『資本論』を読む会の報告

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2011年 06月 28日

第228回 6月28日 第6章 流通費

6月28日(火)に第228回の学習会を行いました。
「第6章 流通費 第2節 保管費」と「第3節 運輸費」についてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。


第二節 保管費
①価値の単なる形態変換(観念的に考察された流通)から生ずる流通費は,商品の価値には入らな い。流通費に支出される資本部分は,生産的に支出される資本からの控除をなす。
・これから考察する流通費は,これとは性質が違う。この流通費は生産過程から生じうる。この生 産過程は流通において続行され,その生産的な性格が流通形態によって覆い隠されている。
・それは,社会的に見れば,費用であり,生きている労働なり対象化されている労働なりの不生産的 な支出だと言えるが,個別資本家にとっては価値形成的に作用し,彼の商品の販売価格への付加分 をなしうる。
・このことは,この費用が生産部面が異なれば異なり,ときには同じ生産部面内でも異なる個別資本 によって異なるということからも生じる。この費用は,商品の価格につけ加えられることによっ て,個別資本家の負担になる程度に比例して[平等に]配分される。
・価値をつけ加える労働は,資本主義的基礎の上では常に剰余価値をつけ加える。労働が形成する 剰余価値は資本家が労働に支払う程度によって定まる。
・だから,商品に使用価値をつけ加えることなしに商品の価格を高くする諸費用,したがって社会に とっては生産の空費に属する諸費用が,個別資本家にとっては致富の源泉になることができる。
・他方,この流通費が商品の価格につけ加える付加分がただこの流通費を均等に配分するにすぎな いとしても,流通費の不生産的な性格がそれによってなくなるわけではない。たとえば,保険会社 は個別資本家たちの損害を資本家階級のあいだに配分する。このことは,このように平均化され た損害も社会的総資本について見ればやはり損害であるということを,妨げるものではない。

一 在庫形成一般
①生産物が商品資本として存在しているあいだ,またはそれが市場に留まっている(生産過程と消 費過程との中間)あいだは,生産物は商品在庫を形成する。市場にある商品(在庫の姿にある商 品)としては,商品資本はどの循環でも二度現われる。一度は,過程進行中の資本自身の商品生産 物として,もう一度は,買われて生産資本に転化されるために市場になければならない別の資本の 商品生産物として。後のほうの商品資本は注文によって生産されるということも有り得る。その 場合には,それが生産されるまでは中断が起きる。
・生産・再生産過程の流れは,大量の商品(生産手段) が絶えず市場にある(在庫形成)というこ とを必要とする。同様に,生産資本は労働力の購入を含んでいる。この場合には貨幣形態は,労働 者がその大部分を市場で見いださねばならない生活手段の価値形態でしかない。
・商品資本が在庫を形成している状態は,資本価値の立場に立ってみれば,目的に反する非自発的な 市場滞留。売れ行きが速ければ速いほど,再生産過程は淀みなく流れる。形態転化W'-G'での 滞留は,現実の物質代謝を妨げ,資本がさらに生産資本として機能することを妨げる。
・G-Wにとっては,市場にいつでも商品があるということ,すなわち商品在庫は,再生産過程の流 れの条件として,また新資本または追加資本の投下の条件として,現われる。

②商品資本が商品在庫として市場に滞留することは,建物や倉庫や商品貯蔵所や商品保管所を必要 とし,不変資本の投下を必要とする。商品を貯蔵所に運び込むための労働力への支払も必要であ る。そのうえ,商品は傷むものであり,有害な自然的影響にさらされ。それを防ぐためには,追加 資本が,一部分は対象的形態で労働手段に,一部分は労働力に,投下されなければならない。

③資本が商品資本としての,したがってまた商品在庫としての形態で存在することは,色々な費用の 原因になり,これらの費用は,生産部面で生ずるのではないので,流通費に数えられる。
・この流通費は,ある程度まで商品の価値に入り,商品を高価にする----第一節で述べた流通費と区 別される。商品在庫の維持や保管に役立つ資本と労働力は,直接的生産過程から引きさられる。
・これに充用される資本は,資本の成分としての労働力をも含めて,社会的生産物のうちから補塡さ れねばならない。この資本の投下は労働の生産力の低減と同じように作用するのであり,一定の 有用効果を得るためにより多くの資本と労働が必要になる。それは空費〔Unkosten〕である。

④商品在庫の形成によって必要になる流通費が,ただ既存の価値が商品形態から貨幣形態に転化す るための時間からのみ,つまりただ生産過程の一定の社会的形態からのみ生ずる限りでは----そ れは第一節にあげた流通費とまったく共通な性格をもつ。
・他方,諸商品の価値がここで保存または増殖されるのは,使用価値すなわち生産物そのものが資本 投下の必要な一定の対象的諸条件のもとに移され,また使用価値に追加労働を作用させる諸作業 のもとに置かれるからに他ならない。
・これに反して,商品価値の計算やこの過程に関する簿記や売買取引は,商品価値が宿っている使用 価値には作用しない。それらは,ただ商品価値の形態と関係があるだけ。
・前提された場合には在庫形成(ここでは非自発的) に伴うこれらの空費はただ形態転化の停滞と 必要とから生ずるだけなのに,第一節の空費と区別されるのは,それらの対象そのものが価値の形 態転化ではなく価値の維持(価値は生産物すなわち使用価値としての商品の中に存在し,使用価 値そのものの維持によってのみ維持されうる)だということによる。使用価値は減少するが,そ の減少は制限されて,維持される。前貸しされて商品の価値も,ここでは高められない。しかし, 新たな労働が,対象化されている労働も生きている労働も,つけ加えられる。
⑤さらに研究すべき点----このような空費はどの程度まで商品生産一般の,またその一般的な絶対 的な形態における商品生産すなわち資本主義的商品生産の,独特な性格から生ずるのか。また,こ れらの空費はどの程度まですべての社会的生産に共通であるのか,どの程度まで資本主義的生産 の中で一つの特殊な姿を,一つの特殊な現象形態をとっているだけなのか。

⑥アダム・スミス----在庫形成は資本主義的生産に特有な現象。レーラー----在庫形成は資本主義 的生産の発展につれて減少。シスモンディ----資本主義的生産のくらい面(欠陥。短所)。

⑦在庫は三つの形態で存在。生産資本,個人的消費財源,商品在庫または商品資本。在庫は,一方の 形態で増加すれば,他方の形態では相対的に減少する。といっても,その絶対量から見れば,三つ の形態のすべてで同時に増大することもありうる。

⑧生産が直接に自家需要の充足に向けられていて,比較的小さな部分だけが商品の形態をとってい る場合には,商品在庫は,富のごくわずかな部分しか占めていない。生産物の圧倒的な部分が,生 産手段または生活手段の在庫になっている。それは商品在庫の形態をとらない。このような生産 様式を基礎とする社会には,A・スミスによれば,在庫は存在しないというのである。A・スミス は在庫の形態を在庫そのものと混同している。

⑨生産資本の形態にある在庫----この生産手段はすでに生産過程にあるかまたは少なくとも生産者 の手にある,つまり潜在的にはすでに生産過程にある。
・労働の生産性の発展,したがってまた資本主義的生産様式の発展につれて,労働手段の形で一度に 過程に合体されて繰り返し過程の中で機能する生産手段(建物や機械など) の量は絶えず増大す る。その増大は労働の社会的生産力の発展の前提であるとともにその結果でもある。この形態に ある富の絶対的な,また相対的な増大は,資本主義的生産様式を特徴づける。
・しかし,不変資本の素材的存在形態(生産手段)は,この種の労働手段からだけではなく,非常に 様々な加工段階にある労働材料,また色々な補助材料からもなっている。生産規模の拡大につれ て,また協業や分業や機械などによる労働の生産力の上昇につれて,日々の再生産過程に入る原料 や補助材料などの量も増加する。これらの要素は,生産場所に準備されていなければならない。 だから,このような,生産資本の形態で存在する在庫の量は,絶対的に増大する。過程が淀みなく 流れるためには多くの原料などの集積がいつでも生産場所に準備されていなければならない。
・とはいえ,このような在庫は,絶対的には増加しても,相対的には減少しうる。

⑩供給の確実さや規則正しさや速さが小さいほど,それだけ原料などの在庫は,大きくならざるを得 ない。これらの条件は,資本主義的生産の発展度に反比例し,したがって社会的労働の生産力の発 展度に反比例する。⑪しかし,ここで在庫の減少として現われるものは,一部分は本来の商品在庫 の増加,したがって同じ在庫の形態変換でしかない生産資本の形態での在庫の減少でしかない。 たとえば,毎日の石炭生産の規模とエネルギーとが大きければ,紡績業者は大量の石炭貯蔵を必要 としない。石炭供給の不断の確実な更新がそれを不必要にする。第二に,一つの過程の生産物が 生産手段として別の過程に移って行ける速さは,運輸交通期間の発展に依存する。その場合,運輸 費が安いことは大きな役割を演ずる。この二つの事情は,生産過程そのものから生ずる。
・第三には,信用制度の発達が影響する。紡績業者が自分の綿花や石炭などの更新のために自分の 綿糸の直接的な販売に頼ることが少なければ少ないほど(信用制度が発達するほどこの直接的依 存は少なくなる),綿糸の販売の偶然に依存しない連続的な綿糸生産を与えられた規模で確保す るために必要なこれらの在庫の相対的な大きさは,ますます減少しうる。
・第四に,多くの原料や半製品などはその生産にかなり長い期間が必要(ことに農業)。その間原 料の一定の在庫が存在しなければならない。産業資本家の手の中でこの在庫が減少するとすれば, それは商人の手の中で増加している。運輸機関の発達により,工場主は比較的小さい割合で自分 の綿花在庫を更新しうるが,同じ綿花がそれだけ大量に商品在庫として商人の手にある。これは 在庫の形態変換。社会的資本を見れば,同じ生産物量が在庫の形をとる。一国について言えば,た とえば一年間の必要量のために準備しておかねばならない大きさは,運輸機関の発達につれて減 ってくる。多くの汽船や帆船が米英間を往来するようになれば,イギリスにとっては綿花在庫の 更新の機会が増加し,在庫の量は減少する。世界市場の発展も,同じように作用。同じ物品が別々 の国から別々の時期に少しずつ供給されるから。 

