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『資本論』を読む会の報告

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2010年 12月 07日

第24章 第3節 資料

【エンクロージャー】開放耕地下の耕地と共同地を垣根などで囲い込み,共同用益権を排除すること。囲込み運動とも。牧羊と農業改良を目的とし,その典型は英国で第1次(15世紀末―17世紀半ば)と第2次(18世紀半ば―19世紀初め)の2度行われ,農業の資本主義化と農民の賃労働者化とを促進した。(マイペディアより)

【開放耕地制度】中世の西欧諸国で広く行われていた農地制度で,典型的には三圃(さんぽ)制のもとでみられた。この農法では農民の全保有地が開放された状態に保たれ,冬穀・夏穀・休耕の輪作が共同で行われた。この制度によって農民は村中の農地利用に参加でき,自然災害などによる被害も分散され小さくすることができた。中世末期以降のエンクロージャーの進行とともに消滅。(マイペディアより)

【三圃制】中世ヨーロッパで広く行われた農法。有畜で,休閑地を含む輪作の一形式。村の全耕地が三つの耕圃に分割され,一つは休閑地とされ,他の2耕圃にはそれぞれ春播き(大麦,エンバクなど)あるいは秋播き(小麦,ライムギなど)の穀物などが植え付けられ,これらが順次繰り返された。個々の農民には犂耕(りこう)に適するよう細長い形にした小区画が割り当てられたが,境目には仕切が設けられなかったので開放耕地制度と呼ばれている。別に採草地,放牧地,森林などが耕地を囲んで共有地としてあり,農耕・休閑などの過程は領主制や村落共同体により強制的に統制された。近世に入って,休閑地にもマメ科の牧草,根菜などを栽培するようになり,これは改良式三圃農法と呼ばれている。三圃式農法はそれ以前の二圃式農法に比べて土地の利用度が高く,休閑,家畜の糞(ふん)などによる土地肥沃度の保持,効率のよい犂耕の導入などから数百年にわたって相対的に高い農業生産力を保証した。中世末期以降,農業技術の改良や村落共同体の弱体化とともに衰退し,最終的には農業革命によって消滅した。(マイペディアより)

【分割地農民】封建的土地所有の解体により,自分の土地(分割地)・労働・資本で小経営を行う独立自営農民。近代的土地所有への過渡的形態で,英国のヨーマン,15―16世紀フランス・西部ドイツの農民などが典型。資本主義発生の基盤だが,エンクロージャーや原始的蓄積の過程で次第に没落し,これへの不安・抵抗が分割地農民の保守・反動性の根源をなす。(マイペディアより)

【封建的土地所有】封建領主が経済外的強制により農民を土地に縛りつけ,剰余労働を封建地代として搾取する土地所有形態。農民は土地の保有・耕作権をもつだけで,領主の身分的・人格的支配を受ける。生産力の発展や地代の転化(労働→現物→貨幣地代)につれて農民の人格的・経済的独立性が強まり,やがて農民的土地所有や独立自営農民(ヨーマン)が形成され,市民革命によって封建的土地所有は解体する。(マイペディアより)

【経済外的強制】本来,マルクスが封建的搾取関係を特徴づけた概念であり,領主・地主が直接生産者としての農民から封建地代を徴収するために発動する,経済外的な直接の強制力(身分的従属,土地緊縛,領主裁判権など)をさす。現在では,資本の運動法則の直接の結果ではない物理的強制のほか,心理的強制も含めて広く用いる。(マイペディアより)

【封建的生産様式】封建領主が土地を所有し,土地を貸与された農民が封建地代を納める生産様式。農民は基本的生産手段たる土地は借りたが,農具等生産手段をもっていたので,農民を土地に緊縛するため,武力,領主裁判権等の経済外的強制が用いられた。都市に手工業者と商人も発生,商品経済の発展で,この生産様式は崩壊し,資本主義に移行。
(マイペディアより)

