『資本論』を読む会の報告

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2011年 03月 08日

第217回 3月8日 第1章 第4節

3月8日(火)に第217回の学習会を行いました。
「第4節 総循環」第4段落から第20段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

第4節の検討した範囲のレジュメです。


     第一篇 資本の諸変態とそれらの循環
     第一章 貨幣資本の循環 第四節 総循環


 (4)資本価値がその流通段階の内部でとる両形態は、貨幣資本および商品資本という形態である。生産段階に属するそれの形態は、生産資本という形態である。それの総循環の経過中にこれらの形態を身につけてはまた脱ぎ、それぞれの形態においてその形態に照応する機能を果たす資本は、産業資本である――産業とは、ここでは、上記の資本が資本主義的に経営されるどの生産部門をも包括する、という意味である。
 
(5)したがってここでは、貨幣資本、商品資本、生産資本は、自立的な資本諸種類――すなわち、それらの機能が同じく自立的な相互に分離された事業諸部門の内容をなしているそのような自立的な資本諸種類を言い表すのではない。これらの三資本は、ここではただ産業資本の特殊な機能諸形態を言い表すだけで、産業資本はこれらの機能形態のすべてを三つとも次々にとるのである。
 
(6)資本の循環は、それの様々な局面が停滞することなく次々と移っていく限りでのみ、正常に進行する。もし資本が第一局面G―Wで停滞すれば、貨幣資本は凝固して蓄蔵貨幣となる。もし生産局面で停滞すれば、一方の側には生産諸手段が機能しないで横たわり、他方の側には労働力が就業しない状態におかれたままである。もし最後の局面W’―G’で停滞すれば、売れないで山と積まれた商品が流通の流れをせき止める。
 
(7)他方において、循環そのものが、一定の期間、循環の個々の部分において資本の固着化を生じさせることは、当然の成りゆきである。産業資本は、その諸局面のそれぞれにおいて、一定の形態に――貨幣資本、生産資本、商品資本として――縛りつけられている。産業資本は、そのときどきの形態に照応した機能を成し遂げたのちにのみ、新たな転化局面に入り込みうる形態を受け取る。このことを明らかにするために、われわれの例では、生産段階で生産された商品総量の資本価値は、最初に貨幣として前貸しされた価値の総額に等しいと仮定した。言い換えれば、貨幣として前貸しされた資本価値は全部いちどきに一つの段階からその都度次に続く段階に入ると仮定した。しかし、すでに見たように(第一部、第六章、〔本訳書、第一巻、三四〇―三五九ページ。特に三四六―三四七ページ〕)、不変資本の一部分である本来の労働諸手段(たとえば機械)は、同じ生産諸過程の多かれ少なかれ何回かの反復において、絶えず新たに役に立ち、それ故また、その価値を一部分ずつしか生産物に引き渡さない。この事情がどの程度まで資本の循環過程を修正するかは、のちに示されるであろう。ここでは次のことだけで十分である。われわれの例では、生産資本の価値=四二二ポンド・スターリングは、工場建物、機械設備などの平均的に計算された摩滅分だけを、すなわち、一万六〇〇ポンドの綿花を一万ポンドの糸に転化する際に、これらの労働諸手段が、後者〔一万ポンドの糸〕に――すなわち、毎週六〇時間の紡績過程の生産物に――移転する価値部分だけを、含んでいた。それ故また、前貸不変資本三七二ポンド・スターリングが転化する生産諸手段のうちに、建物、機械設備などの労働諸手段は、あたかも市場で毎週の分割払いで賃借りされたにすぎないかのように現われた。とはいえ、このことは事態を絶対に何一つ変えない。一週間のうちに生産される糸の量一万ポンドに、ある何年かの年数をもとに計算された週の数を掛けさえすればよいのであり、そうすれば購買されてこの期間に使い尽くされた労働諸手段の全価値が糸に移転される。こうして、前貸貨幣資本は、生産資本Pとして機能しうる前に、まずこれらの〔労働諸〕手段に転化されていなければならないこと、すなわち第一段階G―Wからすでに抜け出していなければならないことは明らかである。それと同様に、われわれの例で、生産過程中に糸に合体された資本価値額四二二ポンド・スターリングは、糸ができあがる前には、一万ポンドの糸の価値構成部分として流通局面W’―G’に入り込み得ないことも明らかである。糸は紡がれる前には販売され得ない。
 
