『資本論』を読む会の報告

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2011年 07月 19日

第231回 7月19日 第8章 固定資本と流動資本

7月19日(火)に第231回の学習会を行いました。
「第8章 固定資本と流動資本 第2節 固定資本の諸成分の補填・修理・蓄積」の第1段落から第34段落までについて報告を受け検討しました。
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by shihonron | 2011-07-19 23:00 | 学習会の報告
2011年 07月 12日

第230回 7月12日 第8章 固定資本と流動資本

7月12日(火)に第230回の学習会を行いました。
「第8章 固定資本と流動資本 第1節 形態上の相違」の第16段落から最後(第28段落)までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下は検討した範囲のレジュメです。


    第8章 固定資本と流動資本

    第1節 形態上の相違

(16)固定資本の独特な流通からは独特な回転が生ずる。固定資本がその現物形態の損耗によって失う価値部分は、生産物の価値部分として流通する。生産物はその流通によって商品から貨幣に転化する。したがってまた、労働手段の価値のうち生産物によって流通させられる部分も貨幣に転化し、しかもその価値は、この労働手段が生産過程での価値の担い手でなくなって行くのと同じ割合で、流通過程から貨幣になって滴り落ちてくる。だから、労働手段の価値は今では二重の存在をもつことになる。その一部分は、生産過程に属するその使用価値または現物形態に縛り付けられたままであり、もう一つの部分は貨幣となってこの形態から離れる。労働手段がその機能を果たして行くにつれて、その価値のうち現物形態で存在する部分は絶えず減って行くが、貨幣形態に転換される部分は絶えず増して行って、最後にこの労働手段がその生涯を終わってその全価値がその死体から離れて貨幣に転化してしまうことになる。この点に、生産資本のこの要素の回転の特徴が現われている。この要素の価値の貨幣への転化は、その価値の担い手である商品の貨幣蛹化と同じ歩調で進んで行く。しかし、貨幣形態から使用価値へのその再転化は、他の生産要素への商品の再転化からは分かれて、むしろそれ自身の再生産周期によって規定されている。すなわち、労働手段が消耗し尽くして同種の別の品に取り替えられなければならなくなるまでの時間によって規定されている。かりに一万ポンドという価値のある機械の機能期間がたとえば一〇年だとすれば、この機械のために最初に前貸しされた価値の回転期間は一〇年である。この期間がすぎるまではこの機械は更新される必要はなく、その現物形態で作用を続ける。その間にこの機械の価値は、引き続きこの機械で生産される商品の価値部分として少しずつ流通し、こうしてだんだん貨幣に転換して行き、最後に一〇年間の終わりにはその価値が全部貨幣に転化してさらに貨幣から機械に再転化し、こうしてその回転を済ませたことになる。この再生産期間が始まるまでは、機械の価値は、だんだんに、さし当たりは準備金の形で、蓄積されて行くのである。

(17)生産資本のうちの他の要素は、一部分は、補助材料や原料の形で存在する不変資本要素から成っており、一部分は、労働力に投ぜられた可変資本からなっている。
 
(18)労働過程と価値増殖過程との分析(第1部第5章)が明らかにしたように、これらの色々な部分は、生産物形成者および価値形成者として互いにまったく違った関係にある。不変資本のうち補助材料や原料から成っている部分の価値は――労働手段から成っている部分の価値とまったく同じに――ただ移転されただけの価値として生産物の価値に再現するが、労働力は労働過程によって自分の価値の等価を生産物につけ加える。言い換えれば、自分の価値を現実に再生産する。さらに、補助材料の一部分、燃料用石炭や燈用ガスなどは、素材として生産物に入ることなしに労働過程で消費されてしまうが、他の一部分は物体として生産物に入って生産物の実体の材料になる。とはいえ、すべてこのような相違は、流通にとっては、したがってまた回転の仕方にとっても、どうでもよいことである。補助材料や原料がその生産物の形成のために全部消費される限り、それらはその全価値を生産物に移す。したがってまたその価値の全体が生産物によって流通させられ、貨幣に転化し、また貨幣から商品の生産要素の再転化する。この価値の回転は、固定資本の回転のように中断されることなく、その諸形態の全循環を絶え間なく通り、したがって生産資本のこれらの要素は絶えず現物で更新される。