【封建制度】古代社会と近代資本主義社会の間に位置する政治・社会体制。英語で feudalism。概念的また地域的にやや異なる内包をもつ。(1)ドイツの学者のいわゆるレーン制 Lehnswesen。(2)直接的な経済外的強制に基づく領主・農民間の支配隷属関係(農奴制)。(3)社会類型の一つとして,レーン制・農奴制を含めてイデオロギーや生活様式などこの時代のすべての現象をさす。とくに〈封建社会〉と呼んで区別することもある。(4)もっとも広義には,身分的特権をもつ階層が存在する社会の制度すべてをさす。⇒荘園
〔西洋〕 一般的には中世ヨーロッパの封建貴族(独立権力をもつ)間に成立した政治体制(レーン制)をさす。主従誓約と封土の授受を媒介とする,貴族個人間の双務的な主従関係に基づく。家臣は主君に軍事奉仕,出仕義務(特に封建法廷での陪席),緊急時の金銭的援助を義務づけられ,主君は家臣に軍事的援助や公的裁判所での弁護を義務づけられる。両者の間柄は封建法によって規制され,主君の誠実義務違反に対しては家臣の反抗権が発動される。制度的には8―9世紀に北フランスに成立,12―13世紀が最盛期。商品経済の発展,広域経済圏の出現とその規制に当たる王権の伸張とともに崩壊した。
〔中国〕 周(前11世紀成立)代に一族・功臣などを各地に封じて諸侯とし,身分と土地とを与えた制度。諸侯は貢納・兵役の義務を有し,その下に卿・大夫・士の家臣がそれぞれ世襲の身分・土地を与えられて属していた。氏族的・血縁的であることが西洋の封建制と異なる点で,それを強化・保持するために宗法制が行われた。
〔日本〕 上記の西洋および中国の概念の適用いかんで理解が異なるが,一般に土地恩給制と従士制を軸とする分権的政治形態を指し,鎌倉時代以降の武家社会に適用される。なお,マルクス主義の史的唯物論に立脚する観点もあって一様でない。
(マイペディアより)

【中世封建制度(フューダリズム)】
 フューダリズム(Feudalism)とは歴史学において中世ヨーロッパ社会特有の支配形態を指した用語であり、「封建制」と訳出される。土地を媒介とした国王・領主・家臣の間の緩やかな主従関係により形成され、近世以降の中央集権制を基盤とした絶対王政の中で消失した。
 マルクス主義歴史学(唯物史観)においては、生産力と生産関係の矛盾を基盤として普遍的な歴史法則を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みた。この場合、おおよそ古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示す。
・ヨーロッパ  騎士と聖職者
 古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。
 更に「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世社会が(今日的な視点で見れば)極めて非中央集権的な社会となる要因となった。
 西欧中世においては、特にその初期においてノルマン人、イスラーム教徒、マジャール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった(ただし、実際には各農村ごとにかなり相違があったと考えられている上、多くの農村では農奴だけでなく自由農民も相当数存在していた)。

・日本
 ヨーロッパでのフューダリズム(封建制)が、外民族の移動・侵入などと強く結び付いて形成されたのに比し、日本の封建制はむしろ武士による統治などの国内的要因が主となって形成された(天皇やその藩屏たる貴族は武士の権威を『根拠付ける』存在である)。西欧のフューダリズムで複数の契約関係や、短期間での契約破棄・変更がみられたのと同様、日本でも実際のところ戦国時代まで主従関係は後述の「御恩と奉公」の言葉で表現されるように一部双務的・流動的なものであり、「二君にまみえず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」という語に示されるような主君への強い忠誠が求められたのは、江戸時代に入ってからである。
 日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。鎌倉幕府の成立によって「御恩と奉公」が既に広義の封建制として成立したとする説で、第2次世界大戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令国家の解体から各地に形成された在地領主の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として鎌倉幕府が形成された(鎌倉幕府の力は、日本全国に及んでいた訳ではない)とみなす。従って承平天慶の乱(承平5年、935年)がその初期の現われとみなされる。
 日本中世史と日本近世史の間で、1953年から1960年代にかけて日本封建制成立論争が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った安良城盛昭は、太閤検地実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=古代)とし、太閤検地を画期として成立する幕藩体制を日本の封建制と規定した。しかし、激しい反論を生み、院政期以降を成立期とする説(戸田芳実など)、南北朝内乱期を成立期とする説(永原慶二など)が提起された。歴史学の関心が拡散する中でこの論争は明確な解答を得ぬまま終息した。
 日本の領主の封建制は「税の徴収権」に過ぎず(参照→職の体系)、つまり西欧に見られるような領地の私有と領民への農奴としての隷属的支配権は存在しなかったので、本当の意味の封建制は存在しなかったとする説もある。 (ウィキペディア)