(8)一般的定式ではPの生産物は、生産資本の諸要素とは異なる物質的な物――すなわち、生産過程から分離された実存をもつ一対象、生産諸要素の使用形態とは異なる使用形態をもつ一対象――とみなされる。そして、生産過程の結果が物として現われる場合にはいつでもそうであり、生産物の一部分が、更新された生産に再び要素としてはいりこむ場合でさえも、やはりそうである。たとえば、穀物は種子としてそれ自身の生産に役立つ。しかし、生産物は穀物だけからなっており、したがって、一緒に使用された諸要素である労働力、用具、肥料とは異なる姿態をもつ。ところが、生産過程の生産物が新たな対象的生産物でなく、商品でないような自立的な産業諸部門がある。そのうちで経済的に重要なのは交通業――商品と人間を運ぶ本来の運送業であれ、単に報道、手紙、電信などの輸送であれ――だけである。

★ここで《一般的定式》とよばれているものは、G―W・・P・・W’―G’のことであろう。

(9)これについてA・チュプローフは次のように言う――
 「工場主はまず物品を生産することができ、それからそれの消費者を求めることができる」。{彼の生産物は、完成品として生産過程から放出されたあと、生産過程とは分離された商品として流通へと移っていく}。「こうして、生産と消費とは、空間的にも時間的にも分離された二つの行為として現われる。新たな生産物をつくり出すのではなく、人間と物とを移すにすぎない輸送業では、この両方の行為が一つに融合している。その〔原文は「鉄道の」〕役立ち」{場所の変更}「は、それが生産されるのと同じ瞬間に消費されなければならない〔原文は「消費される」〕。それ故、鉄道が顧客〔原文は「自己の役立ちの販路」〕を求めうる区域は、せいぜい両側五〇ヴェルスタ」(五三キロメートル)「におよぶだけである」。
 
(10)その結果は――輸送されるものが人間であろうと商品であろうと――それらの所在場所の変更であって、たとえば、糸がいまや、それが生産されたイギリスにではなくインドにあるということである。
 
(11)ところで、輸送業が販売するものは、場所の変更そのものである。生み出される有用効果は、輸送過程すなわち輸送業の生産過程と不可分に結び付けられている。人間と商品は輸送手段と一緒に旅をする。そして、輸送手段の旅、輸送手段の場所的運動が、まさに輸送手段の作用によって生じた生産過程である。その有用効果は、生産過程の期間中にのみ消費されうる。その有用効果は、この過程とは異なる使用物――すなわち、その生産後にはじめて取り引き物品として機能し、商品として流通する使用物――としては存在しない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じく、その有用効果〔の生産〕に消費された生産諸要素(労働力および生産諸手段)の価値、プラス、輸送業に就業している労働者たちの剰余労働が創造した剰余価値、によって規定されている。この有用効果は、その消費とともに消え失せる。それが生産的に消費されるならば、したがって、それ自身が輸送中の商品の一生産段階であるならば、その価値は、追加価値としてその商品そのものに移転される。したがって、輸送業についての定式は、G―W<A Pm・・P―G’であろう。生産過程から分離されうる生産物ではなく、生産過程そのものが、支払われ消費されるからである。したがってこの定式は、貴金属生産についての定式とほとんどまったく同じ形態をもつのであり、ただ、輸送業ではG’は生産過程中に生み出された有用効果の転化形態であって、この過程中に生み出されてそこから放出された金または銀の現物形態でないだけのことである。
 
