2010年 05月 25日
5月25日(火)に第189回の学習会を行いました。 レジュメに基づいた報告を受け、「第16章 剰余価値率を表す種々の定式」および「第17章 労働力の価値または価格の労賃への転化」を検討しました。 以下は当日配布されたレジュメです。 第16章 剰余価値率を表す種々の定式 第1段落 ・すでに見たように、剰余価値率は次のような定式で表される。 Ⅰ 剰余価値/可変資本(m/v)=剰余価値/労働力の価値=剰余労働/必要労働 はじめの二つの定式は価値の比率を表し、第三の定式はこれらの価値が生産される時間と時間の比率を表している。 ・これらの定式は、古典派経済学では、事実上仕上げられているが、意識的には仕上げられていない。 ・古典派経済学では、次の派生的な定式に出会う。 Ⅱ 剰余労働/労働日=剰余価値/生産物価値=剰余生産物/総生産物 ここでは、同一の比率が、順々に労働時間の形態、労働時間が具体化される価値の形態、これらの価値が存在している生産物の形態で、表現されている。もちろん、生産物の価値というのは、ただ労働日の価値生産物だけをさすと理解すべきであり、生産物価値の不変部分は除外されているものと想定されている。 第2段落 ・これらすべての定式においては労働の現実の搾取度または剰余価値率は、まちがって表現されている Ⅰ 6時間の剰余労働/6時間の必要労働=3シリングの剰余価値/3シリングの可変資本=100% Ⅱ 6時間の剰余労働/12時間の労働日=3シリングの剰余価値/6シリングの価値生産物=50% 第3段落 ・この派生的な定式は、実際には、労働日またはその価値生産物が、資本家と労働者とのあいだに分割される比率を表現している。 ・したがって、この定式が、資本の自己増殖度の直接的表現として妥当するならば、剰余労働または剰余価値は決して一〇〇%に達することができない、というまちがった法則が妥当することになる。 ・剰余労働が全労働日を吸収するためには(ここでは労働週や労働年などの平均日を問題にしている)、必要労働はゼロにまで低下しなければならないであろう。 ・しかし必要労働が消滅すれば、剰余労働もまた消滅する、なぜなら、剰余労働は必要労働の一つの機能にすぎないからである。 ・ところが、剰余価値率または労働の現実の搾取度では、それが可能である。 ・たとえば、L・ド・ラヴェルニュ氏の査定によれば、イギリスの農業労働者の剰余労働は、その必要労働に対して、三対一の割合であり、これは、三〇〇%の搾取率である。 ★《剰余労働は必要労働の一つの機能にすぎない》とはどういう意味だろうか? 剰余労働と必要労働は相対概念だということか。 ■【相対概念】 他の概念と相関してはじめて存在しうるような概念。例えば、親・子など。絶対概念に対していう。 ■フランス語版では《だが、必要労働が消滅すれば剰余労働も同じく消滅する。剰余労働は必要労働の関数でしかないからである。》(下巻175頁・原頁229)となっている。 ■剰余労働について第7章では次のように説明されていた。 《労働過程の第二の期間、すなわち労働者が必要労働の限界を超えて労苦する期間は、彼にとっては労働を、すなわち労働力の支出を必要とするには違いないが、しかし彼のためにはなんの価値も形成しない。それは、無からの創造の全魅力をもって資本家にほほえみかける剰余価値を形成する。労働日のこの部分を私は剰余労働時間と呼び、また、この時間に支出される労働を剰余労働(surplus labour)と呼ぶ。》(国民文庫374頁・原頁231) 第4段落 ・労働日を不変の大きさとして取りあつかう学派的方法は、定式Ⅱの適用によって確立された。 ・なぜなら、ここでは、剰余労働はつねにある与えられた大きさの労働日と比較されるからである。 ・価値生産物の分割がもっぱら注目される場合も、同様である。 ・すでにある価値生産物に対象化された労働日は、つねに与えられた限界を持つ労働日である。 第5段落 ・剰余価値と労働力の価値とを価値生産物の分割部分として表すことは――この表現様式は、ともかくも資本主義的生産様式そのものから生ずるものであって、その意義はのちに解明されるであろう――、資本関係の独特な性格、すなわち、可変資本と生きた労働力との交換、およびそれに照応した生産物からの労働者の排除をおおい隠す。 ・それに代わって、労働者と資本家とが生産物をそのさまざまな形成諸要因の割合に基づいて配分するある協同関係、といういつわりの外観が現れる。 ★《可変資本と生きた労働力との交換》とは、貨幣の形態での資本と生きた労働力の交換のことであり、資本家による労働力商品の購買のことと言っていいか? ★《それに照応した生産物からの労働者の排除》とは、労働力を売った労働者は、自分たちが生産した生産物を自分のものとはできないこと、生産物のすべては資本家のものになるということだろう。 第6段落 ・定式Ⅱは、つねに定式Ⅰに逆転化されうる。 ・たとえば、 6時間の剰余労働/12時間の労働日 とするならば、必要労働時間は、一二時間の労働日から六時間の剰余労働を引いたものに等しく、次のようになる。 6時間の剰余労働/6時間の必要労働=100/100 第7段落 第三の定式は、私がすでに時おり先取りしていたものであるが、次の通りである・・ Ⅲ 剰余価値/労働力の価値=剰余労働/必要労働=不払労働/支払労働 第8段落 ・定式 不払労働/支払労働 は、資本家が支払うのは、労働にであって、労働力にではないという誤解をまねくかもしれないが、この誤解はさきに与えられた説明によって解消する。 ・不払労働/支払労働 は、 剰余労働/必要労働 の通俗的な表現にすぎない。 ・資本家は、労働力の価値、あるいはその価値から背離した労働力の価格を支払って、それと引き換えに生きた労働力そのものの処分権を受け取る。 ・資本家によるこの労働力の利用は、二つの期間にわかれる。 ・一つの期間では、労働者は、一つの価値=彼の労働力の価値、したがって等価を生産するだけである。・こうして資本家は、前貸しした労働力の価格に対して、同じ価格の生産物を受け取る。 ・それは、あたかも彼がこの生産物をできあいのものとして市場で買ったようなものである。 ・それに対して剰余労働の期間では、労働力の利用は、資本家のために価値を形成するのであるが、それは資本家には価値の代償を要しない。 ・資本家は労働力のこの流動化を無償で手に入れる。 ・この意味において、剰余労働は不払労働と呼ばれうる。 ★「通俗的な表現」とは、厳密に正確ではなく「俗受けする表現」ということだろうか? マルクス以前に「不払労働」という表現を用いていた人がいたのか? ■「第8章 労働日」の第16段落では《「安売り親方」(“ underselling masters ”)については、ブルジョア的立場でさえも「職人の不払労働(the unpaid labour of the men)が彼らの競争の基礎をなしている」と理解している。》という記述(国民文庫43頁・原頁265)がある。なお引用はジョージ・リード『製パン業の歴史』からと註80で示されている。 ■《必要労働と剰余労働との区別は,より通俗的には, (支払労働>(bzahlte Arbeit)と〈不払労働)(unbezalte Arbeit) との区別としてもあらわされうる. といっても,資本家は労働力に支払うのではなく労働に支払うかのように誤解してはならない. 必要労働時間には.資本家は,彼の支払う労働力の価格と同じ価格の生産物を受けとる. それは,あたかも市場で既製品を買ったようなものである. 他方,剰余労働時間には,労働力は資本家のために無償で価値を形成する. 資本家は,この労働力の流動化を,なにものをも支払うことなく入手する.この意味で,必要労働は支払労働,剰余労働は不払労働とよばれうることになる》(『資本論辞典』385頁) ★可変資本(貨幣)→必要労働が対象化した価値=前貸しした可変資本と同じ価値の生産物 前貸した価値ゼロ(無償)→剰余労働が対象化した価値(剰余価値) 第9段落 ・したがって、資本は、A・スミスが言うように、労働に対する指揮権であるだけではない。 ・それは、本質的に不払労働に対する指揮権である。 ・すべての剰余価値は、それがのちに利潤、利子、地代などのどのような特殊な姿態に結晶化しようとも、その実体からすれば、不払労働時間の体現物である。 ・資本の自己増殖についての秘密は、資本が他人の一定量の不払労働に対し処分権を持つということに帰着する。 第六篇 労賃 第一七章 労働力の価値または価格の労賃への転化 *初版の編別構成は---第五章絶対的および相対的剰余価値の生産にかんする追加的研究 (四)労賃という形態に転化した労働力の価値または価格 *労働力と労働,労働力の価値規定,労働力の価値の貨幣表現=労働力の価格 等は解明済み *労賃とは労働力の価格という意味ではすでに頻出 ①ブルジョア社会の表面 賃金⇒労働の価格(一定量の労働に支払われる一定量の貨幣)として,現われる。 ②労働の価値の大きさを労働によって規定するというばかげた同義反復 ・ある商品の価値とはなにか? その商品の生産に支出された社会的労働の対象的形態である。 ・何によってその商品の価値の大きさを計るか? その商品に含まれている労働の大きさによっ てである。 ・12時間労働日の価値はなにによって規定されているだろうか? 12時間から成っている一労働 日に含まれている12労働時間によって。これはばかげた同義反復である ③商品「労働」の矛盾----商品は対象物 ・商品として市場で売られるためには,労働は,売られる前に存在していなければならない。 ・労働者が労働に独立の存在を与えられるのなら,彼が売るものは商品であって労働ではない。 ④⑤剰余価値の説明ができない ・貨幣すなわち対象化された労働と生きている労働とが直接に交換されるとすれば⇒価値法則を 廃止するか,貸労働によって立つ資本主籤的生産そのものを廃止することであろう。 ・等価物どうしが交換されるとすれば,労働者は12時間の労働と引き換えに6s.を受け取る。彼の労 働の価格は彼の生産物の価格に等しい。この場合には彼は彼の労働の買い手のために剰余価値を 生産しない。6s.は資本に転化せず,資本主義的生産の基礎は消滅する。しかし,まさにこの基礎 の上でこそ,彼は自分の労働を売るのであり,彼の労働は賃労働なのである。 ・彼は12時間の労働と引き換えに6s.よりも少なく,すなわち12時間の労働よりも少なく受け取ると しよう。不等な諸量を等置することは,ただ価値規定を廃棄するだけではない。自分自身を廃棄 する矛盾は,およそ法則として言い表し,または定式化することなどできない。 ・より多い労働とより少ない労働との交換を,一方は対象化された労働で他方は生きている労働だ という形態の相違から引き出すことは,なんの役にもたたない。 ・商品の価値量を規定するものは,その商品の生産に必要な労働の量であって,労働の対象的形態で はないのである。 ⑥⑦ここまでのまとめ ・商品市場で直接に貨幣所持者に向かい合うのは,じっさい,労働ではなくて労働者である。 労働 者が売るものは,彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば,それはすでに彼のものではなく なっており,したがってもはや彼によって売られることはできない。労働は,価値の実体であり内 在的尺度ではあるが,それ自身は価値をもってはいない。 ・「労働の価値」という表現---価値概念はまったく消し去られているだけではなく,その反対 物に転倒されている。それは一つの想像的な表現であって,たとえば土地の価値というようなも のである。 ・このような想像的な表現は生産関係そのものから生ずる。それらは,本質的な諸関係の現象形態 を表わす範疇である。現象では事物が転倒されて現われることがよくある。 ⑧古典派経済学の到達点と限界 ・古典派経済学は,日常生活から無批判的に「労働の価格」というカテゴリーを借用し,そのあとで, どのようにこの価格が規定されるか?を問題にした。 ・古典派経済学が発見したこと。---需要と供給とが一致すれば,その他の諸事情が不変ならば, 価格の振動はなくなる。そのときは,需要供給はなにごとかを説明することをやめる。労働の価 格は,需要と供給とが一致していれば,需要供給関係とは無関係に規定される価格,すなわち労働 の自然価格である。そして,これが分析されるべき対象(科学的分析の真の対象)である ・労働の偶然的な市場価格を支配し規制する価格(労働の「必要価格」,「自然価格」)は,他の 商品の場合と同じに,貨幣で表現された労働の価値でしかありえない。このようにして,経済学は, 労働の偶然的な価格をつうじて労働の価値に到達しようと思った(古典派経済学は,このように して,労働の偶然的な価格から労働の実在的な価値にさかのぼった,と思い込んだ)。 ・次に,他の諸商品の場合と同じに,労働の価値も生産費によって規定された。 ・労働者の生産費,すなわち,労働者そのものを生産または再生産するための費用とはなにか? こ の問いが,最初の問いに代わって,無意識的に経済学のなかに滑り込んできた(古典派経済学は その時まで自分の研究対象であった労働の価値の代わりに,労働力の価値を置いた)。