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『資本論』を読む会の報告

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2009年 08月 18日

第156回 8月18日 第3章 第2節 流通手段 a 商品の変態

 8月18日(火)に第156回の学習会を行いました。「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段」の第13段落から第15段落までをITさんの報告をもとに検討しました。また資料として「マルクス経済学レキシコンの栞ナンバー11」が紹介されました。
 以下、段落毎にレジュメの内容と議論の報告を掲載します。
●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

第二節 流通手段      a 商品の変態

第16段落
 リンネル商品の総変態
 互いに対立しつつ補い合う2つの運動、W-GとG-Wとからなる。
商品所有者は、売り手あるいは、買い手となる。固定していない。

第17段落
 一つの商品の総変態は、四つの極と、3人が必要である。
 ① リンネルW - 貨幣 G ②
          ① 貨幣 G - W 聖書 ③

★四つの極とは、1行目のリンネルと貨幣、2行目の貨幣と聖書のことであり、三人の登場人物とは①リンネル生産者(リンネルを売り、聖書を買う)、②小麦生産者(小麦を売り、リンネルを買う)、③聖書生産者(聖書を売る)の三人である。

■《一商品の変態W―G―Wには、四つの極があり、三人の人物が登場する。すなわち、まず、商品と、それの価値姿態として他人のふところのなかにある貨幣とが、相対する二つの極をなし、商品所持者と貨幣所持者が相対する。次に、商品が貨幣に転化されれば、この貨幣と、それの使用姿態として他人のもとにある商品とが、相対する二つの極をなし、貨幣所持者と商品所持者とが相対する。第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、第二幕では彼に対して、第三の商品所持者が売り手として相対するのである。》(大谷禎之介「貨幣の機能」207頁)

第18段落
 W-G-Wは、一つの循環をなす。
 商品形態 - 商品形態の脱ぎ捨て - 商品形態への復帰
(非使用価値)                (使用価値)

●ここで使われている「循環」の意味について議論があり、「W-G-Wの最後のWは流通から出て消費過程に入るのだから再び同じ過程を繰り返すわけではない」との発言がありました。ここでは、形態としては商品から出発して再び商品にもどることをさして循環といっているのだろうという結論になりました。

■【循環】(名)スル
(1)閉じた回路を繰り返し通ること。ひとめぐりすること。
(2)一連の変化の過程を繰り返すこと。   (大辞林 第二版より)

第19段落
 商品流通
 一つの商品の循環をなす二つの変態は、同時に別の二つの商品の逆の部分変態をなす。
(1)リンネルの売り――小麦生産者の買い、総変態の完結。
(2)リンネル生産者の聖書の買い――聖書生産者の売り、第一の変態。
 こうして各商品の変態系列が描く循環は、他の商品の循環と解けがたく絡み合っている。
この総過程は、商品流通として現れる。

第20段落
 商品流通は、直接生産物交換から区別される、二つの特徴を持つ。
(1)商品交換は、直接的な生産物交換の個人的場所的制限を打ち破り、人間的労働の素材変換
を発展させる。
(2)交換当事者によっては制御不可能な、社会的な、自然的諸連関の全範囲が発展する。リンネ
ル生産者が、リンネルを売ることができるのは、小麦生産者が小麦をすでに売っているからであ
る、等々。(小麦―リンネル―聖書―安ウィスキー― ・・・)

●《交換当事者によっては制御不可能な、社会的な、自然的諸連関の全範囲が発展する》という記述について《制御不可能》とはどういうことか、《社会的な、自然的初連関》の《自然的》とはどういう意味かとの疑問が出されました。
「《制御不可能》とは、小麦が売れなければ、小麦生産者がリンネルの買い手として現れることができないといったように、直接に自分とはかかわりのないところでの出来事に左右されてしまうということではないか。」との発言がありました。
また「《自然的》とは、社会的と対立する意味ではなく、自然発生的とか自ずから生ずるといった意味だろう」との発言がありました。

