『資本論』を読む会の報告

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2011年 02月 22日

第215回 2月22日 第3節

2月22日(火)に第215回の学習会を行いました。
「第3節 第三段階、W’―G’」についてレジュメに基づく報告を受け、第1段落から第17段落までを検討しました。

以下は第3節の検討した範囲のレジュメです。

第一篇 資本の諸変態とそれらの循環
    第三節、第三段階、W’―G’

(1)商品は、すでに価値増殖された資本価値の、直接に生産過程そのものから生じた機能的定在形態として、商品資本となる。商品生産がその全社会的範囲において資本主義的に営まれるならば、すべての商品は、はじめから商品資本の要素であろう。
 
(2)資本は、その商品形態においては商品機能を果たさなければならない。資本を構成する諸物品は、はじめから市場のために生産されるもので、販売され、貨幣に転化され、したがってW―Gという運動を経過しなければならない。

★ ・商品機能とは、販売され、貨幣に転化されること。価値の大きさは変化しない。(2)(23)
  ・貨幣機能とは、購買し、商品に転化すること。価値の大きさは変化しない。(22)(23)
  ・資本機能とは、剰余価値を生み出し、より大きい価値になること。(3)
 
(3)資本家の商品が一万ポンドの綿糸からなるとしよう。紡績過程で三七二ポンド・スターリングの価値の生産諸手段が消費され、一二八ポンド・スターリングの新価値がつくり出されたとすれば、この糸は五〇〇ポンド・スターリングの価値をもち、その価値をそれと同名の価格で表現する。この価格が販売W―Gによって実現されるとしよう。すべての商品流通のこの単純な過程を、同時に一つの資本機能にするものはなにか? それは、この過程の内部で生じる変化ではない。すなわち、商品の使用上の性格に関して生じる変化でもなければ――というのは、この商品は使用対象として買い手の手に移るのであるから――、またその価値に関して生じる変化でもない――というのは、その価値は大きさの変化をこうむるのではなく、形態変換をこうむるだけであるから。その価値は、はじめは綿糸の中に存在したが、いまやそれは貨幣の中に存在する。こうして、最初の段階G―Wと最後の段階W―Gとのあいだには一つの本質的な区別が現われる。G―Wでは、前貸しされた貨幣が貨幣資本として機能する。なぜなら、それが流通の媒介によって独自な使用価値をもつ諸商品に転換されるからである。W―Gでは、商品が資本として機能しうるのは、その流通が始まる前に、この資本的性格を既成のものとして生産過程から持ち込んでくる限りのことでしかない。

 1万ポンドの糸の価値500=422P+78M=(372Pm+50A)+78M=W(422)+w(78)=W’

一万ポンドの糸の価値表現として、WをW’にするものは、W’の価値の絶対的大きさ(五〇〇ポンド・スターリング)ではない。というのは、この価値の〔絶対的〕大きさは、何らかの他の商品額の価値表現である他のすべてのWの場合と同様に、その商品額に対象化されている労働の大きさによって規定されているからである。WをW’にするものは、W’の価値の相対的大きさ、W’の生産に消費された資本Pの価値に比べてのW’の価値の大きさである。資本Pの価値は、生産資本によって提供された剰余価値をプラスして、W’の価値の大きさに含まれている。W’の価値は、この剰余価値wだけ、より大きく、この資本価値を超過している。一万ポンドの糸は、価値増殖された――剰余価値で増大された――資本価値の担い手である。そして、それがそうであるのは、資本主義的生産過程の生産物としてである。W’は価値関係を表現する。すなわち、商品生産物の価値とそれの生産に支出された資本の価値との関係、したがって、商品生産物の価値が資本価値と剰余価値とから構成されていることを、表現する。一万ポンドの糸は、生産資本Pの転化された形態としてのみ、したがって、さしあたりこの個別資本の循環のうちだけに存在する連関の中でのみ、言い換えれば、自己の資本で糸を生産した資本家にとってのみ、商品資本W’である。価値の担い手としての一万ポンドの糸を商品資本にするものは、いわば内的関係だけであって、決して外的関係ではない。この糸は、その価値の絶対的大きさにおいてではなく、その価値の相対的大きさにおいて、すなわち、この糸に含まれている生産資本が商品に転化される以前にもっていた価値の大きさにおいて、その資本主義的母斑をそなえている。それ故、もしこの一万ポンドの糸が五〇〇ポンド・スターリングというその価値通りに販売されるならば、この流通行為は、それ自体として考察すれば、W―Gであり、ある不変な価値の商品形態から貨幣形態への単なる転化である。しかし、一つの個別資本の循環の中の特殊な段階としては、この同じ行為が、商品によって担われた資本価値四二二ポンド・スターリング、プラス、商品によって担われた剰余価値七八ポンド・スターリング、の実現であり、したがってW’―G’であり、商品形態から貨幣形態への商品資本の転化である。

★G―Wでは、貨幣で生産手段と労働力を購買する。購買して資本家の手の中にある生産手段と労働力が生産資本として機能するからこそ、Gは貨幣資本(貨幣形態をとっている自己増殖する価値)として機能する。W’―G’で商品資本(商品形態をとっている自己増殖する価値)として機能しうるのは、その資本的性格を生産過程の結果として受け取っているからである。

★内的関係とは、W’がPの転化形態であり、前貸し資本価値に剰余価値を加えた価値を持っていること。外的関係とは、貨幣に転化することを指している。

(4)さて、W’の機能は、すべての商品生産物の機能である――すなわち、自己を貨幣に転化すること、販売されること、流通局面W―Gを経過することである。いまや価値増殖された資本が商品資本の形態にとどまり続け、市場に滞留する限り、生産過程は停止する。この資本は、生産物形成者としても価値形成者としても作用しない。資本がその商品形態を脱ぎ捨ててその貨幣形態をとる速度の相違に応じて、すなわち、販売の迅速さに応じて、同じ資本価値が生産物形成者および価値形成者として役立つ程度はおおいに異なり、再生産の規模は拡大または縮小されるであろう。与えられた一資本の作用度が、その資本自身の価値の大きさにはある程度まで依存しない、生産過程の諸力能によって条件づけられている。ということは、第一部で明らかにされた〔第1部第22章「絶対的剰余価値の生産」〕。ここでは、流通過程が、資本の価値の大きさには依存しない、資本の作用度――すなわち資本の膨張および収縮――の新たな諸力能を運動させることが明らかにされている。

■第1部第22章「絶対的剰余価値の生産」の指示されている箇所では「労働力のより高度な緊張によって生み出される追加労働は、それに比例して不変資本部分を高めることなしに、剰余生産物と剰余価値を、すなわち蓄積の実体を増加させることができる」「(鉱山業のような採取産業では)不変資本をあらかじめ増加することなしに蓄積の領域が拡大される」ことなどが指摘され、「一般的な結論――資本は、富の二つの原形成者、すなわち労働力と土地とをみずからに合体させることによって膨張力を獲得するのであって、これにより資本は、一見すると資本自身の大きさによって定められた限界を超えて、すなわち資本の定在形態たる、すでに生産されている生産手段および総量によって定められた限界を超えて、自己の蓄積の諸要素を拡大させることができる」と延べている。
 
(5)商品総量W’は、価値増殖された資本の担い手として、その全部がさらに変態W’―G’を成し遂げなければならない。ここでは、販売されるものの量が本質的な規定となる。個々の商品は、いまではもはや総量の不可欠な部分としての役を演じるにすぎない。五〇〇ポンド・スターリングの価値が一万ポンドの糸の中に実存する。もし資本家が七四四〇ポンドだけを三七二ポンド・スターリングというその価値で販売するのに成功するならば、彼は、彼の不変資本の価値の大きさを補填したにすぎない。彼は、剰余価値を実現するためには、もっと多く販売しなければならないのであり、七八ポンド・スターリング(=一五六〇ポンドの糸)という全剰余価値を実現するためには、一万ポンドの糸を全部販売しなければならない。したがって、五〇〇ポンド・スターリングの貨幣では、彼は販売された商品の等価物を受け取るにすぎない。流通内部での彼の取り引きは、単純なW―Gである。
 
(6)W’=W+w(=422ポンド・スターリング+78ポンド・スターリング)――Wは、Pすなわち生産資本の価値に等しく、この後者(生産資本の価値)は、生産諸要素の購買G―Wに前貸しされたGの価値に等しい。われわれの例では、四二二ポンド・スターリングである。この商品総量がその価値通りに販売されるならば、Wは四二二ポンド・スターリングに等しく、wは、一五六〇ポンドの糸という剰余生産物の価値である七八ポンド・スターリングに等しい。貨幣で表現されたwをgと呼べば、W’―G’=(W+w)―(G+g)であり、したがって、G―W・・P・・W’―G’という循環は、その明細な形態では、G―W<A Pm ・・P・・(W+w)―(G+g)である。

