『資本論』を読む会の報告

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2010年 12月 21日

第209回 12月21日 第24章 第5節・第6節 産業資本家の生成

12月21日(火)第209回の学習会を行いました。
「第24章 第6節 産業資本家の生成」についてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。

第24章 第6節 産業資本家の生成 

①産業資本家の生成
多くの同職組合親方や、もっと多くの独立した小手工業者が、あるいはまた賃労働者さえもが小資本家に転化し、そして、賃労働の搾取の漸次的拡大とそれに照応する蓄積とによって、“文句なしの資本家に転化した。資本主義的生産の幼年期の方法のカタツムリのような歩みは、一五世紀末の諸大発見によってつくり出された新たな世界市場の商業的要求に照応するものでは決してなかった。
中世が伝えた二つの資本形態
中世は二つの相異なる資本形態、すなわち、きわめて多様な経済的社会構成体の中で成熟して、資本主義的生産様式の時代以前にも一応は資本として通用する二つの形態――高利貸し資本と商人資本とを、伝えていた。
(238) ここで言う産業的は、農業的と対立した言い方である。「カテゴリー上の」意味では、借地農業者は工場主と同じように産業資本家である。

②新しい工業養成所の誕生
高利と商業とによって形成された貨幣資本は、農村では封建制度によって、都市では同職組合制度によって産業資本への転化をさまたげられた。これらの制限は、封建家臣団の解体と共に、農村民の収奪や部分的追放と共に、なくなった。新たなマニュファクチュアが輸出港に設けられ、あるいは古い都市制度やその同職組合制度の管理の外にある田園の諸地点に設けられた。

③資本主義的生産時代の曙光から商業戦争へ
アメリカにおける金銀産地の発見、原住民の絶滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪の開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらが資本主義的生産時代の曙光を特徴づけている。これらの牧歌的過程は本源的蓄積の主要な契機である。この後に続くのが、地球を舞台とするヨーロッパ諸国民の商業戦争である。それは、ネーデルラントのスペインからの離脱によって開始され、イギリスの反ジャコバン戦争で巨大な範囲に広がり、中国に対するアヘン戦争などで今なお続行されている。

④イギリスにおける本源的蓄積の契機――暴力の意義
イギリスでは、これらの契機は一七世紀末には植民制度、国債制度、近代的租税制度、および保護貿易制度において体系的に総合される。これらの方法は一部は残虐きわまる暴力に基づくものであり、たとえば植民制度がそうである。しかし、どの方法も、封建的生産様式の資本主義的生産様式への転化過程を温室的に促進して過渡期を短縮するために、国家権力、すなわち社会の集中され組織された暴力を利用する。暴力は新しい社会を生むあらゆる古い社会の助産婦である。暴力はそれ自身が一つの経済的能力である。

⑤キリスト教的植民制度
キリスト教を専門とする一人の人物、W・ハウイットは言う 「いわゆるキリスト教徒的人種が、世界のあらゆる地域で、また彼らが征服することのできたすべての人民に対して、演じてきた野蛮行為と無法な残虐行為とは、世界史上のどの時代にも、またそれがどの人種のもとでも、どんなに未開で無教養であり、無情で無恥であっても、その比を見ない」。
 
⑥オランダの植民地経営の歴史
オランダは一七世紀の典型的な資本主義国であったが「背信、買収、暗殺、卑劣のたぐいもまれな絵巻を繰り広げている)」。ジャワで使う奴隷を得るために、セレベスで用いたオランダの人間盗奪の制度ほど特徴的なものはない。人間泥棒がこの目的のために訓練された。盗賊や通訳や売り手がこの取り引きにおける主役であり、土着の王侯は主要な売り手であった。盗まれてきた少年たちは、成長して奴隷船に送られるまでセレベス秘密監獄に隠された。

⑦オランダ人のやり口
マラッカを手に入れるために、オランダ人はポルトガルの総督を買収した。総督は一六四一年に、オランダ人が市内に入ることを許した。彼らはすぐさま総督邸に駆けこんで総督を殺し、こうして二万一八七五ポンド・スターリングの買収金額の支払いを「禁欲」した。彼らが足を踏み入れたところでは、荒廃と人口減少とが起こった。ジャワの一つの州であるバニュワンギは、一七五〇年には住民の数が八万を超えたが、一八一一年にはわずか八〇〇〇人にすぎなかった。


⑧イギリス東インド会社
周知のようにイギリスの東インド会社は、東インドを政治的に支配したほか、茶貿易および中国貿易一般についての、ヨーロッパとのあいだの貨物輸送についての排他的独占権を持っていた。しかし、インドの沿岸航海、諸島〔東インド諸島〕間の航海、およびインド内地の商業は、会社の高級職員の独占となった。塩、アヘン、キンマ、その他の商品の独占は、富の無尽蔵の鉱脈であった。職員たちは自分で価格を定め、不幸なインド人をぞんぶんに痛めつけた。総督もこの私的な取り引きに加わった。彼のお気に入りの者たちは、練金術師よりずっと巧妙に、無から金がつくれるような条件で、契約を得た。大きな財産がキノコのように一日ででき上がり、本源的蓄積は一シリングの前貸しもなしに進行した。

⑨先住民に対する凶暴な行為
先住民への取りあつかいは、西インドのように輸出貿易のためだけと定められた栽培植民地や、メキシコおよび東インドのように略奪殺人にさらされた富裕で人口の稠蜜な地方において、最も凶暴であった。けれども、本来の植民地においても本源的蓄積のキリスト教的性格は争われないものがあった。

⑩資本蓄積の強力なテコ――「独占会社」と植民地
植民制度は商業と航海とを温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力なテコだった。成長するマニュファクチュアに対し、植民地は販売市場と、市場独占によって強化された蓄積とを保障した。ヨーロッパの外で直接に略奪、奴隷化、強盗殺人によって獲得された財宝は、本国に還流し、そこで資本に転化した。植民制度を真っ先に十分に発展させたオランダは、すでに一六四八年にはその商業的繁栄の頂点に立っていた。
 
⑪本国での人民の状態
オランダの人民大衆は、一六四八年にはすでに他のすべてのヨーロッパ諸国の人民大衆よりもっとひどい過度労働、貧困、残酷な抑圧のもとにあった。

⑫本来のマニュファクチュア時代における植民制度の意義
こんにちでは産業的覇権が商業的覇権をともなう。これに反し、本来のマニュファクチュア時代には、商業的覇権が産業上の優勢を与える。したがって、当時には植民制度が主要な役割を演じたのである。植民制度は、ヨーロッパの古い神々と祭壇にならんでいたが、ある日これらの神々を残らず葬り去った「異国の神」であった。それは、貨殖こそ人類の最後で唯一の目的であると宣言した。

⑬公信用制度=国債制度
公信用制度すなわち国債制度は、マニュファクチュア時代に全ヨーロッパに普及した。海上貿易や商業戦争をともなう植民制度は、国債制度の温室として役立った。こうして、この制度はまずオランダで確立された。国債、すなわち国家の譲渡――専制国、立憲国、共和国のいずれであろうとも――は、資本主義時代にその刻印を押す。いわゆる国富のうち現実に近代的国民の全体的所有に入る唯一の部分・・それは彼らの国債である。それゆえ、ある国民は負債を負えば負うほど、富裕になるという近代的教説は、まったく当然のものである。公信用は資本の信条となる。そして国債制度の成立と共に、国債に対する不信は聖霊に対する許されることのない罪に取って代わる。

★「国家の譲渡」とはどういう意味か?

⑭公債は本源的蓄積の最も強力なテコ
公債は本源的蓄積の最も強力なテコの一つとなる。それは、魔法の杖を振るかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてそれを資本に転化させ、そのためには貨幣は産業的投資や高利貸し的投資にさえつきものの骨折りや危険を犯す必要はない。国家に対する債権者は現実には何も与えはしない。というのは、貸しつけた金額は、容易に譲渡されうる公債証書に転化され、それは、ちょうどそれと同じ額の現金であるかのように、彼らの手中で機能し続けるからである。しかも、このようにして生み出される有閑金利生活者の階級や、政府と国民とのあいだに立って仲介者の役割を演じる金融業者たちの即製の富を別としても――また、あらゆる国債のかなりの部分を天から降ってくる資本のように利用する徴税請負人や商人や私的工場主の即製の富を別としても――国債は、株式会社やあらゆる種類の有価証券の取り引きや株式売買を、一言で言えば、取引所投機と近代的銀行支配とを、勃興させたのである。

★公債証書が、どそれと同じ額の現金であるかのように機能するとはどういうことか?
 
