『資本論』を読む会の報告

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2011年 09月 27日

第238回 9月27日 第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード

9月27日(火)に第238回の学習会を行いました。
「第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード」の第27段落から第36段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです

(27)このようなことは、リカードの価値論とも、事実上剰余価値論である彼の利潤論とも、まったく矛盾している。彼は一般に固定資本と流動資本との区別を、ただ、資本の大きさが同じでも事業部門が違えば固定資本と流動資本との割合が違っているということが価値法則に影響を及ぼす限りで、考察しているだけであり、しかも、この二つの結果としての労賃の暴落がどの程度まで物価に影響するかを考察しているだけである。しかし、彼は、このような局限された研究範囲の中でさえも、固定資本と流動資本を不変資本と可変資本と混同することによって、最大の誤りを犯しているのであって、実際、まったく間違った研究基礎から出発しているのである。すなわち、(一) 資本価値のうち労働力に投ぜられた部分が流動資本の部類に入れられる限りでは、流動資本そのものの規定が間違って展開され、ことに、労働に投ぜられた資本部分をこの部類に入れる事情が間違って展開される。(二) 労働に投ぜられた資本部分を可変資本とする規定と、それを固定資本に対立する流動資本とする規定との混同が生ずる。
 
(28)はじめから明らかなことであるが、労働力に投ぜられた資本を流動的だとする規定は第二次的な規定であって、この規定では生産過程でのこの資本の種差は消し去られているのである。なぜならば、この規定では、一方では、労働に投ぜられた資本と原料などに投ぜられた資本とが同等になっているからである。不変資本の一部分を可変資本と同一視する項目は、不変資本に対立する可変資本の種差とは関係がないのである。他方では、労働に投ぜられた資本部分と労働手段に投ぜられた資本部分とが互いに対置されるのではあるが、しかし、決して、この二つの資本部分がまったく違った仕方で価値生産に参加するということに関連してではなく、両方の資本部分からそれらの与えられた価値が生産物に移されるのであってただその時間が違っているだけだということに関してである。
 
(29)すべてこれらの場合には、商品の生産過程で労賃なり原料の価格なり労働手段の価格なりとして投ぜられる与えられた価値がどのようにして生産物に移されるのか、したがってまた、どのように生産物によって流通させられ、生産物の販売によってその出発点に帰されるか、すなわち補填されるか、が問題なのである。ここにある唯一の区別は、「どのようにして」であり、この価値の移転の、したがってまたその流通の、特殊な仕方である。

★本質的な問題は不変資本と可変資本の区別である。
 
(30)それぞれの場合にあらかじめ契約によって定められている労働力の価格が貨幣で支払われるか、それとも生活手段で支払われるかは、それが一定の与えられた価値だという性格を少しも変えるものではない。とはいえ、貨幣で支払われる労賃の場合には、生産手段の場合にその価値だけではなくその素材もまた生産過程に入るのとは違って、貨幣そのものが生産過程に入るのではないということは明らかである。ところが、労働者が自分の賃金で買う生活手段が、直接に流動資本の素材的な姿として原料などと一緒に一つの部類に入れられて、労働手段に対置されるならば、それは事態に別の外観を与えることになる。一方の物の価値、生産手段の価値が、労働過程で生産物に移されるとすれば、他方の物の価値、生活手段の価値は、それを消費する労働力の中に再現して労働力の活動によってやはり生産物に移される。すべてこれらの場合に一様に問題にされるのは、生産中に前貸しされた価値が生産物の中にただ再現するということである。(重農学派は本気にそう考えたので、工業労働が剰余価値を創造するということを否定したのである。)前にウェーランドから引用した箇所の中でもそうである。
 
「どんな形で資本が再現するかは、問題ではない。・・・・人間の生存や慰楽のために必要な各種の食糧や衣服や住居もまた変化させられる。それらは次から次へと消費され、そしてそれらの価値は・・・・再現する。」(『経済学綱要』、三一、三二ページ。)
 
(31)生産に生産手段の姿で前貸しされた資本価値も生活手段の姿で前貸しされた資本価値もここでは一様に生産物の価値の中に再現する。こうして、資本主義的生産過程の完全な神秘化は首尾よく成し遂げられて、生産物の中にある剰余価値の起源はすっかり隠されてしまうのである。
 
(32)さらにまた、こうして、社会的生産過程で諸物に刻印される社会的な経済的性格を、これらの物の素材的性質から生ずる自然的な性格に転化させるところの、ブルジョア経済学特有の呪物崇拝が完成されるのである。たとえば、労働手段は固定資本である――この、矛盾と混乱に導くスコラ学的規定。労働過程のところ(第一部第五章)では、対象的諸成分が労働手段として機能するか、労働材料として機能するか、それとも生産物として機能するかは、まったくただそれらが一定の労働過程で演ずるその都度の役割によって、それらの機能によって、定まるということが示されたが、――それとまったく同様に、労働手段が固定資本であるのは、ただ、生産過程が一般に資本主義的生産過程である場合、したがって生産手段が一般に資本であり、資本という経済的規定、資本という社会的性格をもっている場合だけである。また、第二に、労働手段が固定資本であるのは、ただ、それが自分の価値をある特殊な仕方で生産物に移す場合だけである。そうでない場合には、それはやはり労働手段ではあるが、固定資本ではない。同様に、たとえば肥料のような補助材料は、もしそれが労働手段の大部分と同じに特殊な仕方で価値を引き渡すならば、労働手段ではないにもかかわらず固定資本になる。ここでは、諸物がそのもとに包摂される定義が問題なのではない。問題は、特定の諸範疇で表現される特定の機能なのである。

★「第二に」は労働手段が生産資本ではなく商品資本である場合のことか?
 
