2011年 03月 01日
3月1日(火)に第216回の学習会を行いました。 「第3節 第三段階、W’―G’」「第4節 総循環」についてレジュメに基づく報告を受け、第3節の第18段落から最後までと第4節の最初から第3段落までを検討しました。 以下は第3節、第4節の検討した範囲のレジュメです。 第三節、第三段階、W’―G’ (18)価値の諸部分は、それらが異なる諸物品すなわち具体的な諸物の価値として現われる場合、したがって異なる使用諸形態にある価値として、それ故異なる諸商品体の価値として現われる場合を除けば、価値の諸部分として質的に互いに区別されはしない――このような区別、それは単なる価値の諸部分としての価値の諸部分そのものからは生じない。貨幣においては、諸商品の相違はすべて消滅している。なぜなら、貨幣こそは諸商品のすべてに共通な等価形態であるからである。五〇〇ポンド・スターリングという貨幣総額は、1ポンド・スターリングというまったく同名の諸要素からなっている。この貨幣総額の単純な定在においては、この貨幣総額の由来の媒介が消えてしまって、異なる資本構成部分が生産過程でもっている独自な差異の痕跡がすべて消え失せているのであるから、もはや区別は、四二二ポンド・スターリングの前貸資本に等しい元金(英語ではprincipal)と、七八ポンド・スターリングの超過価値額という、概念的形態▲で存在するにすぎない。G’は、たとえば、一一〇ポンド・スターリング、そのうち一〇〇ポンド・スターリングは元金Gで、一〇ポンド・スターリングは剰余価値Mであるとしよう。一一〇ポンド・スターリングという総額の二つの構成部分のあいだには、絶対的な同質性、すなわち概念的無区別性が支配している。任意の一〇ポンド・スターリングは、それが前貸資本一〇〇ポンド・スターリングの 1/10 であろうと、元金を超える一〇ポンド・スターリングという超過額であろうと、常に一一〇ポンド・スターリングという総額の 1/11 である。それ故、元金と増加額、資本と剰余額は、総額の分数として表わされうる。われわれの例では、 10/11 は元金、言い換えれば資本をなし、 1/11 は剰余額をなす。それ故、実現された資本は、ここで、その過程の終わりに、それの貨幣表現で現われるが、これはまさに資本関係の没概念的表現である。 ▲訳者注 ここから以下の論述で、マルクスは、貨幣表現G’(G+g)においては資本関係が没概念的(本質的徴表をとらえている「概念的」にたいし、それをとらえない、表象的、表面的の意)に表現されているとし、概念的無区別性、没概念的区別などについて述べているのであるから、これは「概念的」ではなく「没概念的」の誤記ないし誤読と思われる。 ★《資本関係の没概念的表現》とは? 剰余価値(増殖した価値)の源泉が剰余労働にあること、労働力の搾取によって資本家は剰余価値を手にすることができるという本質的なことを表していないということだろうか。 (19)もちろん、このことはW’(=W+w)についても言える。しかし、W’においてはWとwとはやはり同質の同じ商品総量の比率的価値諸部分にすぎないとはいえ、このW’は、自己がその直接の生産物である自己の起源のPをほのめかすが、これに反して、直接に流通から生じてくる形態であるG’においては、Pとの直接の関連は消えうせている。 (20)G’がG・・G’という運動の結果を表わす限りにおいてG’のうちに含まれている元金と増加額との没概念的区別は、G’が能動的に貨幣資本として再び機能するやいなや、直ちに消え失せる。貨幣資本の循環は、決してG’では始まり得ず(G’がいまやGとして機能するけれども)、Gで始まるうるだけである。すなわち、決して資本関係の表現としてではなく、資本価値の前貸形態として始まりうるだけである。五〇〇ポンド・スターリングが、あらためて価値増殖するためにあらためて資本として前貸しされれば、もう五〇〇ポンド・スターリングは復帰点ではなく出発点である。四二二ポンド・スターリングの資本に代わって、いまでは五〇〇ポンド・スターリングの資本が、以前よりも多くの貨幣が、より多くの資本価値が、前貸しされるのであるが、しかし二つの構成部分のあいだの関係はなくなり、ちょうど、最初から四二二ポンド・スターリングという金額でなく五〇〇ポンド・スターリングという金額が資本として機能し得たのと同じことである。 ★前貸しされる貨幣は、G’ではなくGでしかあり得ず、一定額の貨幣という以上の意味を持たない。そこには、W’におけるWとwの区別によって表されている関係(資本関係)を見て取ることはできない。 (21)自己をG’として表わすことは、前貸資本の能動的機能ではない。G’としての自己自身の表示は、むしろW’の機能である。すでに単純な商品流通である(一)W1―G、(二)G―W2において、Gは第二の行為G―W2においてはじめて能動的に機能する。