(19)生産資本のうち労働力に投ぜられる可変的な成分について言えば、労働力は一定の時間を限って買われる。資本家が労働力を買って生産過程に合体させてしまえば、それは彼の資本の一成分をなしており、しかもその可変的な成分をなしている。それは毎日ある時間働いて、そのあいだにただその日価値の全部を生産物につけ加えるだけではなく、さらにそれを越える剰余価値をもつけ加える。といっても、この剰余価値のほうはさし当たりは無視するのであるが。労働力が、たとえば一週間を限って、買われて働いた後には、その買い入れが慣習的な期限で絶えず更新されなければならない。連続的な生産の循環が中断されないようにするためには、労働力の機能中に生産物をつけ加えられて生産物の流通とともに貨幣に転化させられる労働力の価値の等価は、絶えず貨幣から労働力に再転化させられ、絶えずその諸形態の完全な循環を描かなければならない。すなわち回転しなければならない。
 
(20)こういうわけで、生産資本の価値のうち労働力に前貸しされた部分は、その全体が生産物に移り(ここでは引き続き剰余価値は無視する)、流通部面に属する二つの変態を生産物と一緒に通り、そしてこの不断の更新によって常に生産過程に合体されている。だから、その他の点では、すなわち価値形成に関しては、労働力と固定資本を形成しない不変資本成分とのあいだにどんな相違があろうとも、労働力の価値のこのような回転の仕方は、固定資本に対立して、労働力とこの不変資本成分とに共通なものである。生産資本のこれらの成分――生産資本価値のうち労働力に投ぜられた部分と固定資本を形成しない生産手段に投ぜられた部分と――は、このような、それらに共通な回転の性格によって、固定資本に対して流動資本として相対するのである。
 
(21)前にも見たように、労働力の使用の代価として資本家が労働者に支払う貨幣は、実際にはただ労働者の必要生活手段の一般的な等価形態でしかない。その限りでは、可変資本は素材的には生活手段からなっている。しかし、ここでは、回転の考察では、問題は形態である。資本家が買うものは、労働者の生活手段ではなく、労働者の労働力そのものである。彼の資本の可変部分をなすものは、労働者の生活手段ではなくて、労働者の活動しつつある労働力である。資本家が労働過程で生産的に消費するものは、労働力そのものであって、労働者の生活手段ではない。労働者自身が、自分の労働力の代価として受け取った貨幣を生活手段に換え、さらにそれを労働力に再転化させて自分の生活を維持するのであって、ちょうど、たとえば資本家が自分が貨幣と引き換えに売る商品の剰余価値の一部分を自分自身の生活手段に換えても、それだからといって、人々は、彼の商品の買い手が彼に生活手段で支払うのだ、とは言わないようなものである。労働者の賃金の一部分が労働者に生活手段で、現物で、支払われる場合でも、それは今日では第二の取引である。彼は自分の労働力を一定の価格で売るのであって、そのさい、彼はこの価格の一部分を生活手段で受け取るということが協定されるのである。このことは、ただ支払の形態を変えるだけで、彼の現実に売るものが彼の労働力だということを変えるものではない。それは第二の取引であって、この取引は、もはや労働者と資本家とのあいだでではなく、商品の買い手としての労働者と商品の売り手としての資本家とのあいだで行なわれるものである。ところが、第一の取引では労働者が商品(自分の労働力)の売り手で、資本家がその買い手なのである。第二の取引は、ちょうど、資本家が自分の商品を別の商品で、たとえば自分が製鉄所に売る機械を鉄で、支払ってもらうようなものである。だから、固定資本に対して流動資本という規定を与えられるものは、労働者の生活手段ではない。それは労働者の労働力でもない。そうではなくて、生産資本の価値のうち労働力に投ぜられた部分が、その回転の形態によって、不変資本部分のいくつかの成分と共通に、そして他の部分に対立して、この流動資本という性格を与えられるのである。
 