★W―G w―g
 
(7)第一段階では、資本家は使用物品を本来の商品市場および労働市場から持ち去る。第三段階では、彼は商品を投げ返す――ただし、ただ一つの市場、本来の商品市場にだけ。しかし彼は、自分の商品によって、自分が最初に市場に投げ入れたよりも多くの価値を再び市場から持ち去るが、それは、彼が最初に持ち去ったよりも大きい商品価値を投げ入れるからに他ならない。彼は価値Gを投げ入れ、そして等価値Wを持ち去った。彼はW+wを投げ入れ、そして等価値G+gを持ち去る。――Gはわれわれの例では八四四〇ポンドの糸の価値に等しかった。ところが彼は、一万ポンドを市場に投げ込むのであり、したがって、彼は自分が市場から取ったよりも大きい価値を市場に与える。他方では、彼がこの増大した価値を投げ入れたのは、彼が生産過程で剰余価値(剰余生産物で表わされた、生産物の加除部分としての)を労働力の搾取によって生産したからに他ならない。この過程の生産物としてのみ、商品総量は商品資本であり、増殖された資本価値の担い手である。W’―G’の遂行によって、前貸資本価値も剰余価値も実現される。この両者の実現は、W’―G’で表現される総商品量の順次の販売あるいはまた一括販売で、同時に行なわれる。しかし、同じ流通過程W’―G’も、それが資本価値の場合と剰余価値の場合とでは、それぞれにとって両者の流通の異なる一段階を表現する限りにおいて、すなわち両者が流通の内部で経過すべき変態系列の中の異なる一部分を表現する限りにおいて違いがある。wすなわち剰余価値は、生産過程の内部ではじめて生み出された。したがってそれは、はじめて商品市場に、しかも商品形態で現われる。商品形態は剰余価値の最初の流通形態であり、それ故w―gという行為も剰余価値の最初の流通行為またはその最初の変態であり、したがって、この変態は反対の流通行為または逆の変態g―wによってさらに補足されなければならない。

(8)資本価値Wが同じ流通行為W’―G’で行なう流通については事情は異なるのであって、このW’―G’は、資本価値Wにとっては流通行為W―Gであり、そこではW=P〔生産資本の価値〕で、最初に前貸しされたGに等しい。資本価値は、その最初の流通行為を、Gとして、貨幣資本として開始し、W―Gという行為によって同じ形態に復帰する。このように、それは、(一)G―Wと(二)W―Gという対立する二つの流通局面を経過して、再び、同じ循環過程を新たに開始しうる形態にある。剰余価値にとっては、商品形態の貨幣形態への最初の転化であるものが、資本価値にとっては、その最初の貨幣形態への復帰または再転化である。
 
(9)G―W<A Pmによって、貨幣資本は、同じ価値額の商品総額AおよびPmに転化された。それらの価値は、いまやそれらの買い手の手中に、資本家の手中に、彼の生産資本の価値として存在する。そして、Pの機能である生産的消費において、それらの商品は、生産諸手段とは素材的に異なる一つの商品種類、すなわち糸に転化され、この糸において、それらの商品の価値は単に維持されるだけでなく、四二二ポンド・スターリングから五〇〇ポンド・スターリングに増大される。この現実的変態によって、第一段階G―Wで市場から持ち去られた諸商品は、素材的にも異なる商品――いまや商品として機能し、貨幣に転化され、販売されなければならない商品――に置き換えられる。それ故生産過程は、資本価値の流通過程の中断としてのみ現われるのであり、この時までには、資本価値の流通過程のうちの第一局面G―Wを経過しているだけである。資本価値は、Wが素材的および価値的に変化したのち、第二の終結の局面W―Gを経過する。しかし、資本価値をそれ自体として取り上げて考察する限りでは、それは生産過程でその使用形態の変化を受けただけである。それは、AおよびPmのうちに四二二ポンド・スターリングの価値として存在したが、いまやそれは八四四〇ポンドの糸の、四二二ポンド・スターリングの価値として存在する。したがって、剰余価値から切り放して考えた資本価値の流通過程の両局面だけを考察すれば、この資本価値は(一)G―Wと、(二)W―G――この場合第二のWは、第一のWとは使用形態は変わっているが、価値は同じである――とを経過する。すなわち、資本価値は、G―W―G――貨幣から商品への転化および商品から貨幣への転化という反対の方向での商品の二重の場所変換によって、貨幣として前貸しされた価値の貨幣形態への復帰すなわち前貸価値の貨幣への再転化を必然的に生じさせる流通形態――を経過するのである。

★現実的変態とは、生産過程において、生産手段とは素材的に異なる一つの商品種類に転化されること。
流通の過程では、商品が貨幣に、あるいは貨幣が商品に転化するが、商品の使用価値には何の変化も生じない。こうした流通過程での変態に対して生産過程における変態を現実的変態と呼んでいる。
 
(10)貨幣で前貸しされた資本価値にとっては、第二の終結の変態であり貨幣形態への復帰であるこの同じ流通行為W’―G’が、商品資本によって同時に一緒に担われ商品資本の貨幣形態への転換によって同時に一緒に実現される剰余価値にとっては、第一の変態、商品形態から貨幣形態への転化、W―G、第一の流通局面である。
 
(11)したがって、ここでは二つのことが注意されなければならない。第一に、最初の貨幣形態への資本価値の最終的再転化は、商品資本の機能である。第二に、この機能は、その最初の商品形態から貨幣形態への剰余価値の第一の形態転化を含む。すなわち貨幣形態は、ここでは二重の役割を演じる。それは、一方では、最初に貨幣で前貸しされた価値の復帰形態であり、したがって、過程を開始した価値形態への復帰である。それは、他方では、最初に商品形態で流通にはいる価値の第一の転化形態である。商品資本を構成する諸商品が、ここで前提されているように、その価値通りに販売されるとすれば、W+wは同じ価値のG+gに転化される。このG+g(422ポンド・スターリング+78ポンド・スターリング=500ポンド・スターリング)という形態で、実現された商品資本がいまや資本家の手中に存在する。資本価値と剰余価値とは、いまや貨幣として、すなわち一般的等価形態で、現存する。
 
(12)このように、過程の終わりには、資本価値は、再び、それが過程に入ったときと同じ形態にあり、したがって、貨幣資本として再び新たに過程を開始し、経過することができる。過程の出発形態および終結形態が貨幣資本(G)の形態であるからこそ、循環過程のこの形態がわれわれによって貨幣資本の循環と呼ばれるのである。過程の終わりに変化しているのは、前貸しされた価値の形態ではなく、その大きさだけである。
 
(13)G+gは、一定の大きさ――われわれの場合では五〇〇ポンド・スターリング――の貨幣額以外のなにものでもない。しかし、資本の循環の結果としては、実現された商品資本としては、この貨幣額は資本価値と剰余価値とを含む。しかも、これらの二つは、いまはもう糸の中でのように互いに結合しあってはいない。それらはいまや互いにならび合っている。それらの実現が両者のそれぞれに自立的貨幣形態を与えたのである。その 211/250 は、資本価値、四二二ポンド・スターリングであり、その 39/250 は七八ポンド・スターリングの剰余価値である。商品資本の実現によって引き起こされたこの分離は、すぐ述べるような形式上の内実をもつだけではない。この分離は、gがGに全部つけ加えられるか、一部分がつけ加えられるか、またはまったくつけ加えられないかに応じて、すなわちgが前貸資本価値の構成部分として機能し続けるかいなかに応じて、資本の再生産過程において重要になる。gとGとがまったく異なる流通を経過することもありうる。

★《糸の中でのように互いに結合しあってはいない》とはどういうことか? 1万ポンドの糸のうち8440ポンドの糸は資本価値、1560ポンドは剰余価値を担っているといえるように思えるのだが。

★《gとGとがまったく異なる流通を経過する》とは、gが資本家の個人的消費に使われることを念頭に置いている。
 
(14)G’において、資本は再びそれの最初の形態Gに、それの貨幣形態に復帰している――しかし、それが資本として実現されている形態において。
 
(15)第一に、そこには量的な差がある。資本はG、四二二ポンド・スターリングであった。それがいまやG’、五〇〇ポンド・スターリングであり、この差は、量的に異なる循環の両極G・・G’で表わされ、循環の運動そのものは点線・・によって示されるだけである。G’はGよりも大きく、G’マイナスGはMすなわち剰余価値に等しい。――しかし、この循環G・・G’の結果としてはいまではもうG’が存在するだけである。それは生産物であり、この生産物ではそれの形成過程は消えてしまっている。G’はいまや、それを生み出した運動から独立して、自立的にそれ自体として存在する。運動は過ぎ去り、それに代わってG’がそこにある。

★G’を《生産物である》と述べているのは、G’が生産過程の結果として生み出されるW’の価格を実現したものであるという意味だと思われる。
 
(16)しかし、G+gとしてのG’、四二二ポンド・スターリングの前貸資本プラスその増分七八ポンド・スターリングとしての五〇〇ポンド・スターリングは、同時に質的関係を表わす――とはいえ、この質的関係そのものは、同名の総額の諸部分の関係としてのみ、すなわち量的関係としてのみ、存在するのであるが。いまや再びその最初の形態(四二二ポンド・スターリング)で現存する前貸資本Gは、いまでは実現された資本として存在する。それは自己を維持しただけでなく、自己を資本としてg(七八ポンド・スターリング)から区別することによって――このgに対してGは、自己の増加分、自己の果実、G自身によって生み出された増分に対する関係として、関係させられる――自己を資本としても実現した。Gは資本として実現されている。なぜなら、価値を生み出した価値として実現されているからである。G’は資本関係として実存する。Gはもはや単なる貨幣として現われるのではなく、はっきりと貨幣資本として措定されており、自己を増殖した価値として、したがってまた自己を増殖し自己自身がもっているよりも多くの価値を生み出す属性をもつ価値として、表わされている。Gは、G’のうちの他の部分――すなわち、Gによって措定され原因としてのGから生じさせられたものとしての、Gを根拠とする帰結としての、他の部分――にたいする自己の関係によって、資本として措定されている。こうして、G’は、自己の中で分化し、それ自身の中で機能的(概念的)に自己を区別し、資本関係を表わす、価値総額として現われる。

