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『資本論』を読む会の報告

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2009年 03月 31日

第139回 3月31日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

3月31日(火)に第139回の学習会を行いました。これまでの議論の中で出されてきた抽象的人間的労働というカテゴリーが歴史貫通的であるかどうかという問題に関連して『経済学批判』におけるマルクスの叙述と『経済学史』における久留間鮫造氏の解説文を輪読し、マルクスの「歴史的抽象」について議論しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

商品生産の特殊な性格と価値の本質―――久留間鮫造『経済学史』より

 商品生産は、私有財産制度のもとに相互に独立化されている私的生産者によって行われる社会的生産である。直接には私的な彼らの労働は、その生産物の交換の関係においてはじめて独自の社会的形態を獲得する。すなわち彼らの労働の生産物は、それらの交換の関係において、使用価値としての千差万別の姿にもかかわらず価値として相互に等置されるのであるが、これによって彼らの労働もまた、使用価値を生産する労働としてのあらゆる現実の差異にもかかわらず、価値を形成するかぎりにおいてはそれらの差異を捨象されて、無差別一様な人間労働、すなわち人間労働力の単なる支出の一定量にほかならないものとされるのである。そしてこの一般的な人間労働の結晶としての「価値」の形態において――生産物の価値というこの物的な形態において――はじめて商品生産者の労働は、社会がその欲望の充足のために支出する総労働時間中の一定量を意味するものとなりうるのである。(1)