⑮銀行の発展
国家的という肩書で飾られた大銀行は、その出生の当初から政府を援助して与えられた特権のおかげで政府に貨幣を前貸しすることができた私的投機業者たちの会社にすぎなかった。それゆえ、国債の蓄積の測定器としては、これらの銀行の株式の継続的騰貴以上にたしかなものはないのであるが、これらの銀行の十分な発展はイングランド銀行の創立(一六九四年)に始まる。イングランド銀行は、最初にまず自分の貨幣を八%の利率で政府に貸しつけることから始めた。同時にこの銀行は、この資本をさらに銀行券という形態でもう一度公衆に貸しつけることにより、同じ資本から貨幣を鋳造する権限を議会によって与えられた。イングランド銀行は、この銀行券をもって手形を割り引きし、商品担保貸付を行い、貴金属を買い入れることを許された。まもなく、この銀行自身によって製造されたこの信用貨幣が鋳貨となり、この鋳貨をもってイングランド銀行は国家へ貸付をし、国家の計算で公債の利子を支払った。この銀行は、片方の手で与えておいて、他方の手でより多く受け戻したというだけでは十分でない。この銀行はまた、受け戻しながらも、与えた最後の一銭にいたるまで依然として国民の永遠の債権者であった。それは、しだいに国内の蓄蔵金庫の不可避的な貯蔵所になり、商業信用全体の重心になった。イギリスでは、魔女を火あぶりの刑にすることが廃止されたのと同じ時期に、銀行券の偽造者を絞首刑にすることが始まった。これらの銀行貴族、金融業者、金利生活者、仲買人、株式取引人、証券投機師などという連中が突然に出現したことが、当時の人々にどのような影響を与えたかは、その時代のいくつかの著書、たとえばボリンブルクの著書によって立証されている。

★ここでの鋳貨とは流通手段のことだろう

⑯本源的蓄積の隠れた源泉の一つ――国際的信用制度
国債と共に国際的信用制度が発生したが、それはしばしば、あれこれの国民のもとでの本源的蓄積の隠れた源泉の一つをなしている。たとえば、ヴェネツィアの強奪制度のさまざまの卑劣行為は、衰退していくヴェネツィアから多額の貨幣を借りてきたオランダにとっては、その資本的富のこのような隠れた基礎をなしている。同じような関係はオランダとイギリスとのあいだにもある。すでに一八世紀はじめに、オランダのマニュファクチュアははるかに追い越されて、オランダは支配的な商工業国ではなくなった。したがって一七〇一~一七七六年のオランダの主要事業の一つとなったものは、巨額の資本の貸し出し、ことに自分の強大な競争者であるイギリスへの貸し出しである。同様なことは、こんにちではイギリスと合衆国とのあいだでも妥当する。こんにち合衆国で出生証書なしに現れる多くの資本は、きのうイギリスでやっと資本化されたばかりの子供の血なのである。

⑰近代的租税制度とその構成部分である保護貿易制度
国債は、その年々の利子などの支払いに充当すべき国家の収入を支柱とするものであるから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になった。国債によって、政府はただちに納税者にそれと感じさせることなしに、臨時の費用を支出することができるのであるが、しかしその結果やはり増税が必要となる。他方、次々に契約される負債の累積によって引き起こされる増税のために、政府は新たな臨時支出をする時にはいつでも新たに起債することをよぎなくされる。したがって、生活最必需品に対する課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的国家財政は、それ自身のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいる。過重課税は偶発事ではなく、むしろ原則である。ここでわれわれに関係があるのは、この制度が賃労働者の状態におよぼす破壊的な影響よりも、むしろこの制度によって引き起こされる農民や手工業者の、要するに下層中産階級のすべての構成部分からの暴力的収奪である。この点については、ブルジョア経済学者のあいだにさえ意見の相違はまったくない。この制度の収奪的効果は、その制度の肝要な構成部分の一つである保護貿易制度によってさらに強められる。
 
⑱富の資本化と大衆の収奪――公債とそれに照応する財政制度
富の資本化と大衆の収奪において、公債やそれに照応する財政制度が果たす大きな役割は、コベット、ダブルデイ、その他のような多数の著者たちに、近代諸国民の窮乏の根本原因をここに求めるという誤りを犯させることになった。
 
⑲保護貿易制度――古い生産様式から近代的生産様式への移行を強制的に短縮するための人工的な手段
保護貿易制度は、製造業者を製造し、独立した労働者を収奪し、国民の生産手段および生活手段を資本化し、古い生産様式から近代的生産様式への移行を強制的に短縮するための人工的な手段であった。ヨーロッパ諸国はこの発明の特許を得ようと競い合い、そして、ひとたび貨殖家に奉仕するようになってからは、間接的には保護関税によって、直接的には輸出奨励金などによって、この目的達成のために自国民をしぼり取っただけではなかった。属領ではあらゆる産業が強制的に根こそぎにされた――たとえば、アイルランドの羊毛工業がイングランドに根こそぎにされたように。ヨーロッパ大陸ではコルベールの先例にならって、この過程はなお非常に単純化された。産業家の本源的資本の一部分はここでは国庫から直接に流れ出てくる。

★「独立した労働者」と生産手段を所有している小生産者のことであろう。

⑳大工業の誕生と児童誘拐
植民制度、国債、重税、保護貿易、商業戦争など、本来のマニュファクチュア時代のこれらの若芽は、大工業の幼年期中に巨大に繁茂する。大工業の誕生は大仕掛けなヘロデ的な児童誘拐によって祝われる。イギリス艦隊と同じように、工場も強制徴募によって新兵を補充する。

(21)資本蓄積の手段としてのあらゆる醜行
マニュファクチュア時代を通じて資本主義的生産が発展するにつれ、ヨーロッパの世論は羞恥心や良心の最後の残りかすまで失ってしまった。諸国民は、資本蓄積の手段としてのあらゆる醜行を恥知らずにも自慢した。たとえば、正直者のA・アンダースンの素朴な商業年代記を読まれたい。この書物では、イギリスがそれまではアフリカと英領西インドとのあいだだけで営んでいた黒人貿易を、今後はアフリカとスペイン領アメリカとのあいだでも営むことができる特権を、ユトレヒトの講和でアシエント協約によってスペイン人から無理取りしたことが、イギリスの国策の勝利として大げさに吹聴されている。イギリスは、一七四三年まで年々四八〇〇人の黒人をスペイン領アメリカに供給する権利を得た。これによって同時に、イギリスの密貿易を公的なものと見せかける仮面が与えられた。リヴァプールは奴隷貿易を基盤に大きく成長した。奴隷貿易はリヴァプールにおける本源的蓄積の方法である。そして、こんにちにいたるまでリヴァプールの「声望」は依然として奴隷貿易のピンダロスであり、この奴隷貿易は「商業的企業精神を情熱にまで高め、すばらしい海員を養成し、ばく大な貨幣をもたらす」と言われる。リヴァプールが奴隷貿易に使用した船は、一七三〇年には一五隻であったが、一七五一年には五三隻、一七六〇年には七四隻、一七七〇年には九六隻、一七九二年には一三二隻であった。
 
(22)イギリスの児童労働制と合衆国の奴隷制
綿工業はイギリスに児童労働制を導入したが、それは同時に、合衆国の従来の多かれ少なかれ家父長的であった奴隷経営を商業的搾取制度に転化させるための刺激をも与えた。一般に、ヨーロッパでの賃労働者の隠蔽された奴隷制は、その基台として、新世界での露骨な奴隷制を必要とした。

(23)資本は、血と汚物をしたたらせながらこの世に生まれてくる
資本主義的生産様式の「永遠の自然法則」に道を開き、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会的な生産手段と生活手段とを資本に転化させ、反対の極では人民大衆を賃労働者に、近代史のこの芸術作品である自由な「労働貧民」に、転化させるには、こんな骨折りを必要としたのである。もしも貨幣が、オジエの言うように「ほおに最初から血のあざをつけてこの世に生まれてくる」のだとすれば、資本は、頭から爪先きまで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながらこの世に生まれてくるのである。
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by shihonron | 2010-12-21 23:30 | 学習会の報告
2010年 12月 14日