(33)労賃に投ぜられた資本だということは、生活手段そのものにどんな事情のもとでも備わっている属性である、と言えるならば、「労働を維持する」to support labour{リカード『経済学原理』、二五ページ〔岩波文庫版、上、三三ページ〕}ということもまたこの「流動」資本の性格になる。そこで、もし生活手段が「資本」でないならば、それは労働力を維持しないということになるであろう。ところが、生活手段の資本性格は生活手段に、まさに、他人の労働によって資本を維持するという属性を与えるのである。
 
(34)もし生活手段それ自体が――資本が労賃に転化した後では――流動資本であるならば、さらに、労賃の大きさは与えられた流動資本量に対する労働者数の割合によって定まる――好んで用いられる経済学的命題――ということになるが、実際には、労働者が市場から引き上げる生活手段量と、資本家が自分の消費のために処分することのできる生活手段量とは、労働の価格に対する剰余価値の割合によって定まるのである。
 
(35)リカードは、バートン(29a)と同様に、どこでも不変資本に対する可変資本の割合を固定資本に対する流動資本の割合と混同している。それがどんなに利潤率に関する彼の研究を誤らせているかは、もっと後で見るであろう。
(29a) 『社会の労働者階級の状態に影響する諸事情の考察』、ロンドン、一八一七年。これに該当する箇所は第一部、六五五{誤り? 六六〇?}ページ、注七九に引用されている。

 
(36)リカードは、さらに、固定資本と流動資本との区別とは別の原因から生ずる回転上の区別を、固定資本と流動資本との区別と同一視している。
 「流動資本が流通する時間またはその使用者の手に返される時間は、非常に不等でありうるということも、注意しておかなければならない。農業者が播種のために買った小麦は、パン屋がパンにするために買った小麦に比べれば、固定資本である。前者はそれを地中に放置しておいて、一年間はそれを回収することができない。後者はそれを粉にひかせ、パンにして客に売ることができ、そして一週間のうちに自分の資本を自由にして、同じ仕事を繰り返すか、または何か他の仕事を始めることができる(30)。」
(30) リカード『経済学原理』、二六、二七ページ。〔岩波文庫版、上、三四ページ。〕
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by shihonron | 2011-09-27 23:30 | 学習会の報告
2011年 09月 20日

第237回 9月20日 第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード

9月20日(火)に第237回の学習会を行いました。
「第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード」の第20段落から第26段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。

(20)これに反して、流動資本という第二次的な、そして労働力に投ぜられた資本部分と不変資本の一部分(原料と補助材料)とに共通な規定が、――すなわち、流動資本に投ぜられた価値はこの資本の消費によって生産された生産物に全部移されてしまい、固定資本の場合のようにだんだん少しずつ移されて行くのではないということ、したがってまた生産物の販売によって全部補填されなければならないということが――、労働力に投ぜられた資本部分の本質的な規定とされるならば、労賃に投ぜられた資本部分も、素材的には、活動しつつある労働力から成っているのではなく、労働者が自分の賃金で買う素材的な要素から、つまり社会的商品資本のうち労働者の消費に入る部分から――生活手段から――成っているということに成らざるを得ない。そうすれば、固定資本は、より遅く消耗ししたがってより遅く補填される労働手段から成っており、労働力に投ぜられた資本は、より速く補填される生活手段から成っているということになる。
 
(21)とはいえ、消耗がより速いかより遅いかの限界は消えてしまう。
 「労働者が消費する食料や衣服、彼がその中で作業する建物、彼の労働を助ける道具、これらはすべて損耗する性質のものである。しかし、これらの種々の資本がもちこたえる時間には大きな差がある。蒸気機関は船よりも長持ちし、船は労働者の衣服よりも、さらに労働者の衣服は彼が消費する食糧よりも長持ちがする(27)。」
(27) リカード『経済学原理』、二六ページ。〔岩波文庫版、上、三三ページ。〕

 
(22)ここでリカードが忘れているのは、労働者の住むいえ、彼の家具、ナイフやフォークや容器などのような彼の消費用器具のことであり、これらのものはすべて労働手段と同じ耐久性をもっているということである。同じ物、同じ種類の物が、こちらでは消費手段として現われ、あちらでは労働手段として現われる。
 
(23)区別は、リカードの言うところでは、次のようである。
 「資本が急速に損耗するものであって、頻繁に再生産されなければならないか、それともゆっくり消費されるものであるかにしたがって、それは流動資本の項か固定資本の項かに分類される(28)。」
(28) 同前。〔岩波文庫版、上、三五ページ。〕

(24)彼はこれに次のような注をつけている。
 「これは本質的でない区分であって、そこでは正確に境界線を引くことはできない(29)。」
(29) 同前。〔岩波文庫版、上、三四ページ。〕

 
(25)こうして、われわれはどうやら再び重農学派のもとにたどりついた。すなわち、この学派では年前貸と原前貸との区別は、充用資本の消費期間における区別、したがってまたその色々な再生産期間における区別だったのである。ただ、重農学派では社会的生産にとって重要な現象を表わしていて経済表の中でも流通過程との関連の中で示されているものが、ここでは主観的な、そしてリカード自身が言っているところではよけいな、区別になるだけである。
 
(26)労働に投ぜられた資本部分が、ただその再生産周期、したがってまたその流通期間によってのみ、労働手段に投ぜられた資本部分と区別されるならば、すなわち、一方の部分は生活手段から成っており、他方の部分は労働手段から成っていて、前者はただ消耗がより速いということだけによって後者から区別され、しかも前者そのものがまたいろいろに違う消耗度をもっているとすれば、――もちろん、労働力に投ぜられた資本と生産手段に投ぜられた資本とのすべての種差は消えてなくなるのである。
 
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by shihonron | 2011-09-20 23:30 | 学習会の報告
2011年 09月 13日

第236回 9月13日 第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード

9月13日(火)に第236回の学習会を行いました。
「第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード」の第1段落から第19段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。


第2部 第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード

(1)リカードが固定資本と流動資本との区別を持ち出すのは、ただ、価値法則の例外、すなわち労賃の率が物価に影響を及ぼす場合を説明するためでしかない。これについては第三部に入ってから述べることにしよう。
 
(2)しかし、もとからの不明瞭さは、次のような無造作な並置のうちにはじめから現われている。
 「固定資本の耐久度のこのような相違、そして二つの資本種類が組み合わされて有り得る割合のこのような多種多様(25)。」
(25) リカード『経済学原理』、二五ページ。〔岩波文庫版、小泉訳『経済学及び課税の原理』、上、三三ページ。

★リカードは、固定資本の耐久度の相違と固定資本と流動資本の組み合わせの割合を「無造作に並置」している。
 
(3)そこで、二つの資本種類とは何かと問えば、次のような答えが聞かれる。
 「また、労働を維持するべき資本と、道具や機械や建物に投下されている資本とがいろいろに組み合わされて有り得る割合(26)。」
 
(4)つまり、固定資本は労働手段であり、流動資本は労働に投ぜられている資本なのである。労働を維持するべき資本、これがすでに、A・スミスから受け継がれたばかげた表現なのである。ここでは流動資本は一方では可変資本と混同される。しかしまた他方では、対立が価値増殖過程から――不変資本と可変資本として――取り出されないで、流通過程から取り出されている(古いスミス的混乱)ので、二重に間違った規定が出てくるのである。
(26) リカード『経済学原理』、二五ページ。〔岩波文庫版、上、三三ページ。〕

★「労働を維持するべき資本」がA・スミスから受け継がれたばかげた表現だというのは、労働に投ぜられている資本(可変資本=資本のうち、労働力に転化される部分)を労働者が消費する生活手段に投じられている資本と考えているからか?