★「資本関係」という言葉は、第1部では「資本―賃労働関係」という意味で用いられていた。ここでの「資本関係」はそれとはやや異なっているように思える。「貨幣関係」が商品の貨幣への転化と商品の貨幣への転化という価値量に変化のない形態転換であることに対して、自己増殖する価値であること(剰余価値の生産)を「資本関係」といっているのではないか。

■《発展した商品生産である資本主義的生産では、労働する諸個人から生産手段が完全に分離して資本の形態をとっており、労働する諸個人は、資本の人格的代表者である資本家に自己の労働力を販売して生活する賃労働者となっている。このような生産関係を資本・賃労働関係、略して資本関係という。》
(大谷禎之介『図解社会経済学』35頁)

■《したがって、資本主義的生産過程は、その関連の中で考察すれば、すなわち再生産過程としては、商品だけを、剰余価値だけを生産するのではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃労働者を生産し、再生産するのである》(第1部 第21章 単純再生産 第24段落) 

(17)しかし、この関係は、結果として、この結果を生じる過程の媒介なしに、表わされているにすぎない。

★G・・G’
 
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by shihonron | 2011-02-22 23:30 | 学習会の報告
2011年 02月 15日

第214回 2月15日 第1章 第1節、第2節 

2月15日(火)に第214回の学習会を行いました。
「第1節 第一段階、G―W」と「第2節 第二段階、生産資本の機能」「第3節 第三段階、W’―G’」についてレジュメに基づく報告を受け、第1節の第28段落からまで第2節の最後までを検討しました。

以下は第2節のレジュメです。

第二節 第二段階、生産資本の機能

①ここで考察される資本の循環は、流通行為G―W、すなわち貨幣の商品への転化、購買から始まる。したがって流通は、反対の変態W―G、すなわち商品の貨幣への転化、販売によって補足されなければならない。しかし、G―W<A Pmの直接の結果は、貨幣形態で前貸しされた資本価値の流通の中断である。貨幣資本の生産資本への転化によって、資本価値は現物形態を受け取ったのであり、この形態ではそれは流通を続けることができず、消費に、すなわち生産的消費に、入り込まなければならない。労働力の使用である労働は、労働過程でのみ実現されうる。資本家は労働者を再び商品として売ることはできない。なぜなら、労働者は資本家の奴隷ではないし、また資本家が買ったのは、一定時間にわたる労働者の労働力の消費以上のものではないからである。他面では、資本家は、生産諸手段を商品形成体〔商品形成の諸要因〕として労働力により消費させることによってのみ、労働力を消費することができる。したがって、第一段階の結果は、第二段階に、資本の生産段階に、入り込むことである。
 
②この運動はG―W<A Pm・・Pとして現われるのであり、ここの点線は、資本の流通が中断されているが、資本は商品流通の部面からでて生産部面に入り込むのであるから、資本の循環過程が続いていることを示唆する。したがって第一段階、貨幣資本の生産資本への転化は、第二段階の、生産資本の機能の、先駆けおよび導入部面としてのみ、現われる。
 
③G―W<A Pmは、この行為を行なう個人が任意の使用形態にある諸価値を自由に使用するだけでなく、彼がこれらの価値を貨幣形態で所有すること、彼が貨幣所有者であることを前提する。しかし、この行為の本質はまさに貨幣の引き渡しであり、それでも彼が貨幣所有者であり続けうるのは、この引き渡し行為そのものによって貨幣が彼の手に還流することが暗に含まれている限りのことである。しかし、貨幣は、商品の販売によってのみ彼の手に還流することができる。したがって、この行為は、彼が商品生産者であることを前提する。

★生産要素の購入という行為は、その購入者が商品生産者であることを前提する。
 
④G―A。賃労働者は、労働力の販売によってのみ生活する。労働力の維持――賃労働者の自己維持――には、日々の消費が必要である。したがって、彼がその自己維持に必要な購入―― A―G―WまたはW―G―Wという行為――を反復しうるためには、彼に対する支払いが絶えず比較的短い期限で反復されなければならない。それ故、資本家は賃労働者に対して絶えず貨幣資本家として、また彼の資本は貨幣資本として、相対しなければならない。したがって、この状態は、すでに、商品としての生産物の流通が、したがってまた商品生産の程度も、高度であることを必要とする。賃労働による生産が一般的になるやいなや、商品生産が生産の一般的形態になっていなければならない。商品生産が一般的であると前提されるならば、今度はそのことが、社会的分業の絶え間のない増進、すなわちある特定の資本家によって商品として生産される生産物の特殊化の絶え間のない増大、互いに補完し合う生産諸過程の自立的な生産諸過程への絶え間のない増大を、生じさせる。それ故、G―Aが発展するのと同じ度合いでG―Pmが発展する。しなわち,同じ程度に、生産諸手段の生産が、それらを生産諸手段として用いる商品の生産から分離するのであり、また、この生産諸手段は、どの商品生産者自身に対しても、彼が生産するのではなく彼が自分の特定の生産過程のために購買する商品として、相対する。生産諸手段は、彼の生産部門から完全に分離されて自立的に経営される生産諸部門から出てきて、商品として彼の生産部門に入り込むのであり、それ故それらは購買されなければならない。商品生産の物的諸条件は、彼に対して、ますます大きな程度に、他の商品生産者たちの生産物として、商品として、相対する。それと同じ程度に、資本家は貨幣資本家として登場しなければならない。すなわち、それだけ彼の資本が貨幣資本として機能しなければならない規模が拡大される。
 
⑤他方では、資本主義的生産の基本条件――賃労働者階級の定在――を生み出すその同じ事情は、いっさいの商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。資本主義的商品生産は、それが発展するのと同じ程度に、あらゆるより古い、主として直接的自家需要を目的として生産物の余剰だけを商品に転化する生産形態に対して、分解的解体的に作用する。それは、さしあたり外見上は生産様式そのものを侵害することなしに、生産物の販売を主要な関心事にする――たとえば、資本主義的世界貿易が中国人、インド人、アラビア人などのような諸民族に与えた最初の作用がそうであった。しかし第二に、この資本主義的生産が根を張ったところでは、それは、生産者たちの自家労働に基づくか、または単に余剰生産物を商品として販売することに基づく、商品生産のすべての形態を破壊する。それは、まずもって商品生産を一般化し、それからしだいにすべての商品生産を資本主義的商品生産に転化させる。

⑥生産の社会的形態がどうであろうと、労働者と生産手段とは常に生産の要因である。しかし、一方も他方も、互いに分離された状態では、ただ可能性から見て生産の要因であるにすぎない。およそ生産が行なわれるためには、それらが結合しなければならない。この結合が成し遂げられる特殊な仕方によって、社会構造の様々な経済的諸時代が区別される。いま問題の場合には、自由な労働者が彼の生産諸手段から分離されていることが、与えられた出発点なのであり、どのようにして、どのような条件のもとで両者が資本家の手中で――すなわち彼の資本の生産的定在様式として――結合されるかは、われわれがすでに見たところである。こうして一つに結合された人的および物的な商品形成体が一緒に入り込む現実の過程、すなわち生産過程は、それ故、それ自身、資本の一機能――資本主義的生産過程となるのであり、この資本主義的生産過程の本性は本書の第一部で詳しく説明された。商品生産を行なうあらゆる経営は、同時に労働力搾取の経営となる。しかし、資本主義的商品生産がはじめて画期的な搾取様式となるのであって、この搾取様式は、その歴史的発展の進行の中で、労働過程の組織と技術の巨大な発達とによって、社会の経済的構造全体を変革し、従来のすべての時代を比類なく大きく凌駕する。

■《従来のすべての時代を比類なく大きく凌駕する》は、岡崎訳では《それ以前のどの時代よりもはるかに高くそびえ立つのである》となっている。
 
⑦生産手段と労働力とは、それらが前貸資本価値の実存形態である限り、それらが生産過程中に価値形成に際して――したがってまた剰余価値の生産において――演じる役割の相違によって、不変資本および可変資本として区別される。生産諸手段と労働力とは、さらに、生産資本の異なる構成部分として、生産諸手段の方は資本家の所有である以上、生産過程の外部でも依然として彼の資本であるが、労働力の方は生産過程の内部でのみ個別資本の定在形態になる、ということによって区別される。労働力は、ただその売り手である賃労働者の手中においてのみ商品であるが、これに対して、労働力は、その買い手である、その一時的な使用を手に入れる資本家の手中においてのみ資本となる。生産諸手段そのものは、労働力が生産資本の人的定在形態として生産諸手段に合体されうるようになったその瞬間からのみ、生産資本の対象的諸姿態すなわち生産資本となる。したがって、人間の労働力が生まれながらに資本ではないのと同じように、生産諸手段もまたそうではない。生産諸手段は、歴史的に発展した特定の諸条件のもとでのみ、この独自な社会的性格を受け取るのであり、それはちょうど、ただそのような諸条件のもとでのみ、貴金属に貨幣という独自な社会的性格が、それどころか貨幣に貨幣資本という独自な社会的性格が刻印されるのと同じである。
 