第208回 12月14日 第24章 第4節・第5節

12月14日(火)第208回の学習会を行いました。
「第24章 第4節 資本主義的借地農業者」と「第24章 第5節 農業革命の工業への反作用 農業資本のための国内市場の形成」についてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。


第24章 第4節 資本主義的借地農業者の生成

 ①われわれは、無保護のプロレタリアの暴力的創出、彼らを賃労働者に転化させた血なまぐさい訓練、労働の搾取度と共に資本の蓄積を警察力によって増進させた元首と国家の醜悪な行動、これらのことについて考察してきたが、次に問題になるのは、資本家たちは本源的にはどこからきたのか?ということである。

・借地農場経営者の創世記→ それは、緩慢な、何世紀にもわたって繰り返し続いた過程
・自由な小土地所有者→非常に様々な経済的諸条件のもとで解放された。

 ②イギリスでは、借地農業者の最初の形態は、それ自身も農奴だったベーリフ〔Bailiff 荘園の土地管理人〕であった。

・この借地農業者の状態は、農民の状態とあまり違わない。ただ彼のほうがより多くの賃労働を搾取するだけである。彼はやがてメテイエ〔Metayer〕、すなわち半借地農業者になる。彼が農業資本の一部分を提供し、大地主が他の部分を提供する。両者は、契約で定められた比率で総生産物を分配する。この形態はイギリスでは急速に消滅して、本来の借地農業者・・彼自身の資本を賃労働者の使用によって増殖し、剰余生産物の一部分を貨幣または現物で大地主に地代として支払う者・・の形態に席を譲る。

 ③一五世紀の最後の三分の一期に始まり、ほとんど一六世紀全体(しかし最後の数十年を除いて)にわたって続いた農業革命は、農村民を貧しくするのと同じ速さで借地農業者を富ませていく(227)。共同牧場などの横領によって彼らはほとんどただで自分の家畜を大いにふやすことができ、他面、この家畜は土地耕作のためのいっそう豊富な肥料を彼に供給する。

 ④一六世紀には一つの決定的に重要な契機がつけ加わった。当時は借地契約が長期で、九九ヵ年にわたるものもしばしばあった。貴金属の価値、したがって貨幣の価値が引き続き低落したことが、借地農業者に黄金の果実をもたらした。この低落は、さきに論じた他の事情はすべて別にしても、労賃を低下させた。労賃の一部は借地農業利潤に加えられた。穀物、羊毛、肉類、要するにすべての農業生産物の価格の継続的な上昇は、借地農業者が何もしないでも彼の貨幣資本を膨張させたが、他面、彼が支払わなければならなかった地代は旧来の貨幣価値で契約されていた(228)。こうして、借地農業者は、彼の賃労働者と彼の大地主とを同時に犠牲にして、自分を富ませた。したがって、イギリスが一六世紀末当時の事情から見れば富裕な「資本主義的借地農業者」という一階級をもっていたことは少しも不思議ではない(229)。

疑問点
1,借地農場経営者の創世記は何世紀にもわたって緩慢ということ。乱暴にプロレタリアが創り出されるのに資本家の方は緩慢に、ということは考えにくいような気がする。

2,イギリスではベイリフが借地農業者の最初の形態。農奴が資本家の最初の形態というのも?

3,農業革命とは?

4,重要な契機とは?貨幣の価値が低落すると借地農業者のみが得をするのはなぜか?



【農業革命】Agricultural Revolution、Agrarian Revolution
 紀元前8000年ごろ人類は近東地方において初めて狩猟・採集経済から穀類の栽培、家畜の飼育に成功して農業社会へ移行した。この文明史における画期的事件を、18世紀の産業革命と対比して、農業革命とよぶ場合がある。学者によってはこれを「新石器革命」ともよび、アルビン・トフラーは『第三の波』(1980)のなかで、産業革命を「第二の波」、農業革命を「第一の波」とよんでいる。
 これとは別にイギリス史では、中世的な開放耕地制度を揚棄した18世紀のエンクロージャー運動と農業技術の進歩、農業経営の近代化の過程を総称して農業革命とよんでいる。すなわち、チューダー朝時代から始まり、とくに18世紀後半に盛んであったエンクロージャー運動は、作付面積の増加をもたらし、土地利用、排水、作物栽培の改良を可能にした。17世紀にすでにカブ、クローバーなどの飼料作物が大陸より導入され、実験的成功を収めていたが、18世紀になると、家畜飼育、穀物輪作、施肥が科学的合理的に結合されたノーフォーク式4種輪作制(小麦―カブ―大麦―クローバーの輪作)が、広く革新的地主企業家によって採用されるようになった。この新しい輪作法の利点は、従来の三圃式(さんぽしき)農法では土地の一部を休耕地として残していたのが、いまや休耕地がなくなって土地をフルに利用できるようになったこと、また飼料作物を輪作で栽培できたために、家畜の増産と肥料の増産が同時に可能になったことである。
 この時代の農業技術の進歩に貢献した者には、播種(はしゅ)機および畜力用砕土機を発明したタルJethro Tull(1674―1741)、ノーフォーク式に成功して「カブのタウンゼンド」とよばれたタウンゼンド子爵Viscount Charles Townshend(1674―1738)などが有名である。またベークウェルRobert Bakewell(1725―95)は、従来ヒツジを主として食肉用のためではなく羊毛のために、ウシはミルクと畜役用のために飼育していたのを、品種改良によって、食肉、畜産物用家畜の改良に成功し、食肉増産に貢献した。さらに新農法を基礎とする近代的大農経営の普及にもっとも大きな貢献をしたのがアーサー・ヤングである。こうしてイギリス農業革命は、増大する都市人口のための食糧供給を可能にし、農業所得の上昇が国内市場の拡大、有効需要の増加をもたらし、農業部門から工業部門へ、工業化のために必要な労働力と資本を供給したことによって、産業革命のスムーズな進行を可能ならしめたのである。  角山 榮  『日本大百科全書』(小学館)より

【開放耕地制度】open field system
 中世から近世にかけて、ヨーロッパの平野部集村地方で支配的であった農地制度。村の共同耕地(耕圃(こうほ))を構成するいくつかの耕区は、それぞれ各農民の持ち分に属する耕地片の集合体で、共同耕地全体としては保有地は複雑に混在している(混在地制)が、同一耕区内の保有地の間には生け垣、柵(さく)などの仕切りがなく、一続きで開放されていた。耕区の形状には、南フランスやイタリアに普及していたようなパズル状の不規則開放耕地もあったが、典型的にはロアール川とドナウ川の北方、およびイングランドの大部分の地方にみられたような、細長い帯状の地条が規則的に並ぶ長形開放耕地であった。このような耕地の型の相違は、犂(すき)の型の相違にも対応する。三圃農法と強固な共同体慣行が発展した北方では、重く湿った土壌に適合した、何頭もの家畜によって牽引(けんいん)される大型の有輪犂が出現するが、この犂の隊列は簡単に方向転換できないところから、極端に細長い長形の耕地が要求された。これに対し、伝統的に二圃制が維持され、軽量な無輪犂で土地を浅く耕していた地中海地方では、耕地は正方形に近づき、畦(あぜ)の方向を変えたり、交差させることもできた。三圃制であれ二圃制であれ、休作中の耕圃や収穫後の耕圃は、村の伝統的慣行に従って、農民の家畜(その割当て頭数は保有地面積が基準)の共同放牧にゆだねられ、家畜の糞尿(ふんにょう)によって自然に地味が回復された。このように、開放耕地制度は、家畜を利用して穀物生産を行うヨーロッパ特有の混合農業ないし有畜農業の伝統に適合したものであった。しかし家畜の放牧には共同耕地だけでは不十分なところから、森林、原野などの共同地内の牧草地も放牧にあてられた。
 農業の共同化については、領主を含めて、村の全共同体成員の間で恒常的な取決めが必要とされた。それというのも、領主の直営地も地条として、農民が保有する地条の間に混在する場合が多かったからである。農業共同体としての村の慣行(掟(おきて))は、共同放牧以外にも、耕圃や耕区の境界設定、作物の種類や収穫の時期の統制(いわゆる「耕作強制」)、あるいは共同地におけるさまざまな用益権など、広い範囲に及んだ。
 井上泰男 『日本大百科全書』(小学館)より