というの は,経済学は,労働そのものの生産費を問題にしていては循環論法に陥り,先に進めなかったから である。経済学が労働の価値と呼ぶものは,じつは労働力の価値であった。 ・人々は,労働の市場価格といわゆる労働の価値との相違や,この価値の利潤率にたいする関係・労 働によって生産される商品価値にたいする関係などに没頭してしまって,分析の進行が労働の市 場価格からいわゆる労働の価値に達しただけではなく,この労働の価値そのものをさらに労働力 の価値に帰着させるに至ったということに,ついに気がつかなかった。 ・このような自分自身の分析の結果を意識していなかったということ,「労働の価値」とか「労働 の自然価格」とかいう範疇を問題の価値関係の最後の十全な表現として無批判に採用したという ことは,あとで見るように,古典派経済学を解決のできない混乱や矛盾に巻き込んだのであるが, それがまた俗流経済学には,原則としてただ外観だけに忠実なその浅薄さのための確実な作戦基 地を提供したのである。 労賃---その不合理性 ⑨労働力の価値と価格が労賃(労働そのものの価値・価格)というそれらの転化形態にどのように 現われるか ⑩ ・慣習的な1労働日は12時間,労働力の日価値は3s.(6労働時間を表わす価値の貨幣表現) ・労働者が3s.を受け取るならば,彼は12時間機能する彼の労働力の価値を受け取るわけである。 ・もしこの労働力の日価値が1日の労働の価値として言い表わされるならば,12時間の労働は3s.の 価値をもつ,という定式が生ずる。 ・労働力の価値は,このようにして,労働の価値(貨幣で表わせば,労働の必要価格)を規定する。・もし労働力の価格が労働力の価値からずれるならば,労働の価格もまたいわゆる労働の価値から ずれるわけである。 ⑪ ・労働の価値=労働力の価値の不合理な表現⇒労働の価値はつねに労働の価値生産物よりも小さ い。資本家は労働力をそれ自身の価値の再生産に必要であるよりも長く機能させる。 ・前の例では,12時間機能する労働力の価値は3s.ところが,この労働力の価値生産物は6s.である。・こうして,6s.という価値をつくりだす労働は3s.という価値をもっている,という一見してばかげ た結論が出てくるのである。 ⑫労賃形態の役割---搾取関係を隠蔽 ・1労働日の支払部分すなわち6時間の労働を表わしている3s.という価値は,支払われない6時間を 含む12時間の1労働日全体の価値または価格として現われる。つまり,労賃という形態は,労働日 が必要労働と剰余労働とに分かれ,支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消 し去る。すべての労働が支払労働として現われる。 ・夫役---夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは,空間的に も時間的にもはっきりと感覚的に区別される。 ・奴隷労働---労働日のうち奴隷が自分のために労働する部分も,彼の主人のための労働として (不払労働として)現われる。奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠す。 ・賃労働---剰余労働または不払労働でさえも,支払われるものとして現われる。賃金労働者が 無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである。 ・だから,労働力の価値と価格が労賃という形態に,すなわち労働そのものの価値と価格とに転化することの決定的な重要性が分かる。現実の関係を目に見えなくしてその正反対を示すこの現象形態こそは,労働者ならびに資本家のあらゆる法律観念,資本主義的生産様式の一切の神秘化,この生産様式のすべての自由幻想,俗流経済学の一切の弁護論的空論の基礎である。---⑬ 労賃(労働に対する賃金)の観念を生み出す事情---労賃形態の必然性 (労働にたいする支払いのように見える理由) ・労賃の秘密を見破るためには世界史は多大の時間を必要とするのであるが,この現象形態の必然 性,その存在理由を理解することは容易。---⑭ (a) 資本と労働とのあいだの交換は,人間の知覚には,他のすべての商品の売買とまったく同じ仕方 で現われる。