(22)流動資本――労働力および生産手段の形での――の価値が前貸しされているのは、ただ、固定資本の大きさによって与えられている生産の規模に応じて、生産物が完成される期間だけのことである。この価値は全部生産物に入ってしまい、したがって生産物の販売によって全部が再び流通から帰ってきて、またあらためて前貸しされることができる。資本の流動的成分がそのうちに存在している労働力と生産手段は、完成生産物の形成と販売とに必要な範囲で流通から引き上げられるが、しかし、それらは絶えず再購買によって、つまり貨幣形態から生産要素への再転化によって、補充され更新されなければならない。それらが一度に市場から引き上げられる量は固定資本の諸要素のそれに比べれば小さいが、しかしそれだけにいっそう頻繁に繰り返し市場から引き上げられなければならないのであって、それらに投ぜられる資本の前貸はより短い期間に更新されるのである。この不断の更新は、流動資本の諸要素の全価値を流通させる生産物の不断の売買によって媒介されている。最後にそれらの要素は、単にそれらの価値から見てだけではなく、それらの素材的な形態でも、絶えず諸変態の全循環を描いている。それらは絶えず商品から同じ商品の生産要素に再転化させられるのである。
 
(23)労働力は、それ自身の価値とともに、不払労働の具体化である剰余価値を絶えず生産物につけ加える。したがって、この剰余価値も、生産物の他の価値要素と同じに、絶えず完成生産物によって流通させられ、貨幣に転化させられる。しかし、ここでもさしあたり問題になるのは資本価値の回転であって、資本価値と同時に回転する剰余価値の回転ではないのだから、この後のほうの回転はしばらく問題にしないことにする。
 
(24)これまでのところからは、次のような結論が出てくる。
 
(25)(一) 固定資本と流動資本という形態規定は、ただ、生産過程で機能する資本価値、すなわち生産資本の回転の相違から生ずるだけである。この回転の相違はそれ自身また、生産資本の色々な成分が自分の価値を生産物に移す仕方の相違から生ずるのであって、それらの成分が生産物価値の生産に関与する仕方の相違または価値増殖過程でのそれらの特徴的な働き方から生ずるのではない。最後に、生産物に価値を引き渡す仕方の相違は――したがってまたこの価値が生産物によって流通させられ、生産物の諸変態によって自分の元来の現物形態で更新される仕方の相違も――生産資本がとっている色々な素材的な姿の相違、すなわちそれらの素材的な姿の一部分は個々の生産物の形成中に全部消費されるが他の部分はだんだん消費されて行くだけだという相違から生ずる。だから、ただ生産資本だけが固定資本と流動資本とに分かれることができるのである。これに反して、このような対立は、産業資本の他の二つの存在様式にとっては、つまり商品資本にとっても貨幣資本にとっても、存在しないのであり、また生産資本に対するこの両者の対立としても存在しないのである。それは、ただ生産資本にとって、そしてただ生産資本の中で、存在するだけである。貨幣資本や商品資本がどんなによく資本として機能し、どんなに流動的に流通しようとも、それらが固定資本に対して流動資本になることができるのは、それらが生産資本の流動的な成分に転化してからのことである。ところが、この貨幣資本と商品資本という二つの資本形態は流通部面をすみかとしているために、A・スミス以来の経済学は、われわれが後に見るように、これに迷わされてこの二つの資本形態を流動資本という範疇のもとで生産資本の流動部分とごちゃまぜにしてきたのである。実際、この二つの資本形態は、生産資本に対して流通資本ではあるが、しかし固定資本に対する流動資本ではないのである。

★流通資本について「第2部 第10章」の第10段落でマルクスは、次のように述べている。
 《ここでA・スミスが流動資本〔zirkulierendes Kapital〕として規定しているものは、私が流通資本〔Zirkulationskapital〕と呼ぼうとしているもの、すなわち、流通過程すなわち交換による形態変換(素材変換および持ち手変換)に属する形態にある資本であり、つまり、生産過程に属する資本形態すなわち生産資本の形態に対立する商品資本と貨幣資本である。》(原頁192)

(26)(二) 資本の固定的成分の回転は、したがってまたそれに必要な回転期間は、資本の流動的成分のいくつかの回転を包括している。固定資本が一回転する時間に、流動資本は何回も回転する。生産資本の一方の価値成分が固定資本という形態規定を受け取るのは、ただ、この価値成分を担っている生産手段が、生産物が完成されて商品として生産過程から突き出されるまでの時間のあいだに使い尽くされてしまわない限りでのことである。この資本成分の価値の一部分は、他の部分が完成生産物によって流通させられているときにも、元のままの使用形態に縛り付けられていなければならないが、これに反して、この完成生産物の流通は同時に資本の流動的成分の総価値を流通させるのである。
 