■ 【自然】(名)
(1)おのずから存在してこの世界を秩序立てているもの。山・川・海やそこに生きる万物。天地間の森羅万象。人間をはぐくみ恵みを与える一方、災害をもたらし、人間の介入に対して常に立ちはだかるもの。人為によってその秩序が乱されれば人間と対立する存在となる。
「―を破壊する」「―の猛威」「―を愛する」
(2)人や物に本来的に備わっている性質。天性。
「楽しい時には笑い、悲しい時には泣く、それが人間の―だ」
(3)〔哲〕〔nature〕古代ギリシャで、他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。ここから人為・作為から区別されたありのままのものの意にもなり、事物に内在する固有の本性ないしは本性的な力の意ともなる。また中世では、被造物一般のことであり、さらに神の恩寵(おんちよう)に対して人間が生まれつき具有するものを指す。 (大辞林 第二版より)

第21段落
 貨幣は商品が立ちのいた流通上の場所に常に沈殿する。
(1)リンネルは流通から脱落して、貨幣がリンネルの場所を占める。
(2)聖書が流通から脱落して、貨幣が聖書の場所を占める。
こうして流通は、常に貨幣を発汗する。

●「マルクスは沈殿するとか発汗とかの比喩的表現をしているが分かりにくい」との発言がありました。

★沈殿とは、貨幣が流通上の場所にとどまるということを表現しており、発汗とは、流通は常に貨幣を必要としているということではないか。

第22段落
 商品流通に含まれる恐慌の可能性。
 流通は、販売と購買の対立に分裂した、それぞれ自立した過程であるが、しかし一つの内的な統一をなしている。この内的な統一が外的な諸対立において運動する(内的に非自立的、外的な自立化)。この対立的運動がある点まで進むと、統一が強力的に自己を貫徹する、つまり恐慌
である。

 商品に内在的な矛盾
(1)使用価値と価値との対立。
(2)私的労働が同時に直接に社会的労働として現われなければならないという対立。
(3)特殊的具体的労働が、同時にただ抽象的一般的労働としてのみ通用するという対立。
(4)ものの人格化と人格の物化との対立
この内在的矛盾が商品変態上の諸対立において、より発展した運動形態を受け取る。
だからこれらの形態は、恐慌の可能性を含んでいる。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からは、まだまったく実存しない諸関係の全範囲を必要とする。

●「(1)から(4)の4つの事柄すべてが商品に内在的な矛盾といえるのか。(4)は商品生産社会に内在的な矛盾ではないか」との疑問が出されましたが、明確な結論は出ませんでした。また、(4)の「ものの人格化と人格の物化」の内容とはどういうものか、これまでの叙述ではどこでどのように述べられてきたのかとの疑問が出されました。

■大谷禎之介『図解社会経済学』の「第1編 第1章 第3節 商品生産関係とその独自な性格」(72-80頁)が参考になるだろう。
見出しだけを掲げる。

第3節 商品生産価関係とその独自な性格
§1 商品生産関係
 [商品形態は労働生産物の独自な社会的形態である]
 [私的諸労働の社会的総労働にたいする連関は独自な形態をとる]
§2 生産関係の物象化と物神崇拝
 [私的労働の独自な社会的性格が商品生産者の頭脳に反映される]
 [物神崇拝]
§3 物象の人格化と商品生産の所有法則
 [交換者は相互に商品所有者として認めあわねばならない]
 [商品生産の所有法則]
§4 ホモ・エコノミクス幻想
 [商品世界:自己労働にもとづく私的所有,l自由,平等,自利の世界]
 [ホモ・エコノミクス幻想]
 [物神崇拝とホモ・エコノミクス幻想をはぎとれば人間が見えてくる]
 [生産当事者の意識的行動と経済法則]

第23段落
 商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能を受け取る。

by shihonron | 2009-08-18 23:30 | 学習会の報告


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