 
(5)第一に、固定資本の耐久度の相違と、不変資本と可変資本とから成る資本構成の相違とが、同等なものと考えられている。しかし、後のほうの相違は剰余価値の生産における相違を規定する。これに反して、前のほうの相違は、価値増殖過程が考察される限りでは、ただ、ある与えられた価値が生産手段から生産物に移される仕方に関係があるだけであり、流通過程が考察される限りでは、ただ、投下資本の更新の周期に、または、別の見方からすれば、資本が前貸しされている期間に、関係があるだけである。もし資本主義的生産過程の内的な機構を見抜こうとはしないで、既成の現象の立場に立つならば、これらの区別は事実上一致する。色々な経営部門に投ぜられた諸資本のあいだへの社会的剰余価値の分配では、資本が前貸しされる色々な期間の相違(たとえば固定資本では寿命の相違)と、資本の有機的構成の相違(したがってまた不変資本と可変資本との流通の相違)とは、一般的利潤率の平均化や価値の生産価格への転化では両方とも一様に作用するのである。

★「既成の現象の立場」とは、資本としての貨幣は自己増殖するといったブルジョア的な観念のことか?
 
(6)第二に、流通過程の立場から見れば、一方の側には労働手段、すなわち固定資本があり、他方の側には労働材料と労賃、すなわち流動資本がある。これに反して、労働・価値増殖過程の立場から見れば、一方の側には生産手段(労働手段と労働材料)、すなわち不変資本があり、他方の側には労働力、すなわち可変資本がある。資本の有機的構成(第一部、第二三章、第二節、六四七ページ)にとっては、同じ価値量の不変資本が多くの労働手段と少ない労働材料とから成っているか、それとも多くの労働材料と少ない労働手段とから成っているかは、まったくどうでもよいことであって、いっさいは、生産手段に投ぜられた資本と労働力に投ぜられた資本との割合にかかっている。逆に、流通過程の立場、すなわち固定資本と流動資本との区別の立場から見れば、与えられた価値量の流動資本がどんな割合で労働材料と労賃とに分かれるかは、やはりどうでもよいことである。一方の立場から見れば、労働材料は労働手段と同じ範疇に属していて、労働力に投ぜられた資本価値に対立する。他方の立場から見れば、労働力に投ぜられた資本部分は、労働材料に投ぜられた資本部分と同じ部類に入って、労働手段に投ぜられた資本部分に対立する。

■《資本の構成は二重の意味に解されなければならない。価値の面から見れば、この構成は、資本が不変資本すなわち生産手段の価値と、可変資本すなわち労働力の価値、労賃の総額とに分割される比率によって規定される。生産過程で機能している素材の面から見れば、どの資本も生産手段と生きた労働力に分かれるのであり、この場合の資本の構成は、一方では充用される生産手段の総量と、他方ではその充用に必要な労働量との、比率によって規定される。私は、第一の資本の構成を資本の価値構成と名づけ、第二のそれを資本の技術的構成と名づける。この両者のあいだには緊密な相互関係がある。この関係を表現するために、私は、資本の技術的構成によって規定され技術的構成の変化を反映する限りでの資本の価値構成を、資本の有機的構成と名づける。単純に資本の構成と言う場合には、つねに資本の有機的構成と解すべきである。》 (国民文庫188頁・原頁640 第1部第23章第2段落)

★労働・価値増殖過程の立場からは不変資本(生産手段=労働手段と労働材料)と可変資本(労働力)の区別、流通過程の立場からは固定資本(労働手段)と流通資本(労働材料と労賃)の区別が問題になる。「労働・価値増殖過程」とは、労働過程と価値増殖過程との統一との資本主義的生産過程のこと。
 
(7)こういうわけで、リカードでは、資本価値のうち労働材料(原料と補助材料)に投ぜられた部分はどちらの側にも現われない。それはまったく姿を消している。すなわち、それは固定資本の側にふさわしくない。というのは、それは、その流通様式では、労働力に投ぜられた資本部分とまったく一致しているからである。他方、それはまた流動資本の側に置かれるわけにもゆかない。というのは、もしそうだとすれば、A・スミスから引き継がれて暗黙のうちに行きわたっているところの、固定資本対流動資本という対立と不変資本対可変資本という対立との同一視がそれ自身を廃棄するだろうからである。このことを関知しないでおくにはリカードはあまりにも論理的な感覚をもちすぎているので、そのために彼にとってはこの資本部分がまったく姿を消してしまうのである。
 