⑧生産資本は、それが機能するあいだに、それ自身の構成諸部分を消費して、それらをより価値の高い生産物総量に転換する。労働力は生産資本の諸器官の一つとして作用するにすぎないから、労働力の剰余労働によって生み出される、生産物価値のうちその形成諸要素の価値を超える超過分もまた、資本の果実である。労働力の剰余労働は資本の無償労働であり、それ故資本家のために剰余価値――彼にとってなんらの等価物も費やさせない価値――を形成する。それ故、生産物は商品であるだけでなく、剰余価値を身ごもった商品でもある。それの価値は、P+Mであり、それの生産に消費された生産資本の価値P、プラス、この生産資本によって生み出された剰余価値M、に等しい。この商品が一万ポンドの糸からなり、それの生産に三七二ポンド・スターリングの価値の生産諸手段と五〇ポンド・スターリングの価値の労働力とが消費されたと想定しよう。この紡績過程中に、紡績工たちは、彼らの労働によって消費された生産諸手段の価値額三七二ポンド・スターリングを糸に移転すると同時に、彼らの労働支出に照応して、たとえば一二八ポンド・スターリングの新価値を産出した。それ故、一万ポンドの糸は五〇〇ポンド・スターリングの価値の担い手である〔二〇ポンドの糸=一ポンド・スターリング〕。

★372(Pm)+128(50A+78M)=500
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by shihonron | 2011-02-15 23:00 | 学習会の報告
2011年 02月 08日

第213回  2月8日 第1章 貨幣資本の循環 第1節 その1

2月8日(火)に第213回の学習会を行いました。
「第1章 貨幣資本の循環 」の前文と「第1節 第一段階、G―W」についてレジュメに基づく報告を受け、第27段落までを検討しました。
以下はレジュメです。

第一篇 資本の諸変態とそれらの循環
  第一章 貨幣資本の循環
前文
①資本の循環過程は三つの段階を通って行なわれ、それらの段階は、第一巻の叙述によれば、次のような順序をなす。

②第一段階。資本家は、買い手として商品市場および労働市場に現われる。彼の貨幣は、商品に転換される。言い換えれば流通行為G―Wを経過する。

③第二段階。購買された商品の、資本家による生産的消費。彼は、資本主義的商品生産者として機能する。彼の資本は、生産過程を経過する。その結果は、それ〔結果としての商品〕の生産諸要素の価値よりも多くの価値をもつ商品である。

★購買された商品は、消費の対象でありすでに商品ではなくなっている。

④第三段階。資本家は、売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は、貨幣に転換される。言い換えれば流通行為W―Gを経過する。
 
⑤したがって、貨幣資本の循環を表わす定式は、
G―W・・P・・W’―G’であり、この場合、点線は流通過程が中断されていることを示し、またW’およびG’は、剰余価値によって増殖したWおよびGを表わす。
 
⑥第一段階と第三段階とは、第一部では、第二段階、すなわち資本の生産過程を理解するのに必要な限りでのみ論究された。それ故、資本がその様々な段階で身につける――そして循環の繰り返し中であるいは身につけ、あるいは脱ぎ捨てる――様々な形態は、顧慮せずにおかれた。今や、これらの形態が当面の研究対象をなす。

⑦これらの形態を純粋に把握するためには、さしあたり、形態変換そのものおよび形態形成そのものとはなんのかかわりもないすべての契機が捨象されなければならない。それゆえ、ここでは、諸商品はそれらの価値通りに販売されるということばかりでなく、この販売が前と変わらぬ事情のもとで行なわれるということも仮定される。したがって、循環過程中に起こりうる価値変動も度外視される。

★形態変換は流通過程でのことであり、形態形成というのは生産過程でのことをいっているのではないか。

■《[循環の概念]ここで循環というのは、ある点から出発して、一連の過程を経たのちに、最初の出発点に戻ることである。すなわち出発点が復帰点になるのである。
(大谷禎之介『図解社会経済学』245頁)
■《[資本の3形態:貨幣資本(G)→生産資本(P)→商品資本(W)]資本の循環のなかで資本が、貨幣、生産要素、商品というそれぞれの形態をとっているとき、資本はそれぞれ、貨幣資本、生産資本、商品資本と呼ばれる。》(大谷禎之介『図解社会経済学』245頁)

 第一節 第一段階、G―W

★W<A Pm について、は本来はAとPmが縦に並んで表記されるべきですが、技術上の理由でW<A Pm と表記しています。

①一般的商品流通のこの過程を、同時に一つの個別資本の自立的循環の中の機能的に規定された一部分にするものは、さしあたり、この過程の形態ではなく、それの素材的内実であり、貨幣と席を換える諸商品の独自な使用の性格である。これらの商品は、一方では生産諸手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因および人的要因であって、これらの要因の特殊な性質は、もちろん、生産されるべき物品の種類に照応しなければならない。労働力をAとし、生産諸手段をPmとすれば、購買されるべき商品総額WはA+Pmであり、もっとかんたんにあらわせばW<A Pmである。したがって、G―Wは、その内容から考察すれば、G―W<A Pmとして現われる。すなわち、G―Wは、G―AとG―Pmとに分かれる。貨幣総額Gは二つの部分に分裂して、そのうちの一方は労働力を購買し、他方は生産諸手段を購買する。この二系列の購買は、まったく異なる市場に所属する――一方は本来の商品市場に、他方は労働市場に。

■《資本の循環運動をG―W・・P・・W’―G’と書き表したときには、商品(W)が2度、WおよびW’として現れるが、この資本にとっては前者のWは、実現されるべき(貨幣に転化されるべき)商品ではなくて、生産過程にはいるべき生産要素であり、循環の観点から見れば、生産過程で生産要素として機能する生産資本Pと一致する。だからG―WのWは資本の循環における独自の形態ではない。このように、G―WのWは、循環の観点から見れば、生産資本Pと一致するので、このWを出発点=復帰点とする循環形態は意味を持たない。だからG―W・・P・・W’―G’は循環形態としてはG―(W=)P…W’―G’であり、P…W’―G’―W…Pは循環形態としてはP…W’―G’―(W=)…Pにほかならない》(大谷禎之介『図解社会経済学』247頁)

②ところがG―W<A Pmは、Gが転換される商品総額のこの質的分割の他に、もう一つのきわめて特徴的な量的関係を表わす。
 
③われわれが知っているように、労働力の価値または価格は、労働力を商品として売りに出すその保有者に、労賃の形態で、すなわち剰余労働を含むある労働総量の価格として、支払われる。その結果、たとえば労働力の日価値=五時間労働の生産物にあたる三マルクであるならば、この金額は、買い手と売り手との契約では、たとえば一〇時間労働に対する価格または賃銀として現われる。もしこのような契約がたとえば五〇人の労働者と結ばれたとすれば、彼らは、合計して一日のあいだに五〇〇労働時間を買い手に提供しなければならないのであり、そのうちの半分である二五〇労働時間=一〇時間労働二五日分は、剰余労働だけからなる。購買されるべき生産諸手段の分量も規模も、この労働総量を使用するのに十分なものでなければならない。
 
④したがって、G―W<A Pmは、一定の貨幣額たとえば四二二ポンド・スターリングが、互いに照応し合う生産諸手段と労働力とに転換されるという質的関係を表わすだけでなく、労働力Aに投下される貨幣部分と生産諸手段Pmに投下される貨幣部分との一つの量的関係―― 一定数の労働者によって支出されるべき余分な剰余労働の総量によってはじめから規定されている関係――をも表わす。

★③では、《購買されるべき生産諸手段の分量も規模も、この労働総量を使用するのに十分なものでなければならない。》と述べられていたが、④では《一定数の労働者によって支出されるべき余分な剰余労働の総量》によって規定されると述べられている。剰余労働の総量が剰余労働を含む労働総量を規定すると言うことだろうか。言い換えれば、一定量である必要労働時間は与えられており、増減しうる(可変量である)剰余労働時間によって総労働時間(労働総量)が決まるということか。
 
⑤したがって、たとえばある紡績工場において五〇人の労働者の週賃銀が五〇ポンド・スターリングである場合には、三七二ポンド・スターリング〔四二二ポンド・スターリングのうち〕―― 一五〇〇時間の剰余労働を含む三〇〇〇時間の週労働〔一日一〇時間労働、五〇人の六日の労働時間〕が糸に転化する生産諸手段の価値がこの金額であるとすれば――が生産諸手段に支出されなければならない。