(12)産業資本は、そこにおいて剰余価値または剰余生産物の取得だけでなく、同時にそれの創造も資本の機能となっている、資本の唯一の定在様式である。それ故、産業資本は、生産の資本主義的性格の条件となる。産業資本の定在は、資本家と賃労働者との階級対立の定在を含む。産業資本が社会的生産を支配する程度に応じて、労働過程の技術と社会的組織が変革され、それと同時に社会の経済的歴史的類型が変革される。産業資本以前に、過去の、または没落しつつある社会的生産状態のまっただ中に現われた他の諸種類の資本は、産業資本に従属させられ、そして自己の諸機能の機構の点で産業資本に適応するように変化させられるだけでなく、いまではもう産業資本の基礎上で運動するにすぎず、それ故、この自己の基礎〔産業資本〕と生死存亡を共にする。それらの諸機能によって独自の事業部門の担い手として産業資本とならんで登場する限りでの貨幣資本と商品資本とは、いまではもう、産業資本が流通部面の内部で、あるいはとり、あるいは脱ぐ様々な機能形態の、社会的分業によって自立化され一面的に発達させられた存在様式であるにすぎない。

★《産業資本以前に、過去の、または没落しつつある社会的生産状態のまっただ中に現われた他の諸種類の資本》とは、前近代的な商業資本(商人資本)と高利資本のこと。この二つを前期的資本と呼ぶことがある。
 
(13)循環G・・G’は、一方では一般的商品流通と絡み合い、それから出てはまたそれに入り込み、それの一部分をなす。他方では、この循環は、産業資本家にとっては資本価値の独自な自立的運動――すなわち、一部は一般的商品流通の内部で行なわれ、一部はその外部で行なわれるが、しかし常にその自立的性格を保持する運動――を形成する。それは、第一に、流通部面で行なわれるこの運動の両局面G―WとW’―G’とは、資本運動の諸局面として機能的に規定された性格を有するからである。すなわち、G―Wでは、Wは労働力および生産諸手段として素材的に規定されており、W’―G’では、資本価値は剰余価値をプラスして実現される。第二に、生産過程Pは生産的消費を含むからである。第三に、運動の出発点への貨幣の復帰は、運動G・・G’を、それ自身において終結する循環運動にするからである。
 

(14)したがって、一方では、各個別資本は、その流通の前半と後半の二つの部分G―WおよびW’―G’において、一般的商品流通――その中で各個別資本は、貨幣として、もしくは商品として、機能し、または連結されている――の起動力を形成し、このようにして、それ自身、商品世界の一般的変態系列の中で一環を形成する。他方では、各個別資本は一般的流通の内部で、それ自身の自立的循環を経過し、この循環の中で生産部面は一つの経過段階を形成し、そしてこの循環の中で各個別資本は出発したときと同じ形態でその出発点に復帰する。同時に、各個別資本は、生産過程におけるその現実的変態を含むそれ自身の循環の内部で、その価値の大きさを変える。それは、単に貨幣価値として復帰するのではなく、増大された、増加した貨幣価値として復帰する。
 
(15)最後に、G―W・・P・・W’―G’を、資本の循環過程の特殊な形態として、のちに研究されるべき他の諸形態と比べて、考察するならば、この循環は次の諸点で際立っている。
 
(16)(一)それは、貨幣資本の循環として現われる。なぜなら、産業資本が、その貨幣形態において、貨幣資本として、その総過程の出発点および復帰点をなしているからである。この定式そのものが、貨幣はここでは貨幣として支出されるのではなく、前貸しされるだけであり、したがって資本の貨幣形態、貨幣資本でしかないことを表わす。この定式は、さらに、使用価値でなく交換価値が運動の規定的自己目的であることを表わす。価値の貨幣姿態が手でつかみうる自立的な価値の現象形態であるからこそ、その出発点および終結点が現実の貨幣である流通形態G・・G’は、金儲け、すなわち資本主義的生産の推進的動機を、最も明白に表わす。生産過程は、金儲けのための避けられない中間の環――必要悪――としてのみ現われる。{それ故、資本主義的生産様式のすべての国民は、周期的に、生産過程の媒介なしに金儲けを成し遂げようとする思惑〔投機熱〕に襲われる。}
 
