の統  計はますます欺瞞的になる。----最近10年間のロンドンでの飢え死にの恐ろしい増加----救貧  院=貧民刑務所の,奴隷状態

    b イギリスの工業労働者階級の低賃金層
①工業労働者階級の低賃金層
 綿花飢饉のとき1862年にドクター・スミス----疲弊した綿業労働者の栄養状態に関する調査
 飢餓病を免れるための最低の食物----まで押し下げられていたみじめな栄養量
②1863年には,枢密院は,イギリス労働者階級の最も栄養の悪い部分の窮状に関する調査を命じた。 ドクター・スミスの調査----農業労働者,絹織物工,裁縫女工,革手袋製造工,靴下編工,手袋織工, 靴工。----各部類のなかの最も健康で相対的に最良の状態にある家庭を選択することが,調査の 原則とされた。
③一般的な結果----それ以下では飢餓病が発生するという絶対的な最低限度をわずかに超過したも のは,ただ一つだけ
④農業労働者----連合王国の最も豊かな部分であるイングランドのそれが最も栄養が悪かった。-- --都市労働者部類のあいだには,もっとひどい不足。「悲惨な健康破壊的な窮乏」(資本家の 「禁欲」----労働者が露命をつなぐために欠くことのできない生活手段の支払の禁欲!)
⑤⑥ドクター・スミスによって仮定された最低限度と最困窮時の綿業労働者の栄養度とに対する純 都市的労働者部類の栄養状態の関係----ビール,牛乳,パン類,砂糖(糖蜜など),バター(脂肪  類),肉類(ベーコンなど)。大人一人当たりの一週間の食費の一般的平均。栄養の最も悪い部 類は,裁縫女工,絹織物工,革手袋製造工。

⑦ドクター・サイモン----一般的衛生報告
・栄養不足が病気を起こしたり重くしたりする場合が無数----食物を奪われるのは非常にがまんし にくいことだということ
・通例として,食物の非常な不足は,それに先だつほかのいろいろな欠乏のあとではじめて起きる-- --すべての物質的な慰安をまったく奪われている----衣料や燃料の欠乏----気候の激しさを防ぐ ための十分な設備もなく,住居の広さは病気をひき起こしたり重くしたりするほどまで減らされ, 道具や家具はほとんどなく,----清潔を保つ努力はすべて飢餓の苦痛を増すことになる。家庭は- ---排水が非常に悪く,往来の便が最も悪く,汚物の最も多い,給水が最少または最悪の地区に,そ して都市では光線や空気の最も乏しい地区にある。----これらの害悪を総計すれば生命にとって 恐ろしい大きさのものになる。----それは労働するものの貧困である。----ただ一片の食物を買 うための労働が,際限もなく延長----労働で自活ができるということは,非常に限られた意味でし か言えない----名目上の自活は,受救貧民への回り道でしかありえない

⑧最も勤勉な労働者層の飢餓的苦痛と,資本主義的蓄積にもとづく富者の粗野または優美な奢侈的 消費との内的な関連は,経済的諸法則を知ることによってはじめて明らかにされる。
・住居の状態についてはそうではない。
 生産手段の集中が大量⇒同じ空間での労働者の密集化----資本主義的蓄積が急速であればあるほ ど,労働者の住居の状態はますますみじめになる。
 富の進展に伴って,不良建築地区の取り払い,銀行や大商店などの巨大な建物の建築,取引上の往 来やぜいたくな馬車のための道路の拡張,鉄道馬車の開設,等々による諸都市の「改良」が行なわ れ,そのために目に見えて貧民はますます悪い,ますますぎっしり詰まった片すみに追い込まれる。
 住宅の高価はその質に反比例----,貧困という鉱山は,かつてポトシの鉱山が採掘された時よりも もっと多くの利潤ともっと少ない費用とで家屋投機師たちの手で採掘される。
・資本主義的蓄積の,したがってまた資本主義的所有関係一般の,敵対的な性格は,ここではあまり にも明白----イギリス政府の報告でさえも「所有とその権利」にたいする異端的な攻撃で充満。 産業の発達や資本の蓄積や都市の成長と「美化」とに伴って同じ勢いで弊害増大
・1847年から1864年までに10よりも少なくない衛生警察関係の法律
・1864年,枢密院の命令によって,農村労働者の住居事情に関する調査
 1865年には諸都市の下層貧民階級の住居事情に関する調査
・都市の住居状態について,ドクター・サイモンの一般的な記述
 「私の公の観点はもっぱら医師としてのものであるとはいえ,この弊害の別の面を無視すること は,まったく普通の人道からも許されない。この弊害が度を高めれば,ほとんど必然的に,いっさ いの細かい心づかいは無視され,肉体も肉体の諸機能も不潔にごちゃまぜにされ,性的行為はむき だしにされることになり,このようなことは,もはや野獣のものであって人間のものではない。こ のような影響のもとに置かれていることは堕落であって,それはその作用が続けば続くほど深く なって行く。このようなのろわれた運命のもとに生まれた子供たちにとっては,こののろいは無 恥への洗礼である」