第二四章   いわゆる本源的蓄積          2010.12.14.   Rep.五十嵐

   第五節 農業革命の工業への反作用
       産業資本のための国内市場の形成

①発作的ではあるがまた絶えず繰り返される農村民の収奪と駆逐⇒プロレタリア群を繰り返し都 市工業に供給----「神の摂理の直接の干渉」
・独立自営農村民の稀薄化----工業プロレタリアートの濃密化が対応
・耕作者の数が減少⇒土地は以前と同量かまたはより多量の生産物
・土地所有関係の革命⇒耕作方法の改良・協業の大規模化・生産手段の集積
・農村賃金労働者の労働の強化
・農村民の一部分が遊離⇒彼らの食料もまた遊離⇒可変資本の素材的要素に転化----追い出さ れた農民は,この食料の価値を産業資本家から労賃という形で買い取らなけれはならない。
・国内で生産される農産工業原料⇒不変資本の一つの要素に転化

②フリードリヒ二世(大王)の時代(1740~86)----亜麻を紡いでいたヴェストファーレンの農民
・一部分は暴力的に収奪されて追放,残った別の部分は大借地農業者の日雇い労働者に。同時に大 きな亜麻紡績工場や織物工場ができて,「遊離した人々」はそこで賃労働。
・亜麻は見たところ以前と少しも変わりはない。その繊維の一筋も変わってはいない⇒今ではマ ニュファクチュア経営者の不変資本の一部になっている。
・亜麻は,以前は,それを自分で栽培し紡いでいた無数の小生産者のあいだに分配されていた⇒今 では,自分のために他人に紡がせたり織らせたりする一人の資本家の手のなかに集積されている。
・亜麻紡績場で支出される特別な労働は,以前は無数の農民家族の特別収入・租税⇒今ではそれ は少数の資本家の利潤。
・紡錘や織機は,以前は広く農村に分散⇒今では労働者・原料と同様大きな作業場に。
・紡錘も織機も原料も,紡ぎ手や織り手の独立な生存の手段⇒今では,彼らに命令し彼らから不払 労働を吸い取るための手段に転化。
・大きなマニュファクチュア(「合併マニュファクチュア」,[合併工場」)を見ても,大きな借地農 場を見ても,それらが多くの小さな生産場が合併されたものだということや,多くの小さな独立生 産者の収奪によってできたものだということはわからない。とはいえ,とらわれない目で見れば 惑わされることはない。
・革命の獅子ミラボー『プロイセン王国について』

④小農民を賃金労働者に転化させ,彼らの生活手段と労働手段を資本の物的要素に転化させる諸事 件は,同時に資本のためにその国内市場をつくりだす。
・農家は生活手段や原料を生産し加工して,あとからその大部分を自分で消費していた⇒原料や 生活手段は今では商品になっている。大借地農業者がそれを売るのであり,彼はマニュファクチ ュアに自分の市場を見いだす。
・糸やリンネルや粗製毛織物など,その原料をどの農家でも手に入れることができて各農家によっ て自家消費のために紡がれ織られていた物⇒今ではマニュファクチュア製品にされ,農村地方 そのものがそれらの販売市場になる。
・自分の計算で労働する多数の小生産者に依存していた多数の分散した買い手⇒今では集中され て,産業資本によってまかなわれる一大市場になる。
・このようにして,以前の自営農民の収奪や彼らの生産手段からの分離と並んで,農村副業の破壊, マニュファクチュアと農業との分離過程が進行する。
・ただ農村家内工業の破壊だけが,一国の国内市場に,資本主義的生産様式の必要とする広さと強固な存立とを与えることができる。

⑤本来のマニュファクチュア時代には根本的な変化はなにも現われない。
・この時代は国民的生産を断片的に征服するだけで,つねに都市の手工業と家内的・農村的副業と を広い背景としてこれに支えられている。
・この時代はこれらのものをある種の形態や特殊な事業部門やいくつかの地点では破壊するにして も,よそでは再び同じものを呼び起こす(この時代は原料の加工のためにある一定の程度までは これらのものを必要とするから)。
・それだから,この時代は一つの新しい部類の小農民を生み出すのであって,このような農民は耕作 を副業として営み,生産物をマニュファクチュアに売る(直接にかまたは商人の手を経て)ため の工業的労働を本業とする。
・イギリス史の研究者の困惑----15世紀の最後の1/3期以後は,農村では資本経営の増加や農民層の 破滅が進行し,他面ではこの農民層が,数は減少しその形態は悪化しながらも,絶えず繰り返し研 究者の前に現われる。
・その主要な原因は,イギリスは時代の変遷につれて穀作を主とする国になったり牧畜を主とする国になったりし,また,その変遷につれて農民経営の規模が変動したということ。

 第二四章 いわゆる本源的蓄積 
第五節 農業革命の工業への反作用 産業資本のための国内市場の形成

①発作的ではあるがまた絶えず繰り返される農村民の収奪と駆逐⇒プロレタリア群を繰り返し都 市工業に供給----「神の摂理の直接の干渉」
・独立自営農村民の稀薄化----工業プロレタリアートの濃密化が対応
・耕作者の数が減少⇒土地は以前と同量かまたはより多量の生産物
・土地所有関係の革命⇒耕作方法の改良・協業の大規模化・生産手段の集積
・農村賃金労働者の労働の強化
・農村民の一部分が遊離⇒彼らの食料もまた遊離⇒可変資本の素材的要素に転化----追い出さ れた農民は,この食料の価値を産業資本家から労賃という形で買い取らなけれはならない。
・国内で生産される農産工業原料⇒不変資本の一つの要素に転化

②フリードリヒ二世(大王)の時代(1740~86)----亜麻を紡いでいたヴェストファーレンの農民
・一部分は暴力的に収奪されて追放,残った別の部分は大借地農業者の日雇い労働者に。同時に大 きな亜麻紡績工場や織物工場ができて,「遊離した人々」はそこで賃労働。
・亜麻は見たところ以前と少しも変わりはない。その繊維の一筋も変わってはいない⇒今ではマ ニュファクチュア経営者の不変資本の一部になっている。
・亜麻は,以前は,それを自分で栽培し紡いでいた無数の小生産者のあいだに分配されていた⇒今 では,自分のために他人に紡がせたり織らせたりする一人の資本家の手のなかに集積されている。
・亜麻紡績場で支出される特別な労働は,以前は無数の農民家族の特別収入・租税⇒今ではそれ は少数の資本家の利潤。
・紡錘や織機は,以前は広く農村に分散⇒今では労働者・原料と同様大きな作業場に。
・紡錘も織機も原料も,紡ぎ手や織り手の独立な生存の手段⇒今では,彼らに命令し彼らから不払 労働を吸い取るための手段に転化。
・大きなマニュファクチュア(「合併マニュファクチュア」,[合併工場」)を見ても,大きな借地農 場を見ても,それらが多くの小さな生産場が合併されたものだということや,多くの小さな独立生 産者の収奪によってできたものだということはわからない。とはいえ,とらわれない目で見れば 惑わされることはない。
・革命の獅子ミラボー『プロイセン王国について』

④小農民を賃金労働者に転化させ,彼らの生活手段と労働手段を資本の物的要素に転化させる諸事 件は,同時に資本のためにその国内市場をつくりだす。
・農家は生活手段や原料を生産し加工して,あとからその大部分を自分で消費していた⇒原料や 生活手段は今では商品になっている。大借地農業者がそれを売るのであり,彼はマニュファクチ ュアに自分の市場を見いだす。
・糸やリンネルや粗製毛織物など,その原料をどの農家でも手に入れることができて各農家によっ て自家消費のために紡がれ織られていた物⇒今ではマニュファクチュア製品にされ,農村地方 そのものがそれらの販売市場になる。
・自分の計算で労働する多数の小生産者に依存していた多数の分散した買い手⇒今では集中され て,産業資本によってまかなわれる一大市場になる。
・このようにして,以前の自営農民の収奪や彼らの生産手段からの分離と並んで,農村副業の破壊, マニュファクチュアと農業との分離過程が進行する。
・ただ農村家内工業の破壊だけが,一国の国内市場に,資本主義的生産様式の必要とする広さと強固な存立とを与えることができる。