(27)(三) 生産資本の価値のうち固定資本に投ぜられた部分は、生産手段のうちで固定資本を成している部分が機能する全期間のために全部一度に前貸しされている。つまり、この価値は資本家によって一度に流通に投ぜられる。しかし、それは、固定資本が商品に少しずつつけ加えて行く価値部分の実現によって、ただ少しずつだんだんに再び流通から引き上げられて行くだけである。他方、生産資本の一つの成分がそれに固定される生産手段そのものは、一度に流通から引き上げられて、それが機能する全期間にわたって生産過程に合体されるのであるが、しかしこの期間中は同種の新品による補填を必要とせず、再生産を必要としない。それは、流通に投げ込まれる諸商品の形成のために長短の期間引き続き役立つのであるが、それ自身は自分の更新のための諸要素を流通から引き上げないのである。つまり、この期間中はそれ自身としても資本家の側からの前貸の更新を必要としないのである。最後に、固定資本に投ぜられた資本価値は、この価値を担っている生産手段の機能が続いているあいだに、その諸形態の循環を通る、といっても、素材的にではなく、ただその価値だけのことであり、しかもただ一部分ずつだんだんに通って行くだけである。すなわち、その価値の一部分は、絶えず商品の価値部分として流通させられて貨幣に転化して行くのであるが、貨幣から最初の現物形態に再転化することなしに、それを続けるのである。このような、生産手段の現物形態舳への貨幣の再転化は、生産手段がすっかり使い切られてしまうその機能期間の終末にはじめて行なわれるのである。
 
(28)(四) 流動資本の諸要素も固定資本の諸要素も同様にいつでも生産過程に――これが連続的であるためには――固定されている。だが、このように固定された流動資本の諸要素は、絶えず現物で更新される(生産手段は同種の新品によって、労働力は絶えず繰り返される買い入れによって)。ところが、固定資本の諸要素のほうは、それが使用に耐えるあいだは、それ自身が更新されることもないし、その買い入れが更新される必要もない。生産過程にはいつでも原料や補助材料があるが、しかし、いつでも、古いものが完成生産物の形成のために消費されてしまった後に同種の新品があるのである。労働力も同様に絶えず生産過程にあるが、しかしそれはただその買い入れが絶えず更新されることによってそこにあるのであり、しかも個々人は入れ替わることも多いのである。これに反して、建物や機械などは、流動資本の回転が何回も繰り返されるあいだ、繰り返し行なわれる同じ生産過程で同じものが引き続き機能しているのである。
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by shihonron | 2011-07-12 23:00 | 学習会の報告
2011年 07月 05日

第229回 7月5日 第7章 回転期間と回転数 第8章 固定資本と流動資本

7月5日(火)に第229回の学習会を行いました。
「第7章 回転期間と回転数」と「第8章 固定資本と流動資本 第1節 形態上の相違」の第1段落から第15段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。

    第7章 回転期間と回転数

(1)すでに見たように、与えられた一資本の総流通期間は、その資本の流通期間と生産期間との合計に等しい。それは、一定の形態で資本価値が前貸しされる瞬間から、過程を進行する資本価値が同じ形態で帰ってくるまでの期間である。

★ここで《一資本の総流通期間》とよばれているものは、第5章第1段落では《資本がその循環を描く総期間》とよばれていた。他の箇所では《総流通期間》に代えて《回転時間》としている。
 
(2)資本主義的生産の規定的な目的は、常に前貸価値の増殖であって、この価値が独立な形態すなわち貨幣形態で前貸しされようと、それが商品で前貸しされてその価値形態は前貸しされる商品の価格のうちにただ観念的な独立性をもつだけであろうと、それに変わりはないのである。どちらの場合にも、この資本価値はその循環中に色々な存在形態をとって行く。それの自分自身との同一性は、資本家の帳簿の中で、または計算貨幣の形で、確認されるのである。