⑨ぎっしり詰まった住宅,あるいはまたとうてい人間の住まいとは考えられない住宅という点では, ロンドンは第一位を占めている。----ロンドンにはおよそ20の大きな貧民窟----,それぞれに一 万人強の人間が住んでいるが,----これらの貧民窟の家屋の詰めこみすぎたぼろぼろになった状 態は,20年前よりもずっとひどくなっている----ロンドンやニューカースルの多くの地区での生 活は地獄のようだ
⑩ロンドンでは,古い街路や家屋の「改良」とそれに伴う取り払いが進み,中心部の工場や人口流入 が増加し,最後に家賃が都市地代とともに騰貴するにつれて,労働者階級のいくらかよい状態にあ る部分も,小売商人やその他の下層中間階級の諸分子といっしょに,ますますこのひどい住宅事情 の苦しみのなかに落ちこんで行く。

⑪ロンドンの地価高騰
 市内に鉄道が敷かれたために,----元の住居から追い出された一群の家族----救貧院のほかには 寄るべもなしに,さまよっている
⑫救貧院はもう超満員。もっと高い家賃を払っても,住居は,彼らが追い出されてきた悪い住居より ももっと悪くなる。
⑬ロンドンの人間荷造りの実例----その一教区では,保健吏の計算では,1ac.当たり581人だったが, しかもこれはテムズ河の半分を算入しての1ac.だった。
⑭なんという感心な資本家的正義だろうか! 地主や家主や事業家は,鉄道敷設や道路新設などの「諸改良」によって収用を受けても,十分な補償と莫大な利潤で慰められなけれはならない。労働 者は妻子や持ち物といっしょに街頭に投げ出され,そして----市当局が礼儀をやかましく言う地 区にあまり大ぜいで押しかければ,そこでは衛生警察の名でいじめられるのだ!

⑮19世紀のはじめには,イングランドには10万の人口を教える都市はロンドンのみ。5つの都市が5 万以上だった。今では人口5万以上の都市が28ある。
・都市人口の激増。金持ちは郊外に行く。これらの金持ちのあとに来る人々は,以前よりも大きな 家に移るのであるが,各室に一家族ずつで,しかも往々また借り人といっしょである。----その環 境はまことに大人にとっては堕落的であり,子供にとっては破滅的

⑯ある工業都市または商業都市で資本が急速に蓄積されればされるほど,搾取される人間材料の流 入はそれだけ急激であり,労働者の即製の住居はますますみすぼらしい。ニューカースル・アポ ン・タイン----チフスの続発や蔓延の原因が人間の過度の密集やその住居の不潔にあるというこ とは,少しも疑う余地はない。---- それらの家は,光線,空気,広さ,清潔という点では,欠乏と不 衛生とのほんとうの典型であり,およそ文明国にとっての恥辱である。
⑰ぼろ家の借り賃
⑱資本と労働とがあちこちに移動するために,一つの工業都市の住居状態は,今日はがまんのできる ものでも明日はひどく悪いものになる。----明日はぼろぼろのアイルランド人やおちぶれたイン グランドの農業労働者がいなごの大群のようにはいってくる。----穴倉や納屋----木賃宿
 ----好景気----絶えず動揺している「予備軍」または「相対的過剰人口」の波による氾濫
 地下室や小部屋には,たいていは賃金の高い労働者
・ブラッドフォードの救貧医の一人ドクター・ベル----熱病思考の恐ろしい死亡率を彼らの住居事 情によって説明。
⑲ブリストルは,住宅の貧困においてロンドンから数えて第三位を占めている。
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by shihonron | 2010-11-02 23:33 | レジュメ
2010年 11月 02日

第23章 第5節のレジュメ その2

    c 移動民
①起源は農村----大部分は工業に従事している一つの人民層
・資本の軽歩兵であって,資本はこれを自分の必要に応じてあるときはこの点に,あるときはあの点 に役げこむのである。それは,行軍していないときは「野営」している。移動労働はいろいろな 建築工事や排水工事や煉瓦製造や石灰焼や鉄道建設などに利用される。それは疫病の遊撃隊で, それが陣を敷く場所の近隣に天然痘やチフスやコレラや猩紅熱などをもちこんでくる。
・鉄道建設などのような投資額の大きい企業では,たいていは企業者自身が自分の軍隊に木造小屋 の類をあてがうのであるが,それは衛生設備などはなにもない急造の部落であって,これには地方 官庁の取締りも及ばず,請負人の旦那には非常に有利なもので,彼は労働者たちを産業兵士として と同時に借家人として二重に搾取する。
・1864年9月,ドクター・サイモンの報告----線路に沿ってあちこちに労働者の居住用の仮小屋,窓 のすぐ下の汚ない水たまりや便所からくる毒気,疫病の巣窟,天然痘や熱病の続発と死,
(131)石灰質の大きな丘にいくつもの洞穴----土工その他の鉄道建設工事に従事する労働者の住居。穴は狭 くて湿っぽくて,汚物の出口も便所もない。同時に煙突の役もする天井の小穴があるだけ。