⑤本来のマニュファクチュア時代には根本的な変化はなにも現われない。
・この時代は国民的生産を断片的に征服するだけで,つねに都市の手工業と家内的・農村的副業と を広い背景としてこれに支えられている。
・この時代はこれらのものをある種の形態や特殊な事業部門やいくつかの地点では破壊するにして も,よそでは再び同じものを呼び起こす(この時代は原料の加工のためにある一定の程度までは これらのものを必要とするから)。
・それだから,この時代は一つの新しい部類の小農民を生み出すのであって,このような農民は耕作 を副業として営み,生産物をマニュファクチュアに売る(直接にかまたは商人の手を経て)ため の工業的労働を本業とする。
・イギリス史の研究者の困惑----15世紀の最後の1/3期以後は,農村では資本経営の増加や農民層の 破滅が進行し,他面ではこの農民層が,数は減少しその形態は悪化しながらも,絶えず繰り返し研 究者の前に現われる。
・その主要な原因は,イギリスは時代の変遷につれて穀作を主とする国になったり牧畜を主とする 国になったりし,また,その変遷につれて農民経営の規模が変動したということ。

・大工業がはじめて機械によって資本主義的農業の恒常的な基礎を与え,巨大な数の農村民を徹底 的に収奪し,家内的・農村的工業(紡績と織物)の根を引き抜いてそれと農業との分離を完成す る。したがってまた,大工業がはじめて産業資本のために国内市場の全体を征服する。
工業がはじめて機械によって資本主義的農業の恒常的な基礎を与え,巨大な数の農村民を徹底 的に収奪し,家内的・農村的工業(紡績と織物)の根を引き抜いてそれと農業との分離を完成す る。したがってまた,大工業がはじめて産業資本のために国内市場の全体を征服する。
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by shihonron | 2010-12-14 23:30 | 学習会の報告
2010年 12月 07日

第207回 12月7日 第24章 第3節

12月7日(火)第207回の学習会を行いました。
「第24章 第3節 15世紀以後の被収奪者に対する血の立法 労賃引き下げのための諸法律」の第1段落から第16段落までについてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。


第24章 いわゆる本源的蓄積   

第3節 15世紀以後の被収奪者にたいする血の立法
    労賃引き下げのための諸法律
 


①封建家臣団の解体によって、また、断続的で暴力的な土地収奪によって追い払われた人々は、それが生み出されたのと同じ速さでは、新たに起こりつつあるマニュファクチュアに吸収されることはできなかった。
・他面、自分たちの歩き慣れた生活の軌道から突然投げ出された人々も、新しい状態の規律に慣れることができなかった。彼らは大量に乞食や盗賊や浮浪人に転化した。それは、一部には性向からであったが、大多数は周囲の事情に強制されたものであった。
・それゆえ、15世紀末から16世紀全体にわたり、全西ヨーロッパで浮浪罪に対する流血の立法が行われた。こんにちの労働者階級の祖先は、彼らのよぎなくされた浮浪人化と受救貧民化のために罰せられた。立法は彼らを「自由意志による」犯罪者として取りあつかいもはや存在していない古い諸関係のもとで労働を続けることが、彼らの善意に依存していると想定した。

②イギリスではこの立法はヘンリー7世のもとで始まった。
 
③ヘンリー8世、1530年・・老齢で労働能力のない乞食は乞食鑑札を受ける。強健な浮浪人には鞭打ちと拘禁とが科される。彼らは、体から血が流れるまで鞭打たれ、それから、自分の出生地あるいは最近三年間の居住地に帰って「仕事につく」(to put himself to labour)ことを宣誓しなければならない。
・ヘンリー8世の第27年には、新たな追加によっていっそう厳しくされる。二度目に浮浪罪で逮捕されれば、鞭打ちがくり返され耳を半分切り取られるが、三度罪を犯すと、死刑に処せられる。
 
④エドワード六世。その治世の第1年、1547年の一法規によれば、労働することをこばむ者は、彼を怠け者として告発した人の奴隷になることを宣告される。主人は鞭と鎖とによって自分の奴隷をパンと水、薄いスープと彼にふさわしいと思われる屑肉とをもって、養わなければならない。主人は、奴隷にどんないやな労働でもさせる権利を持っている。奴隷は14日間仕事を離れれば、終身奴隷の宣告を受け、額か頬にS字のらく印を押され、3回逃亡すると、国家の反逆者として死刑に処せられる。主人は、奴隷を他の動産や家畜とまったく同様に、売却し、遺贈し、奴隷として賃貸しすることができる。奴隷が主人に逆らって何事かを企てれば、やはり死刑に処せられる。浮浪者が3日間ぶらぶらしていたことがわかると、出生地に送られ、赤熱のコテで胸にV印をらく印され、その地で鎖につながれて街路上やその他の労役に使われる。浮浪人が虚偽の出生地を申し立てた場合には、その地の住民または団体の終身奴隷にされる罰を受け、Sをらく印される。すべての人が、浮浪人からその子供を取り上げ男児は24歳まで、女児は20歳まで徒弟にしておく権利を持っている。彼らが逃亡すれば、この年齢になるまで親方の奴隷にされ、親方は彼らを意のままに鎖につないだり鞭打ったりなどすることができる。すべての主人は、自分の奴隷の首、腕、または足に鉄の環をはめて見分けやすいようにし、自分のものであることを確実にすることを許される。この法の最後の部分は、特定の貧民たちは、彼らに飲食物を給し仕事を与えようとする地区または個人に雇われるべきだと規定している。この種の教区奴隷は、イギリスでは19世紀に入ってまでも roundsmen(まわり歩く人)という名で保存されていた。

⑤エリザベス、1572年。鑑札を持たない14歳以上の乞食は、2年間彼らを使おうとする人がいなければ、ひどく鞭打たれ、左の耳たぶにらく印される。再犯の場合は、18歳以上ならば、二年間彼らを使おうとする人がいなければ、死刑に処せられるが、3犯目の場合には、容赦なく国家の反逆者として死刑に処せられる。同様の法としては、エリザベス第18年の法、第13号、および1597年のものがある。

⑥ジェームズ一世。放浪し乞食をする者は、放浪者で浮浪人だと宣告される。“小治安裁判所 Petty Sessions ”の治安判事は、彼を公衆の面前で鞭打たせ、初犯は6ヵ月、再犯は2年入獄させる権限を有する。入獄中は、治安判事が適当と考えるたびごとに、また適当と考える数だけ鞭打たれる。矯正の見こみのない危険な放浪者は、左肩にRをらく印されて強制労働を課せられ、ふたたび乞食をして逮捕されれば、容赦なく死刑にされる。これらの規定は、18世紀の初期まで有効であったが、アン第12年の法、第23号によってはじめて廃止された。

⑧こうして、暴力的に土地を収奪され、追放され、浮浪人にされた農村民は、グロテスクで凶暴な法律によって、鞭打たれ、らく印を押され、拷問されて、賃労働制度に必要な訓練をほどこされた。
 
⑨一方の極には労働諸条件が資本として現れ、他方の極に自分の労働力以外に売るものが何もない人間が現れるというだけでは十分ではない。このような人間が自発的に自分を売るようによぎなくされるだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれ、教育、伝統、慣習によって、この生産様式の諸要求を自明の自然法則として認めるような、労働者階級が発展する。
・十分に発達した資本主義的生産過程の機構はあらゆる抵抗を打破し、相対的過剰人口の絶え間ない生産は労働の需要供給の法則を、したがって労賃を、資本の増殖欲求に照応する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者に対する資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な暴力もあい変わらず用いられはするが、しかしそれはただ例外的であるにすぎない。物事が普通に進行する場合には、労働者は「生産の自然法則」に、すなわち、生産諸条件そのものから発生し、それらによって保証され永久化される資本への労働者の従属に、まかせておくことができる。
・資本主義的生産の歴史的創生記中では、事情は違っていた。勃興しつつあるブルジョアジーは、労賃を「調節する」ために、すなわち、貨殖に適合する制限内に労賃を押しこめるために、また労働日を延長して労働者自身を標準的な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の本質的な一契機である。
 
⑩14世紀の後半に発生した賃労働者の階級は、その当時もその次の世紀にも人民のうちのほんのわずかな構成部分をなしていただけで、それは農村の自立的農民経営と都市の同職組合組織とによって強くその地位を保護されていた。農村でも都市でも、雇い主と労働者とは社会的に接近していた。資本への労働の従属は、形式的でしかなかった。すなわち、生産様式そのものは、まだ特殊な資本主義的性格を帯びてはいなかった。資本の可変的要素は不変的要素よりもずっと重きをなしていた。したがって、賃労働に対する需要は、資本が蓄積されるにつれて急速に増大したが、他方、賃労働の供給は、緩慢にしか需要についていかなかった。国民的生産物の一大部分は、のちには資本の蓄積財源に転換されたが、当時はまだ労働者の消費財源の中に入っていった。
 