二 本来の商品在庫
①資本主義的生産の基礎の上では商品が生産物の一般的な形態になる。すべての商品は,したがっ てまたすべての商品資本も,市場にある限りでは商品在庫の一要素をなす。それゆえ,商品在庫は 資本主義的生産が進むにつれて増大する。
・これはただ在庫の形態変換でしかない(商品形態にある在庫の増加⇒直接的生産用在庫または 消費用在庫の形態での在庫の減少)。在庫の社会的形態が変わっただけのこと。社会的総生産物 に比べての商品在庫の相対的な大きさが増すだけではなく,同時のその絶対的な大きさも増すと すれば,それは,資本主義的生産とともに総生産物の量が増大する。
②資本主義的生産の発展につれて,生産の規模は個別資本家の資本の大きさや,彼の資本の増殖衝動 や,彼の生産過程の連続と拡大との必要やによって決定される度合いが大きくなる。どの特殊な 生産部門でも,商品として市場にある生産物量は,必然的に増大する。商品在庫は増大する。
③社会の最大の部分が賃金労働者(自分の賃金を毎週受け取って毎日支出する----生活手段を在庫 として見いださなければならない人々)に,転化される。この在庫が絶えず流動を続けられるた めには,それらの要素の一部分は絶えず停滞しなければならない。
④これらの契機は,生産の形態から生じ,生産物が流通過程で通らねばならぬ形態転化から生ずる。
⑤生産物在庫の社会的形態がどうであろうと,その保管には費用が必要----生産物の貯蔵所となる 建物や容器,有害な影響を防ぐため。
・在庫が社会的に集中されるほど,このような費用は相対的に小さくなる。これらの費用は,対象化 された形態か生きている形態かでの社会的労働(資本主義的形態では資本投下),といっても生 産物形成そのものには加わらない,それの一部分をなし,生産物からの控除をなす。
・それは,必要であり,社会的な富の空費である。それは社会的生産物の維持費であって,このこと は,商品在庫の要素としての社会的生産物の存在が単に生産の社会的形態から,すなわち商品形態 やその必然的な形態転化から生ずるにすぎないと否とにかかわりはない。生産物在庫は,あらゆ る社会に共通。
⑥問題になるのは,このような費用はどの程度まで商品の価値に入るのかということ。
⑦資本家は,前貸しした自分の資本を生産物に転化させたが,この商品量が売れないならば,彼の資 本の価値増殖過程が停滞するだけではない。この在庫を維持するために建物や追加労働などの形 で必要になる支出は,積極的な損失になる。
・彼は彼の品物を貨幣に転化させなければならない。品物が商品形態に固定されるための空費は彼 自身が冒す危険であって,この冒険は商品の買い手にはなんのかかわりもない。買い手は彼に彼 の商品の流通期間の代価を支払はしない。
・価値革命が現実に起きているかまたはそれが予想されるような時期に資本家がわざと自分の商品 を市場に出さないでおく場合でも,彼が追加空費を実現するかどうかは,この価値革命が到来する かどうかにかかっており,彼の思惑があたるかはずれるかにかかっている。在庫形成が流通の停 滞である限り,そのために必要になる費用は商品には少しも価値をつけ加えない。
・貨幣準備の形成なしには貨幣は流通することができないように,商品在庫なしには商品流通はあ りえない。資本家は,W'-G'ではこの必然に出会わなくても,G-Wではこれに出会う。彼の商 品資本についてではないが,彼のための生産手段や彼の労働者のための生活手段を生産する他の 資本家たちの商品資本については,この必然に出会う。
⑧在庫形成が自発的であるか否か,商品生産者が意図的に在庫を保持するのか,それとも流通過程の 諸事情により在庫を形成するのかは,事柄の本質を変えることはできないように見える。
・自発的な在庫形成と非自発的な在庫形成との区別は何か。非自発的な在庫形成は,商品生産者の 関知することなしに彼の意志を妨害する流通停滞から生ずる。またはこの停滞と同じである。自 発的な在庫形成を特徴づけるものは何か? 売り手は自分の商品をできるだけ速く売ってしまお うとする。かりに彼がそれを販売することを取りやめるならば,生産物は商品在庫の可能的要素 を形成するだけで,その現実的要素を形成しない。商品そのものは彼にとってはその交換価値の 担い手にすぎず,貨幣形態になった後ではじめて,交換価値として作用しうる。

⑨商品在庫は,所与の期間のあいだ需要の大きさに対して十分であるためには,ある程度の大きさを もたなければならない。そのさい,買い手の範囲が絶えず拡大されることがあてにされる。たと えば,一日のあいだもちこたえるためには,市場にある商品の一部分は,他の部分が流動して貨幣 に転化している間も,たえず商品形態にとどまっていなければならない。商品の停滞は商品の販 売の必然的な条件。その大きさは,中位の売れ行きよりも大きくなければならない。
・他方,在庫は絶えず解消するのだから絶えず更新されなければならない。この更新は結局はただ 生産によって,商品の供給によって,行なわれるより他はない。商品在庫は,この期間中間に合う ものでなければならない。それが元の生産者の手に留まっていないで,卸売商品から小売商人に 至るまでの様々な貯蔵所を通るということは,事柄そのものを変えはしない。社会的に見れば,相 変わらず資本の一部分は商品在庫の形態にある。
・生産者自身も,恒常的な範囲の顧客を確保しておくために,自分の平均需要に相応する在庫高を保 持していようとする。生産期間に対応して買い入れの時期が形成されるのであって,商品は同種 の新品で補充することができるようになるまで長短の期間にわたって在庫を形成する。このよう な在庫形成によってのみ,流通過程の,それゆえ流通過程を包括する再生産過程の,恒常性と連続 性とは確保される。

⑩Wはまだ市場にあるのに,Wの生産者にとってW'-G'がすでに終わっていることもありうる。 生産者が自分の商品が最終消費者に売れるまで在庫としておこうと思うならば,生産者は二重の 資本を動かさなければならない。一つは商品の生産者として,もう一つは商人として。商品その ものにとっては,在庫形成の諸費用が商品の生産者の負担になろうと一連の商人の負担になろう と,事柄は少しも変わらない。
⑪商品在庫が在庫----社会的生産の与えられた段階のもとで,それが商品在庫として存在しなけれ ば,生産用在庫(潜在的な生産財源) なり消費財源(消費手段の予備) なりとして存在する)--- -の商品形態に他ならない限りでは,在庫の維持に必要な費用,したがって在庫形成の費用も,ただ 社会的生産財源なり社会的消費財源なりの維持費が転化したものでしかない。
・この費用によって引き起こされる商品価値の引き上げは,色々な商品に割り当てる。この費用は 商品の種類によって違っている。在庫形成が社会的な富の一つの存在条件であっても,在庫形成 の費用は社会的な富からの控除である。

⑫商品在庫が商品流通の条件であり,しかも商品流通の中で必然的に発生した形態でもある限りで のみ,この停滞は正常。
・これに反して,流通の貯水池に滞留している諸商品が,後から追いかけてくる生産の波に場所をあ けないために,この貯水池が溢れるようになれば,その場合には流通停滞の結果として商品在庫が 膨張する。この停滞が産業資本家の倉庫で生じようと商人の倉庫で生じようと,それは問題では ない。この場合には商品在庫は商品が売れないことの結果である。費用がかかることは変わりな いが,この費用は純粋に形態から(商品を貨幣に転化させる必要とこの変態の困難)から生ずる のだから,それは商品の価値には入らないで,価値の実現にさいしての価値損失をなす。
・在庫の正常な形態と正常でない形態とは形態からは区別できないし,どちらも流通の停滞なので, この二つの現象は混同されやすい。生産者にとっては,すでに商人の手に渡っている自分の商品 の流通過程は停滞していても自分の資本の流通過程は流動していることがありうるので,ますま すこのような現象は生産当事者自身をさえだますことがありうる。
・生産と消費との大きさが膨張すれば,他の事情が変わらない限り商品在庫の大きさも膨張する。 商品在庫は同じように速く更新され吸収されるにしても,その規模は一層大きくなる。だから,流 通の停滞による商品在庫の大きさの膨張が再生産過程の拡大の兆候と見誤られうる----ことに, 信用制度の発達につれて現実の運動が神秘家されやすくなれば,そうである。
⑬在庫形成の費用は,(一) 生産物量の量的減少(たとえば穀粉在庫の場合) ,(二) 品質の悪化, (三) 在庫の維持に必要な対象化されている労働と生きている労働,とから成る。

第三節 運輸費
①流通費のあらゆる細目に立ち入る必要はない。一般的な法則は,商品の形態転化だけから生ずる 流通費は商品に価値をつけ加えないということ。流通費は価値を実現するための,または価値を 一つの形態から別の形態に移すための,費用でしかない。これに投ぜられる資本(これによって 指揮される労働も含めて) は,資本主義的生産の空費に属する。その補塡は剰余生産物のうちか らなされなければならない。この補塡は,資本家階級全体について見れば,剰余価値または剰余生 産物からの控除をなす。運輸費は重要な役割を演ずるから,さらに考察する。

②資本の循環,その一節をなす商品変態の中で,社会的労働の素材変換が行なわれる。この素材変 換は,生産物の場所変換を必要とすることもあれば,商品の物理的な運動がなくても行なわれうる。 生産物の運輸は,商品流通がなくても,また直接的生産物交換がなくてさえも,行なわれうる。家 の例。綿花や銑鉄のような可動的な商品価値でも,同じ商品倉庫に坐っていながら,幾つもの流通 過程を通り,投機師たちによって買われてはまた売られる。この場合に現実に動くものは,物の所 有権。他方,たとえばインカ帝国では,社会的生産物が商品として流通していたのでもなければ物 々交換によって分配されていたのでもないのに,運輸業が大きな役割を演じた。