(17)(二) 生産段階、すなわちPの機能は、この循環の中で、G―W・・W’―G’という流通――この流通はこれまた単純流通G―W―G’の媒介であるにすぎない――の二つの局面の中断をなす。生産過程は、循環過程のこの形態そのものにおいて、形態的に、かつ明確に、資本主義的生産様式の中で生産過程があるがままに、前貸価値の増殖のための単なる手段として、現われ、したがって、致富そのものが生産の自己目的として現われる。
 
(18)(三) 諸局面の系列はG―Wによって開始されるのであるから、流通の第二の環はW’―G’である。したがって、出発点はG、増殖されるべき貨幣資本であり、終結点はG’、増殖された貨幣資本G+gであって、ここではGは実現された資本として、それの新芽のgとならんで現われる。このことは、循環Gを他の両循環PおよびW’から区別する――しかも二重の仕方で。一方では、両極の貨幣形態によって。しかし、貨幣は手でつかみうる自立的な価値の存在形態であり、自立的な価値形態――そこでは諸商品の使用価値のすべての痕跡が消滅している――にある生産物の価値である。他方では、P・・Pという形態は必ずしもP・・P’(P+p)とはならず、またW’・・W’という形態ではおよそ両極のあいだの価値の差はなんら見られない。――したがって、定式G・・G’に特徴的なことは、一方では、資本価値が出発点をなし、増殖された資本価値が復帰点をなすこと、その結果、資本価値の前貸しが全操作の手段として現われ、増殖された資本価値が全操作の目的として現われることであり、他方では、この関係が貨幣形態で、自立的な価値形態で表わされ、それ故、貨幣資本が貨幣を生む貨幣として表わされているということである。価値による剰余価値の産出が、過程のアルファとオメガ〔核心〕として表わされるだけでなく、光きらめく貨幣形態ではっきり表わされている。
 
(19)(四) G―Wを補足しかつ終結する局面W’―G’の結果としての、実現された貨幣資本G’は、この貨幣資本がその最初の循環を始めたときと完全に同じ状態にあるのであるから、その循環から出てくるやいなや、増大された(蓄積された)貨幣資本G’=G+gとして再び同じ循環を開始することができる。そして、循環の反復に際してgの流通がGの流通から分離するということは、少なくともG・・G’という形態では表わされていない。それ故、貨幣資本の循環は、その一回だけの姿態で考察すれば、形態的には、価値増殖過程および蓄積過程だけを表わす。消費は、この循環の中では生産的消費としてだけG―W<A Pmによって表わされており、生産的消費だけが、個別資本のこの循環の中に含まれている。G―Aは、労働者の側からすれば、A―GまたはW―Gである。すなわち、彼の個人的消費を媒介する流通A―G―W(生活諸手段)の第一局面である。第二局面G―Wはもはや個別資本の循環には入らない。しかし、第二局面はこの循環によって準備され、それによって前提されている。――労働者が資本家の搾取しうる材料として絶えず市場に存在するためには、彼は何よりもまず生活しなければならず、したがって個人的消費によって自己を維持しなければならないからである。しかし、この消費そのものは、ここでは、資本による労働力の生産的消費の条件としてのみ、したがってまた、労働者がその個人的消費によって自己を労働力として維持し再生産する限りでのみ、前提されている。ところが、循環に入り込む本来の諸商品Pmは、ただ生産的消費の養分をなすにすぎない。A―Gという行為は、労働者の個人的消費を、彼の血と肉とへの生活諸手段の転化を媒介する。もちろん、資本家として機能するためには、資本家も実在しなければならず、したがってまた生活して消費しなければならない。そのためには、彼は実際には労働者と同じだけ消費しさえすればよいであろうし、それ故、それ以上のことは流通過程のこの形態では前提されていない。形態的にはそういうことさえ表わされていない。――この定式は、G’で、すなわち増大された貨幣資本としてすぐにまた機能しうる結果で、終結するからである。
 