【荘園】中世ヨーロッパに成立した聖俗所領の農業経営の単位であり同時に領主(独立の権力主体)の農民支配の単位。英国のマナー manor,ドイツのグルントヘルシャフト Grundherrschaft,フランスのセニュリ seigneurie などが典型であるが,その様式や発展・消滅の過程は一様でない。8-9世紀に成立した古典荘園ビリカツィオン Villikationは,領主直営地と農民保有地からなり,前者は土地保有農民や荘園庁内の給養奴隷の賦役によって運営された。ただし穀物栽培の後進地帯やブドウ栽培地帯には,直営地を欠く非古典荘園的所領も多かった。荘園を構成する地所は数ヵ村にわたって散在し,荘園と村落とは空間的に一致しないのが通則であった。農奴を根幹とする荘園農民は各種の賦役・貢租を領主に給付し領主裁判権に服しながら,他方,村仲間団体(のちには村落共同体)の成員として慣習的な仲間団体(共同体)的規制にも服した(地条混在制,耕作強制,共同地用益制限など)。12-13世紀以降,農業生産力の上昇,剰余生産物の商品化につれて,領主直営地は農民に分割貸与されて縮小または解体した。労働地代(賦役)は生産物地代ないし貨幣地代へと推移し,農奴的諸負担も次第に消滅して古典荘園は地代(純粋)荘園に転化した。しかし領主的土地所有形態としての荘園は近代の市民革命まで存続した。(マイペディアより)

【領主制】西欧封建時代に領主が隷属農民の剰余生産物を経済外的強制に基づいて体系的に収取した制度。支配権の性格によって,1.土地領主制(狭義の荘園制),2.裁判領主制(しばしば村落領主制の形をとり,バン領主制とも),3.体僕領主制,の3基本型に大別。収取形態は1は地代,2は裁判貢租,3は人頭税。領民に対する支配形態は,1は土地を媒介にした間接的支配,2は土地とは無関係に裁判権による支配,3は直接的な人身支配。また支配権の及ぶ範囲は1は非一円的な飛地,2は一円的な裁判領域,3は体僕が居住する任意の場所であった。その他にドイツ東部のグーツヘルシャフトなどのように,これらの複合型もあった。(マイペディアより)

【農業革命】 資本主義の成立期に産業革命と並んで行われた農業技術や経営方法の急激な変革で,封建的土地所有から資本主義的土地所有への移行を完了した。典型的には18世紀後半―19世紀中期の英国でみられ,土地囲込み(エンクロージャー)が行われ,新農具・新作物の導入により農業における資本主義制度が確立,多くの独立自営農民(ヨーマン)は没落した。(マイペディアより)

【ヨーマン】英国の独立自営農民。中世末期の封建制の解体期から台頭し,ジェントリーと零細農の中間に位置した中産的生産者層。年収40シリングの自由土地保有者が中心。資本主義の展開にともない地主と労働者に両極分解をとげ,18世紀中葉以降の農業革命により没落した。(マイペディアより)

【治安判事】英国の地方の治安維持を主たる任務とする役人。14世紀中葉に制度的に確立した。専門の法律家ではない地方の名望家であるジェントリー層がこの職に任命されて無給で奉仕にあたったところに特色が見いだされる。治安維持のほかに最高賃金の設定など経済生活に関する統制にもあたり,次第にその職権は増大した。16-17世紀には地方行政の有効な手段として利用された。19世紀になると他の行政機関にその権限を委譲したが,今日なお司法制度の下部機関として機能している。アメリカ合衆国においては,選挙によって選ばれた治安判事が限定された民事・刑事の裁判権を有して,州裁判所の最下級に位置している。 (マイペディアより)

⑦これと類似の法律はフランスにもあって、フランスでは17世紀の中ごろ、パリに浮浪人王国(royaume des truands)が設けられていた。ルイ16世の初期にも(1777年7月13日の王令)、16歳から60歳までの強健な男で生計の資もなく職業にもついていない者は、すべてガレー船に送られることになっていた。同様のものとしては、1537年10月のネーデルラントに対するカール5世の法、1614年3月19日のオランダ諸州および諸都市に関する最初の布告、1649年6月25日の連合州の告示などがある。