③資本主義的生産の基礎の上では運輸業が流通費の原因として現われるとしても,この特殊な現象 形態は少しも事柄を変えない。
④生産物の量は運輸によってはふえない。運輸によって引き起こされるかもしれない生産物の自然 的性質の変化も,例外を除けば,意図された有用効果ではなく,必要悪である。物の使用価値は消 費によって実現され,その消費のためには場所の変換,したがって運輸業の追加生産過程が必要に なることもある。だから,運輸業に投ぜられた生産資本は,一部は運輸手段からの価値移転によっ て,一部は運輸労働による価値付加によって,生産物に価値をつけ加える。このような,運輸労働 による価値付加は,労賃の補塡と剰余労働とに分かれる。

⑤生産過程の中で労働対象の場所の変換と,それに必要な労働手段や労働力は,大きな役割を演じて いる。完成生産物が生産場所からそれとは別な遠く離れた生産場所に移されるということも,同 じ現象。生産物の運輸には,生産部面から消費部面への完成生産物の運輸が続く。生産物は,この 運動を完了したときに,はじめて消費のための完成品である。
⑥労働の生産性と労働の価値創造とが反比例するということは,商品生産の一般的な法則である。 この法則は,運輸業にもあてはまる。与えられた距離の商品運輸に必要な労働量が小さいほど,労 働の生産力はそれだけ大きい。
⑦運輸が商品につけ加えられる絶対的な価値量は,運輸業の生産力に反比例し,距離に比例する。
⑧運輸費が商品の価格につけ加える相対的な価値部分は,商品の容積と重量とに正比例する。これ を修正する事情もたくさんある(物品が比較的破損しやすいとか腐敗しやすいとか爆発しやすい とかいうこと)。この点では鉄道王たちは空想的な種類の発明では独創力を発揮する。
⑨運輸費が物品につけ加える相対的な価値部分がその物品の価値に比例するということは,鉄道王 たちにとっては,物品の価値に比例して運賃を課するための特別な理由になる。この点について の産業家や商人の苦情が繰り返されている。
⑩資本主義的生産様式は,運輸交通機関の発達,また運輸の集中(規模の大きさ)によって,個々の 商品の運輸費を減少させる。この生産様式は,生産物の大多数を商品に転化させることによって, その次には局地的市場に代わる遠隔市場をつくり出すことによって,社会的労働のうちから商品 運輸に支出される部分を増加させる。

⑪流通,すなわち商品が実際に空間を走り回るということは,商品の運輸に帰着する。運輸業は一面では一つ の独立な生産部門をなしており,したがってまた生産資本の一つの特殊な投下部面をなしている。他面では, それは,流通過程の中での,そして流通過程のための,生産過程の継続として現われるということによって, 区別される。
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by shihonron | 2011-06-28 11:00 | 学習会の報告
2011年 06月 21日

第227回 6月21日 第5章 流通期間 第6章 流通費

6月21日(火)に第227回の学習会を行いました。
「第5章 流通期間」の第1段落から最後(第12段落)までと「第6章 流通費 第1節 純粋な流通時間」の第1節についてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。

       第五章 流通期間                 
①生産部面と流通部面の二つの段階を通る資本の運動は,時間的な順序をなして行なわれる。資本 がその循環を描く総期間は,生産期間と流通期間との合計に等しい。

②生産期間は労働過程の期間を包括している。
・不変資本の一部分(機械や建物などのような労働手段)は,寿命の尽きるまで,絶えず繰り返され る同じ労働過程で役立っている。
・労働過程の周期的な中断,たとえば夜間の中断は,労働手段の機能を中断するが,生産場所に留ま っていることを中断しない。これらの労働手段は,機能していないときにも生産場所にある。
・生産過程が予定の規模で進行するためには,資本家は原料や補助材料の一定の在庫を準備してお かなければならない。原料などの在庫は,だんだんに生産的に消費されて行く。
・生産期間とその機能期間とに差----生産手段の生産期間は以下を包括している。
(一) 生産手段として機能している期間,つまり生産過程で役立っている期間
(二) 生産過程が中断(生産手段の機能も中断)されている中休み期間----夜間など
(三) 生産手段が過程の条件として準備されている(まだ生産過程に入ってはいない)期間

③以上で考察した差は,生産資本が生産部面に留まっている期間と生産過程に留まっている期間と の差である。
・生産過程そのものが,労働過程(労働期間)の,中断を必要条件とすることがある。労働対象が自 然的過程の作用にまかされてある中間期間。この場合には,生産過程は,したがって生産手段の機 能は,続いている。たとえば,穀物,ぶどう酒,皮なめし業などの労働材料。この場合には生産期間 は労働期間よりも長い。
・二つの期間の差は,労働期間を越える生産期間の超過分である。この超過分は,労働過程にあるこ となしに生産過程で機能するということに,基づいている。

④潜在的な生産資本のうちで,ただ生産過程の条件として準備されている部分(紡績業での綿花や 石炭など)は,遊休資本である。その遊休は生産過程が中断されないための一条件をなす。
・生産用在庫(潜在的資本) の貯蔵場所として役立つために必要な建物や装置などは生産過程の条 件であり,前貸生産資本の成分をなす。この段階で労働過程が必要な限りでは,この労働過程は原 料などの価格を高くする,生産的労働であって,剰余価値を形成する。
・生産過程全体の正常な中断,すなわち生産資本が機能していない中休み期間は,価値も剰余価値も 生産しない。だから,夜間も作業させようとする。労働期間の中休み期間は,価値も剰余価値も形 成しない。しかし,それは,生産物を助成し,生産物の生涯の一部分をなし,生産物が通らなければ ならない一つの過程をなす。
・種々の装置などの価値は,それらが機能する全時間に比例して生産物に移転。このような部分は 生産物には入らなくてもその価値を生産物に移す。
・潜在的な資本の他方の部分,たとえば建物や機械などの労働手段は,生産物形成に加わることなし に価値をつけ加える。この部分が生産物につけ加える総価値は,その平均耐用期間によって規定 される。この部分が価値を失うのは,使用価値を失うからであって,それが最後に機能している時 間でも機能していない時間でもそうである。

⑤労働過程が中断されても引き続き生産過程にある不変資本部分の価値は,生産過程の結果のうち に再現する。この場合には,生産手段は,労働そのものによって,それが独りでにある種の自然過 程を通るような諸条件のもとに置かれている。労働は,生産手段を現実に合目的的に生産手段と して消費する限り,常に生産手段の価値を生産物に移す。労働が連続的に労働手段を用いて労働 対象に働きかけるか,労働はただ最初の刺激を与えるだけで,自然過程の結果として所期の変化を 受けるような諸条件のもとに生産手段を置くだけでよいかに変わりはない。

⑥生産期間が労働期間を越える原因がなんであろうと(1.生産手段が潜在的な生産資本になってい るだけで現実の生産過程への前段階にあるから 2.生産過程の中でその中休みによって生産手段 自身の機能が中断されるから 3.生産過程そのものが労働過程の中断を必要条件とするから)生 産手段は労働吸収者として機能してはいない。労働を吸収しなければ,剰余労働も吸収しない。
・生産資本がその生産期間のうちの労働期間を越える部分にあるあいだは,たとえ価値増殖過程の 遂行がその中休みとどんなに不可分であろうと,生産資本の価値増殖は行なわれない。
・生産期間と労働期間とが一致していればいるほど,与えられた期間の中での与えられた生産資本 の生産性と価値増殖はそれだけ大きい。だから,資本主義的生産では労働期間を越える生産期間 の超過をできるだけ短縮しようとする傾向がある。
・生産期間は労働期間を含んでおり,その超過は,生産過程の条件である。生産期間は,資本が潜在 的である期間とか自己増殖することなしに生産する期間とかが含まれているとしても,資本が使 用価値を生産しながら自分自身を価値増殖し,生産資本として機能している期間である。

⑦流通部面の中では資本は商品資本および貨幣資本として住んでいる。資本の二つの流通過程---- 商品形態から貨幣形態に転化,貨幣形態から商品形態に転化。
・商品の貨幣への転化が,同時に剰余価値の実現でもあるという事情,また,貨幣の商品への転化が, 同時に,資本価値の自分の生産要素の姿への転化または再転化でもあるという事情は,これらの過 程が流通過程としては単純な商品変態の過程であるということを,少しも変えない。

⑧流通期間と生産期間とは互いに排除し合う。資本はその流通期間には生産資本としては機能せず, 商品も剰余価値も生産しない。資本の流通期間が続いている間は生産過程は中断されており,資 本の自己増殖も中断されている,また,流通期間の長さに応じて生産過程の更新が速くなったり遅 くなったりする。流通期間の膨張と収縮は,生産期間の,または与えられた大きさの資本が生産資 本として機能する範囲の,収縮や膨張に対して,消極的な制限として働く。
・資本の流通期間がゼロに近くなればなるほど,それだけ多く資本は機能し,それだけ資本の生産性 と自己増殖とは大きくなる。たとえば,注文に応じて作業し,生産物の引渡しと同時に支払を受け, 支払が彼自身の生産手段でなされるとすれば,流通期間はゼロに近くなる。