注(1)
 商品生産の特殊な性格と価値の本質とについての以上の説明はあまりにも簡単で、多くの読者には理解しがたいかと思われるので、以下にいささか立ち入った説明を付け加えることにしよう。もともと原論で解説されるべきことであって、学史の講義にとってはあまりに話の本筋からかけはなれることになるので、注に入れたのであるが、事柄自体は基本的に重要なことであるから、そのつもりで読んでいただきたい。
 いうまでもないことであるが、商品生産もまた一種の社会的生産である。すなわち商品生産者たちは、それぞれ自分の種々の欲望の対象を自分自身の労働によつて生産するのではない。もしそうであれば、相互に無関係でありうるわけであるが、そうではなくて事実上社会的分業を行うのである。すなわち彼らはめいめいに、自分の種々の欲望の対象を自分の種々の労働によって生産するかわりに、他の商品生産者たちの使用に供すべきある特殊な物を生産し、そしてそのかわりに、自分自身の種々の欲望をば他の商品生産者たちの労働の生産物によってみたすのである。
 だがそのようなことが行われるためには、第一に、種々の物をそれぞれ専門的に生産する商品生産者たちの種々の労働は、それらの総和において、社会全体の種々の欲望の総体に対応する社会的分業の有機的な体制を構成する必要がある。言葉をかえていえば、社会全体の種々の欲望の総体に対応するように、社会の総労働時間が種々の生産部門に配分される必要がある。そういうことが何らかの仕方、なんらかの形式で実現されないかぎり、社会の必要とする種々の物が必要に応じて生産されるということは不可能である。それは、ただ理想的に行われることが不可能なだけではなく、曲がりなりに行われることさえもできようがない。
 第二に、自分の必要とする物をすべて自分の手で生産するのではなくて、自分は社会の他の人々のためのある特殊な使用価値を生産し、そのかわりに自分の種々の欲望の充足は社会の他の人々の労働の生産物にまつという社会的分業の制度が成り立つためには、社会の総生産物のうちどれだけをそれぞれの生産者が受けとるべきかが、すなわち分配の仕方が、なんらかの方法できめられなければならない。それがきめられないならば、社会的生産は成り立ちようがないであろう。
 以上に述べた二つのことは社会的生産の一般的な条件であって、それがなんらかの形で実現されないかぎり、社会的生産はなり立ちえない。商品生産にしてもその例外ではありえない。しかし商品生産のばあいには、それが実現される仕方が、他の場合とは根本的にちがうのである。
 商品生産以外の社会的生産の形態にあっては、社会の総労働時間をどういうふうに種々の生産部門に割り当てるか、また社会の総生産物をどういうふうにその社会の種々の成員に分配するかは、あるばあいには独裁的な個人または個人の集団の意志により、またあるばあいには民主的な総意によって決定されるというふうなちがいはあるにしても、またそれらの意志による決定は、あるばあいには多分に恣意的であり、あるばあいには主として伝統にたより、またあるばあいには計画的な熟慮にもとづいて行われるというふうなちがいはあるにしても、とにかく人間の意志によって、一見明白な仕方できめられるのである。 ところが商品生産のばあいにはそうではない。商品生産のばあいにはそういうことをきめる者がどこにもない。商品生産者がある特定の物の生産に従事するのはだれの指図によるものでもない。彼はまったく彼自身の自由意志で、彼自身の判断にしたがって、彼自身の責任、彼自身の計算において生産するのである。彼の労働力は、私有財産の主体として独立自尊の人格である彼の私有の能力であり、したがってその支出である彼の労働は、彼の私事として行われる。労働力そのものが社会のものとなっていないのであるから、労働もまた直接には――労働そのものとしては――社会的性格をもっていない。それは私的労働にとどまる。したがってその生産物もまた、社会の所有には帰しないで彼の私有に帰することになる。だからそれは社会によって自由に処分されるわけにはゆかない。社会によって生産物の分配が決定されるためには、生産物が社会のものとして存在していなければならぬ。自分の物でなければ自分の意志で処分することはできないからである。
 ではいったい、分業の組織や分配の方法をきめる者が全然いないのに、どのようにして商品生産は社会的生産の一つの体制として成り立ちうるのであるか?
 商品生産者たちの間の生産関係は、直接彼ら自身の間の――直接に人間と人間との間の――関係としては樹立されないが、そのかわりに一種の廻り道をして、すなわち彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして樹立されるのである。
 では、商品生産者たちの間の生産関係はどのようにして、彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして樹立されるのか、あるいは、彼らの生産物の商品としての交換関係はどのようにして、商品生産者たちの間の生産関係を媒介するか?
 すでに述べたところによって知られるように、社会的生産が行われるための最も基本的な条件は、個々人の労働が何らかの仕方で社会的に統一されるということ、かくしてそれらが社会の総労働の部分として関連をもつということである。ところがすでに見たように、商品生産者の労働は労働自体としては統一されないで、私的な労働として、てんでばらばらに行われる。にもかかわらずそれらは、全体として社会的分業の体制を形成するものとして、社会の総労働の部分たる実をもたねばならなぬ。ここに商品生産の基本的な矛盾が存在するのである。したがって問題は、この矛盾が彼らの労働の生産物の交換の関係によってどのように媒介されるか、あるいは、彼らの労働の生産物の交換のどのような契機において、商品生産者の私的な労働は社会的労働としての定在を獲得するか――こういうことに帰着することになる。
 商品は種々様々の物からなっている。使用価値としては千差万別である。だからこそそれらは交換さるのである。すなわち交換は、商品の使用価値として相互の差異をを前提する。だがそれだけでは交換は行われない。その上にさらに、甲の所有する物は甲にとっては余分であるが乙にとっては有用であり、反対にまた、乙の所有する物は乙にとっては余分であるが甲にとっては有用である、ということを前提する。そうしてはじめて彼らは交換することになる。だがすべてこうしたことは交換が行われるための条件であるには相違ないが、それだけで直ちに生産物の商品としての交換が生じたとはいわれない。たとえばベイゴマを余分にもっている凸坊とメンコを余分にもっている凹坊とがそれらの物を互いに交換したとしても、それは商品の交換ではない。それの媒介によって彼らの間に社会的生産の体制が成立するというような性質のものではない。