(20)W’―G’にはW’の販売が直接に含まれている。しかし、一方の側からの販売W’―G’は、他方の側の購買G―Wであって、商品は究極的にはその使用価値のためにのみ購買され、(中間販売を別とすれば)消費過程――この消費過程が、購買された物品の性質に応じて、個人的なそれであろうと、生産的なそれであろうと――に入り込む。しかし、この消費は、W’を生産物とする個別資本の循環には入り込まない。この生産物は、まさに販売されるべき商品として循環から突き出される。このW’は明らかに他人の消費にあてられることになっている。それ故われわれは、重商主義(定式G―W・・P・・W’―G’がその基礎になっている)の代弁者たちのもとで、非常に冗長なお説教――個々の資本家は労働者と同じだけを消費すべきであり、また、資本主義国民は、自国の商品の消費および一般に消費過程を、他の愚かな諸国民に任せ、それに反して生産的消費を自分の一生の事業にすべきだ、ということについての――を見いだす。これらのお説教は、しばしば、形式から見ても内容から見ても、教父たちのこれにそっくりの禁欲的訓戒を思い起こさせる。
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by shihonron | 2011-03-08 23:30 | 学習会の報告
2011年 03月 01日

第216回 3月1日 第1章 第3節、第4節

3月1日(火)に第216回の学習会を行いました。
「第3節 第三段階、W’―G’」「第4節 総循環」についてレジュメに基づく報告を受け、第3節の第18段落から最後までと第4節の最初から第3段落までを検討しました。

以下は第3節、第4節の検討した範囲のレジュメです。


    第三節、第三段階、W’―G’

(18)価値の諸部分は、それらが異なる諸物品すなわち具体的な諸物の価値として現われる場合、したがって異なる使用諸形態にある価値として、それ故異なる諸商品体の価値として現われる場合を除けば、価値の諸部分として質的に互いに区別されはしない――このような区別、それは単なる価値の諸部分としての価値の諸部分そのものからは生じない。貨幣においては、諸商品の相違はすべて消滅している。なぜなら、貨幣こそは諸商品のすべてに共通な等価形態であるからである。五〇〇ポンド・スターリングという貨幣総額は、1ポンド・スターリングというまったく同名の諸要素からなっている。この貨幣総額の単純な定在においては、この貨幣総額の由来の媒介が消えてしまって、異なる資本構成部分が生産過程でもっている独自な差異の痕跡がすべて消え失せているのであるから、もはや区別は、四二二ポンド・スターリングの前貸資本に等しい元金(英語ではprincipal)と、七八ポンド・スターリングの超過価値額という、概念的形態▲で存在するにすぎない。G’は、たとえば、一一〇ポンド・スターリング、そのうち一〇〇ポンド・スターリングは元金Gで、一〇ポンド・スターリングは剰余価値Mであるとしよう。一一〇ポンド・スターリングという総額の二つの構成部分のあいだには、絶対的な同質性、すなわち概念的無区別性が支配している。任意の一〇ポンド・スターリングは、それが前貸資本一〇〇ポンド・スターリングの 1/10 であろうと、元金を超える一〇ポンド・スターリングという超過額であろうと、常に一一〇ポンド・スターリングという総額の 1/11 である。それ故、元金と増加額、資本と剰余額は、総額の分数として表わされうる。われわれの例では、 10/11 は元金、言い換えれば資本をなし、 1/11 は剰余額をなす。それ故、実現された資本は、ここで、その過程の終わりに、それの貨幣表現で現われるが、これはまさに資本関係の没概念的表現である。

▲訳者注 ここから以下の論述で、マルクスは、貨幣表現G’(G+g)においては資本関係が没概念的(本質的徴表をとらえている「概念的」にたいし、それをとらえない、表象的、表面的の意)に表現されているとし、概念的無区別性、没概念的区別などについて述べているのであるから、これは「概念的」ではなく「没概念的」の誤記ないし誤読と思われる。