★422のG→372のPmと50のA
 
⑥様々な産業部門で追加労働の使用がどの程度まで生産諸手段の形での価値追加を必要とするかは、ここではまったくどうでもよい。問題なのは、生産諸手段に支出される貨幣部分――G―Pmで購買される生産諸手段――はどのような事情のもとでも十分でなければならないということ、すなわち、はじめからそのことを計算に入れて、照応する比率で調達されていなければならないということだけである。言い換えれば、生産諸手段の総量は、この労働総量を吸収するのに――この労働総量によって生産物に転化されるのに――十分でなければならない。もし生産諸手段が十分に現存しなければ、買い手が自由に利用できる超過の労働は使用され得ないであろう。この労働に対する彼の自由処分権はなんにもならないであろう。もし自由に利用できる労働よりも多くの生産諸手段が現存するならば、それらは労働を十分には供給されないことになり、生産物には転化されないであろう。

■【十分】
[名](スル)(十分)10に等分すること。「―の一」「利益を―して配る」
[形動]満ち足りて不足のないさま。充実して完全であるさま。「―な休養」「―に整う」
[副]1 思い残すところのないさま。思うまま。「―楽しむ」「―注意する」
2 必要なだけ、またはそれ以上あるさま。「まだ―使える」「隣町まで五キロは―ある」

★「十分」な生産手段の量は、労働総量に見合った「満ちたりて不足ない」生産手段の量という意味だろう。
 
⑦G―W<A Pmが完了すれば、買い手は、直ちに、ある有用な物品の生産に必要な生産諸手段と労働力とを自由に利用できるだけではない。彼は、労働力の価値の補填に必要であるよりも大きい労働力の流動体――すなわち、より大きい分量の労働――を自由に利用できると同時に、この労働総量の具現または対象化に要する生産諸手段を自由に利用できる。すなわち、彼が貨幣形態で前貸しした価値は、今や、それが剰余価値(諸商品の姿態での)を含む価値として具現されうる現物形態をとっている。言い換えれば、その価値は、価値および剰余価値を創造するものとして機能する能力をもつ生産資本という状態または形態にある。この形態にある資本をPと呼ぶことにしよう。
 
⑧ところで、Pの価値は、A+Pmの価値に等しく、AとPmとに転換されたGに等しい。Gは、Pと同じ資本価値であり、異なる存在様式をとっているだけである。すなわち、貨幣状態または貨幣形態にある資本価値――貨幣資本である。

★・生産資本P 剰余価値(諸商品の姿態での)を含む価値として具現されうる現物形態
        価値および剰余価値を創造するものとして機能する能力をもつ状態(形態)
          資本家のものとなっているAとPm

 ・貨幣資本G 生産資本Pと同じ資本価値であり、貨幣状態(形態)にある資本価値
 
⑨それゆえ、G―W<A Pm、または、その一般的形態から見ればG―W、諸商品の購買の総和、一般的商品流通のこの過程は、同時に、資本の自立的循環過程の中の段階としては、貨幣形態から生産的形態への資本価値の転化であり、もっと簡単に言えば、貨幣資本の生産資本への転化である。したがって、ここでまず第一に考察される循環の図式では、貨幣は、資本価値の最初の担い手として現われ、それゆえ、貨幣資本は、資本の前貸しされる形態として現われる。

★「前貸し」とは、手元に帰ってくることを前提に手放すこと。寒流を前提にした引き渡し。
 
⑩貨幣資本としては、資本は、貨幣諸機能、いまの場合には一般的購買手段と一般的支払手段との機能を果たしうる状態にある。(労働力は、確かにまずもって買われはするが、しかしそれが機能し終わった後にはじめて支払われる限りでは、〔貨幣は〕支払手段。生産諸手段が既成のものとして市場に現存するのではなく、これから注文しなければならない限りでは、貨幣はG―Pmの場合にもやはり支払手段として機能する。)この能力は、貨幣資本が資本であることから生じるのではなく、貨幣資本が貨幣であることから生じる。

★《生産諸手段が既成のものとして市場に現存するのではなく、これから注文しなければならない限りでは、貨幣はG―Pmの場合にもやはり支払手段として機能する。》と書かれているが、ここでの支払いはどういう意味なのか? 注文の際には商品を受け取った後に支払いをするということなのか、それとも注文する際には先払いをするが、それも商品の譲渡とその価格の実現が分離しているということから支払い手段と呼んでいるのだろうか。

■購買手段
《貨幣の通流は、同じ過程の不断の単調な反復を示す。商品はつねに売り手の側にあり、貨幣はつねに購買手段として買い手の側にある。貨幣は、商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現することによって、商品を売り手の手から買い手の手に移し、他方、同時に、自分は買い手の手から遠ざかって売り手の手に移り、別の商品についてまた同じ過程を繰り返す。》 (『資本論』第1部 第1編 第3章 第2節 流通手段 b 貨幣の通流 第2段落)
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by shihonron | 2011-02-08 23:30 | 学習会の報告
2011年 02月 08日

第213回  2月8日 第1章 貨幣資本の循環 第1節 その2

 
⑪他方では、貨幣状態にある資本価値もまた、貨幣諸機能を果たしうるだけで、他の機能は果たし得ない。この貨幣諸機能を資本諸機能にするものは、資本の運動の中での貨幣諸機能の一定の役割であり、それゆえまた、貨幣諸機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との連関である。たとえば、さしあたりいまの場合には、貨幣が諸商品に転化されるのであって、それら諸商品の結合が生産資本の現物形態をなし、したがって、この形態は、潜在的に――可能性から見て――すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵しているのである。

★貨幣資本Gは、貨幣の機能を果たし商品(労働力Aと生産手段Pm)を購入する。しかし購入した労働力Aと生産手段Pmは、生産的消費=商品を生産するためのものである。G―W<A Pm(労働力と生産手段の購入)の後に続く資本の運動は、生産過程で剰余価値を含む商品を生産することである。購入された労働力Aと生産手段Pmは、生産資本の現物形態であり、潜在的に――可能性から見て――すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵している。

★《この形態は、潜在的に――可能性から見て――すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵している》の《この形態》を、労働力と生産手段と理解したのだが、それでいいのだろうか。

⑫G―W<A Pmにおいて貨幣資本の機能を果たす貨幣の一部分は、この流通そのものの完了によって、一つの機能――そこではその貨幣部分の資本性格が消え失せてその貨幣性格が残る一機能――へ移るようになる。貨幣資本Gの流通は、G―PmとG―Aとに、生産諸手段の購買と労働力の購買とに、分かれる。このあとのほうの過程そのものを考察してみよう。G―Aは、資本家の側から見れば、労働力の購買である。それは、労働者すなわち労働力の保有者の側から見れば、労働力――ここでは労賃という形態が前提されているのだから労働と言ってもよい――の販売である。買い手にとってG―W(=G―A)であるものが、ここでは、どの購買の場合にもそうであるように、売り手(労働者)にとってはA―G(W―G)であり、彼の労働力の販売である。これは、商品の第一の流通段階または第一の変態である(第一部、第三章、第二節a〔本訳書、第一巻、一七七―一九四ページ〕)。これは、労働の売り手の側から見れば、彼の商品の、その貨幣形態への転化である。こうして手に入れた貨幣を、労働者は徐々に、自分の諸欲求を満たす諸商品総額に、消費諸物品に、支出していく。したがって、彼の商品の総流通は、A―G―W、すなわち第一にはA―G(=W―G)、第二にはG―Wとして現われ、したがって、単純な商品流通の一般的形態であるW―G―W――そこでは貨幣は、単なる束の間の流通手段、すなわち商品と商品との交換の単なる媒介者の役を演じる――として現われる。
 
⑬G―Aは、貨幣資本の生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜなら、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に――剰余価値を生産する価値に――転化するための本質的条件だからである。G―Pmは、G―Aによって購買された労働総量を実現するために必要であるにすぎない。それ故、第一部、第二篇「貨幣の資本への転化」〔本訳書、第一巻、二四九―三〇二ページ〕では、G―Aがこの観点から叙述された。ここでは事態が、さらにもう一つ別の観点から、特に資本の現象形態としての貨幣資本に関連して考察されなければならない。
 
⑭G―Aは、一般に、資本主義的生産様式にとって特徴的なものとみなされる。しかし、一般にそうみなされるのは、労働力の購買が、労働力の価格である労賃の補填に必要であるよりも多量の労働の提供――すなわち、前貸価値の資本化のための、または同じことであるが剰余価値の生産のための根本条件である剰余労働の提供――の、約定がなされる購買契約であるという、上述の理由からでは決してない。そうではなく、むしろ、労働が労賃の形態で貨幣で購買されるという労働力購買の形態の為であり、これが貨幣経済の特徴的標識とみなされるのである。

★《貨幣経済》と《資本主義的生産様式》はここでは同じ意味なのだろうか。一資本主義的生産様式を一般には、貨幣経済としてとらえられているということか。
《貨幣経済》は、「商品経済」の別名なのだろうか。
 
⑮さらに、ここで特徴的なこととみなされるのは、形態の不合理さでもない。この不合理さはむしろ見逃される。不合理さは、価値形成要素としての労働そのものはなんらの価値ももち得ないということ、したがってまた一定分量の労働は、その労働の価格――その労働と一定分量の貨幣との価格――で表わされるなんらの価値ももち得ないということにある。しかし、われわれが知っているように、労賃は一つの仮装形態にすぎないのであり、この形態においては、たとえば労働力の日価格は、この労働力によって一日のあいだに流動化される労働の価格として表わされ、したがって、たとえば、この労働力によって六時間の労働で生産される価値が、この労働力の一二時間の機能または労働の価値として表現されるのである。
 