Gとしての自己表示は、第一の行為――この行為によってGははじめてW1の転化形態として登場する――の結果であるにすぎない。G’に含まれている資本関係、すなわち、資本価値としてのG’の一部分がその価値増分としての他の部分に対する関連は、循環G・・G’の絶え間ない反復に際して、G’が資本流通と剰余価値流通との二つの部分に分裂する限りでは、したがって両部分が単に量的にのみでなく質的にも異なる機能をはたし、Gがgとは別な機能を果たす限りでは、確かに機能的意義を獲得する。しかしそれ自体として考察すれば、G・・G’という形態は、資本家の消費を含むのではなく、明白に自己増殖と蓄積――なによりもまず後者が絶えず新たに前貸しされる貨幣資本の周期的増大に自己を表現する限りにおいて――とを含むにすぎない。 ★貨幣として資本家の手に入った剰余価値が資本家の消費に用いられれば、再び資本として前貸しされる貨幣と異なる機能を果たし、gとGの機能の区別を語ることができる。しかしG・・G’という形態は 資本家の消費を含んでいない。G’で表現されたある貨幣額が資本として前貸しされることを含んでいるだけである。 (22)G’=G+gは、資本の没概念的形態であるとはいえ、同時に、まず、実現された形態にある貨幣資本であり、貨幣を生み出した資本としての貨幣資本である。ここでは、しかし、第一段階G―W<A Pmにおける貨幣資本の機能とは区別されなければならない。Gはこの第一段階では貨幣として流通する。このGが貨幣資本として機能するのは、それがその貨幣状態においてのみ貨幣機能を果たすことができ、諸商品としてそれに相対するPの諸要素に、AおよびPmに転換できるからである。この流通行為では、それは貨幣としてのみ機能する。しかし、この行為は、過程進行中の資本価値の第一段階であるから、同時に、購買される商品AおよびPmの独自な使用形態のおかげで、貨幣資本の機能なのである。これに反して、資本価値とGとそれによって生み出された剰余価値gとから構成されるG’は、増殖された資本価値を、資本の総循環過程の目的および結果を、この過程の機能を、表わす。G’がこの結果を貨幣形態で、実現された貨幣資本として、表わすということは、G’が資本の貨幣形態であり貨幣資本であるということから生じるのではなく、逆に、それが貨幣資本、貨幣形態にある資本であること、資本がこの形態で過程を開始したこと、貨幣形態で前貸しされていること、から生じる。上述したように、貨幣形態への再転化は、商品資本W’の機能であって、貨幣資本の機能ではない。しかし、G’とGとの考察について言えば、この差額(g)は、Wの増分wの貨幣形態に他ならない。G’=G+gであるのは、W’=W+wであったからに他ならない。すなわち、この差額、ならびに資本価値とそれによって生み出された剰余価値との関係は、この両者がG’に――すなわち、そこでは両価値部分が自立して互いに相対し合い、それ故また自立的な相互に異なる諸機能に使用されうる貨幣額に――転化される以前に、W’において現存しかつ表現されている。 (23)G’はW’の実現の結果に他ならない。両者、W’もG’も、増殖された資本価値の異なる諸形態――商品形態と貨幣形態に他ならないのであり、増殖された資本価値であることは、両者に共通である。両者とも実現された資本である。なぜなら、ここでは資本価値そのものが、それとは異なる、それによって得られた果実としての剰余価値と一緒に存在するからである――とはいえ、この関係は、ある貨幣額またはある商品価値の二部分の関係という没概念的形態で表わされているにすぎないが。しかし、資本によって生み出された剰余価値との関連および区別における資本の表現としては、すなわち増殖された価値の表現としては、G’とW’とは同じものであり、また同じものを――ただ異なる形態で――表わす。それら〔G’とW’〕は、貨幣資本および商品資本として区別されるのではなく、貨幣および商品として区別される。それらが増殖された価値、すなわち、資本として確認された資本を表わす限りでは、それらは、生産資本の機能の結果を、資本価値が価値を生むという唯一の機能の結果を、表わすにすぎない。それらに共通なものは、それら両者が、貨幣資本および商品資本という二つの、資本の存在様式であるということである。▲一方は貨幣形態にある資本であり、他方は商品形態にある資本である。それ故、それらを区別する独自的機能は、貨幣機能と商品機能との区別以外のなにものでもあり得ない。商品資本は、資本主義的生産過程の直接的生産物として、このようなそれの起源を思い出させるのであり、それ故、その形態において貨幣資本よりもより合理的で没概念的ではなく、貨幣資本においては――およそ貨幣においては商品のいっさいの特殊的使用形態が消え失せているのと同じように――資本主義的生産過程のあらゆる痕跡は消滅してしまっている。それ故、G’そのものが商品資本として機能する場合にのみ、すなわちG’が生産過程の直接的生産物であってこの生産物の転化形態ではない場合にのみ、G’の特殊な形態は消え失せる――すなわち、貨幣材料そのものの生産の場合がそれである。