②炭鉱やその他の鉱山の労働者は,イギリスのプロレタリアートの最高給部類に属する。彼らの住 居の事情。通例は----自分の労働者たちのためにいくつかの小屋を設ける。労働者たちは小屋と 燃料用石炭とを「無償で」受け取る----賃金の現物支給部分。----鉱山地方は,鉱山従業員その ものやその周囲に群がる手工業者や小売商人などから成る一大人口を急速に引き寄せる。人口密 度の高いところ----地代は高い。採鉱業者は,坑口の近くにあるできるだけ狭い敷地に,自分の労 働者とその家族を詰め込むのにちょうど必要なだけの小屋を建てようとする。付近に新坑が開か れたり,旧坑が再開されたりすれば,雑踏はいっそうひどくなる。
・ドクター・ジュリアン・ハンター----ノーサンバランドやグラムの鉱山にしばりつけられている 坑夫やその他の労働者の住居。極端に悪いのは,一室に詰められる人数が多い,狭い敷地に非常に 多くの家,水が不足し便所がない,家の上に家を重ねる----企業家は全部落を,まるでただ野営し ているだけで駐屯しているのではないかのように,取り扱う。
・ドクター・スティヴンズ----大きな鉱山部落----住民の健康を保証するためのどんな手段も顧み られない----現物賃金制度のどんな部分も,これらの人口稠密な地方で行なわれているもの以上 に悪くはありえない。労働者は,悪疫的影響に振り巻かれた家を自分の貸金の一部として受け取 ることを強制されている。労働者は水の供給もこの所有者から受ける。彼はその代価を賃金から の引去りに甘んじなければならないのである。
③資本は----工場の危険な機械にたいする保護設備や鉱山の換気・保安装置などを禁欲。
・鉱山労働者の住居について,枢密院医務官ドクター・サイモンの報告
 劣悪な家屋設備を弁解する口実----鉱山は普通は賃借りで採掘,貸借契約の期間(炭鉱ではたい てい21年)が短かすぎるために,鉱山賃借人はその企業が引き寄せる労働者や小売商人などに良 い家屋設備を供給することを労に値するとは考えない。地主は鉱山所有者としての資格では,彼 の所有地で労働するように産業移民部落を招き寄せ,次に地面の所有者としての資格では,自分の 集めた労働者たちが住居を見いだすことを不可能にする。このような商売の分け方にたいしては, 鉱山賃借人(資本家的採鉱業者)はそれに反対するべき金銭上の理由はなにももっていない。な ぜならば,彼は,地面所有者の要求が法外であっても,その結果は自分の負担にはならないという こと,それを負担する労働者たちは自分の衛生権を知るにはあまりにも無教育だということ,そし て,どんなにきたない住居でも,どんなに腐った飲み水でも,そんなものがストライキの原因にな るということはけっしてないということを,よく知っている 

    d 恐慌が労働者階級の最高給部分に及ぼす影響
①恐慌が労働者階級の最高給部分にたいしてさえ,労働者階級の貴族にたいしてさえ,どんな影響を 及ぼすか。
・1857年には毎回産業循環の終点になる大恐慌起こる。次の循環期は1866年に終わった。
・1866年5月に恐慌は起きた----恐慌は金融的な性格。ロンドンのある巨大銀行の破産がその信号 となり,続いて無数の金融的思惑会社が倒れた。破局に見舞われたロンドンの大事業部門の一つ は,鉄船建造業。この事業の巨頭たちは,好景気時代に際限もなく過剰生産----信用の泉が相変わ らず豊かに流れ続けるだろうという見込みから,巨額の注文を引き受けていた。そこへ恐ろしい 反動が起きて,それが他のロンドン諸産業でも現在すなわち1867年3月末まで続いている。
・1867年のはじめに苦難の中心地を訪れた『モーニング・スター』の一通信員の詳細な報道一節。
 ロンドンの東部----諸地区では,少なくとも15,000人の労働者がその家族も含めて極度の窮乏状 態にあり,そのうちには3.000人以上の熟練機械工。彼らの貯えも6か月から8か月の失業のために なくなってしまった。----救貧院(ポプラーの)入り口まで行くには非常に骨が折れた。という のは,そこは飢えた群集に囲まれていたからである。----人々は張出し屋根の下で敷石にする石 を砕く作業をしていた。----この一つの救貧院だけで7,000人が救助を受けていたが,そのうちの 何百人かは6か月か8か月前にはこの国の熟練労働の最高の賃金をとっていた人々だった。----私 が同じ光景を二度とは見たくないと思うような荒廃と絶望----もっとよい未来へのあらゆる希望 がなくなってしまったかのようにため息

②1866年の恐慌の余波については,トーリ党系の一新聞からの抜き書。ロンドンの東部,鉄船建造  業の所在地,つねに最低限以下を支払われているいわゆる「家内労働」の所在地でもある。
・飢えて死にかかっている----彼らは4万もいる。----このすばらしい首都の一地区で,世界に類の ない莫大な富の蓄積のすぐそばで,4万の人が飢えて途方にくれているのだ!