⑯G―Aがいわゆる貨幣経済に特徴的なもの、その標識とみなされるのは、ここでは労働がその所有者の商品として現われ、それ故貨幣が買い手として現われるからである――したがって貨幣関係(すなわち人間活動の売買)のためである。ところでしかし、Gが貨幣資本に転化しなくても、すなわち経済の一般的性格が変革されなくても、貨幣はすでにずいぶん早くからいわゆる勤労(サーヴィス)の買い手として現われる。

■《勤労》は、岡崎訳では《用役》となっている。
 
⑰貨幣がどんな種類の商品に転化されるかは、貨幣にとってはまったくどうでもよいことである。貨幣はすべての商品の一般的等価形態であり、すべての商品は、それらが観念的に一定額の貨幣を表わし、貨幣への転化を期待し、そして貨幣との場所変換によってのみ、商品所有者にとっての使用価値に転化されうる形態を受け取るということを、すでにそれらの価格において示している。それ故、労働力がひとたびその所有者の商品として市場に現われ、その販売が労働に対する支払いの形態で――労賃の姿態で――行なわれるやいなや、労働力の売買は、他のどの商品の売買と比べても、奇異な感を与えるような点はまったく見られない。商品である労働力が買いうるものであるということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われることが特徴的なのである。
 
⑱生産の対象的諸要因と人的諸要因とが商品からなる限り、資本家は、G―W<A Pmすなわち貨幣資本の生産資本への転化によって、この両要因の結合を達成する。貨幣がはじめて生産資本に転化されるとき、または貨幣がその所有者のためにはじめて貨幣資本として機能するときには、その所有者は、労働力を購買する前に、まず生産諸手段、すなわち、作業用建物、機械などを購買しなければならない。というのは、労働力が彼の支配下に移るやいなや、それを労働力として使用しうるためには、そこに生産諸手段が存在しなければならないからである。
 
⑲資本家の側から見れば、事態は以上のごとくである。
 
⑳労働者の側から見れば――彼の労働力の生産的活動は、その労働力が販売されて生産諸手段と結合される瞬間からはじめて可能になる。すなわち、労働力は、その販売以前には、生産諸手段――活動の対象的諸条件――から分離されて存在する。この分離状態にあっては、労働力は、直接にその所有者のための使用価値の生産にも、またその所有者が生活しうるために販売する商品の生産にも、使用され得ない。しかし、労働力は販売されることによって生産諸手段と結合されるやいなや、労働力も、生産諸手段と同じように、その買い手の生産資本の一構成部分をなす。

★購買され資本家のものとなった労働力と生産手段が生産資本と呼ばれている。販売者の手にあっては、労働力も生産手段も商品であったが、資本家のものとなった労働力と生産手段はすでに商品ではなく、生産資本である。
 
(21)それ故、G―Aという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、買い手および売り手として関係し合い、貨幣所有者および商品所有者として相対するにすぎず、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係にあるにすぎないとはいえ――それにもかかわらず、買い手は、最初から同時に生産諸手段の所有者として登場するのであって、この生産諸手段は、労働力の所有者が労働力を生産的に支出するための対象的諸条件をなしている。言い換えれば、この生産諸手段は、労働力の所有者に対して他人の所有物として相対する。他方では、労働の売り手は、その買い手に対して他人の労働力として相対するのであり、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として自己を発現するために買い手の支配下に移り、彼の資本に合体されなければならない。したがって、資本家と賃労働者との階級関係は、両者がG―A(労働者の側から見ればA―G)という行為で相対する瞬間に、すでに現存し、すでに前提されている。それは、売買であり、貨幣関係であるが、しかし、買い手は資本家として、売り手は賃労働者として、前提される売買であり、この関係は、労働力の具現のための諸条件――生活諸手段および生産諸手段――が他人の所有物として労働力の所有者から分離されるとともに、与えられている。

★貨幣関係=商品の買い手と売り手の関係
 資本家と賃労働者の階級関係(資本・賃労働関係あるいは資本関係)=生産手段を持ち労働力の購買 者である資本家と 生活手段と生産手段を所有せず労働力を販売する以外に生きていくことのできな い賃労働者との関係

 ■《さらに明らかなように、労働日の支払部分すなわち六時間の労働を表している三シリングの価値が、六不払時間を含む一二時間の総労働日の価値または価格として現れる。したがって、労賃の形態は、必要労働と剰余労働への、支払労働と不払労働への労働日の分割のあらゆる痕跡を消してしまう。すべての労働が支払労働として現れる。夫役労働では、自分自身のための夫役者の労働と領主のための彼の強制労働とは、空間的にも、時間的にも、はっきり感性的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち、奴隷が自分自身の生活手段の価値を補填するにすぎない部分、したがって、彼が実際に自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる。彼のすべての労働が不払労働として現れる(28)。その反対に、賃労働では、剰余労働または不払労働さえも支払労働として現れる。奴隷の場合には所有関係が、奴隷の自分自身のための労働を隠蔽し、賃労働の場合には貨幣関係が、賃労働者の無償労働を隠蔽する》(『資本論』第17章 労働力の価値または価格の労賃への転化 第12段落)
 
(22)この分離がどのようにして生じるかは、われわれはここでは論じない。この分離は、G―Aが行なわれるやいなや、存在する。ここでわれわれが関心をもつのは次のことである。すなわち、G―Aが貨幣資本の一機能として現われるとしても、すなわち、貨幣がここで資本の存在形態として現れるとしても、それは、決して、単に、貨幣がここではある有用効果をもつある人間活動すなわちある勤労に対する支払手段として登場するからではない――したがって、決して支払手段としての貨幣の機能によってではない――ということである。貨幣がこの形態で支出されうるのは、ただ、労働力がそれの生産諸手段(労働力そのものの生産諸手段としての生活諸手段を含む)から分離された状態にあるからにすぎず、そしてこの分離は、ただ、労働力が生産諸手段の保有者に販売されることによってのみ、したがってまた、労働力の流動体――流動化〔労働すること〕の限界は、労働力それ自身の価格の再生産に必要な労働総量の限界とは決して一致しない――も買い手に所属するということによってのみ、取り除かれるからである。資本関係が生産過程中に出現してくるのは、ただ、この関係自体が流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対し合う異なる経済的基本諸条件のうちに、彼らの階級関係のうちに、実存するからにすぎない。貨幣の本性とともにこの関係が与えられているのではない。むしろ、この関係の定在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させうるのである。

★《異なる経済的基本条件》とは、資本家は生産手段を所有しており、賃労働者は生活手段と生産手段を所有しておらず労働諸条件から切り離されているということ。
 
(23)貨幣資本(われわれは、さしあたり、貨幣資本がわれわれに対してここで立ち現われる特定の機能の範囲内でのみこれを問題にする)の把握においては、通常、二つの誤りが並立または交錯している。第一には、資本価値が貨幣資本として果たす――そして資本価値が貨幣形態にあるからこそ果たしうる――諸機能が、誤って資本価値の資本性格から導き出される。それらの機能は、ただ資本価値の貨幣状態、資本価値の貨幣としての現象形態のせいにすぎないのにである。また、第二にはその逆に、貨幣機能を同時に一つの資本機能にする貨幣機能の独自な内実が貨幣の本性から導き出される(それ故貨幣が資本と混同される)。この資本機能は、ここでG―Aが遂行される場合にもそうであるが、単なる商品流通およびそれに照応する貨幣流通では決して与えられていない社会的諸条件を前提しているのにである。

★《単なる商品流通およびそれに照応する貨幣流通では決して与えられていない社会的諸条件》とは、労働者(直接的生産者)が、労働諸条件から分離されているということ。
 
(24)奴隷の売買も、その形態から見れば、商品の売買である。しかし、奴隷制が存在しなければ、貨幣はこの機能を果たし得ない。奴隷制が存在すれば、貨幣は奴隷の購入に投じられうる。逆に、貨幣が買い手の手中にあるだけでは、決して、奴隷制を可能にするのに十分ではない。
 
(25)自己の労働力の販売(自己の労働をうるという形態での、すなわち労賃という形態での)が、孤立した現象としてではなく、諸商品の生産の社会的標準的な前提として現れるということ、したがって貨幣資本がここで考察される機能G―W<A Pmを社会的規模で果たすということ――このことは、生産諸手段と労働力との本源的結合を解体させた歴史的諸過程を想定しており、〔したがって〕その諸過程の結果、この生産諸手段の非所有者としての人民大衆すなわち労働者と、この生産諸手段の所有者としての非労働者とが相対するにいたる諸過程を想定している。この場合、この結合が、それが分解するまで、労働者自身が生産手段として他人の生産諸手段の一部であるという形態をとっていたのか、それとも労働者が生産諸手段の所有者であったのか、ということは、まったく問題ではない。

★労働力を購買することができるのは、労働力が商品となっているからであり、労働力が商品となるのは、労働者が生産手段を(したがって生活手段も)所有していないからである。
 