★《資本関係の没概念的表現》とは? 剰余価値(増殖した価値)の源泉が剰余労働にあること、労働力の搾取によって資本家は剰余価値を手にすることができるという本質的なことを表していないということだろうか。

(19)もちろん、このことはW’(=W+w)についても言える。しかし、W’においてはWとwとはやはり同質の同じ商品総量の比率的価値諸部分にすぎないとはいえ、このW’は、自己がその直接の生産物である自己の起源のPをほのめかすが、これに反して、直接に流通から生じてくる形態であるG’においては、Pとの直接の関連は消えうせている。
 
(20)G’がG・・G’という運動の結果を表わす限りにおいてG’のうちに含まれている元金と増加額との没概念的区別は、G’が能動的に貨幣資本として再び機能するやいなや、直ちに消え失せる。貨幣資本の循環は、決してG’では始まり得ず(G’がいまやGとして機能するけれども)、Gで始まるうるだけである。すなわち、決して資本関係の表現としてではなく、資本価値の前貸形態として始まりうるだけである。五〇〇ポンド・スターリングが、あらためて価値増殖するためにあらためて資本として前貸しされれば、もう五〇〇ポンド・スターリングは復帰点ではなく出発点である。四二二ポンド・スターリングの資本に代わって、いまでは五〇〇ポンド・スターリングの資本が、以前よりも多くの貨幣が、より多くの資本価値が、前貸しされるのであるが、しかし二つの構成部分のあいだの関係はなくなり、ちょうど、最初から四二二ポンド・スターリングという金額でなく五〇〇ポンド・スターリングという金額が資本として機能し得たのと同じことである。

★前貸しされる貨幣は、G’ではなくGでしかあり得ず、一定額の貨幣という以上の意味を持たない。そこには、W’におけるWとwの区別によって表されている関係(資本関係)を見て取ることはできない。
 
(21)自己をG’として表わすことは、前貸資本の能動的機能ではない。G’としての自己自身の表示は、むしろW’の機能である。すでに単純な商品流通である(一)W1―G、(二)G―W2において、Gは第二の行為G―W2においてはじめて能動的に機能する。Gとしての自己表示は、第一の行為――この行為によってGははじめてW1の転化形態として登場する――の結果であるにすぎない。G’に含まれている資本関係、すなわち、資本価値としてのG’の一部分がその価値増分としての他の部分に対する関連は、循環G・・G’の絶え間ない反復に際して、G’が資本流通と剰余価値流通との二つの部分に分裂する限りでは、したがって両部分が単に量的にのみでなく質的にも異なる機能をはたし、Gがgとは別な機能を果たす限りでは、確かに機能的意義を獲得する。しかしそれ自体として考察すれば、G・・G’という形態は、資本家の消費を含むのではなく、明白に自己増殖と蓄積――なによりもまず後者が絶えず新たに前貸しされる貨幣資本の周期的増大に自己を表現する限りにおいて――とを含むにすぎない。

★貨幣として資本家の手に入った剰余価値が資本家の消費に用いられれば、再び資本として前貸しされる貨幣と異なる機能を果たし、gとGの機能の区別を語ることができる。しかしG・・G’という形態は
資本家の消費を含んでいない。G’で表現されたある貨幣額が資本として前貸しされることを含んでいるだけである。
 