③ベルギーでは「労働の自由」,または,同じことであるが,「資本の自由」が労働組合の専制によ っても工場法によっても侵害されていないという理由から,ベルギーを労働者の楽園として描く ことが,イギリスの資本家のあいだに流行している。
・ベルギーのある標準的な労働者の家庭の一年間の収支----栄養状態が兵卒や水兵や囚人のそれと 比較されている。
④水兵や兵卒どころか囚人とでさえ同じ栄養をとることのできる労働者の家庭はわずかしかない。

⑤この「資本家たちの楽園」----ベルギー全国で93万の家庭----45万の労働者家庭(人口225万) のうち20万以上は貧民名簿に載っている

    e イギリスの農業プロレタリアート
①資本主義的生産・蓄積の敵対的な性格が野蛮に現われているという点では,イギリス農業(牧畜 を含む)の進歩とイギリス農業労働者の退歩とにまさるものはない。
・近代的農業はイギリスでは18世紀の中ごろから始まる。といっても,生産様式の変化が出発する 基礎としての土地所有関係の変革は,それよりもずっと前から始まるのであるが。
②アーサー・ヤングの1771年の農村労働者に関する報告。
・非常にみじめ----「豊かに暮らして富を蓄積することができた」と言われる14世紀末。「都市で も農村でもイギリス労働者の黄金時代」だった15世紀
・1777年の一書----貧しい農業労働者----地主と借地農業者とが手を携えて労働者を抑圧

③農村での実質労賃。1737年から1777年までに25%下落。同じ時にドクター・リチャード・プライス。「おそかれ 早かれこの王国全体がジェントルマンと乞食,貴族と奴隷だけから成り立つようになる。」
・「労働の価格の増加----生活費の増加割合の半分にもならない。」

④1770年から1780年までのイギリスの農村労働者の状態----その後二度とは到達されなかった理想 ----小麦の量で表わせば,1770年から1771年までの彼の平均賃金は90パイントだったが,1797年に は65パイント,1808年には60パイント

⑤労働者が露命をつなぐために必要な名目額まで教区が施し物の形で名目賃金を補った。借地農業 者が支払った賃金と教区が補填した賃金不足額との割合は,二つのことを示している。
 第一は,最低限を割る労賃低下,第二は,農村労働者が賃金労働者と受救貧民とから構成されてい た度合い,または農村労働者がその教区の農奴に転化されていた程度である。
・平均的状態を代表するような一つの州----ノーサンプトンシャ。1795年には不足額は労賃の4分 の1よりも少なかったのに,1814年には半分以上になっている。----それ以来ずっと,借地農業者 が飼っているすべての動物のうちで,物を言う道具である労働者は,最も酷使され,最も悪いもの を食わされ,最も手荒く取り扱われるものになってしまった。
⑥しばらくは同じ事態がそのまま続いたが,ついに
 「1830年のスウィング一揆----工業的イングランドと同じに農業的インクランドでも地表の下で は貧困と暗い反抗的不満とが激しく燃えていることを,山なす穀物の炎によってわれわれ(支配 階級)の前にあばき出した。」
⑦サドラーは下院で農村労働者を「白色奴隷」("white slaves")と名づけた。ウェークフィール ドの言「南イングランドの農村労働者は奴隷ではなく,自由人でもなく,彼は受救貧民である。」

⑧穀物法廃止の直前,農村労働者の状態。1844年から1845年。『モーニング・クロニクル』紙----自由党機関 紙。三か村で----労働者の犬賃金の中からかなり大きな部分を,家賃という名月で着服。
⑨穀物法の廃止はイギリスの農業に異常な衝撃を与えた。大規模な排水,畜舎内飼育や人工飼料植 物栽培の新方法,機械的な施肥装置,粘土地の新処理法,鉱物性肥料使用,蒸気機関や各種の新作業 機,いっそう集約的な耕作一般,これらのものがこの時代を特徴づけている。
・新たに採用された機械によって(相対的な)経常費がほとんど半減。この最近の時期には,農村 労働者人口の積極的減少が,耕作面積の拡張,いっそう集約的な耕作,土地に合体された資本と土 地耕作に投ぜられた資本との未首有の蓄積,イギリス農業史上に比類のない土地生産物の増加,土 地所有者の地代収入の増大,資本家的借地農業者の富の膨張と,手を携えて進んだ。
 (148) 1851年から1871年までにイングランドでは20ac.未満の借地農場は900以上減少。50ac.から75ac.ま での借地農場は8253から6370に減少。100ac.未満の他のすべての借地農場も同様に減少。同じ20年間に大 借地農場の数は増加。300---500ac.のものは7771から8410に,500ac.以上のものは2755から3914に,1000ac. 以上のものは492から582に増加。          (1h=100a=10,000㎡,1ac.=4047㎡)