⑨資本の流通期間は一般に資本の生産期間を制限し,したがって資本の価値増殖過程を制限する。 しかも,それを流通期間の長さに比例して制限する。この長さは非常に違った程度で増減するこ とがありえ,したがって非常に違った程度で資本の生産期間を制限することがありうる。
・しかし,経済学の見るものは,現象として現われるもの,すなわち,流通期間が資本の価値増殖過程 一般に及ぼす影響である。経済学はこの消極的な影響を,その結果が積極的だという理由から,積 極的なものと考える。経済学がますますこのような外観に執着するのは,それが次のことの証明 を与えるように見えるからである。すなわち,資本は自己増殖の神秘的な源泉をもっていて,この 源泉は資本の生産過程にはかかわりなしに,したがって労働の搾取にはかかわりなしに,流通部面 から資本のもとに流れてくるものだ,ということの証明を与えるように見えるからである。この 外観には科学的な経済学でさえもだまされるということは,もっと後で見るであろう。
・この外観は,次のような色々な現象によって強固にされる。
(一) 資本家的な利潤計算の仕方。そこでは消極的な原因が積極的な原因として現われる。という のは,流通期間だけが違う色々な投下部面にある色々な資本にとっては,より長い流通期間は,価 格引き上げの原因として,要するに利潤の平均化の諸原因の一つとして,働くから。
(二) 流通期間は回転期間の一つの契機であるにすぎない。ところが,回転期間は生産期間または 再生産期間を含んでいる。生産期間のせいであることが,流通期間のせいであるように見える。
(三) 可変資本(労賃) への諸商品の転換は,前もって諸商品が貨幣に転化していることを必要条 件とする。だから,資本の蓄積に際しては追加可変資本への転化は,流通部面で,または流通期間 中に,行なわれるのである。それゆえ,このようにして行なわれる蓄積は流通期間のおかげである かのように見える。
⑩流通部面の中では資本は(順序に違いはあっても)二つの段階W-GとG-Wとを通る。資本の 流通期間も二つの部分に分かれる。
・W-G,売りは,資本の変態の最も困難な部分であり,普通の事情のもとでは,流通期間のうちの大 きいほうの部分をなす。貨幣としては,価値は,いつでも転換可能な形態にある。商品としては, 価値はまず第一に貨幣への転化によってこの直接的交換可能性の姿を,いつでも出動可能な活動 性の姿を,受け取らなければならない。
・G-Wの段階----生産資本の特定の諸要素をなしている諸商品に資本が転化すること。時には, 生産手段が市場にはないとか,遠方の市場から取り寄せる必要があるとか,平常通りの供給が行な われないとか,価格の変動などが起きるとか,多くの事情がある。
・W-GとG-Wとは,時間的に分離されうるように,場所的にも分離されうる。すなわち,購買市 場と販売市場とが場所的に別々の市場であることがある。
・商品生産では,流通は生産そのものと同様に必要であり,流通担当者も生産担当者と同様に必要で ある。再生産過程は資本の二つの機能を含んでいる(資本家自身によって行なわれるにせよ,そ の代理者としての賃金労働者によって行なわれるにせよ)。
・しかし,このことは,流通当事者と生産当事者とを混同する理由にもならないし,商品資本や貨幣 資本の機能を生産資本の機能と混同する理由にもならない。
・流通当事者は生産当事者から支払を受けなければならない。しかし,互いに販売し合う資本家た ちが,この売買行為によっては生産物も価値もつくり出さないとすれば,このことは,彼らの事業 の規模がこの機能の他人への転化を可能にし必要にする場合にも,変わらない。多くの事業では, 購買者や販売者が利潤の配当で支払を受ける。消費者が支払いうるのは,ただ,彼ら自身が生産の 当事者として商品での等価を生産する場合か,または権利(生産当事者の共同出資者などとして)  とか自身の勤労とかによって生産当事者からこのような等価を取得する場合だけである。

⑪W-GとG-Wとのあいだには,生産の資本主義的な性格から生ずる一つの相違がある。それ自 体としては,W-GもG-Wも,価値の形態変換。しかし,W'-G'は,同時に,W'に含まれている 剰余価値の実現でもある。G-Wはそうではない。だから,売りは買いよりも重要である。G- Wは,剰余価値の生産への序論。

⑫商品資本の流通W'-G'については,使用価値としての商品の存在によって,一定の限界。商品は, もともと滅びるものである。商品は,売れなければ,だめになってその使用価値と一緒に,交換価 値の担い手だという性質も失う。
・使用価値が,長年にわたって自分を増殖する資本価値の担い手であるのは,ただ,それが絶えず更 新され再生産されて同種または他種の新しい使用価値と取り替えられる限りでのこと。
・使用価値が商品形態で売られるということ,この売りを通じて生産的または個人的消費に入ると いうことは,その再生産のための絶えず更新される条件である。使用価値は,一定の時間のうちに その古い使用形態を取り替えて,新しい使用形態で存在を続けなければならない。交換価値は,た だこのようなその肉体の不断の更新によってのみ維持される。
・色々な商品の使用価値は,急速にまたは徐々に腐朽する⇒生産と消費とのあいだの中間期間は, より長いこともより短いこともありうる。色々な商品の使用価値は,損傷せずに長かれ短かれ流 通局面W-Gで商品資本として長持ちする(商品として耐え抜く)。
・商品体そのものの損傷による商品資本の流通期間の限界は,商品資本が商品資本として過ごすこ とのできる流通期間の,絶対的な限界である。商品が傷みやすいものであり,すぐ売らなければな らないものであればあるほど,その空間的流通部面は狭く,その販売市場は局地的になる。
・商品が傷みやすくて,流通期間の絶対的な制限が大きいほど,資本主義的生産の対象としては適 当でない。このような商品は,人口の多い地方,または運輸期間の発達によって,資本主義的生産 の対象になる。
・ある物品の生産が少数の手に,また人口の多い地方に集中すれば,相対的に大きな市場がつくり出 される。たとえば,大規模なビール醸造場とか酪農場などの生産物の場合。


  第六章 流通費                
第一節 純粋な流通費
           一 売買期間(時間)

①商品から貨幣への,貨幣から商品への,資本の形態転化は,同時に資本家の取引・売買行為。資本 のこの形態転化が行なわれる期間は,主観的(資本家の立場から)には,販売期間と購買期間,す なわち彼が市場で売り手または買い手として機能する期間である。
・資本の流通期間が資本の再生産期間の必要な一部分をなすと同様に,資本家が売買し市場を歩き 回る期間は,彼が資本家として,すなわち人格化された資本として機能する期間の必要な一部分を なす。それは彼の営業期間の一部分をなす。

②{諸商品の価値通りの売買を仮定⇒これらの過程で行なわれるのは,商品形態から貨幣形態へ の,また貨幣形態から商品形態への,同じ価値の変換----一つの状態変化だけ。価値の大きさは, 買い手の手にあっても売り手の手にあっても変わらない。ただその存在形態が変わっている。商 品がその価値通りに売られないとしても,転換される諸価値の総額は元通りで変わらない。一方 の側でのプラスは他方の側でのマイナス。

③変態W-GとG-Wは,買い手と売り手とのあいだの取引である。ここでは互いに相手よりもた くさん儲けようとする戦いが行なわれる。状態の変化には時間と労働力とが必要であるが,価値 を創造するためにではなく,価値の形態転換を引き起こすために必要。この機会に余分な価値量 を取得しようとするお互いどうしの試みは,事態をなにも変えない。
・総体としての資本主義的生産過程(これは流通をも包含し,また流通によって包含される)の必 要な一契機であるこの労働は,熱の発生のために用いられる物質の燃焼労働のようなもの。これ にはエネルギー支出が必要だが,これは熱に転化するのではなくて熱から差し引かれる。商品所 持者が資本家でなくて独立の直接的生産者ならば,売買に費やされる時間は彼らの労働時間から の控除であり,彼らは(古代でも中世でも) このような仕事を休日まで延ばそうとした。

④商品売買が資本家たちの手中でどのような広がりをもとうとも,ただ価値の形態変換を媒介する だけの労働(産業資本家たちから支払を受ける第三者の専業にすることによっても)を,価値を 創造する労働に転化させることはできない。地主の地代徴収人や銀行の小使の例。}第8稿

⑤資本家にとっては,売買が一つの主要な機能。商人資本の機能によって一つの幻想が入ってくる。 だが,不生産的であっても再生産の必然的な一契機である機能が,少数の人々の特殊な営業にされ ても,この機能そのものの性格は変わらない。商人は多くの生産者の売買期間を短縮する。彼は, 無駄なエネルギー支出を減少させ生産時間の解放を助ける一機械とみなされる。

⑥簡単化ために,売買担当者は自分の労働を売る人だと仮定。彼は自分の労働力と労働時間とをこ のW-GとG-Wという仕事に支出する。彼はこの仕事によって生きて行く(他の人がたとえば 紡績や丸薬製造によって生きて行くのと同様)。彼も一つの必要な機能を行なう。再生産過程そ のものが不生産的な諸機能を含んでいるからである。彼も他の人と同じに労働するのであるが, 彼の労働の内容は価値も生産物もつくり出さない。
・彼自身が生産上の空費〔faux frais〕に属する。彼の有用さは,社会の労働力と労働時間とのう ち,不生産的な機能に拘束される部分が減少することにある。
・彼は,ただの賃金労働者だと仮定。彼は,賃金労働者として彼は彼の時間の一部分は無償で労働す る。彼が行なう剰余労働が価値を生産しないことは,彼の必要労働と同様である。第一に,社会的 に見れば,相変わらず一つの労働力が10時間のあいだこの単なる流通機能に消費される。この労 働力を生産的労働のために使うことはできない。第二に,2時間の剰余労働,社会はそれには支払 わない。社会は余分の生産物や価値は何も受け取らない。しかし,彼が代表している流通費は,10

 時間から8時間に,1/5だけ減少する。この現実の流通期間の1/5には,社会はなんの等価も支払わ ない。ところが,資本家がこの担当者を使用するとすれば,この2時間の不払によって,彼の資本の 流通費,すなわち彼の収入からの控除になる流通費は,減少する。これは積極的な利得である。彼 の資本の価値増殖に対する消極的な制限が小さくなるから。
・独立な商品生産者たちが自分の時間を売買に費やす限りでは,この部分は,彼らの生産的機能の合 間に費やされる時間として現われるか,または彼らの生産期間の中断として現われる。