(22)G’=G+gは、資本の没概念的形態であるとはいえ、同時に、まず、実現された形態にある貨幣資本であり、貨幣を生み出した資本としての貨幣資本である。ここでは、しかし、第一段階G―W<A Pmにおける貨幣資本の機能とは区別されなければならない。Gはこの第一段階では貨幣として流通する。このGが貨幣資本として機能するのは、それがその貨幣状態においてのみ貨幣機能を果たすことができ、諸商品としてそれに相対するPの諸要素に、AおよびPmに転換できるからである。この流通行為では、それは貨幣としてのみ機能する。しかし、この行為は、過程進行中の資本価値の第一段階であるから、同時に、購買される商品AおよびPmの独自な使用形態のおかげで、貨幣資本の機能なのである。これに反して、資本価値とGとそれによって生み出された剰余価値gとから構成されるG’は、増殖された資本価値を、資本の総循環過程の目的および結果を、この過程の機能を、表わす。G’がこの結果を貨幣形態で、実現された貨幣資本として、表わすということは、G’が資本の貨幣形態であり貨幣資本であるということから生じるのではなく、逆に、それが貨幣資本、貨幣形態にある資本であること、資本がこの形態で過程を開始したこと、貨幣形態で前貸しされていること、から生じる。上述したように、貨幣形態への再転化は、商品資本W’の機能であって、貨幣資本の機能ではない。しかし、G’とGとの考察について言えば、この差額(g)は、Wの増分wの貨幣形態に他ならない。G’=G+gであるのは、W’=W+wであったからに他ならない。すなわち、この差額、ならびに資本価値とそれによって生み出された剰余価値との関係は、この両者がG’に――すなわち、そこでは両価値部分が自立して互いに相対し合い、それ故また自立的な相互に異なる諸機能に使用されうる貨幣額に――転化される以前に、W’において現存しかつ表現されている。
 
(23)G’はW’の実現の結果に他ならない。両者、W’もG’も、増殖された資本価値の異なる諸形態――商品形態と貨幣形態に他ならないのであり、増殖された資本価値であることは、両者に共通である。両者とも実現された資本である。なぜなら、ここでは資本価値そのものが、それとは異なる、それによって得られた果実としての剰余価値と一緒に存在するからである――とはいえ、この関係は、ある貨幣額またはある商品価値の二部分の関係という没概念的形態で表わされているにすぎないが。しかし、資本によって生み出された剰余価値との関連および区別における資本の表現としては、すなわち増殖された価値の表現としては、G’とW’とは同じものであり、また同じものを――ただ異なる形態で――表わす。それら〔G’とW’〕は、貨幣資本および商品資本として区別されるのではなく、貨幣および商品として区別される。それらが増殖された価値、すなわち、資本として確認された資本を表わす限りでは、それらは、生産資本の機能の結果を、資本価値が価値を生むという唯一の機能の結果を、表わすにすぎない。それらに共通なものは、それら両者が、貨幣資本および商品資本という二つの、資本の存在様式であるということである。▲一方は貨幣形態にある資本であり、他方は商品形態にある資本である。それ故、それらを区別する独自的機能は、貨幣機能と商品機能との区別以外のなにものでもあり得ない。商品資本は、資本主義的生産過程の直接的生産物として、このようなそれの起源を思い出させるのであり、それ故、その形態において貨幣資本よりもより合理的で没概念的ではなく、貨幣資本においては――およそ貨幣においては商品のいっさいの特殊的使用形態が消え失せているのと同じように――資本主義的生産過程のあらゆる痕跡は消滅してしまっている。それ故、G’そのものが商品資本として機能する場合にのみ、すなわちG’が生産過程の直接的生産物であってこの生産物の転化形態ではない場合にのみ、G’の特殊な形態は消え失せる――すなわち、貨幣材料そのものの生産の場合がそれである。たとえば金生産については、定式はG―W<A Pm・・P・・G’(G+g)であろう。ここではG’が商品生産物の役をつとめる。なぜなら、Pは、金の生産諸要素のために最初のGすなわち貨幣資本に前貸しされたよりも多くの金を供給するからである。したがって、この場合には、G・・G’(G+g)という表現――ここではある貨幣額の一部分が同じ貨幣額の他の部分の生みの母として現われる――の不合理さが消え失せる。