★商品で前貸しされるのは、循環Ⅱ(P…P循環)である。後の第5段落では《素材的生産要素の姿》で前貸しされるという表現がされている。資本価値がとる《色々な存在形態》とは、貨幣資本、生産資本、商品資本という形態のこと。
 
(3)G・・G’という形態をとってみてもP・・Pという形態をとってみても、どちらの形態も、(一)前貸しされた価値が資本価値として機能して自分を増殖したということ、(二)この価値はその過程を描いた後には過程を開始したときの形態に帰っているということを含んでいる。前貸しされた価値Gの増殖と、同時にまたこの形態(貨幣形態)への資本の復帰とは、G・・G’では手にとるように明らかである。しかし、同じことは第二の形態でも行なわれる。なぜならば、Pという出発点は、生産要素の存在であり、与えられた価値の諸商品の存在だからである。この形態は、この価値の増殖を含んでおり(W’とG’)、また元の形態への復帰を含んでいる。なぜならば、第二のPでは、前貸しされた価値は、最初に前貸しされたときの生産要素という形態を再びとっているからである。

★ ・貨幣資本の循環の一般的定式
   G―W<A Pm…P…W’―G’

  ・生産資本の循環の一般的定式 (国民文庫148頁・原頁90)
   P…W’―G’・G―W<A Pm…P(P’)
 
(4)前にも見たように、「もし生産が資本主義的形態のものであれば、再生産もそうである。資本主義的生産様式では労働過程はただ価値増殖過程の一手段として現われるだけであるが、同様に再生産もただ前貸価値を資本として、すなわち自己増殖価値として再生産するための一手段として現われるだけである。」(第1部第21章、588ページ。)
 
(5)Ⅰ G・・G’、Ⅱ P・・P、 Ⅲ W’・・W’という三つの形態は、形態Ⅱ(P・・P)では過程の繰り返しすなわち再生産過程が現実的なものとして表わされているが、形態Ⅰではそれがただ可能性として表わされているだけだということによって、区別される。ところがまた、この両形態は、前貸しされた資本価値――貨幣としてであろうと素材的生産要素の姿でであろうと――が出発点となり、したがってまた復帰点にもなっているということによって、形態Ⅲから区別される。G・・G’では復帰点はG’=G+gである。過程が同じ規模で更新されるとすれば、Gが再び出発点になってgは過程に入らない。そして、gがわれわれに示しているのは、ただ、Gは資本として増殖され、したがって剰余価値gを生んだが、しかしそれを自分から突き放したということだけである。P・・Pという形態でも、生産要素Pの形態で前貸しされた資本価値がやはり出発点になっている。この形態はこの資本価値の増殖を含んでいる。単純再生産が行なわれるとすれば、同じ資本価値が同じ形態Pで再びその過程を開始する。蓄積が行なわれるとすれば、P’(これは価値量から見ればG’に等しくW’に等しい)が今度は増大した資本価値として過程を開始する。だが、この過程は、以前よりも大きい資本価値で始まるとはいえ、再び最初の形態にある前貸資本価値で始まる。これに反して、形態Ⅲでは資本価値は前貸資本価値として過程を開始するのではなく、すでに増殖された資本価値として、前貸資本価値がその一部分でしかない商品形態にある富の総体として、過程を開始する。この形態Ⅲは、個別資本の運動が社会的総資本の運動との関連の中で把握される第三篇にとって、重要である。ところが、それは資本の回転の考察には利用できないのであって、資本の回転は、常に、貨幣か商品かどちらかの形態にある資本価値の前貸で始まるのであり、また常に、循環する資本価値が前貸しされたときの形態で帰ってくることを条件とするのである。循環ⅠとⅡのうちでは、剰余価値形成への回転の影響がおもに注目される限りでは前者が固持されるべきであり、生産物形成への影響がおもに注目される限りでは後者が固持されるべきである。
 
(6)経済学者たちは様々な循環形態を区別しもしなかったし、それらを資本の回転に関連させて別々に考察しもしなかった。普通はG・・G’という形態が取り上げられるのであるが、そのわけは、この形態が個々の資本家を支配しているからであり、また、資本家の計算では、貨幣がただ計算貨幣の姿で出発点になるだけの場合にも、この形態が彼に役立つからである。また、他の経済学者たちは、生産要素の形態での支出から出発して還流が行なわれるまでを考察してはいるが、その場合にも商品なり貨幣なりでの還流の形態には少しも触れていない。たとえば次のように言っている。
 