(8)ここで言っておきたいのは、資本家は労賃に投じた資本を色々な期限で、経済学の用語で言えば、前貸しするのであって、その期限は彼がこの賃金をたとえば毎週支払うか、毎月支払うか、三カ月毎に支払うかにしたがって違ってくるということについてである。実際は、事柄は逆なのである。労働者は、毎週支払を受けるか、それとも毎月か三カ月毎かにしたがって、自分の労働を資本家に一週とか一カ月とか三カ月とかのあいだ前貸ししておくのである。もしも資本家が労働力の代価を後で支払うのではなく労働力を買うのだとすれば、つまり、一日分とか一週間分とか三カ月分とかの労賃を労働者に前払いするのだとすれば、これらの期間の前貸と言ってもよいであろう。ところが、資本家は、労働が何日も何週も何ヵ月も続いた後で支払うのであって、労働を買って労働がこれから続くべき期間について支払をするのではないから、全ては資本家的な取り違えなのである。そして、労働者から資本家に労働で与えられる前貸が、資本家が貨幣で労働者に与える前貸に変えられてしまうのである。資本家が生産物そのものかまたはその価値を――その生産に必要ないろいろに違う期間またはその流通に必要ないろいろに違う期間に応じて――長短の期間を経てからはじめて(それに合体されている剰余価値と一緒に)流通から回収するかまたは実現するということは、少しも事柄を変えるものではない。ある商品の買い手がその商品で何をしようと、売り手にとってはまったくどうでもよいことである。資本家は機械の全価値を一度に前貸ししなければならないのにその価値は彼の手にだんだん少しずつ流通から還流してくるだけだからといって、彼がその機械をより安く手に入れるわけではない。また、綿花の価値はそれでつくられる生産物の価値の中に全部入ってしまい、したがって全部一度に生産物の販売によって補填されるからといって、彼は綿花により高く支払うわけでもない。
 
(9)リカードに帰ることにしよう。
 
(10)(一) 可変資本の特徴は、一定の、与えられた(つまりそのものとして不変な)資本部分、すなわち与えられた価値額(労働力の価値に等しいと仮定された価値額、といっても労賃が労働力の価値に等しいか、それよりも大きいか、小さいかは、ここではどうでもよいのだが)が、自分を増殖し価値を創造する力――資本家から支払われた自分の価値を再生産するだけではなく同時に剰余価値すなわち前から存在していたのではなくどんな等価によって買い取られたものでもない価値を生産する労働力――と交換されるということである。労賃に投ぜられる資本部分のこのような特徴的な属性は、この資本部分を可変資本として完全に不変資本から区別するのであるが、この属性も、労賃に投ぜられた資本部分がただ単に流通過程の立場から考察されて、労働手段に投ぜられた固定資本に対して流動資本として現われるならば、たちまち消えてしまうのである。このことはすでに次のことからも出てくる。すなわち、その場合にはこの資本部分が不変資本の一つの成分すなわち労働材料に投ぜられた成分と一緒に一つの部類――流動資本という部類――に入れられて、不変資本の他の成分すなわち労働手段に投ぜられた成分に対置されるということからも出てくる。その場合、剰余価値は、したがって投下される価値額を資本に転化させる事情そのものは、まったく無視される。同様に、次のことも無視される。すなわち、労賃に投ぜられた資本が生産物につけ加える価値部分は、新たに生産される(したがってまた現実に再生産される)のであるが、原料が生産物につけ加える価値部分は、新たに生産されるのではなく、現実に再生産されるのではなく、ただ生産物価値の中に維持され保存されるだけであり、したがって生産物の価値成分としてただ再現するだけだということも、無視される。その時流動資本と固定資本との対立の観点から現われる区別は、ただ次の点にあるだけである。商品の生産に充用される労働手段の価値は、ただ一部分ずつ商品の価値に入って行き、したがってその商品の販売によってやはりただ一部分ずつ補填されて行き、したがってまた一般にただ少しずつだんだんに補填されて行くだけである。他方、商品の生産に使用される労働力と労働対象(原料など)との価値は、全部その商品の中に入り、したがってその商品の販売によって全部補填される。その限りでは、流通過程に関しては資本の一方の部分は固定資本として現われ、他方の部分は流動資本として現われる。どちらの場合にも、問題は、与えられた前貸価値の生産物への移転であり、生産物の販売による前貸価値の再補填である。区別は、いまではただ、価値移転が、したがってまた価値補填が少しずつだんだん行なわれてゆくか、それとも一度に行なわれてしまうかという点にあるだけである。こうして、いっさいを決定する可変資本と不変資本との区別は消されてしまい、したがって、剰余価値の形成と資本主義的生産との全秘密、すなわちある一定の価値とそれを表わす物とを資本に転化させる事情は、消されてしまうのである。資本の全ての構成部分はもはやただ流通様式によって区別されるだけである。(そして、商品の流通は、もちろん、ただ既存の与えられた価値に関係があるだけである。)そして、労賃に投ぜられた資本と原料や半製品や補助材料に投ぜられた資本部分とには一つの特殊な流通様式が共通なのであって、これによって、労働手段に投ぜられた資本部分に対立するのである。
 
(11)以上によって、A・スミスがやった「不変資本と可変資本」という範疇と、「固定資本と流動資本」という範疇との混同を、なぜブルジョア経済学が本能的に固執し、一世紀にわたって代々無批判に口まねしてきたのか、がわかるであろう。ブルジョア経済学では、労賃に投ぜられた資本部分は、原料に投ぜられた資本部分からはもはや全然区別されないのであって、ただ単に形式的に――それが生産物によって少しずつ流通させられるか全部一緒に流通させられるかによって――不変資本から区別されるだけである。こうして、資本主義的生産の、したがってまた資本主義的搾取の、現実の運動を理解するための基礎は一挙にうずめられてしまうのである。ただ前貸価値の再現が問題にあるだけである。
 
(12)リカードでは、スミス的混同の無批判的な受け入れは、彼より後の、概念混同がむしろ非撹乱的なものになっている弁護論者たちの場合に比べてより撹乱的であるだけではなく、A・スミス自身の場合に比べてもより撹乱的になっている。というのは、リカードはスミスに比べてより徹底的に、より明確に価値と剰余価値とを展開しており、事実上、浅薄なA・スミスに対して深奥なA・スミスを固守しているからである。

■【撹乱】かき乱すこと。混乱が起きるようにすること。
★俗流経済学は、剰余価値の生産を覆い隠すことにおいては終始一貫している。リカードは弁護論者(俗流経済学者)たちに比べていっそう混乱しているということだろう。
 
(13)重農学派ではこのような混同は少しも見いだされない。年前貸〔avances annuelles〕と原前貸〔avances primitives〕との区別は、ただ資本、特に農業資本の色々な成分の再生産期間の相違だけに関するものである。他方、剰余価値の生産に関する彼の見解は、彼らの学説のうちでこのような区別にはかかわりのない部分をなしており、しかも、彼らが学説の眼目として指し示すものをなしている。剰余価値の形成が、資本そのものからは説明されないで、ただ、資本の一つの特定の生産部面である農業だけのものとして主張されるのである。