⑩ロジャーズ教授----自由主義派,コブデンやブライトの友人
・今日のイギリスの農村労働者----1770~1780年時代比,その状態は非常に悪化,「彼は再び農奴に なっており」,しかも食物も住居も悪い農奴になっている。
・ドクター・ジュリアン・ハンター----農村労働者の住居に関する彼の画期的な報告。  
 農村労働者----借地農業者の勘定ではゼロ----彼の所得をこれ以上減らすことについては,彼は, もともとなにもないのだから平気だ。
⑪1863年,流刑および懲役刑に処せられた罪人の給養および従業状態に関する公式の調査
 イングランドの監獄での罪人の常食と,同じ国の救貧院の受救貧民や自由な農村労働者の常食--- -前者が他の二つの部類よりずっとよい栄養----懲役刑の労働量は,農村労働者の約半分。
⑫1863年の医事調査委員会の一般的結論
 農村労働者家庭の一大部分の常食が「飢餓病を防ぐための」最低限度以下
⑬借地農業者自身のもとに住み込んでいる僕婢は,栄養を豊富に与えられる。
⑭イングランドの農村労働者が連合王国の他の諸地方に見られるよりもずっと粗悪な食物
⑭ドクター・サイモンの公式の衛生報告
 農村労働者の状態----ことに最近の30年か20年のあいだに害悪は急激に大----借地農場がどんな に大きくても,そこに一定数の労働者住宅がなければならないという法律はない----各教区は,そ こに居住する農村労働者の数を最小限に制限するという金銭上の関心----農村労働はたいていは 受救的貧困への道,しかもこの貧困は,すぐに教区の救済に頼ることが必要になる----農業人口が 定着するということはその教区の救貧税をそれだけ多くすることになる。家屋の破壊。土地には 耕作が必要である。それに従事する労働者は,地主の借家人ではなく,おそらく三マイルも離れた 開放村落からやってくる。つまり,閉鎖村落で彼らの小屋がこわされてからは,この開放村落で多 数の小家主が彼らを受け入れたのである。大地主たちが自分の支配する土地の人口を減らして救 貧税を免れる。農村地方の伝染病の蔓延。非伝染病の発生。
 (165) 「労働者たちの家」----農村労働者は,借地農業者のほかに,この兼業家主を第二の主人として見い だす。同時に彼はこの家主からの買い手でもなければならない。これらの開放村落は,じっさい,イギリス の農業プロレタリアートの「流刑地」である。
 (167) 「新婚の夫婦は,同じ寝室に寝るとしごろの兄弟姉妹のためには,けっして有益な勉強にはならない。
⑮ドクター・ハンター----イングランドのすべての州で5375戸の農村労働者の小屋を調査
 この2195戸には寝室は一つしかなく,2930戸には二つだけ。次に12の州について要点
  1 ベッドフォードシャ    2 バークシャ   3 バッキンガムシャ
  4 ケンブリッジシャ     6 エセックス   6 へリフォードシャ
  7 ハンティンドンシャ 8 リンカンシャ 9 ケント
  10 ノーサンプトンシャ 11 ウィルトシャ 12 ウースタシャ


34都市への不断の移住,農業借地の集中や耕地の牧場化や機械の採用などによる農村での不断の 「人口過剰化」,小屋の破壊による農村人口の不断の追い立て,これらのこと手を携えて進んで行く。
 農村では局地的過剰人口と最も悪疫培養的な人間の詰めこみがますますひどくなる。
・小村落や市場町での人間集団の密度の増大は,農村の表面でのむりやりの人間排出に対応。
・絶えまなく進行する農村労働者の「過剰化」は,彼らの受救的貧窮のゆりかごである。住宅苦は 最後の抵抗力を挫いて,彼らを地主や借地農業者のほんとうの奴隷にし,労賃の最低限度を彼らに とっての自然法則として固定する。
・農村は,その恒常的な「相対的人口過剰」にもかかわらず,同時に人口不足である。これは,局地 的に現われるだけではなく,収穫期にも春や夏にも,非常に念入りで集約的なイギリスの農業が臨 時の人手を必要とする多くの時期にどこでも見られること。
・一時的または局地的な労働不足がひき起こすものは,労賃の引き上げではなく,女や子供に農耕を 強制すること,この強制がますます低い年齢層に下がって行くこと。----それがまた男の農村労 働者の過剰化とその賃金の抑制とへの新たな手段になる。イングランドの東部ではこの悪循環の みごとな成果---いわゆるガングシステム(作業隊制度)が盛んに行なわれている。