たとえば金生産については、定式はG―W<A Pm・・P・・G’(G+g)であろう。ここではG’が商品生産物の役をつとめる。なぜなら、Pは、金の生産諸要素のために最初のGすなわち貨幣資本に前貸しされたよりも多くの金を供給するからである。したがって、この場合には、G・・G’(G+g)という表現――ここではある貨幣額の一部分が同じ貨幣額の他の部分の生みの母として現われる――の不合理さが消え失せる。 ▲訳者注 どの版もすべて、「それら」と「貨幣資本および商品資本」と同格に解しているが、文脈から見て誤りであると思われる。かお、フランス語版、イタリア語、スペイン語、朝鮮語各版の訳注または追補によれば、マルクスの草稿では、このあとに、次の文章がある。「一方と他方との違いは、資本の異なる実存形式にある」 第四節 総循環 (1)流通過程はその第一局面G―W<A Pmの終了後P〔ここでは「生産過程」の意〕によって中断され、このPでは市場で購買された商品AおよびPmが今度は生産資本の素材的および価値的構成部分として消費される。この消費の産物は、素材的および価値的に変化した新しい一商品W’である。中断された流通過程G―Wは、W―Gによって補足されなければならない。しかし、この第二の終結の流通部面の担い手としては、W’、すなわち、第一のWとは素材的および価値的に異なる商品が、現われる。したがって、流通系列は、(一)G―W1、(二)W2’―G’として現われ、ここでは、第二局面において、Pの機能によって引き起こされた中断中に、すなわち生産資本Pの定在諸形態であるWの諸要素からのW’の生産中に、第一の商品W1はより高い価値と異なる使用形態とをもつ他の商品W2’に置き換えられている。これに反して、資本がわれわれの前に立ち現われた最初の現象形態(第一部、第四章、第一節〔本訳書、第一巻、二四九―二六五ページ〕)G―W―G’(これは(一)G―W1と(二)W1―G’とに分解される)は、同じ商品を二度示している。第一局面で貨幣が自己をそれに転化する商品も、第二局面で自己をより多くの貨幣に再転化する商品も、二回とも同じ商品である。この本質的相違にもかかわらず、両方の流通〔(一)G―W1と(二)W2’―G’の流通、および(一)G―W1と(二)W1―G’の流通〕に共通な点は、その第一局面では貨幣が商品に転化され、第二局面では商品が貨幣に転化されること、すなわち、第一局面で支出された貨幣が第二局面で再び還流することである。両方の流通に共通な点は、一方では、このように貨幣がその出発点に還流すること、しかしまた他方では、還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過することである。その限りでは、G―W・・W’―G’も、一般的定式G―W―G’のうちに含まれて現われる。 ★なぜ《中断された流通過程G―Wは、W―Gによって補足されなければならない》のだろうか。ここでは、貨幣資本の循環が取り上げられているからか? (2)さらにここで明らかになることは、流通に属する両方の変態G―WおよびW’―G’においては、その都度同じ大きさの、同時的に現存する価値存在が相対していて、互いに置き換えられることである。価値変化は、もっぱら変態Pに、生産過程に、属するのであり、それ故、生産過程は、流通の単に形態上の諸変態に対して、資本の実質的な変態として現われる。 ★第3節第9段落では《現実的変態》という言葉が用いられていた。 (3)次に、総運動G―W・・P・・W’―G’またはそれの明細な形態G―W<A Pm・・P・・W’(W+w)―G’(G+g)を考察しよう。ここでは資本は、連関し合い互いに制約し合う諸転化の一系列、すなわち、一連の諸変態――これらの変態は、一つの総過程のいくつかの一連の諸局面または諸段階を形成する――を経過する一つの価値として、現われる。これら諸局面のうち、二つは流通部面に属し、一つは生産部面に属する。これらの局面のそれぞれにおいて資本価値は異なる姿態にあり、この姿態に一つの異なる独特な機能が照応する。この運動の内部において、前貸価値は、自らを維持するだけでなく、増大し、その大きさを増す。最後に終結段階では、前貸価値は、総過程のはじめに現われたのと同じ形態に復帰する。それ故、この総過程は循環過程である。 ■《これらの局面のそれぞれにおいて資本価値は異なる姿態にあり、この姿態に一つの異なる独特な機能が照応する。》は、岡崎訳では《これらの諸段階のそれぞれで資本価値は違った姿をしており、それぞれの姿に別々の特殊な機能が対応している。》(国民文庫第四分冊95頁・原頁56)となっている。
by shihonron
| 2011-03-01 23:30
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