(14)(二) 可変資本の規定で――したがってまたある任意の価値額の資本への転化について――本質的なものは、資本家が一定の与えられた(そしてこの意味で不変な)価値量を、価値を創造する力と交換するということである。ある価値量を、価値生産と、価値の自己増殖と、交換するということである。資本家が労働者に貨幣で支払うか、生活手段で支払うかは、この本質的な規定を少しも変えるものではない。それは、ただ、資本家によって前貸しされる価値の存在様式を変えるだけで、この価値が一方の場合には貨幣という形で存在していてこの貨幣で労働者は自分自身のために市場で自分の生活手段を買うのであり、他方の場合にはこの価値が生活手段という形で存在していてそれを労働者は直接に消費するのである。発展した資本主義的生産は、実際には、労働者が貨幣で支払を受けることを前提するのであって、ちょうど、一般に資本主義が流通過程に媒介される生産過程を前提し、つまり貨幣経済を前提するのと同様である。しかし、剰余価値の創造――したがって前貸価値額の資本化――は、労賃すなわち労働力の買い入れに投ぜられた資本の貨幣形態からも現物形態からも生じない。それは、価値と価値創造力との交換から、不変量の可変量への転換から、生ずるのである。――
 
(15)労働手段の固定性の大小は、その耐久度によって、つまり一つの物理的な属性によって、定まる。他の事情を不変とすれば、労働手段は、その耐久度に応じて、あるいはより速くあるいはより遅く消耗し、したがってあるいはより長くあるいはより短く固定資本として機能するであろう。しかし、労働手段が固定資本として機能するのは、決してただ単にこの耐久性という物理的な属性だけによるのではない。金属工場で用いられる原料は、製造に用いられる機械と同様に耐久的であり、また、この機械のいくつかの構成部分、かわや木などに比べればそれら以上に耐久的である。それにもかかわらず、原料として役だっている金属は流動資本の一部分をなしているのであり、また、おそらくは同じ金属でつくられている機能しつつある労働手段は固定資本の一部分をなしているのである。だから、同じ金属が一方の場合には固定資本の部類に入れられ、他方の場合には流動資本の部類に入れられるのは、素材的な物理的な性質のせいでもないし、その損耗性の大小によるのでもないのである。この区別は、むしろ、その金属が生産過程で一方の場合には労働対象として演じ他方の場合には労働手段として演ずる役割から生ずるのである。
 
(16)労働手段が生産過程で行なう機能は、平均的に見れば、繰り返し行なわれる労働過程で労働手段が長短の期間にわたって絶えず繰り返し役立つことを必要とする。それ故、労働手段の機能によって、その素材の大なり小なりの耐久性が予定されているわけである。しかし、労働手段がつくられる素材の耐久性が労働手段をそれ自体として固定資本にするのではない。同じ素材でも、原料としては流動資本になる。そして、商品資本と生産資本との区別を流動資本と固定資本との区別と混同している経済学者たちでは同じ素材、同じ機械が、生産物としては流動資本であり、労働手段としては固定資本なのである。
 
(17)ところで、労働手段がつくられている耐久的な素材がその労働手段を固定資本にするのではないとはいえ、それが労働手段として演ずる役割は、それが比較的耐久的な材料から成っていることを必要とする。つまり、労働手段の素材の耐久性は、労働手段としてのその機能の一条件なのであり、したがってまた、労働手段を固定資本にする流通様式の物質的基礎なのである。他の事情を不変とすれば、労働手段の素材の損耗性の大小は、労働手段に押印される固定性を低くまたは高くするのであり、したがって労働手段の固定資本としての資格と非常に根本的に合生しているのである。
 
(18)ところで、労働力に投ぜられた資本部分がただ流動資本の観点だけから、つまり固定資本に対立するものとして、考察されるならば、したがってまた、不変資本と可変資本との区別が固定資本と流動資本との区別と混同されるならば、ちょうど労働手段の素材的実在が固定資本としての性格の本質的な基礎をなしているように、今度は、それに対立するものとして、労働力に投ぜられた資本の素材的実在から流動資本としての性格を導き出し、それからまた可変資本の素材的実在によって流動資本を規定するということは、当然のことである。
 
(19)労賃に投ぜられた資本の現実の素材は労働そのものであり、活動している、価値を創造する労働力であり、生きている労働であって、これを資本家は死んでいる対象化された労働と交換して自分の資本に合体したのであり、そうすることによって、はじめて、彼の手にある価値は自分自身を増殖する価値に転化するのである。だが、資本家はこの自己増殖力を売るのではない。それは常にただ彼の生産資本の成分をなしているだけであって、ちょうど彼の労働手段がそうであるのと同様であり、決して、たとえば彼の売る完成生産物のように彼の商品資本の成分をなしているのではない。生産過程の中では、生産資本の成分としては、労働手段は労働力に固定資本として対立するのではない。この両方に対して労働力は人的要因として対立するのであって、他のものは物的要因なのである――これは労働過程の立場から見てのことである。両方とも労働力すなわち可変資本に対して不変資本として対立するのである――これは価値増殖過程の立場から見てのことである。または、ここでは流通過程に影響する限りでの素材的な相違を問題にするべきであるならば、ただ次のように言えるだけである。対象化された労働でしかない価値の性質からは、また、自分を対象化しつつある労働でしかない活動しつつある労働力の性質からは、労働力はその機能が続いているあいだ絶えず価値を創造し剰余価値を創造するということになる。そして、労働力の側で運動として現われ、価値創造として現われるものが、その生産物の側では静止した形態で現われ、創造された価値として現われる、ということになる。労働力が働いてしまえば、資本はもはや一方における労働力、他方における生産手段から成っているのではない。労働力に投ぜられた資本化は、いまでは(剰余価値と一緒に)生産物につけ加えられた価値である。過程を繰り返すためには、生産物を売って、その代金で絶えずあらためて労働力を買って生産資本に合体しなければならない。そこで、このことが、労働力に投ぜられた資本部分に、ちょうど労働材料などに投ぜられた資本部分にと同様に、労働手段に固定されたままの資本に対立して流動資本という性格を与えるのである。