(26)したがって、ここでG―W<A Pmという行為の基礎になっている事実は分配なのである。といっても、消費諸手段の分配という普通の意味での分配ではなく、生産の諸要素そのものの分配であって、これら諸要素のうち、対象的諸要因は一方の側に集中しており、労働力はそれとは離れて反対の側にある。
 
(27)したがって、生産資本の対象的部分である生産諸手段は、G―Aという行為が一般的社会的行為となりうる以前に、すでにそういうものとして、資本として、労働者に相対していなければならない。
 
(28)前述したように〔本訳書、第一巻、九六七―一三二五ページ参照〕、資本主義的生産は、ひとたび創始されると、その発展中にこの分離を再生産するだけでなく、絶えずより大きな範囲にそれを拡大しもするのであって、ついにはこの分離が一般的支配的な社会状態になってしまう。しかし事態はもう一つ別の面を呈する。資本が形成され、それが生産を支配できるようになるためには、商業の――したがってまた商品流通の、それとともに商品生産の――ある一定の発展段階が前提される。というのは、物品は、販売のために、すなわち商品として、生産されない限りは、商品として流通に入り込むことはできなからである。ところが、商品生産は、資本主義的生産の基礎上ではじめて生産の正常な性格として現われる。
(29)ロシアの土地所有者たちは、いわゆる農民解放の結果、いまや農奴的強制労働者の代わりに賃労働者を使って彼らの農業を営んでいるが、彼らは二つのことについて不平を言う。第一には貨幣資本の欠乏について。たとえば次のように言う――収穫物を売る前に比較的大きな金額を賃労働者に支払わなければならないが、その時、その第一条件である現金が足りない、と。生産を資本主義的に営むためには、貨幣の形態にある資本が、まさにこの労賃の支払のために、絶えず手もとになければならない。しかし、この点では土地占有者たちは気を落とすにはおよばない。時がくればバラの花が摘めるのであり、〔やがて〕産業資本家は、自分の金(カネ)だけでなく”他人の金(カネ)”をも自由に利用するのである。
 
(30)しかし、もっと特徴的なのは第二の不平である。すなわち――たとえ金はあっても、買うことのできる労働力が十分な程度で任意の時に自由には使えない、というのである。それというのも、ロシアの農村労働者は、土地に対する村落共同体の共同所有のためにまだ完全にはその生産諸手段から分離されておらず、それ故まだ言葉の完全な意味での「自由な賃労働者」ではないからである。しかし、社会的規模のでのこの賃労働者の現存は、G―Wすなわち貨幣の商品への転化が貨幣資本の生産資本への転化として現われうるためには、欠くことのできない条件である。
 
(31)こうして、貨幣資本の循環を表わす定式G―W・・P・・W’―G’が、すでに発展した資本主義的生産の基礎上でのみ、資本循環の自明な形態であることは、自ずから明らかである。なぜなら、それは、社会的規模での賃労働者階級の現存を前提するからである。資本主義的生産は、すでに見たように、商品および剰余価値を生産するだけではない。それは、賃労働者の階級を、しかも絶えず拡大する規模で再生産し,直接的生産者の圧倒的大多数を賃労働者に転化させる。それ故、G―W・・P・・W’―G’は、その進行の第一の前提が賃労働者階級の恒常的な現存であるから、すでに、生産資本の形態にある資本を、それ故また生産資本の循環の形態を想定している。
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by shihonron | 2011-02-08 23:25 | 学習会の報告
2011年 02月 01日

第212回  2月1日  第25章 近代植民理論

2月1日(火)に第212回の学習会を行いました。
「第25章 近代植民理論」についてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。
以下はレジュメです。

  第二五章 近代植民理論

 (253) ここで問題にするのは,真の意味の植民地,すなわち自由な移住者によって植民される処女地である。 合衆国。そのほか栽培植民地もこの部類にはいる。

①経済学は二つの非常に違う種類の私有を原理的に混同している。その一方は生産者自身の労働に もとづくもの,他方は他人の労働の搾取にもとづくもの。後者は単に前者の正反対であるだけで はなく,ただ前者の墳墓の上でのみ成長する。 

②ヨーロッパの西部,経済学の生まれた国では,本源的蓄積の過程は多かれ少なかれすでに終了。
・そこでは,資本主義的支配体制は,国民的生産全体をすでに直接に自分に従属させているか,また は,少なくとも間接には支配している。
・この完成した資本の世界に,経済学者は,事実が彼のイデオロギーを非難する声が高くなればなる ほど,ますますやっきになり夢中になって前資本主義世界の法律観念や所有観念を適用する。

③植民地ではそうではない。
・そこでは資本主義的支配体制は,自分の労働条件の所有者として,自分の労働によって資本家を ではなく自分自身を富ませる生産者という障害にぶつかる。
・植民地ではこの二つの正反対の経済制度の矛盾が,両者の闘争のなかで現われている。
・資本家の背後に本国の権力があるところでは,資本家は,自分の労働にもとづく生産・取得様式を 暴力によって一掃しようとする。
・資本の追従者である経済学者に,本国では資本主義的生産様式を理論的にそれ自身の反対物とし て説明する任務を負わせる利害関係
・その同じ利害関係が,植民地では彼をそそのかして,二つの生産様式の対立を声高く宣言させる。
・この目的のために,彼は,労働の社会的生産力の発展や協業や分業や機械の大規模応用などは労働 者たちの収奪とそれに対応する彼らの生産手段の資本への転化なしには不可能だと指摘する。
・いわゆる国富のために,彼は人民の貧困をつくりだす人工的手段を探求する。

④E・G・ウェークフィールド(1796~1862)の大きな功績
・植民地で本国の資本主義的諸関係についての真理を発見。
・植民理論----植民地での賃金労働者の製造に努める。「組織的植民」
⑤ウェークフィールドが植民地で発見したこと
・ある人が貨幣や生活手段や機械その他の生産手段を所有していても,もし賃金労働者がいなけれ ば,この所有はまだその人に資本家の極印を押すものではない,ということ。資本は物ではなくて, 物によって媒介された人と人とのあいだの社会的関係だということ。

⑥ウェークフィールドの諸発見の理解のために,二つの前置き。
・生産手段も生活手段も,直接的生産者の所有物としては,資本ではない。それが資本になるのは, ただ,それが同時に労働者の搾取・支配手段としても役だつような諸条件があるときだけである。
・独立な自営労働者の個人的所有物としての生産手段の分散を,彼は資本の均等な分割と呼ぶ。
⑦ウェークフィールドは次のように言っている。
・資本の均分----「だれも自分の手で使えるよりも多くの資本を蓄積することには関心をもたない ----,そこでは土地所有への熱情が賃金労働者階級の存在を妨げている。」
⑧労働者が自分自身で蓄積することができるあいだは,資本主義的蓄積も資本主義的生産様式も不 可能。そのためになくてはならない賃金労働者階級がないのだから。
・古いヨーロッパでは労働者からの労働条件の収奪,したがってまた資本と賃労働とは,どのように して生みだされたのか?まったく独特な種類の社会契約によってである。アダムの時代から---- 「人類は資本の所有者と労働の所有者とに分かれた。----この分割は自由意志による了解と結合 との結果だった。」
⑨「資本の蓄積」の栄光のために人類大衆は自分自身を収奪したのである。
・この自己犠牲的狂言の本能は,ことに植民地では奔放になるにちがいない。だが,それならば,自 然発生的な植民とは反対の「組織的植民」はなんのためなのか?
・「アメリカ連邦の北部諸州では,人口の1/10が賃金労働者の部類にはいるかどうかも疑わしい。イギリスでは人民の大部分が賃金労働者から成っている。」
⑩資本の栄光のための労働人類の自己収奪本能などというものは存在しない。
・奴隷制度は,植民地の富の唯一の自然発生的な基礎。
・組織的植民はただの応急策である。
・「スペインからサント・ドミンゴへの最初の移住者たちは,労働者なしでは」(すなわち奴隷制 度なしでは)「資本は破滅するか,または少なくとも,各個人が自分自身の手で用いられるくらい の小塊に収縮したであろう。」
・「イギリス人によって建設された最後の植民地〔豪州スワン川植民地〕で実際に起きたこと---- そこでは一大資本が賃金労働者の欠乏のために滅んでしまった----そこではどの移住者も,自分 の手で用いられるよりもあまり多くの資本はもっていない。」

⑪民衆からの土地の収奪は資本主義的生産様式の基礎
・自由な植民地の本質は,広大な土地がまだ民衆の所有であり,移住者はだれでも自分の私有地にし 個人的生産手段にすることができる(あとからくる移住者も同様)という点にある。これが植民 地の繁栄の秘密でもあれば,その癌腫(資本の移住にたいするその抵抗)の秘密でもある。
・「土地が非常に安くてすべての人間が自由なところでは,そして,だれでも望みしだいに一片の土 地を自分で手に入れることができるところでは,----どんな代価ででも結合労働を手に入れるこ とが困難なのである。」