買い手は或る貨幣額を与え,売り手は貨幣とは違った或る物品を与える。---⑮ (b) 交換価値と使用価値とはそれ自体としては通約のできない量⇒「労働の価値」とか「労働の 価格」とかいう表現も,「綿花の価値」とか「綿花の価格」とかいう表現以上に不合理なものに は見えないのである。---⑯ (c) 労働者は自分の労働を提供したあとで支払を受けるということ。貨幣は,支払手段として機能 する場合には,提供された物品の価値または価格をあとから実現するのである。提供された労働 の価値または価格をあとから実現する。---⑯ (d) 労働者が資本家に提供する「使用価値」は,実際には彼の労働力ではなくその機能なのであり, たとえば裁縫労働とか製靴労働とか紡績労働とかいう一定の有用労働である。その同じ労働が別 の面から見れば一般的な価値形成要素であるということ,この性質によって労働は他の一切の商 品から区別されるのであるが,それは普通の意識の領域の外にあるのである。---⑯ ⑰労働者の立場から ・たとえば12時間の労働にたいして,6時間で生産される価値,たとえば3s.を受け取る労働者の立 場に立って見れば,彼にとっては実際には彼の12時間の労働が3s.の購買手段である。 ・彼の労働力の価値の変動によって,または需要供給関係の変動によって賃金は4s.または2s.に変 わりうるが,労働者はつねに12労働時間を提供する。 ・だから,彼の受け取る等価の大きさが変わるごとに,その変動は彼にとっては必然的に彼の12労働 時間の価値または価格の変動として現われるのである。 ・この事情は,労働日を一つの不変量として取り扱うアダム・スミスを惑わして,逆に,次のような 主張をさせることになった。すなわち,生活手段の価値が変動したために同じ労働日が労働者に とってより多くの貨幣に表わされたりより少ない貨幣に表わされたりしても,労働の価値は不変 である,というのである。「労働者が自分の労働の報酬として受け取る諸商品の量がどうあろう と,彼が支払う価格は常に同じである。この価格は現実には,時にはこれらの諸商品のより大き な分量を,時にはより小さな分量を買うことができるが,変動するのは諸商品の価値であって, 諸商品を買う労働の価値ではない。・・・・・・等量の労働は常に等しい価値である」 ⑱資本家の立場から ・資本家は何を望むか?できるだけ多くの労働をできるだけ少ない貨幣で手に入れようとする。彼 が関心をもつのは,ただ労働力の価格と労働力の機能がつくりだす価値との差だけである。 ・彼はどんな商品でもできるだけ安く買おうとするのであって,いつでも,自分の利潤は価値よりも 安く買って高く売るという単純な詐取から生ずるのだと考えているのである。 ・それゆえ,もし労働の価値というようなものが現実に存在していて,彼がこの価値を支払うのだ とすれば,資本というものは存在しないだろうし,彼の貨幣も資本に転化しはしないだろうという ことには,彼は決して気付くことができない。 ⑲労賃の現実の運動がしめすもの ・労賃の現実の運動が示す諸現象⇒労働力の価値が支払われるのではなくて労働力の機能すなわ ち労働そのものの価値が支払われるのだということを証明しているように見える。 ・第一には,労働日の長さの変動につれての労賃の変動である。 ・第二には,同じ機能を果たす別々の労働者たちの労賃の個人的差異である。 ⑳現象形態は普通の思考形態として直接にひとりでに再生産される ・「労働の価値および価格」または「労賃」という現象形態は,本質的な関係としての労働力の価 値および価格とは区別される。 ・現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが,その背後にあるもの は科学によってはじめて発見されなければならない。 ・古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫ってはいるが,それを意識的に定式化することはして いない。古典派経済学は,ブルジョアの皮にくるまれているかぎり,それができないのである。
by shihonron
| 2010-05-25 23:30
| 学習会の報告
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