⑪もともと労働者の搾取を目的とし、その進行中もつねに同じように労働者に敵対的である、賃労働に関する立法は、イギリスでは1349年、エドワード3世の“労働者規制法 Statute of Labourers ”によって開始される。フランスでこれに照応するものは、ジャン王の名で公布された1350年の王令である。イギリスとフランスの立法は並行して進み、内容からみても同一である。これらの労働者法が労働日の延長を強制しようとする限りでは、私はそれには立ち戻らないことにする。この点は先に(第8章、第5節)論じたからである。
 
⑫“労働者規制法”は下院の切迫した訴えに基づいて公布された。 あるトーリー党員は素朴にも次のように言っている。「以前は貧民たちが高い労賃を要求して、産業と富とをおびやかした。今では彼らの賃金はあまりにも低くて、同じように産業と富とをおびやかしているが、しかし事態は当時とは違っており、おそらく当時よりもいっそう危険である」。

 
⑬法定賃金率が、都市と農村について、出来高仕事と日ぎめ仕事について確定された。農村労働者は一年契約で、都市労働者は「公開市場」で雇用されなければならない。法定賃金よりも高く支払うことは禁固刑をもって禁止されるが、しかし法定よりも高い賃金を受け取ることは、それを支払うことよりも重く処罰される。こうして、エリザベス徒弟法の第18条および19条においても、法定より高い賃金を支払うものは10日の禁固刑を科されるのに対して、これを受け取るものは21日の禁固刑を科される。
・1360年の一法令は、刑罰をいっそうきびしくし、さらに肉体的強制によって法定賃金率で労働をしぼり取る権限をも雇い主に与えた。レンガ積み工や大工を相互に団結させるいっさいの結合、契約、誓約などは無効と宣言されている。労働者の団結は、14世紀から団結禁止法が廃止された1825年まで、重罪として取りあつかわれている。
・1349年の労働者法やそれに続いて誕生した諸法の精神は、労賃の最高限は国家によってたしかに命令されるが、しかし最低限は決して命令されないということから見て、まったく明らかである。

 
⑭16世紀には、周知のように、労働者の状態は非常に悪化した。貨幣賃金は上昇したが、貨幣の減価とそれに照応する物価の騰貴に比例しては上昇しなかった。したがって、賃金は実際には下落した。それにもかかわらず、賃金を引き下げるための諸法律は、「だれもこれを雇おうと欲しない」人々の耳切りやらく印と共に存続した。エリザベス第5年の徒弟法第3章によって、治安判事は、ある種の賃金を確定し季節や物価に応じてそれを修正する権限を与えられた。ジェームズ一世はこの労働規制を、織物工、紡績工、およびありとあらゆる労働者の部類に拡張し、ジョージ二世は労働者の団結を禁止する諸法律をすべての製造業に拡張した。
 
⑮本来のマニュファクチュア時代には、資本主義的生産様式は労賃の法律的規制を実行不可能で不用なものにするに十分な強さに達していたが、それでも、人々は非常事態にそなえて古い兵器庫の武器なしですませようとは望まなかった。ジョージ二世第8年の法も、ロンドンとその周辺の裁縫職人に対して、一般的服喪の場合を除き、2シリング7ペンス半よりも多い日賃金を禁止した。ジョージ三世第13年の法、第68章も、絹職工の労賃の規制を治安判事に一任した。1796年になっても、労賃に関する治安判事の命令が非農業労働者にも適用されるかどうかを決定するためには、上級の裁判所の二つの判決が必要であった。1799年にもまだ、スコットランドの鉱山労働者の賃金は、エリザベスの一法と1661年および1671年のスコットランドの二つの法とによって規制されるということが、一つの法律によって確認された。そのあいだに事情がいかに激変したかは、イギリスの下院における前代未聞の一事件によって証明された。下院では400年以上も前から、労賃が絶対に超えてはならない最高限についての諸法律が製造されてきたが、この下院で1796年に、ウィットブレドが農業日雇い労働者のために一つの法定最低賃金を提案した。ピットは反対したが、「貧民の状態が悲惨(cruel)である」ことは認めた。ついに1813年に、賃金規制に関する諸法律は廃止された。資本家が自分の私的立法によって工場を取り締まり、救貧税によって農村労働者の賃金を不可欠な最低限まで補足されるようになってからは、これらの法律はこっけいな変則になっていた。契約を破った雇い主に対して民事訴訟を起こすことだけしか許さないのに、契約を破った労働者に対しては刑事訴訟を起こすことを許す、このような雇い主と賃労働者との契約や起源つき解除予告、その他に関する労働者法規〔第3版と第4版では、労働法規・・ディーツ版編集者〕の諸規定は、こんにちにいたるまで完全に有効である。

⑯団結を禁止する残酷な諸法律は、1825年にプロレタリアートの威嚇的態度にあって破滅した。けれども破滅したのは一部分だけであった。古い諸法規のいくつかのうるわしい残片は、1859年になってやっと消滅した。最後に1871年6月29日の法律は、“労働組合 Trades' Unions ”の法律承認によってこの階級立法の最後の痕跡を除去するふりをした。しかし、同じ日付の一法律(“暴力、脅迫、妨害に関する刑法改正法 An act to amend the criminal law relating to violence, threats and molestation ”)は、事実上、以前の状態を新しい形態で再現した。この議会的手品によって、ストライキやロック・アウト(工場主たちが同盟し、自分たちの工場を同時に閉鎖することによって行うストライキ)に際して労働者が用いうる手段が、普通法による規制から特別刑法による規制に移され、この刑法の解釈は治安判事の資格を持つ工場主自身にゆだねられた。2年前には、この同じ下院と同じグラッドストン氏とが、周知の誠実なやり方で、労働者階級に対するいっさいの特別刑法を廃止するため一つの法案を提出した。しかし、それは第二読会より先には進められず、こうして事態が長引かされて、ついに「大自由党」は、トーリー党との提携に勇気づけられて、自分を支配的地位に押し上げてくれたまさにそのプロレタリアートに、断固として敵対するにいたった。この裏切りだけでは満足しないで、「大自由党」は、支配階級に奉仕していつでも尻尾を振っているイギリスの裁判官たちに、「陰謀」を規制するための古ぼけた諸法律をふたたび掘り出してそれらを労働者の団結に適用することを許した。要するに、イギリスの議会は、ただいやいやながら大衆の圧力のもとにストライキや“労働組合”を禁止する諸法律を放棄したが、それも、すでにこの議会そのものが5世紀の久しきにわたり、労働者に対抗する常設の資本家“組合”としての地位を、恥知らずの利己主義をもって保持してきてから後のことだったのである。

⑰革命の嵐が始まると同時に、フランスのブルジョアジーは、労働者がやっと獲得したばかりの団結権をふたたび彼らから取り上げた。1791年6月14日の布告によって、ブルジョアジーはいっさいの労働者団結を「自由と人権宣言とに対する侵害」だと宣言し、500リーヴルの罰金と一年間の公民権剥奪とをもって罰せられるべきものとした。この法律は、資本と労働との競争戦を国家の警察権によって資本に好つごうな限度内に押しこめるのであるが、それはいくつかの革命や王朝の交替を通して生き続けた。恐怖政治でさえもこれには手を触れなかった。それはようやく最近になって“刑法典 Code Penal ”から抹消された。このブルジョアのクーデターの口実以上に特徴的なものはない。報告者ル・シャプリエは次のように言う・・「労賃が現在より高くなることによって、これを受け取る者が、生活必需品の欠乏に基づく、ほとんど奴隷的従属である絶対的従属からまぬがれることは望ましいことである」が、しかし労働者が彼らの利害について協定し、共同で行動し、それによって彼らの「ほとんど奴隷状態である絶対的従属」を軽減することは許されない。彼らはまさにそうすることによって「彼らの“かつての親方 cidevant maitres ”である今の企業家の自由」(労働者を奴隷状態に維持する自由!)を侵害するからであり、また、以前の同職組合親方の専制に対抗する団結は―何を言い出すことやら!―フランス憲法によって廃止された同職組合の再建だからである!。
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by shihonron | 2010-12-07 23:30 | 学習会の報告
2010年 12月 07日