【ガレー船】ガレー船(ガレーせん、galley)は、主として人力で進む大型の軍艦。古代に出現し、地形が複雑で風向きの安定しない地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用された。(ウィキペディア)

【トーリー党】(Tory Party)は、かつてのイギリスの政党。現在の「保守党」の前身にあたる。チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」と言ったのが始まりである。(ウィキペディア)

【ホイッグ党】ホイッグ党(またはウィッグ党、Whig Party)は、イギリスの政党。後の自由党および自由民主党の前身にあたる。ホイッグ党の起こりはチャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。因みにWhigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。
(ウィキペディア)

【団結禁止法 】資本主義の初期に労働者(もしくは使用者も含む)の団結行動を禁じ,近代市民社会の自由市場イデオロギーの原理を実現するという名目で,実質的には労働運動を抑圧するため各国で制定された法律の一般的呼称。特に1799年英国で制定の団結禁止法や1791年のフランスのル・シャプリ工法が有名。資本主義経済における労働市場の特性の認識が深まるにつれて,19世紀半ばから20世紀初頭にかけて各国とも廃止された。日本では1900年制定の治安警察法第17条が実質的にこれに当たった。 (マイペディアより)

【マニュファクチュア】工場制手工業と訳す。道具を技術的基礎とし,賃金労働者の分業に基づく協業に立脚した資本制生産の初期形態。単純な協業と大工業の中間形態で,労働と道具の専門化により生産性を高めた。分散生産される部品を1ヵ所に集め組み立てる異種的(分散)マニュファクチュアと,一作業場で工程を分割して仕上げる有機的(集中)マニュファクチュアの2形態がある。マニュファクチュアが資本制生産の支配的形態であった〈本来のマニュファクチュア時代〉(英国では1550年―1760年ころ)にも問屋制家内工業は併存。日本における幕末・維新期が本来のマニュファクチュア時代であったか否かをめぐって〈マニュファクチュア論争〉がある。(マイペディアより)

【恐慌】クライシス crisis またはパニック panic の訳語。資本主義経済では利潤を目的としてますます大量の商品が生産されるが,その経費にあたる賃金はできるだけ低くおさえられるため,生産の増大に対して消費が伴わず,商品の過剰生産が起こり,価格暴落,破産,失業などの景気循環の最悪の危機的局面が生ずる。それが恐慌で,8~12年の周期をもつ。恐慌を切り抜けるため機械設備などの更新が広く行われるが,これら設備の耐久期間が恐慌の周期の基礎をなす。本格的恐慌は1825年英国に始まったが,1929年米国に始まった大恐慌が有名。日本では1890年の最初の恐慌以後,1897年,1900年,1907年,1920年,1927年,1929年に発生。(マイペディアより)

【フランス革命】1789年―1799年にフランスで起きた革命。ブルボン絶対王制を倒して,アンシャン・レジームの封建的社会関係を廃棄。世界史上市民革命の代表的な例とされ,現代フランスの出発点をなすとともに西欧近代史への画期となった。18世紀末ルイ16世の下において,社会的矛盾は一段と激化したが,これに適応しようとして王権の企てたなしくずし的近代化も特権階層の反対により挫折し,危機は一層深刻となった。1789年5月,国王は175年ぶりに全国三部会を召集したが,第三身分はこれを国民議会とするよう要求し,憲法制定会議に切りかえた。前年来の凶作飢饉(ききん)により不穏な状態にあった民衆は7月14日バスティーユを襲撃し革命が始まった。同年8月封建制廃止が宣言され人権宣言が採択されて立憲君主制の形態をとることになったが,1791年国王の逃亡事件をきっかけに立法議会が成立。1792年王権は停止され,同年9月国民公会が成立し,22日共和制が宣言された。1793年1月ルイ16世は処刑され,6月ロベスピエールの率いる山岳派はジャコバン・クラブ,サン・キュロットを背景にジロンド派を追放して独裁的権力を樹立して恐怖政治をしき,封建地代の無償廃棄など徹底的な変革を行った。この間に国民軍はプロイセン・オーストリアの武力干渉を撃破したが,1794年7月テルミドール9日によりロベスピエールは失脚。以後1795年の総裁政府を経て1799年11月ブリュメール18日のクーデタによりナポレオンが執政政府をつくるに至って,フランス革命は終結をみた。
(マイペディアより)

by shihonron | 2010-12-07 23:25 | 学習会資料


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