⑦どんな事情のもとでも,このために費やされる時間は,転換される価値には何もつけ加えない流通 費である。それは,価値を商品形態から貨幣形態に移すために必要な費用である。資本家的商品 生産者が流通担当者として現われる限りでは,彼を直接的商品生産者から区別するものは,ただ, 彼がより大きな規模で売買し,したがってまたより広い範囲で流通担当者として機能するという ことだけ。しかし,彼の事業の大きさが,彼が自分の流通担当者を賃金労働者として買う(雇う)  ことを必要にするか可能にするかしても,この現象には事実上変わりはない。
・労働力と労働時間とはある程度までは流通過程(単なる形態転化である限りでの) で支出されな ければならない。それは追加的資本投下として現われる。可変資本の一部分は,このただ流通で 機能するだけの労働力を買うことに投ぜられなければならない。この資本前貸は生産物も価値も つくり出さない。それは,前貸資本が生産的に機能する範囲をそれだけ小さくする。
・それは,生産物の一部分が生産物を売買する機械に転化させられたようなもの。この機械は生産 物からの控除を必要にする。それは,流通で支出される労働力などを減らすことができるとはい え,生産過程で一緒に働くのではない。それはただ流通費の一部分をなす。

二 簿記
①現実の売買での他に労働時間は簿記にも支出され,この簿記にはまたそのほかに対象化された労 働,すなわちペンやインクや紙や机や事務所費が入る。つまり,この機能には一方では労働力が支 出され,他方では労働手段が支出される。この場合も事情は売買期間の場合とまったく同じ。

②資本は,その諸循環の中での統一体(過程を進行している価値)としては,生産部面の中にあろう と,流通部面の二つの段階の中にあろうと,ただ観念的に計算貨幣の姿で商品生産者または資本家 的商品生産者の頭の中に存在する。
・この運動は,価格決定や商品価格の計算をも含む簿記によって,確定され調整される。生産の運動, 価値増殖の運動(そこでは諸商品は,価値の担い手として,その観念的な価値存在を計算貨幣で確 定されている諸物の名称として,現われる)は,観念の中で象徴的な模写を与えられる。
・このような労働時間や労働手段は必要ではあるが,彼が生産的に消費しうる時間からの,現実の 生産過程で機能して生産物形成と価値形成に加わる労働手段からの控除をなす。
・この機能が資本家的商品生産者の手に集中され,この機能の規模が拡大されても,また,この機能 を付属物としていた生産的な諸機能からこの機能が分離されて,特別な担当者の機能として独立 化されても,この機能そのものの性質は変わらない。

③もしその機能がそれ自体として生産物を形成し価値を形成するものでないならば,機能の独立化 によっても,変わりはない。
・ある資本家が資本を新たに投下するとすれば,一部分を簿記係や簿記用品に投じなければならな い。彼の資本がすで再生産過程にあるならば,彼は商品生産物の一部分を,貨幣への転化を通じて, 絶えず簿記係や事務員などに再転化させなければならない。資本のこの部分は,生産過程から引 き上げられて,総収益からの控除たる流通費に属する。

④とはいえ,一方の簿記に伴う費用または労働時間の不生産的な支出と,他方の単なる売買期間の費 用とのあいだには,ある種の区別がある。後者は,ただ,生産過程の一定の社会的形態(商品の生 産過程)から,生ずるだけである。
・簿記は,過程の調整や観念的な総括としては,過程が社会的な規模で行なわれて純粋に個人的な性 格を失ってくればくるほど,ますます必要になる。したがって,資本主義的生産では手工業経営や 農民経営の分散的な生産でよりももっと必要になり,共同体的生産では資本主義的生産でよりも もっと必要になる。しかし,簿記の費用は,生産の集積につれて,また簿記が社会的な簿記に転化 すればするほど,減ってくる。
⑤ここで問題にするのは,単なる形態的な変態から生ずる流通費の一般的な性格だけ。価値の純粋 な形態転化に属し,生産過程の一定の社会的形態から生ずる[この費用の]諸形態が,巨額な流通 費として人目を驚かすことになる⇒単なる貨幣収支が銀行や個別事業の会計係の専有機能とし て独立化され大規模に集中。

三 貨幣
①商品として生産されるか否かを問わず,生産物は個人的または生産的消費にはいるように予定さ れている,富の素材的な姿であり,使用価値である。商品としては生産物の価値は観念的に価格 (これは生産物の現実の使用姿態をなんら変化させない)として存在している。
・金銀というような特定の諸商品が貨幣として機能していて,もっぱら流通過程にとどまっている (蓄蔵貨幣や準備金などとしても,金銀は,潜在的に流通部面に留まっている) ということは,商 品の生産過程の,生産過程の一定の社会的形態の純粋な産物である。
・資本主義的生産の基礎の上では,商品が生産物の一般的な姿になり,社会的富のうちの商品として 機能する部分が,絶えず増大するのだから,流通手段や支払手段や準備金などとして機能する金 銀の量もまた増加する。
・貨幣として機能する商品は,個人的消費にも生産的消費にも入らない。貨幣は,社会的労働が単な る流通機械として役立つような形態に固定されたもの。社会的な富の一部分がこの不生産的な形 態に拘束されているということの他に,貨幣の摩滅は,その不断の補塡を必要とする。この補塡の 費用は,資本主義的に発達した諸国では大きい
・金銀は,貨幣商品としては,ただ生産の社会的形態に起因する流通費をなしている。それは商品生 産一般の空費であって,この空費は商品生産の,また特に資本主義的生産の,発展につれて増大す る。それは,社会的な富のうちの流通過程に捧げられなければならない一部分である。
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by shihonron | 2011-06-21 23:00 | 学習会の報告
2011年 06月 14日

第226回  6月14日 第4章 循環過程の三つの図式

6月14日(火)に第226回の学習会を行いました。
「第4章 循環過程の三つの図式」の第34段落から最後(第60段落)までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下は検討した範囲のレジュメです。

    第4章 循環過程の三つの図式


(34)このことを明らかにするためには、流通過程を、次の二つの形態に現われるような中断されない関連の中で考察するのが最も適当である。
(Ⅱ) P・・W’{W、w}―G’{G、g}―W<A Pm・・P(P’)、g―w
(Ⅲ) W’{W、w}―G’{G、g}―W<A Pm・・P・・W’、g―w

★(Ⅰ)G・・G’の場合には、流通過程は生産過程によって中断される。
     (Ⅰ)G―W<A Pm・・P・・W’―G’
 
(35)一連の流通事象の列としては、一般に流通過程は(W―G―WとしてであろうとG―W―Gとしてであろうと)ただ商品変態の二つの反対方向の列を表わしているだけで、これらの商品変態のそれぞれは、また他人の商品またはそれに相対している他人の貨幣の側での反対方向の変態を含んでいるのである。
 
(36)商品所持者の側でのW―Gは、買い手の側でのG―Wである。W―Gでの商品の第一の変態は、Gとして登場する商品の第二の変態である。G―Wではその逆である。だから、一方の段階にある商品変態と他方の段階にある他の商品の変態との絡み合いについて示されたことは、資本家が商品の買い手および売り手として機能する限りでは、したがって彼の資本が他人の商品に対しては貨幣として機能し他人の貨幣に対しては商品として機能する限りでは、資本流通にもあてはまるのである。しかし、この絡み合いが同時に諸資本の諸変態の絡み合いの表現なのではない。
 
(37)第一に、G―W(Pm)は、われわれが見たように、色々な個別資本の諸変態の絡み合いを表わしていることがありうる。たとえば、綿紡績業者の商品資本である綿糸は、一部分は石炭と取り替えられる。彼の資本の一部分は貨幣形態にあって、この形態から商品形態に転換されるが、他方、資本家的石炭生産者の資本は商品形態にあって、この形態から貨幣形態に転換される。同じ流通行為がここでは二つの(別々の生産部門に属する)産業資本の反対方向の変態を表わしており、したがってこれらの資本の変態列の絡み合いを表わしている。とはいえ、すでに見たように、Gが転換されるPmは、範疇的な意味での商品資本、すなわち産業資本の機能形態である必要はなく、資本家によって生産されたものである必要はない。それは常に一方の側でのG―Wであり他方の側でのW―Gであるが、しかし常に諸資本変態の絡み合いであるとは限らない。また、G―A、労働力の買い入れは、決して諸資本変態の絡み合いではない。なぜならば、労働力は労働者の商品であるには違いないが、それは資本家に売られてからはじめて資本になるのだからである。他方、過程W’―G’では、G’は商品資本が転換したものである必要はない。それは、労働力という商品の資本化(労賃)、または独立労働者や奴隷や農奴や共同体によって生産された生産物の貨幣化でもありうるのである。

★(27)の内容と矛盾するように思えるが、(29)で《この流通過程の一般的な分析に際しては、商人の介在しない直接販売》が仮定されている。

(38)また第二に、一つの個別資本の流通過程の中で行なわれる各変態が演ずる機能的に規定された役割については、それは別の資本の循環の中ではそれに呼応する反対方向の変態を表わしている、とは決して言えないのであって、世界市場の総生産が資本主義的に営まれていると前提しても、そうは言えないのである。たとえば、循環P・・PではW’を貨幣化するG’は、買い手の側では彼の剰余価値の貨幣化でしかないこともありうる(商品が消費財である場合)。あるいはまた、G’―W’<A Pm(すなわち資本が蓄積されて入ってくる場合)では、G’はPmの売り手にとってはただ彼の前貸資本の補填として入るだけのこともあり、または、G’が分かれて収入の支出に入って行く場合には、もはや彼の資本流通に入らないこともありうる。