▲訳者注 どの版もすべて、「それら」と「貨幣資本および商品資本」と同格に解しているが、文脈から見て誤りであると思われる。かお、フランス語版、イタリア語、スペイン語、朝鮮語各版の訳注または追補によれば、マルクスの草稿では、このあとに、次の文章がある。「一方と他方との違いは、資本の異なる実存形式にある」

 第四節 総循環

(1)流通過程はその第一局面G―W<A Pmの終了後P〔ここでは「生産過程」の意〕によって中断され、このPでは市場で購買された商品AおよびPmが今度は生産資本の素材的および価値的構成部分として消費される。この消費の産物は、素材的および価値的に変化した新しい一商品W’である。中断された流通過程G―Wは、W―Gによって補足されなければならない。しかし、この第二の終結の流通部面の担い手としては、W’、すなわち、第一のWとは素材的および価値的に異なる商品が、現われる。したがって、流通系列は、(一)G―W1、(二)W2’―G’として現われ、ここでは、第二局面において、Pの機能によって引き起こされた中断中に、すなわち生産資本Pの定在諸形態であるWの諸要素からのW’の生産中に、第一の商品W1はより高い価値と異なる使用形態とをもつ他の商品W2’に置き換えられている。これに反して、資本がわれわれの前に立ち現われた最初の現象形態(第一部、第四章、第一節〔本訳書、第一巻、二四九―二六五ページ〕)G―W―G’(これは(一)G―W1と(二)W1―G’とに分解される)は、同じ商品を二度示している。第一局面で貨幣が自己をそれに転化する商品も、第二局面で自己をより多くの貨幣に再転化する商品も、二回とも同じ商品である。この本質的相違にもかかわらず、両方の流通〔(一)G―W1と(二)W2’―G’の流通、および(一)G―W1と(二)W1―G’の流通〕に共通な点は、その第一局面では貨幣が商品に転化され、第二局面では商品が貨幣に転化されること、すなわち、第一局面で支出された貨幣が第二局面で再び還流することである。両方の流通に共通な点は、一方では、このように貨幣がその出発点に還流すること、しかしまた他方では、還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過することである。その限りでは、G―W・・W’―G’も、一般的定式G―W―G’のうちに含まれて現われる。

★なぜ《中断された流通過程G―Wは、W―Gによって補足されなければならない》のだろうか。ここでは、貨幣資本の循環が取り上げられているからか?
 
(2)さらにここで明らかになることは、流通に属する両方の変態G―WおよびW’―G’においては、その都度同じ大きさの、同時的に現存する価値存在が相対していて、互いに置き換えられることである。価値変化は、もっぱら変態Pに、生産過程に、属するのであり、それ故、生産過程は、流通の単に形態上の諸変態に対して、資本の実質的な変態として現われる。

★第3節第9段落では《現実的変態》という言葉が用いられていた。
 
(3)次に、総運動G―W・・P・・W’―G’またはそれの明細な形態G―W<A Pm・・P・・W’(W+w)―G’(G+g)を考察しよう。ここでは資本は、連関し合い互いに制約し合う諸転化の一系列、すなわち、一連の諸変態――これらの変態は、一つの総過程のいくつかの一連の諸局面または諸段階を形成する――を経過する一つの価値として、現われる。これら諸局面のうち、二つは流通部面に属し、一つは生産部面に属する。これらの局面のそれぞれにおいて資本価値は異なる姿態にあり、この姿態に一つの異なる独特な機能が照応する。この運動の内部において、前貸価値は、自らを維持するだけでなく、増大し、その大きさを増す。最後に終結段階では、前貸価値は、総過程のはじめに現われたのと同じ形態に復帰する。それ故、この総過程は循環過程である。

■《これらの局面のそれぞれにおいて資本価値は異なる姿態にあり、この姿態に一つの異なる独特な機能が照応する。》は、岡崎訳では《これらの諸段階のそれぞれで資本価値は違った姿をしており、それぞれの姿に別々の特殊な機能が対応している。》(国民文庫第四分冊95頁・原頁56)となっている。
 
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by shihonron | 2011-03-01 23:30