■《労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段である。》(国民文庫313頁・原頁193)
《全過程を、その結果である生産物の立場から考察すれば、労働手段と労働対象の両者は生産手段として、労働そのものは生産的労働として現われる。》(国民文庫317頁・原頁196)
《労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である・・労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程、商品生産の資本主義的形態である。》(国民文庫344頁・原頁211)
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by shihonron | 2011-09-13 23:30 | 学習会の報告
2011年 09月 06日

第235回 9月6日 第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス

9月6日(火)に第235回の学習会を行いました。
「第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス」の第56段落から最後(第81段落)までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。


56直接的自家需要に向けられていない生産では生産物は商品として流通しなければならない。利潤 をあげるためにではなく,生産者が暮らして行けるようにするため。資本主義的生産の場合にこ れに加わるのは,商品が売れれば商品に含まれている剰余価値も実現されるということ。

57スミスはここでは自分の言ったことを否定する。生産物は,ここではすべて商品資本であり,つま り流通過程に属する形態にある資本である。それが売られればその買い手の手の中で生産資本の 流動的成分なり固定的成分なりに成る。ここで明らかなように,ある時には生産資本に対立する 商品資本として市場に現れれるその同じ物が,ひとたび市場から引きあげられれば,生産資本の流 動的成分または固定的成分として機能することも機能しないことも有り得るのである。

58綿糸紡績業者の生産物(綿糸)は彼の資本の商品形態であり,商品資本である。それはもはや彼 の生産資本の成分として機能することはできない。労働材料としても労働手段としても機能する ことはできない。しかし,それを買う織物業者の手の中では,それは彼の生産資本にその流動的成 分の一つとして合体される。しかし,紡績業者にとっては,綿糸は彼の固定資本と流動資本と両方 の一部分の価値の担い手である(剰余価値は別として) 。
・同様に,機械は,機械製造業者の生産物としては,彼の資本の商品形態であり,彼にとっては商品資 本である。そして,この形態に留まる限り,それは流動資本でも固定資本でもない。それを使用す る製造業者に売られれば,それは生産資本の固定的成分になる。
・生産物の一部分がそれの出てきた過程に再び生産手段として入ることができる場合,たとえば石 炭が石炭生産に入るような場合にも,石炭生産物中の販売に向けられた部分そのものが表わして いるのは,流動資本でも固定資本でもなくて,商品資本なのである。

59生産物が,その使用形態から見て,労働材料としてであろうと労働手段としてであろうと生産資本 の要素をなすことは決してできないという場合も有り得る。たとえば,生活手段。それにもかか わらず,それはその生産者にとっては商品資本であり,固定資本と流動資本と両方の価値の担い手 である。その資本が自分の価値を全部生産物に移しているかそれとも部分的に移しているかにし たがって,この生産物は,あるいは流動資本の,あるいは固定資本の,価値の担い手になる。

60スミスの場合,第三項では材料(原料,半製品,補助材料) が,一方では,すでに生産資本に合体さ れた構成成分としては現われないで,事実上ただ,社会的生産物一般を構成する諸使用価値の特殊 な種類(第二項や第四項で数え上げられている他の素材的成分すなわち生活手段などと並ぶ商品 群中の特殊な種類)として,現われるにすぎない。
・他方では,材料は,確かに,生産資本に合体されているものとして,したがってまた生産者の手の中 にある生産資本の要素として,あげられている。
・混乱が現われるのは,材料が一方では生産者の手の中で(栽培業者や製造業者などの手の中で)  機能するものとして考えられており,他方では,商人の手の中で,すなわち材料が単なる商品資本 であって生産資本の成分ではないところの商人(絹織物商や反物商や材木商) の手の中で機能す るものとして考えられていると言う点である。

61事実上,A・スミスは,ここで流動資本の諸要素を数え上げるときには,ただ生産資本だけにあて はまる固定資本と流動資本との区別をすっかり忘れている。彼は,むしろ,商品資本と貨幣資本, すなわち流通過程に属する二つの資本形態を,生産資本に対立させているのであるが,しかしそれ もただ無意識にやっているだけ。

62A・スミスが流動資本の成分を数えるときに労働力を忘れている。二重の理由から。

63いま見てきたところでは,貨幣資本を別とすれば,流動資本とは商品資本の別名。ところが,労働 力が市場で流通している限り,それは商品資本の形態ではない。それは資本ではない。労働者は 資本家ではない。労働力が売られて生産過程に合体されたときに----つまり商品として流通する ことを止めてから,はじめて生産資本の成分になる。すなわち,剰余価値の源泉として可変資本に なり,労働力に投下された資本価値の回転に関しては生産資本の流動的成分になる。
・スミスは,ここでは流動資本を商品資本と混同しているので,労働力を彼の言う流動資本の項に入 れることができない。だから,可変資本は,ここでは,労働者が自分の賃金で買う商品の形態すな わち生活手段という形態で現われる。この形態では労賃に投下される資本価値は流動資本に属す るというわけである。生産過程に合体されるものは,労働力であり,労働者自身であって,労働者 が生きて行くための生活手段ではない。すでに見たように(第一部第二一章) ,社会的に見れば, 労働者の個人的消費による労働者そのものの再生産も社会的資本の再生産過程に属する。
・しかし,このことは,われわれがここで考察しているような,個々の,それ自身で完結する生産過程 にはあてはまらない。スミスが固定資本の部類にあげている「修得された有用な諸能力」は,そ れが賃金労働者の諸能力であって賃金労働者が自分の労働をその諸能力と一緒に売ったならば, 反対に流動資本の成分をなすのである。

64スミスが社会的富の全体を,(一) 直接的消費財源,(二) 固定資本,(三) 流動資本に分類して いるのは,彼の大きな誤り。これによれば,富は次のように分けられるであろう。(一) 消費財源。 これは,そのある部分はいつでも資本として機能することができるとはいえ,機能しつつある社会 的資本のどんな部分をもなしてはいない。(二) 資本。この分類によれば,富の一部分は資本と して機能し,他の部分は非資本または消費財源として機能する。そして,ここでは,固定的か流動 的のどちらかであるということが,どの資本にとっても避けられない必然として現われる。
・しかし,固定的と流動的との対立はただ生産資本の諸要素だけに適用できる。その他にも,固定的 でも流動的でもない形態にある非常にたくさんの資本(商品資本や貨幣資本)がある。