35作業隊制度----一例としてリンカンシャ
・新たな借地農場----労働の供給は,丘陵の背をうねる田舎道に沿って何マイルも遠くにある開放 村落から得られた----たくさんの人手が必要な軽い仕事は作業隊によって行なわれる。
36土地は,草取りや土砕きやいくらかの施肥や石拾いなどのような多くの軽い畑仕事を必要とする。 それは,開放村落に住居のある作業隊すなわち組織された隊によって行なわれる。

37作業隊は,10人から40人か50人までの人員----女や少年少女(13~18歳)と男女の子供(6~13  歳)から成っている。ガングマスター(隊の親方)----普通の農村労働者,大抵はいわゆる不良, ならずもので,だらしのない酒飲みではあるが,いくらかの企業心と手腕とをもっている。彼は作 業隊を募集し,この隊は彼の下で働くもので,借地農業者の下で働くのではない。借地農業者とは 彼は大抵出来高で契約する。彼の収入は平均して普通の農村労働者の収入よりもたいして高くは ない。親方は農場から農場に移り歩いて,自分の隊を1年に6~8か月働かせる。
38この制度の「暗い面」は,子供や少年少女の過度労働であり,5,6マイルからしばしば7マイルも離 れた農場への道を彼らが毎日往復するというひどい強行軍であり,最後に「作業隊」の風紀のわ るいことである。
39ここに述べたような典型的な形の作業隊は,公共作業隊,普通作業隊,または移動作業隊と呼ばれ る。そのほかに私設作業隊(人数が少なく,老農僕の下で労働,子供たちの受ける支払や取り扱い はより劣悪)というのもある。
40作業隊制度は近年ますます拡大。それは隊の親方のためにではなく,大借地農業者かまたは大地 主の致富のために存在する。借地農業者にとっては,自分の手もとにおく労働人員を正常な水準 よりもずっと少なくしておきながら,しかもどんな臨時の仕事のためにもつねに臨時の人手を準 備しておき,できるだけわずかな貨幣でできるだけ多くの労働を取り出し,成年男子労働者を「過 剰」にするためには,この制度以上に気のきいた方法はない。
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by shihonron | 2010-11-02 23:32 | レジュメ
2010年 11月 02日

第23章 第5節のレジュメ その3

    f アイルランド
①ここで問題になる事実
②アイルランドの人口は1841年---8,222,664,1851年---6,623,985,1861年---5,850,309。1866年に は550万となって,ほぼ1801年の水準まで減少。この減少は飢饉年の1846年から始まったもので, アイルランドは20年足らずでその人口の5/16以上を失った。その移民総数は1851年5月から1865 年7月までに1,591,487人を教え,1861~1865年の最近5年間の移民は50万を越えた。
③人口の減少は生産物量の減少を伴った。

④家畜や人間の生活手段を供給する農耕
    表B 耕地および草地(または牧場)として利用される土地の面積の増減
⑤   表C 作付面積,1ac.当たり生産物,総生産物の増減----1864年と1865年との比較
⑥アイルランドの大地主,大借地農業者,産業資本家の財布に起きた変動。
    表D 課税所得額
⑦1864年および1865年,利潤の分配(借地農業者利潤を除く)
    表E アイルランドにおけるD項の利潤所得
⑧イングランドにとっては,アイルランドに見られるような人口放出は致命的であろう。しかし,ア イルランドは今ではただ幅の広い堀で区切られたイングランドの一農業地帯でしかないのであっ て,イングランドに穀物や羊毛や家蓄を供給し,また産業と軍隊との新兵を供給している。

⑨人口の減少は多くの土地を耕作の外に投げ出し,土地生産物を減らし,牧畜用地面積の拡張にもか かわらずいくつかの牧畜部門では絶対的減少を生みだした。それにもかかわらず,住民数の減少 につれて地代と借地農業利潤とは絶えず増大した。その理由----借地農場の合併や耕地の牧場化 につれて総生産物中のより大きな部分が剰余生産物になった,また最近20年来,肉類や羊毛など のイングランド市場価格が上昇。
⑩人口の減少につれて農業に充用される生産手段の量も減少したのに,農業に充用される資本の量 が増加したのは,以前は分散されていた生産手段の一部分が資本に転化されたからである。
⑪工業や商業に投ぜられたアイルランドの総資本は,最近の20年間に,ゆっくりと蓄積された。この 総資本の個々の構成部分の集積は,ますます急速に発展した。この総資本は人口の減少に比べれ ば,膨脹した。
⑫ここでは,正統派経済学にとって自説の確証のためにこれ以上にけっこうなものは望めないよう な一つの過程が,われわれの目の前で大規模に展開されているのである。すなわち,その説によれ ば,貧困は絶対的な人口過剰から生じ,人口の減少によって均衡が回復されるというのである。
 (186a) マルサスの言うように人口に比例してではなく,人口に反比例して貧困が広がっているということ。