★資本家によって消費財の購買に支出される貨幣は資本ではなく、彼の資本流通に入らない。

(39)こういうわけで、個別資本を自分のただ独立に機能しているだけの構成部分として含んでいる社会的総資本の色々な構成部分が――資本についても剰余価値についても――どのようにして流通過程で互いに補填されるかは、資本流通の諸事象にも他の全ての商品流通にも共通な、商品流通上の単なる諸変態の絡み合いからは、明らかにならないのであって、別の研究方法を必要とするものである。それだのに、人々は、これまで、詳しく分析すればただ全ての商品流通に必要な諸変態の絡み合いから借りてきただけの不明確な観念の他には何も含んではいない決まり文句で満足してきたのである。

――――――――――
 
(40)産業資本の循環過程の、したがってまた資本主義的生産の、だれにでもわかる特性の一つは、一方では生産資本の形成要素が商品市場から出てきて絶えず繰り返してそこから商品として買われなければならないという事情であり、他方では労働過程の生産物が商品として労働過程から出て行って絶えず繰り返して商品として売られなければならないという事情である。たとえば、低地スコットランドの近代的借地農業者を大陸の古風な小農民と比較してみればよい。前者は自分の全生産物を売るのであって、したがって生産物の全ての要素を、種子までも、市場で補填しなければならないのであるが、後者は自分の生産物の最大の部分を直接に消費し、できるだけ売買を少なくし、道具や衣類などをできるだけ自分で制作するのである。
 
(41)このようなことから、人々はこれまで現物経済と貨幣経済と信用経済とを社会的生産の三つの特徴的な経済的運動形態として対比してきた。

(42)第一に、この三つの形態は対等な発展段階を表わしてはいない。いわゆる信用経済は、それ自体、ただ貨幣経済の一つの形態でしかない。すなわち、この二つの名称が生産者たち自身のあいだの交易機能または交易様式を表わしている限りでは、そうである。発展した資本主義的生産では、貨幣経済はただ信用経済の基礎として現われるだけである。したがって、貨幣経済と信用経済とはただ資本主義的生産の別々な発展段階に対応しているだけであって、決して現物経済に対する別々な独立な交易形態ではないのである。
 
(43)第二に、貨幣経済、信用経済という範疇で人々が強調し区別的特徴としてあげるものは、経済そのもの、すなわち生産過程そのものではなくて、経済に対応する様々な生産担当者間または生産者間の交易様式なのだから、第一の範疇の場合にもそうでなければならないであろう。つまり、現物経済ではなく交換経済になってしまう。完全に閉鎖された現物経済、たとえばペルーのインカ国は、これらの範疇のどれにも入らないことになるであろう。
 
(44)第三に、貨幣経済は全ての商品生産に共通であるし、また生産物は非常に様々な社会的生産組織体の中で商品として現われる。だから、資本主義的生産を特徴づけるものは、ただ、生産物が取引商品として、商品として生産される範囲の広さ、したがってまた生産物自身の形成要素が、生産物の出てくる経済に再び取引物品として、商品として入って行かなければならない範囲の広さだけだということになるであろう。

★資本主義的生産を特徴づけるものは、資本-賃労働関係であろう。

(45)じっさい、資本主義的生産は生産の一般的形態としての商品生産なのであるが、しかし、そうであるのは、そしてまたその発展につれてますますそうなるのは、ただ、ここでは労働がそれ自身商品として現われるからであり、労働者が労働を、すなわち自分の労働力の機能を売り、しかも、われわれが仮定するところでは、その再生産費によって規定される価値で売るからである。労働が賃労働になるその範囲で、生産者は産業資本家になる。それ故、資本主義的生産は(したがってまた商品生産も)、農村の直接生産者もまた賃金労働者になったときにはじめてその十分な広さで現われるのである。資本家と賃金労働者との関係では、貨幣関係が、買い手と売り手との関係が、生産そのものに内在する関係になる。しかし、この関係は、その基礎から見れば、生産の社会的性格に基づいているのであって、交易様式の社会的性格に基づいているのではない。逆に後者が前者から生ずるのである。とにかく、生産様式の性格のうちにそれに対応する交易様式の基礎を見るのではなく、それとは逆に見るということは、小商売のことで頭がいっぱいになっているブルジョア的な視野にふさわしいことである(7)。
(7) 以上第五稿。――以下、本章の終わりまでは、一八七七年または一八七八年の一冊の中で諸書の抜粋のあいだに見いだされる覚え書きである。

――――――――――

★以下の(46)~(60)で書かれていることは、第2部第3篇「社会的資本の再生産と流通」での課題である。

(46)資本家は、自分が流通から引き出すよりも少ない価値を貨幣の形で流通に投げ入れるのであるが、それは、自分が商品の形で流通から引き出したよりも多くの価値を商品の形で投げ入れるからである。彼がただ資本の人格化としてのみ、産業資本家としてのみ機能する限りでは、彼による商品価値の供給は常に商品価値に対する彼の需要よりも大きい。この点で彼の供給と需要とが一致するということは、彼の資本が増殖しないということに等しいであろう。彼の資本は生産資本として機能しなかったことになるであろう。生産資本は、剰余価値をはらんでいない商品資本に転化したことになるであろう。それは生産過程で労働力から商品の形で剰余価値を引き出さなかったことになり、したがっておよそ資本としては機能しなかったことになるであろう。実際、彼は「自分が買ったよりも高く売ら」なければならないのであるが、彼がこれに成功するのは、ただ、自分の買った、価値がより小さいために価格がより安い商品を、資本主義的生産過程の媒介によって、価値がより大きい、したがって価格がより高い商品に転化させたからに他ならない。彼がより高く売るのは、自分の商品の価値よりも高く売るからではなく、自分の商品の生産要素の価値総額よりも大きい価値のある商品を売るからである。
 
(47)資本家が自分の資本を価値増殖する率は、彼の供給と彼の需要との差が大きければ大きいほど、すなわち彼の供給する商品価値が彼の需要する商品価値を越える超過分が大きければ大きいほど、ますます大きい。彼の供給と需要との一致ではなく、可能な限りの不一致が、彼の供給が彼の需要を超過することが、彼の目的なのである。
 
(48)個々の資本家について言えることは、資本家階級についても言える。
 
(49)資本家がただ産業資本の人格化でしかない限りでは、彼自身の需要は生産手段と労働力とにたいする需要だけである。Pmに対する彼の需要は、その価値の点から見れば、彼の前貸資本よりも小さい。彼が買う生産手段の価値は彼の資本の価値よりも小さく、したがって彼が供給する商品資本の価値に比べればもっとずっと小さいのである。

(50)労働力に対する彼の需要について言えば、それは、その価値の点から見れば、彼の総資本に対する可変資本の割合、つまりv:Cによって規定されており、したがって資本主義的生産では、割合から見れば、生産手段に対する彼の需要よりもますます小さくなる。彼がAの買い手であるよりもより多くPmの買い手であるという度合いは、絶えず増大する。
 
(51)労働者が自分の賃金をほとんど全部生活手段に転換し、しかも最大部分を必要生活手段に転換する限りでは、労働力に対する資本家の需要は、間接には、同時に、労働者階級の消費に入って行く消費手段に対する需要でもある。ところが、この需要はvに等しく、決してそれよりも大きくはない。(もし労働者が自分の賃金の一部分を貯蓄するとすれば――われわれはここでは当然いっさいの信用関係を度外視する――、それは、彼が賃金の一部分を蓄蔵貨幣にしてその程度だけ需要者すなわち買い手としては現われないということを意味する。)資本家の需要の最大限はC=c+vであるが、彼の供給はc+v+mである。だから、もし彼の商品資本の構成が 80c+20v+20m であれば、彼の需要は 80c+20v であって、価値の点から見れば彼の供給よりも五分の一だけ小さい。彼が生産するmの量の百分率(利潤率)が大きければ大きいほど、彼の需要は彼の供給に比べてますます小さくなる。労働力に対する、したがって間接には必要生活手段に対する資本家の需要は、生産の進歩につれて、生産手段に対する彼の需要よりもますます小さくなるとはいえ、他方、忘れてならないのは、Pmに対する彼の需要は、毎日計算して見れば、いつでも彼の資本よりも小さいということである。つまり、生産手段に対する彼の需要は、同額の資本で同じ事情のもとで作業しながら彼にこの生産手段を供給する資本家の商品生産物よりも、常にその価値が小さくなければならない。このような資本家が大勢であって一人ではないということは、少しも事柄を変えるものではない。彼の資本は一〇〇〇ポンド・スターリングでその不変部分は八〇〇ポンド・スターリングだとしよう。そうすれば、資本家全体に対する彼の需要は八〇〇ポンドである。彼らは一〇〇〇ポンドについて(そのうちどれだけが彼らのうちの各個人のものであるか、また各人に属する量が彼の総資本のどれだけの部分をなすかにかかわりなく)、利潤率が等しければ、合計して一二〇〇ポンドという価値の生産手段を供給する。したがって、価値量から見れば、彼の需要は彼らの供給の三分の二にしかあたらないし、他方、彼自身の総需要は彼自身の供給の五分の四にしかならないのである。
 
(52)ついでにここで前もって回転の考察をしておかなければならない。彼の総資本は五〇〇〇ポンド・スターリングで、そのうち四〇〇〇は固定資本、一〇〇〇は流動資本だとしよう。前の仮定に従えば、この一〇〇〇は 800c+200v である。彼の総資本が一年に一回転するためには、彼の流動資本は一年に五回転しなければならない。そうすれば、彼の商品生産物は六〇〇〇ポンド・スターリングで、彼の前貸資本よりも一〇〇〇ポンド大きく、剰余価値の割合は前の場合と同じになる。
 
(53)すなわち、5000C:1000m=100(c+v):20mである。だから、この回転は彼の総供給に対する彼の総需要の割合を少しも変えるものではなく、総需要はやはり総供給よりも五分の一だけ小さい。
 