65生産物のうちで,直接に現物形態で再び生産手段として消費される部分を別とすれば,社会的生産 物の全量が(資本主義的基礎の上では)商品資本として市場で流通するのだから,商品資本価値 からは,生産資本の固定的要素・流動的要素・消費財源のすべての要素も引き出されるというこ とは,明らか。このことが事実上意味するところは,資本主義的生産の基礎の上では生産手段も消 費手段も,さしあたりはまず商品資本として現れるということ。同様に労働力も,たとえ商品資本 としてではなくても,商品として市場で見いだされる。

66そのために,A・スミスでは次のような新しい混乱が現われる。「これら四つの部分」(商品資 本と貨幣資本という流通過程に属する形態にある資本の,四つの部分のことであって,二つの部分 が四つになるのは,スミスが商品資本の諸成分をさらに素材的に区別しているから) 「のうちの 三つ(食料と諸材料と完成品)は,年々かまたはもっと長いかもっと短い期間に原則的に流動資 本から取り去られて,固定資本かまたは直接的消費のための在庫かに繰り入れられる。どの固定 資本も最初は流動資本から出てきたものであり,絶えず流動資本によって維持されなければなら ない。すべての有用な機械や工具は,最初は,それらをつくるための材料とそれらをつくる労働者 の生活手段とを供給する流動資本から出ているのである。それらはまた,いつでもよく手入れを しておくためにも,同種の資本を必要とする。」

67生産物のうちで直接にその生産者によって再び生産手段として消費される部分は別問題として, 資本主義的生産では次のような一般的な命題が妥当する。すべての生産物は商品として市場にや ってくるのであり,資本家にとっては自分の資本の商品形態(商品資本)として流通するのであ って,これらの生産物が,その使用価値から見て,生産資本の(生産過程の) 要素として,生産手段 として,したがって生産資本の固定的または流動的な要素として機能するか,それとも,ただ個人 的消費の手段として役立つことができるだけかということは,問題ではない。すべての生産物は 商品として市場に投げ込まれる。また,商品として買われることによって再び市場から引きあげ られなければならない。それは生産資本の固定的要素にも,流動的要素にも,あらゆる形態の労働 手段にも労働材料にも,あてはまる(そのほかにも,生産資本の要素のうちには天然に存在してい て生産物ではないものもある)。 機械も市場で買われるという点では,綿花と同じ。だからとい って,どの固定資本も最初は流動資本から出ているということには決してならない。----こんな ことは,ただ,流通資本と流動資本すなわち非固定資本のスミス的混同から出てくるだけである。
・おまけにスミスは自分の言ったことを自分で取り消す。機械は商品としては,流動資本の第四項 の部分をなしている。しかしスミスは,機械をつくるには労働や原料が必要だという理由で固定 資本を流動資本から導き出すのであるが,この場合,第一に,機械をつくるにはさらに労働手段,つ まり固定資本も必要なのであり,また第二に,原料をつくるにもやはり機械やその他の固定資本が 必要なのである。というのは,生産資本は常に労働手段を含んでいるが,必ずしも労働材料を含ん でいるとは限らないから。彼自身もすぐ続けて言っている。「土地や鉱山や漁場はすべてそれを 開発するために固定資本と流動資本との両方を必要とする。」

68(つまり,彼は,原料の生産には流動資本だけでなく固定資本も必要だということを認めている)
「そして」(ここで新しい間違いがでてくる) 「そこから生まれる生産物は,単にこれらの資本だけではなく社会にあるすべての他の資本をも,利潤をつけて補塡する。」

69これは,まったく間違い。それらの生産物はすべての他の産業部門のために原料や補助材料など を供給する。しかし,それらの生産物の価値はすべての他の社会的資本の価値を補塡しはしない。 この価値はそれら自身の資本価値(プラス剰余価値) を補塡するだけである。

70商品資本のうちで,ただ労働手段としてしか役立たないような生産物から成っている部分は,早か れ遅かれ資本主義的生産の基礎の上では,社会的生産資本の固定的部分の前もって予測できるよ うな現実の要素をなさなければならないということは,社会的に見れば正しい。

71ここで生産物の現物形態から生ずる一つの区別が現われる。

72たとえば紡績機械は,もし紡績に使用されないならば,つまり生産要素として,したがって資本家 的立場からは生産資本の固定的成分として,機能しないならば,何の使用価値も持たない。しかし, それが生産された国から輸出されることがある。そういう場合には,それが生産された国では,商 品資本として機能しただけで,売られてからも,決して固定資本としては機能しない。

73これに反して,土地に合体され,その場所でしか消費され得ない生産物,たとえば工場の建物,鉄道, 橋,トンネル,ドック,土地改良,等々は,物体として輸出できない。それらは無駄になるか,それと も,売られたならば,生産された国で固定資本として機能しなければならないか,どちらかである。
・思惑で工場を建てたり土地を改良したりして売ろうとする資本家的生産者にとっては,これらの 物は彼の商品資本の形態であり,したがってA・スミスによれば流動資本の形態である。しかし, 社会的に見れば,これらの物は結局はその国内でそれら自身の所在地によって固定された生産過 程で固定資本として機能するより他はない。
・だからといって,移動させられないものは無条件に固定資本だということにはならない。これら の物は,住宅などとしては消費財源に属し,決して社会的資本には属しないということも有り得る。 これらの物の生産者は,スミス流に言えば,それらを売ることによって利潤をあげる。だから流動 資本なのだ! これらの物の利用者,その最終の買い手は,ただそれらを生産過程で使用すること によってのみ,それらを利用することができる。だから固定資本なのだ!