⑬1846年にアイルランドでは飢饉が100万以上の人間を,といってもただ貧乏人だけを,殺した。こ の飢饉はこの国の富には少しも損害を与えなかった。
・その後20年間の,そして今もなお増大しつつある人口流出は,三十年戦争などとは違って,人間と いっしょにその生産手段をも激減させはしなかった。
・合衆国への移民は一つの組織的な過程----一時的に住民のなかに穴をあけるというようなもので はなく,そのために絶対的人口水準は年々低下。
 (186b) 1851年から1874年までの期間に,国外移住者の総数は2,325,922となっている。

⑭国内に残った人々,つまり過剰人口から解放されたアイルランドの労働者たちにとっては,結果は どうだったか? 相対的過剰人口は今日でも1846年以前と同様に大きいということ,労賃は同様 に低くて労働苦は増してきたということ,農村の困窮が再び新しい危機を呼び起こしそうだとい うこと,これが結果だった。その原因は簡単。農業での革命が移民といっしょに進んだ。相対的 過剰人口の生産が人口の絶対的減少よりも速く進んだのである。----中小借地農業者はますます, 資本家的経営の農耕の競争に圧迫され,したがって賃金労働者階級に絶えず新兵を供給する。ア イルランドのただ一つの大工業であるリンネル製造業は,それ自身の領域内での絶え間ない動揺 よって絶えず相対的過剰人口を生みだしている。農村民の貧困は巨大なシャツ工場などの台座に なっており,これらの工場の労働者軍の大部分は農村に散在している。

⑮アイルランドの農村日雇労働者の状態----農村の今でも非常に低い賃金率は,それでも過去20年 間に50~60%高くなっている。しかし,この外観上の騰貴の背後には,賃金の実質的低下が隠され ている。----その間に生じた必要生活手段の価格騰貴にはけっして追いつかないからである。

⑯必要生活手段の価格は20年前に比べて約二倍になっている。

⑰ただ貨幣で表わされた賃金率を比較するだけでは,とうてい正しい結果は出てこない。飢饉以前 には農村の賃金の大きな部分が現物で支払われていた。今日では貨幣支払が通例である。
・飢饉以前には農業日雇人はわずかながらも土地をもっていた----今日では自分のすべての生活手 段を買わなければならないだけではなく,豚や家畜や卵の販売からの収入も失っている。

⑱以前は農村労働者は小借地農業者と融合していて,たいていはただ大中の借地農場の後衛になっ ているだけで,これらの農場に自分たちの仕事を見いだしていたのである。1846年の破局以後は じめて彼らは純粋な賃金労働者の階級の一部分なりはじめた。

⑲1846年の彼らの住宅状態がどんなものだったかは,人々の知るとおりである。----その小屋のひ どさは,イングランドの農村地方でわれわれの前に繰り広げられたその種の最悪のものをはるか に上回っている。。

⑳農業革命の第一幕は,作業農地にあった小屋を,最大の規模で,また上から下された合い図にでも 従うかのように,一掃してしまうことだった。こうして,多くの労働者は村落や都市に避難所を求 めた。そこでは彼らは屋根裏や穴ぐらや地下室に,最悪の地区の片すみに,ぼろくずのように投げ こまれた。悪徳の温室に移植された。男たちは今では付近の借地農業者のもとで,最も不安な賃 金形態で,雇われる。そのうえに「今では彼らは農場への遠い道を往復しなければならず,そのた めにからだを弱め,病気にかかり,ひいては困窮に陥ることも多い。」

21「都市は,農村地方で過剰な労働者を年々受け入れ」,人々は「町や村では労働者の過剰が一般だ のに,耕地では労働者の不足が一般だということ!」を不思議がっている。この不足が感ぜられ るのは,ただ「春秋の,農業労働の緊要な季節」だけのことで,「その他の季節には多くの人手が 遊んでいる」のであり,「収穫が終われば,10月から春まで,彼らにはほとんど仕事がない」ので あり,また,彼らは,仕事のある季節にも「しばしば何日もむだにすることがあり,また各種の作業 中断に出会うおそれがある」のである。

22農業革命(耕地の牧場化や機械の充用や最も厳重な労働節約など)の前述のような結果は,アイ ルランドで自分の領地に住んでいる模範地主たちによって,ますます激しくされる。----これら の小借地人は,一般に普通の日雇労働者の賃金よりもわずかな賃金で自分たちの大地主のために 苦役することを余儀なくされ,しかもそのさい,たいせつな播種や収穫の時期に自分の畑をほうっ ておかなければならない