 「経済循環・・・・すなわち、支出がなされるときから回収がなされるまでの生産の全経路。農業では播種期がその始まりで収穫がその終わりである。」(S・P・ニューマン『経済学綱要』、アンドーヴァおよびニューヨーク、八一ページ。)
 また他の人々はW’から始める(形態Ⅲ)。
 「生産交易の世界は、われわれが経済循環と呼ぼうとする一つの円形をなして回転しているものと見ることができる。そして、この循環は、事業が次々に幾つもの取引を経て再びその出発点に到達する毎に、一回転を終わったことになる。出発点としては、資本家の得た収入によって彼の資本が彼の手に還流してくる点をとることができる。彼はこの点から出発して再び彼の労働者たちを雇い入れ、彼らの生計の資を、またはむしろ生計の資を手に入れる力を、労賃として彼らに分け与え、自分が取引する品物を彼らに製造させ、それを市場に持ち出し、この市場で商品を売り、その売上げでこの期間の彼の全投資を回収することによって、この一連の運動の循環を終わらせるのである。」(T・チャーマズ『経済学について』、第二版、グラスゴー、一八三二年、八五ページ。)
 
(7)一人の個別資本家がある任意の生産部門で投じた総資本価値がその運動の循環を描き終われば、それは再び最初の形態に帰っていて、それからまた同じ過程を繰り返すことができる。この価値が資本価値として永久化され増殖されるためには、それはこの過程を繰り返さなければならない。この一回の循環は、資本の生涯の中で、ただ、絶えず繰り返される一節、すなわち一周期をなしているだけである。G・・G’という周期の終わりには資本は再び貨幣資本の形態に帰っていて、この貨幣資本は、資本の再生産過程または価値増殖過程を含む幾つもの形態転化の列をまた新たに通ることになる。P・・Pという周期の終わりには資本は再び生産要素の形態に帰っていて、これらの生産要素は資本の更新された循環の前提になる。資本の循環が個々別々な過程としてではなく周期的な過程として規定されるとき、それは資本の回転と呼ばれる。この回転の期間は、資本の生産期間と流通期間との合計によって与えられている。この総期間は資本の回転期間をなしている。したがって、それは、総資本価値の一循環周期と次の循環周期とのあいだの間隔を表わしている。それは、資本の生活過程における周期性を、または、そう言いたければ、同じ資本価値の増殖過程または生産過程の更新、反復の時間を表わしている。
 
(8)一つの個別資本のために回転期間を速めたり縮めたりするかも知れない個人的な冒険を別とすれば、諸資本の回転期間は、それらの投下部面が違うにしたがって違っている。
 一労働日が労働力の機能の自然的な度量単位になっているように、一年は過程を進行しつつある資本の回転の自然的な度量単位になっている。この度量単位の自然的基礎は、資本主義的生産の母国である温帯の最も重要な土地果実が一年毎の生産物だということにある。
 
(9)回転期間の度量単位としての一年をUとし、ある一定の資本の回転期間をuとし、その資本の回転数をnとすれば、n=U/uである。たとえば回転期間uが三カ月ならば、n=12/3=4である。この資本は、一年に四つの回転を行なう。または四回転する。uが一八カ月ならば、n=12/18=2/3であり、言い換えれば、この資本は一年にその回転期間の三分の二だけを終える。もし資本の回転期間が何年にもわたるならば、それは一年の倍数によって計算される。
 
(10)資本家にとっては、彼の資本の回転期間は、自分の資本を価値増殖して元の姿で回収するためにそれを前貸ししておかなければならない期間である。
 
(11)われわれは、生産過程や価値増殖過程への回転の影響をもっと詳しく研究する前に、流通過程から資本に付着していてその回転の形態に影響を与える二つの新たな形態を考察しなければならない。

★《流通過程から資本に付着していてその回転の形態に影響を与える二つの新たな形態》とは、固定資本と流動資本のことであり、それは第8章で取り扱われる。
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by shihonron | 2011-07-05 23:00 | 学習会の報告