(54)彼の固定資本は一〇年で更新されるとしよう。そうすれば、彼は年々一〇分の一すなわち四〇〇ポンド・スターリングを償却して行くことになる。これによって、彼は固定資本では三六〇〇ポンドだけの価値をもっており、そのほかに貨幣で四〇〇ポンドの価値をもっている。修理が必要である限り、そしてそれが平均程度を越えない限り、それは彼が後から追加的に行なう資本投下に他ならない。われわれは事態を次のように見ることができる。すなわち、彼は年間の商品生産物に入ってくる限りでの彼の投下資本を評価するにあたって同時に修理費を算入しており、したがって修理費は一〇分の一の償却の中に含まれているのだ、と。(もし彼の必要とする修理が実際は平均より少ないとすれば、それは彼のもうけであり、同様に、もしそれが平均より多ければ彼の損である。しかし、これは同じ産業部門に従事する資本家の全体について見れば、平均される。)とにかく、彼の総資本の回転が年一回ならば、彼の年間需要は常に五〇〇〇ポンド・スターリングで、彼の最初の前貸資本価値に等しいのであるが、この需要は資本の流動部分に関しては増えて行き、他方、資本の固定部分に関しては絶えず減って行くのである。
 
(55)そこで、再生産の問題になる。資本家は剰余価値gを全部消費して最初の資本量Cだけを再び生産資本に転換するとしよう。いまでは資本家の需要は彼の供給と同じ価値である。しかし、彼の資本の運動についてはそうではない。資本家としては彼の自分の供給の五分の四(価値量から見て)しか需要しない。五分の一を彼は非資本家として消費するのであり、資本家としての彼の機能においてではなく、自分の個人的な必要または享楽のために消費するのである。
 
(56)そうすれば彼の計算は百分比ではこのようになる。
資本家として 需要=一〇〇 供給=一二〇
享楽家として 需要= 二〇 供給= ――
 合計 需要=一二〇 供給=一二〇
 
(57)この前提は、資本主義的生産が存在しないという、したがって産業資本家そのものが存在しないという前提と同じである。なぜならば、致富そのものがではなく享楽が推進的動機として働くという前提によっては、資本主義はすでにその基礎において廃止されているからである。
 
(58)しかし、この前提は技術的にも不可能である。資本家は、価格の変動に備えて、また売買のために最も有利な市況を待つことができるようにするために、準備資本を設けなければならないが、それだけではない。彼は、生産を拡大し技術的進歩を彼の生産有機体に合体させるために、資本を蓄積しなければならない。
 
(59)資本を蓄積するためには、彼はまず第一に、流通から彼の手に流れてきた貨幣形態にある剰余価値の一部分を流通から引き上げて、それを、旧来の事業の拡張のためかまたは付属事業の開始のために必要な大きさに達するまで、蓄蔵貨幣として増大させなければならない。貨幣蓄蔵が続くあいだは、それは資本家の需要を増加させない。貨幣は不動化されている。この貨幣は、供給された商品と引き換えに貨幣等価を商品市場から引きあげたか、この貨幣等価に代わる商品での等価を商品市場から引き上げないのである。
 
(60)信用はここでは考慮されない。そして、たとえば、貨幣がたまるにしたがってそれを資本家が銀行に当座勘定で利子付きで預金するとすれば、それは信用の問題なのである。
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by shihonron | 2011-06-14 23:00 | 学習会の報告
2011年 06月 07日

第225回 6月7日 第4章 循環過程の三つの図式

6月7日(火)に第225回の学習会を行いました。
「第4章 循環過程の三つの図式」の第18段落から第33段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下は検討した範囲のレジュメです。

    第4章 循環過程の三つの図式

(18)循環の定式を純粋に考察するためには、商品が価値通りに売られると想定するだけでは十分でなく、他の事情も変化することなしに価値通りの売買が行なわれると想定しなければならない。たとえば形態P・・Pをとり、その際、特定の一資本家の生産資本を減価させるかもしれない生産過程内の技術的革命は全て無視することにしよう。また、既存の商品資本の価値は、もしその在庫があれば、生産資本の価値要素の変動の反作用によって高くなったり低くなったりすることがありうるのであるが、このような反作用も全て無視することにしよう。W’である一万ポンドの糸は、その価値通りに五〇〇ポンド・スターリングで売れるものとし、八四四〇ポンドの糸=四二二ポンド・スターリングは、W’に含まれている資本価値を補填するものとしよう。しかし、綿花や石炭などの価値が高くなれば(ここでは単なる価格変動は問題にしないのだから)、おそらくこの四二二ポンド・スターリングは生産資本の諸要素を全部補填するには足りないであろう。追加貨幣資本が必要であり、貨幣資本は拘束される。かの綿花や石炭などの価格が下がれば、逆である。貨幣資本は遊離させられる。過程がまったく正常に進行するのは、価値関係が不変な場合だけである。実際には、循環が繰り返されるあいだに諸撹乱が相殺される限り、過程は進行する。撹乱が大きければ大きいほど、それらが相殺されるまで待つことができるためには、産業資本家はますます大きな貨幣資本をもっていなければならない。そして、資本主義的生産が進行するにつれて各個別生産過程の規模が拡大され、またそれにつれて前貸しされる資本の最小限が大きくなるのだから、前述の事情が他の諸事情に加わって、ますます産業資本家の機能を個々別々の、または結合された、巨大な貨幣資本家の独占に転化させるのである。
 
(19)ここでついでに注意しておきたいのは、もし生産要素の価値変動が生ずるならば、一方の形態G・・G’と他方の形態P・・PおよびW’・・W’とのあいだに一つの相違が現れるということである。

★マルクスは「ここでついでに注意しておきたい」と述べている。その範囲は(20)から(23)までであろう。
 
(20)まず貨幣資本として登場する新たに投下される資本の定式としてのG・・G’では、生産手段、たとえば原料や補助材料などの価値が下がれば、一定の規模の事業を始めるために必要な貨幣資本の投下額は、価値低下の前よりも少なくなるであろう。というのは、生産過程の規模は(生産力の発展が変わらなければ)、与えられた量の労働力で処理できる生産手段の量と規模とによって定まるのであって、この生産手段の価値によって定まるのでも労働力の価値によって定まるのでもないからである。(後者はただ価値増殖の大きさだけに影響する。)逆に、もし生産資本の諸要素になる諸商品の価値が上がれば、与えられた規模の事業を起こすためには前よりも多くの貨幣資本が必要である。どちらの場合にも、ただ新たに投下される貨幣資本の量が影響を受けるだけである。新たな個別産業資本の増加が、与えられた生産部門での通常の仕方で行なわれる限り、第一の場合には貨幣資本が過剰になり、第二の場合には貨幣資本が拘束される。
 
(21)循環P・・PとW’・・W’がそれ自身をG・・G’として表わすのは、ただ、PやW’の運動が同時に蓄積であり、したがって追加貨幣gが貨幣資本に転化される限りでのことである。このような場合を別とすれば、この二つの循環が生産資本の諸要素の価値変動から受ける影響は、G・・G’が受ける影響とは違っている。われわれは、ここでもまた、このような価値変動が生産過程にある資本成分に及ぼす反作用を無視する。ここでは、直接に影響を受けるのは、最初の投資ではない。それを受けるのは、すでに再生産過程に入っていてもはや最初の循環にあるのではない産業資本である。つまりW’・・W<A Pmであり、商品からなっている限りでの自分の生産要素への商品資本の再転換である。価値低下(または価格低下)では三つの場合が可能である。再生産過程が同じ規模で続行される場合には、これまでの貨幣資本の一部分が遊離させられて貨幣資本の積み立てが行なわれるが、しかし現実の蓄積(拡大された規模での生産)またはそれを準備しそれに伴うg(剰余価値)の蓄積財源への転化は行なわれない。あるいは、技術的に必要な釣合が許しさえすれば、再生産過程の規模が、他の場合に行なわれるであろう以上に拡大される。あるいはまた、原料などのいっそう大きな在庫形成が行なわれる。

★《現実の蓄積(拡大された規模での生産)またはそれを準備しそれに伴うg(剰余価値)の蓄積財源への転化は行なわれない》について、「現実の蓄積が行われない」ことは理解できるが、「(現実の蓄積)を準備しそれに伴うg(剰余価値)の蓄積財源への転化は行なわれない」とはどういうことなのか? 蓄積財源と貨幣資本の積み立てとでは区別があるのか? 
 
(22)商品資本と取り替えられる諸要素の価値が上がる場合は、反対である。この場合には、再生産はもはやその正常な規模では行なわれない。(たとえば作業時間が短縮される。)あるいはまた、再生産を元通りの規模で続けるために追加貨幣資本が入ってこなければならない。(貨幣資本の拘束。)あるいはまた、蓄積財源がすでにある場合には、その全部または一部分が、再生産過程の拡大にではなく、元のままの規模でのその経営に役立てられる。これもまた貨幣資本の拘束であるが、ただ、この場合には追加貨幣資本が外から、市場から、くるのではなくて、産業資本家自身の資力から出てくるだけのことである。
 
(23)しかし、P・・PとW’・・W’とでは、事態を変える事情が起こることがありうる。たとえば、もしわれわれの紡績業者が多量の綿花在庫を(つまり彼の生産資本の大きな部分を在庫綿花の形で)もっているとすれば、彼の生産資本の一部分は綿花の価格の低落によって価値を減らされる。反対に綿花の価格が上がれば、彼の生産資本のこの部分の価値上昇が起きる。他方、もし彼が商品資本の形で、たとえば綿糸で、大量を固定させているとすれば、綿花の下落に際しては彼の商品資本の一部分が、したがって一般に彼の循環中の資本の一部分が、価値を減らされる。綿花価格が上がれば、その反対である。最後に、過程W’―G―W<A Pmでは、もし、W’―Gすなわち商品資本の実現が、Wの諸要素の価値変動よりも前に行なわれたとすれば、資本は、ただ、第一の場合に考察した仕方で、すなわち第二の流通行為G―W<A Pmで、影響を受けるだけである。しかし、W’―Gが行なわれる前に価値変動が生じたとすれば、他の事情が変わらない限り、綿花価格の下落はそれに対応する綿糸価格の下落を引き起こし、また逆に綿花価格の上昇は綿糸価格の上昇を引き起こす。同じ生産部門に投ぜられた種々の個別資本への影響は、それらの資本が置かれてありうる事情の相違にしたがって、非常に違ったものでありうる。――同様に貨幣資本の遊離と拘束は、流通過程の時間の長さの相違、したがってまた流通速度の相違からも生ずることがありうる。とはいえ、これは回転の考察に属する。ここでわれわれが関心をもつのは、ただ、生産資本の諸要素の価値変動に関してG・・G’と循環過程の他の二つの形態とのあいだに現われる現実の相違だけである。