第24章 第3節 資料

【エンクロージャー】開放耕地下の耕地と共同地を垣根などで囲い込み,共同用益権を排除すること。囲込み運動とも。牧羊と農業改良を目的とし,その典型は英国で第1次(15世紀末―17世紀半ば)と第2次(18世紀半ば―19世紀初め)の2度行われ,農業の資本主義化と農民の賃労働者化とを促進した。(マイペディアより)

【開放耕地制度】中世の西欧諸国で広く行われていた農地制度で,典型的には三圃(さんぽ)制のもとでみられた。この農法では農民の全保有地が開放された状態に保たれ,冬穀・夏穀・休耕の輪作が共同で行われた。この制度によって農民は村中の農地利用に参加でき,自然災害などによる被害も分散され小さくすることができた。中世末期以降のエンクロージャーの進行とともに消滅。(マイペディアより)

【三圃制】中世ヨーロッパで広く行われた農法。有畜で,休閑地を含む輪作の一形式。村の全耕地が三つの耕圃に分割され,一つは休閑地とされ,他の2耕圃にはそれぞれ春播き(大麦,エンバクなど)あるいは秋播き(小麦,ライムギなど)の穀物などが植え付けられ,これらが順次繰り返された。個々の農民には犂耕(りこう)に適するよう細長い形にした小区画が割り当てられたが,境目には仕切が設けられなかったので開放耕地制度と呼ばれている。別に採草地,放牧地,森林などが耕地を囲んで共有地としてあり,農耕・休閑などの過程は領主制や村落共同体により強制的に統制された。近世に入って,休閑地にもマメ科の牧草,根菜などを栽培するようになり,これは改良式三圃農法と呼ばれている。三圃式農法はそれ以前の二圃式農法に比べて土地の利用度が高く,休閑,家畜の糞(ふん)などによる土地肥沃度の保持,効率のよい犂耕の導入などから数百年にわたって相対的に高い農業生産力を保証した。中世末期以降,農業技術の改良や村落共同体の弱体化とともに衰退し,最終的には農業革命によって消滅した。(マイペディアより)

【分割地農民】封建的土地所有の解体により,自分の土地(分割地)・労働・資本で小経営を行う独立自営農民。近代的土地所有への過渡的形態で,英国のヨーマン,15―16世紀フランス・西部ドイツの農民などが典型。資本主義発生の基盤だが,エンクロージャーや原始的蓄積の過程で次第に没落し,これへの不安・抵抗が分割地農民の保守・反動性の根源をなす。(マイペディアより)

【封建的土地所有】封建領主が経済外的強制により農民を土地に縛りつけ,剰余労働を封建地代として搾取する土地所有形態。農民は土地の保有・耕作権をもつだけで,領主の身分的・人格的支配を受ける。生産力の発展や地代の転化(労働→現物→貨幣地代)につれて農民の人格的・経済的独立性が強まり,やがて農民的土地所有や独立自営農民(ヨーマン)が形成され,市民革命によって封建的土地所有は解体する。(マイペディアより)

【経済外的強制】本来,マルクスが封建的搾取関係を特徴づけた概念であり,領主・地主が直接生産者としての農民から封建地代を徴収するために発動する,経済外的な直接の強制力(身分的従属,土地緊縛,領主裁判権など)をさす。現在では,資本の運動法則の直接の結果ではない物理的強制のほか,心理的強制も含めて広く用いる。(マイペディアより)

【封建的生産様式】封建領主が土地を所有し,土地を貸与された農民が封建地代を納める生産様式。農民は基本的生産手段たる土地は借りたが,農具等生産手段をもっていたので,農民を土地に緊縛するため,武力,領主裁判権等の経済外的強制が用いられた。都市に手工業者と商人も発生,商品経済の発展で,この生産様式は崩壊し,資本主義に移行。
(マイペディアより)

【封建制度】古代社会と近代資本主義社会の間に位置する政治・社会体制。英語で feudalism。概念的また地域的にやや異なる内包をもつ。(1)ドイツの学者のいわゆるレーン制 Lehnswesen。(2)直接的な経済外的強制に基づく領主・農民間の支配隷属関係(農奴制)。(3)社会類型の一つとして,レーン制・農奴制を含めてイデオロギーや生活様式などこの時代のすべての現象をさす。とくに〈封建社会〉と呼んで区別することもある。(4)もっとも広義には,身分的特権をもつ階層が存在する社会の制度すべてをさす。⇒荘園
〔西洋〕 一般的には中世ヨーロッパの封建貴族(独立権力をもつ)間に成立した政治体制(レーン制)をさす。主従誓約と封土の授受を媒介とする,貴族個人間の双務的な主従関係に基づく。家臣は主君に軍事奉仕,出仕義務(特に封建法廷での陪席),緊急時の金銭的援助を義務づけられ,主君は家臣に軍事的援助や公的裁判所での弁護を義務づけられる。両者の間柄は封建法によって規制され,主君の誠実義務違反に対しては家臣の反抗権が発動される。制度的には8―9世紀に北フランスに成立,12―13世紀が最盛期。商品経済の発展,広域経済圏の出現とその規制に当たる王権の伸張とともに崩壊した。
〔中国〕 周(前11世紀成立)代に一族・功臣などを各地に封じて諸侯とし,身分と土地とを与えた制度。諸侯は貢納・兵役の義務を有し,その下に卿・大夫・士の家臣がそれぞれ世襲の身分・土地を与えられて属していた。氏族的・血縁的であることが西洋の封建制と異なる点で,それを強化・保持するために宗法制が行われた。
〔日本〕 上記の西洋および中国の概念の適用いかんで理解が異なるが,一般に土地恩給制と従士制を軸とする分権的政治形態を指し,鎌倉時代以降の武家社会に適用される。なお,マルクス主義の史的唯物論に立脚する観点もあって一様でない。
(マイペディアより)

【中世封建制度(フューダリズム)】
 フューダリズム(Feudalism)とは歴史学において中世ヨーロッパ社会特有の支配形態を指した用語であり、「封建制」と訳出される。土地を媒介とした国王・領主・家臣の間の緩やかな主従関係により形成され、近世以降の中央集権制を基盤とした絶対王政の中で消失した。
 マルクス主義歴史学(唯物史観)においては、生産力と生産関係の矛盾を基盤として普遍的な歴史法則を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みた。この場合、おおよそ古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示す。
・ヨーロッパ  騎士と聖職者
 古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。
 更に「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世社会が(今日的な視点で見れば)極めて非中央集権的な社会となる要因となった。
 西欧中世においては、特にその初期においてノルマン人、イスラーム教徒、マジャール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった(ただし、実際には各農村ごとにかなり相違があったと考えられている上、多くの農村では農奴だけでなく自由農民も相当数存在していた)。

・日本
 ヨーロッパでのフューダリズム(封建制)が、外民族の移動・侵入などと強く結び付いて形成されたのに比し、日本の封建制はむしろ武士による統治などの国内的要因が主となって形成された(天皇やその藩屏たる貴族は武士の権威を『根拠付ける』存在である)。西欧のフューダリズムで複数の契約関係や、短期間での契約破棄・変更がみられたのと同様、日本でも実際のところ戦国時代まで主従関係は後述の「御恩と奉公」の言葉で表現されるように一部双務的・流動的なものであり、「二君にまみえず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」という語に示されるような主君への強い忠誠が求められたのは、江戸時代に入ってからである。
 日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。鎌倉幕府の成立によって「御恩と奉公」が既に広義の封建制として成立したとする説で、第2次世界大戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令国家の解体から各地に形成された在地領主の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として鎌倉幕府が形成された(鎌倉幕府の力は、日本全国に及んでいた訳ではない)とみなす。従って承平天慶の乱(承平5年、935年)がその初期の現われとみなされる。
 日本中世史と日本近世史の間で、1953年から1960年代にかけて日本封建制成立論争が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った安良城盛昭は、太閤検地実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=古代)とし、太閤検地を画期として成立する幕藩体制を日本の封建制と規定した。しかし、激しい反論を生み、院政期以降を成立期とする説(戸田芳実など)、南北朝内乱期を成立期とする説(永原慶二など)が提起された。歴史学の関心が拡散する中でこの論争は明確な解答を得ぬまま終息した。
 日本の領主の封建制は「税の徴収権」に過ぎず(参照→職の体系)、つまり西欧に見られるような領地の私有と領民への農奴としての隷属的支配権は存在しなかったので、本当の意味の封建制は存在しなかったとする説もある。 (ウィキペディア)