74所有権,たとえば鉄道のそれは,毎日でもその持ち手を取り替えることができ,その所有者はこの 権利を外国で売ることによってさえ,利潤をあげることができる。しかし,これらの物は,それら の所在地である国の中では,遊休するか,生産資本の固定的成分として機能するかしなければなら ない。同様に,工場主Aは自分の工場を工場主Bに売ることによって利潤を得ることができるが, その工場が相変わらず固定資本として機能することを少しも妨げない。

75場所的に固定されていて土地から分離できない労働手段は,その生産者にとっては商品資本とし て機能しうるもので彼の固定資本の要素をなすものではないが,それにもかかわらず当然その国 内で固定資本として機能するより他はないということが予想されるとしても,逆に,固定資本は必 ず非可動物から成っているということにはならない。船や機関車は,ただその運動によってのみ 作用する。それでも,これらの物は,その使用者にとっては固定資本として機能する。
・他方,生産過程に固定されていて,一度そこに入ったからには二度とそこを去らないような物のう ちにも,生産資本の流動的成分をなすものがある。たとえば,機械の運転のための石炭,照明のた めのガスなど。これらの物が流動的であるのは,それらの価値が生産される商品の価値の中に入 り,したがってまた商品の販売によって全部補塡されなければならないからである。

76次の文句に注意する必要がある。
 「それら」(機械など) 「をつくる労働者の生活手段を供給する流動資本」。

77重農学派では,労賃として前貸しされる資本部分は,正しく,原前貸に対する年前貸の中に入れら れている。他方,重農学派では,借地農業者の充用する生産資本の成分として現われるものは,労 働力そのものではなく,農業労働者に与えられる生活手段である。これは彼らの独自な学説と関 連している。彼らにあっては,労働が生産物につけ加える価値部分は(原料や作業用具など,不変 資本の素材的成分が生産物につけ加える価値部分と同様に) ,労働者たちに支払われて労働力と しての彼らの機能を維持するために必ず消費されなければならない生活手段の価値に等しいだけ である。不変資本と可変資本との区別を発見することは,彼らには彼らの学説そのものによって 不可能にされている。労働は剰余価値を生産する(労働そのものの価格の再生産の他に) とすれ ば,それは工業でも農業でと同じに剰余価値を生産する。しかし,この学説によれば,ただ一方の 生産部門,農業だけで労働は剰余価値を生産するのだから,剰余価値は,労働から生ずるのではな く,この部門での自然の特殊な働き(助力) から生ずるということになる。それだけの理由から, 彼らにとっては農業労働が,他の種類の労働とは違って,生産的労働だということになる。

78A・スミスは労働者の生活手段を固定資本に対立する流動資本として規定するのであるが,それ は,
(一) 彼が固定資本に対立する流動資本を,流通部面に属する資本の諸形態すなわち流通資本と混 同しているからである。この混同は,彼以後も無批判に受け継がれてきた。彼は商品資本を生産 資本の流動的構成分と混同するのである。社会的生産物が商品という形態をとるところでは,労 働者の生活手段も非労働者の生活手段も,諸材料も労働手段そのものも,商品資本のうちから供給 されなければならないということは,自明のこと。
(二) スミスには重農学派の見解も紛れ込んでいる。かれ自身の展開の深奥な(真に科学的な)部 分とは矛盾しているのであるが。

79前貸しされた資本は一般に生産資本に転換される。これらの生産要素はそれ自体また以前の労働 の生産物である(生産要素のうちには労働力も含まれる) 。この生産要素という形態でのみ,前 貸資本は生産過程の中で機能することができる。
・もし資本の可変部分が転換されたものである労働力そのもののかわりに,労働者の生活手段を持 ってくるならば,この生活手段そのものが価値形成に関しては生産資本の他の諸要素(原料や役 畜の生活手段)からも区別されないことは明らかであり,それだから,スミスは重農学派にならっ て,役畜の生活手段と労働者の生活手段とを同列に置いている。
・生活手段は自分の価値に剰余価値つけ加えることはできない。生活手段の価値は,生産資本の他 の諸要素の価値と同様に,ただ生産物の価値の中に再現する。生活手段は,原料や半製品などと同 様に,ただ次のことによってのみ労働手段から成っている固定資本から区別される。すなわち,生 活手段は生産物の生産のためにすっかり消費されてしまい,その価値も全部補塡されなければな らないが,固定資本の場合にはこのことは徐々に少しずつ行なわれる,ということによって。だか ら,生産資本のうちで労働力(または労働者の生活手段) として前貸しされた部分は,生産資本中 の他の素材的要素から,区別されるだけで,労働・価値増殖過程に関しては区別されない。

80資本のうちの労賃に投ぜられた部分が生産資本の流動的部分に属し,この流動制を,生産資本の固 定的成分に対立して,原料などのような対象的な生産物形成者の一部分と共通に持っているとい うことは,資本のうちのこの可変部分が不変部分に対立して価値増殖過程で演ずる役割とは絶対 に何の関係もない。それはただ,どのようにして前貸資本価値のこの部分が流通を介して生産物 の価値から補塡され,更新され,したがって再生産されなければならないかということに関係があ るだけ。労働力の反復的購買は流通過程に属する。ところが,労働力に投ぜられた価値は,生産過 程の中ではじめて一定の不変量からある可変量に転化するのであり,また,この転化によっておよ そはじめて前貸価値は資本に,自分を増殖する価値に,転化させられる。
・スミスにのように,労働力に投下された価値がそう規定されるということになれば,可変資本と不 変資本との区別の理解は不可能にされ,したがって資本主義的生産過程一般の理解も不可能にさ れる。対象的な生産物形成者に投下された不変的な資本に対立して可変的な資本であるというこ の資本部分の規定は,労働力に投ぜられた資本部分は回転に関しては生産資本の流動的部分に属 するという規定のもとに葬られてしまう。この埋葬は,労働力に代わって労働者の生活手段が生 産資本の要素として数えられるということによって,完全にされる。労働力の価値が貨幣で前貸 しされるか,それとも直接に生活手段で前貸しされるかは,どちらでも構わない。もちろん,後の ほうの場合は資本主義的生産の基礎の上ではただ例外でしかありえないのであるが 。

81このようにA・スミスによって流動資本という規定が労働力に投ぜられた資本価値にとって決定 的なものとして固定されたということによって,スミスはついに彼の後継者たちが労働力に投下 された資本部分を可変資本として認識することを不可能にしてしまった。他の箇所で彼自身が与 えたもっと深い正しい展開は勝利を得なかったが,彼がやったこの突進は勝利を得た。彼らは,労 働者のための生活手段に投下されるということを,流動資本の本質的な規定にした。これには当 然つぎのような説が結びついた。この説によれば,必要な生活手段から成っている労働元本は一 つの与えられた大きさであって,この大きさは,一方では社会的生産物の中の労働者の分け前の限 界を物理的に画するが,他方ではまた労働力の買い入れのためにその全部が支出されなければな らない,というのである。
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by shihonron | 2011-09-06 23:30 | 学習会の報告