 では商品の交換を特徴づけるものは何であるか? それは右に述べたような、単に人々の所有する物の使用価値としての相互の差異、乃至はそれらの物と人間の欲望との関連ではなくて、むしろ、使用価値としての相互の差異にもかかわらず諸商品が互いに価値として等しいとされる関係、すなわちそれの価値関係である。商品は使用価値としては千差万別であるが、価値としては無差別一様である。だからこそどの商品もみな一様に金何円という形態、すなわち価格をもつのであるが、この価格において表示される価値こそは、商品生産者たちの労働がそれによってはじめて統一性を獲得するところの契機なのである。
 商品生産者の労働は、さきに述べたように、直接に労働としては社会的な統一にもちきたされず、社会的な性格を有しない。それは、労働力そのものが社会のものとされないことの必然の結果である。労働力が社会のものとされないで私のものにとどまるかぎり、その働きとしての労働もまた私的なものにとどまるほかはなく、社会的な労働でありえない。すなわち商品生産のばあいには、まず労働力が社会化されて社会の総労働力として存在し、それが種々の生産目的のために、あるいは耕作労働として、あるいは紡績労働として支出されるというふうに事は運ばない。もしそうであれば、労働はそのアクティヴな状態において、それが行われる瞬間から直接に労働として、そしてまた、あるいは耕作労働、あるいは紡績労働といったふうなそれぞれ異なる特殊な、具体的な労働として、その自然のままの姿において、りっぱに社会的な性格をもつであろう。ところが、商品生産者のばあいにはそうはゆかない。だがそのかわりに、彼らの労働は生産物に対象化されて、生産物の価値を形成するのである。価値としてはすべての労働は無差別一様であり、単に量的な差異があるだけで質的な差異はもたない。商品生産者の労働はこういう形で――すなわち第一には、労働そのものの性質としてではなく労働の生産物の性質という形で、さらに第二には、生産物の自然的な、たとえば米なら米、布なら布といったふうの、それぞれちがった使用目的に役立つ使用価値としてではなく、無差別一様な価値性格という形で――はじめてそれらの間の統一性を獲得し、それによってはじめて社会的な労働になるのである。換言すれば、社会的がその総欲望の充足のために費やす総労働時間の一部としての、すなわち社会の総労働力の支出の一部としての、定在をもつことになるのである。
 それゆえ商品生産のばあいには、生産者間の社会関係は計画経済のばあいとはすっかり逆に樹立され、すべては転倒してあらわれることになる。最初にまず人間の関係がうちたてられて、それにしたがって社会的生産がおこなわれるかわりに、最初にまず、相互に独立しておこなわれる私的な労働の生産物が互いに交換されることによって価値において等しいとされる。そしてそれによって、商品生産者の労働もまた、価値を生産するかぎりでは何らの差異はないものとされ、無差別一様な、抽象的人間的な労働に還元される。そしてこのような一種独特な形態においてはじめて商品生産者の労働は統一性を獲得し、社会の総労働力の支出の一部だということになるのである。
 すなわち価値は、商品生産者の私的な労働が社会的な労働になるためにとる独自な形態であり、さきに述べた商品生産の基本的な矛盾を媒介する契機であって、商品生産はこの契機が発達していくにつれて、それとまさに同じ歩調で発達してゆくのであるが、しかし、他面においては、この契機が発達するということはとりもなおさず、生産物が単なる使用価値ではなくて同時に価値であるところのものに――すなわち商品に――なるということにほかならない。そこで、さきに述べた商品生産の矛盾は、あい反する性質をもっている使用価値と価値との直接的な統一物としての商品において止揚され、かかるものとしての商品の矛盾という形で、より具体的にあらわれることになる。
 そこで次には、商品がこの矛盾をどのようにして展開し解決するかが問題になるのであるが、これを明らかにするためには何よりもまず、商品がその価値を表示する独自の形態を明らかにする必要がある。商品は使用価値であるとともに価値であるといっても、それは理論的な考察によってはじめて認識されうることであって、商品の価値は、たとえばこの商品のうちには10時間の社会的労働が含まれているというふうに、その商品自体に即してそのまま表示されるわけではない。このことは、さきに説明した価値の成り立ちからみて当然のことである。すなわち、商品生産者の労働は直接には社会的労働の一定量としての存在をもたないからこそ、彼らの労働の生産物の交換をとおして、彼らの労働の生産物が交換において互いに等しいとされる関係をとおして、それらに共通な価値を生産する抽象的一般的な労働として、はじめて統一性を獲得するのであり、かくしてはじめて社会的な労働になるのである。だから、社会的労働時間というものは最初から存在するのではない。アクティヴな労働の状態において存在しないのみでなく、対象化されたものとしても、直接にそういうものとしては存在しない。もし存在するなら、それはそのまま労働時間として表示されるであろうが、そのばあいには、労働は対象化されて価値にならず、したがって生産物は商品にならないであろう。商品の価値が労働時間で表示されないのは、商品生産者の労働は直接には社会的な労働としておこなわれるのではなく、したがって、その生産物に含まれている労働は直接には社会的な労働ではなく、したがってまた、その生産物は直接に社会的な労働の生産物として取り扱われるわけにはゆかないからである。
 では商品の価値はどのようにして表示されるか? その商品自体で表示されえない以上、それと交換関係に立つ他商品によって表示される他はない。だが、この他商品にしても、それ自体としては、その自然形態は使用価値の形態であって価値の形態ではなく、そしてまた、その自然形態のほかに価値の形態をもちうるわけではない。だからこの他商品の自然形態そのものが価値の形態にならなければならぬ。そしてそれは現にそうなっているのであって、今日あらゆる商品の価値が金の一定量という形で表示されているのを見ればこのことは一見明白である。だが金であれ何であれ、およそ商品の自然形態が――そのありのままの物的な形態が――他商品の価値を表すということ、すなわち価値の形態になるということは。一体どのようにして可能であるのか? これがいわゆる価値形態の問題の核心をなすのであって、これをマルクスは『資本論』の第一部第一章第三節のA「簡単な・単独な・あるいは偶然的な・価値形態」で解明したのである。そして、その基礎の上に形態そのものの発展をあとづけることによって、はじめて貨幣の謎を徹底的に解いたのである。だが、この解明の立ち入った説明、さらにはまた、現実の交換過程における商品の矛盾の展開と貨幣形成の必然性、およびかくして形成された貨幣による交換過程の矛盾の媒介の仕方等に関する説明は、ここには割愛しなければならない。(81-88頁)



by shihonron | 2009-03-31 23:30 | 学習会の報告


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