【荘園】中世ヨーロッパに成立した聖俗所領の農業経営の単位であり同時に領主(独立の権力主体)の農民支配の単位。英国のマナー manor,ドイツのグルントヘルシャフト Grundherrschaft,フランスのセニュリ seigneurie などが典型であるが,その様式や発展・消滅の過程は一様でない。8-9世紀に成立した古典荘園ビリカツィオン Villikationは,領主直営地と農民保有地からなり,前者は土地保有農民や荘園庁内の給養奴隷の賦役によって運営された。ただし穀物栽培の後進地帯やブドウ栽培地帯には,直営地を欠く非古典荘園的所領も多かった。荘園を構成する地所は数ヵ村にわたって散在し,荘園と村落とは空間的に一致しないのが通則であった。農奴を根幹とする荘園農民は各種の賦役・貢租を領主に給付し領主裁判権に服しながら,他方,村仲間団体(のちには村落共同体)の成員として慣習的な仲間団体(共同体)的規制にも服した(地条混在制,耕作強制,共同地用益制限など)。12-13世紀以降,農業生産力の上昇,剰余生産物の商品化につれて,領主直営地は農民に分割貸与されて縮小または解体した。労働地代(賦役)は生産物地代ないし貨幣地代へと推移し,農奴的諸負担も次第に消滅して古典荘園は地代(純粋)荘園に転化した。しかし領主的土地所有形態としての荘園は近代の市民革命まで存続した。(マイペディアより)

【領主制】西欧封建時代に領主が隷属農民の剰余生産物を経済外的強制に基づいて体系的に収取した制度。支配権の性格によって,1.土地領主制(狭義の荘園制),2.裁判領主制(しばしば村落領主制の形をとり,バン領主制とも),3.体僕領主制,の3基本型に大別。収取形態は1は地代,2は裁判貢租,3は人頭税。領民に対する支配形態は,1は土地を媒介にした間接的支配,2は土地とは無関係に裁判権による支配,3は直接的な人身支配。また支配権の及ぶ範囲は1は非一円的な飛地,2は一円的な裁判領域,3は体僕が居住する任意の場所であった。その他にドイツ東部のグーツヘルシャフトなどのように,これらの複合型もあった。(マイペディアより)

【農業革命】 資本主義の成立期に産業革命と並んで行われた農業技術や経営方法の急激な変革で,封建的土地所有から資本主義的土地所有への移行を完了した。典型的には18世紀後半―19世紀中期の英国でみられ,土地囲込み(エンクロージャー)が行われ,新農具・新作物の導入により農業における資本主義制度が確立,多くの独立自営農民(ヨーマン)は没落した。(マイペディアより)

【ヨーマン】英国の独立自営農民。中世末期の封建制の解体期から台頭し,ジェントリーと零細農の中間に位置した中産的生産者層。年収40シリングの自由土地保有者が中心。資本主義の展開にともない地主と労働者に両極分解をとげ,18世紀中葉以降の農業革命により没落した。(マイペディアより)

【治安判事】英国の地方の治安維持を主たる任務とする役人。14世紀中葉に制度的に確立した。専門の法律家ではない地方の名望家であるジェントリー層がこの職に任命されて無給で奉仕にあたったところに特色が見いだされる。治安維持のほかに最高賃金の設定など経済生活に関する統制にもあたり,次第にその職権は増大した。16-17世紀には地方行政の有効な手段として利用された。19世紀になると他の行政機関にその権限を委譲したが,今日なお司法制度の下部機関として機能している。アメリカ合衆国においては,選挙によって選ばれた治安判事が限定された民事・刑事の裁判権を有して,州裁判所の最下級に位置している。 (マイペディアより)

⑦これと類似の法律はフランスにもあって、フランスでは17世紀の中ごろ、パリに浮浪人王国(royaume des truands)が設けられていた。ルイ16世の初期にも(1777年7月13日の王令)、16歳から60歳までの強健な男で生計の資もなく職業にもついていない者は、すべてガレー船に送られることになっていた。同様のものとしては、1537年10月のネーデルラントに対するカール5世の法、1614年3月19日のオランダ諸州および諸都市に関する最初の布告、1649年6月25日の連合州の告示などがある。

【ガレー船】ガレー船(ガレーせん、galley)は、主として人力で進む大型の軍艦。古代に出現し、地形が複雑で風向きの安定しない地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用された。(ウィキペディア)

【トーリー党】(Tory Party)は、かつてのイギリスの政党。現在の「保守党」の前身にあたる。チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」と言ったのが始まりである。(ウィキペディア)

【ホイッグ党】ホイッグ党(またはウィッグ党、Whig Party)は、イギリスの政党。後の自由党および自由民主党の前身にあたる。ホイッグ党の起こりはチャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。因みにWhigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。
(ウィキペディア)

【団結禁止法 】資本主義の初期に労働者(もしくは使用者も含む)の団結行動を禁じ,近代市民社会の自由市場イデオロギーの原理を実現するという名目で,実質的には労働運動を抑圧するため各国で制定された法律の一般的呼称。特に1799年英国で制定の団結禁止法や1791年のフランスのル・シャプリ工法が有名。資本主義経済における労働市場の特性の認識が深まるにつれて,19世紀半ばから20世紀初頭にかけて各国とも廃止された。日本では1900年制定の治安警察法第17条が実質的にこれに当たった。 (マイペディアより)

【マニュファクチュア】工場制手工業と訳す。道具を技術的基礎とし,賃金労働者の分業に基づく協業に立脚した資本制生産の初期形態。単純な協業と大工業の中間形態で,労働と道具の専門化により生産性を高めた。分散生産される部品を1ヵ所に集め組み立てる異種的(分散)マニュファクチュアと,一作業場で工程を分割して仕上げる有機的(集中)マニュファクチュアの2形態がある。マニュファクチュアが資本制生産の支配的形態であった〈本来のマニュファクチュア時代〉(英国では1550年―1760年ころ)にも問屋制家内工業は併存。日本における幕末・維新期が本来のマニュファクチュア時代であったか否かをめぐって〈マニュファクチュア論争〉がある。(マイペディアより)

【恐慌】クライシス crisis またはパニック panic の訳語。資本主義経済では利潤を目的としてますます大量の商品が生産されるが,その経費にあたる賃金はできるだけ低くおさえられるため,生産の増大に対して消費が伴わず,商品の過剰生産が起こり,価格暴落,破産,失業などの景気循環の最悪の危機的局面が生ずる。それが恐慌で,8~12年の周期をもつ。恐慌を切り抜けるため機械設備などの更新が広く行われるが,これら設備の耐久期間が恐慌の周期の基礎をなす。本格的恐慌は1825年英国に始まったが,1929年米国に始まった大恐慌が有名。日本では1890年の最初の恐慌以後,1897年,1900年,1907年,1920年,1927年,1929年に発生。(マイペディアより)

【フランス革命】1789年―1799年にフランスで起きた革命。ブルボン絶対王制を倒して,アンシャン・レジームの封建的社会関係を廃棄。世界史上市民革命の代表的な例とされ,現代フランスの出発点をなすとともに西欧近代史への画期となった。18世紀末ルイ16世の下において,社会的矛盾は一段と激化したが,これに適応しようとして王権の企てたなしくずし的近代化も特権階層の反対により挫折し,危機は一層深刻となった。1789年5月,国王は175年ぶりに全国三部会を召集したが,第三身分はこれを国民議会とするよう要求し,憲法制定会議に切りかえた。前年来の凶作飢饉(ききん)により不穏な状態にあった民衆は7月14日バスティーユを襲撃し革命が始まった。同年8月封建制廃止が宣言され人権宣言が採択されて立憲君主制の形態をとることになったが,1791年国王の逃亡事件をきっかけに立法議会が成立。1792年王権は停止され,同年9月国民公会が成立し,22日共和制が宣言された。1793年1月ルイ16世は処刑され,6月ロベスピエールの率いる山岳派はジャコバン・クラブ,サン・キュロットを背景にジロンド派を追放して独裁的権力を樹立して恐怖政治をしき,封建地代の無償廃棄など徹底的な変革を行った。この間に国民軍はプロイセン・オーストリアの武力干渉を撃破したが,1794年7月テルミドール9日によりロベスピエールは失脚。以後1795年の総裁政府を経て1799年11月ブリュメール18日のクーデタによりナポレオンが執政政府をつくるに至って,フランス革命は終結をみた。
(マイペディアより)
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by shihonron | 2010-12-07 23:25 | 学習会資料