⑫植民地では労働条件とその根源である土地からの労働者の分離がまだ存在しない(あるいは散在 的にかまたは非常に局限された範囲でしか存在しない)のだから,工業からの農業の分離も農村 家内工業の絶滅もまだ生じていない
・それならば,資本のための国内市場はいったいどこから生まれてくるか?
・「(奴隷,また大きな事業のために資本と労働とを結合する奴隷使用者を別とすれば)アメリカ の人口のどの部分も農業を専業としてはいない。自分で土地を耕している自由なアメリカ人は, それと同時に他の多くの仕事をも営んでいる。家具,道具の一部分,住む家。自分の工業の生産 物をどんなに遠い市場にでも運んで行く。彼らは紡ぎ手でもあり織り手でもあり,自家用の石鹸 やろうそく,靴や衣服も自分でつくる。アメリカでは耕作が鍛冶屋や粉屋や小売商人の副業にな っていることも多い。」
⑬資本家のための「禁欲の場面」はどこに残っているだろうか?
⑭資本主義的生産の大きな長所
・絶えず賃金労働者を賃金労働者として再生産するだけではなく,資本の蓄積に比例してつねに賃 金労働者の相対的過剰人口を生産するという点にある。労働の需要供給の法則が正しい軌道の上 に保たれ,賃金の変動が資本主義的搾取に適合する限度内に制限され,資本家への労働者の社会的 従属が保証される。それは一つの絶対的な従属関係である。それを,本国にいる経済学者は,買い 手と売り手との,つまり一方は資本という商品をもっており他方は労働という商品をもっている 対等で独立な商品所持者どうしの,自由な契約関係だとうまく言いくるめる。
・植民地では多くの労働者がはじめからおとなになって生まれてくるので,絶対的人口は本国でよ りもずっと急速に増加するが,それでもなお労働市場はつねに供給不足である。労働の需要供給 の法則は破られてしまう。
・一方では,古い世界から搾取を欲し禁欲を望む資本が絶えず投げこまれてくる。他方では,賃金労 働者としての賃金労働者の規則的な再生産が,非常にやっかいで一部は克服もできない障害にぶ つかる。それどころではない(いわんや),資本の蓄積に比例しての過剰な賃金労働者の生産と は,なんということなのか! 
・今日の賃金労働者は,明日は独立自営の農民か手工業者かになってしまう。彼は労働市場から消 え去ってしまう。資本のためにではなく自分自身のために労働して,資本家さまではなく自分自 身を富ませる独立生産者への転化は,それ自身また労働市場の状態には有害な反作用をする。--- -搾取度が低くとどまり,賃金労働者の資本家への従属関係(従属感情)もなくしてしまう。

⑮ウェークフィールドの嘆き----賃金労働の供給が恒常的でなく,規則的でも十分でもない。それ は「いつでもただ小さすぎるだけではなく,不確実でもある」
・「労働者と資本家とのあいだで分けられる生産物----労働者が取る部分は,彼がまもなく資本家 になってしまうほど大きい。----ところが,普通以上に長生きしても大きな富を蓄積することが できるもの〔資本家〕は,わずかしかない。」

⑯労働者は,自分たちの労働の最大部分への支払を資本家が禁欲することを,けっして許さない。
・資本家が,自分の資本といっしょに自分の賃金労働者をもヨーロッパから輸入するとしても,どう にもならない。「彼らはまもなく賃金労働者でなくなり,独立の農民になってしまうか,または賃 労働市場で自分たちの元の雇い主の競争相手にさえなってしまう」
⑰なんという恐ろしいことだろう! 正直な資本家はわざわざ自分自身の競争相手を,自分のだい じな貨幣でヨーロッパから輸入したのだ! それではなにもかもおしまいだ! 
・ウェークフィールドの弟子のメリヴェール----古い文明国では労働者は,自由であるとはいえ,自 然法則的に資本家に従属しているが,植民地ではこの従属が人工の手段によってつくりだされな けれはならないのである。
 (268)モリナリ----単純な労働者のほうが産業企業家を搾取している

⑱植民地におけるこのような〔各人の自己労働に基づく指摘所有が支配している制度から生じる  (仏版)〕弊害の結果はなにか?
・ウェークフィールド----「分散の野蛮な制度」。無数の自営的所有者のあいだへの生産手段の分 散⇒資本の集中を破壊するとともに結合労働のすべての基礎を破壊してしまう。
・長い年月にわたっていて固定資本の投下を必要とする長期の企業は,すべて実行上の障害にぶつ かる。ヨーロッパでは資本は一瞬間もぐずぐずしてはいない。なぜならば,労働者階級は資本の 生きている付属物になっていて,いつでもありあまっており,いつでも利用できるからである。
・植民地ではどうだ!----「われわれは,すぐにもわれわれに背を向けるだろうということがわか っている労働者たちを使ってこのような作業を始めることができたであろうか?

⑲ウェークフィールドは,イギリスの資本主義的農業やその「結合」労働をアメリカの分散的な農 民経営と見事に対比して見せたあとで,うっかりメダルの裏側まで見せている。
・彼はアメリカの民衆を裕福で独立的で企業心に富み比較的教養のあるものとして描いている。
・ところが,「イギリスの農業労働者は哀れなやつで,受救貧民である。----イギリスの農耕馬は, 一つの貴重な財産なので,イギリスの耕作者よりもずっとましな食物を与えられている。」だが, 心配することはない。国の富というのはもともと人民の貧困と同じなのだから。

⑳植民地の反資本主義的な癌腫はどうすればなおるだろうか? 
・もしすべての土地を一挙に国民的所有から私有に転化させようとするならば,それは,たしかに悪 弊の根源を絶やすことになるであろうが,しかしまた----それは植民地をも滅ぼしてしまうであ ろう。
・一石二鳥,それがわざというものである。
・政府の力で処女地に需要供給の法則にはかかわりのない価格をつけ,この人為的な価格のために, 移住者は土地を買って独立農民になれるだけの貨幣をかせぐまでには今よりももっと長く賃労働 をしなければならなくなるとしよう。

・他方,政府は,賃金労働者にとって相対的に禁止的な価格で地所を売却することから生ずる財源, つまり神聖な需要供給の法則の侵害によって労賃からしぼり取られるこの貨幣財源を,それが大 きくなるのと同じ割合でヨーロッパから植民地に貧民を輸入して資本家さまのために彼の賃労働 市場をいっぱいにしておくために,利用するとしよう。
・これが「組織的植民」の大きな秘密なのである。ウェークフィールドは勝ち誇って次のように叫 んでいる。「この案によれば,労働の供給は恒常的で規則的になるにちがいない。なぜかといえ ば,第一には,労働者は労働して貨幣をかせいでからでなければ土地を手に入れることができない のだから,すべての来住労働者は,賃金を得るために結合労働する⇒雇い主のために資本を生産。 第二には,賃労働をやめて土地所有者になろうとする人は⇒土地を買い入れること自体によって, 新たな労働を植民地に誘致するための財源を保証。」

21国家の定める土地価格はもちろん「十分」(sufficient price)でなければならない。すなわち 「労働者たちにたいして,他の人々がやってきて賃労働市場で彼らの代わりをするようになるま では彼らが独立農民になることを妨げるほどに」高くなければならない。この「十分な土地価  格」というのは,労働者が賃労働市場から田舎にひっこむ許しをもらうために資本家に支払う身 のしろ金を婉曲に言い換えたものにほかならない。

22このウェークフィールド氏によって特に植民地用として処方された「本源的蓄積」の方法を,イ ギリス政府が多年にわたって実行してきたということは,きわめて特徴的である。もちろん,その 失敗は,ピール銀行法の失敗と同じように不名誉なものだった。移民の流れが,ただイギリスの植 民地から合衆国のほうに向きを変えられただけのことだった。
・その間に,ヨーロッパでの資本主義的生産の進展は,政府の圧力の増大をも伴って,ウェークフィ ールドの処方を不要にしてしまった。
・一方では,毎年アメリカに向けて追い出される絶えまない大きな人間の流れが,合衆国の東部に停 滞的な沈澱を残している(ヨーロッパからの移民の波が,西への移民の波よりももっと急速に東 部の労働市場に投げ込むからである)。
・他方では,アメリカの南北戦争は莫大な国債を伴い,またそれとともに租税の重圧,卑劣な金融貴 族の製造,鉄道や鉱山の開発のための山師会社への公有地の巨大な部分の贈与など----要するに 最も急激な資本の集中を伴った。
・こうして,この大きな共和国も,労働者移民にとっての約束の地ではなくなった。そこでは,賃金 引き下げや賃金労働者の従属はまだまだヨーロッパの平均水準まで落ちてはいないとはいえ,資 本主義的生産は巨人の足どりで前進している。
・ウェークフィールド自身もあのように激しく非難しているような,イギリス政府の手による貴族 や資本家への植民地未耕地の恥知らずな投げ売りは,ことにオーストラリアでは,金鉱が引き寄せ る人間の流れや,イギリス商品の輸入がどんなに小さな手工業者でも相手にして行なう競争とい っしょになって,すでに十分な「相対的過剰労働者人口」を生みだしているのであって,ほとんど 毎回の郵便船がオーストラリア労働市場の供給過剰という凶報を運んでくるほどである。

23われわれの関心----旧世界の経済学が新しい世界で発見し声高く宣言したあの秘密
・資本主義的生産・蓄積様式は,したがってまた資本主義的私有も,自己労働にもとづく私有の絶滅, すなわち労働者の収奪を条件とするということ。
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by shihonron | 2011-02-01 23:30 | 学習会の報告