23われわれはイングランドの農村プロレタリアートのところでも同様な現象に出会っている。だが, 両者の違いは,工業国のイングランドでは産業予備軍が農村で補充されるが,農業国のアイルラン ドでは農業予備軍が都市で,すなわち駆逐された農村労働者の避難所で,補充されるということで ある。
・イングランドでは農業の過剰人口が工場労働者に転化する。アイルランドでは都市に追い出され た人々は,同時に都市の貸金に圧迫を加えはするが,やはり農業労働者なのであり,労働需要に応 じて絶えず農村に送り返されるのである。

24官庁報告者たちは,農業日雇労働者の物質的状態を次のように概括
 「彼らの賃金は,やっと彼らとその家族との食費と住居費とをまかなえるだけのもの----彼らの 住居の環境は,その他のいろいろな欠乏といっしょになって,この階級をまったく特別にチフスや 肺病の危険にさらしている

25報告者たちの一様な証言によれば,暗い不満がこの階級の隊列にしみこんでいるということや,こ の階級が過去をなつかしみ,現在を憎み,未来に絶望し,「扇動家たちの悪い影響に左右され」た だ,アメリカに移住するという一つの固定観念を抱いているだけだということは,少しも不思議で はない。これこそは,人口減少という偉大なマルサス的万能薬によって緑のイリアン〔アイルラ ンドの旧名〕が転化させられた逸楽郷なのである!

26アイルランドの工場労働者----イギリスの工場監督官ロバート・ベーカー
 非常に乏しい資力のなかから自分の子供たちに教育を受けさせてやろうとするアイルランドの一 人の熟練労働者の労苦----これがアイルランドの賃金で,これがアイルランドの生活なのだ!

27アイルランドの貧困は再びイギリスでの今日の問題になっている。「あれほどの大旦那の身でな んて人間らしいことだ!」

28イングランドとスコットランドとアイルランドのほんのわずかの巨大地主が年々の全国総地代収 入のうちから呑みこむ獅子の分けまえはあまりにも莫大な額にのぼるので,賢明なイギリス政府 は,地代の分配については利潤の分配についてと同じような統計材料を与えないのが適当だと考 えるのである。ロード・ダファリンは巨大地主の一人----彼は断言するのである,アイルランド は今なお人口過剰であり,移民の流れは相変わらず緩慢にすぎる,と。完全に幸福になるためには ----ロード・ダファリンは100万のたった1/3しか新しい瀉血を要求していないが,実際には200万 くらいの放出がなければイアリンの至福千年国は建設されえないのである。

29集中は,1851年から1861年までに,おもにはじめの三つの部類,すなわち1ac.未満から15ac.未満ま での借地農場をなくした。15ac.以上100ac.未満という第四,第五,第六の部類は,イングランドで はずっと前から知られているように,資本主義的穀物栽培には小さすぎ,牧羊のためにはほとんど ないに等しい大きさである。----アイルランドは350万の人口でもまだ貧乏であり,そしてその貧 乏は人口過剰のせいなのだから,イングランドの牧羊場であり放牧場であるというアイルランド の真の使命を果たすためには,その人口減少はもっともっと進行しなければならないということ である。
 (188b) 農業革命を強行してアイルランドの人口を大地主たちの気にいる程度まで稀薄にするために,飢饉 やそれに誘発された諸事情が個々の土地所有者によってもイギリスの立法によってもどんなに計画的に利 用されたか,これを私は本書の第三部の土地所有に関する篇のなかでもっと詳しく論証するであろう。
 1815年のイギリスの穀物法は,大ブリテンへの穀物の自由輸入の独占権をアイルランドに保証した。この穀 物法は穀作を人為的に助成したわけである。この独占権は,1846年に穀物法が廃止されると同時に突然取り 除かれた。この事件一つだけでも,アイルランドの耕地の牧場化や借地農場の集中や小農の駆逐に一大飛躍 を与えるのに十分である。1815年から1846年まではアイルランドの土地の豊かさをたたえ,それは自然その ものによって小麦作に定められた土地だと声高く宣言していたのに,それからはにわかにイギリスの農学者 も経済学者も政治家も,アイルランドの土地は緑草飼料の生産以外にはなににも適しないということな発見 するのである!

30このような有益な方法にも,この世のすべての善事につきものであるように,その弊害がある。ア イルランドでの地代の蓄積と同じ足並みでアメリカでのアイルランド人の蓄積が進む。羊と牛に 押しのけられたアイルランド人は,大洋の彼方にフィニア会員として立ち上がる。そして年老い た海の女王に向かって,若い巨大な共和国が威嚇的に,そしてますます威嚇的に,そびえ立ってく るのである。
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by shihonron | 2010-11-02 23:31 | レジュメ
2010年 11月 02日

第203回 11月2日 第23章 第5節

11月2日(火)に第203回の学習会を行いました。
「第23章 第5節 資本主義的蓄積の一般的法則の例解」aの第1段落からfの第13段落までについてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。
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by shihonron | 2010-11-02 23:30 | 学習会の報告