★生産資本となる諸要素の価値が変動した場合に、G・・G’では循環中の資本の一部の価値が変動することはないが、P・・PとW’・・W’とでは循環中の資本(生産資本あるいは商品資本)の一部の価値が変動する。
 
(24)資本主義的生産様式がすでに発展しており、したがって優勢になっている時代には、流通段階G―W<A PmではPmすなわち生産手段となる諸商品の一大部分はそれら自身が他人の機能中の商品資本であろう。だから、売り手の立場からは、W’―G’すなわち商品資本から貨幣資本への転化が行なわれるのである。しかし、これは無条件に言えることではない。逆である。産業資本が貨幣かまたは商品として機能している流通過程の中では、産業資本の循環は、貨幣資本としてのそれであろうと商品資本のそれであろうと、非常に様々な社会的生産様式――といっても同時に商品生産である限りでのそれ――の商品流通と交錯している。商品が奴隷性に基づく生産の生産物であろうと、あるいは農民(中国人、インドのライオット)の、あるいは共同体(オランダ領東インド)の、あるいは国営生産(ロシア史の古い時代に現われる農奴制に基づくそれのような)の、あるいは半開の狩猟民族などの生産物であろうと、それらは、産業資本を表わす貨幣または商品に対して商品または貨幣として相対するのであって、それらは産業資本の循環にも入れば、商品資本によって担われる剰余価値の循環にも、この剰余価値が収入として支出される限りでは、入っていくのである。つまり商品資本の二つの流通分岐の両方に入るのである。その商品が出てくる生産過程の性格はなんでもかまわないのである。それらは商品として市場で機能し、商品として産業資本の循環にも産業資本によって担われる剰余価値の流通にも入る。だから、産業資本の流通過程を特色づけるものは、諸商品の出生地の多方面的性格であり、世界市場としての市場の存在である。他国の商品について言えることは、他国の貨幣についても言える。商品資本は他国の貨幣に対してただ商品として機能し、この他国の貨幣はこの商品資本に対してただ貨幣として機能する。貨幣はここでは世界貨幣として機能するのである。
 
(25)しかし、ここで二つのことを注意しておかなければならない。
 
(26)第一に。諸商品(Pm)は、G―Pmという行為が済めば、商品ではなくなって、生産資本Pとしての機能形態にある産業資本の存在様式の一つになる。しかし、それと同時に商品の素姓は消えてしまっている。諸商品は、ただ産業資本の存在形態として存在するだけで、産業資本に合体されている。とはいえ、それらの補填にはそれらの再生産が必要だということには変わりはないのであって、その限りでは、資本主義的生産様式はその発展段階の外にある諸生産様式によって制約されているのである。しかし、資本主義的生産様式の傾向は、あらゆる生産をできる限り商品生産に変えることである。そのための主要手段は、まさに、あらゆる生産をこのように資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして、発展した商品生産こそは資本主義的商品生産なのである。産業資本の侵入はどこでもこの転化を促進するのであり、それとともにまたすべての直接生産者の賃金労働者への転化をも促進するのである。
 
(27)第二に。産業資本の流通過程に入る諸商品(可変資本が労働者に支払われてから労働力の再生産のために転換されてゆく必要生活手段もこれに属する)は、その出所、それが出てくる生産過程の社会的形態がなんであろうと、産業資本そのものに対しては、すでに商品資本の形態で、商品取引資本または商人資本の形態で、相対する。そして、この商人資本は、その性質上、あらゆる生産様式の商品を包括しているのである。

(28)資本主義的生産様式は生産の大規模を前提するので、また必然的に販売の大規模をも前提する。つまり、個々の消費者へのではなく、商人への販売を前提する。この消費者自身が生産的消費者であり、産業資本家である限りでは、つまり、ある生産部門の産業資本が他の部門に生産手段を供給する限りでは、一人の産業資本家から他の多くの産業資本家への直接販売も(注文などの形で)行なわれる。その限りでは、どの産業資本家も直接の販売者であり、彼自身が彼の商人である。あるいはまた商人に売るときにもやはりそうである。
 
(29)商人資本の機能としての商品取引は前提されており、それは資本主義的生産の発展につれてますます発展する。だから、われわれは、時には資本主義的流通過程の個々の側面を説明するために商品取引を想定することがある。しかし、この流通過程の一般的な分析に際しては、商人の介在しない直接販売を仮定する。なぜならば、商人の介在は運動の色々な継起を覆い隠すからである。
 
(30)このことをいくらか素朴に述べているシスモンディを見てみよう。
 「商業は多額の資本を使用するが、この資本は、一見したところでは、われわれがその運動を詳しく述べてきた資本の成分をなすものではないように見える。織物商人の倉庫に積んである織物の価値は、さしあたりは、年間生産物のうちの富者が貧者を働かせるために賃金として与える部分とは、なんの関係もないように見える。ところが、この資本は、われわれがこれまで述べてきた別の資本に代わったものでしかない。富の発展を明瞭に把握するために、われわれは富の創造を論じ、それが消費されるまでを追跡した。そのさい、たとえば織物製造に充用される資本は、いつでも同じものであるように見えた。消費者の収入との交換では、それはただ二つの部分に分かれただけである。一方の部分は収益となって工場主の収入として役立ち、他方の部分は賃金となって新たな織物を製造している労働者の収入として役だったのである。
 しかし、やがてわかったことは、この資本の色々な部分が互いに入れ替わるほうが、また、もし工場主と消費者とのあいだの全流通を行なうために一〇万エキューで足りるとすれば、この一〇万エキューが工場主と卸売商人とのあいだに均等に分配されるほうが、皆の利益のためにいっそうよい、ということである。工場主は、彼が全額で行なったのと同じ仕事をわずかに三分の一で行なうことになる。なぜならば、彼は、自分の製造が終わった瞬間に、以前に消費者を見いだしたよりもずっと早く商人を買い手として見いだすからである。卸売商人の資本も、ずっと早く小売商人の資本によって補填された。・・・・前貸しされた賃金額と最終消費者の購買価格との差額は、資本の利潤にならなければならなかった。この利潤は、工場主と卸売商人と小売商人とが互いに彼らの機能を区分するようになってからは、彼らのあいだに分配された。そして、なされた仕事は、一人の人間と一つの資本とに代わって三人の人間と三つの資本部分とを要したとはいえ、同じだった。」(『新経済学原理』、第一巻、一三九、一四〇ページ。〔菅間訳、上、一三八―一三九ページ。〕)――「皆が」(商人たちが)「間接に生産に参加した。なぜならば、生産は消費を目的としているのだから、生産物を消費者のあいだに送り込んでしまうまでは、生産が完了したとみなすことはできないからである。」(同前、一三七ページ。〔菅間訳、上、一三七ページ。〕)
 
(31)われわれは、循環の一般的形態を考察するにあたって、また一般にこの第二部の全体にわたって、貨幣を金属貨幣と考え、象徴貨幣、すなわち特定諸国の特殊性をなすにすぎない単なる価値章標や、まだ発展していない信用貨幣を除外する。第一に、これは歴史的な歩みである。信用貨幣は資本主義的生産の初期にはなんの役割も演じないか、またはただあまり重要でない役割を演ずるだけである。第二に、この歩みの必然性は次のことによって理論的にも立証されている。すなわち、これまでトゥックやその他の人々によってなされてきた信用貨幣の流通に関する批判的説明は、全て、単なる金属流通の基礎の上では事態がどのように現われるかということの考察に繰り返し立ち帰ることを彼らに強制したということがそれである。しかし、忘れてはならないのは、金属貨幣は購買手段としても支払手段としても機能することができるということである。簡単にするために、一般にこの第二部の中では貨幣はただ第一の機能形態だけにあるものとみなすことにする。
 
(32)産業資本の個別的循環過程のただ一部分をなすだけの産業資本の流通過程は、一般的な商品流通の中の一連の過程を表わすにすぎない限りでは、前に(第一部第三章)展開された一般的な諸法則によって規定されている。たとえば五〇〇ポンド・スターリングというような同じ貨幣量でも、貨幣の流通速度が大きければ大きいほど、つまり各個の資本がその商品変態または貨幣変態の列を通ることが速ければ速いほど、ますます多くの産業資本(または商品資本の形態にある個別資本)を次々に流通させて行く。したがって、貨幣が支払手段として機能することが多ければ多いほど、たとえば商品資本をその生産手段と取り替える際にただ差額だけを支払えばよいということが多ければ多いほど、また、たとえば労賃の支払では支払日と支払日との間隔が短ければ短いほど、資本の同じ価値量がその流通のために必要とする貨幣はますます少ないのである。他方、流通速度やその他の事情を全て不変と前提すれば、貨幣資本として流通しなければならない貨幣の量は、諸商品の価格総額(価格に商品量をかけたもの)によって規定されており、または、諸商品の量と価値とが与えられていれば、貨幣そのものの価値によって規定されている。
 
(33)しかし、一般的な商品流通の諸法則が妥当するのは、ただ資本の流通過程が一連の単純な流通事象をなしている限りでのことであって、これらの流通事象が個別産業資本の循環の機能的に規定された諸段階をなしている限りでは、妥当しないのである。
 
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by shihonron | 2011-06-07 23:00 | 学習会の報告